塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 116 語り部:塩の道

2015-07-29 21:12:56 | ケサル
語り部:塩の道 その2



 ジグメもまた、あのようにおかしな活佛は少ないと言おうと思ったのだが、ラマを怒らせるのが怖かった。
 ジグメは自分が慎重すぎて、臆病なのは分かっていた。

 話題を変えてラマに尋ねた。
 「お坊様は学問がある。この道はずっと前から塩を運ぶ道だったんだろうか」

 ラマは、塩採り人に敬われている老人にこの問いを譲った。

 老人はため息をついて言った。
 「たぶんこれが最後の一回だろう」

 「と言うことはやはり、これはリンからジャンまで塩を運んだ道ということか」

 老人は言った。
 彼らは南の少し低いところにある草原から来た牧人である。
 先祖代々、毎年塩を採りに来て、さらに南の畑作の地に売りに行く。そこで塩を、放牧地では手に入りにくい食料や陶器に換える。
 だが、そういった場所には国家が飛行機や汽車を使ってもっと遠くからもっと良い塩を運んで来る。雪の様に白く、粉のように細かい塩を。
 そこで暮らす人々はだんだんと、牧人が羊に負わせて届けに来る湖の塩を必要としなくなった。

 老人は言った。
 物語の中のジャンは我々が行った畑作の村のさらに南だろう。
 畑が尽きるあたりには、聳え立って雲にまで届く雪山が連なっていて、ジャン国はその雪山の向こうにあるはずだ。

 「モン国ものその雪山の向こうにあると聞いたことがある」

 老人は心を痛めていた。
 「ワシには分からん。分かっているのは、これからはもうここへ塩を採りに来ることはない、ということだ。
  ワシらが塩を運ぶ道を最後に踏みしめるのじゃ。
  神はワシらに塩を下されたが、今のワシらにはもう必要ない。あの時戦って奪ったものを、ワシらは必要としなくなったのじゃ」

 「いいことじゃないか」

 「もしかして神は、もうワシらに物を与えては下さらないかもしれない」

 ラマは微かに顔をしかめた。
 「あなたたちはそんなふうに勝手に神のご意志を推し量ってはいけない」

 老人は少し怖くなり、素早く両手の指を胸の前で合わせ、仏の名を唱えた。
 「神が湖の塩を天に戻してしまい、ワシらが必要になった時には何もない、ということにはならないだろうか」

 ラマはいたく悲しげだった。
 「愚かな人たちよ。自分を疑うならまだしも、なんと、神のご意志を疑うとは」

 責められた老人の足取りは重くなり、隊列の後方へと遅れていった。
 ラマは颯爽と前を歩いていた。
 ジグメは言った。
 「みんなは塩と離れがたいんだ」

 「あの人たちのために言い訳するのか」

 「塩を採る人に神の意志は分かりはしない」

 「では」ラマは歩みを止め、振り向いた「自分には分かると言いたいのか」

 「オレには無理だ…」

 「あなたにも分かるはずはない」

 ラマは訳もなく憤った。
 「あなたはケサルを語れる者は天の意志が分かると思っているようだ。
  いいか、あなたには分からない。あなたは物語さえ分かっていないのだ。
  神はあなたに語らせるだけで、物語の意味を知らせようとはしない。
  もし神が望まれれば、オウムでも語るだろう」

 ラマは憤りながら、歩みは更に早くなった。
 塩を運ぶ長い隊列はずっと後ろに置き去りにされた。

 ラマは腰を下ろし、口調を和らげた。
 「“仲肯”は、人が集まっているところへ行くべきではないか」

 語りを生業としているジグメはやっと悟った。

 物語、即ち“仲”は、仏法がまだこの地で人々に功徳を与える前からあったのだ。
 では、神はなぜ新しい“仲”を降して人々に聞かせるのだろうか。

 ラマは言った。
 あなたは『柱間史』という本のことを聞いたことはあるか。当然ないはずだ。『柱間史』はこう言っている。

 「教義を悟らせるために“仲”を作った、なぜならその時仏教の教えはまだこの雪の地に伝わらず、顔を赤く塗り肉を食らう者たちを調伏していなかったからである」

 聞いてもジグメには分からなかった。
 自分はケサルを語るべきではないのかと尋ねた。

 ラマは天に向けて手をあげ、悲しそうな表情で言った。
 「いや、そういう意味ではない。
  私が言いたいのは、あなたはただ物語を語るだけでいいということだ。
  神はあなたにこの物語を語らせる、だが、その意味を追及させようとはしていない」

 「オレはただ、あらゆる場所へ行って、この物語が本当に起こったのか、本当に塩の湖があったのか、本当に塩の路があったのか知りたいだけだ」

 「何だって。物語は事実であるべきなのか。物語は本当にあったことでなくてはいけないのか」

 「オレは間違ってるんだろうか」

 「そんなことを考えていたら、神はあなたをおしにしてしまうかもしれない。神はそのような語り部を必要としていないのだから」

 ジグメはもっと話し合いたかったが、ラマは隊列から離れ、前方の赤い岩上にある聖地を参拝しようとしていた。
 山の上で数日過ごすつもりだと言った。

 ジグメは言った。
 「ではお坊様に教えてもらえなくなってしまう」

 「いつでも追い付ける」
 ラマはこう言って、自分がある種の法力を持っていると暗示した。
 「もし追いつこうと思ったら追いつくだろう」

 幾日も経たずに、ラマは本当に追いついた。
 ラマは言った。
 聖なる僧がかつて壁に向かって修業した洞窟で五日ほど過ごした、と。

 ジグメは思わず叫んだ。
 「俺たちは、三日歩いたばかりだ」







阿来『ケサル王』 115 語り部:塩の道

2015-07-24 01:55:07 | ケサル
語り部:塩の道  その1



 塩の湖のほとりでの最後の夜、語り部ジグメはジャン国が塩の湖を襲う物語を語った。
 物語を語り終えない内に夜は更けた。

 先ほどまで中空にあった星座は、すでに水の際まで降りて来て、波の煌めく湖面に近づいた。   

 若者たちはまだ眠りたくなくて、話しかけた。
 「サタン王は降伏するんだろうか」

 ジグメは焚き火の傍で横になり、毛布を顎まで引き上げた。
 なにがあろうと、もう語らないという合図だった。

 年寄りは言った。「寝よう、明日は出発だ」

 若者もみな横になったが、疑問が自然と口を突いた。
 「ヤツらが奪おうとしたのはこの湖なんだろうか」

 焚き火は消え、被せておいた柏の枝から微かな香気が立ち昇った。
 幾つかの星座は地平線に沈み、新しい星座が大地の別の方向から現われて、天の頂に昇った。

 夜が明けると、塩を採る人々は出発した。

 この道を、彼らはすでに何年も歩いて来た。
 若者は老人の後に付いて歩いた。老人が若かった頃は、すでに世を去った老人の後に付いて歩いた。
 だが、今日は歩きながらもどこか違っていた。

 誰もが新鮮な気持ちでいた。
 ジグメが語った物語のために気持ちが新鮮だった。

 黒い頭のチベット人でケサルを聞いたことがない者はいない。
 だが、塩の湖の傍らで、本物の「仲肯」の語りを聞き、しかも、それが塩の湖の物語だった者はいない。

 不思議なことに、願いもしないのに、この「仲肯」は現われたのである。
 彼は広い無人の場所を一人で歩き通し、まるで天から降りて来たように突然湖の岸に現れ、子供のように天真な表情で水の中の塩をすくい上げた。

 語り部自身も新鮮な気持ちでいた。
 彼はこれまで、物語の中で語った物がこんなふうにはっきりと目の前に現われるとは想像したこともなかった。

 彼の故郷では塩の湖で塩を採ることはすでになくなり、遠くから塩を運ぶこともなかった。
 国が塩を運び、国は誰かが塩を生業とするのを許さなかった。
 国の塩は味がよく、湖の塩のような苦味がない。

 国の塩は地下から採れて雪の様に白く、塩の湖の塩のように、味だけでなく、その薄汚れた灰色によってもがっかりさせられるといったことはなかった。

 塩を採る人と「仲肯」は再び歩き始めた。
 誰もが不思議な感覚を味わっていた。
 ここがあの物語にあった塩の路なのか。

 広い荒れた草原を貫くこの道はあきれるほどに長く、異なった天気の間を通り抜けることさえあった。

 一面の日の光を通り抜けると、次には雷を含んだ激しい雨が待ち受けている。
 そこを抜けると、焼けつくような太陽が姿を現す。
 続けて待ち構えているのは、あられを抱え込む空の高みから吹き降ろしてくる旋風である。

 これら様々な天気は、大きな道の一つの端からすべてを眺めることが出来た。

 雷に襲撃された場所に着くと、そこではすでに雲は晴れ、霧は消えている。
 するとまた疾風が起こり雨を含んだ重たい雲の塊が次の場所に吹き集められるのである。

 塩を乗せた羊の群れは、短い草で覆われた原野にくねくねした長い曲線を描いていく。
 羊たちは塩を満たした袋を両側にぶら下げている。
 袋は大きくはないが、重さに耐えられないといったその様子は、憐みを誘った。

 ジグメは言った。
 「羊がかわいそうだ」
 だが誰も彼の言葉に構わなかった。

 三日後、あちこちで神の山や湖を巡礼しているラマが彼らの列に加わった。

 ジグメは言った。
 「羊とはかわいそうなものだ」

 「羊たちの重荷を気にしているのかね」
 ラマは言った。
 「その重荷とは、心で負うことは出来ても、すべてを自分の体で背追うことは出来ないものだ」

 ラマたちはいつもこのように、言わないのと変わりないが、深い道理のありそうな話をすることが出来る。

 ラマが言いたかったのは、これ以上心を痛める必要はないということなのだろう。
 だがジグメには、湖の塩を負ってよろよろと歩く羊たちがかわいそうでならなかった。

 ラマはそれを察し、話すことで彼の気持ちを他へ逸らそうとした。

 「あなたは仲肯ということだが…」

 「前は違ったが、今はそうだ」

 ラマは笑った。
 「私も前はラマではなかった」

  「活佛が行先を教えてくれて、ラマになったのか」

 痩せて長身のラマはまた笑った。
 「あなたも活佛に導かれたのだね」

 ジグメも笑った。
 「ひどい熱で頭がぼーっとしていた時、活佛が女を呼んで、俺の目の前で羊の毛を引っ張って糸にさせたんだ」

 ラマは言った。
 「今、そのようにおかしなことをする活佛はほとんどいないだろう」






阿来『ケサル王』 114 語り部:塩の湖

2015-07-14 01:46:03 | ケサル
語り部:塩の湖  その5




 法術師は笑った。
 「王子よ、怖いのですか」

 王子は言った。
 「お前は常に神のご意志にはすべて道理があると言っていたではないか。それなのに、今になって盾突く言葉を述べるとは」

 「私がそのようなことを申しましたか?」

 「これは天の意だ、それも天の意だと、いつも言っていたではないか。」

 「天はすべてのものに道理があるとお考えですが、地上の人間はそうは受け取りません。そうでなければ、一つの国には塩を与え、もう一つの国には何も与えない、などということはあり得ないでしょう」

 「それはお前の言葉ではないようだ」

 「それは偉大な国王サタン、あなたの父君の言葉です」

 「お前は父上を諌めるべきだった。そのようなことを言ってはならぬ、と」

 「私はお諌めしませんでした。なぜなら、国王の考えは正しかったからです」

 「神が聞いたらお喜びにならないだろう」

 「それなら、喜ばない者がいることを神に知らせるべきでしょう」

 神を怒らせてはならないことは、法術師は王子より良く分かっていた。
 だが、塩の湖に積み上げられた、この地の人にとって使い道のない、だが、ジャン国の民には手に入れる術のない塩を見た時、怒りを覚えたのだ。

 彼は王子に背を向け、意志も、特別な配慮も示そうとしない神に向かって再び叫んだ。
 「あなたは不公平です、天よ」

 叫び声がまだ湖面を揺蕩っているうちに、雲一つない空から激しい雷鳴が響き、湖畔にいるこの狂った者に稲妻が突き刺さった。

 倒れた瞬間、彼の開かれたままの口は塩で一杯になった。
 岸に打ち寄せる波はひたひたと音を立て、まるで得意げな笑い声のようだった。

 雷に焼かれた死体は耐え難いほどに焦げた匂いを発した。
 死体は塩の山に横たわっていたが、それでも強い腐臭を漂わせた。

 王子は心から恐れた。
 神とは一部の人を助けるが、それ以外の人は助けないのだろうか。

 彼はこれ以上考え続けたくなかった。
 不可能を知らぬ神が自分の考えを見通すのではないかと恐れた。
 だがこの疑問は頭から離れることはなかった。

 頭の中はまるで暗い沼地のようで、そこから湧き上がる泡は破裂したかと思うと、また他の場所からボコっという音と共に湧き出してくる。
 眠れぬ夜、王子は絶えず頭をもたげようとするこの疑問と戦った。
 次の日、鎧兜に身を包んでも、この疑問は頭の中に居座っていて、いくら追い払っても消えなかった。
 そのため、剣を交えながらも、無意識のうちに天を見上げた。

 戦いを挑んで来たシンバメルツは言った。
 「天を仰ぐ必要はない。神はそなたを助けはしない。神はリンと共にある」

 この言葉を聞くや否や、王子の心に怒りが燃え上がった。
 刀を揚げ、馬に鞭うち、真っ直ぐにシンバメルツを倒すべく向かって行った。
 だが、年老いた英雄は馬を牽いて王子を避けた。

 古くからの英雄は言った。
 「それがしはケサル大王の命を受け、おぬしと話をしに参ったのだ」

 「ケサルはお前の王ではないだろう」

 「今は私の王だ」

 「この裏切り者!天は許しはしないぞ」
 言いながら王子は馬を鞭打って向かって行った。

 この時、シンバメルツは避けもせず、言った。
 「世の流れを御存じないのか。天がそなたを助けるか、我々を助けるか、見るがよい」

 二人が馬上で戦い始めて間もなく、神はもうそこに現れていた。

 神々はシンバメルツがユラトジに敵わないと見て取り、そこで、石を積む山神が山を運んで来たが、ユラトジを押さえつけることは出来なかった。
 背の高い山神もやって来たがユラトジを鎮めることは出来なかった。
 最後に近くや遠くから三人の山神も加わり、五つの山の重さによって、やっとユラトジの動きを封じ込めた。

 シンバメルツは心苦しくも、腕ほども太く羊の腸のように長い綱で、右から左からしっかりと縛り上げた。

 「若い英雄よ、そなたを殺すつもりはない。ケサル大王の元へ連れて行く。だが恐れなくともよい。そなたのような若い英雄を、ケサル王は傷つけたりはしない」

 王子は顔を上げて叫んだ。
 「空を飛ぶ雄の鷹よ、南へ飛んで行き、父王に告げよ。息子ユラトジはジャンの民のために塩の海を奪えず、リンの手によって命を落とした、と」

 道すがら、シンバメルツは恥入りながらも王子を慰めた。
 「英明な国王は絶対にそなたを殺すことはないぞ」

 果たして、ケサルはユラトジを一目見るなり、心の真っ直ぐな人物だと知り、喜んだ。
 だがやはり彼が充分に勇敢かどうか試さなくてはならない。

 「そなたは王子でありながら、国に留まらず、我が国の塩の湖を盗みに来た。そなたを神の前に差し出さなくてはならない」

 「王子として、この体と命は私だけのものではない。ジャンの民のためなら死んでも憂いはない」

 ケサルはこの言葉を聞くと、即座に表情を輝かせた。
 「このように英明な王が子いることは、ジャン国の幸せだ。このケサルが魔物を降すのは、民の苦しみを除くためであり、心から愛するのは、お前のような勇敢で心の真っ直ぐな者だ。そなたのような王子がいれば、ジャンの民はより多くの幸せを手にするだろう」

 言い終ると、王座から降りて自ら王子の縄を解いた。

 王子は尋ねた。
 「ジャンの民に塩を下さるおつもりですか」

 「そなたが軍を率いて北上した道は、これからは塩の路となるだろう」

 ケサルは言った。
 「それだけではない、英明で正直な王子を彼らの総統としよう」

 王子は尋ねた。
 「では父は」

 「彼は退位して天に詫びなくてはならない」







阿来『ケサル王』 113 語り部:塩の湖

2015-07-08 15:11:34 | ケサル
語り部:塩の湖  その4




 塩を採る人々が充分に塩を採り終え、出発しようという夜、少年は笛を奏でて湖の神への感謝を表した。
 彼らはまた、ジグメの語るジャン・リンの戦いを聞いた。

 リンの南方のジャンは、気候が温順で、産物も豊かだが、食べると力が湧き、賢く勇敢になれる塩だけが欠けていた。
 ジャンの国王は兵を北へ送り、リン国には星の数ほどもある塩の湖の一つを奪おうとした。

 もしリンに天上から降されたケサルがいなかったら、ジャンの国王は成功したにちがいない。
 だがその時、天はすでにリンを助けようと大梵天王の子を降していた。
 天は御心を顕して、リンを強大な国にしようとしていたのである。

 強大な国は、自らのものを誰にも奪われてはならない。たとえそれがいかにあり余っているものであったとしても。

 ジャンの国王は、天の御心を受ける国との戦いに勝利できないとは信じたくなかった。
 そこで、息子に大軍を率いて戦わせ塩の湖を攻め取ろうとした。

 王子ユラトジの大軍は湖の縁まで来て、あり余るほどの塩を目にした。
 ここへ来るまでに軍の法術師から、そこには塩はたくさんあると聞いていた。
 湖の水が自然に塩を生み出す様は、進軍の途中で夜露が霜となるように、湖の水が絶えず塩に変わっていくのだという。

 王子ユラトジはこれまでこのようなことに興味がなかった。
 王子にとって大切なのは、優れた乗馬の技と、優れた弓と刀の術だった。
 彼は懸命に技を磨いて来たが、人が何を食べるのか、塩はどうして他の土地では採れるのか、考えたことはなかった。
 だが、大軍を率いて北上する日々に、これらのことを考え始めた。

 夜、眠れない時は、衣を羽織って塩を生まない湖の岸を歩いた。
 歩き始めると、草の上で星の光に照り映える露が靴を濡らした。
 彼は岸辺に座った。だが、この湖やジャン国の同じような湖がなぜ塩を生まないのか、分からなかった。

 空の星は露と同じように煌めき、気ままに散らばっているだけで、答えを与えてはくれなかった。

 王子は暫く湖岸に座っていた。帰ろうとすると、草の上の露は霜を結んでいた。
 彼は草を一本手折り、テントへ持ち帰り、獣の脂の灯りの下で、水が凝縮されて生まれた美しい結晶を見ていた。
 あまりに透き通り、突き刺さるほどに鋭利なその煌めきは、何ものかの繰り言のようだった。

 軍の法術師を呼んで、この神秘の言葉を読み取れるか知りたかった。
 だが霜の花は灯りのもとで融け、一滴の澄んだ水になり、細い葉の上を滑り落ちて、消えた。

 ジャンの大軍が塩の海を占領したその日、大量の兵士が一斉に塩の湖に駆け寄り、塩を直接口に詰め込んだ。
 次の日リン国の大軍と交戦した時、すべての兵士がまともに鬨の声を上げられなくなるほどに。

 王子ユラトジは鎧を着たままずっと湖畔に座わり、湖に風が起き、波が結晶した塩を岸に積み上げるのを見ていた。
 塩は、太陽のもとでの色があり、夕映えのもとでの色があり、そして月の光のもとではまた違った色へと変わった。
 深夜、風が止み、水音が静まると、聞こえて来るのは塩の結晶する音だった。

 夜が明けた時、ユラトジは初めて湖岸に降り、湖の水に触れた。
 昇りはじめた太陽の光線を受けながら、水は指の間を滴り落ちていった。
 そのほんのわずかの間にも、水は塩の結晶を生み、手のひらに残した。

 舌を伸ばし、王子は塩の味を確かめた。その中に苦味を感じた。
 その苦味は彼が想像していなかったものだった。

 王子はその感覚を法述師に告げた。法術師は父王が彼のために派遣した軍師でもあった。

 法述師は言った。
 「そのお言葉を私は好みません」

 「どうであれ、私はジャンの民のために塩を手に入れなくてはならない」

 法述師は更に表情を曇らせた。
 「王子よ、あなたは、父王のために、とおっしゃらなくてはなりません」

 「それは同じことではないか」

 「同じではありません。父王が塩を手に入れれば、ジャン国の民すべてを思う通りすることが出来るのです」

 王子はまた言った。
 「私はジャンの民に塩を食べさせたいのだ」

 法述師は言った。
 「敬愛する王子よ、私は憂います。残酷な戦いの中では、あなたは優しすぎます」

 「敵に対しては、私は容赦はしない」

 果たして、次の戦いでは、王子がシンバメルツをもう少しで馬から落しそうになる場面が幾度かあった。
 いや、王子は何度もシンバメルツの命を奪えたのだが、そのたびに神が現われてこの老将を助けた、と言うべきだろう。

 ユラトジは心の中でつぶやかずにはいられなかった。
 ジャンは戦いによって塩の湖を奪うべきではないのではないか、と。

 彼はその疑問を父に尋ねたかった。
 だが父は目の前にいない。

 そこで仕方なく軍師に尋ねた。
 「戦い以外に塩を手に入れる方法はないのだろうか」

 「貿易です」
 軍師は言いながら感情を高ぶらせた。

 「だがそれは不公平です。塩はここでは一銭にも値しません。それでも我々はたくさんの宝と交換しなくてはならないのです。山の中には稀な宝石、女たちが辛い労働で紡ぐ布、何年もかかって伸びた象牙。我々はこういったもので、水が砂のように岸辺に積み上げたものと交換しなくてはならないのです」

 ここまで言って軍師は激昂のあまり、両手を高く挙げて空に向かって叫んだ。
 「神よ。あなたは不公平だ」

 それを聞いて、王子は恐れた。
 空が震えたように感じられた。

 だが、辺りを見回しても何の変化も起こってはいなかった。






『ケサル大王』上映会のお知らせ 第二弾

2015-07-06 10:33:08 | ケサル
『ケサル大王』の監督発進の通信を転載します。

  * * * * *


今日7月6日はダライ・ラマ14世の80歳の誕生日。お元気にも英国のロックフェスに登場され10万人を前に「愛と許しの大切さ」を訴え、観衆は「ハッピーバースデートゥユー」と大合唱したそうです。

日本では朝日が6月26日朝刊で写真入り、毎日が昨日4日朝刊に記載しました。毎日はさらに法王は親しかった故習仲勲の息子、習近平に政策転換の期待をしていること、9月のチベット自治区50周年記念行事の後に開催される「チベット工作座談会」で重要な政策が決定される見通しだと述べています。

あらためて法王のご長寿を祈願してチベットに平和が訪れることを願います。


◎「ケサル大王伝」という、いわば「古事記」(創世神話)と「源氏物語」(恋愛)を合わせたダイナミックで壮大な口承文学はチベットにもう一つの豊かで魅力的な世界があること教えてくれました。
その魅力に取り憑かれ、東チベットの高地奥深く7年間、秘かに通いました。

取材は「ケサル大王」文化から次第に「ケサル大王」を通して見えて来た東チベットの現実社会に向かいました。
取材を終えた直後、焼身抗議が次々と起り、再び現地に入ることも難しくなるのですが、取材テープには焼身抗議者たちが訴えたダライ・ラマを拝めない現況から生態移民、学校でのチベット語不許可、環境破壊などを予兆のように捉えていました。

焼身抗議が激減した今、法王が述べられたように「我々に希望と不屈の精神を与えた物語(ケサル大王伝)」はチベットの人々に「したたかに生きる」力を与えているのではないでしょうか


    「知らないことだらけ/知った喜び/突きつけられる現実」
「東チベット」の ドキュメンタリー『ケサル大王』&『天空の大巡礼を行く』
          トークゲスト宮本神酒男+監督大谷寿一
     7月9日18時 なかのzero視聴覚ホール(本館地下1階)にて上映!
            詳細 http://www.gesar.jp
        (次回の予定は全く未定ですのでこの機会をご利用ください)




◎7月11日(土)主催「能海寛研究会」チベットセミナー13時半『ケサル大王』上映

  島根県立大学コンベンションホール(浜田市野原町)入場無料(定員200名)
12日(日)15時 島根県浜田市金城町波佐 ときわ会館『天空の大巡礼を行く』
        詳細 http://hazaway.com/docs/hazanettsushin22.pdf


◎7月19日 15時 山の神に祈る「サン」開催のお知らせ
 
 大阪府堺市南区岩室213 観音院 (南海高野線金剛駅下車バス地区線22)
  主催:大西龍心(堺市観音院)・あぼともこ 参加お申込先 abohoken☆gmail.com    

  『ケサル大王』をご覧になった有志が「サン」の儀式をなんと実現してしまいました!
  「山の神様に「サン」を捧げ、自然に生かされている自分たちを再確認し、
   自然に感謝し、世界の平和を皆で祈ろうという趣旨で開催します」
  http://www.facebook.com/events/1632097250410221/permalink/1634474250172521/ 


◎高価な本ですが大推薦!川田進著「「東チベットの宗教空間:中国共産党の宗教政策と社会変容」
20年以上に及ぶカム地域でのフィールドワークの集大成。
多くの示唆に富んだ内容ですが、ラルン・ゴンバ編は東チベットの仏教の今が良く理解出来ます。

          *   *   *
発信人 大谷寿一 ootani11☆gmail.com  http://www.gesar  FB「ケサル大王」











『ケサル大王』7月9日上映会のお知らせ

2015-07-06 01:08:21 | ケサル

塩の湖をめぐる語り部ジグメの彷徨はまだまだ続きますが、
今回は、ドキュメンタリー『ケサル大王』上映会のお知らせです。

ケサルに浸る貴重なひとときとなることでしょう。




*

『ケサル大王』上映会

今回は夜に開催です。
宮本神酒男さんとのトーク、たっぷりお話を聞けそうです。



7月9日(木) なかのZERO

 18:00 開場

 18:15   『ケサル大王』
 20:00   『天空の大巡礼を行く』
 
 21:00   トーク 宮本神酒男+監督大谷寿一
       「ケサル大王伝の謎をめぐって」
 
 21:40 終了


詳細は http://www.gesar.jp
Facebook ケサル大王






阿来『ケサル王』 112 語り部:塩の湖

2015-07-04 22:01:57 | ケサル
語り部:塩の湖 その3



 靴の底がまた敗れそうになった頃、ジグメはもう一度雪山の麓に着き、雪山からほとばしる渓流に育まれた草原を踏んだ。

 途中に大きな村はなく、ときたま、谷間に二、三のぽつんとした遊牧民の家を目にするだけだった。
 宿を借りると、たっぷりの牛乳と、丸々一本の羊のもも肉を勧められる。

 彼らは尋ねた。
 「あんたは流れ歩く語り部のようだが、ケサルは歌えるか」

 ジグメは口いっぱいに羊肉を詰め込んで、答えなかった。
 今、物語は彼の胸の中に蓄えられていて、これまでのような焦りはなかった。
 自分にはかつて無いほどの落ち着きと風格がある、と感じている。このことにジグメはひどく満足していた。

 今彼は物語をしっかりと手に入れ、これまでのように物語を語りたいという衝動に苛まれることはなかった。
 これからは物語をしっかりと繋ぎ止め、遥か先へと駆けて行かないようにしなければならない。
 そうなったら物語はそこで消えてしまい、どんなに努力しても追いつけなくなるのではないかと恐れていた。

 もし物語を一気に語り終えたら、物語は自分から離れてしまうのではないか。彼は密かにそう感じていた。
 なぜなら、物語は初めて語られる時が最も色鮮やかで生き生きとしていて、二回、三回と語られると、活気ある情景が色褪せていくことに気付いていたからである。

 だから、一番良いのは何も言わないことなのだ。
 こうして遊牧民の家を幾つか尋ね歩くうちに、彼の体はまた力で満たされた。

 彼はまた草原を歩き始めた。
 草は低くまばらだったが、それでも安らぎを感じた。
 少なくとも、目線を遠くへ移せば、これらの草は連なって薄い霧のような一面の緑へと変わる。

 ある日、その緑の色が深くなったと感じた。
 終に草原の名にふさわしい草原と出会ったのかと思えた。
 だが、近くまで行くと、それは大きな湖だった。

 湖畔に着こうとする頃、疎らな草は消え、砂と石だけ平らに広がっていた。

 東西に狭く南北に長い湖だった。
 夜、揺らめく火が見え、南の岸から伝わって来る微かな笛の音が聞こえた。
 そこで、彼は南岸に向かって歩き始めた。

 それは不思議な湖だった。
 なぜ不思議かと言えば、風が常に北から南にだけ吹くのである。
 波は当然風と同じ方向に打ち寄せる。
 そのため、北岸は積み重なった石ころばかりだが、南岸では水がどこまでも青々としていた。

 その青い水が、波を寄せるごとにきらきらと光る塩を岸辺に積み上げていった。

 ジグメは岸に沿って二日歩いて南側に着き、そこで塩を採る人々と出会った。

 彼らに尋ねた。
 「あんたたちの故郷はジャンか」

 塩を採る人々は彼を見つめまま、尋ねられた意味が分からずにいた。
 「どの国だって?」

 「ジャン、南の国だ」

 「南の国?それならインドとネパールだ。南には他に国はないからな」

 暫くして、塩を採る人々の中から老人が現われた。老人は言った。
 「もしかして、ワシなら分かるかもしれん」

 ジグメはもう一度同じことを尋ねた。
 老人は笑った。
 「違う、ワシらはそうではない」

 老人は言った。彼らはジャンの国人ではなく、また、リンの国人かどうかも分からない、と。

 老人は言った。
 「ワシらのような牧人は、あちこちを行き来している。千年前の先祖がどこにいたかなど、誰も知りはしない」

 「では、その頃、このあたりはリンの国だったんだろうか」

 老人は笑って、言った。
 「ワシらが知っているのは、ここに塩があるということだけだ」

 彼らは湖の更に南の牧民で、毎年この季節に湖に来て塩を採っている。
 老人は逆に尋ねた。

 「お前も塩を採りに来たのか」

 ジグメは首を振った。
 「オレにはこんなにたくさんの塩は食べられない」

 「では、何をしに来たのかね」

 「ジャンの国がリンの国のから奪い取ろうとした塩の湖を探してるんだ」

 「ワシらもそんな言い伝えを聞いたことがある。だが、ここがそうかどうかは知らない」

 「たぶん、ここのはずなんだが。
  向こうの岸で笛の音を聞いて、聞きたくなってきたんだ」

 彼らは内気そうな若者を呼んで、こいつが笛を吹いた、と言った。
 だが、あんたのために吹くことは出来ない。その調べは塩を採る前の夜、神様に捧げるんだ。神様は喜んで、塩を採る人々に気前良くなるんだ、と。

 彼らが話している間、波が塩を岸辺に積み上げるシャリ、シャリと言う音が、風が原野をゆする時の草のつぶやきのように続いていた。

 ジグメは彼らと一緒に三日間塩を採った。
 塩を水の中からすくい上げ、日に干し、牛の毛で編んだ袋に入れる。
 彼が不思議に思ったのは、塩を担ぐのは馬でもヤクでもなく、百を超える羊だったことだ。

 塩を採る時、彼らの朝は遅い。
 夜、彼らはきわどい冗談を語り合う。
 塩の神様はひどく好色で、このような話で喜ばせるのだという。

 だが、ジグメはそんな話は聞きたくなかった。
 放送局でのことが思い出されるからだ。それは辛い思い出だった。

 彼は新しい人に会うごとに尋ねた。
 この湖はジャン・リンの戦いを起こした湖なのか、と。

 あの老人がまた言った。
 黒い頭のチベット人がいる所はどこも、誰もがケサルの物語を聞いたことがあり、誰もがここはケサルにゆかりの場所だと言うだろう。だが、この湖の周り百キロにあまりは誰も住んでいない。
 だから、その問いには誰も答えないだろう、と。






阿来『ケサル王』 111 語り部:塩の湖

2015-07-02 00:39:05 | ケサル
語り部:塩の湖 その2



 湖を囲むように暮らしている人々はみな、塩を採る村を良く思っていなかった。
 湖の塩を採り尽くすとともに、湖の持つ精気を使い果たしたからである。

 彼らは言った。
 ケサル王はリンを深く愛していた。もしあの時今日のあり様を知っていたら、ジャン国の王子ユラトジを慰めるために、ジャン国の民にここで塩を採らせたりはしなかっただろう。

 だがケサルは、今のような結果になるとは知らなかったし、自分の興したリン国が他人に征服されるなどとは、なおさら知る由もなかった。
 リン国が消滅して千年、湖も消えた。
 かつて妖魔が横行していた草原は、ケサルの時代に人間の草原へと変わった。
 だが今、人々はここから去り、新しい棲息の地を探さなくてはならない。

 風が吹いて行った。
 辺り一面に砂埃を舞い上げ、村を通り過ぎ、ひゅうひゅうと音を響かせて去った。

 塩を採る村の人たちは灰色の目に涙を流し、言った。
 「俺たちの行ける場所はどこなんだ」

 語り部は言った。
 「元のジャン国に戻ればいい」

 「千年以上も前の場所に戻れっていうのか」

 語り部は、これは答えようのない問題だと分かった。
 そして、自分が愚かなことを言ったのを恥じた。

 一人の若者が怒りを顕にして、ジグメを追いかけて来て、後ろから怒鳴った。
 「千年前の故郷に戻るだと。戻った人間を見たことがあるのか」

 ジグメは振り向かなかった。
 その問に向き合うことが出来なかったからだ。

 ジグメはこの村を去った。干上がった湖を去った。

 北へ行くほどに、正面から吹いてくる風の中の息が詰まるような埃の匂いが強くなった。
 草は消えた。
 更に行くと、草の根と、草の根が掴んでいた土も消えた。

 強い風に、あちこちに散らばった石は激流に押し流されているかのように転げまわった。
 このような場所で、ジグメは第二の湖に出会った

 その日、ジグメは大きな岩の後ろに隠れて激しい風を避けていた。
 唸る風が砂塵を巻き上げながら去った後、目の前に光に満ちた湖が現われた。

 ジグメは、自分の心の声を聞いた。
 「ケサルよ、今オレはあなたの仕掛けた妖術にかかっているのだろうか」

 だが、それは本当の湖だった。
 どこか不自然な緑色をして目の前に揺蕩っていた。

 湖には重そうな鉄の船が浮かび、据え付けられた牛のように大きな鉄の升を動かし、湖の中央で水中の塩を掴み取っていた。

 ジグメは塩の屑まみれになった岸辺のヨモギの茂みの傍や、深くえぐれた轍の間に座って、船が岸辺に着くまで待った。

 彼は失望した。
 塩は薄汚れ、まだらにさびの跡が付いた甲板の上に積まれていた。
 塩から漂って来るのは塩の匂いではなく、今まさに腐って行く水中の生き物の生臭い匂いだった。

 船から飛び降りて来た人々は彼の問いかけには取り合わず、昔二つの国がこの湖の塩を争ったことがあるかと聞くと、手を振って追い払った。

 ジグメは塩を積むトラックの通り道を遮った。
 「聞いてくれ…」

 彼らの答えはきっぱりしていた。
 「早くどけ」

 ジグメは追い払われ、追われてかなり遠くまで来た。
 湖を振り返ると、そこにはまだたくさんの船が泊っていて、車の数は更に多かった。

 湖畔には草木は生えず、湖にはまだたくさんの塩があった。

 彼は思った。
 それはあの時この湖にはまだ人がいなかったからではないだろうか。
 では、草は。

 彼はすぐに結論を出した。
 草は大風でみな抜かれてしまったのだ。

 ケサルはきっとここに来たことがないに違いない。
 そうでなければ風がこれほど狂ったようには吹くはずがない。

 彼は西南へと向きを変えた。
 彼が行こうとしているのはケサルがかつて来たことのある場所である。
 より正確に言えば、ケサルがかつてそこに来たと人々が信じている場所である。

 彼が西南に向かったのはその方向に雪山の輝きが見え隠れしていたからだ。
 その輝きは、暫く味わえなかった潤いと清々しさがあった。

 ここ数日、荒涼とした原野に人の姿は無く、一度も物語を語らなかった。
 もう少し進めば、もしかして、また物語に追いつくかもしれない。