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塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来の小説『空山』が重版された

2013-01-17 02:30:28 | Weblog


 阿来が昨日(1月15日)の微博で『空山』の重版が出たことを報告しています。

 『空山』は、2009年に出版された長編小説です。思いがけない大ヒット作となった『塵埃落定』のあと、多くの読者が待ち望む中、数年ぶりにやっと出版されました。

 阿来の故郷を模したと思われるジル村を舞台とした6つの物語が、花びらのように重なり合い、一つの歴史を描き出します。文革の時代から現代まで。小さな村の住民たちは、古い習慣から抜けきれず、一方で新しいものを求めようとしながら、まるで重い罪を背負っているかのように、東チベットの地での日常を生きていきます。

 この作品は、山口守氏によって日本語訳され、『空山 風と火のチベット』という題名で勉誠出版社から出版されています。まだ六話の内の二話だけですが、これから先の出版が楽しみです。
 山口氏の解説が素晴らしいです。阿来という、日本ではあまり知られていない作家について、そしてやはりあまり知られていない東チベットについて、深い考察が成されています。

 阿来はもともと詩を書くことから出発し、その文章は詩的で哲学的でさえあります。山口氏の解説もまさに詩的と言えます。

 以前阿来は、やはり微博の中でこう語っていました。
 「『空山』か、これは残酷な現実を取り上げているので読む人のいない小説だと思っていたよ」

 本当に、読み進むのが大変な作品でした。


 だからよけいにこの重版は、彼にとってとてもうれしいことだったのでしょう。




「ブログ 鬼の繰り言」の中の阿来の微博
http://bit.ly/13FHqim














阿来「大地の階段」 訳了しました

2012-12-31 22:56:13 | Weblog


やっと『大地的階梯』を訳了しました。
訳し終わった時、この作品の最後、阿来が河の源流にたどり着いた時と同じように、「予想していたような感情の昂ぶりなかった」です。

4年間、細々と続けてこられたのが不思議です。

日本では知られていない阿来の大ヒット作『塵埃落定』を理解するために始めたことでした。
この間、思い知らされたのは、阿来は歴史を書く作家だったのだ、ということです。
「大地的階梯」で一番取り上げられた事件は清朝の乾隆帝の時に起こった「金川の戦い」でした。二回に渡る戦いによって、この地を治めていた土司(族長)たちはその権力を失い、この辺りははっきりと清朝の版図に入れられていきます。

私が旅した次の年にチベット動乱があり、そして、四川大地震、同じ東チベットの玉樹でも地震が起こりました。そして今悲しい現象が次々と発生しています。

北京からはるかに離れたこの地には、一体何があるのでしょうか。

阿来は次に「ケサル王」を出版しました。舞台は東チベットカム地方。この地を救った英雄の叙事詩を、阿来は、物語を伝える語り部とケサル王との交感の物語として描きました。
そして、今年、ケサル王に関するドキュメンタリーを作った監督と出会い(http://gesar.jp/)、ケサルの文化について更に興味を深めました。

これから何をしたらいいのか…
阿来という微妙な位置に立つ作家を通して、もう少し東チベットについて私なりに考えていきたいと思っています。そのために、
作品に関する阿来のブログを訳す。
「ケサル王」を抄訳し、もとの英雄叙事詩と比べてみる。

どこまで出来るか、まだ先が見えているわけではありません。
これまでの翻訳のみではなく、自分の考えを文章に出来たら、と考えています。

これからも、よろしくお願いします。


皆様、良いお年を!


火鍋子の鬼の編集員のブログ「鬼の繰り言」にも入れていただいて、阿来の微博を訳しています。
こちらもご覧ください。http://suishobo.cocolog-nifty.com/oninokurigoto/






阿来「大地の階段」 108第7章 河の源流へと遡る

2012-12-26 21:22:48 | Weblog
7.河の源流に遡る その3 最終章




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)





 もうほんの少し溯っていけばこの流れの始まりを見ることができるかもしれない。
 それが梭磨河の源流のはずだ。
 だが、それは私の想像でしかなかった。

 谷はもう一度開けた。

 渓流は輝いたまま、広い湿地に隠れてしまった。
 この湿原が私を再び山裾へと追いやった。

 こうして、私は河の流れからどんどん遠ざかり、湿原の中央の曲がりくねってとらえどころがなく、だがその跡を辿ることはできる渓流から、優に数kmは離されていた。
 これだけの距離があるなら車に乗せたリュックを持って来ればよかったと後悔した。

 それからたっぷり二時間歩くと、谷はまた狭まり、細い渓流がまた私の足元に戻ってきた。

 この時、両側の丘陵はほとんど姿を消していた。
 まだ丘陵があるとしたら、それは二筋の目立たないほどの起伏でしかなかった。

 この時こそ間違いなく、私は梭磨河の源流にたどり着いたのだった。

 どこにでもあるような、小さな水溜りだった。
 水は草の下からゆっくりと滲み出しているが、地面を伝うほどの流れは見えなかった。
 そこで私は小さな葉を摘み取り、水の上に置いてみた。
 そうしてやっと、かすかな水の上を草の葉がゆっくりと流れて行くのを確かめることができた。

 私の体にも心にも、予想していたような感情の昂ぶりなかった。

 もちろん、これがチベット文化の中でも独特な、ギャロン文明を育んだ大切な水の源であり、大渡河、長江の支流の最初の一滴なのだ、ということはよく分かっている。
 それでも私の心は、草が生い茂り果てなく広がるこの広野のように、静かだった。

 かつては、源流の風景を想像し、源流に至った時の情景を思い描いては、激情みなぎる詩句をいくつも書き連ねてきたのだったが。

 人生のある日に、このように豊かな瞬間を持てたなら、その後でもし、失意や苦難に出会ったとしても、悠然と向き合えるのではないだろうか。

 私はうつ伏せになってゆっくりと梭磨河源流の水を飲んだ。
 すがすがしい水には骨に沁みる冷たさがあった。

 小さな丘に登った。
 これは私が辿り着くべき大地の階段の最後の一段である。

 これは地理的な頂点であり、私の人生の経験の中での頂点でもあった。

 後ろを見回すと、河の水は折れ曲がり、河幅を増し、いよいよ険しさを増す群山の中に消えていく。
 それは長江水系の群山であり、連なって東南へと向っている。

 東南の風が峡谷に沿って絶えず昇って来る。
 それは大海の気流がこの高地に雨雲をもたらす方向である。
 そして私の故郷の方向でもある。

 私は今地理の境界に立っている。
 この場に立って方向を変え、西北を向けば、まるで大きく息を吹きかけたように、秋風に揺れる黄金色の草原が広がっていく。

 草原で遊牧するチベットの民は、ここでは、もう一つの言語、もう一つの慣わしを持つ。
 そこは伝統の上ではアムドと呼ばれる遊牧文化の地なのである。

 丘の西北に広がる一面の湿原は、もう一つの豊かな河の流れの源である。
 チベット語でガチュと呼ばれ、その意味は白い河。
 白い河は高原の光の下で銀色に輝いている。それは天国を流れる牛の乳の河でもある。

 この河は北に向かい、中国の大地のもう一つの重要な流れ、黄河へと注いで行く。

 私のギャロンの旅はここで終わる。






(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)











阿来「大地の階段」 107第7章 河の源流へと遡る

2012-12-16 00:41:17 | Weblog
7.河の源流に遡る その2




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)




 二時間後、車はすでに査真梁の下を走っていた。これは川西平原からゾルゲ平原へと登る最後の一段である。
 登れば、海抜4000mの果てしない草原だ。

 私は213号線を選ばず、最も嶮しくだが最も近い道を選んだ。もし213号線を行ったら、河の源に行けなくなってしまう。
 そこで、公道を離れ、山のふもとの河に近い草地をがたがたと揺れながら5kmほど走った。

 ここでは河の水は一本の渓流に変わっていた。大きく足を踏み出せば渡れるほどの渓流である。
 両岸の草地は少しずつ柔らかくなり、更に先へ行くと、車は沼地に嵌まりそうだった。
 運転手は私を見た。もう先へは進めないという意味だ。
 そこで、車を山すその草原に停めた。

 まばゆい光が草原を照らし、体も陽を浴びて暖かくなってきた。

 運転手は河のほとりへ行って手で水の温度を試し、日差しで水が暖たかくなったので、これなら魚が出てくるだろう、と言った。
 そうしたら、竿を入れればいい。

 私は柔らかい草地に腰を下ろし、それほど遠くないところにいる丸々と太ったタルバカンを眺めていた。
 タルバカンは乾燥した丘の上で日向ぼっこをしていた。
 私と同じように太陽の下で温まっているタルバカンは、いかにも老練沈着といった様子をしていた。彼は地上にしゃがみ、上半身をピンと伸ばして両手を胸の前であわせている。
 篤く仏教を信仰するチベット人が見れば、これは仏に祈っている姿そのものである。
 そのため、この動物は草原で繁殖し禍となってしまった。

 だが、見たところただののろまに見えるこの動物は、すこぶる賢くて狡猾である。
 彼らは草原の地下に複雑な通路を作っている。もし彼らに何かしようとすると、さっと身を翻して地下に潜ってしまう。その穴の前でじっと待ちぶせし、しかも十分な忍耐を覚悟していると、彼らは突然別な出口からその太った体を地上にのぞかせるのである。

 ここ数年タルバカンの数も減り始めた。
 ほとんどの時間地下で生活するこの動物は、毛皮は良い布団になり、よく煮た肉にはリューマチを治す作用があるからだ。当地の人々は宗教的な理由で彼らには手を下さないが、外地の人間と街の幹部はそうは考えていない。

 運転手は辺りで牛の糞を集め、火を起こす準備を始めた。見たところ、彼は河に隠れている魚でうまいスープを作ることに十分な自信を持っているようだった。

 私はタルバカンとしばらく見つめあい、タバコを一本吸い、それから銃を肩に掛けて渓流に沿って上流にへと歩いていった。

 足元の草地は表面が乾いていて、連なっている草の穂が両足に絡みついてカサカサと音をたてる。
 だが、地面の下はとても柔らかく、一歩足をおろすごとに小さな窪みが出来る。
 さらにしばらく歩くと、目の前にはもう平らな草地はなくなった。

 そして、年月を経た枯れ草と複雑に絡み合った細い草の根で出来た大きな草の塊がきのこの群れのように沼の上に浮いていた。
 一つの塊から一つの塊へと飛び移って行くと、あっという間に体中から細かい汗が噴出してきた。
 これらの塊が一つの面に繋がらない所では、土砂を深く堆積させた明るく澄んだ水溜りがはるかに離れた一つ一つの孤島を隔てている。

 何対かの黄色い鴨が水溜りで食べ物をあさっている。これらの水鳥はこの一年で最後の渡り鳥となった。あと少し秋の霜を過ぎたら、彼らは長い旅をして遠くの南方へ渡っていく。来年の夏までは帰って来ない。
 鴨は私に驚いて飛び立ち、空中をしばらく旋回していた。

 ついに、道は河辺を離れ、私は近くの山の辺りまで歩いた。
 足はまたしっかりした地面を踏んでいた。

 振り向いて見やると、空にいた黄色い鴨はまた降りて来て、あの明るい水溜りに戻っていた。
 河の水は午前の斜めに差し込む強烈な日差しを浴びて、一筋の銀の光をはね返していた。

 私はずっと河を眺めていた。一面の湿地が終わると、広い谷間は両側の小高い丘によって狭まり、私はまた河辺に戻ることができた。
 ここでは河の水はいよいよ少なくなり、透きとおって浅くなった水を透して、ゆっくりと流れていく細かい砂粒が見えた。
 穢れのない草の根が房飾りのように水の中を漂っている。

 私は今、目の前にある情景をいとおしく思った。





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)







阿来「大地の階段」 106 第7章 河の源流へと遡る

2012-12-03 03:38:11 | Weblog
7.河の源流に遡る その1






(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)



 朝目覚めると、頭の中がウオンウオンと鳴って、足元が少しふわふわした。
 これは海抜が高いために起こる軽い反応だ。2,3年このような場所に来なかったためだろう。
 窓を開けると、冷たく凛とした空気が一気に部屋の中に入ってきた。窓の外の道路には埃が舞っているが、丸い丘の上の空は微塵も汚されていない。

 神様がよい天気を与えてくれた。こう考えると、心が愉快になってきた。

 階下の回族のレストランで熱々の羊のそぼろ麺と焼餅を二つ食べ、膨らんだ腹を叩いている時、猛スピードでやって来た北京のジープが私の前で停まった。
 よく見るとそれはかなり古い車だった。どこかの職場でお払い箱になり、数千元で個人に払い下げられたものだろう。
 このような辺鄙な鎮では、就業の機会がなく何もすることのない若者が、家の金をかき集めてこのような車を買い、一人二人まばらな観光客を見つけ1,2百キロメートル走って車代を稼いでいる。
 これでもまともな職業といえるだろう。

 後ろの席のドアを開けて荷物を投げ込んだ時、座席に釣竿と猟銃があるのに気付いた。
 
 運転手の隣の席に座ると、エンジンは雄叫びを上げ、しばらく後ろに埃を振りまいて、車は動き出した。
 出発だ。

 車が鎮を出て間もなく、これまでとは違った風貌の峡谷が目の前に現れた。
 公道の両側の柳の木と草地には薄い霜が降りていた。河の両岸を囲むように続く潅木の茂みと草地は進むほどにどんどん広くなり、両側に延々と連なる山脈は遠くへと退き、そして少しずつ低くなり、丸みを帯びて行った。
 河の水は徐々に少なくなり、穏やかになり、曲がりくねって地面との分かれ目がはっきりしなくなっていった。

 80年代、私は小説の中でこの一帯の自然の姿を描き始めた。
 初めての作品は短編で、題名は『快楽行程』だった。この作品の中で、私はこの地帯を群山と草原の移行地帯と名付けた。この命名はあまりすっきりとしてないが、かなり適格だと思う。
 地理学者がこのような移行地帯に簡潔でより正確な名前をつけたのを見つけ出すまでは、10年前自分の小説の中で命名した呼び方をこの地帯に使うしかない。

 この地帯は、昔は梭磨土司の治める地で、土司の家の牧場だった。現在は草原にある紅原県の管轄となっている。

 運転手は速度を少し緩め、後ろの席の猟銃を私に渡した。
 それは、窓の外の草地には、いつでも獲物が現れる可能性があり、車の中からいつでも打ってかまわない、という意味である。

 私は尋ねた「1発いくらだ」
 「20」彼は言うとすぐに舌を出し、そして言った「いや、それは観光客用の料金だ。あんたは違う、友達の紹介だから」
 私は笑った「安くしてくれるのか」
 彼は何も答えなかった。じっと前を見つめながら、ゆっくりと車を停めた。それから手で遠くを指し示した。

 彼の指す方向を見ると、視線の先に二羽の雉が見えた。埃だらけの雉は潅木の茂みの中で、足の爪を使って一心に何かを掘っている。
 時々警戒するように長い首を伸ばして頭を潅木の上に突き出し、周囲の動静に聞き入っている。
 雉が頭を潅木から伸ばしている様子は、頭と首の回転の仕方が、潜水艦から海面に伸びて偵察している潜望鏡のようだった。
 だが私には、見ているというよりは、聞いているように感じられた。

 車から飛び降りてゆっくりと彼らに近づくと、二羽の雉は翼をパタパタとはためかせながら、必死で駆けて行った。
 ほとんどの雉はすでに飛ぶ能力を失い、翼をはためかせるのは、逃げる時に足の負担を軽くするだけのためだった。
 雉は時には翼を広げて空中に優美な飛行の姿を見せるのだが、それはただ高いところから低いところへ滑空するだけなのだ。


 二羽の雉は河のほとりまで駆けて行き、立ち止まり、また長い首を伸ばした。
 猟銃で狙いをつけたが、照星の先は微かな光ばかりで目標が見えなかった。ここ数年、視力が徐々に弱っていて、雉は私がとらえることが出来る射程の外にいた。

 それでも一発打った。
 銃声は広い谷の中であっという間に清冽な空気に吸い取られてしまった。
 期待していたような強い響きはなかった。

 道路に戻り、再び目を上げると、二羽の雉はまだ河のほとりに立っていて、銃声に驚いた様子もなかった。

 私たちは再び出発することにした。
 運転手が2回警笛を鳴らすと、今回は雉は潅木の茂みにもぐり込み、見えなくなった。








(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)

  



阿来「大地の階段」 105 第7章 河の源流へと遡る

2012-11-25 15:00:17 | Weblog
6 最後の行程 その2





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)





 鎮を出て、目の前の小さな丘に上がった時、私はやっと太陽の日差しが温かく、周りは明るいのだと感じる事が出来た。

 大きな岩の上に腰を下ろした。
 岩の傍で、野葡萄がえんどう豆ほどの大きさの紫色の実を付けている。下に広がる荒地にはアブラナの一群れが見えた。てっぺんに黄色い花が咲き、中くらいの莢と小さな莢はすでに一杯に膨らんでいる。これは以前ここで暮していた人たちが残した種が、そのまま自生したものだろう。
 その周囲一面に広がる金色のキンセンカはどこかの庭から飛んできた種が次々と広まって咲いたものに違いない。

 そこを去る時、私は振り向かなかった。だが、何かが後ろを付いて来て、絶え間なくぶつぶつと独り言をつぶやき、ため息をついているのが聞こえる気がして、背中がざわざわと冷たくなった。

 だが心の中では、また日を改めて友人を伴って再びここを訪れようと決めていた。
 ここは次回作である街道に関する小説の始まる場所になるだろう。これらの忘れられた街道筋の鎮、世界にとってはすでに消滅した記憶となった鎮の物語と人生を、私の文字の中で復活させなければならない。
 
 その前に、このような場所にある種の神秘的な力を感じなくてはならない。
 私にはこの鎮の亡霊はまだどこかで彷徨っていると思えるのだ。

 このようなことを考えている時、目の前の峡谷がまた開けた。更に大きな谷が目の前に現れた。
 懐かしい梭磨河の滔滔した流れが目の前に現れた。

 一面の麦畑のふちを囲む柵の傍らを通り過ぎると、泉が見えた。柏の木の下からゆっくりと湧き出している。
 湧き出している小さな穴の上に、柏の皮で出来たひしゃくが浮いていた。

 そこから、道は村に近づくあたりで急に真っ直ぐな下りになり、高い河岸の土手を下ると、また大きな木の橋があった。
 村は小さく、橋の上を歩く人はほとんどいなかった。木の橋板は雨水に綺麗に洗われ、象牙色の美しい文様が現れていた。
 この村が新しい馬塘である。
 だが、私はここに長くいるつもりはなかった。橋を渡り、再び山の上から曲がりくねりながら下っている公道に戻った。

 1時間後、1台のトラックに乗り込み、運転手が私を刷経寺へ連れて行ってくれた。

 刷経寺は50年代に急速に作られた鎮である。ここでは、両側の山はかなり低く、森や林はもうかなり少なくなっていた。
 広々とした牧場には牧人の暮す牛の毛で作られた黒いテントが見えた。
 すでに高原の端に近づいていて、この谷の海抜はすでに3000mになっていた。

 ここでジープを借りようと思った。そうすれば、梭磨河の源流に連れて行ってもらえるだろう。

 私の今回の旅は、一本の河の真の源へと遡るためのものなのだ。
 梭磨河はギャロンにとって非常に重要な河であり、だから、その源流の風の音がこの本の最後の楽章となるだろう。

 私にとって、刷経寺は見知らぬ土地ではない。友人を訪ね、彼の家で食事をし、酒を飲み、別れる時彼は言った。明日の朝9時に車が迎えに来る、と。

 旅館に戻って床に就くと風が起こった。
 風は窓を叩き、広大な原野の音を私の枕下に、そして、夢の中に届けてくれた。






(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)










阿来「大地の階段」 104 第7章 河の源流へと遡る

2012-11-18 23:13:23 | Weblog
6 最後の行程 その1





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)





 これからの二、三日の道のりが、この旅の最後の行程になる。
 私の予想では、この二、三日はひたすら自然を味わうための旅であり、村や寺に目を向けることはないはずだった。

 ところが、鷓鴣山のふもとの峡谷で、山間の広い草原から離れて、渓流に沿って5kmほど歩き、遥か遠くにこの谷のはずれに開いている峡谷の入り口が見えた時、目の前に大きな廃墟が現れて、呆然とした。
 途中でこの廃墟に出会うことは前から分かってはいたのだが、だが実際に目の前に現れると、やはり心が大きく震えた。

 廃墟が現れる前に通ったのは、いくつかの、かつて開墾され、かなり長い年月種を撒き耕され、そして見捨てられた土地だった。
 何故かは分からないが、これまで、見捨てられ荒れた土地が再び美しい草地に戻ったのを見たことがない。
 まるでその「荒れた」という言葉を証明するかのように、腰の高さほどの、名前の分からない、棘が多く草でもなく木でもない植物が生えていた。草むらの中にたくさんの鼠のようなものが走り回っているが、それは尻尾のない高原のナキウサギである。

 この荒地を抜けて行くと、渓流にかかる小さな橋がすでに崩れ落ちていた。両岸に残る朽ちた橋げたから、この橋はかつてかなり大きかったのが分かる。

 しばらくして、傾きかけた小さな街が現れた。
 通りに生えた草はふわふわと柔らかく、踏んでいくと腐った屍の上を歩いているような感じがした。

 数百メートルほどの小さな通りの両側にある、いくつもの石の家は、みな倒れ崩れていた。風雨にさらされた壁がいくつか、ぽつりぽつりと残っているだけだ。
 以前、街道が通じた頃には、ここは賑やかな鎮だった。商人が雲の様に集まる、遠くまで名の知られた宿場だった。

 宿場の名前を馬塘という。

 50年代、鷓鴣山に公道が通ってから、この街道は日ごとに荒れ果てて行った。
 鎮を行き来する商人は少しずつ去って行った。残った人たちもまた、ちらほらと数キロ先の公道の近くへ移って行き、再び集まって来た時はすでに鎮ではなく、他となんら変わらない小さな村になっていた。
 村の名前はまだ馬塘と呼ばれていたが、その意味するものはすでに跡形も無くなっていた。

 二三年前、ここに来てみようと考えた。
 その時、ある人が私にこう言った。古い街にはまだ二、三軒人家があるかもしれない、と。
 だが、まるで現実とは思えないこの通りを歩いた時、完全に残っている家は一軒もなく、見たところこの古い鎮はすでに完全に死んでしまい、この世に残っているのはただ、遥かでぼんやりとした記憶だけだった。

 道の両側の壊れた壁はあちらこちらに傾き、荒れ草に埋もれていた。ノイバラの木が生えている庭もあった。
 壊れた壁のほとんどは、通りに向って窓と出入口がガランと口を開けていた。その空洞になった窓と出入口の後ろには、かつては昼となく夜となく、多くの夢と多くの物語があり、多くの愛と恨みがあった。
 だがそれらすべては今、時の手によって無常にこじ開けられ、空洞となった出入口や窓の後ろにあるのは、ただあっけらかんとした緑の山と青い空だけだ。

 街道の両側に石の板を嵌めて作られた二筋の用水路があるのに気付いた。用水路の上には石の板が敷かれている。
 大勢の商人が集まっていた時代、この用水路は澄みきった渓流の水をそれぞれの家の前まで送っていたに違いない。

 壊れた壁を乗り越えてみようかと思った。すでに過去となった家に入って行き、乱れた石と朽ちた木の下に何が隠れているのか、見たかった。

 だが私はそうしなかった。

 突然心に恐れが生まれ、ここで深く眠っている亡霊たちの目を覚ますのが怖くなったからだ。
 この広い廃墟の中で、私はこの世に亡霊がいるのだと本気で信じていた。
 

 心に生まれた怖れのため、私の歩みは知らぬ間に早くなっていた。





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)







阿来「大地の階段」 103 第7章 河の源流へと遡る

2012-11-11 01:44:14 | Weblog
5 鷓鴣山を越える その3




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)




 山道を二つ回りこんでいくと、道は平らで緩やかになった。
 道の傍の小さな沼や沢から沁み出して来た水がゆっくりと集まり、せせらぎとなって流れている。
 水の音を聞き、空いっぱいに赤く燃え上がる夕焼けを眺めながら、私の歩みはいつの間にか軽やかになっていった。

 渓流の両岸にぽつぽつと平らな草地が現れ始めた。
 草地の上に紫色の果実をつけたユキノシタが風に揺れている。私には、これはすでに長い間見ることのなかった風景だった。
 ひんやりと新鮮な空気を胸一杯に、むさぼるように吸い込んだ。空気には秋草の香気が充満していた。

 空が暗くなる直前、谷は突然開け、巨大な空間が現れた。黒い塊のような杉の樹林もはるか遠くへと後退し、数百ムーはあろうかという広い草地が目の前に現れた。
 風は草の先を震わせ、次々と私の体を旋回して行く。
 もうこれ以上は歩けなくなった。二本の脚と心が息を渇望している。
 そのまま、ドスンと座り込んだ。風が密生する草を揺らし、私の頬を軽く打った。

 狩人が言った「もう歩けないのか」
 私は言った「もう歩けない、歩きたくない」
 彼は私のそばに暫く座り、空の色を見て言った。
 「じゃあ、ここで待っててくれ、すぐに呼びに来るから」

 こうして、彼は行ってしまった。彼が戻って来るかどうか、どうでもよかった。
 そのまま草の上に横になった。
 その時、秋の草が四方から私のすべてを包み込んだ。草が絶えずゆらゆらと揺れ、まるで大海原に寝ているかのようだった。

 頬が地面に触れ、よく肥えた土から太陽が残した微かな温もりが立ち昇ってくる。
 しばらくして、涙が知らぬ間に流れていのに気付いた。
 涙が収まると、体全体が内からあふれ出る心地よさを感じていた。

 私はそのまま横になり、夜がこの草地に降りてくるのを見ていた。星が青い天幕で踊り始めた。
 その時、世界とはこの草原のことだった。この草原が世界のすべてだった。
 すべての星が草の葉先で踊っていた。

 夜が訪れ、風が止んだ。ため息のように歌っていた森も静かになった。踊っていた草も静かになった。
 どこからか幸福感が私の心に降りてきて、涙がまたあふれそうになった。

 その時、遠くから狩人の声が響いて来た。私の名前を叫んではいない、彼は私の名前を知らないのだから。彼の叫び声は一つの咆哮となり、山の間に次々と響いていった。

 立ちあがると、森のほとりの小さな木の建物に、明るい火の色がちらちらと瞬いていた。
 木の家は渓流の向こう側にあり、渓流の上には小さな木の橋が架かっていて、滑り止めのために、橋板の上に柔らかい草が敷かれていた。
 ここは冬の牧場のようだ。冬が来て山が雪に閉ざされる頃、牧人は牛をここまで追ってきて、草質のよい草原は牛たちに一冬の食糧を提供する。
 狩人は、ここで草刈をしている。刈った草は干して、家の後ろの大きな木の根元に積んであった。
 そのため、この夜、秋草の香りはどこよりも濃厚だった。

 夕飯が並べられた。主菜は二羽の雉の内の一羽で、ジャガイモと一緒に煮てあった。野生のねぎとウイキョウの香が熱気の中から立ち昇っていた。ジャガイモと雉の肉を鍋からよそった後、スープの中に新鮮なきのこを加えて煮た。

 出発の時にリュックに白酒を入れて来なかったのを今心から後悔した。
 彼は座ったまま後ろから酒を一本探りだし、碗いっぱいに注いでくれた。
 囲炉裏の炎はゆらゆらと震え、薪からは松脂の香が立ち昇って来る。
 その夜、私は大いに酔った。

 朝目覚めた時、狩人はすでに仕事に出かけていた。
 扉を手で押し開けると、彼が草むらの奥で力いっぱい鎌を振るっているのが見えた。
 振り向くと、床に三本の酒瓶が転がっていた。

 冷たい流れの水で顔を洗っている時、彼が帰って来たた。囲炉裏の上にきのこのスープが作ってあった。
 食べ終わり、別れの時が来た。
 リュックの中をしばらくかき回し、やっとスイス製の軍刀を見つけ出した。これだけが彼の役に立ちそうなものだった。それを彼に贈った。
 彼は受け取らないかもしれない。心配だったので、言った。
 「ここに置いておいてくれ、来年また来るから」
 
 彼は家中をくまなく見回し、申し訳なさそうな表情になった。何も言わなかったが私には分かった。贈るものが何もない、と言いたかったのだ。

 それからかなり歩いたが、彼はまだ道の分かれ目に立っていた。少しも動かずに立っている。手も振らず、叫ぶこともなく。

 山を回ったところで再び振り返った時、私たち二人は、それぞれ相手の視線から消えていた。






(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)









阿来「大地の階段」 102 第7章 河の源流へと遡る

2012-10-23 03:15:47 | Weblog
5 鷓鴣山を越える その2




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)




 2時間後には、日陰に白い雪を積もらせている峠が見えた。山を登っていく車の後ろには大量の土ぼこりが一面に舞い上がる。エンジンは力のこもった音を響かせているが、スピードは非常にゆっくりだ。

 峠まであと30分ほどのところで、目の前に広がるキイチゴの茂みに腰を下ろした。
 赤紫のキイチゴはすでに熟れていて、遠からすでに甘酒の匂いがしていた。ただしそれは甘酒よりも更に甘い。
 そこで私は斜面に座ったまま、尻をずらしながら一つのキイチゴの茂みから次の茂みへと向きを変え、げっぷが甘酒の匂いになるまで食べ続けた。そうしてからやっと、また先へと歩き始めた。
 もう少しで公道までたどり着く頃、険しい山の斜面にトラックの残骸が散らばっているのが見えた。

 再び足を踏み出してからは、もう顔をあげなかった。そうしなければ、最後のこの道が特別長く感じられそうな気がしたからだ。

 峠にたどり着いたのは午後3時50分だった。

 強い風が背を吹き、公道が山を通り抜ける辺りでは、両側の斜面から滲み出して来る水が風の中で表面を薄く凍らせ、風が耳元を吹きぬけると、笛のような愉快な音を立てた。
 日陰に入る手前で、来た方向を振り返ってみた。この山より更に高い雪の峰が、どこまでも青い空の下に静かに聳え、まぶしいほどにキラキラと透明に輝いていた。

 雪の峰は、私の周りで、この地形に高く聳え立つ中央の部分を構成していた。

 この中央部分の東南方向、霧でぼんやりしているあたりが、曲がりくねり、少しずつ開けていく峡谷と、峡谷の両側の緑に覆われた群山である。公道、一本の灰色の帯は、陽の光の下でキラキラ輝く河の流れを従え、群山の向こうへと進んで行く。

 この高度から一段一段上へ昇って行く大地の梯子がはっきりと見えた。

 私は又前を向き、鷓鴣山の峠を通り抜けた。この数十mのほんの短いでこぼこの道は、群山の影に覆われていた。これは公道の両側の斜面の影で、峠の反対側まで歩き着いた時、光はまた私の体に降り注いだ。

 この尾根もまた重要な分水嶺である。東側は泯江流域である。そして、私の目の前に姿を見せている、あの森林と草地の中から流れ出す多くの渓流は、複雑に入り組んだ大渡河の細い支流である。

 更に顔をあげて遠くを望むと、また別の風景になる。

 東の山野は雄大で高く険しく、西側の群山はどれも少しずつ緩やかになり、低くなっていく。まるで私が峠に登りついた時発した大きく長いため息のようだ。
 東側の斜面はすべて森林に覆われ、西側の丸みを帯びて緩やかな斜面は見渡す限りの高原の牧場である。秋の初め、近くの草はまだ緑だが、遠く眺めると草の先端の点々とした黄色が濃さを増し、雲の立つ辺りは目を奪うばかりの黄金色になっている。

 この時私は、群山の梯子を踏んで、本当に青蔵高原に登り付いたのである。

 私は峠から離れ、山の途中をカーブしながら下っていく公道からも離れ、急な角度で下っていく峡谷の中へ踏み込んでいった。
 峠から眺めた時には、まだそこには一本の道路がぼんやりと見えた。これは数十年間、荒れ果てたまま忘れられた古い街道が残した微かな痕跡である。
 私は雑草の生い茂るこの街道に沿って、峡谷を降りて行った。だが、峡谷の底の清らかで浅い渓流の辺りで、この道を見失った。
 私はこれは荒地の草と群れて生えている潅木のせいだと考えた。

 それからの時間、私は潅木の茂みの包囲を突破するために奮闘した。
 脱出口を見つけた時、目の前に一人の狩人が現れた。彼は私がこんな所に現れたのに少しは驚いているはずだ。だが、彼はただちらっと笑っただけで言った。
 「何でそんなところに嵌まり込んでるんだ」
 私は頭に来て言った
 「道が悪すぎる」

 彼は手を伸ばして、複雑に絡まりあった小さな木の間から引っ張り挙げてくれた。

 この時、すでに夕日が山に隠れ、たそがれ時になっていた。
 周囲の森では木々の間を抜ける風の音がざわざわと響いていた。幸いにも、私はこの時、狩人に連れられて大きな道に戻っていた。
 彼は木のうろから二羽の雉を取り出した。先程仕留めて置いておいた獲物だ。二発の弾はどれも頭に当たっていた。彼は私を見て笑った。言うことには
 「林に何かいるのが見えたんで、クマかと思ったよ。何にも考えずに、どこにでも入っていくのはクマだけだからな」
 言い終わると、手の中の銃をぽんぽんと叩き、無造作に背に担いだ。

 私は言った「あんたが撃たなくて助かったよ」
 彼は言った「オレは優秀な狩人だぜ。優秀な狩人は獲物をみきわめて、それから撃つのさ」
 私は笑った。
 彼は言った「あんたはなかなかのモンだ、大概の人間は、街へいくと肝っ玉が小さくなるもんなんだが」





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)


  



阿来「大地の階段」 101 第7章 河の源流へと遡る

2012-10-10 01:58:11 | Weblog
5 鷓鴣山を越える その1




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)





 次の日、宿を出て、歩いて米亜羅まで来ると、周りはすでに典型的なギャロンチベット地区の風景になっていた。
 農民の小型トラクターに乗せてもらって米亜羅に着いた。

 左右にずっと付き添うように流れているザクナ河は、少しずつ支流が失われたため、水量は日増しに減少していた。米亜羅の街で昼食を食べ、トラックに乗り込み、20数km走って鷓鴣(シャコ)山に着いた。

 アバ・チベット自治州、ギャロンにある昔の古い街道では、鷓鴣山の海抜3800mの峠は重要な砦だった。
 今、西南の主要な都市成都と甘粛省の省都蘭州を繋ぐ国道213号線もこの峠を通り、この大動脈上の多くの支線を繋げている。

 鷓鴣山のふもとの山脚壩という村には、ただ一つ小さな道路工事の飯場がある。アスファルトの道もここで終わる。
 それは滑り止めのためである。
 山の上は常に大雪が降り、一年のうち数ヶ月に渡る氷結期には、氷が地面を覆ってしまう。そのため、この山の上では、事故が起きないようにでこぼこの黄土の路面のままにしておくのである。

 飯場の労働者は道端の渓流にゴム管を埋めておく。その管の片方を持ち上げると、勢いよく澄んだ水が噴き出してきて、空中に美しい扇面を作る。
 埃だらけになった自動車はここまで来て、流れの傍で洗車する。

 ここでは、ザグナ河は流れの急な渓流に変わり、谷底のサージー(沙棘)やタマリスク(紅柳)が密生した林を抜けていく。
 公道の向かい側の北斜面はカバノキとモミの林である。そして私が今登っている南斜面は一面の牧草地だ。
 這うようにしばらく登って振り返ると、公道は谷間の更に深いところへ伸びて行き、最後には谷間の端でカーブし、山の中に巨大な曲線を描き出していた。

 私の採ったルートは昔の街道で、山の麓から直接峠に近づいて行く直線の道である。そして、公道は最後には峠で私のルートとぶつかる。

 それは秋の始め、高山の草原の花の季節はすでに過ぎ、密生する牧草は種を付けていた。
 一面の金色の穂がわずかな風に軽く揺れていた。
 草むらの中には多くの薬材がある。
 モッコウの大きな葉は放射状に開いて、ヒトデの様に草むらの中に平らに横たわっている。
 キバナオオギは豆の莢のような実をつけている。バイモの電灯の笠のような花もすでに盛りを過ぎ、今は一つ一つの実がまるで鈴のようだ。
 他にもたくさん薬材がある。
 葉の小さなツツジの群れとタチクラマゴケの傍の大きなな植物はダイオウの群れである。

 小道が湿った低い木の林を抜けた時、突然林の中に春に属する花アツモリソウを見た。

 この袋状の紫色の花は私の子ども時代の懐かしい記憶を呼び覚ました。

 私が小さかった頃、子どもたちは山の上で羊を放牧している時に、いつも回りでこの花を摘んだ。そして、よく練ったツァンパを袋状の花の中に入れ、弱い火の上に置いてゆっくりとあぶる。最後に焦げて干からびた花を剥くと、花の芳しい香がすべて小さな丸いツァンパの中に沁みこんでいる。
 それは子どもたちの遊びの中から生まれた美食だった。

 シプリペディウム(毛杓蘭)はその学名で、植物学の本は次のようにこの花を記述している。

  ラン科に属する多年草、高さ20-30cm、茎の頂上に一つの花をつける、淡い紫又は黄緑色、海抜2500-4000mのトウヒ、モミの林の下と潅木の茂みの中に育つ

 そして、ギャロンチベット語では、この花を“グドゥ”と呼ぶ。
 グドゥとは一種の擬音語で、カッコーの鳴き声である。毎年ギャロンの群山に春がやって来て、深い山の中の緑が日一日と深味を増して行く頃、麦の芽が顔を出し、カッコーが鳴き始める。
 人々は言う、カッコーの鳴き声が日ごとに昼を延ばしていき、林の中の“グドゥ”を咲かせるのだ、と。
 そこで、この美しく不思議な形の花はこの名で呼ばれるようになった。

 今はすでに秋である。カッコーはすでに鳴くのをやめたが、私はこの花を見つけた。海抜の高さが作り出した一種の現象だろう。

 私は更に山の中を訪ね歩き、春に咲く花がこの時期ここで咲いているか、もっと見たかった。
 だが、顔を上げて空の太陽を見ると、今日峠を越えるには時間が迫っているのが分かった。
 
 私は、歩みを速めた。




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)












阿来「大地の階段」 100第7章 河の源流へと遡る

2012-09-30 20:32:33 | Weblog
4 地理と自然 その3



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)






 私が古爾溝に行ったのは数年前だった。その時、公道では温泉に行く人はすでにほとんど跡を絶ち、人々は徐々にこの温泉を忘れていった。
 このように忘れられたまま10数年が過ぎただろうか、その後、この温泉は再び発見される。

 今回の発見にはすでに確かな経済的な見通しが付けられていた。温泉はこの地の役場の観光プロジェクトの一つとして、米亜羅の紅葉温泉観光地区の重要な構成要素として、立て続けに開発されていった。

 古爾溝に着いたのはちょうど10月の秋深い時期だった。山々の高く険しい峰は、霜を受けた紅葉が高原の光に照らされて、揺らめく炎のようだった。
 温泉が溢れ出ている山の中腹から地下に埋めた引水管を使って、山を下り河を渡り、公道の傍の温泉旅館のそれぞれのプールに注がれていた。

 私は山の上に行ってみた。
 前の夜にひとしきり小雨が降った。高原の秋には冷たい雨が夜予想外に降ることが多い。そして、このような夜の小雨は往々にして、次の日が秋らしい輝くばかりの好天になる徴となる。
 朝、一台のチェルキーが私たちを乗せて曲がりくねった簡易公道に沿って河を渡り山へ登って行った。だが、車が2kmも行かないところで、道はどんどん急になり、雨の後の泥の路面は柔らかすぎ、タイヤが地面に二筋の深い溝を掘って、もう一歩も前に進めなくなってしまった。

 残りの道は歩いて温泉まで行った。

 実際に行ってみると、すべてが昔の人々の描写の中にすでにその通りに現わされていて、すべてが、何度も何度も来たかのように見慣れた感じがした。ただ、高度の関係で、昨夜の雨はここでは湿った白い雪に変わっていた。

 雪は緑の杉と赤い楓の上に積もり、特別な美を作り出していた。
 温泉の湯は谷川を緩やかに流れていくうちに、熱が冷まされ、青苔を一面につけた石の上にも雪が積もっていた。
 石の下を縫っていく流れは青く澄んで冷たそうだった。

 私は流れのそばに座り、解けた雪が木の上から一塊ずつ地に落ちる音が、静寂な林の中のあちこちで起こるのに耳を傾けた。

 麓に戻り、そこでも、雪の中から蒸気の上がる温泉の湧き出し口をぼんやりと見つめた。

 今日、またここへ来た。
 ある温泉旅館に泊まった。旅館の一階で一人用の浴室を使い、ゆっくりと温泉に浸かった。この温泉が、伝えられたように心の中の長年の間に溜まった汚れを取り除いてくれるかどうかは分からない。だが、湯から上がると体中の皮膚はとても滑らかだった。

 旅館のパンフレットを見ると、やはり古爾溝温泉の中の、微量な元素がもつ治療効果が認められていた。
 ただ、パンフレットには、温泉の名前はすでに昔のチベット・漢混合の名前ではなくなっていて、神峰温泉という名が書かれていた。




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)



阿来「大地の階段」 99第7章 河の源流へと遡る

2012-09-20 02:44:03 | Weblog
4 地理と自然 その2



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)





 その頃の古爾溝温泉があったのは、現在のような公道の近くではなかった。
 ギャロンチベット地区ではよく見られる伸臂橋(持ち送り式の橋)の幅広で厚い木の板を敷いた橋面を渡り、対岸から山へ登って行った。

 細い路が、山の斜面に作られた耕地通り抜け、ギャロンらしさが濃く漂っている村を通り抜けていく。最後に小道はカバ、マツ、スギ、ムクゲの混交する森林に入る。
 私はそこに行ったことがある。森林の中の柔らかくてでこぼこした小道を踏みしめて行った。
 しばらく進んで行くと温泉特有の微かな硫黄の匂いが漂ってくる。
 
 更に行くと、一団の霧が谷の間に立ち昇っている。
 そこが古爾溝温泉が湧き出している場所である。

 ギャロン人が年に一度温泉に入るのは、娯楽として遠出するためではなく、病気と邪悪なものを取り除くためである。

 湧き出し口が一番大きな源泉で入浴すると、体力の消耗はかなり激しい。体質の弱い人は10数分で眩暈がしてくる。
 耐えられなくなったら、温泉から出て自分のテントの中に座り、休みながらおいしいものをたらふく食べる。体力が回復したらまた湯の中に入り、忍耐強く浸かる。
 このような循環を何回も繰り返せば、一新した爽やかな体で自分の村に戻れるし、これからの一年の難儀な生活に備えることが出来る。

 温泉場にはいくつかの小さな湧き出し口がある。
 その中の一つの温泉水には胃腸病を治す神秘的な効果があるといわれている。
 
 治療法はとても簡単だ。たくさん温泉水を飲み、その後、適当な場所を探して胃の中の不要なものを吐いてきれいにする。全部吐いたらまたテントに戻って食べ、その後また温泉水を飲む。消化器系統の中にたまっている毒素と汚いものをすべてきれいに洗い流したと思えるまでこれを繰り返す。

 また一つの湧き出し口は、石の真ん中から親指くらいの太さの水柱がちょろちょろと上がっている。

 この水は髪の毛を洗うのに使う。特に偏頭痛の病人は数日休まず洗うとかなり良くなるといわれている。
 また頭痛がぶり返すのは、たぶん次の年の春頃で、また温泉に来ればいい。
 
 この温泉水は、目を洗うのにも良く使われている。
 すると、目の病気を治せるだけでなく、一切の不浄なモノを見ないですむといわれている。そのモノとは、林の中の物の怪、亡くなった人の魂、そして、奇妙奇天烈な漢語の中ではふさわしい言葉を探せない神秘的な存在が含まれている。

 私の生まれた村では、別の世界にしか存在しないモノをしょっちゅう見ると言う人がいると、誰もが「こいつは温泉に行って目を洗った方がいいな」と言うのである。




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)







阿来「大地の階段」 98第7章 河の源流へと遡る

2012-09-05 12:37:15 | Weblog
4 地理と自然 その1



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)





 私はウォーロンのはずれの雪に覆われた巴朗山には行かなかった。元の路を折返し、国道213号線の映秀に戻り、ここから、続けて岷江に沿って上って行った。

 車で一時間ほど走った頃、窓から顔を出してみると、視線に入るものはすべて木も草もない禿山だった。この山の上のどこかが、ワス土司の当時すでに落ちぶれ始めていた集落だったのだが。
 もし私がこの山の上まで登ったら、この本はすべていくつかの歴史物語で埋められ、自然からは離れてしまったかもしれない。

 この旅が始まった時、この章に決めた主題が「地理と自然」だった。

 地理とは二つの河と一つの山である。自然とは、この河の両岸と大きな山の頂きや峰の自然である。

 成都から約150km離れた汶川県の県城威州山鎮で、岷江の主流は北へ向って折れ、そのまま松潘へ通じている。この街道に沿って北上すると有名な景勝地・黄龍がある。
 さらに北西に進むと、岷江の源流で弓杠嶺を越え、もう一つの水系嘉陵江流域に入る。その中の一つの支流白龍江のほとりが、世界自然遺産に加わった景勝地・九塞溝である。

 私はかつて自分の足でこの水流の上流の地理を実地調査したことがある。だが、この路線はギャロン領内ではないので、今回の旅からは省略することにした。

 私が採った路線は汶川から西へと向い、ほんの少し南に寄っている。岷江に沿った重要な支流ザクナオ河を上っていくものである。
 この路の両側は、かつて強大だったザク土司の統括地だった。現在の理県のほとんど全域にあたる。

 その夜理県に泊まるつもりだったが、県城の周りの荒涼とした風景は、目を背けたくなるようなものだった。さらに言えば、理県県城の周りは、わずかな民家とギャロンの特色を残す石の砦以外、そこを出入りする人々の生活の中に、すでに本当のギャロンの姿を取り戻す余地はなくなっていたのである。

 すでに夕日が傾く時分になっていた。公道の傍らに行き、小さな食堂の前で腰を下ろした。
 一台のトラックが走って来たので、乗せてくれと頼んだが運転手はまるで相手にしてくれなかった。我慢強く彼が食事を終えるのを待ち、そのうえタバコを一本差し出した。
 彼はニヤッとして言った「どんな仕事してるんだ」
 私は答えた「少なくとも、道路を管理する仕事じゃないよ」
 今回、彼はやっと首を縦に振った。

 彼のような長距離トラックの運転手にとって、路上で管理する役人はたくさんいる。交通警察、林業警察、防疫係りおよびその他の名前がよくわからない何々係り。
 普通、運転手はこれらの国家の役人を避けたがるものだ。

 30㎞以上走って、古爾溝で降りた。
 今度は運転手の顔に残念そうな表情が現れた。なぜなら、彼は夜間に長距離を運転するつもりで、これから越える大きな山の頂上で一緒にタバコを吸い話をする相手が欲しかったのだ。
 一瞬、私もちょっと心が揺らいだ。
 それは運転手の名残惜しそうな眼差しのためとではなく、車の前の強烈な光の柱が思い浮かんだからだ。路傍の木々を、渓流、切り立った崖、そしてすべてのものを一つ一つ照らし出し、次々と後ろの暗闇に放り投げる光の柱。
 私は一人でそれに感動していた。

 だがやはり、私はここの温泉に入りたかった。
 そこで車から飛び降り、運転手に別れを告げた。

 古爾溝という地名は、漢とチベットの言葉が混合している名前であり、これもまたこの地の人々の生活や習慣を物語っている。
 そして古爾溝がなぜ有名かといえば、温泉があるからである。

 ギャロンチベット族は温泉の治療効果を強く信じている。
 私の故郷は、ここから遠く離れた雪山の反対側のソマ川の河岸にあるが、故郷の人たちはよくここへ来る。長く厳しい道程を経て、温泉に浸かる。

 それは毎年春の終わり、ハダカムギの種とソラマメの種を畑に撒き終えた時期。雪はだんだんと雨に変わる。河の岸辺の草地がやっと淡い緑を伸ばし始める。種は土の下の暖かく潤った暗がりの中でゆっくりと芽生えていく。
 この季節の農民は、畑の周りの柵を修理する以外、基本的には何もすることがないのである。

 一年で最ものんびりしたこの時、たくさんの人が数百里も離れた場所から温泉に向って出発する。

 その頃、広々と開けた農村の間にはすでに公道が出来ていたのだが、ギャロンの農民は温泉に行く時は、やはり馬を準備する。
 馬の背に、テントと上等の食べ物、たとえば、年代物の豚の脚の燻製、腸詰、卵、熊の肉、そして、蜂蜜と自家製の焼酎を積む。老人、特に老婦人は小さなロバに乗ることもある。
 彼らは短くても3から5日、長ければ10日以上の旅をする。そしてやっと温泉に来ることが出来るのである。

 テントを張り、一年に一度のゆったりとした温泉での日々が始まる。




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)








阿来「大地の階段」 97第7章 河の源流へと遡る

2012-08-14 18:38:08 | Weblog
3パンダを発見する その3





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)





 そして今、保護区のある山野の中でも、パンダの運命はやはり危機に瀕している。

 パンダの毛皮が売られるのは、それが大きな金額を意味しているからである。特に深い山の中で依然として貧しく苦しい環境に身を置いている農民にとって、この数字は一生の労働でも想像できない額なのだ。

 80年代の初め、中国人が金持ちになるという夢を持ち始めたころ、「万元戸」は何よりも眩しく魅惑的な名前だった。そして、あの辺鄙な深い山々の中で、皆がパンダのことを万元戸と呼んでいるのを聞いたことがある。

 パンダの密猟事件として検挙されると、法的な処罰はかなり厳しい。
 だが、深い山の中で生活に苦しんでいる農民は、まだ本当には私たちと同じような環境保護の視点を持っていない。

 彼らには疑問なのだ。どうしてただの野獣の存在が人間よりも重要なのか、どうして人の命がパンダよりも低く見られているのか。

 だが、パンダの直面しているより厳しい問題は、密猟ではなく、パンダの活動地域の人口が増えるに連れて、人の活動範囲が少しずつ広がってきたことである。
 四川の北の山部に広がっているパンダの生息地は、人類が休むことなく接近してきたために、日増しに縮まっていった。
 最後には、パンダの生息地はこの大陸上のいくつかの孤島になってしまった。

 それぞれの生物的孤島にいるパンダにとって、同じ種の仲間の数の減少と、自身の著しく退化してしまった生育能力のために、さらに厳しい挑戦を受けている。

 厳しい刑罰と法律の抑止の下、密猟者の挙げた手を下ろさせることはできるだろう。
 だが、このような生態環境の悲劇はどんな方法で避けることが出来るのか、私には思いつかない。少なくとも、山々の中を歩いている時に、生態環境が短期間のうちに好転するだろう兆しを見ることは出来なかった。

 ウォーロンでのこの夜、雨が降った。雨の中の寒気が十分に重々しく感じられた。これは山の上で雪が降ったためだ。
 だが、霧雨は重く、私の視線は遠くまで届かず、そのまま遮断されてしまった。
 招待所の部屋へ戻り、足を布団の中にもぐり込ませ、さっき買ったばかりのパンフレットを見た。

 これらの美しく印刷された写真集の到る所に、明るくやわらかい光の下での無邪気であどけないパンダの姿が載せられている。写真集の中のパンダはあたかも天国に暮しているかのように見える。

 これらは、自然を熱愛すると称する人々の傑作である。だが、これらはすべて公衆の視線、世界の視線の中で巨大な集合体を形成していて、それは、少しばかり天下泰平を謳歌しすぎている。

 遠慮せずに言えば、自分自身を欺いている匂いが感じられるのである。

 これは粉飾に長けた中国の知識階級が撒き散らすあの匂いである。

 あるパンダ専門家が私にこう言った。
 実際には写真集に印刷されたたくさんのパンダたちの大部分は、すでに死んでいる。死んだのは「さまざまな原因による」のだ、と。
 そして、すべての中国人はこの短い言葉を聞くと、特別に意味深長なものを感じてしまうのである。

 「さまざまな原因により」、これらのパンダが写真集の中で天真爛漫に私たちを見つめている間も、彼らの同類は深い山里で困難とともに生存している。
 たとえば、現在、雪線は日一日と山の頂から下に降りて来て、厳しいい寒さと食べ物に事欠く冬が、すでにやって来ているのである。
 





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)



阿来「大地の階段」 96第7章 河の源流へと遡る

2012-08-04 02:57:29 | Weblog
3パンダを発見する その2



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)







 初めて野性の環境の中でパンダを見た西洋人は、1929年のルーズベルト兄弟と1931年のドラン探検隊である。
 彼らは始めて野生状態のパンダを見ただけでなく、文明的な西洋人でありながら、当地の狩人と同じに銃を取ってパンダを射殺した。その中のシェラーというドイツの博物学者は、自ら1歳にもならないパンダを木の下へと撃ち落したのである。

 1936年、アメリカ人ルース・ハークネスは野外で幼いパンダを生け捕りにし、国に連れ帰って全世界に公表し、自らの名を轟かせた。

 このアメリカの女性は、ギャロンのパンダ生息地に足を踏み入れた時、野外探検の経験はまるでなかった。

 彼女の夫は裕福な家庭で育ち冒険を好んだ。1934年、彼はコモド島で巨大なコモドオオトカゲを生きたまま捕獲し、ニューヨークの動物学会に送っている。
 その年の終わり、ウイリアムは新婚二ヶ月の妻を置いてパンダを捕獲するために中国へ向った。
 1936年、ウイリアムは上海で病死。二ヵ月後、ルースは上海にやって来て彼の探検を引き継いだ。

 ルースと彼女の探検隊員はウォーロン周辺に到着する。彼女の下にはアメリカ籍の中国人がいて、アメリカ名をクエンティンといった。
 ルースは彼女の『淑女とパンダ』という本の中で、始めて野生のパンダを捕まえた時の様子を記録している。


 クエンティンは突然歩みを止めた…彼はしばらくじっと耳を傾け、すぐに早足で前に進んで行ったので、私はほとんど着いていけなかった。
 そっと揺れる湿った木の枝を透かして、彼が枯れた大きな木に近づいていくのがぼんやりと見えた。
 …枯れた木の中から赤ん坊の泣き声が聞こえた。

 私はほんの少しの間意識を失っていたようだ。気がついた時にはもう、クエンティンが両腕を伸ばして私の方へ近づきつつあった。
 彼の手の平にはもぞもぞともがいているパンダの赤ん坊が乗っていた。
 私は無意識に手を伸ばし、この小さなモノを受け取っていた。
 手の中のフワフワとした触感が、ついさっき見た夢を現実にした。




 貴重な獲物を連れて出国する時、税関の妨害に遭った。だが彼女は最後には「子犬一匹・価格20元」という証明書を使って、パンダを連れて上海を去って行ったという。

 ルースはこのパンダに、中国のレディーらしい名前を付けた。
 スーリン。

 スーリンはニューヨークの動物学会に連れて行かれたが、動物園は金を出して購入することを拒否した。なぜなら、主管の役人が、パンダの生まれつきの弓形の足と内反足をクル病のためだと思ってしまったのである。

 そこで、第一頭目の海を超えたパンダ・スーリンは、シカゴ動物園に移された。

 1938年4月、このパンダは肺炎で死んだ。

 かつてニューヨーク動物学会長を務めたティーバンは、スミスという動物商人が1941年に中国に行き、二頭のパンダを連れて戻って来るまでの様子を詳しく記している。


 彼は当地の人々に大々的な広報を行った。
 たくさんの看板を立てて、当地の狩人への懸賞金額を公表した。
 行った所すべてに相談センターを作った。
 
 彼はまた、猟師の親方に特別手当てを渡し、親方を通じて農民、薬草取り、炭焼きなど、山林の奥に入って行く人たちに金を贈った。



 ある統計によると、1936年から1946年の間に、14頭のパンダが外国人によって様々な方法で国外の動物園へ連れて行かれたという。

 こうして、世界中が中国のパンダを知ることになり、世界で最も権威のある世界自然保護基金(WWF)はパンダを自分たちのシンボルマークとした。




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)