塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

ケサル会のおしらせ ③

2014-04-23 21:06:21 | ケサル

ケサル勉強会「ケサル大王伝全三回」の第一回は4月20日に終了しました。
とても収穫の多い会でした。

その時の様子が大谷監督のFacebookで紹介されています。
https://www.facebook.com/profile.php?id=100004568860869



第二回 5月16日(金)、第三回 5月18日(日)

どちらも午後6時から
台東区生涯学習センター会議室で

会費各回1000円
お問合せはメッセージ/ootani11☆gmail.com






ケサル会のおしらせ ②

2014-04-19 13:26:02 | ケサル


明日に迫ったケサル勉強会「ケサル大王伝全三回」のお知らせをもう一度!



ケサル会のお知らせ〜「ケサル大王伝全三回」①

4月20日(日)夜6時から9時 台東区生涯学習センター306号会議室
以後5月16日(金)18日(日)夜6時を同所で予定。
会費各回1000円。 お問合せはメッセージ/ootani11☆gmail.com



講師の宮本神酒男さんのホームページにも、こっそりとお知らせが載っていました。
http://mikiomiyamoto.bake-neko.net/

------------------------------------------------------------------------------

ケサルの勉強会を開催します! (ケサルの会) 
2014年4月20日(日)5月16日(金)5月18日(日)pm6時~ 
台東区生涯学習センター(台東区中央図書館と同じビル かっぱ橋通り)305か306号 
どなたでも、興味のある方、遊びに来てください!(会費1000円)

------------------------------------------------------------------------------



★宮本さんについては大谷監督のFacebookに興味深い文章があります。
 ケサルの語り部の再来か…
 読むだけでも神秘な世界に触れることが出来ます。






どんな会になるのか楽しみです。




阿来『ケサル王』㊺語り部 渡し場

2014-04-18 20:16:46 | ケサル
語り部:渡し場




 ジンメイは前の夜野宿した場所でもう一晩寝ることにした。

 たき火が消えた後、羊の毛皮に丸まって、星が一つ一つ夜空に瞬いているのを見ていた。
 山の上の寺の鈴の音が耳元でまたチリンチリンと響いたような気がした。

 自分を悟りに導いてくれる菩薩が夜空に現れるかもしれない。だが、彼はそのまま眠入ってしまい、途中目が醒めて、河の水がまるで頭の上を流れているかのように大きな音を立てているのを聞いた。

 次に起きた時、日はすでに高く昇っていた。強烈な日差しがまぶしくて目が開けられなかった。
 日の光に包まれて体は何時になく心地よく、寝返りを打ち、もう少し寝ていようと思った。だがザワザワした人の声に目を開けた。

 渡し場にはすでに多くの僧や人々が集まり、誰かが河辺に立って大声で対岸の渡し船を呼んでいた。
 渡し口の辺りに船頭親子が現われた。
 老人は二本の櫂を担ぎ、若者は頭の上に大きな鍋を載せるように牛革船を載せていて、二人は後先になりながら河岸へと下って来た。

 ジンメイは向きを変えて起き上がると、昨夜消したはずの火がまた燃えていて、火に掛けたやかんがグツグツと音を立てていた。
 火の傍に座って熱い茶をすすっている太ったラマが笑いながら彼に朝の挨拶をした。

 混乱した頭で、自分の喉が何か音を立てているのを聞いた。多分「おはよう」と返事をしたのだろう。

 ラマは言った。
 「茶を頂いたぞ」

 元々動きの遅い頭が、この時は目覚めたばかりのぼんやりした状態で、しばらくどう答えていいか分からなかった。

 ラマがまた言った。
 「顔を洗えばすっきりするだろう」

 ジンメイはすぐに河辺に走って行き、冷たい水を掬い取り、顔をその中に埋めた。
 水をたっぷりと飲み、ガラガラとうがいし、息が臭くないのを確かめてから、焚火のそばへ戻り、ラマに向かって笑いかけた。

 「お坊様、オレが話しても、口の匂いは気にならないですか」

 ラマは厳しい顔付きで言った。
 「わしは活佛だ」それから笑って「普通のラマにはこんなにたくさん供の者はいないぞ」

 「ということは…」

 ジンメイは河の北岸に霞んだような、だが金色に輝いている大きな寺を見上げた。
 活佛は頷いた。
 「一番大きいのではないがな」

 巨大な寺院の中には、合わせて30人は超える、等級の違う様々な活佛がいた。

 二人は一時話をせず、渡し場の辺りで親子が牛皮船を水の中に滑り込ませるのを見ていた。
 数日雨が降らず、牛の皮は乾いていた。水の中に暫く浸し、縫い合わせた所に水が入らないよう油を塗らなくてはならなかった。活佛は言った。
 「まだしばらく待たなくてはならないようだ。先ほど夢で何見たのか話してくれ」

 ジンメイは言った。
 「昨日寺に行きました」付け加えるように言った。「お坊様の寺ではなく、このちら側の山の上の小さな寺です」

 供の者たちが日差しが強烈なのを見て活佛のために眼鏡を持って来た。活佛は眼鏡をかけると、何も言わず茶色いレンズの後ろからジンメイを見た。

 「夢で菩薩様を見ました」
 「菩薩は何か示現されたか」
 「示現って何ですか」
 活佛は笑った。
 「つまり、菩薩は何をされたのか、何をおっしゃったのか、ということだ」
 「オレには何も言いませんでした」
 「菩薩がお前に何か言うはずはない」
 「菩薩様はケサルと話しました」
 「何だって!」

 活佛は体を振るわせた。もしこれ程太っていなかったら、きっと地面から跳び上がっていただろう。

 「ケ、サ、ル!観、音、菩、薩!」

 活佛の激しい反応がジンメイを驚かせた。
 確かだ。空が明けるころ、彼はまた夢を見たのだ。やはり前に夢見た場面だった。

 活佛は続けて問いかけた。ジンメイは答えた。
 菩薩はケサルに、寺を建て、リンに来たばかりの僧と俗人を切り離すように言ったことを。

 活佛はぽかんとして、ぼそぼそと言った。
 「僧と俗人を切り離す…」

 ジンメイは言った。
 「やって来たばかりの坊さんとトトンが三色の砦の中にある宝座を争ったからです」

 その時、渡し船が河を渡って来た。供の者たちが活佛を取り囲んで船に乗せた。
 ジンメイは野宿の跡を片付け、一人で歩いて行きかけると、活佛が自分に向かって手を振っているのが見えた。
 こうして、ジンメイは供の者たちの不機嫌な表情に耐えながら船に乗った。
 活佛はその間静かにジンメイを観察していたが、岸に上がってから声をかけた。
 「寺に会いに来なさい。わしの名はアワンだ」

 活佛は供の者たちを一瞥して行った。
 「その時、お前たちはこの男に辛く当たってはならない」

 供の者たちが主人の言い付けを聞いている時に現した表情は、言い付けが終るとまた別の表情に変わった。
 つまりそれは、典型的な付き従う者の表情だった。

 活仏は言った。
 「菩薩はお前の心に宝を埋められたのだ。私がそれを掘り出して見せよう」

 ジンメイはそれについては知っていた。

 ケサルの英雄物語は、遥か前からすでに、神によって人の世に埋められ隠されているのである。後の世の人が途切れることなく発見できるようにされていて、それを伏蔵という。

 ある伏蔵は紙に書かれ、土の中に埋められ、縁ある者によって掘り出される。

 また、ある伏蔵は直接人間の心の中に埋められ、それは心蔵または識蔵と呼ばれる。機縁が来た時にある者の意識の中から兆しを見せ、姿を現し、新たに世の中に伝わっていくのである。










ケサル会のお知らせ

2014-04-14 23:57:29 | ケサル
ドキュメンタリー『ケサル大王』の大谷監督を中心に、ケサルの勉強会が始まっています。
今回特別シリーズ「ケサル大王伝全三回」として、物語を読み通す企画が出来上がりました。
講師は、チベットの文化を深く蓄え、伝えてくれる、まさしく語り部のような宮本神酒男さんです。
どんな質問にも答えてくれます。
その熱さに触れるだけでも刺激的な体験になると思います。
多くの方に参加していただきたいので、ここでお知らせします。

以下に大谷監督のfacebookからの記事を転載します。

---------------------------------------------------------------

◎ケサル会のお知らせ〜「ケサル大王伝全三回」①


4月20日(日)夜6時から9時 台東区生涯学習センター306号会議室
以後5月16日(金)18日(日)夜6時を同所で予定。
会費各回1000円。 お問合せはメッセージ/ootani11☆gmail.com

昨年からの勉強会、今回から「ケサル大王伝」を全三回で読み通す事にしました。

語学の天才、宮本神酒男さんはチベット語版、デビッドニール版、ブータン版などの「ケサル大王伝」を精力的に翻訳され、おかげで物語の詳細(差異)はもちろん、登場人物の行動、心理描写そして文字通りチベットの知恵と文化の宝庫として物語をいっそう理解、把握できるようになりました。

この成果を皆さんにも楽しんでもらいたいと思います。

今回は「天から降りて競馬大会に勝利、王になり美女をめとる」までです。

宮本さんに博識を披露してもらいながらケサル大王を肴に語り合う雰囲気です。
予習は必要ありませんが宮本さんのケサル満載のHPを紹介しておきます。
http://mikiomiyamoto.bake-neko.net/gesarcontents.htm



会場はかっぱ(合羽)橋道具街通りと言問通り交差点、台東区中央図書館3階
http://www.city.taito.lg.jp/index/kurashi/gakushu/syougaigakusyuucente/annaizu.html


生涯学習センターまでの案内図 台東区ホームページ 
 電車 地下鉄日比谷線 【入谷駅】徒歩約 8分 つくばエクスプレス線 【浅草駅】徒歩約 5分 JR山手線・京浜東北線 【鶯谷駅】徒歩約15分





阿来『ケサル王』㊹語り部 古い寺

2014-04-13 22:43:40 | ケサル
語り部:古い寺 その2




 ジンメイは思った。自分も寺へ菩薩を見に行けばいいのだ。

 村の人たちが寺へ参るには二つの選択がある。
 一つは河の北岸にある寺。その寺はまるで小さな町のように、多くの建物が一つの丘全てを覆っていた。いくつもの大きな堂の黄金の屋根が低い僧坊の間に高く聳え、きらきらと光り輝いていた。

 その中に観音堂があり、観音像は千の手を持ち、その手をまるで孔雀が羽を広げたように体の後ろから広げていて、すべての開いた掌の中心には美しい目がついていた。

 ジンメイは河の南岸の寺へ行った。その寺には建物が一つしかない。ほとんどの信徒はその寺には行かなかった。彼は乾した食糧を持ってその寺へ行った。

 本来、村を出て東に二、三里行くと渡し場がある。だが彼は自分一人のために渡し船を出してくれることはないと分かっていた。そこで西に数十里行き、そこから公道の橋を渡り、また河に沿って東へと戻り、その日の夜は渡し場の辺りで野宿した。

 次の日、山を登って行き、昼頃中腹の開けた場所に出た。風に吹かれて揺れる麦の波の中に、寺の赤い壁が見えた。

 寺の中は静かで菩薩を安置している本堂の入り口には鍵がかかっていたが、僧坊の扉は開いていた。彼は入って行き、声をかけたが答えはなかった。
 石の水甕に木のひしゃくが浮いていた。爽やかで冷たい水をひしゃく半分ほど飲み、部屋の外の壁の根方に座った。

 ここはなんと清らかで静かなのだろう。
 壁の隙間から青いよもぎが伸びていた。彼は一本むしり取ると、爽やかで苦みのある草の匂いが沁みた指を鼻へ近づけた。二羽のカササギが軒先でチチ、チチと暫くさえずり合ってから、羽根を震わせて飛んで行った。

 この寺は寺とは呼ばず、堂と呼ばれていた。観音堂。

 どれくらい前になるか、田を耕していた農夫が犂の先に石が当たるのを感じた。掘り出した石はそのままでまるで菩薩の姿のようだった。
 その時仏教はこの地方を統治していなかった。おそらく、ケサルが人の世に生まれた頃だろう。

 ある日、行脚の僧がこの地にやって来て、多くの神々の像の中に供養されている自生観音を見て、さっと跪き、伏し拝んだ。当時、この畑の中央に石を積み上げた祭壇があった。

 布教に来た僧は伏し拝んだ後、立ち上がると、杖で他の像をすべて叩き壊した。僧が土で作った像を打ち砕くのを見て、人々は怒り、この狂った人物を殺そうとした。だが人々はすぐに、石の像も僧の木の杖で粉々にされるのを目にし、恐れて地にひれ伏した。

 この僧が祭壇の石を使ってこの寺を建てたのである。
 当地の人は、僧は誰にも助けを求めなかったがわずか十日程でこの建物が人々の目の前に現れた、と伝えている。

 寺にはただ一体の自生観音が祭られている。

 この僧は後の僧のように饒舌ではなかった。ほとんど話をしなかった。
 彼の顔には何時も石像の顔のような微かな微笑みが浮かび、彼の目は菩薩の眼差しとよく似て、すべてを見抜いているようでもあり、また、何も見ていないようでもあったという。

 その後、彼は去って行った。彼の残した言葉。
 「これからの寺は日を追って華美で軽佻になって行くだろう。だがこの寺はこのままにしておくように」

 後の人々はその僧の言付けをずっと守り、中原の皇帝が下された法王が、大規模な工事で河の対岸に金色に輝く寺を建造した時、もともと賑やかとは言えなかったこの寺の参拝者は更に少なくなった。

 当時の住職は局面を変えようと考えあちこちへ布施を求め、いくらかの金を集めた。住職は新たに土の観音像を作った。自生菩薩は新しい像の中に収められた。住職はまた、新しく作った菩薩にきらきら光る金粉を施した。その金粉はラマが手ずから粉にしたものだった。
 だが、寺はそれ以上賑わうことはなかった。

 羊飼いジンメイは初めてこの観音堂にやって来た。

 指についたヨモギの匂いを嗅ぎながら、温かい日差しの下で眠った。眠る前彼は祈った。夢の中でもう一度菩薩と会わせてください、と。
 だが、夢を見ることはなく、突然響いたチリンチリンという鈴の音で目を覚ました。

 目を開けると、本堂の大きな扉はすでに開かれていた。
 靴を脱いで中へ入った。暫くしてやっと、目が堂の中の暗がりに慣れた。裸足の僧が少し重そうに屋根に届きそうなほど高いマニ車を回していた。マニ車の上に付けられ鈴が揺れて、澄んだ音を立てていたのである。
 その後で、ジンメイは厨子の中に、菩薩の絹に包まれた体と、長い時の中で黒ずんだ金の顔を見た。

 ジンメイは僧に言った。
 「もとの菩薩の姿が見たいんですが」

 その僧は笑みを浮かべて両手でバツを作った。だが口は開かなかった。

 「オレは菩薩が見たいんです。オレが夢に見たのと同じ姿か、見てみたいんです」

 僧の笑顔は更に優しげになったが、やはり口を聞かなかった。

 「菩薩は、オレをケサルの語り部にしようとしているようなんです」

 僧は何も言わず、またあの重いマニ車を回しに行った。鈴の音がチリンチリンと響いた。

 鈴の音はジンメイの頭の中へと落ちて来た。まるで露が一粒一粒これから開こうとする花のつぼみの上に落ちているかのように。

 ジンメイが寺を去り、清々しい風が顔をなでる麦畑の中を歩いている時、草採りをしている女が彼に言った。

 「あたしたちのラマは口を聞かないんだよ」

 「口が聞けないのかね」

 「修行の間は口を聞かないのさ」

 「また会いに来るよ」





阿来『ケサル王』㊸語り部 古い寺

2014-04-09 01:43:28 | ケサル
語り部:古い寺 その1




 ジンメイの夢に不思議な変化が現れた。

 これまで、途切れ途切れの夢の中で、ジンメイはずっと傍観者だった。彼の言い方によれば、映画を見ているようだった。だが、夢に観音菩薩が現れるのを見た時、彼はもはや傍観者ではなかった。
 自分自身が夢の中に現れるのを見たのである。
 更に奇妙なのは、彼はなんとジョルの傍まで駆け寄って大声で叫んだのだ。

 「知らないんですか。この方は菩薩様ですよ」

 ジョルは湖を眺めたままぼんやりしていて、まるで相手にしなかった。菩薩には見覚えがあるようにも思えたが、どこで会ったのか、すぐには思い出せなかった。後になって、少しずつ昔の天上での様子を思い出すのだが、だがこの時は、どんなに考えても思い出せなかった。

 ジョルが座ったまま動かないので、ジンメイは焦りのあまり本当に空に飛び上がった。しかも、雲の上で菩薩に追い付いた。たが、護衛の天の兵士に大声で止められた。

 菩薩は言った。この者をこちらに来させて話をしよう。

 ジンメイはびっくりして五体を投げ出し、柔らかい雲の上にひれ伏した。体の下の雲がそこだけ抜け落ちてしまいそうな気がした。

 菩薩は言った。
 「お前は落ちることはない」

 雲は本当に沈まなくなった。菩薩は言った。
 「もっと近くに来なさい。なぜ話をしないのだ」

 ジンメイは自分の口ごもった声を聞いた。
 「菩薩様のお姿は寺にある像と違っています」

 「像はどれも同じではないと聞いている」

 「聞いている?では、菩薩様は寺に行った事はないのですか」

 「寺?煙でいぶされ焦がされてしまう。行って何をするのだ」
 
 羊飼いはむきになって言った。
 「でも、菩薩様がジョルに寺を建てろと言ったのをはっきりと聞きました」

  菩薩は意味ありげに微笑み、何も言わなかったが、その傍らで威厳たっぷりな声がした。
 「こら!そのようなことを聞いてはならぬ」

 羊飼いはびっくりして雲から落ちた。驚いて一声叫んで、地上でもがきながら目が覚めた。

 周りは静かだった。
 羊の群れは草を食み、藍色の湖の上を白い鳥が飛んでいた。ジンメイはゆっくりと目覚めると、残念な思いで胸が一杯になった。ずっと夢の中にいられたら、菩薩様のそばにいられたらどんなにいいだろう。だが、彼は部屋からボロボロの袋を投げ出すように、自分を夢の中から投げ出した。

 その頃、ジンメイは益々頭がぼんやりして、村で人に会うごとに言った。
 「オレは見たんだ」

 「めくらのくせに何が見えたって言うんだ」

 「菩薩様を見た」

 「菩薩に会いたかったら寺へ行けばいいじゃないか」

 「本物の菩薩様だぞ」

 これには誰も何も言えなかった。ただ肩をすくめてこう言うしかなかった。
 「可哀想に、頭がおかしくなったようだ」

 頭のおかしな男はなんと又こう言った。

 「物語の中の少年ケサルにも会ったぞ!」

 彼の耳にははっきりと英雄物語を語る馴染みの旋律が響き始めた。
 「オレは聞いたんだ」言うと同時にジンメイの口から誰もがよく知っている前口上のはやし言葉が口をついた。

 ルアララムアラ ルタララムタラ

 みんなは大笑いした。これは証明にも何もなっていない。
 カムの草原では耳のある者はみなこの英雄物語の始まりのはやし言葉を知っている。人間だけではない。とがったくちばしで木の幹をつつくキツツキでさえよく似た旋律を出すことが出来る。

 タタ――ララ――タラ――タ!

 ジンメイは顔を赤く膨らませて反駁した。
 「それとは違う」

 みなはどっと笑った。
 「聞いたか、こいつは人とキツツキは違うと言っているぞ」

 キツツキは驚いて柏の木から飛び立ち、風車のように羽根を旋回させながら、遠くの山へ飛んで行った。
 それは縁起の良い山だった。地上では花が咲き乱れ、きらきら光る水晶が地下で成長していた。まるで物語が一人の語り部の心の中に蓄えられているかのように。

 このはやし言葉を始まりとして、英雄物語の語り部は空を仰いで神々の名前を呼ぶ。もう何回になるだろうか。
 語りのはやし言葉が耳のあたりを揺蕩うと情景が定まる。その時顔を上げて空を見ると、上空の気流に乱されて流れ雲が様々な猛獣や神々の形へと変わっていく。これらの形を持ったものが彼の頭の中を好き勝手に走り回り、静止した虹と暴走する雷が同時に現れる。

 物語!

 だが、彼の頭の中で物語の輪郭は朦朧としている。夢で見て、それからずっとぼんやりと聞こえているのだが、綿々と続く複雑な物語をきちんと語ることができないのだ。だから、みんなには彼を嘲笑する理由がある。夢の中でさえ、人々のなんの悪意もない嘲笑が聞こえて来るのである。

 人々はその場を離れ、馬に乗って去って行った。雅壟河の岸に沿って暫く疾走し、河の流れに沿って円を描くと、視線から消えた。
 ジンメイはがっかりして心が空っぽになった。

 自分自身でもはっきりと見分けられなかった。この情景は夢の中で見たのか、それとも馬に乗った人の群れが消えた後、夢を見始めたのか。だが、現実であれ夢であれ、その時の情景はありありと目に浮かぶ。

 人々が長い裾をたくし上げ、馬に飛び乗り走り出すと、胸元に吹きこんだ風で上着が膨らみ、背中がはちきれそうに見えた。その後で、琴をつま弾く金属的な音が響いたかのようだった。
 草原にはあちこちに散らばった羊の群れと、浅い沼地に反射するきらきらした日の光だけが残った。草の上に寝転がり、片目で空を流れる雲が変化していくのが見えた。

 心の中に何かが湧き上がって来るのを感じ、千年伝わって来た古い歌のはやし言葉を再び口ずさんだ。

 ルアララムアラ、ルタララムタラ

 超常的な視力を持つ右眼を覆い、失明した左眼を太陽に向けると、幾筋もの色とりどりの光が啓示に満ちて射し込んでくるのが見える。
 ジンメイは眠った。だが片目は閉じられず、変化する流れ雲は一瞬五色に輝いた。

 彼は言った。
 「菩薩様、あなたに会いたいです」

 だが、菩薩は現われなかった。







阿来『ケサル王』㊷物語 菩薩

2014-04-01 23:38:33 | ケサル
物語:菩薩 その2




 その時、一枚の光の壁がジョルと山の下へとゆっくりと流れていく血の塊りの間に降りて来た。汚れた血は鼠の鳴き声のようにヂューヂューと音を立て、あっという間に沸き返り、消えた。
 

 観音菩薩がその光の中から現われた。
 中空の蓮の花の上に静かに座っている。

 ジョルはそれが誰なのか知っているようにも思えた。だがあえて尋ねた。
 「あなたは何者ですか」

 「私は遥か遠くからお前に会いに来た」

 まるで誰かに引っ張られているかのように、ジョルは知らぬ間に手を挙げ、天を指さした。

 菩薩は微かに笑うと、語気を一変させて言った。

 「お前は多くのものを殺しすぎる」

 「やつらが無数の人間を食い、この世界を荒らしまわる妖魔だということを知っているのですか」

 「知っている。私はお前に殺すなと言っているのではない。だが、今のように勇み立ち、商人が金を見た時と同じように喜んで殺してはいけない」

 「どういう意味なのかよく分かりません」

 「それはとても難しいことだ。衆生ために妖魔を滅ぼさなくてはならず、だがまた、妖魔に対して憐みの心も持たなければならないのだ」

 「それが何の役に立つと言うのでしょうか」

 「衆生を善に向わせるためだ」

 ジョルは笑った。

 「老総督の近くに現れた僧もあなたと同じようなことを言っていました。僧たちはあなたの信者なのですか」

 「人は誰でもすべてを悟る仏法の信者になることが出来る」

 「では、お帰り下さい。老総督と共にいる髪を剃った二人の信者を、私は好きではないのです」

 「なんと言った」

 「彼らを遣わしてリンの王にするつもりなのですね」

 「彼らは人々の心に慈悲の種を撒こうとしているのだ。田を耕す農夫のように。王になることない」

 「彼らはなりたいと思っているのです」

 菩薩は空から降りて来た。
 地上に足を着け、まだジョルの前まで辿り着かないうちから、ふくよかな香りが顔を撫でた。菩薩は深く息を吐いた。

 「私はこのために来たのだ」菩薩は言った。
 「近くへ来なさい。お前と話したいことがある」

 リンの民に仏の教えを伝えようと誓いを立てたあの二人の僧は、上はの首領から、下は黒い頭の民たちまでが篤く崇めたため、思わず支配欲を生じてしまった。
 本来神は、神の子を地上に降し、多くの法力を与えて魔物たちを一掃させ、殺戮が収まった時、僧を人々の前に現わし、その心に善良の種を撒かせようとのお考えだった。
 僧たちの現れるのが早すぎたのかもしれない。荒れ果てた地に身を置き、期待をこめて蒔いた種の成長が見えず、彼ら自身の心に荒れ草の芽が芽生えたのだろう。

 菩薩は言った。
 
 「ここを行き来する隊商から再び石の税を取りなさい」

 「石の砦はもう必要ありません」

 「砦ではなく、寺を作るのだ」

 「寺?誰が住むのですか」

 「仏と仏の教え、そしてその教えを伝える僧たちだ。僧たちはいつまでも俗人の中に混じっていてはいけない。彼らもまた生身の人間なのだから」

 ジョルは、一方でこの者は何のために自ら現われたのかと訝り、一方では既にうなずき、その言葉を聞き入れていた。
 菩薩は更に言い渡した。

 「寺はこの世の穢れから離れた所に建てなくてはならない。王の砦のように広い道の傍らに建ててはならない」

 「なぜでしょう」

 菩薩は答えなかった。答えるのは難しかった。
 人の心を耕して福の田となす者を、何故人の群れから遠ざけ、深い山の中に隠棲させるのか。
 菩薩はジョルに告げなかった。ジョルが身につけた神の力は人の世に降る時に天の諸仏が彼に授けたものなのだということを。

 別れ際に菩薩は言った。

 「私が現われるのは人々に何かを悟らせるためだ。私が思うに、お前もそうなのではないか」

 ジョルは言った。

 「昔のことがふと浮かんでくるようなのですが、すぐに漠然としてしまうのです」

 「では何かを悟ったのだな」

 「何かが分かったのか、という意味ですか、あなたは…」

 「菩薩と呼びなさい」

 「菩薩様のおっしゃたことは分かりました。では、私はこれから先、笑いながらではなく、涙を流しながら妖魔を殺さなくてはならないのですね」

 「いつかお前は涙を流すようになるだろう」

 ジョルは笑った。

 「以前ここに、無限の力を持つパドマサンバヴァ大師が来たと聞きました。リンの妖魔を退治し、だが突然帰ってしまったそうです。菩薩様、あなたが何か言ったからなのですか」

 菩薩は思った。
 今日は並外れて聡明であり、同時にかたくなで道理を知らない相手に会ってしまった、と。相手をしても徒労に終わるだけだろう。
 菩薩は蓮華の座に坐って雲の上へと昇って行った。だが菩薩の声はジョルの耳元で響いた。

 「未だ機縁が至っていない。これ以上話しても無駄だ。機縁が至った時にまた会おう」

 言葉が終わると同時に姿も消え、湖にはただ虹が懸かっているだけだった。
 虹を見つめながら、神の子は、心の中の何かが菩薩の言葉によって呼び覚まされ、突然周りが見知らぬ世界のように感じられた。

 神の子は思った。

 「リンに来てもう12年になる」

 そう言ってから、はっと気付いた。

 「何故今、自分がリンに生まれたと言わずに、来た、と言ったのだろう」

 天から菩薩の声が伝わって来た。

 「そのことを良く考えなくてはならない」