語り部:塩の道 その2
ジグメもまた、あのようにおかしな活佛は少ないと言おうと思ったのだが、ラマを怒らせるのが怖かった。
ジグメは自分が慎重すぎて、臆病なのは分かっていた。
話題を変えてラマに尋ねた。
「お坊様は学問がある。この道はずっと前から塩を運ぶ道だったんだろうか」
ラマは、塩採り人に敬われている老人にこの問いを譲った。
老人はため息をついて言った。
「たぶんこれが最後の一回だろう」
「と言うことはやはり、これはリンからジャンまで塩を運んだ道ということか」
老人は言った。
彼らは南の少し低いところにある草原から来た牧人である。
先祖代々、毎年塩を採りに来て、さらに南の畑作の地に売りに行く。そこで塩を、放牧地では手に入りにくい食料や陶器に換える。
だが、そういった場所には国家が飛行機や汽車を使ってもっと遠くからもっと良い塩を運んで来る。雪の様に白く、粉のように細かい塩を。
そこで暮らす人々はだんだんと、牧人が羊に負わせて届けに来る湖の塩を必要としなくなった。
老人は言った。
物語の中のジャンは我々が行った畑作の村のさらに南だろう。
畑が尽きるあたりには、聳え立って雲にまで届く雪山が連なっていて、ジャン国はその雪山の向こうにあるはずだ。
「モン国ものその雪山の向こうにあると聞いたことがある」
老人は心を痛めていた。
「ワシには分からん。分かっているのは、これからはもうここへ塩を採りに来ることはない、ということだ。
ワシらが塩を運ぶ道を最後に踏みしめるのじゃ。
神はワシらに塩を下されたが、今のワシらにはもう必要ない。あの時戦って奪ったものを、ワシらは必要としなくなったのじゃ」
「いいことじゃないか」
「もしかして神は、もうワシらに物を与えては下さらないかもしれない」
ラマは微かに顔をしかめた。
「あなたたちはそんなふうに勝手に神のご意志を推し量ってはいけない」
老人は少し怖くなり、素早く両手の指を胸の前で合わせ、仏の名を唱えた。
「神が湖の塩を天に戻してしまい、ワシらが必要になった時には何もない、ということにはならないだろうか」
ラマはいたく悲しげだった。
「愚かな人たちよ。自分を疑うならまだしも、なんと、神のご意志を疑うとは」
責められた老人の足取りは重くなり、隊列の後方へと遅れていった。
ラマは颯爽と前を歩いていた。
ジグメは言った。
「みんなは塩と離れがたいんだ」
「あの人たちのために言い訳するのか」
「塩を採る人に神の意志は分かりはしない」
「では」ラマは歩みを止め、振り向いた「自分には分かると言いたいのか」
「オレには無理だ…」
「あなたにも分かるはずはない」
ラマは訳もなく憤った。
「あなたはケサルを語れる者は天の意志が分かると思っているようだ。
いいか、あなたには分からない。あなたは物語さえ分かっていないのだ。
神はあなたに語らせるだけで、物語の意味を知らせようとはしない。
もし神が望まれれば、オウムでも語るだろう」
ラマは憤りながら、歩みは更に早くなった。
塩を運ぶ長い隊列はずっと後ろに置き去りにされた。
ラマは腰を下ろし、口調を和らげた。
「“仲肯”は、人が集まっているところへ行くべきではないか」
語りを生業としているジグメはやっと悟った。
物語、即ち“仲”は、仏法がまだこの地で人々に功徳を与える前からあったのだ。
では、神はなぜ新しい“仲”を降して人々に聞かせるのだろうか。
ラマは言った。
あなたは『柱間史』という本のことを聞いたことはあるか。当然ないはずだ。『柱間史』はこう言っている。
「教義を悟らせるために“仲”を作った、なぜならその時仏教の教えはまだこの雪の地に伝わらず、顔を赤く塗り肉を食らう者たちを調伏していなかったからである」
聞いてもジグメには分からなかった。
自分はケサルを語るべきではないのかと尋ねた。
ラマは天に向けて手をあげ、悲しそうな表情で言った。
「いや、そういう意味ではない。
私が言いたいのは、あなたはただ物語を語るだけでいいということだ。
神はあなたにこの物語を語らせる、だが、その意味を追及させようとはしていない」
「オレはただ、あらゆる場所へ行って、この物語が本当に起こったのか、本当に塩の湖があったのか、本当に塩の路があったのか知りたいだけだ」
「何だって。物語は事実であるべきなのか。物語は本当にあったことでなくてはいけないのか」
「オレは間違ってるんだろうか」
「そんなことを考えていたら、神はあなたをおしにしてしまうかもしれない。神はそのような語り部を必要としていないのだから」
ジグメはもっと話し合いたかったが、ラマは隊列から離れ、前方の赤い岩上にある聖地を参拝しようとしていた。
山の上で数日過ごすつもりだと言った。
ジグメは言った。
「ではお坊様に教えてもらえなくなってしまう」
「いつでも追い付ける」
ラマはこう言って、自分がある種の法力を持っていると暗示した。
「もし追いつこうと思ったら追いつくだろう」
幾日も経たずに、ラマは本当に追いついた。
ラマは言った。
聖なる僧がかつて壁に向かって修業した洞窟で五日ほど過ごした、と。
ジグメは思わず叫んだ。
「俺たちは、三日歩いたばかりだ」
ジグメもまた、あのようにおかしな活佛は少ないと言おうと思ったのだが、ラマを怒らせるのが怖かった。
ジグメは自分が慎重すぎて、臆病なのは分かっていた。
話題を変えてラマに尋ねた。
「お坊様は学問がある。この道はずっと前から塩を運ぶ道だったんだろうか」
ラマは、塩採り人に敬われている老人にこの問いを譲った。
老人はため息をついて言った。
「たぶんこれが最後の一回だろう」
「と言うことはやはり、これはリンからジャンまで塩を運んだ道ということか」
老人は言った。
彼らは南の少し低いところにある草原から来た牧人である。
先祖代々、毎年塩を採りに来て、さらに南の畑作の地に売りに行く。そこで塩を、放牧地では手に入りにくい食料や陶器に換える。
だが、そういった場所には国家が飛行機や汽車を使ってもっと遠くからもっと良い塩を運んで来る。雪の様に白く、粉のように細かい塩を。
そこで暮らす人々はだんだんと、牧人が羊に負わせて届けに来る湖の塩を必要としなくなった。
老人は言った。
物語の中のジャンは我々が行った畑作の村のさらに南だろう。
畑が尽きるあたりには、聳え立って雲にまで届く雪山が連なっていて、ジャン国はその雪山の向こうにあるはずだ。
「モン国ものその雪山の向こうにあると聞いたことがある」
老人は心を痛めていた。
「ワシには分からん。分かっているのは、これからはもうここへ塩を採りに来ることはない、ということだ。
ワシらが塩を運ぶ道を最後に踏みしめるのじゃ。
神はワシらに塩を下されたが、今のワシらにはもう必要ない。あの時戦って奪ったものを、ワシらは必要としなくなったのじゃ」
「いいことじゃないか」
「もしかして神は、もうワシらに物を与えては下さらないかもしれない」
ラマは微かに顔をしかめた。
「あなたたちはそんなふうに勝手に神のご意志を推し量ってはいけない」
老人は少し怖くなり、素早く両手の指を胸の前で合わせ、仏の名を唱えた。
「神が湖の塩を天に戻してしまい、ワシらが必要になった時には何もない、ということにはならないだろうか」
ラマはいたく悲しげだった。
「愚かな人たちよ。自分を疑うならまだしも、なんと、神のご意志を疑うとは」
責められた老人の足取りは重くなり、隊列の後方へと遅れていった。
ラマは颯爽と前を歩いていた。
ジグメは言った。
「みんなは塩と離れがたいんだ」
「あの人たちのために言い訳するのか」
「塩を採る人に神の意志は分かりはしない」
「では」ラマは歩みを止め、振り向いた「自分には分かると言いたいのか」
「オレには無理だ…」
「あなたにも分かるはずはない」
ラマは訳もなく憤った。
「あなたはケサルを語れる者は天の意志が分かると思っているようだ。
いいか、あなたには分からない。あなたは物語さえ分かっていないのだ。
神はあなたに語らせるだけで、物語の意味を知らせようとはしない。
もし神が望まれれば、オウムでも語るだろう」
ラマは憤りながら、歩みは更に早くなった。
塩を運ぶ長い隊列はずっと後ろに置き去りにされた。
ラマは腰を下ろし、口調を和らげた。
「“仲肯”は、人が集まっているところへ行くべきではないか」
語りを生業としているジグメはやっと悟った。
物語、即ち“仲”は、仏法がまだこの地で人々に功徳を与える前からあったのだ。
では、神はなぜ新しい“仲”を降して人々に聞かせるのだろうか。
ラマは言った。
あなたは『柱間史』という本のことを聞いたことはあるか。当然ないはずだ。『柱間史』はこう言っている。
「教義を悟らせるために“仲”を作った、なぜならその時仏教の教えはまだこの雪の地に伝わらず、顔を赤く塗り肉を食らう者たちを調伏していなかったからである」
聞いてもジグメには分からなかった。
自分はケサルを語るべきではないのかと尋ねた。
ラマは天に向けて手をあげ、悲しそうな表情で言った。
「いや、そういう意味ではない。
私が言いたいのは、あなたはただ物語を語るだけでいいということだ。
神はあなたにこの物語を語らせる、だが、その意味を追及させようとはしていない」
「オレはただ、あらゆる場所へ行って、この物語が本当に起こったのか、本当に塩の湖があったのか、本当に塩の路があったのか知りたいだけだ」
「何だって。物語は事実であるべきなのか。物語は本当にあったことでなくてはいけないのか」
「オレは間違ってるんだろうか」
「そんなことを考えていたら、神はあなたをおしにしてしまうかもしれない。神はそのような語り部を必要としていないのだから」
ジグメはもっと話し合いたかったが、ラマは隊列から離れ、前方の赤い岩上にある聖地を参拝しようとしていた。
山の上で数日過ごすつもりだと言った。
ジグメは言った。
「ではお坊様に教えてもらえなくなってしまう」
「いつでも追い付ける」
ラマはこう言って、自分がある種の法力を持っていると暗示した。
「もし追いつこうと思ったら追いつくだろう」
幾日も経たずに、ラマは本当に追いついた。
ラマは言った。
聖なる僧がかつて壁に向かって修業した洞窟で五日ほど過ごした、と。
ジグメは思わず叫んだ。
「俺たちは、三日歩いたばかりだ」