塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 141 語り部 塑像

2016-02-23 01:01:48 | ケサル
         ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304






説語り部 塑像




 ケサルはもう一度語り部の夢を訪れた。天に戻った後の神としてではなく、少なくとも外見だけは生身の人間であるリン国の国王として。

 語り部ジグメは、多くの場所を訪ね通り過ぎたが、どこへ行っても、ほとんどの人が天界のツイバガワがどんな姿だったかには関心を持っていなかった。たまに一、二枚の絵の中にその天界での姿が描かれていたが、他の多くの神々とほとんど見分けがつかなかった。

 誰もが心に刻みつけているケサルとは、人の世で戦馬に乗り鎧をつけ武器を手にしている姿なのである。

 ケサルが昔戦った場所では、役所が予算をつけて彫刻家を雇い、土、石、黒い鉄、ピカピカのステンレス、銅で似たような像を作っていた。博物館、町の広場、そして新しく開店したホテルのロビーで、ケサルは永遠に宝刀を持ち、腰に弓を下げ、悠然と馬に跨っている。

 当時のリン国は今ではいくつかの自治州になった。
 ジグメはその内の一つに招かれ、開店したホテルにケサル像を安置するための儀式で語ることになった。ホテルの経営者は浅黒い顔にケサル像と同じ八字ひげを油で光らせ、言った。
 「参列のお偉方たちはみな忙しい。だがら、短く語ればいい。一番面白い場面を選んでくれ」

 ジグメは聞きたかった。あなたの考えではどこが一番面白いですか、と。
 たが、彼は尋ねなかった。彼は気立ての良い語り部である。

 役人たちが塑像に掛けてあった赤い絹の布を捲り上げた後で、ジグメは思いつくままに語った。
 その日、彼はいつもの調子が出せなかった。このような場で出し物として語るのに慣れていなかったし、全身を金色に輝かせている像を好きにはなれなかったからだ。
 ただ、経営者が彼の手に押し込んだ封筒に厚みがあったのは嬉しかった。

 式典が終わった後、高原の賑わう町を歩いてみた。

 本屋で、ケサルを語る自分のCDがカウンターに並んでいるのを見つけた。ジャケットに使われているのは、語り部の帽子をかぶり六弦琴を手に、草原の草の上に座って語りに埋没している写真だった。
 ジグメはわざと若い女の店員にあれこれ話しかけた。自分だと気付いて欲しかった。うしろめたさを隠し、店員にどうでもよいことをいくつも尋ねたが、絶えず頬を動かしている娘は、彼が誰なのか分からなかった。
 ジグメは最後にこう尋ねた。
 「ずっと口を動かしてるけど、おいしいものでも食べてるのかい」

 娘はガムを大きく膨らませ、ジグメの目の前で破裂させると、振り向いて向こうへ行ってしまった。
 近くで本を読んでいた老人がジグメの問いの一つに答えた。
 この道を突きあたりまで行くと、何とか言うビルの二階に絵を描く作業場がある。若い画師たちが毎日そこで絵を書いている。その中の一人はあまりに描きすぎてもうじき目が見えなくなるらしい、と。

 ジグメはそこを探し当てた。
 二階が作業場で一階は旅行用品店だった。絵が出来上がると、店に並べられる。ケサルの絵はあるかと尋ねると、店員は二階へ行く階段を指さし、前の一枚は売れてしまい、新しいのはまだ描き上がっていない、と答えた。

 ジグメは二階へ上がった。数人の画師が明るく広々とした部屋で絵を描いていた。その中の一人の若者は絨毯の上に屈み、画布に向かって丁寧に筆を走らせていた。遠くからでも、描かれているのが自分の物語の主役だと分かった。彼の馬、彼の鎧兜、彼の刀と矢。
 近寄っていくと、画師は宝刀に色を付けていた。顔はまだ円のままで、円の中は下地を塗っただけだった。画布の繊維がまだはっきりと見えた。

 本屋でうまく話せなかったので、今回は恐る恐る尋ねた。
 「どうして顔を書かないんですか」

 若者はやはり答えようとせず、宝刀の刃の輝きを慎重に描き上げ、長く息を吐いてから面倒くさそうに言った。
 「明日、顔を書く前に祈祷するんだよ」

 言い終ると若者は筆を変え、他の色を含ませ、矢羽根を描き始めた。ジグメはまた尋ねた。
 「ケサル物語は知ってますか」
 画師は振り向きジグメをじっと見つめたが、何も答えなかった。

 ジグメは下に降り、店の中をもう一回りして、違うケサル像を見付けた。石に刻まれたケサルだった。青い石板、浅く刻まれた線、やはり馬に跨り剣を振るっている。ジグメはこの石板に描かれた姿の方が好きだった。
 店員にこの石像について尋ねた。

 「これも二階で作っているのかね」
 「山の上だよ」
 「山の上に誰かいるのかね」
 「山の上にはたくさん積まれてる。誰が彫ったのかは分からないがね」

 店を出て、ジグメは町のはずれでトラクターを雇った。ケサルの像がある山の上に行って欲しいと言うと、トラクターの持ち主は断った。
 
 「あんたも石像を盗むつもりなんだろう」
 「オレは石を彫る人に会いたいだけだ」

 いつの頃からか、ジグメはケサルと関係ある人すべてが自分とも関係している気がして、心の中では自分の親戚のように思っていた。
 当然、良い親戚もいれば悪い親戚もいる。CDを売る娘は悪い親戚で、若い画師は真面目に働いていたが少し偉そうだった。山の上で石を刻む人はきっと良い親戚だろう。
 思った通り失望はなかった。

 草地の縁に真っ直ぐに聳える樅の木が一列に並んでいる丘の上で、遠くから岩を叩くカンカンという音が聞こえて来た。
 風に吹かれ髪を乱した男が石に鑿を打ちつけていた。彫っているのはケサルの像だった。彫られた像は尾根道に積まれ長い壁を作っていた。

 ジグメは一つだけ尋ねた。
 「町で売るために彫っているのかね」

 風に吹かれて頬を赤くした男は積み重ねられた像を指さして言った。
 「オレたちは何代も何代もリンの英雄の像を刻んで来た。オレもその内の一人だ」

 次に石工がジグメに尋ねた。
 「あんたは石の像を売って金を稼ぐ奴らとは違うようだな」







阿来『ケサル王』 140 物語 ギャツァの霊 姿を現す

2016-02-15 01:23:48 | ケサル
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物語:ギャツァの霊 姿を現す その4




 カチェ国の兄王ルヤもまた猛将で、この時まさにシンバと剣を交えていた。心に迷いがあったためか、シンバの動きは徐々に乱れ、押しつ戻りつしながら、心の中でこうつぶやいた。

 「英雄ギャツァよ、もし我が罪が償えたなら、天上で兄弟の契りを結ばせてはくれまいか」

 言葉が終わると、まるで時が動きを止めたかのように、果てしない大地が四方で旋回し、晴れ渡った空に虹が懸かった。

 そこに現われたのは戦神ウェルマではなく、はるか前に戦場で倒れたギャツァだった。

 シンバはカチェの兄王ルヤとの戦いを忘れ、すぐさま馬から降り、空の上のギャツァに頭を垂れ手を合わせた。
 ギャツァは腕を挙げ掌から稲妻を光らせると、シンバ目掛け刀を振り降ろそうとしているルヤへ向かって投げつけた。

 稲妻が止み、シンバはもはや命を取られたかと目を開けた。だがなんと、自分の体は無傷なまま、傍らでルヤが雷に打たれて焼け死んでいた。鎧と頭髪から黒い煙がいく筋も立ち昇っていた。
 天を見上げると、ギャツァが静かに微笑んで、虹と共に青く澄んだ空へと消えて行くのが見えた。

 王子ザラはといえば、剣を交えていた敵の大将を馬もろとも切り倒したその時、兵たちが喜びに湧き上がり、父の名前を呼んでいるのを聞きつけた。顔を上げると、虹に包まれた父の体が青い空に消えて行くところだった。
 思わず涙があふれ、大声で偉大な父の名前を叫びながら、馬をせかせて山頂へと駆け昇った。

 ザラが三回叫ぶと、消えかかった虹は色を戻し、ギャツァの姿が再び現れた。
 「こちらへ来なさい」

 王子ザラは馬に乗ったまま天へ昇って行った。そこにいた誰もが、息子が父の胸に顔を寄せ、父の手が息子の兜の赤い房を整えているのを目にした。

 ギャツァは息子の耳元で三つのことを伝えた。

  一 シンバメルツはリン国の英雄の列に加えられるべきである。

  二 弟ケサルはリン国を栄えさせた。感謝している。

  三 我が息子は英雄にして心正しい。天上の我が霊は慰められた。

 伝え終ると少しずつ姿を消していった。

 ギャツァの霊が現われて、リンの軍隊は勇気百倍、王子ザラはより一層力を漲らせ涙を流しながら叫んだ。
 「父が、私に力を与えた! ギャツァシエガの息子の行く手を阻むものに死を!」

 自らを天下無敵とみなし、英雄と呼ばれることを願ったカチェ王チタンは、雷鳴のような叫び声に一瞬隙が生じたのか、ザラに胸を一突きされ、口と首から同時に血の泉を噴き出し、天を仰いで馬から落ちた。

 チタンが最後に目にしたのは自らの夢が実現した姿ではなく、どこまでも澄み渡った青空が目の前を旋回し、徐々に暗くなり、そして永遠の闇に覆われて行くのを、ただ見ているだけだった。

 カチェの軍は国王と兄王が先を争うように命を落としたのを見て、戦意を失い、次々と投降した。

 勝利したリン国の英雄たちは中軍のテントへ押しかけた。ケサルはちょうどトングォの傷口を見ているところだったが、ため息をつき、トンザンの肩を抱き言った。
 「父親の縄を解いてやれ」

 タンマは怒りを爆発させた。
 「大王様、またこの裏切り者を許すのですか」

 ケサルの表情は厳めしかった。
 「トトン叔父は息子を亡くしたばかりだ。これを重い罰とは思わぬか」

 束縛から放たれたトトンはケサルに駆け寄った。
 「息子を救ってくれ!」

 ケサルは首を振り、テントを出て、後に従ってきた将軍たちに言った。
 「みなは兄ギャツァの霊を見たか」

 そこにいる者は同時に答えた。
 「ギャツァ殿は力に溢れ、戦神のようでした」

 「私は見ることが出来なかった。臨終のトングォを得度していたのだ。彼は罪深い父の代わりに死んでいった」国王は言った「兄が恋しい。天での再会を待ってはいられないほどに」

 この時トトンは体を折り曲げ地に伏し声をあげて泣いていた。

 ケサルは王子ザラに命じ、精兵を率いてカチェ国の王城に向かわせた。三月も経たずに、王子ザラは勝利して戻って来た。

 カチェにはすでにリン国の役人を送り、鉄の山の宝庫を開き、鍛冶師を連れ帰り、兵器で技術を伝えさせ、鉄を錬成する技術を高めていることを報告した。
 そこで作られた兵器と農夫のための鋤や鍬や鎌は、ただ強固なだけでなく、成熟した男のように、何に当たっても割れ砕けることのない柔軟さを持ったという。

 ケサルは大勢を引き連れ、寺で双方の戦死した魂を超度し、ギャツァシエガを改めてリンの戦神に封じた。









阿来『ケサル王』 139 物語 ギャツァの霊 姿を現す

2016-02-11 11:50:15 | ケサル
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物語 ギャツァの霊 姿を現す


呪術師の小隊がチタン王の軍団を追跡して五日目。

夜になると、東方の空に赤黒い戦雲が柱のように天を突いるのが見えた。そこで、疲れ果てた小隊をせき立て、大王に急を知らせようと前進を続けた。

ケサルはすでにそのすべてを見通していた。
「そろそろ、もう一度変幻の術を使う時が来たようだ」

その夜呪術師が率いる、急を知らせる小隊は、対岸も望めないほどに洋々とした湖に行きあたり、渡るに渡れず迂回して進むと、夜半も過ぎた頃、湖は月の光を浴びながら見る間に消えて行った。

さらに進んで明けの明星が昇る頃、眼前に亡者の巣食う断崖が現われた。兵士たちは地面に座り込み、それ以上進もうとはしなかった。
呪術師にもこの幻術を解く法がなく、崖に体を打ち付けて自害しようとしたが、死んでは大王に報告する者がいなくなると、地面にくずおれ声を挙げて泣き始めた。

「我が大王よ、あなたの傲慢と無知がカチェ国を葬ろうとしています!」

兵を率いる将校は呪術師が国王を誹謗しているのを聞いて、剣を振り降ろし、崖下で呪術師を切り殺した。
まさにその時、断崖は黎明の光の中で揺れ始め、がらがらと崩れ落ちた。

幻影の岩は誰も傷つけてはいないのだが、兵の大半は驚きのあまり命を失い、残ったものはカチェへと落ち延びて行った。
一人残された将校は、太陽が昇り、辺りには風が揺らしていく草と、鳥の鋭い鳴き声と共に足の上に落ちて来る露の他に何もないのを目にすると、絶望の内に剣を取り上げ国王の名を叫びながら自刃した。

その時、カチェの大軍はすでに姿を現し、昇り始めた太陽の下、宿営した地から出発していた。

朝目覚めた時からカチェの国王は心が落ち着かず、トトンに尋ねた。
「王宮のあるダズの街は間近いのか」

トトンは答えた。
「ここは我が領土、ダロン部です。国王は安心して前進なされ。あと二日馬で行けば王宮の金の頂が見えましょう」

だが、カチェ王はすでに戦の匂いを嗅ぎつけ、大声で命じた。
「この者を縛り上げろ!」

何本もの縄が一斉に投げられ、トトンを馬から引きずり下ろし、何重にも縛り上げた。

カチェ王は言った。
もし貴殿の計略が真なら、貴殿をリン国の王としよう。もし罠であったら、その証の矢が飛んで来た時、一番に命を落とすのは貴殿という悪党だ。

一刻も進まないうちに、目の前に低い山が現れた。山一面、野獣にも似た岩が荒れ草の陰にうずくまっていた。
カチェの軍は西から東へと進んでいた。山の頂から射しかかる強烈な太陽の光に山の上の形勢が掴めず、一列に並んで矢を放った。岩の砕ける音が止むと、周囲は再び静まり返り、ただ草の上を吹きすぎる風のサワサワという音だけが残った。

国王が手を振ると、大軍は矢のように襲いかかる太陽の光を真っ向から受けながら山を越えようと進み始めた。中腹まで来た時、真正面から暴風を思わせる轟音が起こり、矢がまるでイナゴのように群れを成して飛んで来た。カチェ国の兵も大将も鋭い叫び声と共に次々と倒れて行った。

カチェ王に二本の矢が襲い掛かった。一本は心臓を守る鏡を粉々にし、一本は首に刺さり、矢羽は蜂の羽音のようにぶんぶんと音を立てて揺れた。
カチェ王が唸り声をあげ自ら弓を抜くと、首筋から血が噴き出した。
王は続けて叫んだ。
「罠にはまった!トトンを殺してやる!」

だが、トトンは強運にも、矢に当たって倒れた馬の下敷きになっていた。
カチェ王が血眼で探しているところへ、束になった矢が再び唸りながら飛んで来た。カチェ軍は山の下まで退却するしかなかった。

戦いは続き、リン国の旗が立ち並ぶにつれ、待ち伏せにあったカチェ国の兵は大半が戦死していった。
リン国の大軍は山の上から堰を切った洪水のように襲撃した。

トトンの二人の息子、トンザンとトングォはここ数日父親の裏切りの知らせに屈辱を忍んできたが、この機に恥を濯ごうと、号令の旗が振られるやいなや、前面へと躍り出ようと馬に鞭を当てた。

駆けつける途中、トンザンは父の叫び声を聞きつけ、馬を降りて馬の下から救い出した。
なんと、父トトンは慌てて叫んだ。
「縄をほどいたらワシの命はなくなる。このままケサルの所へ連れて行ってくれ」

トンザンは仕方なく、兵たちが入り乱れて戦う中、父を助け起こすと、弟トングォが剣を振りあげながら山道を駆け下り、見るからに猛々しいチタンに向かって突進しているのが目に入った。

トングォはまだ若く血気にあふれ、雪辱の熱い思いに、健気にもひたすら剣を振って突き進んでいた。
チタンに三回打ちつけたがすべて空を突き、チタンが素早く腰から短刀を抜くと、トングォは前のめりのまま避けようがなく、一声上げると刺されて地に倒れた。

老将軍タンマと王子ザラが駆けつけてチタンの剣を受け、その矛先がトングォの胸を貫かないよう守った。

老将軍シンバメルツ、王妃アダナム、ジャンの王子ユラ等、英雄たちもそれぞれに敵の大将と懸命に戦った。
まず、魔国の娘アダナムがケサルから贈られた幻影の縄を相手に投げつけた。縄が手を離れると、九本の幻影が同時に飛んで行き、相手の鋭い剣は次々と幻影に切りかかり、九回切り付けてもすべて虚しく、馬に鞭打って逃げて行った。

今回、出征に臨んで、シンバメルツは占いをすると凶と出た。戦では凶多く吉が少ないと自らも知り、ケサルも信書をことづけて、出征しなくともよいと伝えたが、シンバは忠告を聞き入れなかった。

ホルの将軍だった時、リン国の大英雄ギャツァの命を奪ったシンバは、その罪を償うためには、リン国の大業のために戦場で死ぬべきだと考えていたのである。








阿来『ケサル王』 138 物語 ギャツァの霊 姿を現す

2016-02-06 02:36:47 | ケサル

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物語:ギャツァの霊 姿を現す



首席大臣は地団太を踏んだ。
「王様、トトンがチタンを殺しに行くなどと、本当に信じられたのですか」

ケサルは言った.
「トトンはチタンに取り入ろうとカチェへ向かったのだ。その計略を逆手に取ろうではないか」

「やつを殺すべきです」

「私が世に降ったのは妖魔を除くためだ。人から生まれ命に限りある者を殺せとの命は受けてはいない」

「では、我々はトトンのような輩に何も出来ないのでしょうか」

「出来るかもしれないし、出来ないかもしれない。それは、そなたたち人間の問題だ」

天から降った神の子がこう告げた時、いつもの暖かく穏やかな表情が一瞬にして冷酷に変わったのを、首席大臣は驚きと共に目にした。

「妖魔は倒せても、やつのような裏切り者とは共に過ごせということですな」

ケサルは首を振った.
「それは私に尋ねるべきことではない。そなた、具合が良くなったばかりなのにまた病の色が出ているではないか。もうこれ以上頭を悩ませてはならぬぞ」

ロンツァタゲンは独りつぶやいた。
「世の中とは真にそういうものなら、体の具合が良かろうと悪かろうと何の意味もない。長く生きれば、それだけ辛くなるだけだ」

首席大臣は再び病に倒れた。彼は国王に言った。
「もしそれを英雄たちに告げたら、一致団結して敵を倒そうという気概を失うかもしれません」

「だからそなただけに話したのだ」

冷厳だったケサルはまた暖かな表情に戻った。
「すぐにでも敵を誘き出す法を話し合おう。トトンがいなければ、このように早く勝利を収める機会は訪れなかっただろう」

首席大臣は死力を注いで国王と協議し、その夜のうちに、大軍は新しい戦場へと向かった。次の日、ケサルは幻術を用いてそこに戦陣を敷いた。

一方、トトンの木の鳶が地に降りるや否や、チタン王は出迎えに現れ、言った.
「夢で見た方とやっとお目にかかれた」

「国王よ、あなたが勝利した後、ワシをリンの王にして下さるなら、策を授けましょう。もしそのおつもりがないのなら、今すぐ殺してくだされ」

「あの日夢で貴殿を見てから、周囲からは、貴殿は勇敢な人物ではないと聞いておった。ところが、死の危険を冒してまで来られるとは。国王になるためなら何事でもなさるおつもりですな。よろしい、承知しよう」

「尊い国王よ、では天に誓って下され」

「我こそ天である。ならば、誓う必要はあるまい。トトン殿、事ここに至れば、貴殿の計略をお聞きしたい」

「国王よ、明日は、陣の前に敵の目を欺くためのわずかな兵のみ残せばよろしい。優れた兵たちは隠れ身の術で隠したまま、ワシが別の道を行かせましょう。そのままリンの王宮を陥れるのです」

「隠れ身の術?だが、千万の軍が通れば、食事や大小便の跡など、どうしても形跡が残るだろう。その隠れ身の術はどれくらい持ちこたえられるのか」

「ご安心を。この術は二日間効を表します。二日目には我がダロン部の領地を踏んでいるはず。その後は、どんな動きをしても、何も言う者はおりません」

「貴殿の幻術がリン国が仕掛けた周到な罠ではないと、どうしたら信じられるのか」

「国王は信じるしかありますまい。この策の他に勝利の可能性はおありですかな。何よりも、ワシがリン国の王となるのを渇望しているのと同じように、国王は勝利を渇望しておられるのでしょうから」

次の日、双方はどちらも出陣しなかった。
カチェの精鋭の兵たちはトトンの隠れ身の術に隠されて、密かに出発した。残された兵たちは旗を降ろし、陣を敷いたまま戦わなかった。
リン国の大陣営では色とりどりの旗が翻えり、兵馬の幻影が陣の中を盛んに動き回っていた。

正午ごろ、太陽の光と蒸気のため猛烈な熱気が立ち昇り、兵馬の幻影もそれに連れて揺れながら空へと登り始めた。
カチェの軍はそれを見て震えあがった。ケサルの兵はみな神兵、神将で、空に昇って戦うことが出来ると恐れたのである。

そこに留まっていたカチェの呪術師たちだけは幻術だと見破り、これはまずいと大声で叫んだ。
「そこにいるのは本当の兵ではない!大王様は策にかかったのだ!」

こうして、すぐに兵営を放棄し、兵たちをいくつかの隊に分けて様々な方向から追いかけたが、草原は果てしなく、先に行った大軍はトトンの隠れ身の術にしっかりと隠されていて、追跡の手立てがなかった。

分けられた小隊は、ある隊は沼に嵌まって溺死し、ある隊は野牛の群れに迷い込み行ったまま帰って来なかった。

呪術師は自分の小隊を引き連れ、力を振り絞ってチタン王の軍団を探し続けた。







阿来『ケサル王』 137 物語 ギャツァの霊 姿を現す

2016-02-02 03:14:46 | ケサル
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物語:ギャツァの霊 姿を現す その2



 ジュクモは詩に通じたラマの元で音律について学んでいた。彼女が手ほどきした若い娘たちが捧げる歌や舞はこれまでにないほど細やかで優雅だった。

 彼女たちの舞い姿は、戦や、愛情や、労働の模倣を超えていた。
 風がそよ吹く様、水が流れる姿と調和して、聞く者それぞれがかつて感じたことのある温もりとなり、頭の頂から背に沿い体の奥まで注がれていった。ジュクモが自ら歌えば、それはなおさらだった。

 彼女が歌う時、ある者は雪山が腰をかがめるのを見たと言い、ある者は河の水が逆に流れるのを感じたと言った。

 流れ去った時は誰にでもその足跡を残していく。天から下ったケサルも例外ではなかった。
 だが、ジュクモはいつまでも、リン国の妃になった時のしなやかで麗しい姿のままだった。リン国の波乱に富んだ歴史をみなと共に経てはいないかのようだった。

 彼女の表情は天真で深い情愛に満ち、妃になる前にケサルが変身したインドの王子に心を動かしたことなどなかったようであり、ホルにさらわれてクルカル王の子供を生んだことなどなかったかのようだった。

 衰えを知らぬ青春と美しい歌声は聞く者一人一人の心を震わせた。生まれながらの麗しさに、目の前にいるのは仙女か、もしくは妖怪かとさえ思われた。
 彼女のために、純潔なものは更に純潔に、卑劣なものは更に卑劣になっていった。

 トトンが国王になる夢を見ていた時、国王の黄金の位の他に、最も多く夢の中に現れたのはジュクモだった。
 トトンにすれば、皆から奉られる栄誉は少なくとも自分が領有するダロン部で十分に味わうことが出来た。
 自分の心に蠢く野心をなだめる時は、ダロンは一つの国である、と自分に信じさせた。リンというさらに大きな国に統括されてはいるが、それはケサルもまた天上の更に高貴な神に統括されているのと同じようなのだと言い聞かせていた。

 それは、常に不満を残していたが、周りといざこざを起こさない最も良い方法でもあった。

 だが、王妃ジュクモの妖艶な様を目の当たりにして、真の国王のみが彼女を手に入れることが出来、彼女を所有出来るのだとはっきりと分かった。
 この世界には国王が座る黄金の王座は無数にあるが、ジュクモは一人しかいない。

 心の中でくすぶっていた野心の火種が燃え上がり、心の中のざわめきを抑えることが出来なかった。

 トトンは自分のテントに戻り、祭壇を設けて祈った。
 カチェの国王よ、無敵の魔力を顕して、その大軍が早く来させたまえ。
 彼はまたこうも祈った。
 もしその魔力が真に巨大なら、我が心からの願いを受けたまえ。

 リン国ではケサルを除けば、トトンだけが天から魔力を持つことを許された最後の一人だった。
 神は、人の世の妖魔を除くのと同時に、これから生まれるこの世の人間には神の力を与えなかった。妖魔がすべて除かれれば、神はもはや人を直接助けることはなく、それ以降は、人が自分で自分を助ける時代となるのである。

 トトンの祈りは真剣で、衰えることなく強力だった。

 大雪で黒い鉄の山に閉じ込められていたチタン王は夢の中でそれを受け取った。

 チタンは従軍の占い師に、山羊ひげを生やした老人が私の夢の中に入って来た、と伝えた。
 占い師は言った。王様は呪術師の夢をご覧になったのでしょう。
 チタン王は言った。その男は身なりも振る舞いも国王のようだった、と。
 その目をご覧になりましたか。
 その男の目は機知に富み狡猾だった。
 王様、お喜び申し上げます。この戦いは幸先よく勝利を収めましょう。もしケサルが天から降りて来なければ、その男がリンの国王になっていたのです。

 トトンは夢の中でチタンに告げた。
 大雪は半月ほどで止むでしょう。なぜなら、天には凍って雪になるための水がそれほど多くないからです。両軍が陣を組んで向き合った時、勝利の策を献上しましょう。

 果たして十五日間雪が降り続いた後、天は晴れ渡った。
 カチェの大軍は山を駆け降り、洪水のようにリンの草原に満ち溢れた。

 リンの大軍はすでに小さな山を背に陣を組んでいた。
 前に並ぶのは当然王子ザラ、トトンの息子トンザンとトングォの若い英雄たちである。シンバメルツ、タンマ等老将軍と共に陣の前線で敵を迎え撃った。

 攻めては引き、激しい戦いが三日間続いたが、勝敗はつかなかった。

 ケサルはテントの中にゆったりと座り、首席大臣と賽を振って遊んでいた。一方チタン王は、夢の中に現れたトトンがなぜまだ策を献上に来ないのかと焦りに苛まれていた。

 トトンも手をこまねいているわけではなかった。大きなテントに籠り、強い法力で隠れ身の木に念を送っていたのである。

 そろそろ加持の効果を試す頃だと考えたトトンがダロン部の陣へやって来ると、二人の息子トンザンとトングォが一丸となって相手の大将と戦っている様が目に入った。攻めては戻り、戻っては攻め、何度も渡り合い、どこも勝敗がつきそうになかった。

 トトンは二人の兄弟に何かあってはと、すぐさま呪文を唱え、鳥の翼のように広げた隠れ身の木を空中に放つと、二人の息子は背後で声を挙げている兵もろとも影も形もなくなった。相手の大将は大太刀を円盤のようにグルグルと振り回し、他のの陣へと向かって行った。
 その太刀の下、二人の千戸長が次々と切り殺され馬から落ちた。
 老将タンマが大将の行く手を遮って、陣はやっと元の形を取り戻した。

 トトンはしてやったりとほくそ笑み、名馬ユジアに跨ると中軍のテントへと走った。

 ケサルは笑いながら言った。
 「叔父上は、英雄たちが前線を塞ぎ切れないと恐れ、変幻の術で私も隠そうとやって来たのですね」

 「ワシは、隠れ身の術を使って敵の陣へ殴り込もうと、許しを得に参ったのだ。チタン王を殺せば、カチェの大軍は先頭を失い、自ずとリンから引き下がるだろうからな」
 
 「カチェの国王は無知で、身の程知らずにも兵を起こして世を乱しました。必ず滅ぼさなくてはなりません。無傷で帰らせるなどもってのほか」

 トトンは我が意を得たりとのぼせ上がった。
 「ここ数日、英雄どもは苦戦しながら勝利できずにいるようじゃ。国王よ、勝利を収めて城に帰りたいのなら、ワシに行かせてくれ」

 首席大臣は聞き入れてはいけないと合図を送ったが、ケサルは言った。
 「では、ご苦労だが行ってくれますか」

 こうして、トトンは意気揚々と木の鳶に乗って敵の陣営へと飛んで行った。