塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 127  語り部:サクランボ祭り

2015-10-27 22:22:37 | ケサル
語り部:サクランボ祭り その1



 ジグメの中には二人のケサルがいる。

 一人は、自分が語る英雄物語の主人公。

 もう一人は、ジグメ自身もその夢の中に入ったことのある、リン国の王としてのケサル、人間の世に降って務めを成し遂げたケサルである。

 その夢はあまり鮮明ではなかった。
 思い出せばそれは、色なしで薄暗く、絶えずチカチカと震えているぼんやりとした映像のようだった。
 ジグメはこの夢の中のケサルのほうが好きだった。

 夢の中のケサルと別れたその時から、ジグメは再び夢の中に入れる日を待ちわびた。
 あの日、夢から覚めた後まず思い出したのは、二人で交わした言葉ではなく、自分の背に確かに矢が刺さっていることだった。
 それは神人がジグメを探索の旅から連れ戻すために放った矢だった。
 だが、服を全部脱いで体の隅々まで触ってみても、その矢の痕跡さえなかった。

 もしまたあの夢に戻る機会があったら、必ずケサルに抜いてもらい、記念にとっておこう、とジグメは考えていた。
 だが、またあの夢に戻れると信じているわけでもなかった。

 幸いにもジグメは結果にこだわる人間ではなく、心の中でこうつぶやいた。
 まあいいさ、矢は残しておいて、背骨の一部分としよう、と。
 そう考えて気持ちが軽くなった。

 この思いを胸に、ある町で語った。

 町では、役所の企画のもと新しい祭り―当地で生産される果物の名前を被せたサクランボ祭りが開かれていた。
 もともとこの町ではサクランボを作っていなかったのだが、ある果樹の専門家がこの地の独特の気候、特別な土壌に目をつけ、役所に提案して、小麦にとってはあまりに痩せた谷の斜面にサクランボを植えさせた。すると、質の良いサクランボが採れた。

 役所がこの祭りを開いたのは、山の外へとサクランボを売り出すためだったのである。

 ジグメは招かれてこの町で語った。
 小さな町に多くの人が集まっていた。
 サクランボを売る商人、記者、町の役人よりもっと地位の高い役人たち。

 ジグメにも旅館の一部屋が与えられ、部屋に置かれた宣伝用の品々には、彼が語り部の衣装に身を包んだカラー写真が載せられていて、彼を喜ばせた。

 昼間、開幕式の後の出し物の中で、ジグメは短い一節を語った。
 調子が出る前に拍手が起こって、それまでとなった。

 舞台を降りないうちに、真っ赤なサクランボに扮したサクランボ娘たちが陽気な音楽と共に上がって来た。
 ジグメは体を舞台の端に貼り付け、ころころとしたサクランボ娘の一群が掛け上がって行くのをやり過ごしてから、やっと舞台を降りることが出来た。

 夜には、河のほとりの果樹園に組まれた宴会用の大きなテントの中で語った。
 町長は言った。「今回は少し長く語ってかまいませんよ。ところで、何を語って下さるのかな」


 「ケサル、クチェを助けてジュグを降す、を語ります」

 町長は喜んだ。
 「それはいい。この戦いで、ケサルは山の中のジュグの蔵を開き、勝利を収めて国に帰るのだからな。我々のサクランボ祭りにも、良い成果があるように。乾杯」

 幸いにも、町長と遠くからやって来た果物商を除き、ほとんどの人が聞きたいのは物語であって、物語のそのような結果ではなかった。

 祭りが終わる前に、ジグメは町を出た。
 途中人に会うごとにどこから来たのか、どこへ行くのかと尋ねられた。

 ジグメは答えた。
 サクランボ祭りから来たが、どこへ行くかはわからない。

 相手は笑って言った。
 サクランボ祭りが終わったら、アンズ祭りやスモモ祭りに行けばいい。

 その言葉の中にわずかなからかいがあるのが聞き取れた。
 だがそれが、新しい祭りが多すぎるのをからかっているのか、ジグメがそのような祭りで語るべきではないとからかっているのかは分からなかった。

 だが彼はもはや旅を始めたばかりの時のように怒りっぽい人間ではなかった。
 そこで、歩みを止めずに言った。
 「もしオレの語りを聞きたくないんなら、その後の、リンゴ祭りで語らせれてくれればいいさ」

 彼らは尋ねた。
 「新しい物語を語るのかね」

 古くからあるこの物語に新しく加わる物語などない。
 ただ、ある「仲肯」は語る段落が多く、ある「仲肯」は語る段落が少ないというだけである。
 そして、ジグメは、自分はすべての段落を語ることが出来ると信じている。

 どの時代にも、一人か二人、すべての物語を語る力を持った語り部がいる。そして自分はこの時代で唯一人のそのような語り部だと信じている。

 もし普通の「仲肯」だったら、自分の語る物語をより揺るがぬものにするために塩の湖や、かつてのジャンとモンの地を訪ねたりはしないだろう。

 今、道の傍らに立っている人たちが、新しい物語が出来た、などと言っているのが耳に入り、ジグメは足を止めずにいられなかった。
 それから、丁寧な口調で彼らに伝えた。

 より多く物語を語れる語り部はいるが、新しい物語が他にあるはずはないのだ、と。

 道端の人々は言った。
 今まで自分たちもそう思っていた。昔だったら、とっくにあんたを引き留め、語らせようとしただろう、と。

 彼らはジグメが有名な人物だと知っていた。
 語れる段落が一番多い語り部だと知っていた。
 なぜなら彼こそがケサル王が自ら選んだ語り部なのだから。

 だが今、新しい物語を書く人物が現われたのである。

 彼らは「書く」と言い、「語る」とは言っていないのにジグメは気付いた。








阿来『ケサル王』 126 物語:夢

2015-10-21 01:00:55 | ケサル
物語:夢 その2




 国王ケサルさえもまだ知らない物語を知っているのだと思うと、ジグメは微かな優越感を抱いた。
 だがそれは誇らしさとは違っていた。

 物語をすべて知りながら、その先に待ち受けているのは、様々な場所を巡って語り、施しを、良く言えば聞き手からの報酬を受けることだけだ。
 そう思うと、やるせない気がした。

 ケサルも自分の夢から戻った。
 最後に耳にしたのは、千年後に自分の物語を語ることになる人物が言った言葉だった。
 「すみません、帽子をかぶっているのを忘れてました」

 こうして、ケサルは奇妙な夢から離れた。

 誰もが夢の中で千年後に行けるわけではなく、そこで自分の物語を語る者に会えるわけでもない。
 その人物は自分が望んでいた者によく似てはいたが、何事にもこだわらない、もっと正確に言えば、何をすべきか分からないといった表情をしていた。

 遥かな未来に自分の物語を語る者が確かにいるのだと考えると、ケサルは満足した表情を浮かべて眠りに着いた。
 だが、朝目覚めた時、心はより沈んでいた。

 物語を語るあの人物が、久しい後にはリン国は存在しないと言ったのを思い出したからである。

 朝の朝議では、大臣たちはいつも通り良い知らせを伝えた。

 新しいが帰属に参りました。
 リン国に属さぬ小国の王が使者に貢物を持たせ友好を求めて参りました。
 学者が新しい文を著し、リン国の偉大な未来について述べました。
 道理に背いたラマが心を入れ替え、リン国に忠誠な護法を行うと誓いを立てました。等々。

 すべてが、気候は温順、民は安寧、王は英明、四方は鎮められた、といった、同じ言葉の繰り返しだった。
 国王は聞くほどに心がふさぎ、声はくぐもり、力なく言った。
 「それはいつまで続くのだろうか」

 下の者は声をそろえて答えた。
 「幾久しく続きましょう」

 議事の終わりを告げることなく国王は黄金の座を立ち、一人宮殿の外へ出た。
 臣下たちは遠巻きに着き従い、共に宮殿を出て、最も高い丘の上に登った。

 国王は思った。
 次にまた夢の中へ行ったら、この王宮がどのようになっているか見なくてはならない、と。
 この川がその時もまだ、西南に向って流れて大きな河と合流し、さらに多くの流れとともに東南に折れ、山々を切り裂き、自らが切り取った深い峡谷の中で水音を響かせているかどうか、見なくてはならない、と。

 取り巻く者たちはケサルが小声でつぶやいているのを聞いた。
 「もしすべてが消えてしまうのなら、今この時にどんな意味があるのだろう」

 このような問いは、河が谷の奥で立てる響きと同じで何の意味もなかった。
 もちろん、頭の良すぎるある種の人々はこのような響きにも特別な意味があると思いがちである。
 彼らはそう考えて心穏やかではない。自分を不安にさせているのである。

 国王は長い間ぼんやりと時をやり過ごすと、山を降りた。
 出迎えた大臣、将軍、妃、護衛、侍女、教師らの群れを通り抜ける時、国王の目線は彼らの一人一人の上を掠めたが、実在である彼らの体がその目線を遮ることはなかった。

 集まって来た人々の群れを通り抜ける様子は、まるで無人の広野を行くようだった。
 国王のこのような振る舞いは国中を不安にした。

 だが、そう考えない者もいた。
 それは僧たちだった。

 彼らは言った。
 国王は悟りを開かれたのだ。国王は俗人が有ると見なすものを「空」と捉えられた。これは仏法の勝利である。

 もちろん、多くの人はこの考えに賛同しなかった。

 幸いにも、国王はこのような心境に長く浸ってはいなかった。
 一国の王として、いつまでも根拠のない想念に囚われているわけにはいかなかった。

 間もなく事件が起こった。
 ケサルは兵を率いて四方を征服したが、高く険しい山に隔たれたリン国の土地の中にも、まだいくつかの小国があった。
 これらの小国は毎年リン国に貢物をし、礼を尽くしていたので、ケサルはわざわざ討伐に行こうとは考えていなかった。
 ただこれらの小国の間では、常に諍いが起こり、一年中戦雲が立ち込めて、リン国の太平の気を乱していた。

 ケサルにとって、それは許せないことだった。

 さて、ある日、ケサルは高い山々が集まる東南の方角から殺気が立ち昇っているのを見て、とらえどころのない思考から抜け出し、王子ザラに密かに兵馬の用意をするよう命じ、出征に備えた。

 果たして、数日もたたずにグチェという小国から救援を求める使者が到着した。
 彼らはジュグというもう一つの小国から攻撃を受けていた。

 ケサルは言った。
 「ジュグがそなたたちグチェを征服しようというのは何故なのか。お前たちの美しい姫を娶るためか、それとも、珍しい宝を所有するためか」

 使者は跪いた。
 「もし美しい姫がおりましたなら、すでにリン国に差し上げていたでしょう。もし、珍しい宝があれば、我々のような小国には相応しくなく、すでに大王様のお前に捧げていたでしょう」

 ケサルはうなずき
 「されば、ジュグは故なく兵を起こしたのだな。帰って国王に伝えなさい。我がリン国が正しい道を示すだろう、と」







阿来『ケサル王』 125 物語:夢

2015-10-12 11:53:43 | ケサル
物語:夢 その1



 ケサルは本当に夢を見た。

 夢の中で一千年後のリン国の草原を見た。

 草原の地形は彼のよく知っているそのままだった。山脈の位置、河の流れ。
 だが、そこに新たに木々が現われていた。実を結ぶ木と結ばない木と。

 実を結ぶ木は果樹園の中に一塊に集められ、実を結ばない木は新しい道を挟んで向き合い、兵士のようにずっと先まで列をなしていた。
 道には不思議な力で動く乗り物が、晴れ渡った空の下に埃の煙幕を長く引きずっていた。
 建物も以前とは異なり、家の中には見慣れない物がたくさん置かれていた。

 それでも、建物から姿を現した草原の民が、空を見上げ何やらつぶやいた時、その表情は千年前と少しも変わらなかった。

 不思議な乗り物を走らせて来た者がそこから降り、小川の淵まで水を飲みに来た時、まず両手で水を掬い取り、口いっぱいに含んで空に向かって吹き出すと、強烈な光の下に小さな虹がほんの束の間現れる。こんな遊びも、一千年前の兵士たちが馬を降りて水辺でしていた楽しみとまるで同じだった。

 なによりも驚いたのは、草原を気の向くままに歩き回っている語り部ジグメが彼の想像そのままだったことだ。
 物語の中に消えたあのアク・トンバそっくりだったのである。
 その姿は時折りチカチカと明滅し、いまにも消えてしまいそうで、ケサルは慌て声をかけた。

 「そこの者、入ってこい」

 その男は言った。
 「建物もなく、テントもなく、門もないのに、どこへ入ればいいんですか」

 「私の夢の中だ」

 「オレの夢に、あなたは自由に出入りして来たけど、オレがあなたの夢に入るなんて思ってもみなかった。そんなこと出来ません」

 ケサルは釈明した。
 「これからは何度も来ることになるだろう。だが、私はまだ来たことはない。つい先ほど思いついたのだから」そう言ってから、笑った。「そうだ、きっとそれは私が天に帰ってからのことなのだ。教えてくれ、お前の夢の中で私は何をした?」

 「その方は、リン国の物語をオレの腹の中に詰め込んだんです」

 「どうやって入れたのだ」

  ジグメが、金の鎧を着た神がどのように自分の腹を裂き、物語を書いた本を一冊また一冊と詰め込んでいったのかを話すと、ケサルは笑った。
 「そうか。それは、寺のラマが菩薩の像に収めるのと同じだ。だが、お前は生きている人間ではないか」

 「ところが、少しも痛くなかったんです。眼が覚めると、リン国の獅子王ケサルの物語を語れるようになっていました」

 「怖いか」

 「怖くありません。それは初めてのことではないのです。その方は他にも語る人を探していました」

 「今怖くないかと聞いているのだ」

 「何が」

 「今お前は私の夢の中にいる。私がお前を帰さなかったらどうする」

 ジグメは度胸のある人間ではない、だが今回は不思議なことに少しも怖くなかった。

 「オレはあなたを怒らせたんです。物語の中のジャンやモンの国が本当にあるか知りたくて、あちこち訪ね歩いてしまいました。あの方は怒って矢でオレを遠くに飛ばし、探し廻れないようにしたんです」

 腰の辺りをさすると、鉄の矢が腰から入り、背骨に沿って首の後ろまで突き刺さっているのが分かった。
 体の向きを変えて、夢の主に矢を見せた。見せながら考えた。
 夢はこの方の頭の中にある、だからこの方は夢の中の物を見ることは出来ないかもしれない、と。

 だが、この人物は神の力を持っていて、自分の夢の中へも自由に出入り出来た。
 この人物は弓を触って言った。

 「おお、本当に私の矢だ。だがこれまで私はお前の言ったようなことは何もしていないのだ」

 「では、何をしてるんですか」

 「タジクまで遠征し、リンの西の境界を確定したところだ。戦いがなければ、何もすることがない。そこで考えた。これらの事を伝えていく人物がいなくてはならない、と。ある者の姿をもとに、その者を探しに来たのだ」

 「オレがその人に似てるんですね」

 「そうだ、そっくりだ」

 「誰に」

 「アク・トンバだ」

 「アク・トンバ!その頃アク・トンバはもういたんですか」

 「この男はまだいるのか」

 「います」

 「会ったことはあるのか」

 「誰も会ったことなんかありません。物語の中にいるんです」

 これを聞いて、夢の中の国王は失望した。だがすぐに気持ちを切り替えて、言った。
 「物語の中で生きているのだな。ならば、誰かに自分の物語を語らせようという私の考えは正しいようだ」

 「オレはもう語りました。あなたがまだしていない事も語ってますよ。あなたがリン国から天へと帰るまでの物語を」

 ケサルはジグメの腕をつかんで引き寄せた。
 「言ってくれ、天に帰るまでに、私はどんな業績を残すのか。王子ザラは新しい国王となるのか」

 「天の秘密を漏らすことは出来ません」

 「言えと言っているのだ」

 「出来ません」

 「お前をここから出さないと言ったら」

 ジグメは目を伏せ、ゆったりと腰を下ろし、言った。
 「だったら、出て行きません。そのほうが寒い中をあちこち歩き回らないで済む」

 「では、やはり出て行きなさい」

 ジグメは片方の足を夢の外へ踏み出した。
 外の世界は大きな音を立て、雲さえも空を駆け巡り、すべてがひゅうひゅうと激しく鳴っていた。ジグメは振り向いた。
 「これでいいんですね」

 ケサルは怒っていた。
 「私をあなたと呼ぶな。私は国王だ。首席大臣がいたらお前の口を捩じ上げるだろう」

 「あなたはリン国の王です。俺の王様じゃない」

 「お前はリン国の民ではないのか」

 「この土地はまだあります。でもリンという国はありません」

 「何だと。リン国が無いだと」

 「今はもうありません」

 国王のあまりの失望の表情を見て、語り部は思った。
 どの国王も皆自分が作り上げた業績は永遠に存在すると信じているものなのだ、と。

 ジグメはそれ以上何も言わないことにした。

 カムという高原の大地に本当にリンと呼ばれる国があったのかどうか、ケサルを研究する学者たちは意見を戦わせている。
 それはまた、歴史上にケサルと言う英明で神でもあり人でもある国王がいたかどうかはっきりしないということだ。

 そう思って、ジグメは心の中に同情と呼ばれる感情が湧き上がって来るのを抑えられなくなった。

 ジグメは軽く礼をして夢から去って行った。

 最後に国王が夢の中で言っているのを聞いた。
 「それでお前は、私の夢の中に来ておきながら、帽子さえ脱がなかったのか」

 体全体が夢から離れると、すさまじい速さで疾走していた世界は、そこだけ静止した。
 周りは空っぽで、一部の鳥は木に止まり、一部の鳥は風の中で体を斜めにしながら翼を広げていた。

 ジグメは帽子を脱ぎ、胸の前に置き、言った。
 「すみません、帽子をかぶっているのを忘れてました」

 こう言い終ると、ジグメはまた旅を続けた。







阿来『ケサル王』 124 物語:アク・トンバ

2015-10-05 23:11:09 | ケサル
物語:アク・トンバ その4



 「では、王様はいつかはこの世を去るのですか…」


 国王ケサルはザラに目をやった。眼差しは冷たく鋭かった。
 ザラは数日の間、自分がこの問いを口にしたのを後悔した。

 国王も自分の目がどのような光を発していたのかが気になっていた。

 亡くなった兄ギャツァの息子、リン国の王位の継承者をこのように不安にさせてしまったのは、もしかして自分も人間界の国王と同じように誉れ高い王位を捨てるのが惜しいからだろうか。
 もし人々がそれを知ったら、物語を一つ創り出し、アク・トンバに自分を風刺させるのだろう。

 幸いなことに、国王もまたユーモアの持ち主であり、こう考えて自分を笑い種にしたのである。

 それから、自らを揶揄するような口調で言った。
 「この問題はアク・トンバのところへ行って尋ねたほうが良いかもしれぬ」

 「物語の中の人物に?」

 「私は一度だけ彼と会った。だがその後、彼は姿を隠してしまった。私の何かが彼に嫌われたのだろう。お前は愛すべき若者だ。彼はお前を避けることはないだろう。もしお前が彼の物語の中に現れ、彼から風刺されたり弄ばれたりされなかったら、それは、お前が良い国王ということだ。だから、お前は私のことを心配しなくてよい。ただ、彼を恐れなくてはならない」

 「王様も物語の中へ入って行くのですか」

 「多くの者が私の物語を語るだろう。だがアク・トンバの話と一緒にされることはない。多くの者が私の物語を語る。千年を超えて語られるだろう。お前は私の言ったことを信じるか」

 「信じます。王様は神です。神は未来を予知することが出来るのですから」

 「物語を語る者すべてを私が選ぶわけではない。だが、自分でも幾人かは選ぶことが出来る。私はアク・トンバに似た者を選ぶだろう」

 ここまで言って国王は笑った。
 目の前にひょろひょろと痩せた人物の姿が浮かんだからである。

 「その者は、この世に何か借りがあるような姿をしている。仕打ちを受けているようなのだが、何の仕打ちなのか分からない様子をしている」

  こう考えて、国王は気持ちが高ぶって来た。
 「戻りなさい。眠らねばならない。夢で彼に会えるような気がしてならないのだ」

 「それは、アク・トンバですか?」

 「違う、千年後の人間だ。アク・トンバによく似た人物だ」







阿来『ケサル王』 123 物語:アク・トンバ

2015-10-03 03:54:35 | ケサル
物語:アク・トンバ その3



 領地に帰る途中、トトンはリンへ交易に向かうタジクの商人に出会った。
 彼らは優れた馬、夜光真珠、安息香、山の中の宝の蔵を空ける鍵と秘密の呪文を携えていた。

 長い時間歩いて来た彼らは、二つの夜光真珠を灯りとして夜の食事を作り酒を飲み、来た方向に向かって夜の祈りを捧げた。
 それが終わると、疲れた体で深い眠りに入って行った。夜光真珠をしまうことさえしなかった。

 その宝物の輝きの元で、トトンは兵と共に彼らを一気に叩き殺した。
 二人の首領をぐるぐる巻きに縛り上げた時も、この二人はまだ夢の中だった。

 揺れる馬の背で、二人のタジク人はまた眠りに落ち、空が明るくなってやっと目を覚ました。
 この時彼らは初めて自分が宝と地位と自由を失ったのを知り、遥かに遠いリンの国へ来るのではなかったと恨んだ。

 「リン国への道は長すぎる」
 あごひげを半月の形に整えている人物はこう言って、道のりがあまりにも長く、単調で疲れ果て警戒心をなくしてしまったことを嘆いた。

 トトンはあの手この手でタジクの商人から宝の蔵の呪文を聞き出そうとしながら、密かに精鋭の兵を西に送りタジクの宝の蔵を掘り当てようとしていた。

 ケサルはすでに、西の辺境に多くの軍隊が現われて、交易の商人を守るためだと公言している、という知らせを受けていた。

 四大魔王を倒した後、平和がリンに訪れて長い年月が経っていた。
 長い間何もすることがなかったのでなければ、アク・トンバという物語の中に逃げ去った人物に思いをはせることもなかったかもしれない。

 大軍襲来の知らせを聞くや、ケサルはたちどころに気力が漲り、自らいくつもの命令を発し、各の兵を集めて戦いに備えた。

 王子ザラが進言した。
 この度の戦いはトトンの強欲さが起こしたことです。タジクの大軍の前でトトンを縛り上げ、ダロン部の財宝の中から十倍にしてタジクの商人へ償わせましょう、と。

 「そのようなことをして何か利益があるのか」
 大王はわざと問いかけた。

 首席大臣が前に進み出て意見を述べた。
 「王子のお考えは最上の策でしょう。一つには、あのよこしまな大臣を追い払い、一つには、戦いを避けることが出来ます。民も安らかでいられましょう」

 ケサルは言った。
 「我がリンの国を考えてみるがよい。東は伽の地(中国)と接しているが、山と河によってすでに境界が出来ている。北と南の境は、四大魔国に勝利した後明らかになった。ただ西側の地は、私にも明確ではない。大軍が押し寄せて来たこの時に境をはっきりさせようではないか。それでリン国の領土は完成するのだ。話はこれまでだ。号令を待って出発せよ」


 戦いが始まると、幾度かの交戦はもとより、大軍が往復するだけで1年かかった。

 ケサルは連勝しながら、一路西に向かって進軍して行くと、そこには、これまでになく高い雪山が横たわっていた。
 生き残ったタジクの軍は峠を越え、深い谷の中に消えた。

 ケサルは将軍たちに囲まれながら峠に馬を繋ぎ、夥しい山々が波のように西の方向に靡いているのを見た。

 ある者が言った。
 多くの山神たちもリンの大軍の勢いに恐れをなして西へ逃げて行くのでしょう、と。

 ケサルは背から一本の神の矢を抜き取り、足元の岩の中に深く差し込んだ。
 すると、走り去ろうとしていた山々は立ち止まり、西へ傾いた姿勢からゆっくりと体を起こし始めた。

 タジクの兵の黒い影が峰々の間を走っていた。

 トトンは追撃の命を下すよう願った。
 秘密の呪文を手に入れた宝の蔵がこの峰のどこかにあるはずだから、と。

 ケサルは言った。
 「戦いはこれまでだ。東西南北どの方向も、リン国は高く聳える雪山をもって、周囲との境とする」

 伴の者が、作られたばかりの文字で詩を書いた。詩の中で、リンの周囲の雪山を柵に喩えた。

 ケサルは暫く吟じてから言った。
 「柵。まさに柵のようである。だが、これからはリン国の民は柵の中に閉じ込められてはならない」

 王子ザラには分からなかった。

 トトンはまた追撃しようとしていた。
 国王はそれを制止しながら、リンの民は柵を超えられるのだろうかと案じているようでもあった。

 国王は言った。
 「なぜ、雄の獅子のように壮大な雪山を柵になぞらえるのだろう。そうすることで、我々自らがその中に閉じ込められてしまうのだ」

  王子ザラは言った。
 「私たちは閉じ込められることはありません。もし願えば、私たちの駿馬はいつでも疾風のようにこの峠を通り抜けて行くでしょう」

 「今ならばそれは間違いない。だが、後の世ではどうだろうか」

 王子ザラは笑った。
 「リンの大軍は無敵です。王様が未来を心配される必要はありません」

 「お前が国王になれば、私と同じように考えるだろう」

 王子ザラは言った。
 「滅相もない。王様は永遠に我々の国王です」

 「永遠の国王などいない」

 「王様は永遠です」

 「何故だ」

 「王様は神です。神は天地と共にいます」
 
 ケサルは言った。
 「神は永遠に人の世には住まない」

 「では、王様はいつか…」