塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

ケサルが生きたのはどんな時代なのだろう 2 阿来『ケサル王』② 縁起1-2

2013-04-26 02:20:54 | ケサル


[物語り:縁起―1] その2




 その時のリンは小さな世界だった。だが人々はやはり一族が集まる地を国と呼びたがった。実際には、それはまだ本当の国ではなかったのだが。
 知恵を持ち始めた者たちが石と木の棒と縄を使って家畜としての馬と野の馬とを分けた時、他の世界はすでに蒙昧な世界を抜け出てからかなりの年月が経っていた。

 そのような世界では哲人が多くの弟子を教え諭しながら奥深く抽象的な思考をしていた。彼らは何種類もの植物の種を育て、銀、銅、鉄、そして、軽い水銀と重い鉛を精錬していた。
 それらの世界はすべて本当の意味での国になっていた。

 低い所から高い所へ、上から下へ、彼らは人を細かい等級とふさわしい規範に分けた。彼らは彫像を建て、麻と絹を織った。彼らはすでに外部の魔物をすべて消滅させていた。つまり、もう一つの世界の国では、もし魔物がいたとしても、それは人の心の中に潜伏してしまっていたのである。
 魔物は人間を自分自身と戦わせた。
 その時、魔物たちは人間の血液の中を走り回り、けらけらと笑い声を上げるのだった。

 だが、リンガでは人、神、魔の戦いの幕は切って落とされたばかりだった。

 またある人は言う。
 世界にはもともと魔物はいなかった。魔物の群れが乱舞する時、その魔物は人の心の中から飛び出してきたものなのである、と。

 古代、もともと魔物はいなかった。
 人々は一つの国を持とうと願った。そこで、首領が現れ、首領の強い権力のもと、更に小さな権力者へと分かれていった。こうして人々の間に尊卑の別が生まれた。
 人々は満ち足りた日々を送りたいと願った。そこで、富への追求が起こり、田畑、牧場、宮殿、金、珍宝を求めた。男は多くの美女を求め、争いが生まれた。さらに、争いの勝敗によって貴賎の別が生まれた。
 これらはすべて心の魔が生み出したものなのである。

 リンガの状況も同じだった。

 河は本来の河からあふれ出ようとし、泥や岩の混じる河岸を打ち、その結果自分自身を濁らせてしまった。これは一つの例えである。リンガの人々の心が欲望で燃え上がる時、彼らの明るい瞳は怪しい影に覆われてしまうことの。

 人々は、一陣の風が悪魔をどこかの片隅から人間界に吹き寄せたと考えた。この怪しい風がリンガの平和を破壊したと考えた。
 それなら怪しい風は誰が起こしのだろうか。もし誰かがこの問題を問いかけたら、人々は不思議に思うだろう。人はそれほどたくさんの問いを問うことは出来ない。もし何時もこのように問いかけていたら、どんなに知恵にあふれた聖賢も頭がおかしくなってしまうだろう。

 『魔物はどこから来るのか』と問うのはかまわない。怪しい風が吹き寄せたのだ、と答えればいい。だが、怪しい風を誰が起したのかを問うてはならない。
 つまり、はっきりと「結果」が出ていたら、「結果」の「原因」を尋ねてもかまわない。だが、そのために、止め処なくなってはいけないのである。
 どちらにしろ、妖風が起これば晴れ渡った空は黒雲に覆われ、牧場の草は風の中で枯れていく。
 更に恐ろしいのは、善良な人々に邪悪な表情が現れて再び平和で睦まじくなれなくなることだ。

 そこで、兵が至る所で立ち上がり、戦いと死を呼びかけるラッパの音が草原と雪山に響き渡る。










ケサルが生きたのはどんな時代なのだろう 阿来『ケサル王』① 縁起-1

2013-04-24 01:42:07 | ケサル




『ケサル王伝』はいつ生まれたのだろうか。

11世紀頃、実在の人物をモデルにしているという説が強力である。
先に紹介した文章にも登場した任乃強氏の研究の結論でもある。

その頃、チベットには二度目の仏教伝来があり、その動きの中からケサルが生まれてきたのかもしれない。

だが、ケサルの物語には仏教の世界を超えたなまめかしさが感じられる。
想像を超えた壮大で異形の神々、登場人物の闊達な発想と行動。
土着的な生命力がところどころに姿を見せる。

では、阿来はどのようにケサルの活躍する舞台となる世界を描いているのか。
『ケサル王』では、まず最初にその世界が阿来独特の言葉によって展開される。

ちょっと恐ろしい世界ですが、二回に分けてご紹介します。


  *********************




第一部 神の子生まれる

[物語り:縁起―1]

 その時、家畜としての馬と野生の馬がやっと区別されたばかりだった。
 歴史学者は言う。家畜としての馬と野生の馬がまだ区別されていないのが前蒙昧時代であり、区別されてかなり経つと後蒙昧時代になる、と。
 歴史学者はまた言う。絶対的に多くの場合「後」時代の人々は、往々にして「前」時代の人に比べて自分たちは恐怖と迷いの中にいると感じている、と。

 確かにそうである。後蒙昧時代、人と魔物は下界に暮し、神はすでに天上に行ってしまった。神々は常にさまざまな方法で人間界に降臨はしていたが、それもただ少しの間だけだった。

 人と魔物の争いでは、人はいつも敗北する側だった。神は、人の悲惨な敗北を見るに忍びなかった。忍び難くなると、仲間を下界に遣わして手助けをした。大多数の場合は、助けは功を奏した。助ければ助けるほど忙しくなった。

 蒙昧時代が終わった百年あるいは二百年後、神はほとんど下界へ降りて来なくなった。不思議なことに、神が下界へ降りて来なくなると魔物も消滅した。もしかして、魔物が人を苦しめるのは神に対する挑発だけだったのかもしれない。弱々しい人間をいじめるだけでは、何の面白みも感じられなかったのかもしれない。

 ごく普通の考え方は、魔物は本来この世界を去ってはいなかった、というものである。誰でも知っているように、魔物は変化に富み、なりたいと思えば何にでも変身できる。この上なく美しい女性にも変身できるし、今まさに朽ち果て、腐敗する時の特殊な臭いを撒き散らしている棒切れにも変わることができる。

 魔物はなりたいと思えば何にでも成れるのだが、時がたつにつれて、このような変身そのものに飽きてしまった。そこで、魔物は考えた。どうしてあのように凶悪な姿に変わらなくてはいけないのだろう。いっそのこと人間の姿に変化すればいいのだ、と。そこで、魔物は人そのものに変身した。魔物と人が一体になったのである。

 はじめ、人と神が力をあわせて追撃したため、魔物はもう少しで逃げる場所を失うところだった。こうして追い詰められた時、魔物はよい場所を見つけた。それは人間の心である。
 このぬくぬくとした場所に隠れられると、人は何もできなくなくなり、魔物は逆に好きな時に頭を持ち上げて人をからかうことができた。そういった時人は、自分が自分自身と戦っていると思いこんでしまうのだった。

 これまで、歴史学者は、人間が自分自身と戦った結果とその未来に対してかなり悲観していた。彼らがすでに書いた本、これから書くだろう本は、たとえ何も真相を語っていないとしても、少なくともこの悲観的な態度は根気よく表現されている。

 ことわざに、家畜は遠くまで行ってしまうと天が与えてくれた牧場を失ってしまう、と言われている。話をあまり長引かせないようにしよう。さもないと物語の出発点に戻れなくなってしまうから。

 物語の始まった場所へ行こう。

 リンと呼ばれる場所。

 リンとも、また、リンガとも呼ばれる場所は、今カムと呼ばれている。さらに正確に言えば、過去の“リン”は、現在さらに広いカムと呼ばれる大地に囲まれている。カム、その一つ一つの草原は太鼓のようである。周囲は砥石のように平坦で、真ん中はわずかに隆起している。その中央では、太鼓を打つリズムが響いているようであり、大きな心臓がドクドクと躍動しているようでもある。
 そして草原の周りは、語り部によって、「周りを囲む大小の雪山は、猛獣が列を成して天の果てへ駆けているようだ」と形容されている。

 ケサル大王は天から、駿馬が駆け回るにふさわしいこの場所に降臨した。

 その時、後蒙昧時代はすでにかなり長く続いていた。
 その時、地球上はたくさんの異なった世界に分かれていた。異なった国ではなく異なった世界である。
 その時の人々は、大地はたとえようもなく大きく、たくさんの異なった世界を受け入れることができる、と感じていた。

 人々は、自分たちの世界の他に、違った世界があるのかどうか、はっきりとは分からなかった。だが、何時も天の果てを望んで考えていた。天の果てに別の世界があるのだろうか、と。
 その異なった世界はより邪悪なのだろうか、それともより豊かなのだろうか。
 多くの伝説が、これらの、近くてまた遥に遠い世界を語り想像している。

 リンと呼ばれるこの世界は人々から語られ、リンもまた別の世界を想像していた。






阿来が私の微博に答えてくれた!

2013-04-21 02:06:28 | ケサル


最近、阿来宛てに何度か微博(中国版ツイッター)を書いた。
『ケサル王』への質問や、他の作品との関係など、思いつくままに、自分への問いかけとしてつぶやいていた。
期待がなかったといったらウソになるが、阿来の微博のフォロワーは何十万人、彼の目に留まるかどうかさえわからない。
だがなんと、そのうちの一つに阿来からの返信があったのだ。



「阿来先生、聞くところによると、チベットの語り部は普通琴を弾かないそうです。モンゴルの語り部は琴を弾きとても賑やかに語るそうです。どうして『ケサル王』の中でジンメイに琴を持たせたのですか。ホメーロスの叙事詩と関係があるのでしょうか。そうであっても、ジンメイが琴を学ぶ過程の描写はとても美しい。(4/14)」

それに応えて、

阿来「聞くところによると?それでは確実とは言えない。しっかりと見なくてはいけない」



一瞬舞い上がり、よくわからず読み直し、何度か読み直しても腑に落ちず、ついには心配になった。
私のいい加減な中国語を読み、阿来先生はどう思われたのだろうか。失礼な言い回しでもあったのだろうか。

でも、この中で使われている「しっかりと見る」という言葉、中国語にすると“看見”。これは阿来の散文集の題名にも使われている言葉だ。
阿来にとっては大切な言葉と言っていいだろう。
その言葉を私にもかけてくれたのだ、きっと励ましてくれているのだ、と解釈することにした。
阿来先生には、“看見”という言葉を心に刻んでおきます、と返信した。

とても刺激的な出来事だった。


六弦琴への疑問を持ったきっかけは…

『ケサル大王』の大谷監督に、阿来は語り部の様子をどのように描いているかと尋ねられた時に、他の特徴と並べて、六弦琴を持っていると伝えた。
阿来の『ケサル王』の中では、六弦琴はかなり重要な役割を果たしている。そしてそれはごく当たり前なことと思っていた。

それに対して監督からのコメントがあった。
「チベットの語り部は楽器を持たないはずです。モンゴルでは楽器を持って語るようですが」と。

何の疑いも持たずにいた自分に慌てた。

そこで、数少ないケサル関係の本と、ネットで調べてみた。

六弦琴はチベットでは大切な楽器だという記述がまず目に入った。
  <札木年はチベット族が弾く楽器で心地よい音を出す琴という意味である。俗に六弦琴と呼ばれている。>
  <ある日、大海の中から札木年を持った天女が現れ、弾きながら心を込めて舞った。>

更に調べていくと、語り部は楽器を持たないという記述もいくつか見つかった。
  <チベット族のジャンガと呼ばれる芸能には六弦琴が使われているが、歴史の長い「ケサル」はその影響を受けていない。>
  <伴奏を伴わない原始的な語りは独特な風格を見せている。>

  <モンゴルでは芸能が発達していて、ケサルを語る時も楽器を使う>という記述もあった。

では、何故楽器を使わないのか、という疑問は残っているのだが。

阿来は語り部と六弦琴を結びつけ、独自の美しいイメージを作り上げたのだ、というのが私のその時の結論だった。


こうやって調べていくうちに、少しずつ語り部の姿が私の中で形になってきた。
(帽子の問題その他、まだまだ考えなくてはならないことは多いが)

同時に、長年関わってきた監督の、ものを作る人としての鋭い目線に感動すると同時に、これからの道程の遥かさを思わされた。


そのきっかけとなった六弦琴。そこに阿来の目がいったことに、何か不思議な力を感じた。
阿来は実際に語り部が六弦琴を弾くのを「見た」のだろう。




その、阿来『ケサル王』の、語り部と六弦琴の美しい出会いの部分をご紹介したいと思います。
牧人だった若者ジンメイが語り部としての力を授かったばかりの旅の途中の出会いです。


             *****************


 ジンメイは一本の道しかない小さな村に着いた。村には六弦琴を作る老取った職人がいた。
 ジンメイが、人づてに聞いたその工房の庭に入っていった時、琴職人は出来たばかりの琴を試していた。
 貝のように丸い琴の空洞に息を吹きかけ、耳に近づけて注意深く音聞き取る。その顔には満足げな笑顔が浮かんでいた。
 
 彼は言った「さあ、試してみなさい」

 彼の弟子の一人が前に進み出て琴を受け取ろうとした。だが、琴職人は言った。
 「お前じゃない。あの男だ」

 彼は琴を直接入って来たばかりの男の前に差し出した。
 ジンメイは言った「いいのか?」

 老人は三人の弟子を見て言った。
 「これはとても出来の良い琴だ。わしが作った中で一番素晴らしい琴だ。今、これを受け取るべき者が来たのだ」

  ……

 「どうして分かったんです。親方は占い師でもないのに」
 親方は三人の弟子には構わず、ジンメイの方を向き、
 「持って行きなさい。お前は夢に見た様子そのままだ」
 「夢に見たんですか」
 「そう、神が見させたのだ。神は言った。お前の琴は一番ふさわしいものに出会う、と。そして言った。お前の琴作りの生涯は終わった、と。さあ、若い人、お前の琴を受け取りなさい」

  ……

 こうして語り部は自分の琴を手に入れた。
 三日後彼は琴によって語りに必要な拍子をとることが出来るようになった。
 歩いている時、神の使いが体を縮めて彼の耳の奥にしゃがんでリズムを打っているように感じた。その拍子にあわせて歩き、その拍子のとおり、大通りを得意揚々として歩く人々のように体を揺らせた。

 こうして歩くうちに、彼は突然理解した。
 水の動き、山の起伏にはもともと同じようなリズムがあることを。
 一つのリズムだけでなく、別のリズムもあった。
 風が揺るがす草の波、空では様々な鳥が様々なリズムで翼を鳴らしていた。

 より隠されたリズムを感じることも出来た。
 風が岩の空洞を通り過ぎる時、水が樹の中を昇っていく時、鉱脈が地下で伸びて行く時のリズム。

 彼は琴を操り、事も無げに、それらのリズムを真似していった。

 叔父の家のまだ青い実を付ける果樹で覆われた門の前に来た時には、すでにさまざまなリズムを繋ぎ合わせていた。
 いつの間にか、いつも耳の奥でリズムを刻んでいた神の使いも消え、彼の手の中の琴からこの長く古い歌のリズムが聞こえてくるようになった。

 軍の太鼓の掻き立てるようなリズム、馬の蹄の軽快なリズム、神が降りてくる時の憤怒の雷鳴、妖怪が鞭を鳴らしながら踊る時の稲妻…









「ケサル王伝概説」のまとめ

2013-04-14 11:33:27 | ケサル
「ケサル王伝概説」のまとめ




前回まで5回に渡ってご紹介した阿来の「ケサル王伝概説」。
実はこの前に10行ほどのコメントがあり、この文章はあるテレビ番組のために書かれたということが分かる。

番組は、歴史を分かりやすく語るもので、だが、阿来はきちんとした文学の形で伝えたいと考えていた。
意見の違いにより結局番組化されず、阿来の文章も1回のみで終わりとなってしまった。

阿来自身は10回まで講義の準備していて、その計画が書かれていた。

講義内容計画
1. ケサル史詩概説
2. ケサルの内容
3. 様々なケサル語り部
4. ケサルの映し出すチベット史1
5. ケサルの映し出すチベット史2
6. ケサル史詩の美意識の特徴及びチベット文化の美意識の風格
7. ケサルとチベット仏教の関係
8. 史詩から見た歴史上の漢、チベットの関係
9. 史詩から見たチベット族とその他の民族と地区の関係
1 0. ケサル史詩とその他のチベット族口承文学の姿と価値

もしこれがすべて計画通りに行われたらと想像すると、なんと残念なことか。
ただし、阿来も書いているように、第1回だけでもケサル史詩の基本はしっかりと伝えられてる。

以下にもう一度簡単にまとめてみた。


      ******************


チベットの英雄史詩『ケサル王伝』は歴史の事実を基礎として生み出された。
歴史が物語へと生まれ変わるには、物語が民間の語り物として伝わり、最後に文学者がそれを整理して小説にする、という長い時間が必要である。

その過程で、物語を民間に伝えていく役割を果たしたのが語り部である。

語り部は、ある時不思議な体験をして、その後ケサルの物語を授かるという。
教養のない者が優雅で古典的な言葉を突然語り始める。その様子は「神が乗り移ったような」とも映る。

彼らは自分は神から選ばれたものと信じているのである。

語る時にはみな特異な帽子をかぶり、まず帽子を讃える歌を歌う。
形式的な語りと帽子そのものによって、語り部たちはケサルの世界へと導かれていく。

彼らは今でもチベットのどこかで語り続けている。そのため、ケサルは生きている史詩といわれている。

その確かな長さを数えることは難しい。それは日々生まれ変わっているからである。
だが、百数十万行ともいわれる長さは、これまで世界最長といわれてきた叙事詩『イーリアス』や『ラーマーヤナ』等に比べても、圧倒的である。
今では『ケサル王伝』こそ世界最長の叙事詩と認められている。




       *   *   * 



この語り部と言う存在をどう考えればいいのだろう。
多くの語り部が自身の神秘的な体験を語っていて、研究者が今も研究を続けている。

阿来の文章にもあったように、チベット族の文化の中には、言葉に対する畏敬の念が深く刻み込まれている。
言葉をあつかうことは時には天の秘密を漏らすことであり、それは選ばれた者のみに許される行為とされている。
語り部は自分をそのような一人と信じ、強い想いを持って語ることにより、より深く物語の世界に入り込み、神がかりともいえる状態になっていくのかもしれない。

そして、言葉そのものが持つ力がそこに何らかの作用を及ぼすのではないだろうか。

更に、形式という問題。
ケサルの語りの中に仕組まれている固定化された形式が語り部の語りを助けている、と考える研究者もいる。

これらはとても興味深い問題なので、これから研究者の言葉をできるだけ紹介していきたい。

このようなケサルはどのように発見されたのか。発見とはどういうことなのか。

この概説の書き方に沿って言えば、被征服者の文化が征服する側によって見出された時、初めて発見されたといえる、と阿来は考えたようだ。
そこには支配される側と支配する側という階層の差が存在している。

この問題もまたとても重要で、阿来の創作の基礎になっているのではないかと思われる。
阿来の『ケサル王』を読みながらゆっくり考えていきたい。










ドキュメンタリー『ケサル大王』 大阪での上映会のお知らせ

2013-04-09 03:19:05 | ケサル


ドキュメンタリー映画『ケサル大王』(監督・大谷寿一)

4月12日(金)まで、大阪・十三のシアターセブンで、が上映されています。
8年間、ケサルを追って東チベットを何度も訪れ完成させた美しい映画です。
 


今も続く語り部による語りとはどんなものか

ケサルの舞台、東チベット・カムとはどのような場所なのか

カムの人々はケサルをどのように受け止めているのか

今心配されるチベットの問題の根源はどこにあるのか

………


言葉だけでは伝わりにくい美しく特異な文化が、
映像の力によって目の前に広がります。

大阪近郊の方はぜひご覧になってください。


詳しくは監督のホームページ・ケサル大王をご覧ください。















阿来が語る『ケサル王伝』5  『ケサル王伝』はどのように発見されたか 2

2013-04-09 01:44:49 | ケサル
『ケサル王伝』概説




3 『ケサル王伝』はどのように発見されたか  その2




ここで用いた資料は、主に四川社会科学院研究員・任新建の文章から引用した。
国外でケサルの物語を発見する過程について、任氏はかなり詳しく説明している。

1886年、ロシア人、ペーター・ジーモン・パラス(Peter Simon Pallas)がモンゴルを旅した時、この史詩のモンゴル文を発見した。
後にサンクトペテルスブルグで出版された訳本は彼が集めたものだ。

1909年には、フランスの宣教師がラダック(現在はインドパキスタン紛争によりカシミール地方に属す)でチベット語本を二冊集め、翻訳後イギリス領インドで出版した。

1931年、フランスの女性探検家デーヴィド・ニール夫人が四川からチベットに入り、林葱土司の家から土司が秘蔵していた『ケサル王伝』の写本を借りて読み、その後の旅程で、現在の青海省玉樹地区で語り部の語りを記録した。
後に、彼女はこれらの内容を整理して本にし、『リン、ケサル超人の一生』という名で、フランスで出版した。これは本来の『ケサル王伝』そのままの姿ではないが、かなり完全に史詩全体の大体の輪郭を紹介している。

1950年代後、国外のケサル研究は大きく進展し、すぐれた功績を残した「ケサル学家」が次々と現れた。前述のスタンはその中でも抜きんでた一人である。

今この時代、「発見」とは、もはや自己認識ではなく、より強い力を持った外界による発見のことである。
地域と地域の間でも、国家と国家の間でもそうであるし、異なった種族や文化の間もそうである。
そのため、青蔵高原に伝わるチベット族の史詩『ケサル王伝』の発見について語る時、中国以外の西方の世界による発見を指し、また中国の主流の位置にある漢文化によるこの史詩の発見をも指している。

西方の発見と比べると、これは優美な物語である。

時間を1920年代末に戻そう。

四川のある高校で四川郷土史を教えていた教師が教鞭を捨て、招きに応じてカム―今の四川省甘孜チベット族自治州の考察に加わった。
後に、私もまた『ケサル王伝』の広がりを調べるため何回もここを訪ねた。私は性能のいいクルーザーで出かけた。
だが、任乃強という教師が訪れた時代、この十数万平方キロメートルの土地には公道はなかった。
それでも、彼は1929年から30年の1年の間に、まず濾定、康定、道孚、炉霍、甘孜、新龍、理塘、巴塘などの10余りの県を調査した。

任氏の話によれば、「どの県へ行っても、街と農村を回り、回り終われば、一休みする。土地の人を労うごとに、彼らの話を集め、政治、軍事、山川、風物、民族、歌謡など…みな記録した」
その後これらの記録を次々と内地の漢文の雑誌に発表した。
その中に『ケサル王伝』を紹介したものがあった。



それより前、漢族の地区にもこの史詩は伝わっていた。だが、人々は大まかに伝わったもので満足し、研究はしなかった。
そして、これはチベット族の人たちが特別な方法で武聖人・関羽の物語を伝えたものだと勝手に判断していた。
後には、チベット族の人たちがチベット語で三国志の物語を伝えたとして、「蔵三国」または「蛮三国」と呼んだ。

任乃強は1930年に始めて漢語で漢語世界の人々に向けて、この「蛮三国」と呼ばれる作品はチベットの民間に伝わる「歌を含んだ」文学芸術であり、内容は「三国演義」とは関係ない、と発表した。
さらに、語り部の語調を生かしてその一部分を翻訳した。

その時の現地調査で、任氏は文化的成果を収めただけでなく、「野蛮で荒れ果てた地」で生活していると見られていたカムのチベット人は「内地の漢人が及ばない四つの美徳―仁愛、倹約、ゆとり、礼を持っている」ことを発見した。

彼は、この民族を本当に知るには、言葉の壁と民族の心理の違いという二つの障害を乗り越えなくてはならない、と感じた。
それにはチベット族の女性を妻とすのが最良の方法と考えた。
そこで、仲人を通してニャロン県のロジュチンツォを妻として娶った。
彼が始めて漢族の地区に紹介したケサルの物語は、7日に渡るチベット式婚礼で、妻の姉が語ったものを記録したものだった。

この物語を、私は任新建の書いた『ケサル王伝』研究史を回顧する文章から知った。
任新建氏は任乃強とロジュチンツォの息子である。彼は父親の跡をついで、チベット学研究に大きな業績を残した。

一人の作家にとって、架空の伝奇物語をもう一度構築しなおし、その広大な物語の体系の中から歴史の姿が立ち上がってくるのを目にするのは、非常に不思議な体験である。
まず古い物語が準備されているため、私の創作も野放図にはならず、幾度も確かな歴史の場と文化の間に引き戻された。
写作のすべての過程は厳粛な学習の道程となり、自己の感情が精神の豊かさで満たされた。

我々が共にこの過程を味わい、共にこの偉大な史詩を味わい、チベットの歴史と文化を味わい、この同じ世界に多元的で豊かな文化がまだ存在していることを見る機会を持つ時、それは大きな意義のあるものになるだろう。

さて、もう一度始まりに戻ろう。引用した詩の形式を持った頌辞を解釈してみよう。

この頌辞を漢訳した劉立千は、チベット学に造詣の深い漢学者である。彼によると、この詩の前の三句の意味は次のようである。
「文殊菩薩の知恵は尽きることがなく、咲き誇る花が幾重にも重なって無限に開いていくようである。
この知恵の花は、美しい青年が少女の心を捉えるように私たちを魅了する」


劉立千は指摘している。
これはチベット族の修辞学の書『詩鏡論』の形象修辞の手法を用いている。
比喩された事物を用いて、更にまた別の事物を比喩している。比喩の中に比喩を重ねているのである。

これは、異なる文化が育んだ異なる言語には、常に、他の言語にはない特別な感受性、特別な表現があるということを語っている。
こうして、多元的な文化の存在によって、この世界は豊かで多彩なものになっていくのである。







阿来が語る『ケサル王伝』4  『ケサル王伝』はどのように発見されたか 1

2013-04-05 01:20:48 | ケサル


『ケサル王伝』概説






3、『ケサル王伝』はどのように発見されたか  その1



「発見」、これは私にとってはつらい話題である。

材料が少なく、糸口を整理するうえで何か困難があるからではなく、この言葉が持っている情感の激しい揺らめきのためである。

私たちはすでにこの世界に存在し、すでに自己というこの世界の存在を認識している。
そうでなければ私たちに宗教はなく、文学も史詩もない。
なぜならすべてのこのような精神的な存在は、人が自分が地球のある場所に存在しているのに気付いているからであり、このような存在の辛さと栄光に気付いているからである。このような存在を描き、このような存在を讃えるのと同時に、このような存在に問いかけているからである。

この意味から言えば、『ケサル王伝』もまたこのような存在に気付いた結果である。
この史詩が生まれてから、すでに語り部や、それを聞いた人々や、文字に記録した者によって発見された。

問題は、コロンブスたちがイベリア半島で帆を揚げ出航したその時から、この世界の規則が変わり始めたことだ。
それ以前は、一つ文化、一つの民族、一つの国家はただ自分たちを認識すればよく、それが即ち発見だった。

だが、この時から、この世界の様々な文化は進んだものと後れたものとの区別が出来た。優勢と劣勢の区別が出来た。
この時から自分を認識するだけではすまなくなった。どのようなものも、優勢な地位を占める文化と種族によって発見されることが必要となった。

そのため、インディアンはアメリカで数千年存在していながら、15世紀までヨーロッパ人によって発見されるのを待った。
中国の敦煌はひと時賑わっていたが、その後また砂漠に包まれて眠りにつき、やはりヨーロッパ人によって発見されるのを待った。
チベットと中国内陸は頻繁に行き来していたが、最後にはやはり西洋の探検家によって発見された。

『ケサル王伝』の運命も同じである。

前にも述べたように、フランスのチベット学者スタンはこの史詩が発見された日を1836年としている。
その根拠は、その分章本の訳本がヨーロッパで出版されたことである。

面白いのは、この訳本はモンゴル語を元に翻訳された。つまり、ヨーロッパ人が発見する前、このチベット族による史詩はすでに生産方式や宗教がよく似たモンゴル人によって発見されていたのである。

だがこの発見は発見とはされない。ヨーロッパ人に直接発見された時に初めて発見とされるのである。
そこで、世界の多くの事物が発見された時期と同様に、ケサル発見の時期も欧米人の目が及んだ時間で確定される。

ここで私が述べたのは一つの事実である。コロニアル時代からそのままポストコロニアル時代へと続く基本的事実であり、スタン個人に対して不満があるわけではない。

むしろ、彼個人はチベット学とケサル研究の方面に優れた功績を残している。
彼が1959年フランスで出版した『チベット史詩と語り部の研究』、70余万字に及ぶこの大著は、私が始めてこの題材の領域に踏みいれた時の入門書の一つである。

次に、漢語の世界でこの作品が発見された過程を述べよう。











阿来が語る『ケサル王伝』3  最長の史詩 2

2013-04-01 01:49:10 | ケサル
『ケサル王伝』概説


2、最長の史詩  その2




史詩は、過去には吟遊詩人が語るものだった。
ホメーロスの史詩と呼ばれる『イーリアス』『オデュッセイア』は、ホメーロスという目の見えない、琴を持った古代ギリシャ人が、古代ギリシャの様々な都市国家の間で演じてきたものである。

古代ギリシャは、知られているように、統一された国家ではなく、多くの都市国家が集まったものだった。
このような都市国家は常に連合して外来勢力の侵入に共同で立ち向かわなくてはならなかった。
同時にこれらの都市国家の間でも、時には戦い時には連合するといった離合が繰り返されていた。

吟遊詩人とその物語はこれらの都市国家の間を自由に跳び越え、彼らの共通の輝かしい記憶となった。
だが、これらの記憶はすでに紙の上の文字へと固定されてしまった。バビロンの史詩はすでにわずかな人にしか理解できない泥の板の上の文字へと固定されてしまった。

ただ『ケサル王伝』のみが、今でもなお青蔵高原のチベット人の間、草原の牧場、ヤルツァンポ河、黄河、金沙江、高原を奔流する大河の両岸の農耕の村で、様々な民間の語り部によって語られている。

今でも、ケサルの物語の伝わり方はこれまでと同じで、何も変わっていない。
史詩はその誕生の初めにすでに備わっていた方法でこの世に生き、この世に伝わっている。

著作者が著作する前、まず頌詩の形で菩薩の加護を求めるように、これらの語り部たちは特殊な帽子を被る。
そして、特別な帽子の歌によってこの語り部の帽子の各部分に備わっている象徴的な意味を解説する。

彼らがこうするのは神の加護を願うだけでなく、より重要なのはそれが一種の宣言なのだ。
史詩の語りは神の命令と特別な許可によるものであって、民間の娯楽としての語りとは大きな違いがあると告げているのである。

時が経つうちに、語り部たちが語り始める時、いくつかの定型化された儀式が行なわれるようになった。

語り部はみなこの特別な帽子を持っている。チベット語では「仲厦」という。
すでに述べたように「仲」は物語の意味、そして厦はまさに帽子という意味である。
ならば、この帽子とは物語を語る時に被る専用の帽子ということになる。

史詩の物語を正式に語り始める前に、語り部はこの帽子を褒め讃える。
なぜなら、この帽子についているものすべてとその形は、ある種の象徴だからである。
彼らは帽子を全世界になぞらえる。

帽子の頂は世界の中心であり、他の大小様々な装飾物は、河や湖や海、日月星に喩えられる。
帽子はまた埋蔵された宝の山に喩えられる。帽子の先端は山の頂上、その他の装飾物と形は金銀銅鉄などの豊富に埋蔵された宝を象徴している。

こう語った後、やっと物語りへと導かれていく。

ケサル王によって多くの妖魔が降伏され、豊富に埋蔵されている宝が護られた。
そして今、人々は宝の中の無尽の富を楽しむことが出来るのである、と。

以上に述べた資料はケサル研究の専門家降辺嘉措の著書『ケサルの初歩的研究』から引用した。
私も何度も「中肯」の語りを聞いた。
だがこの文章の中では、専門家の研究成果を出来るだけ引用する。

どうしてかと言えば、ケサルという偉大な史詩の本編以外にも、多くの人に、国内外の史詩を研究する研究者たちを知ってもらい、研究の成果を分かち合いたいと考えたからだ。

一人の作家として、私はかなり真剣にこの領域に踏み込んだ。
だが、小説が出版され、この文章を書き終われば、私はこの領域を離れ、新しい題材の領域へと入って行く。
そして、これらの研究者たちは、この領域の中でこれからも長く仕事を続けていくのである。

彼らの研究の成果を引用するのは、自分を充実させるためであり、彼らの労働と成果に敬意を表するためである。

降辺嘉措はその文章の中でこう語っている
「このような帽子への講釈は、定型化された型となり、特別な曲調が作られた。チベット語で「厦協」という」
「その歌詞は史詩と同じく想像力に富み、比喩が生き生きとして適切で、言葉は簡潔で美しく、それだけを単独で語ることが出来る。優れた語り文学である」