塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

ドキュメンタリー『ケサル大王』上映とトーク

2015-03-30 21:36:47 | ケサル


ドキュメンタリー『ケサル大王』の上映が3月28日から渋谷UPLINKで始まりました。
http://www.uplink.co.jp/movie/2015/36219

宮本神酒男さん、麻田豊さんのトークは短い時間ながらとても充実したものでした。

4月1日は、私が阿来のケサルを少しお話させていただきます。
役不足ですが、阿来の魅力を語りたいと思っています。

宮本氏 麻田氏のトークの内容については、出来ればまとめて「Ksaer Note」に載せたいと思っています。
お楽しみに。

待ちきれない方は、ケサル大王のfacebookで、その雰囲気を感じてください。








阿来『ケサル王』 96 語り部:道の途中

2015-03-20 01:54:03 | ケサル
語り部:道の途中 その4




 「タンマがジャンの国の最後の大将ツェルマ・クジェを倒したのじゃ。タンマの考えに従ったから、リンの兵たちは河に沿っては行かなかった。簡単に行く手を遮られてしまう谷を通らないですんだのだ」

 老人は切り立った谷の両側の高い山を指さした。
 下から見上げると、頂は剣の様に鋭く尖り、天を突き刺している様に見える。

 だがこの地を良く知る者はみな、山の上は平らにひらけた高山の草原で、馬を駆って思いのままに走り回ることが出来るのを知っている。
 そこで必要な時が来たら、谷間の攻撃目標に向かって大軍が洪水の様になだれ込むのである。

 老人はジグメを連れて山の中の村へとやって来た。
 そこではどの家も砦のような姿をしていた。

 老人の家もこの村にあった。

 金沙江は窓の外の崖を勢いよく流れ、家の周りの畑にはジャガイモとソラマメが花を咲かせていた。
 ここは河の音と花の香りに包まれた村だった。

 老人の一家はちょうど一休みしているところだった。
 顔は垢で汚れているが輝く目をした三人の子供、物静かな男、わずかに疲れの見える中年の女性。
 彼らの顔には静かな笑みが浮かんでいた。

 ジグメには、三世代の仲の良い家族に思えた。

 老人はジグメの様子からどう感じたのかを見抜き、言った。
 「これはワシの弟、これはワシと弟共有の女房、そしてワシらの子供だ。長男は出家してラマになった」

 老人は言った。
 「なあ、お前さんも同じ族の仲間だろう。なんでそんなに不思議がるんじゃな」

 ジグメはきまり悪かった。
 自分の生まれた村にも兄弟が一人の女を妻として共有する家はあった。それなのに、やはり驚きの表情を隠せなかったのだ。

 幸い、老人はこの話をそれ以上続けなかった。
 老人が扉を開けると鉄を打つ作業部屋が現われた。

 鉄を焼く炉、羊の皮のふいご、厚い木の作業台、やっとこ、かなづち、やすり。
 部屋には、成形した鉄器を焼き入れする時に立ち昇る水蒸気の匂い、砥石車で刀剣の歯を磨く時に辺りに飛び散る火花の匂いが充満していた。

 他にも、形になっていない鉄、半製品の鉄が部屋中に散らばっていた。

 窓と反対側の木の棚には成形された刀剣が大きなものから小さなものへと順に並べられ、冷たい光を放っていた。

 老人はジグメが口を開く前に、彼の想いを察して言った。
 「そうだ、ワシらは一代一代この仕事をして来た。ケサルの時代からじゃ。
  ワシの家だけではない。村中のすべての家がそうだ。
  ワシらの村だけではない。河に沿ったすべての村がそうなんじゃ」

 老人の目には何かを失ったような表情があった。
 「だが今、ワシらは矢尻を作らない、刀も戦場で使われることはない。
  偉大な兵器は農民や牧民の鍛冶屋に変わってしまった。
  ワシらは観光局から注文されたものを作るだけの鍛冶屋なのじゃ」

 老人はジグメに短刀を贈った。
 少し曲がった柄、中指より少し長い刀身。ケサルの水晶刀の姿を残したものだという。

 ジグメは言った。
 「オレは、水晶で出来た刀かと思っていたよ」
 老人は水と風でピカピカに磨いたばかりのメガネを指して笑った。

 「ワシはお前さんが好きだ。ジグメという仲肯が気に入った。お前は、自分の語る物語に疑問を持っていて、何でも分かっているという振りをしないからな」

 「おじいさんも鍛冶屋じゃないみたいだ」







阿来『ケサル王』 95 語り部:道の途中

2015-03-15 03:20:25 | ケサル
語り部:道の途中 その3



 「ケサルの物語を、どうしてそんなにたくさん知ってるんだ。もしかして、おじいさんは仲肯か?」

 老人は答えず、立ち上がって前を歩いた。ジグメの前を歩いて、小さな山の上に着いた。
 金沙江の支流が谷間を勢いよく流れていた。

 砦の跡が一つと、今にも壊れそうな土を固めたいくつかの壁が、当時ギャツァがリンの南の境界に作った城塞の跡だった。
 地面には赤い塊りがたくさんあった。ずっしりと重い石のような、だが、完全な石ではないもの。

 老人はジグメに教えた。
 これは城塞の基礎。これは精錬した鉄鉱石。

 城塞を築く時、製鉄の技に通じた兵器は、溶かした鉄と、半分溶かした鉄鉱石を、深く掘った壁の土台に流し込んだ。
 冷えて固まった土台は比べようもなく堅固だった。

 二人が立っているこの丘から固い灌木の茂みを通り、長い壁がうねうねと低地まで続き、その後、向かいの更に高い丘へと登って行く。
 その丘の頂にも、さらに高く聳える廃墟があった。

 丘の上には強い風が吹いていた。
 二つの丘の間には低地が広がっていて、かつては古代からの道が通じていた。
 今そこは長い間耕されてきた一面の畑になっている。

 老人は言った、この丘とあの丘にある遺跡はギャツァの城塞の両翼だ。間の低地に城塞の中心があった、だが、今そこには一つの石も一本の木も残っていない。

 老人は腰を下ろすと言った。
 眼鏡は水で磨いた後、風で磨かなくてはならないのだ、と。

 「お前さんが仲肯なのは分かっている。だからここにある本当の姿を見に連れて来たのじゃ。お若いの、どう思うね」

 「物語の中のリンの国は大きかった。まるでこれが世界の全部じゃないかと思えるほどだった。今これを見ると、それほど大きくなかったのかもしれないな」

 ケサルが生まれたアッシュ高原からマニゴンガに向かい、雪山を超えてデルゲに着き、そしてここまで来た。途中休み休みしながらも十日間歩いた。

 老人は真面目な顔で言った。
 「それはリン国が始まったばかりのことだ。その後大きくなっていったのじゃ。
  ここから出発し、金沙江の両岸をずーっと下って、リン国の大軍は南にある魔王サタンが率いるジャン国を征服した。じゃから、南方の境界はずっとずっと遠くになった。
  そこでは冬でも草原に花が咲き乱れているそうじゃ」

 「その時には、ギャツはもうこの世にいなかった」

 老人の顔には激しい不満の表情が浮かんでいた。
 「そうじゃ。ギャツァこそリン国で誰よりも戦略に長け、だれよりも強い忠誠心を持った大将だった」

 「なら、ジャン国に出征した時、兵や馬はだれが指揮したんだろう」

 老人はジグメをジロリとにらんだ。
 「お前はラジオの中で語った仲肯じゃろう。お前さんの語りはなかなか良かったぞ」

 「でも、今、頭の中がすっきりしなくて」

 老人は磨いてピカピカに透き通った眼鏡をかけた。
 「そうだな、ぼんやりした顔つきじゃ。神様はお前から離れようとしていなさるのかもしれん。何か、神様が嫌がることをしたんじゃろう」

 「それもわからない」

 「さっき、ワシに何か尋ねたな。そうじゃ、ジャンに出征する時誰が指揮したか、だったな。
  教えてやろう。ジャンはワシらの大英雄ギャツァを恐れていた。もし、ギャツァが生きていたら、奴らはリン国の塩の海を奪いには来られなかっただろう」

 ジグメはまた同じことを聞いた。
 「塩の湖はどこなんだ」

 塩の湖はもちろん東北の草原にある。
 だが塩の湖に行くには、ジャン国の軍隊はここを通らなくてはならない。
 老人の興味は地理にはなく、誰がリンに一番忠誠かということだった。

 ジャンは塩の湖で敗れ、若い王子はホル国からリンに下った将軍ジンバメルツの捕虜になり、その後、リンの大軍が南下しジャンを討伐した。

 老人は言った。
 「ギャツァを除けば、一番忠誠な大将はタンマじゃ。
  ジャンへ遠征した時のタンマの手柄は誰よりも大きかった」















阿来『ケサル王』 94 語り部:道の途中

2015-03-10 11:42:02 | ケサル
語り部:道の途中



 静止していた画面も目の前から消えた。
 頭の中がぼんやりとした。

 故郷で自分に何かを教えようとした活佛の話を思いだした。活佛はこう言ったのだ。

 「目で外側を見てはいけない。自分の内側を見るのだ。すると、物語が出て来る場所がある。それを泉のようだと想像してみる。その泉が絶えずこんこんと湧き出でていると想像してみるのだ」

 彼は目で内側を見た。これは簡単だった。
 意識を頭に集中すると、光が束となり、暗い内側を照らした。

 だが、光の届いた場所もやはりぼんやりとしていた。
 一面の霧の中を行く人のように、目に入るのは茫漠とした世界、その先もまた茫漠だった。

 途中、ジグメの麻痺した頭はずっと思っていた。
 「黒いジャンが塩の海を奪う、黒いジャンが塩の海を奪う」
 だがたったこれだけだった。

 自分が語ったことのある物語さえ思い出せなくなっていたのである。

 途中、彼は穏やかな顔つきの老人に会った。
 老人はメガネのレンズが曇ったので、腰を下ろして忍耐強く磨いているところだった。老人はジグメに尋ねた。

 「何か悩んでいるようじゃが」

 「もうだめです」

 老人は泉の涌き口から立ち上がり言った。
 「もうだめか。そんなことはないだろう」

 老人はジグメを道端の岩の壁の傍へ連れて行った。
 「ワシは眼鏡をかけないとよく見えないんじゃが、お前はまだマシだろう。何が見える?」それは腕ほどの太さの円柱が固い壁に開けた一本の溝だった。

 その形は男性の性器によく似ていた。

 だがジグメそれを口に出せなかった。
 「そんなこと、恥ずかしくて…」

 老人は大笑いして言った。
 「下品か。神様は毎日お上品なことばかり聞いていて、それで下品ことが聞きたくなるのじゃな。ほれ、これはお宝の跡じゃ。並の大きさじゃないお宝だぞ」

 老人はジグメに物語を語った。
 あの時、ケサルは魔国にあまりに長く留まりすぎた。リンに帰る途中で心配になった。
 長い間、日ごと琴に合わせて歌い、夜ごと酒をのんでばかりだった、自分のお宝にまだ勢いがあるだろうか、と。
 そこで、すぐにモノを取り出して試した。

 こうして、岩にそのはっきりした跡が残った。

 老人はジグメの手を引っ張って、微妙な形をした跡にしっかりと触れさせた。
 そこは、何千何万回と撫でられために滑らかで艶々していた。

 それから老人は言った。
 「今家に帰れば、種馬みたいに元気いっぱいじゃ」

 言い終ると振り向きもせずに泉へ眼鏡を洗いに行った。

 ジグメは笑った。自分は下がダメなのではなく、上がダメになのに。

 ジグメは老人の傍に戻り言った。
 「オレは塩の湖に行きたいんだ」

 「塩売りたちは何時も何人かで隊を組んで出掛けるぞ。たった一人で、塩の湖に行って何するんじゃ。それに、塩の湖はたくさんある。どの湖に行きたいのかね」

 自分の声が低くなっているのが分かった。
 「ジャン国の魔王サタンがリンから奪おうとした湖だ…」

 目の悪い老人は耳が良く、ジグメの低い声を聞き取った。
 老人はジグメに言った。
 
 ここは昔ギャツァが守っていた場所だ。塩が採れるしょっぱい湖はここからとても遠い。リンの一番北だ。そこにはしょっぱい湖が星のようにたくさんあって、ジャン国の魔王が奪おうとしたのがどれなのかは誰も知らない、と。

 老人はため息をついた。

 「もしギャツァが死ななければ、ジャンの国王は塩の湖を奪いになど行かなかっただろうに」



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KESARU NOTE
ギャツァの死をめぐって  他
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阿来『ケサル王』 93 語り部:道の途中

2015-03-04 21:01:08 | ケサル
(今回から主人公ジンメイをジグメに、愛馬ジアンガペイフをキャンガペルポに変えました
英語版の表記に合わせました。しばらく混乱すると思いますが、よろしくお願いします)


語り部:道の途中




 語り部ジグメは放送局を出てからずっと独り言を言い続けた。
 「恥ずかしい。会わせる顔がない。」

 ジグメは自分があのスタジオの中の女性を好きになったとは思っていない。
 違う道を歩いている二人がどうしてお互いを愛せるだろう。

 彼を惑わせたのは彼女の曖昧な声、彼女の体から立ち昇る特別な香りだった。
 それが彼を媚薬のように迷わせたのだ。

 長い道のりを歩きながら、ヤンジンドルマも自分を愛していたことを思い出した。
 彼女が自分より太く荒れた手で彼に茶を飲まそうと部屋に引っ張って行ったことを思い出した。

 歩きながら彼女の口ぶりを真似てやさしく言った、「来て」。
 また彼女の恨みをこめた口ぶりを真似て言った「チッ!」

 こうして歩き疲れ、渓流のほとりの草の上に横になってぼんやりしていた。

 昼過ぎ二台のジープが渓流のほとりで一旦停まり、そのまま流れの中まで乗り入れ、水を汲んでは車に積もった埃を洗った。
 水晶のような水のしずくがあたりに飛び散った。

 車を洗い終わると、きちんとした身なりの男女たちは水を掛け合った。
 楽しそうな笑い声に、すぐ近くで死んだように横たわっていたジグメは、世界の外側に置き去りにされているかのような気分になった。

 びしょびしょになった男女は、最後には疲れて静かになり、座って服を乾かした。
 彼らは当然ジグメを見たはずだが、まるで目にしなかったようにふるまった。

 ジグメは立ち上がってここを去ろうかと考えたが、やはり地面に横になったままじっとしていた。

 この時誰かが運転手にテープをかけるよう頼む声が聞こえた。
 運転手がどのテープを聴きたいかと尋ねると、誰かが答えた。
 「ケサル」

 ジグメは彼らが話しをはっきりと聞いた。
 「ジグメがラジオで語ったケサルにしよう。録音したばかりの新しい語り、“ジャン国が北に行って塩を奪う”がいい」

 テープレコーダーから語りが流れてきた。
 ケサルとジャン国の魔王の対決である。

 二人は陣の前に馬を繋ぎ、問いを出しそれに答えるという、なぞなその形で遠く近く連なる山々を褒め称えながら、それらの山々の姿を伝え、美しく飾り立て、由来を詳しく語った。

 ジグメ自身も語りに引き込まれ、自分が異なった声で、それぞれに訳を演じるのを聞いた。
 始めの一句は相手を困らせる謎掛け役の、次の一句は得意洋々とした謎解き役の言葉である。

  ウォン――
  
  最も近いあの山は
  若い僧が香を持ち、経机の前にいるようだ
  この山の名はなんという

  ウォン――
  若い僧が香を持つのはインドの檀香山!

  ウォン――

  平らな岩の層が堅固に天に向かっている
  まるで旗が風を受けて翻っているようだ
  この山の名はなんという

  ウォン――
   旗が折り重なってはためくのはワイウェイグラマ山!

  ウォン――

  仙女が黄色い帽子をかぶり
  美しい霞を肩掛けにして雲間に立っている
  この山の名はなんという

  ウォン――
  仙女が黄色い帽子をかぶるのは山々の間に高く聳え立つチョモランマ山!

  ウォン――

  険しい山の後ろはゆるやかな斜面
  国王がたった今位に着いたかのようだ
  幾層もの石段が旋回しながら空に登って行く
  この山の名はなんという

  ウォン――
  それは東と西の境を区切るネンチンタングラ山!

  ウォン――

  山々の間に平野が開け
  険しい峰は雲を突き抜ける
  まるで象が平原にいるようだ
  この山の名はなんという

  ウオン――
  平原を象が行く、それは漢の峨眉山!


 ジグメは笑った。
 この二人は戦いに臨んむ大軍の首領には見えず、学問を戦わせるラマのようだ。

 彼は思った。
 一人でこのすべてを真に迫って語れるとは、なんと素晴らしい人物だろう。
 彼はこの考えに酔いしれていた。

 彼の前に、終には自分の姿が現われ、映画のシーンのような古い物語の中を自由自在に行き来した。

 この時、ジープが再び動き始め、あの語りの声は徐々に小さくなり、どこまでも続く静けさが再び戻って来た。
 
 語りの声が消え去ると、目の前にあった幻影はピタリと止まった。
 その中に入って、生き生きとしたシーンを続けて語りたかったが、画面は静止し、止まったまま、色と輪郭をゆっくりと失っていった。

 ジグメは驚き恐れている自分の声を聞いた。
 「だめだ、だめだ」



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ギャツァの死をめぐって  他
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ドキュメンタリー『ケサル大王』、渋谷アップリンクで一般上映!

2015-03-04 20:20:32 | ケサル
ケサル物語の最大の山場、ホルの戦いが終わりました。
阿来の『ケサル王』は実はこれから独自の世界へ入って行きます。
物語とは何か、真実を求めるとは何か…
お楽しみに!

今回は、ドキュメンタリー映画『ケサル大王』の一般公開のお知らせです。

     ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆


ドキュメンタリー映画『ケサル大王』 監督:大谷寿一

 日時:3月28日から3週間
    (時間は日によって変わるようです)
 場所:渋谷アップリンク  http://www.uplink.co.jp/


     ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆




《以下は監督のFacebookでの言葉
 新たなケサルが登場しそうです》


御陰さまで『ケサル大王』が渋谷のミニシアター「アップリンク」で法王来日に合わせるように
3月28日(土)から一般公開されることになりました。
3週間、午前中に、『天空の大巡礼を行く』も週末に併映される予定と聞いています。

アップリンクは『風の馬』『雪の下の炎』を上映、『オロ』公開の際はチベット映画特集も行っています。
『ケサル』もその系譜に繋がることができました。
これまで応援し、見守って下さった皆様に感謝いたします。

チベット問題に造詣の深い酒井信彦氏は
「重い内容を分かりやすく見せている。広く見られることを望む」
とご感想を述べられました。
長年従事して来たテレビ番組の制作方法、いわばテレビ的な作りをして評価されたと思います。

2011年、秩父神社での初公開は全編字幕でした。
今回の上映では、分かり易く、より映像的な、「マスではない」
数十人の観客の心に残る『ケサル大王』に挑戦してみたいと思います。

FB「ケサル大王」からも最新情報を発信します。よろしくお願いします。
https://www.facebook.com/pages/%E3%82%B1%E3%82%B5%E3%83%AB%E5%A4%A7%E7%8E%8B/419486081451560







阿来『ケサル王』 92 物語:国王帰る

2015-03-02 03:29:13 | ケサル
物語:国王帰る その2





 ホルを追われた野生の馬の中に数頭の非常に美しい雌馬がいた。
 魔国に着いてすぐに、キャンガペルポはその虜になった。

 間もなく、雌馬たちとキャンガペルポは一時も離れがたいほど親密になり、魔国の雌馬たちはキャンガペルポを移り気だと嫉妬した。

 ホルの馬たちは魔国に数日いただけで耐えられなくなり、故郷の塩の湖を懐かしみ、キャンガペルポを取り囲むようにして魔国の中心からはるか離れたホルとの境界へと向かった。

 不思議なことに馬たちは、朝日の昇る前に草の露を啜るだけで、魔国の至る所に湧き出でている澄んだ泉の水を飲もうとはしなかった。
 雌馬たちに尋ねても、媚びた素振りをするだけで、水の問題については何も教えようとしなかった。

 辺境の砂地に来ると、そこには泉はなく、キャンガペルポの頭は徐々にはっきりして、こうしていては主人からどんどん遠ざかってしまうと気付き、急いで戻ろうとした。

 「どうしてご主人様の元へ戻るの」

 「主人が妖怪や敵を倒すのを助けるのだ」

 「ここの風は爽やかで気持ちがいいわ。考えてみて、あなたのご主人様が、あなたに乗って草原を走り回らなくなって、何年になるのかを」

 この時一陣のそよ風が砂地の深いところから吹いて来て、キャンガペルポはっきりと目覚め、思わず叫んだ。
 「リンの国を離れてすでに六年だ」

 その言葉に、野生の馬の群れは彼に別れを告げた。
 「ここには長く居られない。塩の泉の味が懐かしくて、故郷を思わずにはいられない。ここでお別れしましょう」

 キャンガペルポは別れを悲しんだ。
 「ボクを愛してたんじゃないのか」

 野生の馬は遠くへ去って行った。
 最も美しい目をした雌馬が振り返って言った。

 「あなたはリンに戻りなさい」

 キャンガペルポはリン国に戻ったが、そこで目にしたすべてが彼の心を傷つけ、自分と主人ケサルのために悲しんだ。自分と主人が天から降ったことは、何の意味もなかったのだろうか。

 キャンガペルポはもう一度魔国に戻ると、ホルの野生の馬を真似て、花や草の露だけを口にし、清らかに響く澄んだ泉の水を見ても見ぬふりをした。
 
 キャンガペルポはこれまで主人の前で人間の言葉を話さなかったが、今は、一歩進むごとに思いを口にしたい気持ちが高まっていった。

 下界に降ったのは何故かなのか、
 忘却の泉の力はなぜこのように強いのか、
 主は一切の毒の杯を清める呪文を学んだのに、なぜ自らは魔国の忘却の泉に犯されてしまったのか、
 神はまだ啓示をお示しにならないのか…

 天馬が進み、涙を落とした場所に、泉が湧き出した。その時、魔国にもともとあった泉はすべて涸れてしまった。

 おかげで、キャンガペルポが鉄の城に付く前に、ケサルはすでにはっきりと目覚めていた。

 愁いの雲が再びリン国を覆っているありさま、
 トトンが意気揚々と横暴に振る舞い、人々が大人しくそれに従っているありさま、
 自分の人の世の父がトトンに代わって忙しそうに貢物を受け取っているありさまを知った。

 更に、クルカル王の王宮では、それまで愁いに表情を曇らせていたジュクモが新しく生まれた子供に笑顔を表しているのを知った。

 キャンガペルポは胸一杯に恨みを抱いていたが、主人の顔を見て、まだ口を開かないうちから主人が熱い涙を流しているのを目にすると、自分もまたぽろぽろと涙を溢れさせ、言葉にならなかった。

 アダナムとメイサが現われた。
 ケサルは言った。
 「また邪魔をするのではないだろうな」
 
 二人の妃はそのまま前へ進み、ケサルが馬に乗るのを手伝った。
 アダナムはメイサと違って気丈に言った。

 「大王様が天の命を受けて出発したいと心から願われるなら、お邪魔することはありません」

 魔国を発ち、ケサルはリンには戻らず、直接ホル国へと向かい、ジェツンイシとシンバメルツから密かに手引きを受け、クルカル王と二人の兄弟-黄帳王、黒帳王を殺した。

 ジェツンイシはケサルの妃となり、シンバメルツはリン国がホルを治めるための総領事となった。

 最後にケサルはクルカル王とジュクモの間に生まれた子供の命を一刀の元に絶った。
 ジュクモはケサルに馬に乗せられると、叫ぶように言った。

 「大王様。たとえクルカル王の血を引いてはいても、あの罪のない子供を、私はなによりも愛していました」

 だがこの時、ケサルの心は憐みを抱くはずもなく、腹黒いトトンを片付けようと帰国の道を急いだ。

 リンへ向かう途中で、ケサルにはすでに分かっていた。
 すべての恨みを晴らそうと、一刀の元にトトンの命を奪ったならば、必ずダロン部の強い敵意を招くだろうことを。

 父であるセンロンも勧告した。
 「どうあってもトトンを許さなくてはならない、さもなければ、ダロン部は反乱を起こし、リン国は敵に攻められるまでもなく、自らの足元が大混乱となるだろう」

 トトンもまた自分の罪の重さを知り、跪いて許しを請うた。

 「大王よ、もしワシを殺さなければ、我々ダロン部の優れた将兵も大王の言葉に従うだろう」

 ケサルは心に燃えあがる怒りの炎を憎しみへと置き変え、トトンのダロン部長官の職を取り上げ、辺境に送り馬の放牧をさせた。

 ケサルは心の中で思った。
 この時この人物を殺さなければ、一、二年後、また彼を元の職に戻すことになるだろうと。

 以前にも書いた通り、リンの穆氏の長仲幼三氏族の中で、このトトンはあろうことかケサルの属する幼氏の一統なのだった。

 追放令が出てすぐ、トトンがまだ辺境に到着しそうもない頃、同じ幼系に属する父センロンが、またトトンのために許しを請いに来た。

 「長系と仲系が我々を覗っている。幼系が自ら争いを起こせば、内輪もめが起こるのだぞ」

 まだ天から降りてくる前、神の子は人の世を簡単に考えていた。
 その役割とは、妖魔を倒し領土を広げるだけのこと。

 国王になってこのような面倒と向き合うことになろうとは思っていなかった。

 まず妃たちの寵愛をめぐる争いに身の置き所を失いった。
 そして今、血縁の序列のために賞罰をはっきりさせられないでいる。

 ケサルは首席大臣がどのような指示を出すか待った。

 ロンツァ、センロン、トトンは三人とも幼系の長老である。
 それでも、首席大臣がセンロンの言葉に頷かないようにと、ケサルは願っていた。
 だが、首席大臣は頷いて受け入れてしまった。

 若い国王は冷笑して言った。
 「お前たちは、もし私がいなければ、リン国の幼系は一つに団結出来ると言いたいのだな」

 「そのようなことは申しておりません」
 

 「私がリンに来たのは天下を平定するためだ。だが、お前たちは心を煩わすことばかり起している。
  私は早く天に帰るべきなのか」

 二人の老人は彼の前に同時に跪き、言った。

 「大王様!」




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