塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来 「果洛のケサル」 ③

2013-05-27 11:12:05 | ケサル

―果洛(ゴロク)の記―   その3



 会議が終わると、以前教えを受けた「永遠に描き続けるケサル画家」の称号を持つ友人が訪ねて来てくれた。
 彼は有名なチベット医で、同時に、ケサルを題材とした優れた絵画を数多く生み出している。彼は絵画によってケサルの物語の中の多くの人物を生き生きと描き出し、そこには史詩の中の遥か昔の宮殿、服装、兵器までもが当時そのままに再現されているという。

 彼は私の手を取って言った。
 「私たちは皆、あなたの作品を読みました。彼らは少し意見があるようですが、でも、とても素晴らしかった」

 「彼ら」と「私たち」は、ここでは同じ意味なのだと推測できた。

 私は尋ねた。「それは私が書いたものと、元々の物語が異なっているからですか」

 彼は少し笑って、別れを告げた。

 夜、眠れなかった。これまでにない生々しい経験をしたためだった。
 
 この経験の衝撃とともに、私のゴロクの旅は始まった。
 新たな経験を思いながら、灯りの元、今回手に入れたゴロクとケサルに関する文章を読んだ。
 旅の間、ケサルの語り部や様々な人に会うごとに、それとなく、簡単な雑談に交えて尋ねてもみた。
 

 たとえば「あなたが語る物語は本当のことなのか」
 たとえば「ケサルは実在の人物なのか」


 彼らはみなあっさりと笑って答える。
 「もちろん実在の人物です。当然のことです。そして、後に神になったのです」

 そこで私はこの古い物語が繰り広げられた、人と神の間に横たわる遥かな場所をあちこち歩き回った。

 ある宮殿はケサルが建てたものだった。ある湖は彼の妻が傷心の日々を送った場所だった。巨大な氷河が動いた後に残った岩は英雄の兜だった。黄河の岸辺の草原はリン国の民がかつて遊牧した場所、そして英雄が妖魔を降した戦場だった。

 黄河と丸い丘の間の草原は史詩の中に語られている「ケサル競馬で王になる」の地形とまるで同じだった。吟遊詩人はこの風景の中に身を置いて、目の前に広がる大地の力によって、あの壮大な場面を新たに構築したのではないか、と誰もが振り返って思うだろう。

 ゴロクで、プロの劇団がミュージカルによって「ケサル競馬で王となる」の時代を再現しているのを見た。また、広場の舞台では高校生たちが古いチベット劇の形でこの偉大な物語を演じていた。
 物語と現実がこのように融合しているのを見て、私は理解し始めていた。新しい友人たちが何故ケサルという千年を越える物語を歴史上の事実だと信じたがっているのかを。

 ゴロク最後の日、黄河上流の二つ目の県、ダリに着いた。
 
 夕飯の後、細かい雨が降り、間もなく夕焼けが現れた。

 主人の招きに応じて河辺の草地にある宮殿のようなテントへ行った。これもまた遥かな古代を模して再現したものに違いなかった。
 私たちは飲み、語り、歌った。こうして新しい友人と再び交流した。

 彼らとの交流と専門の学者たちとの交流は少し違う。ここではそれは知識によるのではなく、深い情感、篤い信仰によるのだった。

 史詩の輝やかしい時代の後、まるで長い悪夢のように、青蔵高原は長期に渡る停滞期に入った。
 それは、閉ざされていた知識の門が突然の大音響と共に開き、世界が一気になだれ込み、押し留められなくなるまで続いた。

 その時人々は、ケサルの時代のように、自らを拡大し、世界が押し寄せるのを待つのではなく、自らが理想を胸に勇敢にその中に進んで行こうと強く願った。

 馬上の英雄の時代はあっという間に終わった。
 愚かな人間たちは玉座に君臨する者に導かれ、自分たちが生きる場をマンダラの様に荘厳で完全で総てが満たされる世界にしようと考えた。祈祷と瞑想をすれば、くるくる回るマニ車がすべての有情の者を世界の美しいあの一点へと連れて行ってくれるような世界。

 だが、世界の美しい場所は、自分たちの魂を宿す肉体の目では見ることができなかった。見えたのは伝説の中の輝かしい英雄時代はもう現れない、ということだった。

 この意味から言って、ただこの地の新しい友人たちだけが、歴史でありながらかなり修飾された英雄史詩を歴史そのものと信じたがっている、というわけではないのである。
 たとえ、私のような筆を執れば自分が虚構と想像の世界に入ると知っている小説家であっても、幻想に導かれて希望や超現実の夢を描かないわけではないのである。英雄について、ロマンについて、個人と群衆の精神の広がりについて。
 そのため、私はこれらの友人達の主張と思いを理解するのである。

 その深夜、友人が少し酔った私をホテルまで送ってくれ、私たちはまたしばらく語りあった。

 話題は依然としてケサルという大きな物語の樹についてだった。
 チベット民族の口承文学の中の英雄伝について、それは果たして確固とした史実なのか、または、英雄の再来を渇望するあまり想像の世界で膨らんだ虚構なのか――文芸の虚構は偽りではないし、事実にも基づいているのでもない。長い喪失の後の強烈な情感を偽りなく表すものである。

 このような意味から言って、たとえケサルの物語がすべて真実だとしてそれが何なのだろう。われわれのこの凡庸で英雄的気概に欠けた時代にとって、たとえこの史詩の語るもの総てが確かな事実だとして、すでに虚構と変わりはないのである。

 その夜、酒の勢いで深く眠った。だが、酔いによる頭痛と振り払えない心の錘のために、朝早く目が覚め、そのまま寝付けなかった。
 思い切って着替え、外に出た。

 朝の清らかな空気の中、黄土で壁を築いた家々を通り抜け、犬の吠える声があちこちで起こるのを聞きながら、ダリの県城の裏山に登った。
 その突端には、馬に跨ったケサルの大きな像がある。
 今にも雨が落ちて来そうだった。夜露に濡れたタルチョは垂れ下ったまま静止していた。

 裏山の麓の小さな街が目覚め始めた。一つ一つの小さな家からうす青い炊事の煙が立ち昇っている。
 そして私の前方には、黄河が遥かな地平線から朝の空気に滲むかのように流れて来る。ほの暗い天の光を映しながら。
 ゆったりと流れる水面は時折り光を放ち、硬い金属のようでもあった。

 ここを去る時が来た。
 山を降りる途中、私は何度も英雄の白い像を眺めた。
 わずか数日のゴロクで見た三つ目のケサル像だった。

 そう、ここ去る前から、今日書き上げたばかりのこの文章にはすでに題名があった。

 「果洛(ゴロク)のケサル」である。








阿来 「果洛のケサル」 ②

2013-05-21 18:50:27 | ケサル

  ―果洛(ゴロク)の記―   その2


 あれほど多くの美味な料理も私の喉を詰まらせなかったのに、この問題で私は言葉を詰まらせた。

 突然降り始めた雨はこの瞬間、止んだ。ハエが一匹テントの中をウオンウオンと飛びまわっている。
 今度は私が気弱になる番だった。
 「では、あなたたちは……ケサルの物語は真実だと思ってるんだね」

 「私たちはただ、先生が物語を作り上げ後では、この地以外の人たちがケサルの物語も虚構だと思うのではないかと心配なのです」

 私は理解した。
 そう、歴史上本当にケサルのような真の英雄は存在したのだ。それは、青蔵高原で勢力を誇っていたトバン王朝が倒れて後、高原に群雄が並び立ち、勢力を争い、互いに侵略しあう混乱の時代に、敵地を占拠したの首領であり、群雄を統一した強国の王であったのだ。
 だがこの英雄は、歴史の本の中では特定化されなかった。彼の業績は韻文の方法で千年歌い継がれた。
 歌い継がれた歴史は、すべての歌い手と聞き手が共に関わった芸術創造の歴史でもある。

 この特定化されなかった物語は、歌われるごとに誇張され、演劇的になっていった。
 絶えず変化していく口承の物語の中で、居並ぶ群雄のいくつかの業績が徐々に一人の人物の上に集まっていったのである。

 この物語がある程度の形を持ち始めた頃、仏教はまだ後世のように、深く全面的に青蔵文化を覆いつくしてはいなかった。
 だが、物語の樹は日ごとに枝葉を茂らせ、仏教の考え方が絶えず注ぎ込まれ、いくつかの版本は、宗教理論を大衆に伝え諭すための物語となっていった。

 千年が過ぎ、この物語は一つの部落史、一つの小さな王国の英雄伝からチベットの百科全書へ変わっていった。地理、歴史、風習、自然概念、感情、神の系図…そこに含まれないものはないほどに。

 私は思う。これらすべては作り物だ、と。

 だがここ数年、この詩史に深く関わるほどに、まだ本当には理解出来ていないと感じるようになった。
 そのため、この小説への取り組み方はこれまでとは完全に違ってしまった。これまでは、一つの題材を書き終わると、すぐにそこから離れ、次の新しい土地を求めた。だが、今回は創作が終わった後もまだそのままそこに深く関わっていようとしている。今回のゴロクの旅もこの思いの続きである。現地の役人がこの文化的な題材を産業化し開発しようとしているというのも、私にとって新鮮な話題だった。

 そして、今回の思いもよらない会話は、私に新鮮で想像したことのない知的空間を与えてくれた。

 今なら分かる。ゴロク―伝説の中でケサルが作り、空前の強国としたリン国の核心地帯では、多くの人々―それがすべてなのか一部なのかはわからないが、彼らは史詩が語る物語は歴史的な事実であると考えているのである。
 そして、彼らは私のような現代の小説家が、史詩の基礎の上に物語を作り上げることで、この物語の真実性が損なわれるのではないかと心配している。

 私は初めてこのような思いを聞いた。

 私は自分を弁護しなかった。私はただ驚きに捉えられていた。
 たとえ弁護するのがとても簡単なことだったとしても。一般の文芸発生の基本原理によって。あるいは、この題材そのものから述べる、専門家と同じ見解によって。
 だが、ここでは、多くの問題は抽象的な道理に基づくのではなく、強烈な感情に基づいているのである。

 私はあまり筋道の通らない、懸命な言い訳をしただけだった。
 私の作品がどんなに些細なものであるか、であるから、ケサルという偉大な史詩はいささかも動じることはないのだ、と説明した。これもまた、祖先の豊かな遺産の中から啓示を受けた、物書きとして当然の謙遜ではあるが。

 私の懸命な言い訳の後、一人の友人が言った。彼は、私のこの考え方を文章にして、虚構が史詩の真実性を損なうのではと心配している人々に伝えようと提案した。

 これを聞いて私は推測できた。
 このように心配している人は少数ではなく、もしかしてケサル物語の核心地帯の一つであるゴロクだけに留まらないかもしれない。

 私は知っている。私たちは善意からお互いを理解しようとしているだけで、この短い時間にお互いを説き伏せることなど出来ないことを。

 このような問題を抱えて、私は午後のシンポジウムに参加した。







阿来 「果洛のケサル」 (2011.9.12)

2013-05-19 22:47:01 | ケサル

 
  ―果洛(ゴロク)の記―   その1


 テントでの昼食だった。
 茹でた羊肉、血のソーセージ、茹でた牛肉、腸詰、チベット式のパン。青蔵高原の遊牧地である草原では、場所が変っても献立の中身はほとんど決まっている。食欲が掻き立てられ、あっという間に腹いっぱいに収まった。

 テントのある草地は、河の流れに囲まれて半島のようになっている。私は渓流をまたぎ、花の咲いている草地で写真を撮った。
 高原に帰って来るたびに、友人たちはみな言う。「また花を撮りに来たのか」。

 確かに、高原に上がって来る時はいつも他の事で忙しいのだが、ほんの少しの暇を盗んではめずらしい花をカメラに収めていく。
 今回は口も聞かずに料理をかきこんで時間を作り出した。

 私の健康を気にかけてくれる人たちから、良く噛みゆっくり飲み込めば太らないとの指導を受けていのだが、高原に来ると、草花の誘惑が脅迫観念のとなり、がつがつと飲み食いし、主人が気をそらしている隙にテントを抜け出し、油でベトつく手でカメラを構え、草地をあちこち巡り歩くのである。

 リンドウ科のオオバリンドウと菊科のウスユキソウは撮ったことがあるので、もう一種のリンドウを探すことにした。
 まもなく、小さな流れが曲がるあたりで小さな紫色の光が目に入った。果たして、直径1cmにも満たない、赤の中に青が滲み、青の中に紫が透けて見える小さな花を見つけた。草の上に腹ばいになり、心を落ち着け息を止め、マクロレンズでこの美しい精霊を観察した。

 複雑でいながら単純でもある形態を彩る色彩は、今にも幻と化してしまいそうである。
 その色は青蔵高原の単純な複雑さを現わしてもいる。
 そんな色彩が舞い散ってしまうのを恐れ、そっとシャッターを押した。彼らを一つ一つカメラに収め、大切に残しておく。

 この時私は改めて自分のしていることの意義を肯定できた。
 青蔵高原の、まだ知られていない、意識するしないに関わらず常に見落とされてきたものを、はっきりと示すことが出来るのだから。    
 高原の強烈な日の光が、やわらかく私の背中を温め、衣服を通り抜けて体の中にまで沁み込み、幸せな感情となって胸の中で踊っている。まるで私の心の揺らめきに答えるように、大粒の雨が何の前触れもなく空から落ちてきた。私は雨粒がどのように草の上に落ち、太陽の光に輝きながら、レンズの前で散って行くのかを見ていた。


 その時一人の美女が小川のほとりまでヨーグルトを届けてくれた。ヨーグルトが出るということは宴会も終わりに近づいたということだ。西洋料理のデザートのように。

 私はテントに戻った。
 客人は次々に去って行く。街のホテルで休むのだろう。
 私も客人の一人である。招きに応じて、どのようにこの地の文化遺産を産業として開発するかという会議に参加していた。ゴロクでは民間に広く伝わるケサルの史詩は文化遺産の核心である。そのため『ケサル伝』という小説を書いた作者として、招きに応じてやって来たのである。 会議の参加者たちは帰って休み、私は残って更にもう一杯ヨーグルトを味わった。地元の人たちも一緒だった。雨がぱらぱらとテントの上に落ち、私たちは話し始めた。

 きりっとして色黒の高原の男たちの顔には控えめな微笑が浮かび、語り口もとても柔らかかった。
 帰らなくてよかった。おかげでこうして知己と交われた。もしかしてこのおしゃべりがこの旅の最も大きな収穫だったかもしれない。
 雨はテントの上に落ち、その中で、控えめで気遣いのある言葉を聞いた。

 「先生の作品を読みました。とても素晴らしかった。でも…、ただし…」
 私は瞬間どきっとした。すぐに姿勢を正し座りなおして、言った。
 「どうぞ、どうぞ続けて」。心の中はかなり動揺していた。

 「先生の作品は虚構の部分が多いです」
 ほっとした。
 「小説というものには当然虚構が必要でしょう」。虚構の能力とは想像力で、作家としての本領の見せどころである。
 
 「先生は、アクトンバにケサルの夢の中へ入って話をさせましたね」

 チベット族の民間口承文学には完全で膨大な二つの系統がある。一方の主役はケサル。アクトンバはもう一方の物語の系統の主役である。
 この二人の輝ける、だが、交わることのない人物を夢の中で引き合わせる。私はこれを自分の小説の中の白眉だと自認している。
 彼らがこのことに触れたのはまさに私の思う壺で、一気にヨーグルトを飲み干し、滔々と語ろうとした。
 だが、彼らは私にその機会を与えてくれず、そのまま彼らの意見を話し続けた。

 「虚構?でもこの物語は本当のことなのです」
 「どの部分が本当のことなんだろうか」
 「ケサルの物語は真実です。すべて歴史の中で本当に起こったことです」
 「先生が、このようにたくさん作り事を書かれて、私たちは心配しています」
 
 
 「心配?なにが心配なのかね」
 「作品の中には作り事が多く、そして先生の作品は多くの人が読みます。その後でケサルの物語を聞いたら、誰もがケサルの物語が真実とは思わずに、すべて作り事と思ってしまうでしょう」
 
 「…」





*********************




宮本神酒男氏の「チベットの英雄叙事詩 ケサル王物語」がどんどん進んでいます。
リン国の王を決める競馬大会の真っ最中。不思議なエピソードが語られていきます。
ぜひご覧ください。





ケサルが生きたのはどんな時代なのだろう 3

2013-05-01 22:54:31 | ケサル
 

 はるか昔、チベット族の祖先は、雪山に囲まれ、雄大で美しい領域に住んでいた。人々は穏やかに仕事に励み、仲睦まじく、幸福に満たされて暮していた。
 突然、どこからか罪深い妖風が吹いてきた。この風は罪悪を運び、魔物を伴ってチベットのこの平和で穏やかな地方に吹いて来た。晴れ渡っていた空は陰り、柔らかな緑の草原は黄色く枯れていった。善良な人々は邪悪になり、もはや互いに助け合うこともなく、愛し合うこともなくなった。
 瞬く間に、四方で兵が起こり、至る所で戦いののろしが上がった。


       **************


 中国語版の『ケサル全伝』(降辺嘉措・訳)はこのように始まる。
 このように短く描かれている場面を、阿来は、前回ご紹介したように、その十倍もの言葉を用いて、凄烈な世界を構築している。救いようのない世界を。
 支配し支配され、更に自分の中に居る妖魔と終わりのない戦いをしなくてはならない世界。
 古代奴隷制時代のチベットとも、現在のチベットとも、そしてどの時代のどの国のこととも想像可能な世界である。

 家馬と野馬の関係については、長編小説『空山』でも、語られている。


 「見ろ。人間を分類し始めてから、この世は平穏でなくなった」……
こういう言い方ははるか昔の伝説に起源がある。……この伝説は、実際には大渡河上流の渓谷の部族史である。この伝説は最初からため息と憂鬱な調子で始まる。その頃は家で飼っている馬と野生の馬の区別が始まったばかりだった。その後家畜としての馬を手なずけ、調教する技術によって、人間に知恵と力の区別が生じた。これは天が作りたもうた男女の区別以外に、人間が自分で作り出した最初の区別だった。この区別が生じてから、この世には混沌という調和が失われ、様々な紛争へと発展して、そのために憎悪や不安が生まれた。
 この伝説の観点からすれば、いわゆる人類の歴史なるものは、人間の区別を進める歴史である。(山口守訳)

 『ケサル王伝』でケサルと語り部ジンメイが生きていくのはこのような世界である。
 英雄と崇められるばかりのケサルとは一味違ったケサル像が浮かび上がってくることだろう。

 


 山口氏の『空山』の解説の中に阿来の言葉が引用されている。


 「私が関心を持つのは文化の消失ではなく、時代が急激に変化する時に適応できない人間の悲劇的な運命だ。そこから慈悲が生まれる。この慈悲こそ文学の良心である」



 変化に適応できなかった者とは、支配される者のことでもあるだろう。
 阿来の作品の主人公はみなこの悲劇的な運命を背負っているように見える。それを慈悲の筆致を用いて記録するのが阿来の創作である。

 
 ケサルの物語は11世紀ごろ生まれた、と前回書いたが、それは物語の形がある程度定着し、一つの作品になったということだ。
 
 7,8世紀の吐蕃の時代に導入された仏教は、吐蕃の崩壊と共に廃れた。それから百年ほどが経ち、地方の氏族が割拠する中から新しい国が生まれようとしていた。その一つが、王家の血を引くテディによって、今の西寧のあたりに起こった青唐王国である。
 テディはギェルセー(仏)とも呼ばれ仏教を擁護し新しい国を築いた。それは4代ほど続いて消滅していくのだが、仏教は小さな集団がそれぞれの氏族の保護を仰ぎ、いくつかの新しい宗派を作っていった。
 
 混乱した時代からようやく落ち着きを取り戻した時、仏教的要素を沢山取り込んだケサル物語が生み出されたのではないだろうか。


 当然、ケサルの物語はそれよりはるか昔から語られていた。
 ケサルの末裔を自ら任じるゴロクの人たちによれば、3000年伝えられてきたという。原始的な風習やボン教の神々が活躍する世界。
 私は中国語版しか読めないが、様々なバージョンを持つチベット語版では、土着的な命の匂いが漂ってくる、より豊かで生々しい世界が語られている。

 そのゴロクの人たちは、阿来の描いたケサルをどのように受け止めたのか。
 次回は、阿来のブログからご紹介したいと思います。


     ***********************

 山口守氏による『空山』の解説はとても素晴らしい。おそらく日本で始めての阿来論であり、これを読むためだけにでも、『空山』を手にする価値はあると思われる。

 また、宮本神酒男氏によって、本来の味わいを大切にした詳細な訳による『ケサル物語』が進められている。
 こちらもぜひご覧ください。