―果洛(ゴロク)の記― その3
会議が終わると、以前教えを受けた「永遠に描き続けるケサル画家」の称号を持つ友人が訪ねて来てくれた。
彼は有名なチベット医で、同時に、ケサルを題材とした優れた絵画を数多く生み出している。彼は絵画によってケサルの物語の中の多くの人物を生き生きと描き出し、そこには史詩の中の遥か昔の宮殿、服装、兵器までもが当時そのままに再現されているという。
彼は私の手を取って言った。
「私たちは皆、あなたの作品を読みました。彼らは少し意見があるようですが、でも、とても素晴らしかった」
「彼ら」と「私たち」は、ここでは同じ意味なのだと推測できた。
私は尋ねた。「それは私が書いたものと、元々の物語が異なっているからですか」
彼は少し笑って、別れを告げた。
夜、眠れなかった。これまでにない生々しい経験をしたためだった。
この経験の衝撃とともに、私のゴロクの旅は始まった。
新たな経験を思いながら、灯りの元、今回手に入れたゴロクとケサルに関する文章を読んだ。
旅の間、ケサルの語り部や様々な人に会うごとに、それとなく、簡単な雑談に交えて尋ねてもみた。
たとえば「あなたが語る物語は本当のことなのか」
たとえば「ケサルは実在の人物なのか」
彼らはみなあっさりと笑って答える。
「もちろん実在の人物です。当然のことです。そして、後に神になったのです」
そこで私はこの古い物語が繰り広げられた、人と神の間に横たわる遥かな場所をあちこち歩き回った。
ある宮殿はケサルが建てたものだった。ある湖は彼の妻が傷心の日々を送った場所だった。巨大な氷河が動いた後に残った岩は英雄の兜だった。黄河の岸辺の草原はリン国の民がかつて遊牧した場所、そして英雄が妖魔を降した戦場だった。
黄河と丸い丘の間の草原は史詩の中に語られている「ケサル競馬で王になる」の地形とまるで同じだった。吟遊詩人はこの風景の中に身を置いて、目の前に広がる大地の力によって、あの壮大な場面を新たに構築したのではないか、と誰もが振り返って思うだろう。
ゴロクで、プロの劇団がミュージカルによって「ケサル競馬で王となる」の時代を再現しているのを見た。また、広場の舞台では高校生たちが古いチベット劇の形でこの偉大な物語を演じていた。
物語と現実がこのように融合しているのを見て、私は理解し始めていた。新しい友人たちが何故ケサルという千年を越える物語を歴史上の事実だと信じたがっているのかを。
ゴロク最後の日、黄河上流の二つ目の県、ダリに着いた。
夕飯の後、細かい雨が降り、間もなく夕焼けが現れた。
主人の招きに応じて河辺の草地にある宮殿のようなテントへ行った。これもまた遥かな古代を模して再現したものに違いなかった。
私たちは飲み、語り、歌った。こうして新しい友人と再び交流した。
彼らとの交流と専門の学者たちとの交流は少し違う。ここではそれは知識によるのではなく、深い情感、篤い信仰によるのだった。
史詩の輝やかしい時代の後、まるで長い悪夢のように、青蔵高原は長期に渡る停滞期に入った。
それは、閉ざされていた知識の門が突然の大音響と共に開き、世界が一気になだれ込み、押し留められなくなるまで続いた。
その時人々は、ケサルの時代のように、自らを拡大し、世界が押し寄せるのを待つのではなく、自らが理想を胸に勇敢にその中に進んで行こうと強く願った。
馬上の英雄の時代はあっという間に終わった。
愚かな人間たちは玉座に君臨する者に導かれ、自分たちが生きる場をマンダラの様に荘厳で完全で総てが満たされる世界にしようと考えた。祈祷と瞑想をすれば、くるくる回るマニ車がすべての有情の者を世界の美しいあの一点へと連れて行ってくれるような世界。
だが、世界の美しい場所は、自分たちの魂を宿す肉体の目では見ることができなかった。見えたのは伝説の中の輝かしい英雄時代はもう現れない、ということだった。
この意味から言って、ただこの地の新しい友人たちだけが、歴史でありながらかなり修飾された英雄史詩を歴史そのものと信じたがっている、というわけではないのである。
たとえ、私のような筆を執れば自分が虚構と想像の世界に入ると知っている小説家であっても、幻想に導かれて希望や超現実の夢を描かないわけではないのである。英雄について、ロマンについて、個人と群衆の精神の広がりについて。
そのため、私はこれらの友人達の主張と思いを理解するのである。
その深夜、友人が少し酔った私をホテルまで送ってくれ、私たちはまたしばらく語りあった。
話題は依然としてケサルという大きな物語の樹についてだった。
チベット民族の口承文学の中の英雄伝について、それは果たして確固とした史実なのか、または、英雄の再来を渇望するあまり想像の世界で膨らんだ虚構なのか――文芸の虚構は偽りではないし、事実にも基づいているのでもない。長い喪失の後の強烈な情感を偽りなく表すものである。
このような意味から言って、たとえケサルの物語がすべて真実だとしてそれが何なのだろう。われわれのこの凡庸で英雄的気概に欠けた時代にとって、たとえこの史詩の語るもの総てが確かな事実だとして、すでに虚構と変わりはないのである。
その夜、酒の勢いで深く眠った。だが、酔いによる頭痛と振り払えない心の錘のために、朝早く目が覚め、そのまま寝付けなかった。
思い切って着替え、外に出た。
朝の清らかな空気の中、黄土で壁を築いた家々を通り抜け、犬の吠える声があちこちで起こるのを聞きながら、ダリの県城の裏山に登った。
その突端には、馬に跨ったケサルの大きな像がある。
今にも雨が落ちて来そうだった。夜露に濡れたタルチョは垂れ下ったまま静止していた。
裏山の麓の小さな街が目覚め始めた。一つ一つの小さな家からうす青い炊事の煙が立ち昇っている。
そして私の前方には、黄河が遥かな地平線から朝の空気に滲むかのように流れて来る。ほの暗い天の光を映しながら。
ゆったりと流れる水面は時折り光を放ち、硬い金属のようでもあった。
ここを去る時が来た。
山を降りる途中、私は何度も英雄の白い像を眺めた。
わずか数日のゴロクで見た三つ目のケサル像だった。
そう、ここ去る前から、今日書き上げたばかりのこの文章にはすでに題名があった。
「果洛(ゴロク)のケサル」である。