(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)
9 過去の橋と今日の路 その1
小金県を発ち、ツァンラ大地の旅を続けた。
どこの場所でも、いつの時でも、私の旅は過去の旅の記憶をなぞることになる。そして今回も、「大地の階段」と名づけたこの本の契約を北京でした後、凶悪な神のように大きく高い山が連なっているためにツァンラと呼ばれている山の中を、再び歩いてみることにした。
その一歩を踏み出す時の心持ちは、以前丹巴県城で「野人」を書いた時とまるで同じだった。
ちょうど長江文芸出版社から私の二冊目の小説集「月光の中の銀細工師」が届いた。旅の途中でもう一度「野人」を読み直し、次の段落を書き写してみた。
10年の歳月が過ぎてはいても、途中の感動と感情の昂ぶりは当時とまるで同じだった。
「地図の上の河の流れを表す青い曲線に沿って、目線をうねうねと北に走らせ、大渡河の中流へ、上流へと走らせた時、大きな山の陰で涼しげな風がそよぐのを感じた。すでに旅が始まり、山路を歩いているかのように。
山々の作る巨大な影と眩い光の間を幾度となく突き進み、様々な場所を通り過ぎていく自分の姿が見える。路は絶えずその先へと伸びていく。
人々の服飾、肌の色、話す言葉、心のありようが、いつのまにか様々に変化しているのも見えてくる。
そうして、人生に身を投じ、広い大地に身を投じ、芸術に身を投じようという、高邁な感情が自然に沸き起こってくるのだった」
だが、今回私はほとんどの時間を車の中で過ごし、小金県に着いてやっと車を置いて歩き始めた。
私がこのような方法をとったのは、ただ、空白の部分、過去の旅でうかつにも見落としていた部分を補いたいと思ったからだ。
小金県を出て北へ2km、小金川の主流に鉄の鎖が架かっていて、当地の人はこれを猛固橋と呼んでいる。
このような橋を鉄索橋と呼んでいるようだが、それはあまり正確とは言えない。こう呼ぶと、工業生産されたケーブルの橋を思い起こしてしまう。
正確に言えば、このような橋は鎖橋と呼ぶべきだろう。
一つ一つの鉄の鎖は、昔の名もない鍛冶屋が一つ一つ打ち出したものだ。
その当時、鍛冶屋の炉は橋の袂に作られていたという。
赤々と燃える炉の火、熱せられて火花を散らす金床、加治屋たちのたこだらけの手が、硬い鉄の塊を丸い鉄の輪へと変える。鉄の輪は一つ一つ繋がれ、繋ぎ目がきつく閉じられる。そうしてやっと激流の上に架かる鉄の鎖となる。
猛固橋は、このような鉄の鎖五本から出来ている。
三本は橋の床面、二本は手すりである。
このような構造の鎖橋は、大渡河流域ではこの橋が初めてではない。
初めて現れたのは、映画の中でおなじみの濾定橋である。次が、小金県城の三関橋、そしてこの橋が現れた。私はすでにこれら三つの同じ構造の橋を見たが、ただ大きさが違うだけだった。
前の二つの橋は、今も使われている。そのため、橋の床面に板が敷かれていて、更に、橋の両側の袂に櫓のついた門が作られている。ただ猛固橋だけは、付属する建物が何も無い。
だが、その勇壮さはこの地の人がつけた名にふさわしい。
床板を並べさえすれば、その上を歩いても、安全に関しては何の心配も感じないはずだ。
ただし、もう永遠に鉄の輪と輪をしっかりと絡み合わせた鎖に床板を敷く人はいないだろう。
一つの時代が過ぎ去ってしまえばその時代と共にあった宿場も路もあっという間に荒草と流砂の中に埋もれてしまうのだから。
そして今は、空に架かる鉄の鎖の下に、何の変哲もないコンクリートのアーチ型の橋が両岸の公道をつないでいる。
この橋を過ぎ、小金川の主流に沿って北へ向うと、そこは紅軍が長征した道である。
その年、朱・毛の率いる紅軍はここから北上し、長征の途中では二番目に大きな雪山・夢筆山を越え、現在のマルカム県のゾクジ土司の領内に至り、体勢を整えてから続けて北上した。
だが、私の今回の旅は小金県のもう一つの土司、ウオリ土司のかつての領地を訪ねるのが目的である。そこで、この橋を渡らず、四姑娘山へと至る公道の道なりに、ダーウェイ河に沿って東へと進んで行った。
この公道は四姑娘山の麓へ至り、日隆から、岷江と小金川の分水嶺である巴郎山を登り、ウォロン自然保護区を出て映秀で国道213号線と交わる。更に10kmほど行くと、岷江と共に、山々が作る障壁を突破して、岷江が運ぶ雪山の水を利用して四川盆地のほとんど全てがその恩恵にあずかっている都江塸に至る。
都江塸から成都まではわずか50km程である。
だが今回私はそのような遙かな道を歩く必要はない。
私はただ、二日の道のりの村ダーウェイまで行き、河岸の台地の上に建てられたウオリ土司の官寨を見ればそれでいいのだから。
20世紀80年代に二、三度ここを通ったことがある。だが、その当時私はまだ土司の歴史について特別な興味を持っていなかった。
そのため、傾き崩れかかった建物は、通りすがりの風景であり、特別な印象を残さなかった。
土司の時代のすべてに特別な興味を持つようになるまで、うかつにもさっさと通り過ぎていたのである。
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)
9 過去の橋と今日の路 その1
小金県を発ち、ツァンラ大地の旅を続けた。
どこの場所でも、いつの時でも、私の旅は過去の旅の記憶をなぞることになる。そして今回も、「大地の階段」と名づけたこの本の契約を北京でした後、凶悪な神のように大きく高い山が連なっているためにツァンラと呼ばれている山の中を、再び歩いてみることにした。
その一歩を踏み出す時の心持ちは、以前丹巴県城で「野人」を書いた時とまるで同じだった。
ちょうど長江文芸出版社から私の二冊目の小説集「月光の中の銀細工師」が届いた。旅の途中でもう一度「野人」を読み直し、次の段落を書き写してみた。
10年の歳月が過ぎてはいても、途中の感動と感情の昂ぶりは当時とまるで同じだった。
「地図の上の河の流れを表す青い曲線に沿って、目線をうねうねと北に走らせ、大渡河の中流へ、上流へと走らせた時、大きな山の陰で涼しげな風がそよぐのを感じた。すでに旅が始まり、山路を歩いているかのように。
山々の作る巨大な影と眩い光の間を幾度となく突き進み、様々な場所を通り過ぎていく自分の姿が見える。路は絶えずその先へと伸びていく。
人々の服飾、肌の色、話す言葉、心のありようが、いつのまにか様々に変化しているのも見えてくる。
そうして、人生に身を投じ、広い大地に身を投じ、芸術に身を投じようという、高邁な感情が自然に沸き起こってくるのだった」
だが、今回私はほとんどの時間を車の中で過ごし、小金県に着いてやっと車を置いて歩き始めた。
私がこのような方法をとったのは、ただ、空白の部分、過去の旅でうかつにも見落としていた部分を補いたいと思ったからだ。
小金県を出て北へ2km、小金川の主流に鉄の鎖が架かっていて、当地の人はこれを猛固橋と呼んでいる。
このような橋を鉄索橋と呼んでいるようだが、それはあまり正確とは言えない。こう呼ぶと、工業生産されたケーブルの橋を思い起こしてしまう。
正確に言えば、このような橋は鎖橋と呼ぶべきだろう。
一つ一つの鉄の鎖は、昔の名もない鍛冶屋が一つ一つ打ち出したものだ。
その当時、鍛冶屋の炉は橋の袂に作られていたという。
赤々と燃える炉の火、熱せられて火花を散らす金床、加治屋たちのたこだらけの手が、硬い鉄の塊を丸い鉄の輪へと変える。鉄の輪は一つ一つ繋がれ、繋ぎ目がきつく閉じられる。そうしてやっと激流の上に架かる鉄の鎖となる。
猛固橋は、このような鉄の鎖五本から出来ている。
三本は橋の床面、二本は手すりである。
このような構造の鎖橋は、大渡河流域ではこの橋が初めてではない。
初めて現れたのは、映画の中でおなじみの濾定橋である。次が、小金県城の三関橋、そしてこの橋が現れた。私はすでにこれら三つの同じ構造の橋を見たが、ただ大きさが違うだけだった。
前の二つの橋は、今も使われている。そのため、橋の床面に板が敷かれていて、更に、橋の両側の袂に櫓のついた門が作られている。ただ猛固橋だけは、付属する建物が何も無い。
だが、その勇壮さはこの地の人がつけた名にふさわしい。
床板を並べさえすれば、その上を歩いても、安全に関しては何の心配も感じないはずだ。
ただし、もう永遠に鉄の輪と輪をしっかりと絡み合わせた鎖に床板を敷く人はいないだろう。
一つの時代が過ぎ去ってしまえばその時代と共にあった宿場も路もあっという間に荒草と流砂の中に埋もれてしまうのだから。
そして今は、空に架かる鉄の鎖の下に、何の変哲もないコンクリートのアーチ型の橋が両岸の公道をつないでいる。
この橋を過ぎ、小金川の主流に沿って北へ向うと、そこは紅軍が長征した道である。
その年、朱・毛の率いる紅軍はここから北上し、長征の途中では二番目に大きな雪山・夢筆山を越え、現在のマルカム県のゾクジ土司の領内に至り、体勢を整えてから続けて北上した。
だが、私の今回の旅は小金県のもう一つの土司、ウオリ土司のかつての領地を訪ねるのが目的である。そこで、この橋を渡らず、四姑娘山へと至る公道の道なりに、ダーウェイ河に沿って東へと進んで行った。
この公道は四姑娘山の麓へ至り、日隆から、岷江と小金川の分水嶺である巴郎山を登り、ウォロン自然保護区を出て映秀で国道213号線と交わる。更に10kmほど行くと、岷江と共に、山々が作る障壁を突破して、岷江が運ぶ雪山の水を利用して四川盆地のほとんど全てがその恩恵にあずかっている都江塸に至る。
都江塸から成都まではわずか50km程である。
だが今回私はそのような遙かな道を歩く必要はない。
私はただ、二日の道のりの村ダーウェイまで行き、河岸の台地の上に建てられたウオリ土司の官寨を見ればそれでいいのだから。
20世紀80年代に二、三度ここを通ったことがある。だが、その当時私はまだ土司の歴史について特別な興味を持っていなかった。
そのため、傾き崩れかかった建物は、通りすがりの風景であり、特別な印象を残さなかった。
土司の時代のすべてに特別な興味を持つようになるまで、うかつにもさっさと通り過ぎていたのである。
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)