塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 183(最終回) 物語:雄獅子天に帰る

2017-02-26 10:53:19 | ケサル
      ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304



物語:雄獅子天に帰る その2



 ケサルが指を折って数えてみると、人の世に降ってからすでに八十一年が経っていた。人の世での仕事はすべて成し遂げ、天へと帰るべき時が来た。
 そこで、王宮にある宝を集め、全国各地で宴を催して民も官も共に楽しませた。王城の周りでも、多くの民を招き、美食を振る舞い歌い踊り、楽しみの限りを尽くした。

 賑やかな宴は三日続き、そこで王子ザラを近くに呼んだ。
 王子は長寿のハタを捧げ、請い願った。
 「国王は天から降られました。我々人とは異なり、限りなき命お持ちです。今やっとリン国の大業は成就しました。どうぞいつまでも人の世に留まっていただけますように」

 リン国の上も下も、長官も民も誰もが声をそろえ、国王はこのまま人の世に留まり、衆生を庇護されるようにと願った。

 ケサルは詞を作り歌った。

   年老いた鵬よ高く飛べ
   若鳥の翼はすでに逞しい
     
   雪山の老獅子よ彼方へ向かえ
   若獅子の爪と牙はすでに鋭い

   十五夜の月は間もなく西に沈み
   東方の太陽が昇り始める



 国王は居並ぶ者たちに告げた。
 「私が天に帰った後は、ギャツァシエカの息子、ケサルの甥・ザラこそがリンの王である」
 そして自らザラの手を取って宝座に座らせた。

 「ザラよ、我が甥よ。リン国の過去は私が責を果たした。未来につてそなたは心焦ることはない。リン国を危うくする魔物たちはすでに降伏し、リンの護法神となったのだから」

 言い終ると、トトンの息子トンザンを呼び、二人を前にして申し渡した。
 「トトン叔父の魂は西方浄土へと済度された。叔父上の人の世での善と悪はもはや問われることはない。ダロンの家では更にトングォがリンの大業のために命を捧げた。ザラよ、トンザンをよく重用しなさい。トンザンよ、そなたは兄ザラを敬うように」

 二人は手を取り抱き合い、互いに親しみ敬い、生死を共にすることを誓った。

 その頃、神馬ギャンガペルポは馬の群れの中にあって三度長くいななき、涙をこぼした。主人と共に天へ帰る時が来たのを知ったのである。
 共に四方を駆け巡り、幾度も戦いの場へ赴いた馬たちが集まって来た。
 美麗白蹄馬、白毛宝樹馬、火炎赤煌馬、千里夜行馬、赤鬣鷹眼馬、青毛蛇腰馬…すべての宝馬がギャンガペルポを取り囲んだ。

 ギャンガペルポは涙をこらえて言った。
 「数え切れぬほどの道を共に駆け抜けた仲間たちよ、肩を並べて突撃した友たちよ、我が主人は間もなく天へ帰る。このギャンガペルポも主人と共にこの世を去る。身に着けた馬具は王子ザラ殿の馬のために残していこう。友よ、それぞれがリンの英雄と共に美名を伝えていくよう願っている」
 言い終ると一声長くいななき空へと昇って行った。

 ケサルの矢袋の中から火炎雷鳴箭が姿を現し、多くの矢に別れを告げた。
 「私は大王に従って天へと帰ります。諸兄はリンに残り敵の軍を鎮圧されますよう。もしまた戦いのろしが上がれば、ここに集いましょう」
 言い終ると弓の力を借りずに自ら天へ昇って行った。

 ケサルと共に世に降った斬魔宝刀も鞘から離れ、多くの武器に別れを告げた。
 「我が仲間、鋭い刃を持ったものたちよ、外に向けては切っ先を定め、内に向けては息をひそめ、一旦リン国が攻められれば、鋭い刃を光らせて迎え撃ってくれ」
 言い終ると、赤い光が一筋煌めいて、宝刀はすべての武器の周りを巡りながら、天上へと飛んで行った。

 すぐにケサルへ知らせが届いた。国王の宝馬、宝箭、宝刀はすでに立ち上がり飛んで行った、と。
 ケサルとその場に並ぶ者たちが目を挙げると、宝箭、宝刀、宝馬は天を旋回し、主人を待っているかのようだった。

 ケサルは最後にリン国への別れの言葉を述べた。
 「私と共に世に降った神馬と武器はすでに空へと飛び立った。私も天へ戻らなくてはならない」

 そして最後の法力を用いてリン国の大地と衆生に加持を施した。
 リン国の上も下も、別れを惜しみながらも国王の天命を知り、次々と集まって敬虔な面持ちで獅子王が天へ帰っていくのを見送った。

 この時春雷にも似た轟音が鳴り響き、天の扉が開いた。ケサルの天上の父と母、天上の十万を超えるあらゆる神々が姿を現し、大いなる功労を成し遂げた神の子ツイバガワを出迎えた。
 神々が姿を現すと同時に、心地よい天上の楽の音が四方に響き渡り、妙なる香りが辺りを満たした。純白のハタが天から地へと垂らされ、ケサルはジュクモとメイサを左右に伴ってゆっくりと天の道へと向かって行った。

 天の道を登る時、ケサルと二人の妃はもう一度振り返り、名残惜しそうにリンの山々と河を見渡し、リンの衆生に最後の眼差しを向けると、彩雲に包まれて上へ上へと昇って行った。
 その姿が天の庭へと入ったその時、功徳を讃える花々が降り注ぎ、ひとしきり空を舞った。

 ケサルは天へ帰った。再び人の世に戻ることはなかったが、残された英雄の物語は今も伝えられている。







阿来『ケサル王』 182 物語:雄獅子天に帰る

2017-02-18 01:12:55 | ケサル
      ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304


物語:雄獅子天に帰る




 ケサルの三年を超える不在の間に、生母グォムが世を去った。

 ケサルが宮中に戻るやいなや、ジュクモが泣いてひれ伏し、母グオムが世を去ったことを告げた。ケサルは深いため息をつき言った。
 「母の魂はどこへ行ったのだろう」

 ジュクモは当惑し、どう答えたらよいか分からなかった。ケサルが答えを期待していないのにも気づかなかった。

 小佛州から帰ると、パドマサンバヴァ大師に諭し導かれ、諸仏の加持を受けて、ケサルの力は並外れたものになっていた。彼が念を送ると、それに応えて閻魔王配下の冥途の使者が現われた。使者から母グォムは地獄へ落とされたと知らされた。

 そこでケサルは再び閻魔殿の前に立った。
 「是非を分けられぬ閻魔王よ、私の母は生涯人々を慈しみ憐れんだ。そのような母をなぜ地獄へ落としたのだ」

 閻魔王は宝座から降り、言った。
 「力に任せて人の世を騒がせる獅子王よ、天の命を受けて世に降り妖魔に剣を振るったとはいえ、その殺戮の罪を消すことは出来ぬ。それだけではない。どの戦いに於いても、衆生を傷つけ、路頭に迷わせたであろう」

 「それは私の罪だ、母の罪ではない」

 「だが、そなたを地獄へ落とせる者はいない。因果の巡り合わせにより、そなたの母が代わりとなるしかなかったのだ」

 ケサルは怒りを抑えきれず、再び剣を振り上げ辺りかまわず切り付けた。だが、建物も閻魔王も鬼たちも、少しも損なわれなかった。
 この時やっと、パドマサンバヴァ大師より授かった呪文に思い至り、剣を収めると心の中で唱えた。

 閻魔王の姿が消え、地獄へ通じる鉄の扉ががらがらと開き、閻魔王を補佐する判官が現われた。
 ケサルは母とアダナムを探すため彼に着き従われて地獄へ降りた。

 幾層にも分かれた地獄の至る所で、痛み苦しみに耐える夥しい数の魂を目にした。だが、母もアダナムもその中にはいなかった。
 地獄に落ちた魂はあまりに多く、重なるようにしてすべての空間を埋め尽くし、最も下の層の地獄へ通じる道をも隙間なく塞いでいた。焦り憤ったケサルは再び宝剣を振り上げた。

 判官は言った。
 「人間界の剣はここでは役に立たないのはもうお分かりのはずですが」

 「母を探すための道をどのように開いたら良いか知りたいのだ」

 「それは簡単です。お二人を済度すればいいのです」
 
 「母は私のために地獄へ落とされたのだ。私に済度できるだろうか」
 
 「御存じないのですか。もちろんあなたには罪はあります。だが、徳はそれより勝っています。お二人を済度するには十分です」

 地獄で魂が受ける苦しみは人間界で受ける罰の百倍千倍を超えていることをケサルは目の当たりにした。憐みの心を呼び覚まされたケサルは、パドマサンバヴァ大師、観音菩薩、西方の諸仏に向かって強い祈りを捧げ、六道輪廻の中で苦しみに喘いでいる衆生が解脱して西方浄土に生まれ変わるよう祈願した。

 祈祷が終わると、夥しい数の魂が暗く光のない地獄から解き放たれ、軽やかに上昇し、西方浄土へ向かって飛んで行った。
 多くの魂と共に、母グォモとアダナムの魂も上昇を始め、六道輪廻から抜け出し、徐々に天へと昇って行った。
 それを見てケサルの心は慰められた。ただ、この時、ケサルには二人の姿が見えたが、二人はケサルに気付かなかった。二人はただどこまでも昇って行き、満ち溢れる天の光の中に姿を消した。

 閻魔王がまた現れた。
 「そなたに謝罪しようとやって来た。長い長い時が経ったが、衆生を済度する徳の高い者が現れず、地獄はすでに人で埋め尽くされていた。少なくともこれからの千年、新しい魂を受け入れる場所がないと心配しないで済む」

 ケサルには一つの疑問があった。前回は妃さえ救うことが出来なかったのに、今回は地獄にひしめいているすべての魂を救うことが出来た。それは何故か。

 閻魔王は手を振って言った。
 「そのことについては、パドマサンバヴァ大師に尋ねるがよい」

 ケサルは神馬に乗ってリン国へ戻った。
 王城に着き、国王が馬から降りるやいなや、神馬は馬具を降ろすのも待たずに山の上で放牧されている馬の群れへと奔って行った。
 一方、ケサルは馬から降りるとすぐ首席大臣からの言づてを受け取った。

 「リン国の神山で、鳥の羽毛が風に揺れるのを夢に見ました。もし羽毛が抜け落ちたら、金翅鳥の憐みと加護を賜りますよう」

  ロンツァタゲンにこの世の最後が近づいたようだった。ケサルはすぐさま首席大臣の寝所へ行った。リンの英雄たちと王子ザラも集まって来た。国王の訪問を知り、暗澹としていたロンツァタゲンの目に光がよみがえった。

 「ケサルよ。今は国王とは呼ばず、愛する甥と呼ぶのを許して下され。間もなくみなと別れて、リンを去るのだから」
 
 「叔父上さま。何でもお申しつけ下さい」

 「天上にいれば神であっても、人の世ではそなたはワシの愛する甥だ。リンの長仲幼の家系は代々受け継がれて来たが、ワシほどに幸運と光栄を手にし得えた者はいないだろう。それはそなたがいたからだ。リン国の偉大な国王と共にあったからだ。ワシが去っても、みな悲しまないでくれ。ワシは死ぬのではない、姿を変えるだけだ…ワシの最後の望みはリン国の偉大な事業が永久に続き、リン国の民が安らかであることだ」

 言い終ると首席大臣の意識は薄れていった。
 ケサルをはじめ大勢の者が彼を取り囲み、彼の人の世での最後を見守った。空が明るくなりかけた時、首席大臣は再び意識を取り戻し、名残惜しそうに、だが、満たされた眼差しで日々共に過ごした者たちの顔を一つ一つ辿っていった。

 透明な積雪を冠った神山の頂きを太陽が輝かせた時、大臣は静かに微笑み、この世での最後の息を吐いた。
 この時、天空に虹色の光が満ち、光の中から一頭の白馬が現われ、辺りを一巡りすると光と供に消えて行った。

 皆が床に目を移すと、ロンツァタゲンの肉体は見えず、ただ身に着けていた衣と、その体が残した微かな暖かさだけが残っていた。






阿来『ケサル王』 181 語り部:未来

2017-02-11 03:24:46 | ケサル
     ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304



語り部:未来 その3



 ジグメと活佛は下の階に戻った。そこが本堂だった。
 薄暗かったが、ジグメには見えた。
 正面中央にケサルの金の像が置かれ、彼の大業成就を補佐したリン国の英雄たちが二列に並んでいる。

 ジグメは声に出して一人一人名前をあげていった。ロンツァタゲン、王子ザラ、大将タンマ、老将シンバ、…ジャンの王子ユラトジ、魔国の公主アダナム…そして、若くして逝ったギャツァシエガ…この名を声にした時、本堂が震えたように感じた。もう一度その名を呼んだ。だが何も起こらなかった。

 最後にケサルの前に立った。それは夢の中で出会った人の世の国王ではなく、天上での神としての姿だった。威厳に満ち、気高く君臨していた。

 金色に輝くその像は神であり、ジグメの物語の主人公であり、なによりもジグメの運命だった。
 ケサルの像に向き合ったジグメは心が揺れ、思わず叫んだ。
 「獅子大王様!」

 この時、ケサルはジャンガペルポに跨り王城に戻る途中だった。どこからか叫び声が聞こえたような気がして、馬の上で背を伸ばした。その時よりはっきりと声を感じた。
 「運命の人よ!国王よ!」

 それは自分の物語を語るあの男の声だ。必死に耳を凝らしていると、体が空に浮き上がった。ジャンガペルポは少しも気づかずそのまま行ってしまった。
 ジグメの言葉が聞こえた。
 「王様。物語の結末を知りたいとずっと望んでいましたね。その時が来たのです」

 語り部の声が聞こえ、彼の涙を感じた。と、その瞬間、ケサルは千年後のアッシュ高原に来ていた。彼の未来に来ていた。

 虚空には明確な道はない。だから、神の力を身に着けたケサルでさえ、どうやってこの見知らぬ時間の結び目にたどり着いたのかは分からなかった。
 だが、彼が目にしたのは慣れ親しんだ風景であり、生まれた土地であり、リン国を興す礎を築いたアッシュ高原だった。

 草原では赤い衣を着たラマたちが息の限りにチャルメラを吹き、彼が天から下界へ降る時の一段を演じていた。新しく建てられた廟では自分の像を目にした。天に帰った後の姿のようだった。あの語り部が像の足元に額を触れていた。

 語り部ジグメは問いかけた。
 「神よ。物語を終わらせるのですね。それなら、オレの体に入っているものを取り出してください。もう年取って、こんな不思議なものを背負い続けるのは無理です」

 ケサルは思わず尋ねずた。
 「どんなものか」

 「オレの体に射った矢を忘れたんですか」
 
 「矢?」

 「矢です」

 活佛がいぶかし気に尋ねた。
 「何と言った。良く聞こえなかったが」

 ジグメは振り向き、微笑んだ。
 「神様に願い事をしているんです」

 後に活佛は人々に語った。
 ケサルの像が手をあげ仲肯ジグメの背を軽く撫でるのをこの目で見たことを。その時、カランという音が響き、鉄の矢が地に落ちて来たことを。

 後に、この矢は階上の部屋に陳列され、その中で最も大切な宝となった。

 あの時、ジグメは物語が去って行くのを感じていた。一陣の風の中で砂塵が舞い上がるように、物語が天へと飛んで行く。
 今すぐ語らなくてはならない。草原に降り立った英雄の物語をまだ語り終えてはいないのだから。
 ジグメは六弦琴を掴み、衣装を整え、舞台の中央に進んで語り始めた。

 劇を演じていた僧たちは舞台を降り、観衆に混じって息を殺し、物語の最後の一段「英雄天に帰る」の語りに耳を傾けた。

 物語がすべて漂い去る前にジグメは終に最後の一段を語り始めた。活佛は最後となる語りを録音するよう命じた。
 結末の一節を語り終えたその時、ジグメの頭の中は空っぽだった。空を見上げ、人の世の王がまだ近くを徘徊しているかどうか確かめることさえ忘れていた。

 物語を失った仲肯はその後この地に留まった。リン国の君臣の像が陳列されている堂の中を手探りで掃除しながら、日々老いていった。
 参観者があれば、彼が最後に語った一段が流された。その時彼は顔を挙げてじっと聞き入り、ぼんやりとした笑顔を浮かべるのだった。

 誰もいない時は、あの矢を撫でた。
 それは確かに鉄の矢だった。
 鉄の冷たさ、鉄の重くざらついた質感を湛えていた。







阿来『ケサル王』 180 語り部:未来

2017-02-05 01:42:52 | ケサル
     ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304


語り部:未来 その2




 夕日が西に沈むころ、ジグメはアッシュ高原に着いた。
 寺の周りの草地でラマたちが活佛の指導の下ケサル劇の通し稽古をしていた。若いラマたちは美しい装束に着替え、絵筆で顔を塗り、リズミカルな太鼓の音の中、次々と舞台に登った。神仙に扮したラマたちは鳥のように軽やかに舞い、金の兜に金の鎧のケサルは中央で彼らに囲まれていた。

 ジグメは尋ねた。
 「これはどの場面かね。国王天に帰るだろうか」

 活佛が答えた。
 「ここは英雄の誕生の地。英雄降臨が最も好まれている。ケサルが天上から下界の苦難を目にし、人の世に降ろうとする場面だ。だが、あなたが国王昇天を語りたいなら、その場を用意することは出来る」

 「活佛様、どうして分かったんですか」

 活佛は濃い緑色の眼鏡を掛けたままだったが、ジグメは鋭い目線が自分に注がれているを感じた。
 「仲肯よ、あなたの体からある匂いが感じられるのだが」

 「何かの匂い?」

 「終わりの匂いだ」

 「オレは死ぬんですか」

 「私が感じたのは物語の終わりだ。ここで英雄物語の最後の章を語りたいのではないか」

 「ここがその場所のようです」

 太陽が沈み、最初の星が天に躍り出ても、稽古まだ終わらなかった。
 夜、活佛はジグメの食事を用意させ、食事が終わると、茶を飲もうと誘った。
 ジグメは活佛に、以前他の場所で、アダナムが死ぬ間際に僧に対し無礼な言葉を口にする場面を語ったためにラマたちに追い出されたことを話した。

 活佛は軽く笑って何も答えなかった。そして尋ねた。
 「本当に最後の章を語るつもりかね」
 ジグメは言った。
 「もうこれ以上歩くのは辛い」

 二人は更に話しを続けた。
 仲肯の多くが英雄物語の最後の段を簡単には語ろうとしない、それは、多くの仲肯が最後の段を語り終ると物語が去って行ってしまうからである。その様はまるで、神から授かった使命を終えたかのようである、と。

 活佛は糾した。
 「終えたと言うべきではない。圓満に全うしたと言うべきなのだ」

 この時ジグメはまたためらった。彼は活佛に、もしここで語らずに物語を残したまま街へ行き、すべてを録音すれば、国は衣食に困らない生活を過ごさせてくれることになっている、と話した。
 活佛には特別な力があり、ジグメに心に隠してあった想いを語らせた。

 ジグメは昔知り合った女の語り部の話をした。ラジオの放送局での出会いを話し、最近の再会を話し、彼女の金歯についても話し、別れの時、年老いた彼女がどのように接吻したかを話した。そうしてジグメは笑った。

 「あの女性がテープに吹き込んだ語りは完全じゃなかったんです。猫がその内の一本をだめにしてしまって。それで、その欠けた一段を始めから語り直そうとしたけど、語れなかった」

 その後しばらく二人は沈黙したままだった。広い露台に座ったまま、東の空の雲の割れ目からのぞく月を見ていた。

 活佛は立ち上がり、ジグメを送りながら言った。明日の天気は、劇を演じるのに良く、物語を語るのにも良さそうだ。

 その晩、ジグメはやはり夢を見なかった。

 次の日の正午が近づいても、ジグメは語るかどうか気持ちが定まらなかった。ラマたちが稽古を続けている時活佛がまた訪ねて来て、廟の中に新しく建てられたケサル殿へと誘った。

 活佛はジグメを連れてまず二階へ上がった。中にはたくさんのケサル像が並べられていた。画布に描かれたもの、石に刻まれたもの、馬にまたがり疾駆しているもの、弓を引き絞り矢を放っているもの、剣を振り上げ妖魔に切りかかっているもの、美女と楽しんでいるもの。

 次に並んでいたのはいくつかの古物だった。馬の鞍、甲冑、矢の袋、鉄の弓、銅の剣、法具。どれも活佛が各地から集めたものだった。
 活佛は、これらはみなケサルが人の世で使った本物だと断言した。言ってから、また言葉使いを糾した。

 「いや、集めたのではなかった。掘り出したのだった。これらの宝はケサルが意図して残し、縁ある者に宝蔵として掘り出させたのだ」

 目の悪いジグメは、手で触るのを許してくれるよう活佛に頼んだ。願いを受け入れられた。
 それらは冷たく硬く、本物かどうかを知るよすがは感じられなかった。