塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来「大地の階段」 89第6章 雪梨の里 金川

2012-04-16 02:14:11 | Weblog
6 増水する大河の岸での午睡




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




 ここを去る前、河辺の柳の下で、波が岸を打つ音を聞きながら一眠りした。

 目が覚めた時、体中にじっとりと汗をかき、耳はやかましい蝉の鳴き声でいっぱいだった。
 木の葉の間から眩い空を見つめていると、「山の中の一日は、地上の千年」の意味が理解できた。ここでは時間の流れが世の中と違って感じられる。

 そこで突然おかしな考えが浮かんだ。
 もしヨンドゥン・ラディン寺の予言の術に通じたラマが、寺の最も栄えている時に眠りに着き、今この時に目覚めたなら、自分のした予言の中から的中したといえるものを発見できないばかりか、自分はある強い魔法にかけられ、まるでなじみのない世界へ連れてこられたと思うにちがいない。

 だがこれは、歴史がうまい具合にいくつかの偶然を重ね、ここまで続いてきたから起こった一種の必然なのである。

 現在、私の後ろにある廃墟に代表されるギャロンの歴史の一時期の輝きは、今まさに人々から忘れられつつある。
 それでも、この出来上がったばかりの寺を建てた人々は、そのことによって、あの輝かしい過去、人々に深い感銘を与える過去と、なんらかのつながりを持ちたいと考えたに違いない。
 だが、世の中は移ろうものだ。この寺は完成したばかりの時に、すでにほとんど忘れ去られていたのである。

 忘却は人に悲しみを抱かせる。
 忘却はかえって人をあきらめの境地にさせる。
 では、この忘れられた地でもう一度気持ちよく眠ろう。この騒々しい世界を駆け回っていれば、誰にでも、きれいさっぱりと忘れたいことが山ほどあるのだから。

 私はまた横になった。うとうとしかけた時、朝私を乗せた船頭が駆け寄ってきて私を揺さぶり、河の水かさが増してきた、と言った。
 彼に背を向けてまた眠った。大げさなやつだと思ったし、河の水かさが増すなど聞いたことがなかったからだ。
 彼はまた大声で叫んだ。
 「河の水があふれるぞ」

 そこで私は仕方なく起き上がり、河の方を見た。
 太陽は明るく輝き、蝉は声を合わせて鳴いている。だが、河の水は確かに増え始めていた。
 私は頭を岸に、足を河に向けて細かい草の生える砂浜に寝ていたが、この時、河から打ち寄せる波の飛沫がすでに私の足にかかっていた。

 あたふたと体を起こすと、トウモロコシ畑で草むしりをしていた船頭の家の二人の女性がけらけらと笑い出した。河の水が増しているのがよく見えなかったようだ。

 まず、河の水がどんどんと濁っていくのが目に入った。川面から泥の匂いが立ち昇ってきた。
 徐々に重々しさを増す流れは、河の中心から、力強くゆっくりと上へ向って盛り上がった。
 岸に打ち寄せる波は益々高く、益々強くなった。浪が岸を打つごとに、水面は少しずつ上がり、一時間も経たずに私がさっき寝ていた砂地はすべて水の中に埋もれてしまった。

 上流のどこかで激しい雨が降ったのだろう。

 河の水が増えると、流れは逆に重々しく緩やかになった。さらさらと流れていた水の音が重く湿り気を佩びてきた。
 水に埋もれた草の中に、まるで句読点のような、大きく開けた魚のくちばしがいくつも見え隠れしている。大量の土砂のために河の水の酸素が急激に減ってしまったためだ。河の深い淵にいた魚はみな岸辺に近づいて来て、争うように生命にとって重要な酸素を吸っている。

 毎回河水が増すと、河辺には大勢の人がやって来て、魚を採る絶好のチャンスを逃すまいとする。
 もし今私が小さな魚採りの網を持っていて、河辺の浅い流れに仕掛けて掬いあげたら、びっくりするほどの収穫があるだろう。
 魚の網から伝わってくるずっしりと重い振動を感じたような気がした。

 大渡河の急流が育んだ細鱗魚は魚の中でも上等で、その味は天下一品である。
 金川の県城に戻れば、どこかの店で必ず新鮮な魚を食べることができる。
 真っ白なスープの上に浮かぶふっくらとしたウイキョウの葉が目に浮かんだ。

 船頭とその家族は、木に繋いだ船を岸に上げ、草地の上にさかさま伏せ、言った。
 「上の橋から帰るしかないな」
 そこで私は彼らに別れを告げ、上流のつり橋に向かって行った。

 金川の県城に戻った時、一度もヨンドゥン・ラディン寺を振り返って見なかったのに気付いた。
 後になって、何故なのか考えてみた。
 それは、どのように振り返っても、歴史にかかる靄を透して、歴史本来の姿を見ることはできないと分かっていたからではないだろうか。




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)






阿来「大地の階段」 88第6章 雪梨の里 金川

2012-04-06 01:48:48 | Weblog
5、ギャロンのかつての中心 ヨンドゥン・ラディン寺 その3



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)






 だが、今この時の太陽の光の中、この場所へやって来た時、広法寺の輝きはすでに跡形もなく消え去っていた。

 私たちが食事をした草地の傍らには壊されたままの幾つかの石碑が転がっていた。絡まる草をどけてみると、石碑には何代目かのカンプの名があった。これらの石碑は、歴代のカンプが円寂した後の墓碑だったのだ。
 石碑の形から見て、チベット族の高僧たちは、漢の方式によって葬られている。そうでなければこのような墓碑があるはずはない。石碑の上の装飾的な図案が宗教的な色彩と並々ならぬ技巧を表している他は、これらの墓碑は烈士墓地や共同墓地の墓碑と何の変わりもなかった。
 いくつかの石碑を目の前にして、私の心には突然複雑な感情がわいてきた。

 かなり長い時間、私はずっと考えていた。
 これらの石碑の美しい漢字は誰が書いたのだろうか、それはいつのことで、寺には漢字に通じた僧がいたのだろうか、それとも、朝廷が家臣に命じて書かせた後、宿場ごとに引き継ぎながらこの地に運ばれてきたのだろうか。

 私にはこの答えを思いつくことが出来ない。そして、中国の歴史書も往々にして、このような些細な事柄を述べては来なかった。

 同行の友人が教えてくれたのだが、これらの墓碑はすでにばらばらになっていて、残っているものは、ここ何年かの間に民間から集められたものだという。しかも、見つかった場所はかなり不可解である。たとえば、その一つは農民の豚の囲いの中から見つかった。また別の一つは小さな流れに架けられていて、小さな橋の役割をしていた。

 乾隆年間から解放まで、セラ寺は12代のカンプを送り出し、最後のカンプのアワバダンは、1953年に亡くなった時には、すでにこの寺の住職ではなかった。

 広法寺が最も盛んだった時、寺には二千人あまりの僧侶がいた。そのうち85人はギャロン全域の土司から派遣され、清王室から生活費が交付され、満族の師に付いて学んだ後、各土司の領地に戻り、正しい教えを広めることになっていた。
 だが、ギャロンの地では、清軍を助け大小金川を討伐した土司たちは、一方で命令を守り広法寺に人をやってツォンカバの創立したゲルグ派の教えを学ばせたが、実際には、やはりこの教派に抵抗感があった。

 そのため、今日に至るまで、ギャロンの寺院は、多くがチベット仏教ニンマ派の寺であり、大金川土司に隣接するディャオスジア土司は、解放の時まで、その家廟はボン経の僧が管理していた。

 だが、土司制度の日ごとの衰退に伴って、広法寺の力も日を追って弱まっていった。

 清王朝の崩壊後、寺はより衰退を早めた。
 
 1935年、紅軍の長征が金川を通り、国民党の二十四軍と当地の武装軍は、この寺を根拠地として紅軍を阻止した。こうして、寺は再び砲火の中に置かれることになった。
 最後に、国民党軍が潰えた時、彼らは寺の財産をすべて略奪し、周囲の山に沿って立てられた数百の僧坊を焼き尽くした。戦いの後、寺の僧はたちまち二百名に減少した。

 文革の間、広法寺は徹底的に打ち壊された。
 私の古い同僚は、文革中地方の走資派として批判され、労働につかされていた間、主な仕事は寺の数千の僧が茶を煮た巨大な銅の鍋をのこぎりで切断することだったという。
 乾隆帝から賜った額でさえ、農民が持って行って洗濯板にして、最後には細かく割って薪としてかまどにくべられたそうだ。
 
 その後の「農業は大塞に学べ」という運動の中で、寺の跡は立派な畑に切り開かれた。
 わずかに残されたのは、寺の本堂の跡と、山道の僧坊と廃墟となった仏塔だけだった。

 これらの廃墟は私に多くのことを思い起こさせてくれたが、新しく建った寺には少しも興味を覚えなかった。
 なぜなら、このあたりの土地では、チベット仏教の寺はすでにその基礎を失ってしまったからだ。民衆という基礎と信仰という基礎を。
 無理やり維持していくことは却って時代に外れた無様さを顕わにするものだ。たとえそこにある種の悲劇的な色彩があったとしても。




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)