★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304
物語:トトン天に帰る その1
ムヤの法王がケサルに得度されたのを見て、トトンが大声で言った。
「大王よ、今こそ大軍を送り、ムヤを一網打尽にする時じゃ」
すぐにチンエンが上奏した。
「大王様、法王でさえ最期に臨んで善の心を持ちました。俗王ユアントンバはそれ以上に善を求める者です。兵を挙げてはなりません」
ケサルは微笑んで答えた。
「チンエン、良く言った。今回ムヤへはただ数人の臣下のみを連れて来た。妖魔を鎮めるための法器を手に入れ、メイサを救いだすことが目的だったからだ。それはすでに達成されたのだ」
言い終ると、身を翻して神馬にまたがり、チンエン、タンマ、ミチオンなど数人の将軍と大臣も馬に乗って続き、ムヤの境界へと飛ぶように駆けて行った。
風のように疾走しながら、神馬は人の言葉で詩を作り歌った.
「豊かな羽根を纏ったハイタカのように天を駆ければ、
瀑布が千里を流れるかのように尾は翻る。
天上の神々よ、
我らのためにムヤの雪山の扉を開けてください」
すると天の際に高く聳え、連なる雪の峰はその位置を移し、すべての峡谷が目の前で開け、道を作った。
チンエンがケサル一行をムヤの王宮へ導くと、ムヤ王ユアントンバとメイサが王宮の長い階段を駆け下り、ケサル大王を迎えた。
ユアントンバはケサルにハタを捧げた。
「尊敬する獅子王ケサル大王様、あなたの慈しみに感謝致します。我が兄を地獄へ送ることなくお許しくださいました。願わくば更に大きな慈悲で我々の民を戦いの苦しみを味あわせないで下さい。謹んでムヤのすべてを献上いたします」
ケサルはユアントンバを暖かい言葉で慰めた。
「今回私はムヤへ来るのに一人の兵も連れてこなかった。妖魔を倒す法器以外、リンはムヤに一滴の水も要求しない。ムヤの草原の一本の花も持ち去りはしない。そなたは心穏やかに国王となられよ」
メイサも上等なハタを献上した。
「尊敬する王様。私はリン国に生まれ、父母の愛を受けて育ち、王様の妃となりました。異国に捕らわれの身となった時、心ならずも魔国の王に仕えました。そして、胸に潜んだ恨みを晴らそうとして、リン国の偉大な英雄、王様の親愛なる兄、ギャツァ様を失わせてしまいました。今また、妖魔を倒す宝を手に入れるためにユアントンバの妃となりました。大王様、これからはもう男たちの間を彷徨いたくはありません。ムヤに留まり、ここでこの世を終わらせるのをお許しください」
この言葉を聞いてケサルの心は重かった。だが、この度メイサがムヤに捕らわれたのはリン国のために功績を立てようとしたからだと思い至り、跪いたままのメイサを自ら助け起こした。
「メイサよ、幾度か繰り返えされた行いも、その中に間違いがあったとは言え、もととなる所以はそなたにあるのではない。それはリン国の民はみな知っており、天の神々もすべてご存知だ。早く支度を整えリン国に戻り、私たちの深い縁を続けて行こうではないか」
そう言ってケサルが手を振ると、メイサの体に羽衣が纏わり、もう一度手を振ると、その体は空高くに浮かびあがった。
メイサは何か言おうとしたが最早どうすることも出来ず、心が乱れたままムヤの王宮の上を三度回り、鶴が鳴くかのような悲喜こもごもの嘆きの声を残し、ムヤの王から渡された宝の蔵の鍵を空から投げると、翼を広げて飛んで行った。
その様子を見て、ユアントンバの心は刀でえぐられるようだったが、ケサルの前では哀しみの色を見せるわけにはいかず、涙が体の中を音を立てて流れるに任せた。その音は目まいがするほどに震えていた。
彼は力を奮い起こしケサルと君臣を宮中に迎え入れ、酒宴を設け、更にどのような法器が必要かとケサルに尋ねた。メイサとジュクモがすでに二つの法器を手に入れたのを知っていたからである。
ケサルは、アサイ羅刹のトルコ石の髪を、と答えた。
それを聞いてユアントンバは困惑の表情を浮かべた。彼は国にそのような仙人がいて、ユズトンバとは親密な間柄だったということは知っていた。だが、法術の秘儀には一向に興味がなく、そのためアサイの体の一部である法器を手に入れる方法も、彼が密かに修練する場所も知らなかった。ユアントンバはメイサが残していった宝の蔵の鍵をケサルに渡して言った。
「他にも、この国の蔵に必要な宝物や法器がありましたら、どれもリン国へお持ち下さい」
宝の蔵を開けると、すでにメイサがリン国に送った蛇心檀香木の他に、隕石で作られた器が見つかった。中にはジャコウジカから取った心臓を守る油が入っていた。
ユアントンバは言った。遥かな伽国へ行くには、木々の生い茂った密林や強い毒を持ったクマアリのいる場所をいくつも通らなくてはなりません、この護心油を持っていれば、どんな毒も侵入できず、優れた護身の宝となるでしょう、と。
ケサルはムヤ王に感謝し、臣下を連れてリン国へ帰った。
国王が戻ったのを聞き、ジュクモは正装して、宮殿の外で出迎えた。彼女のふっくらとした顔だちは、昇ったばかりの月のよう、緩やかな眉は雪の解けたばかりの遥かな山のようだった。見つめ合えば、そよ風が湖面を優しく撫でたよう、その輝きは幻かと思われた。
ジュクモは自らムヤから持ち帰った宝物を献上した。
ケサルは言った。
「誰もがそなたとメイサの働きを忘れないだろう」
ジュクモは心の中で微かな不満を覚えたが、ケサルはすでに話題を変え、誰がアサイ羅刹を探し出せるか尋ねた。だが、大臣たちは静まり返ったままだった。
ケサルは声を高めた。
「この世にはもともとアサイ羅刹はいなかったとでもいうのか」
この言葉に大臣たちは黙ったまま恥入り、うなだれていたが、ただトトンだけが得たりとばかりほくそ笑んだ。
この男は少し前まで牢の中で生死も定められず、顔にはまるで埃を被ったようなみじめな表情を浮かべていたのだった。
今、彼はみなと共に席に着き、入念に整えた髭を脂で光らせ、よく通る声で言った。
「首席大臣とはすべてを知る者だ。いや、首席大臣として当然知っているべきことではないのかな」
物語:トトン天に帰る その1
ムヤの法王がケサルに得度されたのを見て、トトンが大声で言った。
「大王よ、今こそ大軍を送り、ムヤを一網打尽にする時じゃ」
すぐにチンエンが上奏した。
「大王様、法王でさえ最期に臨んで善の心を持ちました。俗王ユアントンバはそれ以上に善を求める者です。兵を挙げてはなりません」
ケサルは微笑んで答えた。
「チンエン、良く言った。今回ムヤへはただ数人の臣下のみを連れて来た。妖魔を鎮めるための法器を手に入れ、メイサを救いだすことが目的だったからだ。それはすでに達成されたのだ」
言い終ると、身を翻して神馬にまたがり、チンエン、タンマ、ミチオンなど数人の将軍と大臣も馬に乗って続き、ムヤの境界へと飛ぶように駆けて行った。
風のように疾走しながら、神馬は人の言葉で詩を作り歌った.
「豊かな羽根を纏ったハイタカのように天を駆ければ、
瀑布が千里を流れるかのように尾は翻る。
天上の神々よ、
我らのためにムヤの雪山の扉を開けてください」
すると天の際に高く聳え、連なる雪の峰はその位置を移し、すべての峡谷が目の前で開け、道を作った。
チンエンがケサル一行をムヤの王宮へ導くと、ムヤ王ユアントンバとメイサが王宮の長い階段を駆け下り、ケサル大王を迎えた。
ユアントンバはケサルにハタを捧げた。
「尊敬する獅子王ケサル大王様、あなたの慈しみに感謝致します。我が兄を地獄へ送ることなくお許しくださいました。願わくば更に大きな慈悲で我々の民を戦いの苦しみを味あわせないで下さい。謹んでムヤのすべてを献上いたします」
ケサルはユアントンバを暖かい言葉で慰めた。
「今回私はムヤへ来るのに一人の兵も連れてこなかった。妖魔を倒す法器以外、リンはムヤに一滴の水も要求しない。ムヤの草原の一本の花も持ち去りはしない。そなたは心穏やかに国王となられよ」
メイサも上等なハタを献上した。
「尊敬する王様。私はリン国に生まれ、父母の愛を受けて育ち、王様の妃となりました。異国に捕らわれの身となった時、心ならずも魔国の王に仕えました。そして、胸に潜んだ恨みを晴らそうとして、リン国の偉大な英雄、王様の親愛なる兄、ギャツァ様を失わせてしまいました。今また、妖魔を倒す宝を手に入れるためにユアントンバの妃となりました。大王様、これからはもう男たちの間を彷徨いたくはありません。ムヤに留まり、ここでこの世を終わらせるのをお許しください」
この言葉を聞いてケサルの心は重かった。だが、この度メイサがムヤに捕らわれたのはリン国のために功績を立てようとしたからだと思い至り、跪いたままのメイサを自ら助け起こした。
「メイサよ、幾度か繰り返えされた行いも、その中に間違いがあったとは言え、もととなる所以はそなたにあるのではない。それはリン国の民はみな知っており、天の神々もすべてご存知だ。早く支度を整えリン国に戻り、私たちの深い縁を続けて行こうではないか」
そう言ってケサルが手を振ると、メイサの体に羽衣が纏わり、もう一度手を振ると、その体は空高くに浮かびあがった。
メイサは何か言おうとしたが最早どうすることも出来ず、心が乱れたままムヤの王宮の上を三度回り、鶴が鳴くかのような悲喜こもごもの嘆きの声を残し、ムヤの王から渡された宝の蔵の鍵を空から投げると、翼を広げて飛んで行った。
その様子を見て、ユアントンバの心は刀でえぐられるようだったが、ケサルの前では哀しみの色を見せるわけにはいかず、涙が体の中を音を立てて流れるに任せた。その音は目まいがするほどに震えていた。
彼は力を奮い起こしケサルと君臣を宮中に迎え入れ、酒宴を設け、更にどのような法器が必要かとケサルに尋ねた。メイサとジュクモがすでに二つの法器を手に入れたのを知っていたからである。
ケサルは、アサイ羅刹のトルコ石の髪を、と答えた。
それを聞いてユアントンバは困惑の表情を浮かべた。彼は国にそのような仙人がいて、ユズトンバとは親密な間柄だったということは知っていた。だが、法術の秘儀には一向に興味がなく、そのためアサイの体の一部である法器を手に入れる方法も、彼が密かに修練する場所も知らなかった。ユアントンバはメイサが残していった宝の蔵の鍵をケサルに渡して言った。
「他にも、この国の蔵に必要な宝物や法器がありましたら、どれもリン国へお持ち下さい」
宝の蔵を開けると、すでにメイサがリン国に送った蛇心檀香木の他に、隕石で作られた器が見つかった。中にはジャコウジカから取った心臓を守る油が入っていた。
ユアントンバは言った。遥かな伽国へ行くには、木々の生い茂った密林や強い毒を持ったクマアリのいる場所をいくつも通らなくてはなりません、この護心油を持っていれば、どんな毒も侵入できず、優れた護身の宝となるでしょう、と。
ケサルはムヤ王に感謝し、臣下を連れてリン国へ帰った。
国王が戻ったのを聞き、ジュクモは正装して、宮殿の外で出迎えた。彼女のふっくらとした顔だちは、昇ったばかりの月のよう、緩やかな眉は雪の解けたばかりの遥かな山のようだった。見つめ合えば、そよ風が湖面を優しく撫でたよう、その輝きは幻かと思われた。
ジュクモは自らムヤから持ち帰った宝物を献上した。
ケサルは言った。
「誰もがそなたとメイサの働きを忘れないだろう」
ジュクモは心の中で微かな不満を覚えたが、ケサルはすでに話題を変え、誰がアサイ羅刹を探し出せるか尋ねた。だが、大臣たちは静まり返ったままだった。
ケサルは声を高めた。
「この世にはもともとアサイ羅刹はいなかったとでもいうのか」
この言葉に大臣たちは黙ったまま恥入り、うなだれていたが、ただトトンだけが得たりとばかりほくそ笑んだ。
この男は少し前まで牢の中で生死も定められず、顔にはまるで埃を被ったようなみじめな表情を浮かべていたのだった。
今、彼はみなと共に席に着き、入念に整えた髭を脂で光らせ、よく通る声で言った。
「首席大臣とはすべてを知る者だ。いや、首席大臣として当然知っているべきことではないのかな」