塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 110 語り部:塩の湖

2015-06-27 15:55:16 | ケサル
語り部:塩の湖  その1




 語り部ジグメは旅の途中にいた。

 当初歩き始めた時、彼は物語が来るのを待ち、物語を探し求めていた。
 暫くして、物語は彼のすぐ前にやって来た。
 彼が行った所、それは総て物語がすでに起こった場所だった。

 放送局を去った時、彼は、ジャンの国がどのように北上してリン国の塩の湖を奪おうとしたか、まで語っていた。

 まだ何も知らない牧民だったころ、塩の湖について聞いたことがあった。
 その湖では、塩の結晶が自然に生まれていた。

 高原に戻り、起伏する草の間に牛や羊が現われた時、ジグメは車を降り、歩き始めた。
 彼は再び物語を語り始め、すべて初めから語った。

 金沙江の辺りでリン国の兵器の末裔と称する人々と別れた時、物語はまた前に進んで行った。
 ジグメはすでにジャン・リンの戦いを語り終えたが、その時、塩の湖を見たことはなかった。

 彼の故郷、彼の行ったことのある場所では、雪山のふもとの湖の水はどれも飲むことが出来た。
 彼には湖の水が涙のように苦くしょっぱいとは信じられなかった。

 だが、その物語を語った時、この世にそのような湖があるのだと信じた。

 ジグメはジャン・リンの戦いを語りながら北に向かって進んで行った。

 最初に着いた塩の湖はすでに涸れていた。
 牧人たちは言った。もう十年になる。
 湖は少しずつ縮んで行き、今年の夏ついに完全に消えた。最後のわずかな水も太陽に完全に吸い取られ涸れてしまった、と。

 ジグメは湖底に降り、灰色のかさぶたのようなものを手に取って舌先に当てた。
 確かにほろ苦くしょっぱかった。

 これが塩の味だ。
 だが、完全に塩だけの味ではなかった。

 ジグメは、もとの湖岸に住んでいる人、裸麦と菜の花を栽培している人、牛や羊を放牧している人に尋ねた。
 この湖はかつてジャンが奪おうとして襲って来た湖か、と。

 彼らは「そうだ」と答えた。

 彼らは、湖の中のかつては半島だった岩で出来た岬を指さして、あそこにリン国の英雄の馬の蹄の跡や、鋭利な長い刀が切りつけた大きな石がある、と言った。

 彼らはジグメにその跡を見るように勧めた。
 そうすれば自分たちが言ったことが嘘ではないと証明されるだろう。

 ジグメは湖の中へと進んで行った。だがその岬に着く前に、汗が塩と混ざり合い、靴底がボロボロになった。
 それでも暫く進んで行ったが、足の裏が塩に噛みつかれたように痛み、すぐ近くの場所からもとの湖岸に上がった。

 そこはちょうど湖がまだ涸れる前、採塩する人々が住んでいた村だった。

 一人の村人が新しい靴をくれた。
 村人は、足の裏に塗る動物の脂を混ぜて作った軟膏もくれた。
 すぐに、焼け付くようだった足の裏の熱は引いていった。

 ジグメは尋ねた。
 「ここにジャンの子孫はいるかね」

 村人はみな首を振った。

 「ジャンの子孫は、きっといるはずだ。王子ユラトジが降参したんだから」

 ジグメは他所の村人から、この村人はすべて降伏したジャンの兵士の子孫である、と聞いていた。
 ケサルは寛大で、ジャンは塩のためにここに来たのであり、ジャンは国王が戦いで死んだ後、王子と共に帰順しているのだからと、投降して故郷ジャン国に恥じるユラトジに向かってこう言った。

 「兵たちをここに留め、塩を採らせなさい。採った塩はみなジャン国に運べばよい。そうすればお前の民は塩を食べることが出来、お前に感謝するだろう。武力では、私の手から一粒の塩も盗むことは出来ないぞ」

 ユラトジの頭は低く垂れ下がった。心は乱れ、沈黙したままだった。

 ケサルは続けて温かい言葉をかけた。
 「お前の民はお前に感謝するだろう。これからは塩が食べられないと心配しなくてよいのだから」

 ユラトジは塩の含まれていない涙を流し、終に顔を上げた。
 「大王のご恩に感謝いたします」

 こここそ、湖の畔に留まり塩を採ったその兵の子孫の村だったのである。

 彼らは湖の南岸、東岸の耕作地を持った人々とは異なり、また北岸と西岸の広い牧場を持った人々とも異なっていた。
 彼らは世世代々湖の西岸の片隅で塩を採り、南へと運んだ。

 彼らは世世代々水の中で働いた。
 他所の村の人々は、彼らの手と足には鴨のような水搔きがある、と言い伝えてきた。
 また、こうも言った。
 塩を採る人たちの目は黒くない、昼も夜も続く悲しみによって虚ろな灰色に変わってしまった、と。

 この村に本当に水搔きのある人はいない。
 だが、目は確かに灰色だった。
 その灰色は村人の言葉通り、悲しみの色だった。

 今、湖の周りと草原は砂漠化が進行し、湖が涸れてしまったのである。







阿来『ケサル王』 109 物語:モン・リンの戦い

2015-06-20 19:16:56 | ケサル
物語:モン・リンの戦い その7



 シンバメルツが馬を鞭打ちグラトジエに走り寄った。
 「大王の言葉を伝える。大王はそなたの凛々しい英雄ぶりを目にし、なによりもそなたの武芸を愛でられた。そなたに我々に帰順する気があれば…」

 「なんと!」
 グラトジエは罵声を浴びせた。
 「お前は主を捨てた裏切者だ。どのツラ下げてその二の舞を演じよというのか。この弓を受けろ!」

 弓は放たれた。だがこれまでのような力はなかった。

 シンバメルツはグラトジエの言葉に胸をえぐられ、怒りのあまり一層手に力がこもり、返礼の矢を放つと、グラトジエの胸当てを粉々に砕いた。

 グラトジエにとってこの陣形は何匹もの巨大な蛇のようだった。
 纏わり付き、体を締め付けられ、終には天を仰いで長く息をつくと、一声叫んだ。

 「もはやこれまで!」
 そう言うと剣を高く挙げ切っ先を自らに向けた。

 だが、盾を持って取り囲んでいた兵が長槍で彼の馬を突き刺したので、そのまま地に落ちた。

 シンバメルツは再び叫んだ。
 「降るのか、降らないのか!」

 グラトジエは最後の力を込めて叫んだ。
 「降らぬ!」

 言葉が終わるのを待たず、十数本の長槍が迫って来て、もはや抵抗の余地なく、冷たく光る刃が胸に刺さるに任せた。

 シンチ王は王宮からグラトジエと残りの兵がリンの軍隊に取り囲まれ、リン軍が渦巻きのように彼らを飲みこんでいくのを見ていた。
 その凄まじい旋回が収まった時、彼らの姿は消えていた。
 シンチ王は自分が完膚なきまでに敗れたことを知った。

 だが、彼より先に敗れた三人の魔王に比べ、慰めを感じていた。
 重臣が自分を裏切らなかったからである。

 グラトジエの魂が近づいて来るのを感じた。
 シンチ王はこの微かに息づくものを身に着けている袋に収めた。

 「我らは長い年月ともに修練して来た。だがすべては泡となって消え去った。今お前を連れて別の世界へ行き、新たに修練を積もう。そうすれば、再び共に戻って来られるのだ」

 言い終わると、王宮は瞬く間に青い炎に包まれた。
 火の海の中から梯子が立ち上がり、高く伸びて行った。
 魔王は梯子のてっぺんにいた。

 もし、この炎が、彼がこの世界にいた痕跡をきれいに焼きつくし、この梯子がある高さに昇りつめたなら、彼は別の世界へと跳び越えられるのである。

 そして、長い時が経った後、恨みと野心を伴って再び戻って来るのである。

 ケサルは近くの湖の水を丸ごと王宮へと注いだが、その炎は消えなかった。

 シンチ王はハハハと大声で笑った。
 「そなたの力も大したことはないようだな。暇を持て余している神という輩が、自分の気に入った国を手に入れようと、そなたを助けたに過ぎないようだ」

 空一面に雷の音が轟いた。
 まるで「我らはケサルを助けに来た!」と告げているようだった。

 だが、空から降って来たのは雨ではなく、赤い炎だった。
 赤い炎は青い炎を掻き消した。

 それを目にしたシンチ王は、すぐさま梯子を登り始めた。

 この時、ケサルは日と月の力を持った神の矢を抜き出し、梯子に向かって放った。
 矢が三本飛んで行くと、シンチ王は王宮の頂上に降りて来た。

 ケサルがまた一本抜き取ると、シンチ王は叫んだ。
 「そなたの矢のもとでは死なぬ」

 シンチ王は飛び上がった。
 上にではなく下に向かって。

 身に着けた術をすべて封印し、並の人間のように固い石板の上にその体を叩きつけると、その肉は微塵に砕けた。







阿来『ケサル王』 108 物語:モン・リンの戦い

2015-06-17 02:57:12 | ケサル
物語:モン・リンの戦い その6



 その美しさを人々から伝え聞いただけでトトンが涎を流さんばかりに恋い焦がれた公主メド・ドルマも夢を見た。

 南方の空に四つの太陽が現われ、総ての雪山がまるでヨーグルトのように融け始め、女たちは鉄の鎧を着た大軍に北方へ連れ去られて行った。

 モン国の中心の平原では、野草たちがヒューヒューと声を挙げた。それはまるで戦いに敗れた英雄に向かって浴びせられる罵りの声のようだった。

 その後、野草たちはまるで生き物のように体を起こし、立ち去った。

 これらはきっと良からぬ兆候だろうと、公主が不安に感じているその時、一羽のカラスが公主の頭の上を三度旋回し、蜜蝋で封をされた手紙を落として行った。
 それは求愛の手紙だった。
 求婚してきたのはリン国ダロン部の長官トトンだった。

 メド・ドルマは手紙を持って父王に会いに行った。

 「もし私が嫁ぐことで、モン国の危機を救うことが出来るのなら、私は喜んで…」

 シンチ王は、ケサルに修練の洞窟を破壊され、暫く静養してやっと精気を回復したところへ、魂の拠り所である毒の蠍を殺され、体がひどく衰えたのを感じていた。
 だが娘の前では気力を奮い起して言った。

 「国のことは心配しなくてよい。お前をリンに嫁にやったりはしない」

 メド・ドルマは父親の様子にいつものような気概が感じられず、モン国の命運もすでに尽きたと悟った。
 だがその言付けには背けず、ただ一人思い悩むばかりだった。

 まさしくその時、リンの大軍はモンの都城へと押し寄せ、最後の攻撃を仕掛けようとしていた。

 シンチ王はグラトジエに尋ねた。
 「奴らは兵士の戦法を用いようとしているのか、それとも、将軍の戦法を用いようとしているのか」

 グラトジエは力を込めて言った。
 「ヤツらがどのような戦法を仕掛けて来ても、我が軍の戦法は変わりません」

 シンチ王は言った。
 「そなたはここ数日良く戦ってくれた。今こそわしが戦うべき時だ」

 シンチ王は幻術を使って、晴れ渡った空に重く黒い霧を発生させた。
 前進中のリンの大軍は方向を失った。

 ケサルが法力を使って黒い霧を追い散らすと、リン軍の前に現れたのはモン国の軍勢だった。
 この軍勢はザラが以前指揮した布陣を真似ていたが、規模はリン国の数倍にも及んでいた。

 整然と隊列を組んだ兵士が、目に入る限りの平地と丘、更には河の上をも覆い尽くしていた。
 この陣勢を目にした誰もが、モン国のすべての地面が深い呼吸によって起伏していると感じただろう。
 すべての峰が走り回り、総ての湖が寄り集まろうとしているかのようだった。

 だが地上には鎧と武器に身を固めた軍勢以外何も見えなかった。
 村も見えず、牛の群れも見えず、鉱山も見えず、雪の峰も見えず、雨も見えなかった。
 灰色の空から蛇のようにくねって電光が閃いた。

 モン国はこの陣形にすべてを懸け、数十万のリンの大軍をその中に閉じ込めた。
 陣の中へと突入した兵馬はみな姿を消した。

 ケサルはみなに告げた。
 これは魔王の幻術である。慌てることはない。

 ケサルが風を呼び、強く吹きかけると、その布陣は布に描かれた絵のように揺らめき始めた。
 軍の中から一斉に声が挙がった。
 「風だ。もっと強く吹け!」

 だが風は吹かなかった。
 ケサルは言った。
 「哀れなシンチ王よ。最早力尽きたことだろう」

 果たして、この際限なく広がる軍団はほんの束の間姿を見せただけで、昇りはじめた太陽の輝きに晒されると、少しずつ色褪せていき、最後には霧となって消滅した。
 陣の中へと突入して行ったリンの英雄たちはいささかも傷つくことなく再び元の原野に現れた。

 リンの大軍は洪水のように襲撃を繰り返したが、高く聳える王城が姿を消したことに気付かなかった。
 大軍が勢いに乗じて南へと追撃に向かった後、王城は再び彼らの背後に現れた。

 シンチ王は得たりとばかりグラトジエに言った。
 「今こそ、勇士たちを率いて彼らの退路を断つ時だ」

 シンチ王は知らなかったが、ケサルはすでにこの作戦を防ぐ策を講じていた。
 リンの英雄たちが部隊を率いて追撃に向かった後、ケサルはザラを呼んだ。
 「おまえたち先鋒を後衛にまわしたことを恨んではいまいな。今、後衛は再び先鋒となるのだ」
 そう言うと、ユラトジ、英雄タンマ、シンバメルツにザラの陣を援護させた。

 グラトジエは兵を率いて突撃して来たが、待ち構えていたザラの陣に巻き込まれた。
 その陣形は見た所形を成さず、いくつにも分かれた兵の塊が、長い蛇のようにくねくねと並んで、ただ原野を駆け回っているだけのようだった。

 グラトジエが兵を率いて出撃した時、この長い隊列は逃げている様にさえ見えた。
 逃げる速度がどんどん遅くなったので、モンの軍はうっかり長い連なりの隙間に入り込んだ。

 するとその時、リンの兵たちは向きを変え、長槍を振りかざし、盾を構えた。一つ一つの長い縦列が揺れ動き、曲線をつくり、重なり合い、終には旋回を始めた。

 モンの軍隊はその陣の中に囲い込まれた。
 まるで大きな旋風の目に呑み込まれたようだった。

 刃を打ち合う光が収まると、陣中に残ったのは馬に跨ったグラトジエと数人の従者だけだった。








阿来『ケサル王』 107 物語:モン・リンの戦い

2015-06-09 00:18:58 | ケサル
物語:モン・リンの戦い その5




 恥ずかしさのあまり逆上したトトンは目を閉じた。
 人々のあざけりの視線を避けるためではなく、呪文を唱えて妖術を行うためだった。

 だが燃え上がらせた炎はグラトジエによって軍隊の駐留していない山林へと移され、空から降らせた猛烈な霰もまた、グラトジエによって場所を移され、リンの軍営の上で降り始めた。

 「もうよい。英雄たちよ、意地の張り合いは止めにしよう。このところ戦いが難航しているのは、モン国を消滅させる時がまだ来ていないからだ。だが、魔物を倒すべき時が間もなく来ることは、私には分かっている」

 ケサルがこう言ったのは、夢の中で再び天の母のお告げを受けたからである。

 まもなく、魔物を倒すその日がやって来た。

 その日、ケサルは南方の玉の山の麓、グニ平原の最も高い場所に来た。

 天の母の夢のお告げの通り、駿馬の形をした巨岩の上に、天から降りて来たヤクの形の固い石があった。
 上には凶悪などくろが飾られ、新しい人間の腸が絡み付いていた。

 天から降った固い石を軽く叩くと、その音に応えるように秘密の部屋に通じる小さな扉が開いた。
 そこはどのような漆黒の夜よりも更に暗く、じっと目を凝らしているうちに、やっと様子が分かってきた。

 右には九つの頭を持った毒の蠍がいて、それはシンチ王の魂の拠り所であり、左にいる九つの頭を持った怪物はグラトジエの魂の拠り所だった。

 ケサルは蠍を弓で射殺し、怪物の九つの頭を叩き割ると、それらに背を向けて走り去った。
 天の母の言いつけ通り、一度も振り返らなかった。

 天の母はこう告げたのである。
 魔物を殺した者がひとたび振り返ると、毒の蠍と九つ頭の怪物は生き返り、そうなれば、もはや誰も押さえつけることが出来なくなる、と。

 少し前、赤い岩の上の修練の洞窟をケサルの神の矢によって打ち砕かれたため、シンチ王は精気をひどく損ない、宮中の奥深くで暫く療養し、その間、グラトジエがただ一人で応戦していた。

 今、モン国を治める二人の魔物の魂の拠り所が息絶えて、モン国の領土には様々な異常現象が現われた。

 まず、谷間や崖の上に咲いていた人の顔をした花々が姿を消した。
 その花々とは妖魔に喰われ邪神への生贄にされた若い女性の魂が化身したものだった。

 彼女たちは輪廻することが出来なくなり、昼間、崖の上で花開き、夜、その魂は妖魔への生贄として捧げられた。
 今、妖魔の魔力が衰え、彼女たちはみな解脱出来たのである。

 咲き疲れた花たちは長いため息をつき、そのまま頭を垂れるとあっという間に枯れ果て、花の中に宿っていた魂がふわふわと輪廻の道へと旅立って行った。
 その他のやはり輪廻できなかった多くの魂もみな解脱した。

 広い天空はその時、ひしめき合うほどの魂で満たされ、黎明近くになってやっと、輪廻の道はいつもの流れを取り戻した。


 実は、輪廻出来なかった多くの魂の力が二人の魔王の力となっていたのである。
 その夜一晩中、シンチ王とグラトジエは夢を見た。力が自分の体から抜けていく夢である。

 シンチ王は自分が虫に食われて穴の空いたふいごになった夢を見た。
 どんなに力を込めても、充分な風を集めることが出来ず、命の火を吹き上げることが出来なかった。

 グラトジエが見たのも袋の夢だった。
 食糧がいっぱいに詰まった袋の、どうやっても塞ぐことの出来ない小さなほつれ目から、中身が雨のようにさらさらと一晩中漏れ続け、心は逆に絶望で満たされていった。

 朝目覚めると、モン国の領土に様々な不吉な現象が表れ始めた。

 フクロウが白昼にハハハと大笑いした。

 山林がわけもなく燃えあがった。

 竈の上の銅の釜が微塵に砕けた。

 寺の中心の柱に大蛇が巻き着いた。

 深い神の湖が大きな氷の塊になった。












阿来『ケサル王』 106 物語:モン・リンの戦い

2015-06-05 03:35:26 | ケサル
物語:モン・リンの戦い その4 



 グラトジエに再び矢を放たせまいと、タンマに付き従う四英雄の四本の矢が一斉にグラトジエの顔面目がけて飛んで行った。
 その隙に数人の兵がタンマを支えてケサルのテントへと戻った。

 ケサルは毒気に当たって意識が朦朧となったタンマに神丹を飲ませた。
 タンマはすぐさま士気が漲り、グラトジエとの戦いに取って返そうとしたが、ケサルはそれを押し止めた。

 陣営からは幾人かの大将が戦場へと向かった。だが、何日もの間、双方は対峙して譲らず、勝負はつかなかった。

 この状況を見てトトンはザラを訪ねた。
 「幼長の輩行から言えば、ザラよ、おぬしはワシの孫と同じだ。そこで一つご意見申し上げよう。聞くか聞かぬかはおぬし次第だがな」

 トトンは思った。
 この若僧が勝てば自分は未来の国王と血のつながった者となる。
 だがそれよりも、この若僧が負けて、ケサルがこやつをリンの王子にしようという考えを断つ方が望ましいかもしれない、と。

 ザラは、輩行の高いトトンに対して恭しく答えた。
 「年長の方の智慧は大海より深いと言われます。ダロン部の力ある長官にお教えいただけるとは、光栄です」

 「ここ数日、おぬしの率いる部隊は着々と進撃して来た。だが、多くの将校が大王の耳に不満の声を漏らしているという。
  大王がお前たち先鋒を後衛に移したのはそのためだ。
  今、将校たちは代わる代わる戦いに赴き、その結果はおぬしが目にした通りだ。
  おぬしたち若い英雄が功名を立てるのは今だ。すぐさま大王の元へ行き、戦いを願い出でるがよかろう」

 「私の兵は今とても疲れています。それよりも、父が世にある間は、平坦な草原での戦法しか演習しませんでした。山地での演習をしようと準備を始めた時に、ホルの軍に陥れられてしまったからです」

 父の死について語るうちに、ザラの目には、目の前にいる人物に対する嫌悪の色が浮かび上がった。
 ザラは言った。
 「私は国王の命令に従います。父が世にある時、今生の国王の英明を信じるようにと繰り返し聞かされました」

 トトンは地団駄を踏んだ。
 「おぬしは父親と同じで頭が固いようだな。もしおぬしがあと二度の戦いに勝利し、モン国の城を落としたら、それは何を意味するか分かるかな」

 ザラは首を振って言った。
 「いいえ、分かりません」

 「おぬしこそがリン国の王位を継ぐべき人物だということだ」

 ザラは立ち上がって手下の者に言い付けた。

 「トトン長官を陣営までお送りしろ」

 トトンはテントに戻ると、暫く腹の虫が収まらなかった。
 怒りの鎮まらないトトンは戦いの装いに身を正し、ケサルに向かって戦わせて欲しいと願い出た。

 「ここ数日、リンの英雄たちが代わる代わる出陣していながら、グラトジエ一人に手こずっているではないか。見たところ、ヤツに目にもの見せられるのは、リン国の栄誉をこよなく重んじる老人―このワシだけのようだ」

 タンマはそれを聞くと、腹の底から怒りがこみ上げ、トトンを黙らせようと近づいて行ったが、激昂のあまり、まだ抜けきらない毒気がまた体中に広がり、目が眩んで立っていられず、シンバメルツに支えられて、なんとか倒れずに済んだ。
 この時もまたケサルの安神還魂丹を一粒口に入れた。

 ケサルは動じる様子もなく皆に尋ねた。
 「誰かトトン長官と共に敵を迎え討つ者はいるか」

 どこからも声が挙がらなかった。
 誰もがトトンに恥をかかせようとしたのである。

 ただタンマだけはトトンの戦法を確かめようと、後ろからついて行った。
 トトンは意気揚々と陣の前面に進み出て、押し黙ったまま、冷たく光る剣を取り出すと、グラトジエの目の前に突きつけた。

 二人が三回ほど剣を戦わせたころ、グラトジエが剣を振るうと、大きな山を覆さんばかりの力によって、トトンの手の宝剣は遠くへ飛んで行き、護身の鎧はずたずたになっていた。

 トトンは剣の切っ先が向って来るのを感じて、骨の髄まで寒気が沁み渡り、大慌てで手綱を牽き、命からがら陣営へと駆け戻った。

 グラトジエは追いかけようとしたがタンマが続けざまに放った二本の矢に阻まれた。

 トトンがテントに戻ると、彼を迎えたのは英雄たちの割れんばかりの笑い声だった。






阿来『ケサル王』 105 物語:モン・リンの戦い

2015-06-01 20:09:55 | ケサル
物語:モン・リンの戦い その3



 次の日の朝、雲を突き抜けて聳える雪の峰に、太陽が眩い金色の輝き纏わせるとすぐに、ケサルは将校たちを自分のテントの中に集め、雪山を指して言った。

 「太陽がまだ昇りきらなくとも、我々は高く聳える雪山の上に光がきらめいているのを感じることが出来る。
  モン国に入ってこの方、ザラとユラトジはリンの最も忠実な英雄ギャツァが訓練を重ねて来た戦法を用い、先鋒を率いて次々と勝利を収めた。
  これはリンの未来がより栄え、雪山のように屹立するという吉兆である」

 将校たちは思った。
 「ケサル王と十人を超える妃にはお子が生まれなかった。この若い英雄こそが将来リンの国王になるのだろう」

 シンバメルツは前に進み出て申し上げた。
 「大王様。リン国の大業を継ぐ方が現われたこと、お喜び申し上げます」

 この様子を見て、トトンは面白くなかった。
 「いくらか地盤を占領し、多くの敵兵を殺しはしたが、まだモン国の城を攻め落としていないのだぞ。
  強い魔力を持った王も将軍もまだ傷さえ負っていない。
  ワシは伴の兵卒はいらぬ。一人でヤツらのところへ乗り込み、二人の魔物の頭を大王に捧げよう」

 ケサルは心を鎮めて言った。

 「黒く妖しい霧はまだ晴れず、正しい行いを助ける太陽はまだ現われていない。
  我々がモン国を完全に叩き潰せないのは、まだ時期が至らないだけだ。
  今日、皆を集めたのは、軽率な行動を慎んでもらいたいからである。
  太陽が草の露を乾かしたら、モン国は戦いを挑んでくるだろう。
  その時我々は容赦なく戦おう。
  ここ数日、私は戦いの様子を見ながら、この暑い国に流れる水の中から熱と湿気の毒に打ち勝つ聖水を作り上げた。
  また、天の母から護身の守り紐を頂いた。これで再び戦場に立てば、誰もが向かうところ敵なしとなるだろう」

 聖水と守り紐がみなに配られるとすぐ、外から戦いの声が伝わって来た。

 大将タンマは聖水を飲み干すと、にわかに体中がすがすがしく、力が漲って、すぐに馬に跨って陣営を飛び出した。
 そこに見えたのは、敵国の大臣グラトジエが一人馬に乗って戦いを挑んで来る姿だった。

 グラトジエは威厳に満ち堂々とした快男児で、身に着けている兜や護身用の甲冑は黄金で作られ、背中の弓壺には鉄の弓一束と数十本の毒矢、手には血を吸う宝剣を振りかざしている。

 タンマが馬に鞭打って行くのを目にしたケサルは、グラトジエと互角に戦うのは難しいだろうと、四人の副将に、タンマの周りにぴったりと付いて彼を守るよう命じた。

 タンマはグラトジエに向かって叫んだ。
 「モンには将兵が多いと聞くが、どうして一人でやって来たのだ。寂しくはないのか」

 グラトジエは皮肉たっぷりに返答した。
 「力のないヤツこそ、群れを成さないと怖くてたまらないようだな」

 「今日、我らは戦法を変えたのだ。一対一で戦おうではないか」

 タンマは手に持った鷹の羽根の矢をすでに弓につがえ言った。
 「今からは、お前の足元の地を“死の平原”と名付けよう。お前が目の前にしている五人こそ“地獄の閻魔王”だ」

 言葉が終わった時には、弦を離れた矢はすでにグラトジエの目の前にあった。

 グラトジエは少しも慌てず、呪文を唱えて矢の速さを緩め、わずかに頭を下げると、矢は彼の金の兜の上で金属的な音を立てただけで、腰を伸ばした時の彼は少しも傷ついていなかった。

 同時に彼は後ろ手に矢を放ち、タンマの兜の上の赤い房を射止めた。矢の力は衰えず、タンマの房を付けたまま飛んで行き、彼らの後方の、数本が抱き合った大木を真ん中から真っ二つに断ち割って、真っ赤な炎を上げた。

 タンマは毒の矢に直接傷ついてはいなかったが、強い毒気に当てられ、じっと座っていられず、落馬した。

 グラトジエはその様を見て、得意げに笑った。

 「お前たちは兵の数を集めた戦いしか出来ないのだろう。
  英雄と讃えられているそなたも名前ばかりのようだな。
  もう一本お見舞いしよう。もはやこれまでだ」