塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』⑧ 神の子 発願

2013-06-29 11:08:56 | ケサル

[物語 神の子発願 ]

 久しく戻って来なかった観音菩薩が、ついにあの水晶の塔の後ろを廻って現れた。天庭の門まで来ると言った。
 「おや、あの者はどこへ行ったのだろう」
 だが、菩薩には理解に至らぬことなどない。いぶかしげな表情が眉のあたりまで昇って来た時には、口元にはすでに釈然とした笑みが現れていた。
 「あの者はなんと気の短いことか。待ちきれずに行ってしまうとは。惜しいことに、あの者は大神に会う機会を逃してしまった。まあよい。まだ機縁が来ていなのだろう」
 そこで菩薩は大神に会うため戻って行った。

 大神は微かに微笑んで言った。
 「もともと私は、まず彼を人間の指導者にしようかと考えていた。民を率いて妖魔を取り除き、四方を平定出来たら、もしかして、彼らは自ら人間たちの天国を作れるのではないかと考えたのだ。今思うと、私の考えはあまりに単純過ぎたようだ」

 菩薩は機を見て意見を述べた。その大意は、
 「失望するのは大神ではなく、リンガと呼ばれる妖魔が横行する地なのです。何故なら、様々な罪業のため人間の天国を作る機会を逃してしまったのですから。下界は広大です。大神が思い切って同じような実験をする場所は他にもあるのではないでしょうか」
 「お前ほどに修行を積んだ者が、そのような曖昧なことを言うのか」
大神はひどく残念だというように深いため息をついた。

 「ウォン」

 このすべての賞賛と呪詛の始まりである音が大神の口から発せられた時、菩薩は心の中で深いおののきを感じた。

 これは召喚の声でもあった。瞬く間に、天庭の中の神々がすべて大神の周りに集まった。
 大神の存在を示す強い息が揺らめくと、神々の足元の五彩の瑞雲が二つに分かれた。その下は依然として厚い雲が蠢き、その色は悲しみの灰色と憎しみの黒だった。
 大神の息がまた揺らめくと、下界の情景が現れた。大小さまざまな陸地が海の上に一つ一つ漂っている。海によって分けられた陸地、彼らが常に口にするいわゆる東西南北、上下左右のそれぞれの瞻部洲の姿が神々の前に現れた。

 一つの大陸では、万を越す人々が方陣を作り互いに殺しあっていた。
 また別の大陸では、多くの人々が皮の鞭で急かされながら運河を掘っていた。
 また一つの大陸では多くの優れた技を持つ者が集まって生きている皇帝のために巨大な墓を築いていた。大規模な作業場の周りでは、病と飢えで死んでいった職人の墓がすでに一面の畑を覆いつくしていた。
 また別の陸地の深い林の中では、隊を組んだ群衆が別の隊を追跡していた。その中の落伍者は焼いて食べられ、残った肉は干され、さらに続く追跡の旅の食糧となった。
 いくつかの大陸では、そこから逃れようとしている人々がいた。彼らの船は暴風で吹き飛ばされ、転覆していた。海中では船よりも大きな魚が身を躍らせて、水の中でもがく生きた人間を一口で飲み込んでいた。

 大神は言った。
 「みなの者、見ただろう。あれらの場所には次々と国が興っている。見るがいい。国と国はどうしてお互いに戦うのか、国が自分たちの民をどのように扱っているのかを」
 「誉れ高き神よ、リンも国を興すのですか」
 「もしかして、彼らは自らそう願うかもしれない。だが国を興そうと試みるだけで、それはまだ、本当の国ではない」
 「それで大神は考えられた…」
 「彼らに試させようと考えている。他とは違う国を興すことが出来るかどうか見てみよう」

 大神は暫く思案し、言った。
 「見た所、人の歴史はただ一つしかない。違う方向を見つけ出す方法がないのだ。魔物がいる時は、私たちの保護と助けを必要とした。魔物を退治すると、一つまた一つと国を建て始める。そして彼らはまたお互いに殺し合うことになるのだ」

 それから、大神はリンガの情景をみなの前に現した。悲しみ混乱した様子に神々は覚えず何度もため息をついた。大神が再び話し始めた時、眉間には皆を咎めるような表情があった。
 「私の手引きがなければみながこの状況を発見できなかったとは、信じられないことだ」
 神々は婉曲な非難を受け、何時になく悲しげな表情を浮かべた。

 ただ一人の名もない者、一人の若者だけが、初めの同情の表情から、この時、抑えられない悲憤を顕にした。大神は若者を近くに呼び、言った。

 「お前たちは、この神の子が下界で苦しみを受けている衆生のために心から憤っているのに遥かに及ばないではないか」

 神の子の両親は玉の階段の前に駆けより、息子を自分の体の後ろに隠し、言った。
 「息子は定力がいまだ具わらず、感情を抑えられないのです。ここにいらっしゃる神々をお責めにならないでください」

 大神は下を向いて言った。
 「下がりなさい」
 すぐにまた表情を変えて言った。
 「若者よ、私のそばへ来なさい」

 神の子は両親の手から逃れて、大神の前に進み出た。
 「ツイバガワは大神のお言いつけに従います」
 「お前はあの下界の苦難を見ただろう」
 「私はただ耐え難いだけです」
 「まことに耐え難いことだ。お前を下界に遣わし妖魔を滅ぼし衆生の苦難を救わせようと思うが、お前はそれを望むか」

 ツイバガワは答えを口にしなかった。だが、そのきっぱりとした表情がすべてを語っていた。

 「よし。ただし、よく考えなさい。その時お前はもう神ではなく、下界の一人の人間だ。生まれてから成長するまで、人と同じ悲しみと苦しみを経験するのだ。怖くないか」
 「怖くありません」
 「神の力を失って、人と同じように悪の道に落ちるかもしれない。そうなったら、再び天には戻って来られないのだぞ」
 神の子の母と姉の目からは、すでに涙があふれていた。
 「天界で暮していたという記憶も失うのだぞ」

 神の子は母の涙をぬぐい、兄のように姉を懐に抱き、彼女の耳元ではっきりと言った。
 「怖くありません」

 父親は神の子を懐に抱き言った。
 「愛する息子よ、お前は神々の前で、私に、これまでにない誇らしさを味あわせてくれた。そしてまた、毒と等しい悲しみを塗った刀を、私の心に突き刺したのだ」
 「父よ、リンガの苦しみの海にいる人々のために祈ってください」
 「そうだ、将来のお前の民に祝福を。すべての法力を使って加護し、お前の仕事を完成させよう。お前に危険が及んだ時には、助けを呼ぶお前の声をリンガから天に届けさせよう」

 天庭の大総督が言った。ツイバガワが人間界に降りた時、神々は大神に発願し、彼の父親に同じように勇敢な息子を授けるだろう、と。

 父親は夫人を伴って誓いを立てた。
 「その必要はありません。息子を覚えておくために、息子が天界に戻る力を失わないために、私たちはこれ以降、精力と神の血を使って新たに子を作ることはないと誓います」




阿来『ケサル王』⑦ 羊飼いの夢 2

2013-06-25 00:02:26 | ケサル

[語り部:羊飼いの夢] その2



 羊飼いのおじは断片しか語れない語り部だった。
 経の版木の彫り師で、百里離れた農村に住み、畑仕事の合間に寺の経本印刷所のために梨の木で経版を彫っていた。彼は庭の中央に胡坐をかき、スモモの木蔭で一刀、一刀掘り進み、木屑が指の間から漏れ、顔にはより深い皺が現れた。
 時には酒を飲んでリン国の大王ケサルの物語の断片を語った。始まりもなく終わりもない、ただの描写だった。物語の主人公がどのような宝馬に乗り、どのような武器を手にし、英雄を更に雄雄しく見せるどのような鎧兜を着ているか、どのような法術を使えるか。もし、少しの慈悲心もなければ、簡単にたくさんの人を殺した。

 「それから?」羊飼いは何回もおじに聞いた。
 「師匠はそれしか教えてくれなかった。他はわしには分からん」
 「じゃあ、師匠は誰に教わったんだろう」
 「師匠は夢で見たんだ。病気になって熱が出て、うわごとを言った。この物語を夢で見たんだそうだ」
 「もう少しちゃんとした夢を見られないんだろうか」
 「ジンメイ、しつこいぞ。はるばる遠くからやって来て、ロバの足まで痛めて、こんなばかげたことを聞きに来たのか」
 ジンメイは笑って答えなかった。

 畑の中のスモモの木のある庭で、ジンメイはおじが梨の木を膝に乗せ、ぶつぶつと言葉を念じながら、鋭い刃物で輪郭のはっきりした字を刻むのを見ていた。
 彼は家に入っていとこたちと一緒にいるのが嫌だった。高校生の女の子ははっきりと、彼の体中から漂う牧場の匂いを嫌だと言った。彼も不思議なのは、牧場にいる時はそんな匂いはしないのだが、視野の広がりのない村の中にいると、自分の体からその匂いが漂って来る。これは羊や牛たち生き物の匂いだと認めざるを得なかった。
 おじは言った。「ジンメイよ、匂いのことなど気にするな。暫くいたら慣れるさ」
 
 「帰るよ」

 おじは言った「がっかりしたのかね。おれの語りはまとまりがないからな。だが、それは師匠のせいだ。師匠が言うには、夢で見る時は完全なんだそうだ。目が覚めてしまうと、それほどたくさんは思い出せなくなってしまう。語れるのは、夢の半分の半分だそうだ」

 ジンメイはおじに言いたかった。自分もそんな夢を見ている、と。目覚めると何も覚えていない。何回も夢見ては、目が覚めるとそれですべて忘れてしまう。ただ、雪崩の音で目が覚めたあの一回だけは、完全な物語として始まりの部分を思い出したのだ。主人公はまだ登場していないが、それでも分かった。これが偉大な物語の始まりであり、だから、あんなに大きな雪崩で呼び覚まされたのだということを。

 夢の中で、菩薩は天庭に報告に行ったまま長い間何の音沙汰もなく、ジンメイは不安でたまらなかった。この夢を思い出して、先へ続けていこうとした時、もうその夢を見なくなった。だから百里という道のりを厭わず、ロバに土産物を積んでおじに会いに来たのである。

 おじは言った「お前、悩みごとでもあるのか」
 彼は何も答えなかった。あの秘密は守らなくてはならないと感じていたから。夢の中で見た英雄物語はみな神から授かったものだから。

 おじはスモモの木蔭に座り、少し体をずらし「ここに座れ」と言った。
 ジンメイが座ると、おじは経版を彼の膝の上に置いた。
 「刀を握って。こうやって握るんだ。真っ直ぐすぎる。斜めにして、刃を当てて、力を入れて、よしよし。そうやって、もっと、もっと。ほら、こうやって一つの字が現れるんだ」

 ジンメイはその字を知っていた。字を読めない多くの人もこれが字母表の一番初めの文字だと知っている。

 ある人は言う。文字とは人類の意識の根源である。詩の偉大な母である。世界をそよがせた最初の風のようである。氷河の舌先が溶けた泉の最初の一滴のようである。すべての予言の寓意であり、当然、すべての寓意の予言である、と。
 だが、おじが言ったのはそんなことではなかった。彫るのはただの技術であり、そのような奥深いことを言う必要はない。おじはただこう言った

 「ジンメイよ。この世にはあまりにもたくさんの人がいる。神様だってかまっていられない時がある。するとお前は気持ちが落ち着かなくなるんだろう。そんな時はこの文字を思い出すんだ」
 「だけど、まだ彫れない」
 「心を梨の木だと思えばいい。自分が刀を持っていると想像して、そこに一画ずつ文字を刻むんだ。この文字を想い、口にするだけで、後は、頭の中でそれだけがきらきら光るようになる。そうしたらお前の心は落ち着くはずだ」

 帰りの道で、ジンメイはロバに言った「今この文字を思い浮かべているぞ」
 この文字を口にした時の音は「ウォン!」。この音が起こると、碾き臼や風車や織物のはずみ車やマニ車や、たくさんの回転するものが一斉に回り始める。すべてのものが回り始めると、すべての世界が回り始める。

 ………

 その夜、彼はほら穴で野宿した。ロバは入り口で草を食んでいた。
 近くの地面では、月の光が水のように流れていた。遠くでは、月の光はまた姿を変え、霧のように立ち込めていた。このような夜、周りよりほんの少し高い山の上は、夢を見るのにふさわしい場所に思われた。
 寝る前にあの文字を心に念じた。だが、朝目覚めた時、夢を見ていないのに気付いた。

 ……… 

 次の夜、村のはずれの小さな丘で夜を過ごす場所を探した。
 その丘は禿山で、鉄塔の下で夜を明かすしかなかった。鉄塔の基礎の部分は風をよけるには良い場所だった。
 少し寒く、何か温かいものを腹に収めたくて、小さな火を起こし、茶を沸かし、肉を炙った。村で酒を用意して来なかったのを後悔した。このような場所で夢を見るつもりはなかった。

 見た所、ここは夢を見られるような場所ではない。小さな丘は荒涼として、見下ろす小さな村には眩しく落ち着きのない光が瞬いていた。それより面白いことに、遮るもののない横風が吹いて来て、鉄塔がめまいで頭がくらくらする時に感じるウォンウォンという音を発していたのだ。
 羊の敷物の下に身を丸め、星空に向かって聳える鉄塔を見上げて、彼はなかなか寝付けなかった。

 この塔のおかげで小さな村の人々はラジオを聴きテレビを見ることが出来る。郵便局へ行って電話を掛けることが出来る。電話を掛ける時、大きな部屋の中にたくさんの小さな部屋があり、人はその小さな箱のような所に入る。受話器をもって話す時、手を振り足を踏み鳴らし、表情は豊かなのだが、話す相手は目の前にいない。
 文字、言葉、単語、これらのものがいっしょくたになり、低い鼻歌のような音に変わる。ただし、この鼻歌のような音がめまいを起こさせるのだ。

 この音の中で、すべての言葉の始まりであるあの文字を思い浮かべたくなった。文字は、だが、すべての話し言葉を集めて響くウォンウォンという音の中ではなかなか現れなかった。
 彼は敷物を引き上げ、頭からかぶって、星の光と音を外に追いやった。

 思いがけず、彼はここで、続きを見ることのできなかったあの夢を見た。
 始め、鉄塔の突端から水晶のように静かで透き通った光が放たれるのを見た。その光はどんどん強くなり、どんどん潤い、美しく澄み渡って行った。

 もともとこの塔はこの世の塔ではなくあの世の塔であり、天庭の水晶の塔だった…

 やはり、名づけようのない焦りがあった。
 ただ、今回の焦りは、突然何者かによって目覚めさせられるのを恐れてのものだった。











阿来『ケサル王』⑥ 羊飼いの夢 1

2013-06-20 12:24:17 | ケサル

[語り部:羊飼いの夢] その1

 そう、焦りだ。

 雲は漂い流れてく。いらいらする。
 羊飼いはすでに何度もこの夢を見た。毎回ここまで来て、最も誉れ高い菩薩が天庭の門の中に入ってしまうと、物語はもう先に進まない。夢の中でも、自分が焦りを抱いているのは分かっていた。
 夢の中だからこそ分かっていた。今いらいらしているのは、天庭の門の前で行ったり来たりしながら知らせを待っているあの人物ではなく、自分自身が夢の中の物語に新しい進展があるのを待っているのだということを。

 夢の中で、彼は天庭の奥を覗き込み、きらきらと透き通った玉で出来た階段が斜めに上に向って連なっているのが見えた。近くは頑丈で、高い所へいくほど軽く柔らかそうに見える。
 その先、階段は雲の中に消えるのではなく、まるで自身の重さに耐えかねたかのように、高い所で突然落下する。それは視線の落下する場所でもある。

 夏の牧場が尽きる所、彼は海抜五千メートル以上の雪と氷の兜をかぶった神山に登ったことがある。
 頂上では視線はこのように突然断たれ、山の地勢は突然前へ傾き、その断崖の下に雲と霧が沸き立っていた。雲と霧の向こうはもう一つの世界である。この世ではなく、あの世。だがあの世がどのようなものなのか、この世では見る方法はないだろう。

 夢の中で、彼は何かの暗示を受けたかのようだった。時が来たら、あの世界は彼の目の前で轟然と開くだろう、と。
 「轟然と開く」。彼の頭の中に本当にこの言葉が現れた。現実の世界では、彼は文字の読めない愚かな羊飼いである。だが最近、夢の中では知性を備えているようなのだ。いや、いらだちながら夢の中の物語が進行していくのを待っているその時に、突然頭の中に、本の中にのみにある高尚な言葉が現れて来るのだ。頭の中にこの言葉が現れると、世界は本当に轟轟と言う音を発した。


 それは夏の日に、氷河が溶け出し、切り立った山の石ころだらけの瀬を流れて来る洪水の音である。この音で彼は夢から目覚めた。目を開けると、地を這う柏に覆われた風の当たらない丘の後ろで眠っていた。
 羊の群れは周囲の草地に散らばって、舌を伸ばして柔らかい青草をむさぼっている。羊たちの鼻は絶えずひくひく動き、そよ風の中のさまざまな香りを捕らえては、鼻の奥の薄紅色をのぞかせている。
 彼が起きたのを知り、羊たちは生まれながらの悲しげな顔を上げて、彼に向って叫んだ。

 めえー

 この時、夢の中で持っていた知性はまだ薄れていなかった。そこで、彼の心の中に一縷の悲しみが湧きあがった。夢の中で魔物に駆り立てられる人々の群れが思い起こされたからである。

 彼は空を見あげた。そこには何かの啓示が隠されているかのようだった。
 この時、さっき夢の中で響いた音が、再び轟々と響いて来た。まるで、万を超える大軍が遠くから押し寄せて来るように。
 顔を上げると、自分がこの世界の果てにいた。神山の頂近くの緩やかな斜面では、厚く積もった雪が大きく口を開け、鈍色の岩山から分かれて行った。厚い積雪は低い音を轟かせ、ゆっくりと下へ滑って行き、断崖まで来ると更に大きな音を轟かせた。重いものは下へ落ち、軽いものは上へ飛ばされた。
 最後に強い気流が直接彼の前へ襲い掛かって来た。

 清涼で真新しい空気が、眠気でぼんやりしている彼を完全に目覚めさせた。これこそ彼が待っていたなだれであり、夏が本格的にやって来たのを告げていた。周りの草地では紫色のリンドウが開き、アザミの群れは綿毛を伸ばした茎の先端に大きなつぼみを結ばせていた。

 彼はそんな花たちをほとんど気にかけなかった。
 一人の羊飼いとして彼が思ったことは、雪崩の危険が消えた後、明日、羊の群れを山のふもとにより近い場所に連れていくことだった。そこでは牧草はすでによく茂っている。
 雪崩の音は、少しの間羊たちを怖がらせた。
あの
 彼は何かを思い出し、空を流れる雲を見上げ、突然理解した。あの夢を思い出したのだ。

 いつもは目が覚めると、見た夢はすっかり忘れてしまい、ただ焦りの感覚が心のどこかに残っているだけだった。
 空の片隅に懸かる黒い雲の塊のように。

 この日彼は突然自分が見たあの夢を目にした。この土地で遥か昔に発生し演じられてきた物語を。
 演じられるだけでない――草原で、村で、千年以上にわたって、語り部が絶えることなくこの物語を語ってきた。
 彼も、ある一人の英雄の物語『ケサル王伝』を何度も聞いた。だが、今まで、彼の出会った語り部はあまりよい語り部とは言えず、偉大な物語のほんの少しの断片を語ることが出来るだけだった。
 聞くところによると、遥か彼方の地では特異な天性を持ったわずかな人たちがこの物語を完全に歌えるという。だがそれも聞いただけのことだ。彼はこの長い長い物語のいくつかの生き生きした断片しか聞いたことがなかった。

 今彼は夢の世界を思い出し、それはあの偉大な物語の始まりの部分、これまで聞いてきた英雄物語の断片の始まりの部分だと知った。

 目の前の世界はこんなにも静かだ。
 だが彼は、ゴロゴロと轟く雷の音をはっきりと聞いた。雷に打たれたように全身が振るえ、汗が雨のように流れた。

 どんな力が彼にあの偉大な物語の始まりを見せたのだろうか。
 多くの語り部たちはこの物語の始まりを見つけ出せなかった。始まりがなかったので、彼らは断片しか語れず、偉大な出来事の全体の姿を知ることはなかった。縁起と過程と終局を。
















阿来の描くパドマサンバヴァ

2013-06-15 13:15:23 | ケサル

 パドマサンバヴァは8世紀後半ごろの人、チベット密教のニンマ派と呼ばれる宗派の開祖で、グル・リンポチェという尊称によって、人々から崇められています。

 ウッディーヤナ(今日のパキスタンあたり)の徳のある王が、民に分け与えるための宝を手に入れて帰る途中、孤島の蓮の花に座っている童子を見つけます。父母について尋ねると、「無生法界を家とし、煩悩の消滅を目的とする」と答えます。王は連れ帰って自分の息子とします。 八歳と思われるこの子が後のパドマサンバヴァです。

 このまま王位に就いては衆生を救えない、と考えた童子は、裸に骨の首飾り人の皮の太鼓を持って踊るという奇怪な行動にでます。その時手にしていた矛を落として大臣の息子を死に至らしめ、国の東の墓場へと追放されます。

 墓場に送られて来る死体の皮を衣とし、死肉を食物とし、嬉々として修行にはげみます。
 時には、悪の道に落ちた人々を救うため、蛇を頭に巻き付けトラのパンツを履き、彼らの肉を食べ、血を飲み、出会った女性すべてと交わるといった忿怒の法を行い解脱させたりします。

 その後もいくつかの墓地で修行を続け、とうとう力を備えた瑜伽士となり、馬頭明王になります。 

 パドマとは蓮の花の意。蓮の花から生まれたのでパドマサンバヴァ。サンスクリットではペマカーラと呼ばれます。

 その名を聞きつけた吐蕃のティソン・ディツェン王から、妖魔調伏のため招かれます。王のもとへ向かう途中、多くの妖魔と出会い、忿怒の姿となって戦い、妖魔たちを仏教の守護神へと調伏していきました。

 吐蕃に入ってからは、サムイエ寺を建て、ヴァイローチャナをはじめ多くの僧と協力して膨大な経典を翻訳し、仏教を広めていきます。
 こうして、惜しまれながらも、次の目的、羅刹を調伏するため去っていきました。
 吐蕃にいた時間は50年とも、半年とも言われています。

 ケサル王はパドマサンバヴァの生まれ変わり、とチベットの多くの人たちは信じています。


                   *


 阿来が描くパドマサンバヴァは少し違っています。

 天の神から、妖魔に苦しめられているリン国の様子を巡視する役を仰せつかり、途中妖魔を調伏しながらリンへと赴きます。
 リンの地でも、望まないながら妖魔と激しく戦います。
 パドマサンバヴァの戦いの姿が怪しく生き生きと描かれます。
 まるで忿怒の姿に化身したタンカを見ているようです。

 使命を終えた後のパドマサンバヴァは、はしゃぎ、戸惑い、神を畏れ、と、とても人間的です。
 この時はまだ、神の列には加えられていないからでしょう。
 ティソン・ディツェン王に招かれた歴史とは別の、遥か昔の、初々しい行者の姿が目に浮かびます。

 天の庭の前であまりに長い時間待たされて、パドマサンバヴァは心に焦りを覚え、ついに、菩薩の現れるのを待たず、修行の場へと帰ってしまいます。

 このやり場のない心の揺れは、時空を超えて、この物語のもう一人の主人公、語り部を目指す若い羊飼いジンメイへと伝わり、彼の焦りと重なり、物語が進んでいきます。

 ここまでの「縁起」は中国語版の『ケサル全伝』にはない部分です。
 阿来がここで描きたかったのは何なのか。かなり重要な意味が含まれていると思われます。
 野の馬と家の馬、人の心に住む妖魔、パドマサンバヴァの心の動き…
 まだまだ始まったばかり、ゆっくり考えながら進めていきたいと思います。

 ここからは、若い語り部の物語と、ケサルの物語が交互に展開されていきます。

 まずは、「ケサル」の重要な担い手である語り部の物語から。





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阿来 『ケサル王』⑤ 縁起2-3

2013-06-11 03:35:24 | ケサル
[物語:縁起2] その3



 パドマサンバヴァは神ではなかった。
 未来の神だった。

 今はまだ、敬虔な苦行によって深遠な力を得た、ただの人間だった。
 敵を打ち破る多くの法具を身につけ、強い法力を持った呪いの言葉を蓄えていた。
 自由に天庭に登ることは出来なかったが、天庭の入り口に行くことは出来た。そこでは衆生の苦難を済度する観世音菩薩が、彼がリンガを巡視した時に目にしたさまざまな状況を報告に来るのを待っていた。
 その後で、菩薩は彼の伝えた状況を更に上へと伝えることになっている。

 パドマサンバヴァは鵬に乗ってリンガを去り、天上に向かった。

 初め、彼はめまいを感じた。鵬の背には美しい羽毛の他には掴まる所がない。虚空から落ちてしまうかもしれない。暫くして、自分も光に乗って空高く飛べるのだと思い出した。恐れを抱いたのは、たった今救い出したばかりの人々を思い、心が落ち着かなかったからである。

 ほんのわずか呼吸を整えただけで、鵬の背も怖くなくなった。乱れた長髪がたなびき、頭の天辺と耳元をかすめる風がヒューヒューと音をたてた。

 彼は、傍らを飛んでいく雲を掴み取り水分を搾り出してから、大小さまざまな吉祥結びを作り、地上へと落としていった。
 彼はすでに高い法力を身に着けていたので、彼が将来神になった時には、これらの吉祥結びの落ちた場所は、奇跡の現れる場所となるだろう。

 上方から笑みを含んだ声が伝わってきた。
 「そのようにしておけば、これから先の人々は、いつでもどこでもお前を思い起こすことが出来るな」

 パドマサンバヴァは、ただ一時的に興が乗って、心の赴くままに雲を掴み取り、手の動くままに吉祥模様を結び、撒いてみただけである。
 それを天上の神々から、故意の行いと受け取られ、思わず不安に駆られ、すぐさま鵬を止まらせ、その場にかしこまって言った。
 「私はただ気の赴くままに…」

 上からは何の声もなく、意味ありげな沈黙があるだけだった。
 パドマサンバヴァは少し後悔した。「それでは、拾い集めてからまたご報告いたします」
 「よい,よい。人間界を抜け出して、さぞうれしかったことだろう」
 鵬の背の上のパドマサンバヴァは、ほっと長い息をついた。
 
 菩薩は言った。
 「楽にして降りて来てなさい。少し話をしよう」
 何もないところでどうやって降りるのだろう。
 「私が降りろと言うのだ。安心して降りて来なさい」

 菩薩が笑いながら手を振ると、空の青は水の青に変わり、打ち寄せるさざ波の合間に、大きな蓮の花が次々と姿を現し、彼の足元までの道を作った。
 蓮の花を踏みながら進んでいくと、馥郁たる香りに襲われて、歩いているのではなく、立ち昇る花の香りに身をゆだねているうちに菩薩の前まで運ばれたかのようだった。

 菩薩は優しい言葉で慰めた。
 「疲れたことだろう。妖怪たちは本当にあしらいがものだから」
 この暖かいなぐさめを受けて彼はかえって自分を責めた。
 彼は言った。
 「恐れ多いことです。あまりにたくさんの妖魔に会って、少しうんざりしてしまいました」
 菩薩は笑って
 「ははは、それは愚かな者どもが善悪をわきまえていないからだろう」
 「天の上から総てをご覧になっていたのですね」
 彼は考えた。
 「では、どうして私を巡視させたのでしょう」
 
 菩薩はふっくらとした柔らかい手を振り、言った。
 「天の意志をすべて推し量ることはできない。天の庭で永遠に過ごすことになったら、お前も分かるだろう」

 それを聞いて、パドマサンバヴァは感激した。
 「はい。私は必ず十分に功徳を積んで参ります」
 菩薩ははっきりと言った。
 「そうだ、人が神になるには十分な働きをしなくてはならない」


 菩薩は更に言った。
 「お前がリンガで見聞きしたこと、したこと、考えたことは細かく述べる必要はない。下の世界で起こったことは、上ではっきりと見ることができる。すでに起こったことが見えるだけではなく、これから起こることもすべて分かるのだ」
  パドマサンバヴァは言った。
 「それならいっそ下の民たちの困難をすべて解決したらいかがでしょうか」
 菩薩の表情がさっと厳しくなった。
 「天上の神々は彼らに対して手助けと手ほどきが出来るだけだ」
 「それなら、私をもう一度戦いに行かせてください」
 「お前はすでに使命を果たした。お前の功徳は、輪廻から抜け出し、人間から神になり、天の庭に列なるのに十分だ。これ以後、お前はその高遠な法力で雪山に暮らす頭の黒い民衆を守ればそれでよい。自ら妖魔と戦わずともよい」

 菩薩は言い終わると、身を翻し、桃色の祥雲を踏んで飄然と天庭の高い門の中へ入って行った。

 パドマサンバヴァは何本もの線香が燃え尽きるほどの長い時間待っていたが、菩薩は戻ってこない。
 しばらく経つと、彼は耐え難くなった。

 菩薩は彼に待つようには言われなかった。待たなくてもよいとも言われなかった。
 かといって、今天庭に入ってよいとも言われなかった。

 彼は心に焦りを感じた。

 修行を終える前の気短な性格のまま、パドマサンバヴァは鵬の背に乗り、真っ直ぐに以前修行した深い山の中へと帰って行った。






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ドキュメンタリー『ケサル大王』

次回の上映会は名古屋です。
6月20日、21日 19時開演
名古屋・シネマスコーレ

モンゴルに伝わる『ゲセルハーン』の研究を続ける藤井真湖さんと、
ケサル物語の素晴らしい訳に取り組む宮本神酒男さんが登場します。

詳しくは http://gesar.jp/ でご覧下さい。




宮本神酒男さんのケサル研究
多方面にわたっていて、ケサルの物語と共に目が放せません。
http://mikiomiyamoto.bake-neko.net/gesarcontents.htm

















阿来 『ケサル王』④ 縁起2-2

2013-06-08 02:05:55 | ケサル

[物語:縁起2] その2


 パドマサンバヴァは途中様々な人間と出会った。農夫、羊飼い、木工、陶工、そして呪術師。
 人々はそそくさと彼を追い越して行った。人々の強張った、そして似かよった笑い、木の人形のような歩みを見て、これらの人々はみな魔物の呼び出しを受け入れたのだと分かった。
 彼は一人一人肩を揺り動かし、大声で呼びかけた。自分の来た道を戻るようにと。だが、その言葉を聞く者はいなかった。
 この地に来たばかりの時なら、飛び出して行って魔物たちと一暴れしただろう。だが、この時彼は神々の元へ帰る途中で、疲れ果てていた。すべての魔物を打ち負かすことができないのはあきらかだった。大声で呼びかけた人々もまた、それで目覚めることもないだろう。
 そこで彼は、この後世に伝わり、しかも、千年後にはより多くの人々に共感されるようになる言葉を口にした。

 彼は自分に対して言った。「見ぬもの清し」

  ………

 パドマサンバヴァは、好奇心に負けて人々に着いて行き、青い湖に着いた。そこはかつて三匹の妖魔と戦った場所だった。
 戦いでは神通力の助けを借り、湖のほとりの小さな丘を、一つまた一つと持ち上げては山の麓へ投げた。その大きな岩の塊が起こした強い振動のため、三匹の魔物は隠れていられなくなり、一匹は地下で死に、残りの二匹は重い岩の下に押しつぶされた。
 今、形を変えられた湖岸には、まだ大きな岩が散在していた。当時それらの岩は黒々としていたが、風に吹かれ日に晒され、岩の表面に赤茶けたしみが浮かんでいた。

 これを見て彼ははっと気付いた。この地に来てからすでに長い時間が経ったのだ、と。一年、二年、いや三年になるかもしれない。
 ところが、当時彼が妖魔を鎮めた地の湖に、また新たな妖魔が現れていた。

 その妖魔とは巨大な蛇だった。大きな体を水の中に深く沈め、湖の真ん中で方術を縦にし、伸ばした長い舌を真っ赤な花が咲き誇る美しい半島へと変化させていた。半島の突端では、妖艶な女性が大きな胸を手のひらで支えながら空中を漂っている。

 大勢の人々はこの怪しい女性の歌声に誘われてやって来たのだった。引き攣った笑いを浮かべていた顔が、熱狂のためか生き生きとして見える。もし彼らにほんの少し意思が残っているとしたら、それは、血と肉からなる自らの体を巨大な蛇の舌から直接魔物の口の中へと進めて行くためのものだった。


 パドマサンバヴァは石の上に飛び乗り、大声を挙げてこれら魔物の誘いに赴く者たちを止めようとした。
 だが、誰一人、砂時計の砂一粒が落ちるほどのわずかなためらいさえ見せなかった。彼の叫び声は天空を漂う裸の女を更にしなやかに怪しく歌わせただけだった。かといって、空中の雷を集めて大蛇を攻撃することもできなかった。なぜなら群れなす人間がすでに大蛇の舌の上を歩いていて、これらの人々を蛇もろとも傷つけてしまうことは出来ないからである。

 大蛇は彼が手を出さないと知ると、太い尾を湖の対岸に高く挙げ、生臭い風を立てながら挑発するかのように揺り動かした。
 彼が唯一出来ること、それは空に舞い上がり、自分の悲惨な運命に向ってうれしそうに急ぐ人間たちを飛び超えて、大蛇の口が変化した竜宮の門に立ち塞がることだけだった。心を落ち着かせかかとに力を込め、呪文を唱えると、恐るべき速さで体を膨らませ、大蛇の大きなに口入り込み、力を込めてこじ開け、更に膨らんでいった。
 大蛇は抵抗し、湖を揺るがせて天に届くほどの巨大な波を起こした。花と草は姿を消した。口に戻そうとした巨大な舌からは人々が次々と水の中に投げ出された。

 天地を振るわせる大きな音とともに、パドマサンバヴァが変身した巨大な体はついに蛇の頭蓋骨を引き裂いた。
 彼は神通力で蛇の亡骸を岸に投げつけると、巨体はうねうねと続く山脈へと変わった。

 パドマサンバヴァが振り向いた時、血の色に染まった湖が、あがいている人々を飲み込もうとしていた。
 彼は一言叫んだ「立ちあがれ!」
 叫びながら、沈んでいた多くの人を岸に上げた。

 さらに、生き返りの術を使うと、砂浜から多くの人々がゆっくりと立ち上がった。その時、彼らの顔に初めて驚きの表情が現れた。その時やっと、逃げなくてはならないと気づいた。
 だが、彼らの足のどこにそんな力が残っているだろう。彼らは地に寝転がって泣き始めた。パドマサンバヴァは彼らに泣く力を与えた。彼らの涙を集める必要があったからである。

 こうして、霰のように、彼らの涙が蛇の血によって穢された湖へ降り注いだ。
 涙の中の塩は湖に溢れた血の穢れを吸い取り、涙の中の青い悲しみがあたりに満ち、湖に充満した暴虐な気をことごとく吸い尽くした。

 パドマサンバヴァは鳥の群れを呼び寄せて木の上で歌わせ、禍から生き残った人々を慰めた。これを聞いて人々は喜び、再び立ち上がり、力を奮い立たせて家へと戻る道を歩き始めた。

 人々は、自分の牧場へ、ハダカムギとカブを植えた村へと戻るだろう。
 陶工たちは窯に戻り、石工は採石場に戻り、皮細工師は戻る途中に皮を柔らかくする芒硝を取りに行くだろう。

 パドマサンバヴァは知っていた。彼らがこれから進む道は決して順調ではないことを。強盗に遭うかもしれないし、祟りに遭ったりするかもしれない。
 河の曲がる辺り、谷間、道の折れ曲がる辺りでは、運命を把握できない人々が走り回っていた。彼らはみな同じ世界で似たような危険に向き合っていた。


 そうではあっても、パドマサンバヴァは最も喜ばしい言葉で彼らのために祝福を唱えるのだった。









阿来 『ケサル王』③ 縁起2

2013-06-04 19:23:52 | ケサル

さて、改めて、阿来の『ケサル王』の世界をゆっくり楽しみたいと思います。

[縁起1]で構築された世界の中で、物語は始まります。人間の果てしない苦悩、それを見守る天の大神。
今回はその大神に選ばれたパドマサンバヴァが大活躍します。


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[物語:縁起2] その1


 ある日、神々は天宮を出て虚空をふわふわと漂い、思い思いに楽しんでいた。
 その時、リンガの上空に悲しみの雲が次々に起こっているのを見て、神々の乗り物である獅子や虎や龍や馬はみな鼻をひくひくさせ、下界から伝わってくる恨み悲しみの匂いを嗅いだ。
 ある神が言った。「妖魔鬼神に対する方法は沢山あるのに、彼らはどうしてそのうちの一つの使い方も分からないのだろうか」
 大神もまたため息をついた。「妖魔に追い詰められれば、人は自分で方法を考えだすだろうと思っていたのだが、彼らには無理なのかもしれない」

 天の庭ではすべての神が具体的な姿を持っているのだが、すべての「果」の最後の「因」である大神だけは、形を持たない。大神はただ息だけである。強弱思いのままになる一種の息である。

 天上の神はみな派に分かれているが、大神はすべての派の上にあった。
 「では、彼らを助けましょう」
 「少し待とう」大神は言った。「私はいつも思っている。彼らは方法を考えつかないのではなく、考えたくないのだ」
 「どうして考えないのでしょう」
 「まだ話の途中だ。彼らが方法を考えないのは、私が神々を遣わせて救いの手を差し伸べるのを待ち望んでいるからではないだろうか。もう少し待って、この想いを断ち切ったら、彼らは自分たちで考えるかもしれない」
 「それでは、もう少し待ちましょう」
 「待っても無駄かもしれない。だがやはり待ってみよう」

   ………


 神々は天から地上の様子を見て、言った「人間には、妖魔を消滅させる神が必要です」
 大神は言った「そうであるなら、妖怪を鎮める法を知っている者を行かせて状況を見させ、それから追い払うことにしよう」

 こうして、ある国から強い法力を持つ人物が出発した。

 方術を身につけたパドマサンバヴァは光線を様々に変化させることができた。彼は水のような光を一束とって、木の枝のように手の中で振り回した。早く行動しなくてはならない時は、光を御して飛ぶことができた。そこで彼は瞬く間に、多くの山脈に囲まれた勇壮な高原にやって来た。
 彼は自分がこのように勇壮で美しい景色を好んでいることに気づいた。

 遥に続く山脈の上に絶えることなく起伏する峰々は雄獅子が走っているようであり、高原の中央を抜けるいくつかの大河は澄んで豊かに流れている。河の流れと山には湖が散らばり、あくまでも青く静かで、まるで宝石のようにきらきら輝いている。
 このように美しい場所にありながら、人々は耐え難く辛い生活を送っているのである。

 パドマサンバヴァは自らの高い法力によって、途中妖魔を降しながら、天の神の指示にあったリンカの河や丘を巡視して回った。彼は多くの場所を通ってきたが、まだ足を踏み入れていない広い場所がたくさんあった。多くの妖魔を降伏させたが、だがそれは、更に多くの妖魔を誘い出しただけのようだった。彼は強い疲労感を覚えた。妖魔の数と法力は彼の想像をはるかに超えていた。
 更に彼を疲れさせたのは、多くの場所で人と魔物が分けられなかったことである。


  ………


 幸いなことに、彼は巡視の使命を受けただけであり、妖魔をすべて消滅しなくてはならないわけではなかった。
 そこで、彼は戻って神々に報告することにした。

 この時、魔鬼に痛めつけられ、この辛い境遇におとなしく従っていた人々の間にうわさが広まっていた。
 「神がわれわれを助けに来てくれる」
 
 良い知らせも人々を喜ばせなはしなかった。逆に恨みの声を引き起こしてしまった。
 口をつぐんでいられない年とった女が、おいおいと泣きながら罵り出した。
 「くそったれ!神様は私たちをほっぽりばなしにして、どれだけ時が経ったっていうんだ」
 「あいつらって誰だ?」
 「悪魔の兵帯になった亭主のことじゃないよ。人間の苦しみを忘れちまった天の神様たちを恨んでるんだよ」
 「何てことだ!口を慎むんだ。神様に失礼じゃないか」
 「なら、どうして神様は救いに来てくれないんだい」
 こうして、彼女を責めた者の心にも恨みが生まれ、大きな悲しみの声をあげた。

 妖魔は腹を抱えて笑い、盛大な人肉の宴を催した。
 真っ先に食べられたのは、噂話を流したおしゃべりな者たちだった。よけいな話をした罪により、宴席の酒の肴になる前に、舌を切られ、鮮血は様々な器に盛られて祭壇に並べられ、多くの邪神に捧げられる供物となった。
 妖魔は一部の人間を食べたが、まだ食べ切れない人間がたくさんいた。まだ食べられないでいる人々は、舌を失い後悔と苦痛でワーワーと泣いた。鳴き声は人々の胸を掠めていった。
 それは一筋の黒い悲しみの河のようだった。

 どのような人でも、一旦このような鳴き声に囲まれてしまったら、心の中に芽生えた希望もあっという間に失ってしまう。

 空を見上れば、そこは、絶えず流れていく根のない雲の他は、静かで空洞な青である。愁いと絶望を美しさに変える青である。
 時には、詩人の気質を持った人物が現れて、このような青を歌いたいと思うかもしれない。空の青を歌いたいのか、それとも心の中の絶望を歌えいたいのか分からないとしても。
 それでも、ひとたび歌えば、愁いは凌げるものとなり、絶望の中にいても絶望を感じないですむようになる。

 だが、妖魔は歌うことを許さなかった。彼らは歌の力を知っていて、真心を動かすことのできる歌声が天の庭に届くのを恐れたのである。
 彼らが煙のような呪いの言葉を撒き散らしたので、目に見えない灰色のものがあっという間に空中に蔓延し、人々の鼻とのどから入り込んでいった。見えない灰色を吸い込んだ者は呪われた者となった。
 彼らは歌いたかったが声帯が硬直してしまった。彼らの喉からは一つの音しか出て来なかった。
 飼いならされた羊がひどく興奮した時にあげる救いようのない叫び声である。
 
 メエ
 メエメエ

 この呪われた単調な声に気づくことなく、人間は自分は歌を歌っていると勘違いした。彼らは羊と同じように叫び、夢遊病者のような表情を浮かべてあたりをさまよった。
 彼らは叫び疲れると、羊たちなら見分けられる毒草をかじり、その後で緑色の泡を吐き、水辺、路上で死んでいった。
 妖魔たちはこのような方法で自分の力を示したのである。

 この情景に、人々は絶望することもなく、そればかりか、あっという間に、天命に従うだけの無関心な状態になった。

   ………

 まさにこのような状況の下、パドマサンバヴァは帰路につき、この地で目にしたものを神々に報告しようとしていた。




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ドキュメンタリー『ケサル大王』

     次回の上映会は名古屋です。
     6月20日、21日 19時開演
     名古屋・シネマスコーレ

   モンゴルに伝わる『ゲセルハーン』の研究を続ける藤井真湖さんと、
   ケサル物語の素晴らしい訳に取り組む宮本神酒男さんが登場します。

   詳しくは http://gesar.jp/ でご覧下さい。