★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304
語り部:未来
ジグメは旅をしながら、歩くのが日に日に辛くなるのを感じていた。
そのため、長い時間をかけてやっとムヤの地を過ぎ、カムの大地の中でもケサルを特別に崇拝している場所に着いた。
岩のくぼみを見て人々は言った。これは神馬キャンガペルポが残したヒズメの跡だ、と。
ごつごつした岩に突然滑らかな面が表われると、人々は言った。これはケサルが剣を試した跡だと。
雪山の麓に青い水を湛えた湖が現われると、人々は物語を伝え言った。ここはジュクモが沐浴した場所だ、と。
これらの聖なる跡を示されても、ジグメは前ほどには興奮しなくなった。ただ終わりない旅がだんだんと辛くなっているのが分かった。
その日、ある鎮に入り、郵便局へ行った。電話をしなければならなかった。
局員は言った。いいわよ、そこにあるから勝手に掛けて。彼は言った、掛け方を知らないんだが。あんた、電話したことがないの。ジグメは皺だらけの名刺を取り出した。それは学者が別れ際に渡したものだった。
学者は、もし旅に疲れたら安定した生活をさせてあげられるから、と言ってこの名刺を残したのだった。
ジグメは名刺を局員に渡した、局員が受話器をジグメに渡すと、まずジージーと言う電流の音が聞こえ、それから学者の声が聞こえて来た。
「もしもし」
ジグメは姿の見えない相手に話しかけるのをためらった。
相手はまた言った。
「もしもし」
ジグメはやっと口を開いた。
「オレです」
学者は笑った。
「もう電話してきたのか」
「歩くのがだんだん辛くなって来た」
「休めばいい、あなたの物語の中で、主人公はいつも疲れている。それはきっとあなた自身が厭きて来たからだ」
「いやになったんじゃない。腰や背中が固くなって、歩きずらいんだ」
「ほんとに体の調子が悪いだけか。だったら医者へ行けばいい」
学者は最後に言った。この電話番号を忘れてはいけない、と。
ジグメは村の診療所へ行った。医者は彼を機械の前に立たせ、背中の写真を撮った。医者は言った。骨はとても健康だ、と。ジグメは尋ねた。
「オレの背中には骨の他に何か変わったものがないかね」
医者は尋ねた。
「背中に何かあるような気がするのかね」
「矢だ」
彼は思い出した。夢の中でケサルは矢を彼の体に貫通させ、望んではいない地へと飛ばしたのだ。その時、ケサルはこう言った。
「しっかりと物語を語りなさい。物語を信じなさい。物語が本当かどうか尋ねる必要はない」
再び歩き始めると、矢が背中に刺さっているのをはっきりと感じた。背中が固くなっているだけでなく、先端が腿の付け根につかえて、足を動かすのが辛かった。
長い間、どうして矢に気付かず、今になって感じるのだろう。
空を見上げたが、何も見えなかった。それは、物語の中の閻魔王がケサルに言った言葉を思い出させた 。
「上を見れば空は空っぽだ」
空は本当に空っぽだった。何も見えなかった。だが、ジグメにはある予感があった。
神よ、あなたは私の矢を抜きに来るのですか。このことを考えると、心が暗くなった。
神よ、矢を抜く時に物語もまた持ち帰るのですか。彼はこれは確かな予兆だと確信するようになった。
神は自分の使命を終わらせようとしているのだ。
この時、ジグメは三叉路に出た。行き来するトラックが埃を舞い上げている。周りの人に、この三つの道はそれぞれどこへ行くのかと尋ねた。
その内の一人が一番静かな道を指した。
「仲肯よ、これがあんたの道だ。この道はアッシュ高原に続いている」
アッシュ高原。ケサルが生まれたと伝えられている地。
彼は再び顔を挙げて空を見上げた。まだ何も知らない時、ここに来たことがある。そして思った。ここまで来たのは、体を貫いている矢を感じたのと同じだ。運命に導かれたのに違いない。これは偶然ではないのだ。
ジグメはふらふらと歩き始めた。英雄の誕生した地へと向かった。
歩きずらく、草原で一晩野宿した。
ヤロンと呼ばれる河が耳元を激しく流れるのを聞き、空いっぱいに輝く星を眺めながら、もしかして今夜夢の中にあの方が現われるかもしれないと思った。それはどちらだろう。天上の神か、人間界の国王か。
朝目覚めると、何も夢を見なかったと知った。再び歩き始めた時、触ることも見ることも出来ない矢はまだ体の中に留まり、やはり歩くのが辛かった。
語り部:未来
ジグメは旅をしながら、歩くのが日に日に辛くなるのを感じていた。
そのため、長い時間をかけてやっとムヤの地を過ぎ、カムの大地の中でもケサルを特別に崇拝している場所に着いた。
岩のくぼみを見て人々は言った。これは神馬キャンガペルポが残したヒズメの跡だ、と。
ごつごつした岩に突然滑らかな面が表われると、人々は言った。これはケサルが剣を試した跡だと。
雪山の麓に青い水を湛えた湖が現われると、人々は物語を伝え言った。ここはジュクモが沐浴した場所だ、と。
これらの聖なる跡を示されても、ジグメは前ほどには興奮しなくなった。ただ終わりない旅がだんだんと辛くなっているのが分かった。
その日、ある鎮に入り、郵便局へ行った。電話をしなければならなかった。
局員は言った。いいわよ、そこにあるから勝手に掛けて。彼は言った、掛け方を知らないんだが。あんた、電話したことがないの。ジグメは皺だらけの名刺を取り出した。それは学者が別れ際に渡したものだった。
学者は、もし旅に疲れたら安定した生活をさせてあげられるから、と言ってこの名刺を残したのだった。
ジグメは名刺を局員に渡した、局員が受話器をジグメに渡すと、まずジージーと言う電流の音が聞こえ、それから学者の声が聞こえて来た。
「もしもし」
ジグメは姿の見えない相手に話しかけるのをためらった。
相手はまた言った。
「もしもし」
ジグメはやっと口を開いた。
「オレです」
学者は笑った。
「もう電話してきたのか」
「歩くのがだんだん辛くなって来た」
「休めばいい、あなたの物語の中で、主人公はいつも疲れている。それはきっとあなた自身が厭きて来たからだ」
「いやになったんじゃない。腰や背中が固くなって、歩きずらいんだ」
「ほんとに体の調子が悪いだけか。だったら医者へ行けばいい」
学者は最後に言った。この電話番号を忘れてはいけない、と。
ジグメは村の診療所へ行った。医者は彼を機械の前に立たせ、背中の写真を撮った。医者は言った。骨はとても健康だ、と。ジグメは尋ねた。
「オレの背中には骨の他に何か変わったものがないかね」
医者は尋ねた。
「背中に何かあるような気がするのかね」
「矢だ」
彼は思い出した。夢の中でケサルは矢を彼の体に貫通させ、望んではいない地へと飛ばしたのだ。その時、ケサルはこう言った。
「しっかりと物語を語りなさい。物語を信じなさい。物語が本当かどうか尋ねる必要はない」
再び歩き始めると、矢が背中に刺さっているのをはっきりと感じた。背中が固くなっているだけでなく、先端が腿の付け根につかえて、足を動かすのが辛かった。
長い間、どうして矢に気付かず、今になって感じるのだろう。
空を見上げたが、何も見えなかった。それは、物語の中の閻魔王がケサルに言った言葉を思い出させた 。
「上を見れば空は空っぽだ」
空は本当に空っぽだった。何も見えなかった。だが、ジグメにはある予感があった。
神よ、あなたは私の矢を抜きに来るのですか。このことを考えると、心が暗くなった。
神よ、矢を抜く時に物語もまた持ち帰るのですか。彼はこれは確かな予兆だと確信するようになった。
神は自分の使命を終わらせようとしているのだ。
この時、ジグメは三叉路に出た。行き来するトラックが埃を舞い上げている。周りの人に、この三つの道はそれぞれどこへ行くのかと尋ねた。
その内の一人が一番静かな道を指した。
「仲肯よ、これがあんたの道だ。この道はアッシュ高原に続いている」
アッシュ高原。ケサルが生まれたと伝えられている地。
彼は再び顔を挙げて空を見上げた。まだ何も知らない時、ここに来たことがある。そして思った。ここまで来たのは、体を貫いている矢を感じたのと同じだ。運命に導かれたのに違いない。これは偶然ではないのだ。
ジグメはふらふらと歩き始めた。英雄の誕生した地へと向かった。
歩きずらく、草原で一晩野宿した。
ヤロンと呼ばれる河が耳元を激しく流れるのを聞き、空いっぱいに輝く星を眺めながら、もしかして今夜夢の中にあの方が現われるかもしれないと思った。それはどちらだろう。天上の神か、人間界の国王か。
朝目覚めると、何も夢を見なかったと知った。再び歩き始めた時、触ることも見ることも出来ない矢はまだ体の中に留まり、やはり歩くのが辛かった。