塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 ㉖ 物語 放擲 

2013-11-19 00:09:29 | ケサル
物語 放擲  その3




 花が開き、今神の子は妖魔の幻術と戦っているのだ、と人々に告げていた。
 だが、人々は許そうとはしなかった。

 彼らの中の聡明な人物が言った。
 「妖術が幻の世界を作ったのだとしても、その世界で繰り広げられた冷酷と残忍は真実ではないか」

 さらに、人々がジョルに悔い改める機会を与えようとした時、神の子は悔い改めようとしなかった。

 その時、リンの人々の智力はまだ愚かで混沌とした世界に深く沈んでいたので、誰かが一言このように理に適ったことを言えば、賛同の声を引き起こしてしまうのだった。

 勇敢で智慧に長けたギャツァでさえ、これを聞いて、一方ではこの言葉は自分の弟に対して不公平だと思いながら、反論する言葉が見つからなかった。老総督もやはり、反論する言葉が見つからなかった。
 あの一言を口にしたのはジョルの叔父、トトンだった。

 大きな氷河がゴーンと言う音と共に崩れ落ちて来た。ジョルの体は立ち昇る氷の霧の中に消えた。
 この時、取り囲んでいた群衆はジョルが消えたことに心からの喜びの声を挙げた。

 テントの入り口で息子の服を作っていた母メドナズは、心臓を突き刺されたように胸元を抑え、かがみこんだ。

 ジョルは神の力に守られ、氷河は頭の上で砕け、彼をよけて落ちて行った。
 霧が晴れた後、空はあっという間に明るく澄み、ジョルは体を振るわせて群衆の前に姿を現し、告げた。
 「妖魔は空中や地面から来ることが出来なかったのだ。そこで水の中に道を作った。だが、このジョルが、氷河の下を通る道を塞いでやったぞ」

 みなが半信半疑でいると、トトンがジョルに向かって言い放った。

 嘘だ!


 するとたくさんの声があちこちで沸き上がった。
 

 嘘だ! 嘘だ! 嘘だ! 嘘だ! 嘘だ!


 トトンはまた言った。
 「可愛い甥よ。幻覚で人々の目をごまかしてはいけないよ」

 山の斜面でも谷間でも人々は更に声を合わせて叫んだ。

 幻覚! 幻覚! 幻覚! 幻覚!


 大勢の声が一つになった叫びの中、そこに含まれた怒りには、抵抗しがたい力があった。
 その時人々は見た。神の子の聡明で美しい顔つきが、醜く変わっていくのを。
 まず顔色が、そして輪郭と目鼻立ちが、そして最後にすらりとした姿も縮んでいった。
 神の子ジョルは人々の前に醜い姿を現した。

 人々は勝った。世を欺く者が本来の姿を現したのだ。そこで人々はまた声をそろえて高く叫んだ。

 本性が見えたぞ! 本性が見えたぞ! 本性が見えたぞ!


 それはちょうど神の子が天から人の世に降って六年目の日だった。

 この時、母は息子のために新しい毛皮の上着を縫っていた。手の中にある上等の皮の毛が抜け落ち、いくつものまだらが出来、風よけ帽の前には二つの奇妙な角まで現われた。

 メドナズは空を見上げた。
 がらんとした青があるだけだった。青い色の下には緑に覆われた山々が遥か彼方まで続いていた。

 メドナズは空に向かって叫ぼうとした。だが、その声は胸の隙間から沸き上がり、のどもとで止められた。音ではなく、血の塊だった。
 彼女は草を抜き取り、根元深くに血の塊りを埋めた。
 母として、息子に対する悲しみを誰にも見せたくなかった。天にさえ見せたくなかった。

 トトンは手を振り上げ、神通力を使って、自分の声をリンのすべての角にいる人々にまで聞かせた。
 「この子は天が降した神の子と言われているが、我々が見たのはただの残虐な殺し屋だ」







阿来『ケサル王』 ㉕ 物語 放擲 

2013-11-11 04:06:04 | ケサル
物語 放擲  その2




 ジョルはまだ夢の中にいて、パドマ・サンバヴァに尋ねた
 「おまえは神さまから遣わされた者なのか」 
 パドマ・サンバヴァは考えてみると、自分の今の身分は名前の付けようがなく、自分でも掴みどころがなかったのだが、仕方なくうなずいて「そうです」と答えた。

 「このジョルは国王になるのか」
 パドマ・サンバヴァはゆっくりと首を振って行った。
 「まだその時は来ておりません。あなたはまだ苦しみを受けなくてはなりません」
 「それなら国王になるのはやめる。天に帰ることにする」

 パドマ・サンバヴァはため息をついて言った。
 「あなたが天に帰った時、私はまだ人の世にいるかもしれません」
 「おまえは神ではないのか」
 「私は未来の神です」
 「だったらすぐ、このテントから出て行け!」

 パドマ・サンバヴァは立ち上がり、笑って、言った。
 「神の子よ、ではあなたの夢から出ていきましょう」

 ジョルは夢の中でパドマサ・ンバヴァといくらも話していなかったが、目が覚めると空は明るく、昇りはじめた太陽はすでに草に結んだ霜を溶かしていた。

 ジョルは叔父の所から手に入れた魔法の杖に乗って辺りを一巡りし、退屈になって、機を織っている母に城塞に帰りたいと言った。

 母は、気ままに生き物を殺さない、人々に恐れを抱かせないという約束をきちんと守れるか問いかけた。
 ジョルは、妖魔をすべて滅ぼしたつもりだったので、母の言葉を誠実に受け入れた。

 ジョルは無限の力を持つ兄ギャツァ・シエガがどんなに軽々と自分を馬の背に抱き上げてくれたかを想った。
 老総督の期待に満ちた眼差しがどのように自分の上に注がれていたかを想った。
 この想いは彼を更に孤独にした。これもまた彼がもう殺戮を行わないと母に約束した理由である。

 母は言った。
 「では、父さんと老総督のところへ行って謝りなさい。私に約束したことをもう一度二人に伝えれば、きっと許してもらえるでしょう」

 この時、跨っていた杖がガタガタと鳴り始めた。妖魔が再び現われた知らせだった。
 ジョルは杖を捨て、そのまま砦の方へ歩いて行った。

 二つのぼんやりした影が見えたので、砦の上からそのあたりを眺めた。それが老総督と兄のギャツァ・シエガだとは分かっていた。
 二人はジョルが利口な子供のように礼儀正しく清潔な身なりで人々の前に現れて欲しいと願っていた。そうすれば人々はジョルを許すだろう。

 ジョルが砦に向かって行き、しかも強い反応力を持つ杖を投げ捨てたのは、こうすれば妖魔が現われたという前触れを知らなかった振りが出来るからだった。

 今回は水の中に災いを起こすモノがいた。体の半分が竜、半分が蛇の妖怪が二匹、ジョルの目の前で岸に上がって来た。
 二匹の妖怪は全身をぬめぬめと湿らせ、口からはヒューヒューと火を吐いている。
 こうなっては見て見ぬふりは出来ない。

 この子供は大きく息を吐き、砦にチラッと目をやると、杖を拾って二匹の妖怪に立ち向かって行った。
 ジョルが見ていたのは水の怪獣だった。
 だが、母親を含めたリンのすべての人々に見えたのは、竜宮の水晶の門が開き、そこから現れた二人の美しい娘だった。

 二匹の妖怪の力は強大で、水の中でも岸でも、くんずほぐれつ休むことなく戦い、雅礱江の水がもう一つの大河に流れ込む辺りのいくつもの渦巻きが逆巻く深い水の中に潜って行った。
 その早い渦巻きのどれもが、世界を丸ごと吸い込んでしまうほどに力強かった。

 早い渦巻きにジョルはこれまでにない快感を感じた。
 渦巻きの底は砂時計のとがった部分のようで、最も細い所を抜け出て一回転すると、目の前にまた別の世界が現われるのだった。

 二匹の妖怪は自在に場所を変え、ジョルが時間を逆回転させる渦巻きに夢中になっているのを見ると、水の上に出て雲の中に入り込んだ。
 妖怪のしてやったりと言わんばかりの大笑いがジョルを我に帰らせた。
 ジョルは杖を横にして、渦巻いている流れを止めた。

 ジョルもまた雲まで昇ったが、やはり、くるくると回転しながらの急降下を楽しんでもいた。

 ジョルと妖怪は戦いながら、あっという間に河の源である氷河の上まで来た。

 二匹の妖怪が最後に用いた法術により、多くの美しい生き物が次々と湧き出して来ては、ジョルの杖で殺された。ジョルの残忍さをすべてのリンの人々に見せたのである。

 人々はみなジョルが杖を振り回して水の妖怪の分身を殺す時、わずかな憐憫の心もないのを目にした。
 たくさんの死骸が河の上流の浅く澄んだ渓流を塞ぎ、血なまぐさい空気に両岸に咲いていた花は蕾み、回転して、萼を河原に向けた。

 最後の二振りで、水の妖怪の真身はやっと倒れた。妖怪の死体は河の中でほとんど水面を汚さなかった。
 同時に分身の死体はすべて消え、河は清冽な姿を取り戻し、花々も再び開いた。









阿来『ケサル王』 ㉔ 物語 放擲 

2013-11-06 15:30:08 | ケサル
物語 放擲 その1



 神の子は生れ落ちると、雅礱江と金沙江に挟まれた阿須草原で暮した。  
 草原の中央には美しい湖があり、草原の尽きる所は高く聳える雪山と透明にきらめく氷河である。
 言い方を変えれば、阿須高原はこれらの美しい湖と雪山の間に広がっていた。

 ジョルが現わした神の力を、人々はみな見ていた。ジョルが天から賜った力を濫用し生き物を殺戮する悪ふざけも、人々はみな見ていた。
 だが、それらの生き物の中には妖怪や妖魔が無数にいたことは知らなかった。山や川に潜む目に見えない妖魔や妖怪を降伏させたことは、なおさら知らなかった。

 人々のためにジョルがしたことは、ただ彼のおじトトンだけが見ることが出来た。だが、トトンの心はすでに悪魔に占拠されていたので、人々が伝説の神の子に失望を感じた時、ひどく心を痛めているふりをして口を閉ざした。

 トトンの沈痛な言葉は人々の心を震えさせた。
 彼はこう言ったのだ。
 「神もまた私たちをこのように弄んでいるのだろうか」

 ただ神の子だけは知っていた。
 パドマ・サンバヴァは夢の中でジョルにこう告げていた。
 「現在リンが治める細長い土地はあまりにも狭い。
  強大な国王は、まず金沙江の河岸から西へ、北へと向かい、
  黄河上流のより広い草原から、地中に塩が湧き出し乾燥のためラクダが走るとひづめに火花が散る北の地方まで、すべて占拠しなくてはならない。
  リン国の未来の羊の群れには柔らかく潤った全ての草原が必要となり、
  リン国の武将には駿馬が走り回るのに適した全ての場所が必要となるだろう」

 この時ジョルは5歳になったばかりだが、体は既に20歳の男に等しく、リンので最も美しいデュクモを密かに眺めて楽しんでいた。
 この娘は、ジョルの目の前で、その年齢にふさわしいの勇士たちと追いつ追われつしながら戯れ、男たちの心にかすかな痛みを刻ませていた。

 ジョルは夢の中でデュクモの名前を口にした。
 母は心配して言った。
 「息子よ、お前にふさわしいのは今やっと生まればかりの女の子ですよ」

 その夜、月の光は湖に落ち、揺蕩っていた。鳥の巣を襲う狐はみなジョルに殺されたが、時々麦畑から驚いたように鳥が飛び立った。そのまま月へと飛んで行くかのように。折れた鳥の羽がテントの煙を逃す穴から漂って来て、ちょうどジョルの顔に落ちた。

 夜は水を湛えたように冷たく、星は絶え間なくめぐり、高貴な生まれのジョルの母親は涙を止めることが出来なかった。
 彼女は息子を揺り起し、胸に抱きしめ声を挙げて哭きたかった。だが、ジョルの夢の中に入ったパドマ・サンバヴァが息を吹きかけると、彼女はまた羊の毛の中で体を縮こまらせ、深く暗い、夢のない眠りの世界に入って行った。吐き出す息は羊の毛の縁で白い霜を結んだ。
 この窪地を抜け、河に沿った上流や下流の固い岩の堤の上に聳え立ついくつかの城塞には灯りが輝いていた。

 神の子が生まれてから、リンは平和の光に覆われていた。
 穀物の力は酒を醸し、乳の力はヨーグルトとなり、風の中に、夜に蠢く妖魔が黒い外套を翻す不吉な音はもはや聞こえなかった。
 夜の気配の中、わずかな人々のみが言葉の韻律を味わい、少数の職人のみが技を磨いていた。どのように火を祭り、土を焼き物に変え、石を銅や鉄に変えるか、その技を求める者はさらに少なかった。

 センロンさえも自ら放擲した息子を忘れ、龍の生まれの妻を忘れ、二人が下等な民のように飢えと寒さに耐えているのを忘れていた。
 彼の体は酒と女に焼かれていた。彼が腕を上げて命を下すのは、召使たちに更に声を挙げて歌わせるためだった。

 ただ一人、ギャツァ・シエガだけが愛する弟を想い、その想いに耐えきれず馬で砦を駆け出し、ジョルに会いに行った。
 彼のマントが夜の風に翻るや否や、ジョルの夢に入っていたパドマ・サンバヴァは空気の振動を感じた。
 「この夜は、お前たち兄弟のものではない」
 彼はこう言うと、同時に、形のない黒い壁を立てた。

 ギャツァが剣を振るって壁に切りつけると、壁はその刃を受けて開く。だがまたその度に、音もなく塞がった。

 ギャツァはどうすることもできず、馬の方向を変えて高い丘に駆け上るしかなかった。そこで彼は老総督に出会った。
 老人が丘の上に立って遥かに見つめているのは、常に心にかかるあの方向だった。
 そこでは大地が、河の曲がる片側で沈み込み、これまで月の光で照らされたことさえなかった。

 ギャツァは言った。
 「弟に会いたい」

 老総督は言った。
 「リンはいつまでこのように安閑としていられるのか、心配でならない。だが、お前の弟は私に天意を見せてくれないのだ」