塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来「大地の階段」 ⑧ 第1章 ラサから始めよう 

2008-03-29 02:22:22 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)

3 僧と宮廷

 チベット族の歴史上最初の仏教寺院桑耶寺(サムイエ寺)が建立されると、チベット族の歴史上最初の僧はここで修行し出家した。
 修行僧はあわせて七名いたので、歴史書の中では「七覚士」呼ばれている。その中の一人、高い徳を持った僧がヴァイローチャナである。

 ある一時期、ヴァイローチャナは山の洞穴で修行していた。その間よく王宮へ托鉢に行っていた。ヴァイローチャナはふくよかな美しい顔立ちをしていたので、ボン教を信じる妃ツェポンサが彼を愛してしまった。ある日、ツェポンサ妃は国王、王子、下僕たちを外出させ、ヴァイローチャナを部屋に招き入れて誘惑した。
 ヴァイローチャナはチベット仏教ニンマ派の教えを修めた僧である。ニンマ派は特に禁欲を謳ってはいないが、ヴァイローチャナは恐れを抱いてそのまま逃げ出した。

 王妃は恨めしさと恥ずかしさで怒り、国王に向かって、ヴァイローチャナが自分に対して道にはずれた行いをしようとした、とうその告げ口をして、国王の心に懸念を起こさせた。
ヴァイローチャナが次に王宮に托鉢に行った時には、誰も迎えに行かなかった。ヴァイローチャナは即座にすべてを悟り、それ以後王宮には近寄らず、深い山に逃れて修行を続けた。その後国王は過ちに気づき、自ら山に入って大師ヴァイローチャナを訪ねた。最後にはツェポンサ妃も心を改めたという。
 
 もちろんこれは歴史的な出来事が民話化された物語である。多くの場合、民話には庶民の願いが込められている。庶民はそうやって歴史を書き変えるのである。
 もちろん、それで歴史が変るわけではないのだが。

 ツェポンサ妃は保守的な貴族の利益を代表していた。そのため、彼女は飽くことなく、あらゆる策略を尽くして仏教の高僧ヴァイローチャナを迫害した。彼を追い出して後の憂いをなくす必要があったのである。たとえ王であっても、おおっぴらにこの高僧を保護することは出来なかった。そこで仕方なく、あまり利口とは言えない策略を用いた。
まず、どこかの流れ者を捕まえて来て、この男をヴァイローチャナだとふれまわった。そして、ツェポンサ妃たちに見抜かれないうちに、この哀れな流れ者を大きな鍋に入れ、ぴったり蓋をして大河に投げ入れてしまったのである。そうしてから、ヴァイローチャナを死刑に処した、とおふれを出した。
 ところが、ツェポンサ妃は貴族達に国王のはかりごとを暴露してしまった。

 こうして、国王の庇護をもってしてもヴァイローチャナを吐蕃の権力の中心の地に置いておくわけにはいかなくなった。保護策として、国王は彼を吐蕃東北部にある開拓されたばかりの辺境の地へと流すことにした。

 この地こそ私の故郷、現在の四川省阿壩(アバ)州である。
 ヴァイローチャナはチベット語ではジアロンと呼ばれるこの地へ流された。当時このあたり、豊に開けた四川盆地に隣接する山の中には、多くの土着の部族が暮らしていた。吐蕃がチベット本土に国を興して以降、その大軍は向かうところど敵なしで、山の中の土着のを次々と征服してきた。

 チベットの文化に取り込まれる前のこれらの土着のの様子が、歴史書に記載されている。

 『後漢書』に、「その王侯頗る文書に詳しく、その法は厳格である」「気候は寒く、盛夏でも氷が解けない。そのため彼らは、冬は寒さを避けて蜀に働きに行き、夏は暑さをのがれて邑に帰ってくる。山を住処とし、石を積んで室となす。高いものは十余丈ある」とある。

 現代の考古学者の発見したところによると、これら土着のでは石棺葬が盛んに行われていたという。私は以前考古学の研究グループについて石棺の発掘された場所へ行ったことがある。石棺はこの地で採られた天然石で作られており、四つの壁と蓋はあるが、底がなかった。いくつかの棺では、底に柏の枝を焼いた灰が残っていた。埋葬品のある棺もあったが、ほとんどが素焼きのもので、棺の中の遺骨の頭部か足元に置かれていた。これらの石棺葬は岷江流域に多く見られる。岷江の急な流れが切り出した深い谷を抜けていく時、崩れかけた断崖で眼にすることが出来る。

 『隋書』の中にも記載がある。「嘉良夷(西カム地方の強力な部族=ジアロンチベット族)、政令を首領に伝える」「漆を塗った皮を鎧冑とし、弓の長さは六尺、竹を弦とする。義理の母及び兄弟の嫁を妻とする。息子や弟が死ぬと父や兄がその妻を娶る。歌舞を好み、笙を鳴らし、長笛を吹く」「革で帽子を作り形は鉢のように円い。または頭に布頭巾を被っている。衣服は主に毛皮を用いる。牛の皮を剥いで靴にする。首には鉄の鎖をつけ、手には腕輪をしている。王と首領は金の飾り物をしている」「土地は小麦、ハダカ麦に適している」「皮で舟を作り河を渡る」

 政治的には何の統一もないこれらの部族だが、農耕の方法など文化的な面ではかなりの部分で一致している。

 七世紀は、中原で唐王朝の国力がもっとも盛んだった時である。そしてそのある一時期、吐蕃は青蔵高原の中心に興り、数万の大軍が、谷に沿って高原を一気に下り、四川盆地の周縁にまで迫り、大度河上、中流を中心として、岷江上流の一部であるジアロン地区をもその版図に取り込んだのだった。

 最初に成し遂げたのは、軍事的な占領だった。



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



阿来「大地の階段」 ⑦ 第1章 ラサから始めよう 

2008-03-24 23:38:33 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)

2 民間の言い伝えと宮廷の歴史 その2

 当時、チベットの宮廷では、仏教とボン教が激しい争いを繰り広げていた。
 
 ティソン・デツェンの母親は、土着の宗教を擁護する勢力の代表的人物だった。だが、王はより一層仏教に傾倒していった。血縁であっても同じ一つの宗教を信じるとは限らない。これは宮廷闘争の物語の永遠に変らないテーマである。ティソン・デツェンは王位を継承すると、地下に潜行していた仏教徒たちを支持し、彼らがもう一度自らの立場をあきらかにできるようにした。また、山奥の洞穴の中に隠されていた仏教の経典を掘り出し、翻訳し、解釈を加えた。

 彼の行動は、朝廷をもしのぐ権力を持っていた、父親の代からの大臣達を敵にまわした。これもまた古今の宮廷闘争によく見られる図式である。若い国王の命令は、反仏教派の大臣マシャントンパケによって幾度となく阻止された。ティソン・デツェンは仕方なく、マシャントンパケを追放しようと計画を練った。王は側近、呪術師、占星術師達を四方に散らして、噂を流させた。噂は予言となって現れた。

 「国家と国王は近く大きな災いを受けるであろう」。

 当時、それはすべての吐蕃人の災難でもであった。そこで、軍人も民衆も、どうしたらこの予期せぬ災いを取り除けるのだろうか、という問題に強い関心を持った。
 王の元にはすでに答えが用意されていた。唯一つの方法、それは位の一番高い大臣を墓に三年間住まわせることだった。ラサ中の人々、吐蕃中の人々には、それはが誰だかわかっていた。大臣マシャントンパケである。
 
 だが、王は行動を急がなかった。手下の者に再び別の噂を流させた。まず宮廷で、そしてラサの街で、大臣マシャントンパケは重病である、と触れまわらせたのである。
 
 位人身を極める大臣マシャントンパケも、一度ならずこの噂を耳にした。宮女たちは顔をあわせればこの噂を囁き合い、兵士たちが冬空の下日当たりのよい石垣にもたれて一休みする時もこの話題で持ちきりになり、ラサの街の飲み屋に伝わってくるのもこの噂だった。ついには、黄昏の空で鳴くカラスの声さえ「マシャントンパケは病気だ。マシャントンパケは病気だ」と聞こえた。
 マシャントンパケが家に帰って鏡をのぞくと、そこにあるのは心労のあまり疲れ浮腫んだ男の顔だった。大臣は終に力尽き、寝床に倒れこむと、熊の皮の布団の温くて安全な毛並みに顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。

 「吐蕃中の人間がみなわしを重病だと噂している。わしはもう死ぬのだ、もう終わりだ」

 周りの人間も一緒になって泣いた。マシャントンパケは自分のために、他の人間たちは間もなく失うだろう巨大で堅実な拠り所のために。今、呪の効き目が顕れ、大きな山が揺れ始めた。ただ一人、のろまな賄い女だけが大声で言った。
「噂なんて当てにならないさ」

 マシャントンパケは、できるのならこの言葉を信じたかった。だが、もう一度銅の鏡に映った自分をしげしげと眺めると、深いため息をつくしかなかった。
「民衆の言葉には智慧がある。私が病気だと言うのは本当なのだ」

 これぞまさしく若いチベット王が早くから待ち望んでいた瞬間だった。時は至れり、と見て取った国王はすぐさま御前会議を招集した。大臣の病を討議するためではなく、国家と国王の災難を回避する対策を捜すために。国王との事前の打ち合わせどおり、ある大臣が「自分が墓に入ってこれからやってくるだろう災難を追い払いたい」と申し出た。
 すぐさま別の一人が反対した。「この大臣の僭越な行為は罪に値する。予言では、最も位の高い大臣のみが災いを追い払うことが出来るというではないか。それなら、その大臣とはマシャントンパケ様をおいて他にないではないか」と。

 マシャントンパケもまた、他の者が自分より高い地位につくのを許すことは出来なかった。そこで彼は自ら三年間墓に入ると申し出た。宮中ではあちらこちらに罠が仕掛けられている。女性の腕の中で眠る時も片目はしっかり開けてなくてはならないのだ。彼は考えた。自分は今ゆっくり休まなくてはならない、墓地で三年過ごす間に病気はよくなるだろう、その時こそ、最も激しい竜巻となって捲土重来して目に物見せてやるのだ、と。

 マシャントンパケは頭のよい人間だった。彼は自分の勢力範囲であるナナムザプに地下の宮殿を作り、三年暮らすことになる墓造りを自ら監督した。その三年間への対策も怠りなかった。たとえば、不測の事態に備えて、牛の角を繋いで作った水の管と空気孔をこっそりと設置したり、生活物資を大量に蓄えておいたりした。思ったとおり、彼が墓に入るとすぐに、墓の門は大きな岩で塞がれた。

 密かに恐れていたことが現実になった。

 しばらくしてティソン・デツェンに報告があった。大臣マシャントンパケが牛の角の水道から矢を放った、と。その矢にはこう書かれてあった。「ナナム族の者よ、墓を掘り起こし、我を助けよ」
 チベット王は人々の前にこの矢を示し、マシャントンパケが国王と国家に対して犯した不忠の罪の証とした。こうして、マシャントンパケが密かに作った水道管と空気孔はしっかりと塞がれた。大臣マシャントンパケが死神と向き合った時の絶望の叫びを聞いた者は誰もいない。

 マシャントンパケが死んだ後、若い国王は吐蕃全域で大いに仏教を興すよう通達を出した。

 このような状況の下でも、ボン教はその誕生の地で依然として多くの信徒を擁していた。ティソン・デツェンの母親も敬虔なボン教徒だった。彼の妃ツェポンサもまたボン教徒だった。ティソン・デツェンは多くの妃を娶ったが、ツェポンサ妃だけが王子を三人産んだ。そのため、吐蕃王宮では誰も彼女に刃向えなかった。ティソン・デツェンは権力の及ぶ限りの地で仏教を興したが、身近な妃の信仰を変えることは出来なかったのである。

 そのため、ティソン・デツェンはより多くの愛情をポヨンサ妃に注いだ。後世、仏教徒が編んだチベット史の中で、ツェポンサ妃の振る舞いは横暴を極めている。国王の寵愛がポヨンザ妃に移ったため、ツェポンサ妃は前後八回刺客を放って夫を暗殺しようとしたという。
 ティソン・デツェンは世を去る時、ポヨンサ妃を次の国王に嫁がせるよう遺言した。ツェポンサ妃は、自らポヨンサ妃を殺害しようとしたことがあったが、王子がポヨンサ妃を守ったため果せなかった。そこで、彼女はコックを買収して食事の中に毒を盛らせ、在位僅か一年七ヶ月の自分の息子ムネ・ツェンポを殺害した。

 ムネ・ツェンポは在位中、サムイエ寺で「四阿含経」、「律本事」、「倶舎論」の三蔵を供養する制度を制定した。これが、全チベット族の地で仏典と僧を供養することになった正式な起源である。

 私がこの物語を述べてきたのは、チベット族の宗教史をまとめるという、自分には不向きな仕事を引きるためではない。それは、この物語が、私がこれから書こうとしているチベット東北部の文化の特徴と関係があるからである。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



阿来「大地の階段」 ⑥ 第1章 ラサから始めよう 

2008-03-15 01:32:30 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


2 民間の伝説と宮廷の歴史

 この地域の歴史をきちんと述べるために、私たちはラサに戻らなければならない。

 私がこの本を書こうと最初に思い立ったのは、この山々の間でではなく、高い山の階段の頂上、チベット文化の中心地ラサでだった。
 
 まず思い浮かんだのは、伝道者の物語である。
 彼らの物語は、私を中世へ連れ戻す。中世のラサへと連れ戻す。

 それはどのような時代だったのだろう。イギリス人F・Wトーマスが収集し整理した『東北チベット古代民間文学』という本の中に引用されている民間の文学は、次のようにこの世紀を表現している
「もはや、神と人が一体になっていた時代のように正直に行動する人間はいなくなった。没落の時代が到来し、人々は徐々に恥を忘れ、勝手な振る舞いにうつつをぬかしている。彼らは恥とは何かを知らず、誓いを守らず、金儲けのことばかり考え、生をも死をも省みない」
「それ以後、人々は恥を知らずのうそつきになった。息子は父より劣り、孫は息子より劣り、一代一代悪くなっていき、ついには肉体的にも、息子は父親より背が低くなった」

 民間の詩人と歴史学者たちは、宮廷生活にも目を向けた。「国王の妻を始めとして、女の方が国王より頭が良いと見なされていた。女たちは国の政治にも関与し、国王と大臣の間に亀裂を生じさせた。このようにして、国王と大臣は分裂した」

 これは、宮廷政治がはるか隔たった場所――庶民の間に届いた後の一種の余韻なのだ。庶民たちは自分たちのやり方でこの余韻を記録してきた。
当時、吐蕃の中心地ラサで国力が勢い良く増強していたその時、吐蕃の宮廷の内側では民間の物語に描かれているような状況がすでに出現していた。
当時のラサはチベット王ティソン・デツェンが政治を執っていた。言い伝えによるとティソン・デツェンは唐が二度目に吐蕃と和親した後、金城公主とティデ・ツクシェンの間に生まれた子である。当時、宮廷の闘争は、上述した民間の物語に見られる幾つかの要素の他に、雪の国と呼ばれるチベットに伝わって間もない仏教と、チベット土着の宗教ボン教との激しい闘争とも、大いに関係していた。
 
 言い伝えによると、ティソン・デツェンが生まれた次の朝、外地にいたティデ・ツクツェンが、公主と生まれたばかりの息子に一目合おうと飛ぶように宮廷に戻ると、なんと、もう一人の妃が生まれたばかりの王子を奪い、自分が生んだ子だと触れ回っていた。民間的色彩の濃いこの物語は続けて語っている。大臣たちはどちらの妃がこの王子を産んだのかをあきらかにするため、王子を別の部屋に寝かせ、二人の妃に同時に抱きに行かせた。金城公主は先に王子を抱くことが出来たが、ナナム氏というもう一人の妃が力任せに王子を奪おうとした。王子の体のことなど一切かまわずに。金城公主は王子の身に何かあっては大変と自ら手を離したのだった。これを見た大臣たちは、王子を生んだのは金城公主だと確信した。

 ところが、信頼できる歴史書によると、ティソン・デツェンは742年の生まれだが、金城公主はそれより前の739年に世を去っている。ティソン・デツェンはやはりナナム氏の生んだ子供なのである。
では、民間ではなぜ、このようにあきらかにねじまげられた伝説を創り上げたのだろう。ある分析家は述べている。これはチベット族が望んでいた漢民族との団結の象徴なのだと。
だがもし、その当時のこの地域の状況と、中原の王朝とチベット政権の間の実際の状況をつぶさに考慮するなら、この説はあまりにも飛躍しすぎている。まるで、農民蜂起の首領を共産主義者だと言っているようなものだ。これは正しい歴史観に基づかない結論であり、結局は無責任で一時的な見方と言われるのが落ちだろう。実は、民間でこのような言い伝えが生まれたのは、外の世界から伝わった仏教と、チベット土着のボン教が、雪深い高原で繰り広げた激しい争いの複雑な状況が反映されたからなのである。

 この言い伝えは後世に伝わったが、そこから読み取れるのはただ、時と共にチベット人が仏教を信じるようになっていったため、当時仏教に傾倒し、仏教を護持していた唐の公主により多くの同情が集まった、ということだけである。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




阿来「大地の階段」  ⑤ 第1章 ラサから始めよう  

2008-03-13 01:16:12 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)

1 嘉絨(ジアロン)の意味


 そう、ラサから始めよう。

 そうするのは、その方が分かりやすく書けるだろうと考えたからだ。より深い意味から言えば、私がチベットへ行くのはチベットから出て行くためである。チベットと言う地名はすべてのチベットの民族と密接な関係をもっているのだから。

 歴史を見ると、チベット族は現在のチベット自治区の南部を起源とし、吐蕃国を興し、北上してラサの都を作った。そして、そこから青蔵高原の各方面に広がっていった。青蔵高原の東部で、吐蕃の精鋭の騎兵たちはいくつもの山を越え、群がる山々の階段を一段一段と降りていったのだった。
チベットでは、ほとんどの河は最後にはみな南へと向きを変え、ガンジスへ――白衣の国インドへ流れていく。騎兵たちは、青蔵高原を源とする長江と黄河に沿って、そして中国の中心であるこの二本の河の支流が山々や森林の間を穿ってできた巨大な渓谷に沿って、東へ、東北へと向かった。こうして彼らは、ある時は河西走廊に現れ、ある時はチャダム盆地に現れ、関中平原に現れ、成都平原の周縁に現れた。
この時、吐蕃の精鋭部隊が遭遇したのは、最盛期を迎えた強大な帝国だった。このどこまでも続く孤形の土地で、彼らの目の前に現れたのは、どれもみな一つの民族、黒い色を尊ぶ民族だった。そこで、新らしい地名がチベット語の中に生まれた。嘉絨(ジアロン)である。それは、インドと相反する名前であり、黒衣の国を意味していた。

 この遭遇に至る前、彼らはかなり広い中間地帯を通り抜けてきたのだが、歴史書の中にはこの一帯の名称については記述されていない。その一帯とは、今の地図から言うと、青蔵高原東北部の黄河が始めて折れ曲がるゾイゲ草原と、草原の東側の四川盆地に向かって一段一段降りていく岷山山脈と邛峡山脈に挟まれた地域だと思われる。現在、八万平方メートルに及ぶこの地域は阿壩(アバ)と呼ばれている。チベット族を中心とする自治州である。

 阿壩(アバ)という地名は、吐蕃の大軍がこの地を征服してからつけられたという。当時、この軍隊の主要な部隊は今のチベットの阿里(アリ)から来ていた。彼らは長期に渡ってこの地に駐屯し、この地の土着の人々と混血し、この今では意味を失いつつある名前を残したのである。それでも、この地の人々が口伝えに伝えてきた部族の歴史を見れば、この言葉の源に遡ることができる。

 阿壩(アバ)はまた二つの部分に分けることができる。一つは西北部で、うねりながら流れる黄河がはじめて折れ曲がるゾイゲ県を中心とする草原。もう一つは東南部の山岳地帯である。この土地の森林は長江上流のいくつかの重要な支流を育んだ。北から南に向かってそれぞれ、嘉陵江、岷江、大渡河である。そして、その一つ、大渡河上流の中心地帯がこの地理と密接な関係にある農耕地帯、嘉絨(ジアロン)を育んだのである。

 単純に意味だけからみれば、「嘉」は漢民族あるいは漢の地の意味であり、「絨」は河の近くにある農耕地の意味である。二つの文字を組み合わせると、その意味は当然のことながら「漢の地の耕作地」ということになる。吐蕃の大軍が来る以前に、この地域独特の文化はほとんど築かれていた。近頃の民族学者はこの地の地理と結びつけて、この名前に新しい解釈を加えている。それを元に私も、自分の実際の旅を重ね合わせて記述させてもらおうと思っている。

 もし、阿壩(アバ)の地を大まかに分けるなら、草原はほとんど黄河に属している。そして、ジアロンと呼ばれる農耕地域は、大部分が長江水域の大渡河の上流と、岷江上流の北に向かう支流にまたがる、かなり広い地域に集中している。大渡河とその北側の岷江が山々を駆け巡り流れ着くところ、そこは富と人口を誇る、湿潤な四川盆地である。歴史によれば、吐蕃の大軍は河口で馬を止め、煙が立ち込め竹の生い茂る豊な平野を遥かに眺めると、なぜかいつもドラを合図に兵を引き上げ、山奥へと帰って行った。

 では、私も今、彼らと同じように再びラサに帰ろう。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




阿来「大地の階段」 ④  序 その4

2008-03-10 22:29:54 | Weblog
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成人してから、私は心の赴くままに何度も旅にでかけた。自分のために書いた『三十歳、ゾイゲ大草原に遊ぶ』という詩がある。
そのなかに次のような句があったのをおぼえている。

唇は土、歯は石、舌は水、
いまだ、私の口からは蓮の花は現れません。
青い空よ、いつ私に最上の言葉を下されるのですか。


今、深く生き生きとした表現を自分に課そうとする時、そのためには自我を超えた力を仰ぐほかないと感じている。これまでも、学識ある僧はみな著述を始める前に四方の神々に最上の祈りを捧げている。
たとえば、チベット族の歴史上最も批判的精神を持っていたケンドン・チュンベイは『智遊仏国漫記』の中で、その巻頭に「つつしんで正等覚世尊の足蓮に額づきます」と書いている。この足蓮とはチベット語の一種の修辞方式で、世尊の足を蓮の花に喩えたものである。このように額づくのはただ一つ「お守りくださいますように」と願うからである。その願いとは――


奥深い智慧の光が世俗の迷いを取り除き
静かな解脱の心が三界の迷いを鎮め
法にたがうはかない理論に染まらない、澄み切った志を持ち
衆生の瑞兆である太陽が、わたしたちに円満の雨露をくだされますように



高い位と権力を持っていたダライラマ五世は、その大著『西蔵王臣記』の始まりで次のような祈りの心をあらわしている。


整った花の芯は、青年の智慧に似て、鉄の鉤の如き鋭さをもって、美女の心を刺しつらぬく
自在の洞見、諸法の法性は大円鏡に現れる
あきらかな霊験は、仏法が清らかに歌い舞うさまを立ち顕せる
このような加護の力を持つ者――文殊師利よ、私の重い舌が語自在王となりますように


続けて彼は詩歌と文芸の女神に向かって祈りを捧げる。


美しく喜びに溢れたお顔を目の前に拝し、白く耀く月が現れたのかと疑うほどでした
一切の錯乱と不安を除く御旗
瑠璃のように耀いて長く垂れる髪
妙音天女よ、私を速やかに語自在王のような智慧尽きることのない者とならせて下さい


「語自在」。昔も今も、言葉をなりわいとするものにとって常に理想としていながら、遥かに及ばないのではと恐れている境地である。
現在世界中の人々が、チベット族とは教義を深く信じ、数多くの偶像を崇拝している民族であると考えているが、チベット族である私から見れば、教義は法力を失いつつあり、偶像はすでに黄昏を迎えてしまった。

では、何故私は自我を超えた力に祈願するのだろうか。

一人の放浪者にとって、たとえこれから描き出そうとするこの土地にはっきりとした境界が定められたとしても、一冊の本にとっても、また、一人の人間の智慧にとっても、この土地はあまりにも深く広い。河は日夜を分かたず奔流し、四季は自在に入れ替わり、人々は絶えず生まれ変わる。それゆえこられら全てが、表現しようとする者たちに恐れを抱かせ、時には絶望をさえ抱かせるからである。

もう一つの問題は、もし神や仏でないのなら、自我を超えた力とは何を指しているのだろう。たぶんそれは、永遠に黙したまま遥か上へと登っていく階段のような山並みであり、そして、創造し、耀き、零落し、哀しんだ人々と、彼らが苦しみや楽しみの中で休むことなく続けていく日々の営みなのではないだろうか。

ここに、私の旅の記録と、それ以上にたくさんの旅の思い出を皆様に捧げます。


(阿来の旅行記「大地の階段」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)