5章4 昇っていくのか下っていくのか その2
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)
二次林の主体は低い灌木で、その中で松や杉はとても孤独に見える。
森林学者は、このような二次林がもう一度破壊にあったら、その山々は永遠に元には戻らないだろう、と警告している。
四川盆地を後にして、大渡河と岷江の河岸を歩くたびに、土石流の無残な痕跡をそこかしこに残している荒涼とした山や野を見かける。
それこそ森林が一度ならず伐採にあった最後の姿なのである。
このような二次林はすでに、水を蓄え、風土を保ち、気候を調整する機能を大幅に後退させてしまった。一度ならず、いくつかの場所で農民が私にこう言った。森林が斧によって消されてから、山の中の気候は年を追うごとに把握しにくくなった、と。
夏の雨と冬の風はますます激しくなり、農民の収穫にとって一番大きな影響を与えるのは、森林の減少につれて夏の洪水が毎回いとも簡単に河の水を溢れさせるようになり、冬になれば、それとは逆に、四季を問わず水を湛え水量の安定していた渓流が、累々と積み重なる巨石をさらすだけになってしまうことである。
また、山の中でとうもろこし、冬小麦、ジャガイモに頼って暮らしている農民にとっては、森林の気温調整作用がますます弱まり、秋に霜の降りるのが以前よりも早くなったことである。霜害のため多くの作物は完全に成熟することが出来なくなった。
カルナという村で、農家の主人が囲炉裏の中から良く焼けた粗引きの粉で作ったモモを取ってくれたが、手に取ると、ふにゃふにゃした感じがした。
主人は私の不思議そうな表情を見て、すまなそうに言った。
「ここではもういい香りのする小麦粉が食べられなくなってね」
私はどうしてかと尋ねた。
女主人は顔を赤らめた。まるで全てが彼女のせいであるかのように。彼女は小さな声で言った。
「麦がよくないんですよ」
ここもまた二次林が山を覆っている村だった。
主人の説明を聞いて私はやっとその訳が分かった。
毎年、麦が乳熟する時に霜害に見舞われてしまうのである。そのため、麦は突然成熟の過程を止め、急速に枯れて行く。一年一年、農民の収穫時期は早まってきた。だが、共同広場で脱穀した後、保存用の櫃に収められるのは、萎びて形の悪い麦の粒ばかりである。
このような麦を挽いて出来た粉からは、もはや光と土の良い香りは漂ってこない。そして小麦粉特有の粘り気が失われている。
囲炉裏の中でよく焼かれても、象牙のようなおいしそうな色にはならない。
私は何軒かの農家で、あの美しい色を失った小麦粉でできたモモを手にした。
両手でそっと割ると、中は真っ黒な塊で、漂ってくるのはもはやおいしそうな麦の香りではなく、カビが生えて腐っていくものを思い起こさせる甘く饐えた匂いだった。
思わず眉をひそめそうになった。
口に入れるが、なかなか飲み込めない。
ついには、申し訳なさでいっぱいの女主人がにんにくと唐辛子を持ってきてくれてやっと、小麦と呼ぼうとすれば何とか呼べる物でできた食物を無理やり腹に収めることができた。
私が背負ってきたリュックの中にはもう少しましな食べ物があったのだが、申し訳なくて食べることはできなかった。
私はただ一度か二度このような物でしのげばよい。だが、彼らは来る年も来る年も辛い耕作に励んで、その後に期待できるのは、このような収穫なのだ。
この家の汚れた顔の、だが目は泉のように輝いている二人の子供が、大きな口を開けてこの食べ物にかぶりついているのを見た時、私の心は針で刺されたように痛んだ。
だが、このことで役に立たない涙を流したりしたら、それはあまりにも自分勝手な思い込みと言えるだろう。
私はラサのある集まりで言ったことがある。私のギャロンの旅は発見ではなく、追憶であると。
今私は、本当にその通りだと気づいた。
今回のギャロン大地の旅は、時間があまりにも少なく、また、旅行のための旅行と言ってもいいものであったので、本当に何の発見もなかった。だが、全ての草や木々が私をどこまでも絶えることのない思い出に誘いだしてくれた。
甘く幸せな思い出、辛く苦い思い出、夢のように遠くて近い思い出!
重要なのは、自分がこのような思い出を大切にしているということだ。
でこぼこの公道を絶えず跳びはねながら走るぼろぼろのジープに乗って、谷の両側にどこまでも続く緑を眺めている時でさえ、たくさんの記憶の中の情景がそのままの姿で、くり返し私の目の前に現れて来た。
しばらくして、後ろに埃の尾を長く引きずりながら、ジープはナチュ溝を走り抜け、ゆったりとしたリンモ河が目の前に現れた。
そこに広がるのはこれまでとはまた異なった風景であり、それこそが本当のギャロンなのである!
車はそのままずっと下に向って滑るように降りていく。
だが、成都を離れて十数日かかって、私はやっと高原へと登り着いたのだった。或いは、青蔵高原へと通じる一つの段階へ登り着いたのだ、と言ってもいい。
そして目の前の道はまだそのままに下へと向っている。
実際に、リンモ河のある谷底まで降りて行ったとしても、それでも、海抜2,800メートルはあるのだ。
私は下って行くことによって、すでに登り着いていた。もしくは、登っていくすべての過程の中で、ほんのしばらくの間下っていた。
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)
二次林の主体は低い灌木で、その中で松や杉はとても孤独に見える。
森林学者は、このような二次林がもう一度破壊にあったら、その山々は永遠に元には戻らないだろう、と警告している。
四川盆地を後にして、大渡河と岷江の河岸を歩くたびに、土石流の無残な痕跡をそこかしこに残している荒涼とした山や野を見かける。
それこそ森林が一度ならず伐採にあった最後の姿なのである。
このような二次林はすでに、水を蓄え、風土を保ち、気候を調整する機能を大幅に後退させてしまった。一度ならず、いくつかの場所で農民が私にこう言った。森林が斧によって消されてから、山の中の気候は年を追うごとに把握しにくくなった、と。
夏の雨と冬の風はますます激しくなり、農民の収穫にとって一番大きな影響を与えるのは、森林の減少につれて夏の洪水が毎回いとも簡単に河の水を溢れさせるようになり、冬になれば、それとは逆に、四季を問わず水を湛え水量の安定していた渓流が、累々と積み重なる巨石をさらすだけになってしまうことである。
また、山の中でとうもろこし、冬小麦、ジャガイモに頼って暮らしている農民にとっては、森林の気温調整作用がますます弱まり、秋に霜の降りるのが以前よりも早くなったことである。霜害のため多くの作物は完全に成熟することが出来なくなった。
カルナという村で、農家の主人が囲炉裏の中から良く焼けた粗引きの粉で作ったモモを取ってくれたが、手に取ると、ふにゃふにゃした感じがした。
主人は私の不思議そうな表情を見て、すまなそうに言った。
「ここではもういい香りのする小麦粉が食べられなくなってね」
私はどうしてかと尋ねた。
女主人は顔を赤らめた。まるで全てが彼女のせいであるかのように。彼女は小さな声で言った。
「麦がよくないんですよ」
ここもまた二次林が山を覆っている村だった。
主人の説明を聞いて私はやっとその訳が分かった。
毎年、麦が乳熟する時に霜害に見舞われてしまうのである。そのため、麦は突然成熟の過程を止め、急速に枯れて行く。一年一年、農民の収穫時期は早まってきた。だが、共同広場で脱穀した後、保存用の櫃に収められるのは、萎びて形の悪い麦の粒ばかりである。
このような麦を挽いて出来た粉からは、もはや光と土の良い香りは漂ってこない。そして小麦粉特有の粘り気が失われている。
囲炉裏の中でよく焼かれても、象牙のようなおいしそうな色にはならない。
私は何軒かの農家で、あの美しい色を失った小麦粉でできたモモを手にした。
両手でそっと割ると、中は真っ黒な塊で、漂ってくるのはもはやおいしそうな麦の香りではなく、カビが生えて腐っていくものを思い起こさせる甘く饐えた匂いだった。
思わず眉をひそめそうになった。
口に入れるが、なかなか飲み込めない。
ついには、申し訳なさでいっぱいの女主人がにんにくと唐辛子を持ってきてくれてやっと、小麦と呼ぼうとすれば何とか呼べる物でできた食物を無理やり腹に収めることができた。
私が背負ってきたリュックの中にはもう少しましな食べ物があったのだが、申し訳なくて食べることはできなかった。
私はただ一度か二度このような物でしのげばよい。だが、彼らは来る年も来る年も辛い耕作に励んで、その後に期待できるのは、このような収穫なのだ。
この家の汚れた顔の、だが目は泉のように輝いている二人の子供が、大きな口を開けてこの食べ物にかぶりついているのを見た時、私の心は針で刺されたように痛んだ。
だが、このことで役に立たない涙を流したりしたら、それはあまりにも自分勝手な思い込みと言えるだろう。
私はラサのある集まりで言ったことがある。私のギャロンの旅は発見ではなく、追憶であると。
今私は、本当にその通りだと気づいた。
今回のギャロン大地の旅は、時間があまりにも少なく、また、旅行のための旅行と言ってもいいものであったので、本当に何の発見もなかった。だが、全ての草や木々が私をどこまでも絶えることのない思い出に誘いだしてくれた。
甘く幸せな思い出、辛く苦い思い出、夢のように遠くて近い思い出!
重要なのは、自分がこのような思い出を大切にしているということだ。
でこぼこの公道を絶えず跳びはねながら走るぼろぼろのジープに乗って、谷の両側にどこまでも続く緑を眺めている時でさえ、たくさんの記憶の中の情景がそのままの姿で、くり返し私の目の前に現れて来た。
しばらくして、後ろに埃の尾を長く引きずりながら、ジープはナチュ溝を走り抜け、ゆったりとしたリンモ河が目の前に現れた。
そこに広がるのはこれまでとはまた異なった風景であり、それこそが本当のギャロンなのである!
車はそのままずっと下に向って滑るように降りていく。
だが、成都を離れて十数日かかって、私はやっと高原へと登り着いたのだった。或いは、青蔵高原へと通じる一つの段階へ登り着いたのだ、と言ってもいい。
そして目の前の道はまだそのままに下へと向っている。
実際に、リンモ河のある谷底まで降りて行ったとしても、それでも、海抜2,800メートルはあるのだ。
私は下って行くことによって、すでに登り着いていた。もしくは、登っていくすべての過程の中で、ほんのしばらくの間下っていた。
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)