塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

E・M.・フォースター『天使も踏むを恐れるところ』

2019-11-20 16:37:26 | 読書

E・M.・フォースター『天使も踏むを恐れるところ』 


フォースターは二つの国、異なった文化の間で人は互いを理解しあうことが可能なのか、その中で人はどのような反応をするのかを知るために小説を書いていると思える。「インドへの道』も『ハワーズエンド』もそうだった。
処女作ともいえるこの『天使も踏むを恐れるところ』を読めば、初めからすでにその主題が確立されていたのがわかる。

未亡人になりながらも、婚家から解放されずにいるイギリス女性リリアが、気分転換に旅したイタリアの小さな町で結婚を決めることから物語は始まる。これもその後の小説に共通する始まり方だ。
婚約を伝える手紙が周りの人々を巻き込み、思わぬ悲劇へと進んでいく。だが、その過程で右往左往する登場人物たちの様子は軽快で喜劇的だ。

結婚相手のイタリア男性ジーノは美しいがいい加減な男で、リリアは翻弄され、男の子を生みおとすと死んでしまう。
そしてまた始まるのがその子をめぐるドタバタである。

子供を取り戻そうとイタリアに向かうのはリリアの義理の姉ハリエットと弟フィリップ、リリアと旅した友人アボットの三人、そしてジーノも含め、登場人物はそれぞれの目的を達成しようとして、悩み、憎み、争い、共感し、改め、和解し、ほとんど愛に近づきさえする。そしてそれらすべての感情が会話となり、言葉として相手に投げかけられる。
まるでシェークスピアの喜劇のようだ(と言っても、私は読んだことがないのだが)。

フィリップは思う、イタリアのこの街には言いようのない魅力がある、イタリア人にとって美だけが大切なものなのだ、と。
イギリスから来た三人は、この町でオペラに熱狂し、紫色の空と銀色の星の下で幸せな夜を味わう。
男の子を沐浴させるアボットの姿はまさに聖母子像を思わせる。

ついには、三人はもう一つの悲劇を引き起こす。
だが、その事件の後みな相手を理解し、和解し、ジーノを、イタリアを愛していることに気付くのである。

その愛を心にとどめながら、三人はイギリスへと帰っていく。
その愛はこれからどうなっていくのだろうか。フィリップとアボットは帰りの汽車の中で互いへの愛を確かめようとするが、それは行き違いに終わりそうだ。

ここでもまた、会話をすることで互いへの感謝と生きる勇気を手に入れていくのである。
それは清々しくさえもある。







E・M.・フォースター『デーヴィーの丘』

2019-11-20 16:30:35 | ケサル

E・M.・フォースター『デーヴィーの丘』
  

1912年と1921年、フォースターは中央インドのデーワースという小さな藩王国にいた。一度目は旅人として、二度目は藩王の秘書として。その間の日々を伝えているのがこの作品だ。

手紙の引用という形をとっているが、それが本当に当時のものなのか、それとも創作なのかはわからない。だがそのため、簡潔で親密で、時にユーモラス時に辛辣な描写で綴られることになり、そこから藩王国の真実の姿が現れてくる。フォースターの人間観察力が全開されて、豊かで人間味にあふれている。

その底に言いようのない悲しさが常に感じられるのは、この藩王国の無能さと、それでも、それをいとおしいと思うフォースターの愛からだろう。あるいは、この中央インドという美しい文化が滅びつつある土地柄のためかもしれない。そしてイギリスに占領され、独立へはまだ遠い1921年前後という時代のせいかもしれない。

藩の力が衰えているのは確かだが、イギリスもまたやり方を間違えているとフォースターは感じていた。インドにイギリスはいらないとも、はっきりと書いている。この地の人々がガンジーを藩王国を一掃する者と見ていることにも触れている。フォースターの時代と文化を見るまなざしである。

その目を持っていなかった藩王は、いや、その渦中にいる藩王は、クリシュナへの信仰のため宗教に明け暮れ、王宮は未完成のまま、怠惰な召使たちの管理もできず、親族のうちにもスパイ騒動が起こってしまう。
その辛さから逃れるために、最後は数人の家族とともにインドの中のフランス―ポンディシェリに移り住んで、そこで命を終える。

これは、「インドへの道」を読む助けになると同時に、「インドへの道」と同じテーマで書かれたもう一つの美しい小説といってもいいだろう。

特に、ゴークル・アシュトミー祭りの描写は素晴らしい。
藩王はこの中で重要な役を演じる。何日にもわたる大音響の中で宗教的な恍惚状態に入っていく。それが藩王の本来のあるべき姿なのだ。

フォースターは藩王についてこう書いている。
「ゴーグル・アシュトミー祭りから日常の人間関係に至るまで、彼のすべての生活の中に、愛情あるいは愛情の可能性を信ずる気持ちがふるえていた」と。
フォースターをこの地に滞在させ、理解できないものも含めて見届けようとさせたのは、彼の藩王への愛情なのである。

最後は別れてしまうことになっても、二人は深いところで理解しあっていたのだろう。
それは「インドへの道」と同じテーマである。

祭りの中で繰り返されるトウカーラームという言葉がある。宗教的な真言かと思っていたがマラーター族の詩人の名前だった。この祭りの場面は「インドへの道」にも描かれていて、何度も繰り返される詩人を崇拝する歌は、祭りの熱さを盛り上げていた。

滞在中、フォースターはウッジャイン、マンドゥなどの古い都へも旅し、やはり冷静に辛辣に、そして詩的な感性と偏らない描写で、その美しさを伝えている。

風の吹き抜ける時刻のデーワースでのお茶の時間、そこで語られるとめどない幻想のような、インドでしかない時間が漂ってくる。





『路上の人』 堀田善衛

2019-11-03 00:37:02 | 読書

『路上の人』 堀田善衛 

最近旅に行くときはなぜか堀田善衛の本を持って行く(結局ほとんど読まないのだけれど)。『上海』『インドで考えたこと』『バルセローナ』『ゴヤ』。対象に迫ろうとする想像力に圧倒される。今年の夏の旅には『路上の人』を持って行った。

堀田さん(と呼ばせていただく)には珍しく、ファンタジーかサスペンスかラブロマンスかと思えるほどストーリーのある作品である。私はまず『少年キム』を思い出した。みなしごであるすばしっこい少年が師と仰ぐ老人と旅しながらいろいろなことを学び、自身の出自までも知っていく、という物語はロードムービー的と言ってもいいだろう。

『路上の人』の主人公ヨナは貧しく、路上で働く男。必要に迫られて様々な言葉を覚え、便利がられて修道士や騎士の旅のお供をするようになり、旅する中でその時代の宗教界のあり様を知っていく。それはご多分に漏れず、美しい世界ではなかった。
普遍的なものという意味のカソリックの中に権謀術数を見ることになる。

ヨナが最初に仕えた神父は、キリストの本質に迫る任務と真摯に取り組む途中で亡くなるのだが、ヨナは師を思いやりながら、その姿を心に刻んでいった。
次に仕えたイタリア人の騎士、実はローマの法王付き大秘書官である人物と共にカタリ派を追うことになる。

カタリ派は清浄な人々と呼ばれ、穢れた世俗との関係を断つ禁欲的な信仰を持ちつづけているため、異端の原始キリスト教としてカソリックによって排除されようとしていた。

ヨナの主人である騎士がヴェネチアで知り合った恋人が、その中にいるかもしれない。カタリ派と法王庁との争いを避けるために、二人はスペインからピレネー山脈を超えてフランスへとカタリの山上の教会のあるモンセギュールを目指していく。

その過程で語られる世界は多様で、ある意味国家というものはないのだと思わせられる。ヨナの覚えた言語はいくつあるのだろう。地方ごとに言葉が変わっていくような状態だった。人々の動きも、この二人のように想像を超えるほどダイナミックだ。現代のEUという考え方は新しいものではないのかもしれない。

多くの資料にあたってこの十三世紀のヨーロッパを描いた堀田さんの思いに圧倒される。それはある意味当時のキリスト教への批判に尽きるかもしれない。私もスペイン、イタリアに行った時に初めに突き当たったのは過剰ともいえる教会の装飾だった。これは何のためなのだろう、という戸惑いからこの『路上の人』を見つけた。

結局カタリ派はカトリックによって解体させられる。そしてヨナと騎士はまた旅に出る。キリスト教の生まれた地へと。

カタリ派のような原始キリスト教は、今でも各地で昔のままに信仰されているという。