[物語 神の子発願 ]
久しく戻って来なかった観音菩薩が、ついにあの水晶の塔の後ろを廻って現れた。天庭の門まで来ると言った。
「おや、あの者はどこへ行ったのだろう」
だが、菩薩には理解に至らぬことなどない。いぶかしげな表情が眉のあたりまで昇って来た時には、口元にはすでに釈然とした笑みが現れていた。
「あの者はなんと気の短いことか。待ちきれずに行ってしまうとは。惜しいことに、あの者は大神に会う機会を逃してしまった。まあよい。まだ機縁が来ていなのだろう」
そこで菩薩は大神に会うため戻って行った。
大神は微かに微笑んで言った。
「もともと私は、まず彼を人間の指導者にしようかと考えていた。民を率いて妖魔を取り除き、四方を平定出来たら、もしかして、彼らは自ら人間たちの天国を作れるのではないかと考えたのだ。今思うと、私の考えはあまりに単純過ぎたようだ」
菩薩は機を見て意見を述べた。その大意は、
「失望するのは大神ではなく、リンガと呼ばれる妖魔が横行する地なのです。何故なら、様々な罪業のため人間の天国を作る機会を逃してしまったのですから。下界は広大です。大神が思い切って同じような実験をする場所は他にもあるのではないでしょうか」
「お前ほどに修行を積んだ者が、そのような曖昧なことを言うのか」
大神はひどく残念だというように深いため息をついた。
「ウォン」
このすべての賞賛と呪詛の始まりである音が大神の口から発せられた時、菩薩は心の中で深いおののきを感じた。
これは召喚の声でもあった。瞬く間に、天庭の中の神々がすべて大神の周りに集まった。
大神の存在を示す強い息が揺らめくと、神々の足元の五彩の瑞雲が二つに分かれた。その下は依然として厚い雲が蠢き、その色は悲しみの灰色と憎しみの黒だった。
大神の息がまた揺らめくと、下界の情景が現れた。大小さまざまな陸地が海の上に一つ一つ漂っている。海によって分けられた陸地、彼らが常に口にするいわゆる東西南北、上下左右のそれぞれの瞻部洲の姿が神々の前に現れた。
一つの大陸では、万を越す人々が方陣を作り互いに殺しあっていた。
また別の大陸では、多くの人々が皮の鞭で急かされながら運河を掘っていた。
また一つの大陸では多くの優れた技を持つ者が集まって生きている皇帝のために巨大な墓を築いていた。大規模な作業場の周りでは、病と飢えで死んでいった職人の墓がすでに一面の畑を覆いつくしていた。
また別の陸地の深い林の中では、隊を組んだ群衆が別の隊を追跡していた。その中の落伍者は焼いて食べられ、残った肉は干され、さらに続く追跡の旅の食糧となった。
いくつかの大陸では、そこから逃れようとしている人々がいた。彼らの船は暴風で吹き飛ばされ、転覆していた。海中では船よりも大きな魚が身を躍らせて、水の中でもがく生きた人間を一口で飲み込んでいた。
大神は言った。
「みなの者、見ただろう。あれらの場所には次々と国が興っている。見るがいい。国と国はどうしてお互いに戦うのか、国が自分たちの民をどのように扱っているのかを」
「誉れ高き神よ、リンも国を興すのですか」
「もしかして、彼らは自らそう願うかもしれない。だが国を興そうと試みるだけで、それはまだ、本当の国ではない」
「それで大神は考えられた…」
「彼らに試させようと考えている。他とは違う国を興すことが出来るかどうか見てみよう」
大神は暫く思案し、言った。
「見た所、人の歴史はただ一つしかない。違う方向を見つけ出す方法がないのだ。魔物がいる時は、私たちの保護と助けを必要とした。魔物を退治すると、一つまた一つと国を建て始める。そして彼らはまたお互いに殺し合うことになるのだ」
それから、大神はリンガの情景をみなの前に現した。悲しみ混乱した様子に神々は覚えず何度もため息をついた。大神が再び話し始めた時、眉間には皆を咎めるような表情があった。
「私の手引きがなければみながこの状況を発見できなかったとは、信じられないことだ」
神々は婉曲な非難を受け、何時になく悲しげな表情を浮かべた。
ただ一人の名もない者、一人の若者だけが、初めの同情の表情から、この時、抑えられない悲憤を顕にした。大神は若者を近くに呼び、言った。
「お前たちは、この神の子が下界で苦しみを受けている衆生のために心から憤っているのに遥かに及ばないではないか」
神の子の両親は玉の階段の前に駆けより、息子を自分の体の後ろに隠し、言った。
「息子は定力がいまだ具わらず、感情を抑えられないのです。ここにいらっしゃる神々をお責めにならないでください」
大神は下を向いて言った。
「下がりなさい」
すぐにまた表情を変えて言った。
「若者よ、私のそばへ来なさい」
神の子は両親の手から逃れて、大神の前に進み出た。
「ツイバガワは大神のお言いつけに従います」
「お前はあの下界の苦難を見ただろう」
「私はただ耐え難いだけです」
「まことに耐え難いことだ。お前を下界に遣わし妖魔を滅ぼし衆生の苦難を救わせようと思うが、お前はそれを望むか」
ツイバガワは答えを口にしなかった。だが、そのきっぱりとした表情がすべてを語っていた。
「よし。ただし、よく考えなさい。その時お前はもう神ではなく、下界の一人の人間だ。生まれてから成長するまで、人と同じ悲しみと苦しみを経験するのだ。怖くないか」
「怖くありません」
「神の力を失って、人と同じように悪の道に落ちるかもしれない。そうなったら、再び天には戻って来られないのだぞ」
神の子の母と姉の目からは、すでに涙があふれていた。
「天界で暮していたという記憶も失うのだぞ」
神の子は母の涙をぬぐい、兄のように姉を懐に抱き、彼女の耳元ではっきりと言った。
「怖くありません」
父親は神の子を懐に抱き言った。
「愛する息子よ、お前は神々の前で、私に、これまでにない誇らしさを味あわせてくれた。そしてまた、毒と等しい悲しみを塗った刀を、私の心に突き刺したのだ」
「父よ、リンガの苦しみの海にいる人々のために祈ってください」
「そうだ、将来のお前の民に祝福を。すべての法力を使って加護し、お前の仕事を完成させよう。お前に危険が及んだ時には、助けを呼ぶお前の声をリンガから天に届けさせよう」
天庭の大総督が言った。ツイバガワが人間界に降りた時、神々は大神に発願し、彼の父親に同じように勇敢な息子を授けるだろう、と。
父親は夫人を伴って誓いを立てた。
「その必要はありません。息子を覚えておくために、息子が天界に戻る力を失わないために、私たちはこれ以降、精力と神の血を使って新たに子を作ることはないと誓います」