塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 67 物語 競馬で王となる

2014-09-30 00:50:26 | ケサル

物語:競馬で王となる その4




 賢いジアンガペイフは、主人が手綱を少し挙げただけで、四本の脚に風を孕み、まるで電光のようにすぐに老総督に追いついた。
 ジョルは親族の序列で呼んだ。

 「叔父上」

 老総督は規律を重んじる人物である。すぐに彼に意見を始めた。

 「血縁から言えばワシはお前の叔父だ。だが、それは身内の中だけで使うべきだ。
  このような公の場では総督と呼びなさい」

 ジョルは速度を緩め、言った。

 「私の考えも聞いてください。
  競馬が始まって、リンの古い秩序は取り払われました。誰かが金の王座を獲った時に、改めて新しい序列が作られるんです。
  だから今は叔父上と呼ぶしかありません」

 老総督ロンツァは思わずうなずき微笑んだ。
 「やはり天から降った神の子だ。このような道理を語れるとは。
  さあ、早く馬に鞭を当て、行くのだ。王位を獲り、天の意志と民の思いを成し遂げるのだ」

 ジョルは老総督に、もし自分が王位に就いたら首席大臣になって欲しい、と言おうとした。
 だが、総督ロンツア・チャゲンがジョルの馬の尻に鞭を一つ入れると、ジャンガペイフは弓から放たれた矢のように走り出し、ジョル乗せて、いとも簡単にトトンの玉佳馬の前まで走り付いた。

 トトンはこの時早くもリンの英雄たちを遥かに引き離していた。
 彼の玉佳馬は走り出すと四本の足が風を生む。並の人間が乗れば頭がくらくらして眩暈を起こすだろう。
 だが、彼は神通力を使って何事もない様子で、まるで地面にいるようにどっしりとしていた。

 競馬の終点古熱山が丸い兜のように目の前に現れた。

 トトンはこれまでずっと先頭を一人走っていたが、この瞬間、黄金の王座が目の前に見えたような気がした。
 実は、トトンはジョルを有力な相手と見做していた。だが、戦いが始まろうとした時に奇怪な身なりのジョルを見ただけで、その後は影も形も見えない。

 今、自分一人、他を引き離し、山の中腹に置かれた金の王座を目の前にしている。
 馬頭明王の予言は間もなく実現される。絶世の美女ジュクモが自分のものになる。古熱山の宝の蔵の門も間自分のために開かれる…

 体が軽くなり空にいるような気がした。姿を見せず行き来する仙人のように。

 彼の心はどこまでも飛び続け、未来まで飛び、王を名乗った後のありとあらゆる威厳に満ちた自分の姿を見た。

 まさにその時、後ろからハアハアという息遣いが聞こえた。
 振り向くとジョルが息をあげながら近づいて来る。あと数歩も走れば馬の背から転げ落ちそうだ。

 トトンは笑った。

 「たとえお前が全ての力を出し切っても、金の王座ははるかに遠いぞ。
  だが、ワシの可愛い甥よ。お前はつわもの者たちをはるかに引き離して来たのだ。将来城で仕える時は一番前を歩かせてやろう」

 ジョルは知っていた、自分の馬鹿な振りがまた野心漫漫の叔父を刺激しているのを。
 そこですぐに軽快な動作で鞭を一振りした。

 トトンには傍らを一筋の光が掠めて行くのが見えただけだったが、次の瞬間、ジョルと彼の神馬はずっと先を走っていた。
 トトンの得意気な様子はあっという間に消え失せ、絶望した彼は怒りのためもう少しで血を吐きそうになった。

 気を鎮めると、トトンは障碍の法を施した。
 だが、天馬は一筋の強烈な光に姿を変え、トトンが瞬時に張り巡らした目隠しの黒い壁を通り抜けた。かえって彼自身がその強い光に当たって目の前がまっ黒になり、体がふらふらして、もう少しで馬から落ちるところだった。

 こうなれば仕方ない、彼は玉佳馬を鞭打ち、懸命に前へと進んだ。
 山の中腹まで来ると、金の王座は目の前だった。
 あと十数歩進んで馬から一踊りしたら、金の王座にピタリと尻がおさまりそうだった。

 不思議なことに彼の前を走っていたジョルの姿が見えない。
 あの小僧は馬に乗り慣れなくて、到着しておきながら乗っている馬を制御できず、闇雲に走り回る馬に山の向こうへ連れて行かれたのだろう。

 彼はごくりとつばを飲み込んで、両足で馬の腹を挟み、前に進ませようとした。
 だが、玉佳馬は空を蹴りながら体は逆に後ろへ下がって行く。

 近づいて来るべき金の王座が遠のいて行くのを見て、トトンは驚き叫んだ。

 だが、彼がどんなに手綱を引き締めても、玉佳馬が後ろへ下がるのを停められなかった。
 そこで転がるように馬を降り、自分の足で王座に向かおうとした。
 玉佳馬は後ろで悲しげに啼いている。

 それを聞いたトトンは堪え切れず、振り向いて言った。

 「玉佳よ、どうしようもないのだ。ワシが王位を獲ったら戻って面倒を見てやるからな」
 玉佳馬は足の力が抜けて地面にへたり込んだ。

 トトンは手と足を使い、目と鼻の先の王座に向かって這って行った。
 だが彼が少し前に行くと、王座は後ろに退き、どうしても手を触れられず、永遠に辿り着けそうもない。

 必至であがいている時、ジョルの笑い声が聞こえた。
 恨めしさと恥ずかしさが怒りに変わった。

 「卑しい乞食坊主!ワシを馬鹿にするのか」

 「高貴な身分の叔父さん、それは私のことですか」

 「何故競馬の最中に法術を使うのだ」

 「それはおじさんが私に掛けた障碍の術でしょう。私は叔父さんに術を使ったりしてませんよ」

 「では、なぜワシはこんなに懸命に走って来たのに王座に辿り着けないのだ」

 「それは天の神が下した罰です。
  叔父さん、私とジアンガペイフは王座の周りをもうニ回廻りました。
  でもまだ座わっていません」












阿来『ケサル王』 66 物語 競馬で王となる

2014-09-25 02:33:30 | ケサル
物語:競馬で王となる その3




 鞭を当てるまでもなく、ただ首を軽くたたいただけで、天馬・ジアンガペイフはすぐさま全力で疾走し始め、気が付くと、雷鳴が轟いているかのような馬の群れの中にいた。
 の名高い占い師が馬を駆って王位を争う隊伍の中を走っているのが見えた。

 ジョルは速度を緩め、占い師と馬を並べて進んだ。
 「占い師殿、あなたは自分のことを占ったのですね。でなければ、こんなに懸命に馬を走らせたりしないでしょう。金の王座があなたを呼んでいるのですか」

 占い師は速度を落とさないばかりか、馬に二回鞭を当て、息を荒げながら答えた。
 「自分を占うものは両の眼が盲いるのだ。そうでなければ、とっくに占っている」

 「占い師も英雄と同じように、周りの国々を征服し、統治できるとお考えですか」

 占い師は笑った。
 「お前がこの馬の群れの中を走っているのも、あの魅力的な王座のためではないのか」

 ジョルは声を高め、天の母が競馬の策を授けた時に言い出せなかった疑問を口にした。

 「教えて下さい。
  インドの法王の宝座、漢の皇帝の龍の椅子、そして多くの国々の王位。そのどれもが競馬によって決められることなどないそうです。
  それなのに、ここでは馬が早いものが王になり、馬が遅いものが仕えるものになる。
  これはおかしなことではないでしょうか」

 「漢の地にはこんな言葉がある。
  馬上で天下は治められなくとも、馬上で天下を獲ることは出来る、と」

 「あなたも天下が獲りたいのですね。自分を占えないなら、私を占ってください」

 「こんな時に、のんきに尋ね事をされるとは」占い師は耐えきれなくなっていた。

 「私が競馬に勝利して王になれるのか聞きたいのです」

 占い師は大笑いした。
 「矢がまだ放たれない時であれば、的に当たるかどうか聞いても構わない。
  だが今、矢はすでに放たれた。わしより優れた占い師でも占いのしようがないだろう」

 言い終ると、彼は馬を鞭打って前へと駆けて行った。

 ジョルはニヤリとして、占い師が矢が届くほどの距離まで駆けた時、手綱を振り上げると、ジャンガペイフは飛ぶように占い師を追い越した。
 追い越す時、ジョルは一言言葉を投げかけた。

 「優れた占い師殿、あなたは肝心な所でいい加減なことを言わなかった。
  もし私が勝利したら、私の占い師に任じましょう」

 この時、高名な医者も馬に乗って前へと駆けているのが見えた。
 だが彼の馬は今にも力が抜けて倒れそうだった。

 そこで、ジョルは一声叫んだ。
 「優れた医師殿、薬袋が落ちましたよ」

 医者は即座に手綱を締めて馬を停め、薬袋がしっかりと鞍に縛りつけられているのを目にすると、さっと怒りの色を現わにした。
 それを見たジョルは笑いながら言った。

 「あなたの馬が疲れて果てて直ぐにも倒れそうに見えたのです。少し速度を緩めたほうがいいのでは」

 医者も笑い返し、速度を緩め、ジョルと轡を並べて進んだ。
 ジョルが言った。

 「先生、あなたはどこか悪いところがあるのでは」


 医者は言った。
 「病のない者に病だと言うのは、悪意を持った呪いをかけるようなものだ」

 「では私に病があるのかもしれません」

 「どんなに奇怪な身なりをしても、そなたの目はすっきりと澄んでいる。患ってなどいない」

 「いえ、病があるのです」

 医者はそれを真剣に受け、王位を争うことなど全く忘れたように話し始めた。
 「ジョルよ、人の病は風、胆、痰に分けられ、病の原因は貪ぼる、怒る、迷うことにある。この三つのものが互いに交わりあい、四百二十四の病を生んでいる。
  そなたは病の元もなければ、病の相もない。早く馬を駆ってそなたの得るべき宝座を獲りに行きなさい」

 「あなたは自分が王になれないと知りっているのですね。
  では、なんで馬に鞭当て走っているのですか」

 「わしだとてリンの人間の一人なのだ。
  自分の名を高めずして、どうしてこれからのリンに心置きなく身を寄せていられようか」

 ジョルは馬に先を急がせながら、言葉を残して行った。

 「もし私が王になったなら、あなたはリンの王家の医者になるでしょう」










阿来『ケサル王』 65 物語 競馬で王となる

2014-09-22 20:27:33 | ケサル
物語:競馬で王となる その2




 この時、競馬に参加する総ての乗り手は阿玉底山の麓に一の字に並んだ。

 法螺貝の音が響き、僧と法師は祭壇で木の枝を焚き、ウェイサンの儀式を始めた。
 競馬を見守る護法神と山神はすでにこの地に降っている。

 人間界ではなく、雲の上から太鼓の音が聞こえ、空から一本の矢が放たれた。
 矢が地に刺さるやいなや雷鳴が轟いた。競馬の始まりの合図である。

 リンの勇士たちが手綱を緩めたその瞬間、彼らの後ろからすぐさま黄色い土埃がもうもうと舞い上がる。
 その埃がまだ消えないうちに、馬の群れはすでに麓の大きな曲線を曲がり姿を消していた。

 戦いの始まりから、トトンと玉佳馬は先頭を駆けていた。

 ギャツァは馬に鞭を当てながら、風のように駆けて行く馬の群れの中に弟の姿を探した。
 ジョルは一番後方にいながら、平然として空の一角にある羊ほどの黒い雲を見上げている。

 雲は見る見るうちに大きくなり、馬の群れが矢を三度放った距離を走った頃には、空一面を覆っていた。
 雲の中では雷がゴロゴロと鳴り、稲妻が巨大な蛇のようにのたくり、続けて霰が降って来た。

 競馬は中断された。

 山の上で法を行った僧が、神の加護を祈るばかりで、この地の妖魔に供え物をしなかったため、阿玉底山に住む虎の頭、豹の頭、熊の頭の三匹の妖魔を怒らせてしまったのである。
 虎の頭は怒って言った。

 「リンの奴らは我々の縄張りで競馬を始めた。後ろ足で闇雲に地を蹴り、前足は伸ばし放題。
  賞品を奪い合って、山中が土埃だらけだ。それなのに、何の挨拶も貢物もないのか」

 「そうだ、あいつらの勝手にはさせないぞ」

 「奴らに目にもの見せてやろう」

 そこで三匹は同時に呪いを唱え、大きな霰で競馬に群がる人間たちを追い払おうとした。

 ジョルは早くからこの総てを目にし、空の霰が降るか降らないうちに、神の縄を後ろの山の頂に投げると、三匹の妖魔は縛りあげられ馬前に引きずり出された。

 三匹の妖魔はジョルの姿を目にし、天から降った神の子が参加していることを知ると、その場で過ちを認め慌てて悔い改め、貢物などとは一言も口にしなかった。

 その様子を見てジョルは言った。
 「このような喜ばしい日に、お前たちの命を取ったりしない。すぐさま雲と霰を収めるのだ」

 三匹の妖魔がそれぞれに「はい」と答えると、雲はたちまち消え去り、太陽が前にも増してキラキラと明るく輝いた。

 こうしているうちに、山の女神がふわりふわりと降りて来て、ジョルに鍵を渡した。
 ジョルはおかしそうに言った。
 「私が競馬で勝利したら王位と妃が手に入るのです。あなたたちの蔵を開けるなんてことは致しません。」

 女神は言った。
 「王になるにはたくさんのお金や物が必要です。
  見た所あなたは金目のものはお持ちでないようですね。
  そこで神山の宝の蔵を開ける鍵を持って来ました」

 それを聞いてジョルはやっと真面目に感謝の言葉を述べた

 女神は言った。
 「さあ、のんびりしていてはだめですよ。あなたは、はるか後方にいるのですから」














阿来『ケサル王』 64 物語 競馬で王となる

2014-09-20 18:13:01 | ケサル
故事:競馬で王となる その1




 リンの競馬大会が始まった。

 リンの各が設けたテントが黄河のほとりの草原を不夜城に変えた。

 ダロンの首領トトンと彼の息子トングとトンザン、そしての勇士たちがやって来た。
 顔を高く挙げしっかりと前を見据えている。トトンの玉佳馬は、その中に天下無双の姿を現していた。
 彼らにとってこれは競馬ではなく、ダロン部が雄を唱える盛大な式典だった。

 長系の九兄弟を首とする勇士たちがやって来た。
 黄色い錦の衣装を纏い、金の馬具が金色の陽光の下、並外れた気概を示している。
 彼らから見れば、リンの王位は氏族の本家の子孫が座るべきものであり、それぞれが腕を見せようと自ら勇み立ち、自信に満ち溢れていた。

 仲系の八大英雄を主とする者どもが現れた。
 全員が白い鎧兜、白い衣装に白い鞍で馬を駆って会場になだれ込んで来る様子は、まるで天から降りしきる雪のようだった。

 幼系の勇士たちもやって来た。
 青い兜に青い衣装、方陣を組み、まるで瑠璃の高殿のようだった。
 その中心には総督ロンツア・チャケンがいる。
 彼はすでに今回の競馬大会はジョルをリンの王位に登らせるためだという事を知っていた。
 傲慢なトトンのように馬頭明王の予言を妄信するようなこともなく、長系と仲系のように王位を獲ろうと奮い立ち手ぐすね引いているのでもなかった。

 彼らは早くから出発地点に馬を牽き、有り余る力を無駄にたぎらせ、興奮して落ち着きがなかった。

 総督は知っていた。王位は必ず幼系の出のジョルが獲ることを。
 幼系のもう一人の英雄ギャツァもまた人々の信望を得ていた。総督はギャツァを呼んだ。

 「お前は彼らのように急いてはいないようだな」

 ギャツァは答えた。
 「心は焦っています。弟ジョルがまだ姿を現さないからです」

 「お前には王になろうという思いはないのか」

 「私よりもリンの人々に多くの幸せをもたらす人物がいると信じています」

 老総督は長いため息をついた。
 「リンは間もなく一つの国になる。ジョルが王になった時、英雄たちがみなお前と同じように考えてくれたなら、リンは天の配慮を得て、幸いが遍く行き渡るだろう」

 「それにしても、弟はなぜまだ現われないのでしょう」

 老総督も心の中で焦っていた。だが淡々と答えた。
 「時が来れば自ら現われるだろう」

 この言葉が終わらないうちに誰かが叫んだ。
 「ジョルが来たぞ!」

 その場にいる人々の気持ちが一瞬の内に高まった。

 トトンの真の戦い手が現われた!
 玉佳馬の真の戦い手が現われた!

 ジュクモも喜びのあまり12人の姉妹の輪から抜け出した。

 彼女は興奮していた。
 今日人々の前に現れるジョルは、もはや、悪戯で皆を振り回していたこれまでのジョルではなく、精悍な天馬に跨って現われるのだ。
 その天馬は父が未来の国王に贈った揃いの馬具で飾られている。
 このように素晴らしい馬具はジャンガペイフのような神の馬のみにふさわしい…。

 ジョルの馬が現われた時、当然のこと、人々の喝さいが挙がった。
 ジュクモは身も心も軽くなって雲まで飛んで行きそうになった。

 だが、次の瞬間、人々の間に大きなため息が起こった。

 駿馬を牽くジョルは、追放された時の悪臭を放つうす汚れた身なりに戻っていたのである。
 彼は、天馬の主人のようではなく、人々に忌み嫌われる道化のようだった。

 幼系の勇士と民たちは深い失望を味わい、みなジョルから顔を背けた。
 阿玉底山の麓の出発点に向う勇士たちは彼と肩を並べて進もうとはしなかった。

 ただトトンだけがこれ見よがしに彼と親しげに振る舞った。
 競馬での勝利の鍵は我が手にあり、との確信を強めたからである。

 ジュクモはジョルがわざとそうしたのだとは分かっていたが、やはり悲しかった。
 姉妹たちはみな自分のジョルへの想いを知っている。
 それなのに、彼はこのように見るに耐えない姿をして彼女の面目をひどく傷つけたのだ。

 この時、ジョル本人はミツバチに化身して彼女の耳元でウォンウォンと歌っていた。
 だが、腹を立てたジュクモが手を伸ばして来たので、危く地面に叩き落されそうになった。
 ミツバチはこれはまずいとばかり、羽を振るわせ、打たれて弱ったふりをしながら、よろよろと飛び去った。










阿来『ケサル王』 63  語り部 競馬

2014-09-15 02:01:15 | ケサル
語り部:競馬 その2





 この時ジンメイは影から出て、頂上でその人物と向き合って立っていた。
 話しかけて来たその人物は老人で、やせ細った顔に鷹のような目が鋭い光を放ち、白い髭が黄昏の風の中で軽くなびいていた。
 誰もが語り部に対して抱くイメージそのものだった。

 老人はその姿だけでジンメイを圧倒した。ジンメイは言った。
 「お年寄り、オレの語りはあんたには及びません」

 老人はハハハと笑った。
 「お前はワシの姿だけ見てそう言うのじゃろう。だがワシは競馬の始まる前に馬や騎手を讃えることしか出来ないのだ」

 ジンメイは、如何にもそれらしいこの老人が自分とは異なった語り部なのだと知った。
 彼らは物語を語らず、ただ英雄物語の中の馬や武器や英雄の姿形、神山、聖湖、語り部の象徴である帽子を讃えるだけである。

 その声は高らかで、言葉は華麗に響き渡る。

 ジンメイは賛歌を真似て、自分の語りにも取り入れていた。
 ジンメイは老人に言った。
 「オレも賛歌を真似て喉を鍛えたことがあるんです」

 「お前は神から授かった仲肯じゃ。神がお前に語らせている。鍛錬など不要じゃ」

 「では、お年寄り、あんたは?」

 「ワシは生まれながらに声が良くてな、それで、語ることにした。
  だからワシは鍛錬しなくてはならん。一人でこの山の頂上に座っていろいろと考えているところじゃ」

 「教えて下さい。今何を考えているのか」

 「夕映えがこのように美しく輝いているのに、それにふさわしい詞がまだない。
  どれほどの煌びやかな言葉があればこの壮大な光景を表現できるのか、と考えておる」

 「あんたならきっと思いつきますよ」

 老人はゆっくりと首を振り、悲しそうに言った。

 「だが、それは変化し続けている、一瞬の間にいくつにも姿を変える。それらをとどめておく言葉がないのじゃ」

 「それは言葉が少なすぎるから…」

 「ワシには分からん。多すぎるからかもしれん」

 この時、まるで夕映えが燃え盛る力を失ったかのように、満天の茜色が瞬く間に消え、空はすぐさま黒一色になった。

 「夜の膜が降ろされた。さあ、祭りを楽しむ人のところへ行って語りなさい」

 テントはそれぞれ一つの広場を囲んでいた。どの広場も焚き火が明るく燃えていた。

 ジンメイは老人に別れを告げ、その焚き火の明かりへ向かって歩いて行った。

 草原では決まりごとがある。
 焚き火を囲んで共に酒を飲み物を食う者たちはほんの少し腰を上げ、新しく加わる者のために座る場所を作るのである。
 そうしてから、酒の椀と羊のもも肉が手渡される。
 ジンメイは二人の言葉少ない男の間に座って夕飯にありついた。

 彼は酒には強くない。
 だが、椀は何度も彼の前に回って来て、少し頭がくらくらした。

 空を見上げると、夕映えで焼かれた黒い雲はすでに消え、群がる星々が天の幕に登場していた。
 ジンメイは帽子をかぶらず語り部の旗も立てていなかったが、琴を袋から取り出し天の星の光を見上げて弦を弾いた。
 こぼれ出た音が天で瞬く星の光と呼応した。

 途切れ途切れの琴の音が人々を沈黙させた。
 夜の風が炎を揺らし、旗がなびくのに似たぱちぱちという炎の音が聞こえるほどに静かになった。

 琴の音は徐々に繋がり、伸びやかになり、勢いよく流れる谷川のように激しく雄壮に響き渡った。
 人々は小声で囁きあった。
 「あの男か」
 「あのめくらか」

 それはジンメイの耳にも届いた。
 彼は微かに微笑むと、立ち上がり空を見上げ、琴の弦を弾きながら焚き火の傍、人々の中心まで進み、歌い始めた。


  雪山の獅子王よ、

  たてがみを緑に輝かせ

  その姿を見せよ。

  

  森で戦いを待つ虎よ、

  美しい虎班を波打たせ

  その姿を見せよ。


  大海の底深く泳ぐ金の眼の魚よ、

  六枚の豊かな鰭をくゆらせ

  その姿を見せよ。


  人の世に隠れ住む天から降った神の子よ、

  機縁は至った

  その姿を見せよ。



 前奏が終わると、語り部は少し声を低くした。すると、喝采の声が聞こえた。

 ジンメイは続けて琴を鳴らす。

 今彼が聞いているのは人の声ではない。
 キラキラと煌めく星が一粒ずつこぼれ落ち琴の上で飛び跳ねる音だ。

 目を閉じると、駿馬が駆け回るのが見えた。
 千年前の物語が生き生きと目の前に繰り浮かび上がる…




 








阿来『ケサル王』 62  語り部 競馬

2014-09-11 01:51:53 | ケサル
語り部: 競馬 その1




 1、2年の間で、ジンメイはカムの大地でかなり有名な語り部となった。

 語り部は新しい名前をつけることが出来る。
 神から授かった語り部はもはや父母から生まれた時とは違う人物になった、と考えられている。彼は特殊な使命を授かった人間である。

 現代の人々は新しい比喩を作った―拡声器である。
 本来の拡声器は政府の言葉を伝える口であり、語り部は神の拡声器である。

 様々な宗派のラマたちが彼に新しい名前をつけようと願い出でたが、ジンメイは何も言わずに立ち去った。
 ジンメイは思った。自分の父母は早くに亡くなった。
 自分が元からの名を使うのは二人を覚えておくためなのだ。

 その日、彼はある町で電信柱の上の拡声器を眺めながら父母の顔を思い出そうとしたが、その面影がどんどんとぼやけてきているのに気付いた。
 彼は腰を下ろし、帽子の真ん中にある鏡を磨いたが、そこに見える景色もまたぼんやりとしていた。
 彼は笑って言った。「オレの目はどうしようもない」
 
 彼の語りが円熟するにつれて、視力は弱っていった。

 平坦な街道を一足一足と進んで行く様子は、まるででこぼこ道を歩いているかのようだった。
 年老いた女はそれを見て言った、かわいそうに。
 娘たちは彼を見て、口を隠しながらおかしそうに笑った。
 子どもたちは彼を見ると声を合わせて叫んだ「めくら!」

 「お前たちのことはちゃんと見えてるぞ。オレは本当のめくらじゃない。何でそう呼ぶんだ」

 「あの語り部だ!」

 「そう、オレはあの語り部だ」

 今、彼は自分の名前が自分より早くに行く先に伝わっているのに慣れてしまった。
 人々が「あのめくら」「あの語り部」というのは、彼のことだ。
 どこかへ着くたびに、自分の名前が先に伝わっている。

 彼がこの小さな街に現れた時もやはりそうだった。
 小学校の下校の鐘がなり、子どもたちが一塊りになって校門を出て、彼の後ろに付いて来る。

 「あんたはあのめくらでしょう!ケサルを歌ってくれよ」

 「めくらさん、どの物語を語ってくれるの」

 ジンメイは何も答えない。
 六弦琴はビロードの袋に入ったまま肩に掛かっている。こんなに埃の舞い上がる場所で語りたくなかった。
 彼は埃の上がらない場所だけで語った。

 目は良く見えないが、かすれていた喉は良く響くようになった。良くなった喉を舞い上がる埃で痛めるのは罪である。

 子供たちはまた言った。
 「あんたも競馬大会に行くんだろう。県全体の競馬大会だよ」

 彼は琴の袋を叩いて言った。
 「競馬大会はもう終わったよ。ケサルはもう王位に就いたんだ」

 村の長が現われた。
 「それは政府が開く新しい競馬大会だ。ケサルが王になったのを記念する競馬大会だ」

 村の長は他にもジンメイには分からない話をした。
 村長が話したのは文化センターの無料観劇会のことだった。

 村長はジープのドアを開け、
 「めくらよ、乗りなさい。競馬大会で語ってもらおう」

 ジンメイがためらっていると、村長は言った。

 「誰もがあんたが語る物語は最も長く最も正しいと言っているが、ただの噂じゃないだろうな。」

 「もしそうなら、故郷で羊を飼っているよ」

 「たくさんの語り部が競馬大会に向かったぞ。比べられるのが怖いんじゃないか」

 そう言われて、ジンメイは仕方なく村長の車に乗った。
 車が動き出し、草原の窪みだらけの土の道を進むと、車もまた上下に飛び跳ね、ジンメイは琴をしっかりと抱いた。

 「オレをめくらと呼ばないでくれ。ジンメイという名があるんだ」

 村長は笑った。
 「街で会議に出ると、書記はワシの名を呼ばずに“がにまた”と呼ぶ」

 彼らは昼頃村を出たが、その後、ジンメイはガタガタ揺れる車の中で眠った。
 目が覚めた時、車はちょうど輝く夕日を追いかけていた。

 ジンメイは少し緊張した。
 夕日はすでに雪山の山裾に近づき、車は追い着けそうになかったからだ。
 彼は口に出した。
 「早く、早く」

 それを聞いて村長は言った。
 「着いたぞ」

 車は小さな丘の前に泊まった。

 目の前に広がる草原には、たくさんの白いテントが臨時の街を作っていた。
 西に傾いた夕日がこの街を鋼のような藍色の光で覆っている。
 その光景は幻のようで、彼が夢の中で見た大軍の野営の情景とよく似ていた。

 ジープが公道を離れ、両側に五色の旗が立てられた競馬用の道を突き進み、最後に中心にある大きなテントの前で急停車した時、彼は前の座席の背にまぶたを強くぶつけた。
 目の前に金の星が飛び回り、同時に人々が「来たぞ、あの語り部が来たぞ」という声が聞こえた。

 ジンメイにはみんなが言っているのが自分のことだとは気付かなかった。

 「あの男がついにやって来た」というのが聞こえた。

 いつでも草原には誰かが来ては去って行く。
 あの男が来たらといってどうだというのだろう。

 彼は一人六弦琴を胸に抱き、色とりどりの旗が導く真っ直ぐな競馬場を前へと進み、そのまま歩き続け、太陽が最後の光を消す前に、谷のもう一つの丘に登り着いた。
 間もなく頂上に着くころ、人影が彼を覆った。
 その人物は頂上にうずくまり、身には黄昏の衣をまとい、言った。

 「誰もがあの男が来たと言っているがそれはお前か」

 「オレはそれが誰だか知りません」

 「誰よりも語りが優れた人物のことだ」

 「自分が他の人より語りがうまいかどうかは知りません、でも、オレは確かに語り部です。仲肯です」

 その男は笑って言った。
 「ハハハ、お前は優れた語り部のようには見えないな。だが、誰に分かるだろう。
  もし神がお前を語り部にしたのなら、その男とはお前なのだろう」








阿来『ケサル王』 61  物語 愛情

2014-09-07 02:24:40 | ケサル
物語:愛情 その2





 ジョルは何も知らないかのように言った。
 「ジュクモ、真上から陽が射しているよ。降りて来て休んだら。今が一番日差しが強い、翳ってから出掛けよう」

 ジュクモは仕方なく馬から降りて傍に座った。
 「メドナズお母様は」
 
 「母さんの馬は遅い。ずっと後ろにいる」

 「どうして付き添ってあげないの」

 「お前の馬はとても速いからね。
  もしリンで一番美しい娘がさらわれたら、老総督や英雄たちになんて言い訳すればいいのか。
  さて、娘さん、のどが渇いただろう。何か飲もう。
  ヨーグルト、チンクー酒、お茶。それともインドから来たイチジクのジュース」

 答えを待たず、初めに出会った王子の伴の者が目の前に現われ、彼が名前を挙げた飲み物を一つ一つ並べた。
 ジュクモはこの時すべてを理解し、涙を流して尋ねた。
 「ジョル、どうしてこんなふうに私を弄ぶの?あなたたち親子を追放する時、私も唾を吐き出まかせの悪口を言ったから?」

 ジョルが空に向かって手招きすると、一羽の画眉鳥がジョルの肩に降りて来た。
 口にはジュクモが王子に送った九つの結び目の着いた白い帯をくわえ、強盗に送った金の指輪がきらきら輝いて梅の枝に掛かっていた。
 ジュクモはよけいに恥ずかしくなって、
 「もともとみんな、あなたが変化して私に恥をかかせたのね」

 ジョルが勢いに任せて彼女を胸に引き寄せると、ジュクモの体は胸の中でなよやかになった。
 「娘さん、競馬の後、お前は僕の妃になるんだ。でもお前はこれまで僕をちゃんと見てなかったね」

 「私が娘になった時、あなたはやっと生まれたのよ、あの時はまん丸い顔でとても安らかだったわ。
  その後わざと醜くなって多くの殺生をしたのよ」
 
 「僕が若すぎるっていうのかい。僕の力と知恵は最早ギャツァ兄さんや30人の英雄を超えている。
  お前の美しさは同じように僕の心を高鳴らせている」

 「でもあなたにはギャツァの威厳と度量がないわ」

 「僕が醜いからか」

 「四方を服従させるつわものは堂々としていなくては」

 「そうか、お前はこういう姿が好きなんだろう」

 瞬く間にジョルは様々な英雄の姿に変化した。そのすべてがジュクモを喜ばせた。
 最後にジョルは将来王となった時の姿になった。

 ジュクモは両手を伸ばして彼の首に抱き付いた。
 「ジョル。王者は武勇の相がなくてはだめよ」

 そして、彼はまた元に戻った。
 今は特別に醜くはなかったが、やはり狡賢く軽薄な様子は残っていた。

 ジュクモは彼の手に蔓のように絡みついて放さず、だが、目には悲しみの翳が現われていた。

 「あなたが大変な仕事をするのは知っているわ。なのにどうして軽々しい様子をするの」

 ジョルはははと笑って、
 「そうか、どうして自分では分からないんだろう」

 彼の言葉はやはり軽薄だった。だがジュクモはその目に、威厳の中に何かしら悲しみの色があるのを見た。
 底なしの悲しみは娘の心を深く打った。

 「あなたの目はあなたの心の海よ。ジョル、あなたの心の宝石のように純潔な光が私を埋め尽くすの」

 この言葉はまるで電光のように、ジョルの頭からそのまま心臓まで貫いた。

 「美しく柔らかい娘よ、お前の言う通りだ。
  僕はどんなに大きな神の力を持っていても、一羽の鳥のようにお前の眼差しに射抜かれてしまうんだ」

 「あなたに見つめられていると、とても幸せなの、でも同時に、自分がとても可愛そうになるの。
  愛するジョル、私は可哀想な人間なの?」


 「お前は高貴な出の女性だ。美しさはリンで並ぶものはない。
  どうしてそんな気持ちになるんだ」

 「あなたの目で見られた人は誰でもそう感じるはず。
  天の上から人の世を見るとみなそんな眼差しになるのかしら。
  そう、思い出したわ。あなたが石の税で建てた寺の中の観音様の眼差しもそうだった」

 「菩薩の眼差し…そうかもしれないな。よく覚えてないけど」

 「あなたは本当に天から降りて来たの?」
 
 ジョルは顔を上げて天を見た。
 「よく覚えてないんだ、だが、彼らはそう言っている」

 「彼ら?」
 
 ジョルは手を振った。
 「彼らだ」

 身を隠してジョルを守っていた神の兵たちが姿を現した。
 白い兜と白い鎧の神が山の頂を占めていた。
 金の兜と金の鎧の神が別の山の頂を占めていた。
 兵たちの刀はキラキラと輝き、兜に付いた赤い房が風にたなびいている。
 ジョルが再び手を振ると、神の兵たちはまた雲の中に隠れた。

 「あなたは神よ」

 「僕は神ではない」

 「あなたは神と同じような方よ」

 「僕は神と同じような人間だ」

 「愛してるわ」

 「お前が僕を愛さなかったら、僕の神の力は消えてしまうだろう」

 この時、メドナズが追いついた。
 雁のように肩を寄せ合っている若者を見ると、思わず涙があふれた。

 「愛する息子たちよ。私を誰よりも早くお前たちを祝福する者にしておくれ」








阿来『ケサル王』 60  物語 愛情

2014-09-03 23:56:08 | ケサル
物語 愛情 その1

 天馬ジァンガベイフを手なずけたジュクモは、この馬が必ず競馬大会で主人を助け勝利に導くことを確信した。
 そうなれば、ジョルは間違いなく自分の夫となり、自分は間違いなくリンの王妃となる。
 そう考えると、思わず心に喜びが満ちて来て、ジョルへの思いもゆっくりと深まっていった。

 時には途中で出会った美しい王子を思い出したが、胸の内に微かな恨み心を抱き、この二人が同じ人物にならいいのにと思うだけだった。
 ジョルに王子の美しさがあり、王子にジョルの神の力と勇敢さがあったなら。そう考えて思わずほほを赤らめ、両手で胸を押さえた。
 そうしないと心臓が野うさぎのように飛び跳ねて止められなくなりそうだった。

 だが、彼女はそれ以上想像を逞しくすることはなかった。
 彼女の使命はまだ半分終わったばかりなのだから。
 そこで、ジョル母子に早く出発するよう幾度となく促した。

 吉日を選び、三人はすべてを整え、馬を牽いて旅立った。

 途中、楽しげなジュクモは更に美しく、見つめるジョルは危く馬から落ちそうになった。
 それを見たジュクモは銀の鈴のような笑い声を残し、鞭を当てると先へと駆けて行った。

 そのなまめかしい後姿を眺め、ジョルが突然ジュクモとインドの王子の連綿として離れがたそうな様子を思い出すと、嫉妬の心が天から降りて来て、ジョルの心臓を鷲掴みにした。

 丘を越えるとジュクモは馬を停め、ジョルに向かって精一杯甘えた笑顔を投げかけた。
 ジョルはジュクモに近づこうとした。そうすれば心の中にある魔物が起こした痛みは消え去るだろう。
 だが、彼が手を伸ばしてしなやかな腰に触れるやいなや、彼女の手の中の鞭が軽く舞い上がり、馬を急かせて走り去った。
 ただ笑い声だけを振り撒いて。

 ジョルの、もともと醜い顔は暗い空気に覆われより醜く見えた。
 天から降った神の子は大いなる力を持っていたが、この時は嫉妬に心を掴まれていた。

 こんなふうにすべきでないとは分かっていた。なぜなら、あの美しい王子は自分が変化したものなのだから。

 だが、この移り気な娘は自分を誘っておきながら拒んでいる。
 道で会った見知らぬ者、でたらめばかり言う者、美しい顔を持った見知らぬ者に対しては恥じらいを捨てて懐に飛び込んだのに。

 手綱を持ったままぼんやりと道端にたたずんでいるジョルを見て、ジュクモはまた馬を駆って戻って来た。

 「あら、あなたの天馬はどうして私の馬に追いつかないのかしら」

 この時ジョルは自分に腹を立てないと決めていた。
 ジョルは言った。

 「僕の馬はまだ調教されていないし、鐙も鞍もない。早く走りたいなら一緒に乗ろう」

 言い終らないうちに飛び上がると、そのままジュクモの馬の背に降りた。
 ジョルの熱い息が象牙のように白いジュクモの首にかかり、ジュクモはさっと頬を赤らめた。

 「人に見られたらどうするの、降りてちょうだい」

 「僕の馬には鞍がないんだ」

 「父さんのお蔵の金の鞍を上げるわ」
 
 「天馬は扱いが難しい。良い轡が必要だ」

 「欲張りね。父さんのお蔵にいい轡があるのを知っているのね」

 「この大地で起こることは、知りたいと思えばすべて知ることが出来るさ」

 ジュクモにはこの言葉には別の意味が含まれているように思われ、胸のどこかがネズミの鋭い歯で噛まれたような痛みを感じた。

 だがジョルにとっては、彼女に向かって少しずつ近づいているだけで、やっと気持ちが晴れて来た。
 そこでまた話しかけた。

 「ジュクモよ、競馬に参加するには、この天馬にはまだ二つ足りない物がある。
  老総督がお前を迎えに寄こしたのだから、きっとお前が全部揃えてくれるんだろう」
 
 ジュクモは腰を抱いているジョルの手をさっと掃い、言った。

 「他の物は総督にお願いしてちょうだい」
 
 「不完全な装備は僕の千里の馬にふさわしくない」

 ジョルはジュクモを胸の中にさらにしっかりと抱きしめた。
 ジュクモは彼の胸に崩れ落ちないようにと無理して体をつっぱっていたので、ジョルはまるで木を抱いているような気がした。
 だがインドの王子に化身した時からこの魅力的な体がいかに柔らかいか知っていた。

 そこで馬から飛び降りた。怒りで胸が張り裂けそうだった。

 「もういい!お前たちで競馬に参加しろ。僕は天馬と共に天に帰る。
  極悪なトトン叔父さんを王にすればいいんだ。
  もしかしたら、競馬に参加するために誰かやって来るかもしれない!」

 ジュクモはその言葉を聞いて、心の中を見抜かれたと思い、慌てて答えた。

 「いいわ、必要なものがあれば言ってちょうだい」
 
 「しりがいで鞍をしっかり留めなくてはならない。
  鞍の上にはお前の家の四角い絨毯を敷かなくてはならない」

 ジュクモは思った。
 父親が最も大切にしている上等の馬具をジョルはすべて要求した。
 もし彼が本当に天から降された神の子ならなんでこんなに欲張りなのだろう。

 もし彼が本当にそうなら、トトンが王になっても変わりがない。
 違いは、トトンは年老い、ジョルはまだ若いこと。
 とは言え、ジョルの神がかりな様子より、トトンの堂々とした姿の方がまだましかもしれない。
 それに、インドの王子も求婚にやって来るはずだ。

 もしリンの人々の熱い期待がなかったら、すぐにでも鞭を振るって、喜ばせたかと思う傍から嫌がらせをする人物の前から走り去りたかった。

 ジョルは彼女の想いを見抜き、神の力のこもった杖を一振りすると、ジュクモの乗った馬は勢いよく走り出した。
 二つの丘を走り抜けると、やっと彼女の力で停めることが出来た。

 馬が停まったところは、まさに彼女とインドの王子が出会った場所だった。

 嫌がらせばかりするジョルを目の前にして、王子の愛情の深さが思い出され、別れ際に王子が嵌めてくれた水晶の腕輪を撫でていると、いつの間にかもう一度心が騒いでいた。

 水晶は涼しく滑らかで、まるで王子のきめ細かい肌のよう。
 水晶は透明で、まるで透き通って深く計り知れない王子の瞳のようだった。

 自分はリンの人々から競馬の賞品にされ、間もなく一国の王妃になる。
 だが、華奢で美しい王子は絶対にトトンやジョルの相手ではないだろう。
 そう考えると、思わず悲しみがこみ上げて来た。

 突然腕にはめた腕輪が枯れた蔓に変わり、自然にちぎれて、ぱらぱらと落ちて行った。
 ジョルが何時の間にか目の前に居た。

 彼はインドの王子と同じ姿勢で同じ岩の日蔭に座っていた。
 瞳は彼女の目を見つめ、深い思いが込もり、密やかに推し量りがたく、まさに王子の目そのものだった。

 ジュクモは自分の心を見抜かれたのを知り、傲慢だった頭を知らぬ間に垂れ、恥ずかしさに耐えた。









阿来『ケサル王』 59  物語 ジュクモ

2014-09-01 02:43:27 | ケサル
物語 ジュクモ その4





 天馬は聞くと、思ったとおり馬の群れを離れ、ゆっくりと歌声の方へと向かって来た。天馬は彼女たちのすぐそばで歩みを止めた。
 馬は振り返って、遠くへ走り去ってしまった野生の馬の群れを眺め、悲しげな人の言葉を話した。

 「私はジャンガペイフ、確かに天から降りて来て、すでに12年。
  脚力が盛んな時は荒れた山の中をむなしく駆けまわり、日々ご主人のお召を待っていましたが、
  ただ冷たい風が山の間で鳴るのを聞くばかりでした。
  馬の寿命は人には及びません。
  12歳の駿馬はすでに老人と同じ、もはや轡をはめられず、鞍の重さに耐えられません。
  今はただ、魂が天に召されるのを待つばかりです」

 ジュクモは思わず地に伏し拝んだ。

 「天馬よ。お前を荒れた山に無駄に年を過ごさせたのは、リンの人々が天意を知らなかったからです。
  今私たちはその罪を知りました。それでお前を迎えにきたのです。
  どうぞ主人を助けて大業を為させてください」

 「野の馬たちは私の来歴を知りません。何故なら智慧のない動物だからです。
  リンの人々が天から降った英雄を知らないのは、悪の道に落ちたからです。
  いまさら何を言うことがありましょう」

 天馬は言い終ると、空へと駆け上がり、そのまま雲に入り、逞しい体は雲の端に隠れた。

 絶望したジュクモはそのまま地に泣き崩れた。メドナズも地に伏し拝み、天に向かって叫んだ。
 すぐに神々がジョルの天界の兄トンチォングブを取り囲んで雲の端に現れた。

 彼が長い腕を軽く揮うと、手の中の輪縄が無限に伸び、天の外の天へ向かって飛んで行き、また引き戻すと、天馬が彼の傍らに立っていた。
 
 馬は言った。
 「私は人間界でむなしく12年を過ごしました…」
 トンチォングブは何も言わず、ただいとおしげに愛馬の首を撫で、一粒の仙丹を口の中に入れ、言った。
 「行くのだ!お前も主人も成人したばかりだ」

 言い終ると手にした輪縄を雲の端からメドナズの手まで降ろすと、それに続いて天馬も雲から降りて来て、しっかりと顔を挙げて二人の女の前に立った。
 神の前にいる時よりもより一層輝いていた。

 驚きと喜びにジュクモは駆け寄って馬の首に抱き付いた。
 この時、天馬は驚いたかのように再び空へ駆け上がった。

 あっという間に、潤った雲を通り抜け、滝のように降り注ぐ陽の光を通り抜け、高い天へと昇った。
 二人の女の叫び声を聞いて、天馬が口を開いた。

 「怖いからと言って目を閉じないで。下の広い世界をご覧になって下さい」

 メドナズとジュクモは目を開け、下界を見下ろした。
 雄大に広がる大地を見、明るく輝く湖と河を見、山脈がうねるように旋回して行くのを見た。
 リンの国が雪山が隆起するのに従って、漢、インド、ペルシャの間に高く聳えているのが見えた。

 漢は日の出る方角にあり、ペルシャは日の落ちる方角にあり、インドは熱気の立ち昇る南の方角にある。
 この三つの国は偉大な都を持っていた。都の大きな道には人と乗り物が往来していた。

 そして北の方角、そこはリンと同じ広大な荒野だった。
 竜巻が巨大な砂柱を巻きあげ、塩水の湖は太陽の光の下きらきら光る塩を結晶させていた。

 大地の広大さは彼女たちの想像をはるかに超えていた。
 漢の宮殿の瑠璃の屋根に月の光が注ぐ時、ペルシャの王宮の金の頂はその日初めての陽の光に照らされていた。

 天馬は再び口を開いた。

 「ご覧になりましたか。リンが世界のすべてではありません。
  最も素晴らしい世界でもありません」

 「降ろしてちょうだい。
  あなたがジョルを助けてくれなくても、私たちは彼と一緒にいなくてはなりません」

 天馬はそれを聞いて笑い出した。

 「私は暇に任せて空を飛んでいるのではありません。
  天から降った神の子の功績がまだ成っていないなら、私も天界へは帰れないのです。
  お二人を天上にお連れしたのは、見て頂くためです。
  リンには良い未来もあれば、悪い未来もあり、
  人の幸せと苦しみは人間の巨大な世界にすでに満ち満ちています。
  リンの未来のためにしっかりと見届けて下ださい」

 そう言うと天馬は彼女たちの衣装をなびかせ、空に駆け上り、リンよりも更に広大な世界を見せた。
 良い山と悪い山、良い水と悪い水、良い国と悪い国が見えた。

 飛び越えた地域はあまりに広く、そのため、彼女たちは非凡な空間を横切り、同時に神奇な時間を通り抜け、様々な始まりと終わりを見た。
 悪い始まりと良い終わり、良い始まりと悪い終わり、または混沌とした無知を見た。始まりはあるがないに等しく、終わりはあるが終わりの意義が現れていないのを見た。

 天馬が言った。

 「リンでは文字が出来たばかりです。
  そのため聡明なお二人も天下の大勢を語る本を読んだことはないでしょう。
  地上に戻れば私は一匹の馬、話すことは出来ません。
  お二人が天上で学んだ道理を、ジョルが混乱した時に示してあげて下さい」

 「彼は神の子です、私たちのような凡人の道理を聞くはずがありません」

 「彼は神の子ですが、あなた方と共にいる凡人でもあるのです。
  ジュクモ様、あなたの家には多くの駿馬がいて、あなたは良い馬を見分けることがお出来になります。
  私は少年のご主人様が杖に乗って草原で遊んでいる様子しか見たことがありません。
  彼が良馬を操っているのを見たことがありません。
  そこで、ご主人様の前で私の良いところを大いに褒めて頂きたいのです」

 天上を一巡りして戻り、ジュクモは喜びに満たされて輪縄をジョルの手に渡した。

 「ジョル、天馬は神の勇ましさを身につけたわ。あなたは間もなくリンを治めるでしょう」