塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 122 物語:アク・トンバ

2015-09-28 01:36:54 | ケサル
物語:アク・トンバ その2



 アク・トンバの物語の中の貴族とは誰か、と国王がと問い詰めるのを、王子ザラは待っていた。
 だが、国王は物語に笑っただけだった。
 貴族を困らせた民の知恵と機知に大笑いしたが、ザラが問い質して欲しいと望んでいたことは尋ねなかった。

 この物語の中の貴族とはトトンだったのである。
 そして、このようなことをするのは、これまでになく領土を広げたリン国で、トトン一人だけではなかった。

 国王が笑った時、王子ザラは笑わなかった。大臣たちはそれ以上に厳しい表情のまま、だれ一人として笑みさえ見せなかった。

 国王は言った。
 「私はその人物に会いたい」

 トトンはすぐさま忠告した。
 「身分の低い民に会ってどうされるのじゃな。国王には心を砕かなくてはならない重要なことがおありではないのか」

 「いや、今はすべきことが何もないのだ」

 その後、北へ巡行した時、ジンバメルツの領地で、国王はアク・トンバに会った。
 その痩せた人物が歩く様は、風の中の小さな木のようで、ふらふらと揺れ動いていた。

 国王は驚いた。
 「なぜそのように痩せているのか」

 「飯を食べず、乳を飲まない訓練をしているのです」

 「なぜだ」

 「そうすれば、民であっても、神のように食べることに煩わされず、幸福な国で暮らしている気分になれるのでございます」

 ケサルは軽妙でユーモアにあふれた人物に会えるものと思っていたが、一目で、彼が世に憤り悪世を恨んでいるのを見抜いた。
 このような人物を好むかどうか自分でもわからなかった。
 そこで言った。
 「歩き疲れただろう。いつかまた語り合おう」

 アク・トンバは特別な表情も見せず、礼をすると去って行った。

 シンバメルツは、アク・トンバに宮殿に残り、国王のお召しを待つように言った。
 「お前のように機知に富み、ユーモアがある者を国王は喜ばれる」

 アク・トンバは言った。
 「家に帰るといたしましょう。帽子をここに残しておきます。もし国王のお呼びがあればこの帽子に声をおかけくだされ。お声はすぐに私に届きます」

 シンバメルツは宮殿の門まで送って行き、言った。
 「お前も神の力を備えているのだな」

 アク・トンバは言った。
 「神の力を持つ一人でございます」

 だが彼は神の力など持っていなかった。ただ、国王は頭を働かせて自分と話すのを望まず、二度と自分を呼ぶことはないと分かっていた。

 その通り、国王が帰った後、廊下に掛けてあった帽子は少しずつ埃にまみれていった。
 ある日、その帽子も姿を消した。ネズミが床下まで運んで行き、住処にしたのだった。

 その時やっと、建物の主はアク・トンバに長いこと会っていないのを思い出した。
 国王はアク・トンバが姿を消したという知らせを聞くと、すぐさま命を下した。
 「アク・トンバを宮廷に迎え入れ、風刺大臣とする」

 だがその時、アク・トンバは物語の中にしか存在しないものになっていて、誰も会うことは出来なかった。

 だが、彼は確かに存在していた。
 絶えず新しい物語を創り出し、物語の中で生きていた。

 トトンと、その同調者たちは、国王に上奏した。
 権力があり富があり学問がある者と対をなすこのような人物は、捕らえて審判し、牢に繋いでしまいましょう、と。

 国王は言った。
 「彼はすでに死なない者となった。物語の中だけで生きている者を捕らえようがない」

 トトンは国王の意見に同意できず、木の鳶に乗ってアク・トンバを探し回ったが、見つけられなかった。
 代わりに、伝わり始めたばかりの新しい物語を聞いた。

 トトンは言った。
 「憎らしいヤツめ。本当に物語の中に隠れおった」

 彼は一人山の上に座り、邪魔するものを遠ざけた。
 物語の中の人物を捕らえる方法を必ず見つけ出す、と公言していた。

 国王は言った。
 「アク・トンバを捕らえて審判しようというそなたの考えには同意しない。だが、物語の中から連れ出す方法があるというのなら、それは素晴らしい思い付きだ。山へ行ってゆっくり考えるがよい」

 トトンは一つ一つ山を探したが、すべてふさわしくなかった。
 一つの考えが浮かんだと思うと、ヒューという風の音と共に吹き去られた。

 彼はまた宮殿に戻り、国王に要求した。
 「国王の神の力で、考え事のできる環境を、風のない山を与えてくだされ」

 国王はすでにこのような戯れに飽きていた。考えれば分かることだ。
 「物語は一人一人の口と頭の中にある。ならば、アク・トンバも物語を語る者の口と頭の中にある。そのような者は捕らえようがないだろう」

 国王は一言付け加えた。
 「無駄に力を使うことはない」
 国王はこの言葉でトトンに対する嫌悪感を表わした。

 アク・トンバという、金持ち、貴族、僧に対して尊敬の念を持たない者を捕らえることで国王に近づくことが出来る、とトトンは企んでいた。
 だが、このずるがしこいアク・トンバは物語という便利な隠れ場所を見つけ出し、自分の脚を使わずに世界中を歩き回っている。
 誰にも彼を捕まえる方法などない。

 そこで、トトンは仕方なくこの企みを諦め、自分の領地へ帰って行った。








阿来『ケサル王』 121 物語:アク・トンバ

2015-09-22 19:48:29 | ケサル
物語:アク・トンバ  その1



  
 モンとの戦いに勝利し、ケサルのリン国の内と外での名声は頂点に達した。

 ケサルはあらゆる栄華を楽しんだ。宴で舞い踊り、狩で各地を巡った。
 リン国の領地であればどこでも、巡幸の馬の列が空高く埃を舞い上げるやいなや、そこではすでに料理が整えられ、盛大な宴が催された。

 首席大臣ロンツァ・タゲンは、国王が毎日馬を操って体を痛めてはと配慮し、職人に命じて輿を作らせた。
 壮健な男たちが順に担ぎ、傍らでは美しい侍従が大きな宝傘を差し掛けていた。

 この華麗な行列が通り過ぎる間、民は皆地に跪いた。
 彼らは顔をあげて国王を拝しようとはせず、宝傘が落とす影に何度も口づけした。
 本当は輿とその上の王の影に口づけしたいのだが、宝傘の影がそのすべてを遮っていた。
 そこで、仕方なくより大きな影に口づけするしかなかったのである。

 ケサルは不思議に思い尋ねた。
 「民たちはどうして私を見ようとしないのだろう。自らの王を見ようとしないのだろう。私だったら必ず見ずにはいられないが」

 「民たちは自分の下賎な眼差しで尊い大王を穢すのを恐れているのです」

 ケサルは知らなかった。
 このような決まりを民に対して定めたのは臣下たちであり、民たちは王を目にしたいという思いを無理やり抑え、顔を上げないようにしているのだということを。

 ケサルは言った。
 「もし私だったら、王がどのような姿をしているか必ず見るだろう」。

 「誰もが王様の勇ましいお姿を知っております」

 「どうやって知るのだ」

 「絵に描かれ、歌で歌われ、物語の中で語られています」

 「本当にそうなのか」

 「王様、よくお考えください。王様は偉大なリン国を作られ、四大魔王を平らげました。それからは、民たちは幸せに心安らかに暮らしています。人々が褒め称えないことがありましょうか」

 ケサルは思った。
 自分がこの世に降ってなしたことは偉大と言えるだろう。褒め称えられてしかるべきかもしれない。

 そこで、好奇心に駆られ言った。
 「では、物語を語る者を探して来てくれ。今宵は歌も舞もいらぬ。人々が私の物語をどのように語るか聞いてみたくなった」

 「そのような者も、王様の前では語れなくなってしまうでしょう」

 その通りだった。
 その夜、家臣たちは十人を下らない人物を王の前に連れて来たが、彼らはおずおずと入って来ると、そのまま身をかがめ、額を王の履物にそっと打ち付けるのだった。
 ケサルは出来る限り穏やかな表情で言った。
 「私が為してきた様々な行いをお前たちがどう語るのか、聞かせてくれ」

 あらゆる地に伝わっている王の物語を語り始めようとする者はいなかった。
 王の境遇、王の愛情、王の名馬、王の弓矢、王の智慧、王の勇気…もちろん、王のかつての迷走。

 王子ザラが進言した。「王様、彼らを困らせてはいけません。天上の神が王様を下界に遣わしたのですから、神が王様の物語を語らせるでしょう」

 大臣たちの考えは二派に分かれていた。

 一つは首席大臣を頭とするもので、民たちが伝える王の業績を王が耳にするのを望まなかった。
 民たちが密かに国王の物語を語ることにはもとより不満を抱いていた。
 「凡人の口から出た言葉は、国王の偉大な業績を歪曲し汚すものだ」

 別の一派は老将軍シンバメルツを頭とするもので、不幸なことにトトンも同じ考えを持っていた。
 「英明な大王が民のために為したことを、民は知るべきだ。民たちに国王の業績を知らせないとは、どのような考えあってのことだろうか」 後に、シンバメルツは、民の間で国王の業績が誤って伝えらえているのを聞き、自らの主張を放棄した。

 ケサルはこれらのことが理解できず、心の思いを王子ザラに伝えた。
 「民は私を愛しているはいても、恐れてはいないはずだが」

 王子ははっきりと肯定はしなかった。
 「王様、民たちを困らせてはなりません。王様を地に遣わしたのは天上の神です。神が人を選んであなたの物語を語らせるでしょう」

 「ならば、民が私を恐れるとしたら、私が普通の人間ではなく、天から来たからなのだろうか」

 王子ザラはそうではないと知っていた。だがこう答えた。
 「たぶん……そうでしょう」

 ケサルは言った。
 「では、お前が聞いて来てくれ。聞いた物語を私に聞かせてくれ」

 王子ザラは出掛けて行った。
 数日後帰って来ると、国王は尋ねた。
 「私が申し付けたことはどうであったか」

 王子ザラは言った。
 「王様の物語は聞くことが出来ませんでしたが、別の物語を聞きました」

 「他の者にも物語があるのか」

 「アク・トンバという者です。どこへ行ってもみな彼の物語をしていました」

 王子ザラはアク・トンバの物語を語った。

 金も権力もある貴族がいた。倉庫にはリンで最も多くの裸麦の種があった。
 その知らせが広まると、リンにいる多くの路頭に迷った民たちは、みなこの貴族に服従した。
 リン国の民だけでなく、戦いのため行き場を失ったジャン国やモン国の民もこの貴族の元に集まって来た。種を借りることが出来たからである。
 秋になると貴族は人を使って執拗に返済を迫った。しかも十倍にして返せというのである。
 悲しいことに、アクトゥンバも種を借りていた。
 その年、新しく開墾した荒地は収穫が悪く、十倍にして返すと、手元にはいくらも残らなかった。
 怒り、やり場のないアク・トンバもまたこうした民の一人だった。
 彼は裸麦を良く炒ってから貴族に返した。
 次の年の春、これらの裸麦はまた種として貸し出された。
 その結果はお分かりだろう。炒った種は当然芽を出すことはなかった。
 そこで、アク・トンバはこれらの民を連れて貴族の元を去った。
 慈悲の心を持った他の貴族の元へと身を寄せたのである。

 国王は笑った。「何と頭の良い人物だ!」







阿来『ケサル王』 120 語り部:非難

2015-09-15 01:29:10 | ケサル
語り部:非難 その2




 ジグメは落ち着かない気持ちのまま旅を続け、途中で二人の苦行僧と出会った。
 老若二人の僧は小さな湖のほとりで休んでいた。彼らはジグメにどこへ行くのかと尋ねた。

 ジグメは答えた。
 「どこかへ行こうとしてるんだが、忘れてしまった」

 若い僧は言った。
 「冗談がうまいですね」

 ジグメは大まじめに言った
 「オレは冗談を言ったことなどない。どこかへ行かなきゃならないんだが、思い出せないんだ」
 ジグメは真面目に天を指した。
 「あのお方が怒って、忘れさせたんだ」

 「冗談がうまい人は誰も自分は冗談は言わないというものです。人を笑わせておいて、自分は笑わない」

 年を取り厳格そうな僧も笑顔を見せた。
 「どこへ行くか分からないというが、それならどこから来たのかね」

 ジグメは僧の耳元に屈み、言った。
 「ちゃんと覚えてたんです…昨日の夜、そこで寝たんですから。でも今は思い出せない」

 そう言うと、ジグメはやっと何かに気付き、怯えたような表情を浮かべた。
 「どうしよう、何も思い出せなくなった」

 老僧はハハハと笑って言った。
 「お前は本当にユーモアがある。アク・トンバのようだ」

 アク・トンバ!

 ジグメは数え切れないほどの人たちがこの名前を口にするのを聞いた。
 この人物は特別な力を持っていて、多くの人々に語り伝えられた物語のユーモアと機知に富んだ主人公である。
 だがその物語からは、彼の出身も姿かたちも、それほどの機知とユーモアがあるようには思えない。

 機知を持たない者は人より優れることは出来ず、優れていない者はユーモアを身に着けることは出来ない。
 だがなんと、アク・トンバは誰よりも劣っているのに―地位もなく財産もなく学問もない―却って多くの物語の中で機知とユーモアのある主人公になったのである。

 ジグメは老僧の手を掴み言った。
 「アク・トンバを知っているんですね。なら、オレを連れて行ってください」

 老僧は立ち上がり、ジグメの手を振り払って言った。
 「アク・トンバに会った者はいない」

 雲が空中を飛ぶように流れ、泉の水がさらさらと音をたてた。
 すべてが、これから何かが起こりそうな気配を見せた。
 だが、何も起こらなかった。

 若い僧は慣れた動作で、茶を沸かす鍋と茶を飲む碗を片づけ、背嚢に入れた。

 ジグメは言った。
 「オレはアク・トンバを知りたい」

 若い僧は背嚢を肩にかけた。
 「もう一度言ったらそれはユーモアではなくなります。それは、うわごとと同じです。さて、師匠は行ってしまわれた。これ以上付き合っていたら、追いつけなくなってしまう」

 老僧は軽い足取りで、あっという間に道が曲がる辺りのアズキナシの茂みの先に姿を消した。
 若い僧もいつの間にか去って行き、アズキナシの茂みは人も道も覆い隠した。

 ジグメにもやっと分かって来た。
 アク・トンバには会うことはできないのだ、と。

 アク・トンバはただ物語の中でのみ生きているごく普通の人間で、ジグメが語る物語の中の神のようではないのだ。

 アク・トンバは人が自分の物語を語るのを求めない。
 みなと同じ人間で、神でもなく、かつての国王でもなく、特別な資格もない。
 だがほとんどすべての人たちはみな彼の物語を語りたがる。

 ジグメは湖の岸辺で水に映る自分の姿を見た。
 羊飼いをしていた頃は、雪の峰の麓の湖で自分の顔をしげしげと見たことはなかった。

 その頃の自分の顔はふっくらとして浅黒く、穏やかな表情だったのを思い出した。
 今、水に映った顔は痩せて気難しく、下顎にはまばらな髭が伸びていた。

 自分は温和な性格のはずだ。
 今そこにあるこの世への憤りと恨みの表情が信じられない。
 水の中の人物は自分が知っている自分、自分が考えていた自分とは違っていた。

 かなり長い時間彼はこの小さな湖のほとりに座り、湖の水が出口から水草を浸して用水路に流れて行く音を聞いていた。
 そうしているうちにやっと、憂鬱そうな目の中に微かな笑みのかけらが浮かんだのが見えた。
 彼はそれで満足した。

 太陽が山に落ち、あたりが冷え始めると、昨日どこから来て明日どこへ行けばよいのか、思い出せないまま、歩き始めた。

 その夜、一軒の家で宿を借りた。
 彼らはすぐにジグメが語り部だと分かり、一段歌って欲しいとねだった。
 断わるわけにはいかなかった。
 だが、みなの失望した表情を見るまでもなく、自分がうまく語れていないのが分かった。

 神が怒っている。

 一部の語り部はある日突然語れなくなるが、それは神が物語を取り上げてしまうからである。
 だが彼はまだ語ることが出来る。
 だが、力ははっきりと落ちている。
 神はジグメに物語を残したが、その豊かな表現、心を揺さぶる調べを取り上げ、物語の骨組みだけを残したのだ。

 主人はそのことで彼を見下げているようだった。
 それは用意された料理や寝床を見れば分かった。
 ジグメは心苦しく、自分から進んでアク・トンバの物語を語りたいと申し出た。

 主人は言った。
 「疲れただろう。早く休みなされ。アク・トンバの物語は誰でも語れる。ケサルの物語はそうはいかん。決められた者が語らなくてはならない」

 ジグメは急いで立ち上がり、女主人について自分の寝床を見に行った。
 その時、この家の子どもが突然言った。

 「ねえ、この人、アク・トンバみたいだね」

 「いい加減なこと言うな!物語はたくさんあるが、アク・トンバがどんな格好をしてるか、どこにも書いていないはずだ」

 「でも、きっとアク・トンバはこのおじさんみたいだと思うよ」

 ジグメは寝床に入って考えた。
 アク・トンバは、痩せて貧相で、下顎にまばらなひげをたなびかせているのだろうか。

 眠りに落ちる前に、ジグメは自分が立てる自嘲の笑い声を聞いた。









阿来『ケサル王』 119 語り部:非難

2015-09-08 02:05:45 | ケサル
語り部:非難


 ジグメは一人、高原に広がる窪地を通り抜け、南の雪山に入った。
 この雪山の連なりの中が昔のジャン国、もしくはモン国の地に違いない。

 北の牧人たちと別れた後、ジグメは彼らがくれた小さな袋に入った塩を腰にぶら下げて歩いた。

 ジグメは自分が非難されるとは思ってもいなかった――神の非難を。

 彼はただ疲れて眠かった。
 歩き疲れ、泉の水を思う存分飲むと、顔を上げて地平線の上にいよいよ高くなっていく雪山を見た。
 それは北の雪の峰より更に険しく、更に高く切り立ち、更に輝いていた。

 この山々を見た時、袋から塩を少し取り出し、舌に乗せた。
 口の中にかすかな苦味が広がり、自分が何か考えているような気がした。
 物語の奥にある真実を追い求めているような気がした。
 自分を放送局に連れて行ったあの学者になったような気がした。

 昨日、大きな木の上で眠った時、あの学者を夢に見た。

 ここに来るまでずっと、畑を耕す村では、農夫たちは刈った草を木の上に集めておき、来年の春種まきする時の役牛の餌にする。
 ジグメは木に登り、干草に体を埋めて夜を過ごした。

 それは山へ入る前の最後の夜だった。

 学者の夢を見た。
 だが、一言も話が出来ず、自分がこの雪山に来たのはジャン国かモン国に辿りついたということなのかと尋ねることも出来なかった。

 尋ねる前に目が覚めてしまった。

 自分が放送局を出た後、学者は世界中を尋ね歩き、あらゆる場所で自分の消息を探していたのだろうか。
 ジグメは長い時間をかけてこの問題を考え、金星が地平線から昇ってきた時、再び眠りに着いた。

 目が覚めてからは、学者は自分を探していないだろうと思った。
 この高原で、あちこちでケサルを語る語り部を探すのはそれほど困難ではないのだから。

 ジグメには分かっていた。これは自分があの学者を懐かしんでいるのではなく、自分が本当のジャン国をみつけられるかどうか疑問を感じ、こんなふうに歩き回るのに少し飽きて来たからだ、と。

 人が沢山いる場所へ帰りたくなった。

 だが次の日、彼はやはり山に入って行った。

 流れの急な谷川が現われ、白い波頭を翻しながら、昨夜眠ったあの巨大なエゾ松からそう遠くない場所で、一切の音を呑み込んだ大きな流れと合流する。

 この谷川の源へ着くのに二日かかった。
 その後、半日ほどで峠を越えると、高低不ぞろいな山々が以前に増して目の前に現れた。
 ジグメはまだ雪線より上にいたが、雪線の下の渓谷には森林の緑が溢れていた。

 山の洞穴で一夜を過ごした。

 ジグメはその洞穴の中で神の罰を受けた。

 夜半に目が覚め、虚ろになった心を埋めるため、舌の上に塩を乗せた。
 その時やっと自分が氷の洞穴にいるのに気付いた。

 月の光が上方の隙間から差し込み、凍った雪の結晶がほのかにキラめいていた。
 その光の中に神が現れた。
 真っ直ぐに立ちはだかる堂々とした姿に、甲冑と刀が冷たく光っている。

 ジグメは起き上がろうと思ったが、神の目から発せられる光に体を押さえつけられ、動くことが出来なかった。

 ジグメは言った。
 「あなたはあのお方ですか」

 神は何も言わなかった。

 「あのお方ですね」

 神は言った。
 「仲肯は衆人の仲いなければならない、聴衆の中に」

 「オレの聴衆も、ジャンが攻めた塩の湖がどこにあるか知りたいんです。ジャンとモンの城はどこにあるんですか。それを見つければ、みんなはオレの物語をもっと信じるようになります」

 「彼らはみな信じている」

 「この物語はみんな本当のことですか」

 ジグメを見下ろす口ぶりは少しいらついていた。
 「聴衆は、信じたいと思えば、真偽を問うことはしない。お前は何故そのようなことを聞くのだ」

 「でも、オレはこんなに遠くへ来てしまいました」

 「だが、お前はこんなに遠くへ来る必要はなかったのだ」

 神は言った。
 「お前が選ばれたのはお前が世の中に疎かったからだ。すべてを知る者になろうと思っているのか」

 「神さまは、オレがばかであって欲しいんですか」

 神は冷たく笑った。
 「神を怒らせたいのか」

 この言葉にジグメは怖くなった。
 自分がひどく震えているのが分かり、
 腰につけた塩がさらさらと地面に流れた。

 神の聴覚は敏感だった。
 「何の音だ」

  彼は神に言いたかった。これは塩です、小便を漏らしたのではありません。

 だが彼が口を開く前に、神は体中から光を発し、弓を引き、ジグメを持ち上げて矢に乗せ、その矢を放った。

 飛んで行く間、強張った彼の体は廻りの氷の結晶を砕き、折り重なる雲を引き裂いた。
 星に近い空をヒューヒューと飛んで行きながら、彼は気を失った。

 気を失う前に辺りに響き渡る神の声を聞いた。

 気付いた時、その音はまだ周りにこだましていた。
 「その物語と詩は口を開けば出てくるのだ。それ以上考える必要はない」

 ジグメは目を閉じて言った。
 「もう何も考えません。責めないでください。本当にもう何もしません」

 彼は何度も言い続けたが、神の答えはなかった。

 一匹のハエが顔にとまり、羽根が震えてぶんぶんと音を立てた。
 目を開けると、自分が家畜の檻の中にいるのに気付いた。
 豚が数匹、糞尿の中を歩き回っていた。

 檻からから遠く離れた時も、体についた臭いは消えなかった。
 風でさえも体の臭いと心の中の怒りを吹き払ってはいなかった。

 ジグメは顔を上げ、天に向かって叫んだ。
 
 「こんな目に会わせないでくれ」

 天は空っぽで、ただ、風にちぎれた雲が掠めて飛んで行くだけだった。