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塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来「大地の階段」 22 第2章 大渡河に沿って歩く

2008-07-05 17:41:17 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


5 丹巴での日々 その2


 さて、丹巴に戻ろう。

 雑貨屋の隣の新華書店の前でタバコを吸い、足についての考察を終えると、顔をあげて空を見た。ここでは、気が向いた時に顔を上げても、空が見えるわけではない。見えるのは巨大な灰色の山だけだ。山々の高いところで、強靭な風が雲を急かせている。日差しが徐々に強くなってきた。

 ついに新華書店開店の時間になった。
 天井が低い店内、採光は十分とはいえない。これぞまさに私が良く知っている地方都市の本屋の姿だ。店は大きくはなく、購買公社にあるような、カギ型のカウンターが並んでいる。カウンターのガラスの中の本や、カウンターの後ろの棚に並べられている本はどれも、たとえ出版されたばかりの本であっても、いったんこの空間の中に並べられると、長い年月ここに置かれていたかのように、店員と同じ物憂げな表情を見せ始める。

 それでも、私はもともとこのような本屋が好きだ。なぜなら、大きな都市の本屋では手に入らない本が、ここで何冊か見つかり、旅の夜の友にできるからだ。
 そして、このような本は読む環境のためか、時々思いもよらない収穫をもたらしてくれる。

 たとえば今回は、文革中に貧農、下層中農の牧畜民のために書かれた、青蔵高原のチベット獣医薬書を手に入れることができた。この本は文革期の毛語録と同じ大きさで、しかも赤いビニール製の上質な表紙で装丁されていた。ゾルゲ県革命委員会が編集したものだ。

 以前私はこの本を持っていた。チベットの老医師を訪ねた時にその医師から贈られた。
 かつて、彼はチベット仏教の学位を持ったゲルグ派の僧侶だったが、50年代に強制的に環俗させられ、故郷に帰って遊牧をしていた。文革中、革命遊牧民として起用され、この初級の薬に関する本を執筆した。このチベット医はゾルゲ高原では人望が厚く、私が訪問した時、中国語に訳したこの小さな本を贈ってくれたのだった。それなのに、私はその本を県の招待所に忘れてきてしまった。
 そして今、もう一度その本を手に入れることができた。

 ここでは、他に二冊の本を買った。それもまた大きな書店で探しても手に入れられない本だ。
 それは世紀末である1999年に一時的に流行した分野の本で、その時はあまり見向きもされなかったのだが、なんと、このどうということもない本屋で私の目の前に現れた。

 それは薄い本、『人・野人・宇宙』である。作者は蕭蒂岩。「西蔵文学」の中で、同名の人物が発表した書の大作を見たことがある。チョモランマの詩を書いたものだった。

 それから十年、この本を書き始める二ヶ月前、チベットと関係のある人物達を尋ねる必要があった時、ザシダワがラサから電話してきて、この老作家が今成都にいると教えてくれた。
 その日の昼ごろ、成都でちょうど流行り始めた四川料理店、菜根香の入り口の前で、初めて蕭蒂岩氏と会った。紹介されるまでもなく、すぐお互いを認めることができた。
 その日同席したのは、チベットの文壇で活躍していた漢族の作家・馬原とチベット族の作家・色波である。

 後日、蕭氏は私のために、往年の南下幹部で、チベットのメドクに二十年暮らしていた民俗学者・冀文正氏を誘ってくれた。場所は、成都肖家河のラサホテルのティールーム。その日、私たちはすがすがしい峨嵋毛峰を飲みながら、濃厚な酥油茶を思い出していた。
 その日、蕭氏はずっと以前に書いたその本を持ってきていた。

 このような人々が集まれば、話題は自然にチベットへと集中していく。ただし、そのチベットは行政が定めた例の自治区であって、文化的な意味でのものではい。だが私は、より多くの人が更に大きな範疇のチベットについて討論するのを見たい、と切に願っている。

 やはり、大小金川の交わる丹巴に戻ろう。雲母が豊富に含まれる丹巴に戻ろう。
書店を出てから、バスターミナルへ行き、道路の状況を尋ねた。切符売り場の小さな窓口の板はしっかりと閉じられていた。近くの黒板の上には例のごとく状況伝えるちょっとした言葉も書かれていない。あたりには人影もなく、もし発着所に原木をたくさん積んだトラックと空の長距離バスが停まっていなかったら、まるで廃止になって見捨てられたターミナルのようだった。

 私にはこのような状況はおなじみだった。このような時は、ここでちょっとあそこでちょっとと、すべてが正確とは言えない情報を聞き出せばいい。その大体の情報が一致するところによると、下流に向って濾定に行く道はあちこちで土砂崩れがおき、塞がれているとのことだった。
 それはだいたい分かっていた、なぜなら私はその道を通ってやってきたのだから。

 大金川に沿って上り、金川県に着き、さらに上ると、クルインに着く。トカ河とサマ河の交わる所を更に遡り、先に述べた松崗郷を通り、更に15km歩いくとマルカムに着く。
 この公道はすでに何年も通っていない。

 問題は丹巴と金川両県のつなぎ目にある。この両県のつなぎ目とは、四川省の二つのチベット自治州、カンゼとアバのつなぎ目である。丹巴はガンゼ州に属し、金川はアバに属している。

 中国では、問題とはいえないような問題が、このようなつなぎ目で起こるとすべて面倒なことになる。そして、いうまでもないことだが、土砂崩れは、公道だけが近代的交通手段である二つの自治州には大きな問題なのである。
 そのため、つなぎ目で発生する大小様々な土砂崩れは永遠の問題になっている。

 可能性のある道は、丹巴から大渡河を渡り、小金川に沿って北上し、55kmで小金県に着く道だ。小金県に着いてから、紅軍の第一方面軍の山越えで有名になった夢筆山を過ぎ、卓克基を経てアバ州の首都マルカムに着く。
 この公道は小金県を過ぎた後、現在は鉄の鎖が空にかかっているだけの猛固橋から道が分かれ、東方のアルプスと賞賛される四姑娘山風致地区を過ぎ、海抜四千メートルの巴郎山を超え、臥龍自然保護区を通り、都江堰を経て成都に至る。
 だが今この道も通っていない。聞くところによると、小金県に至る50kmばかりの道路では、あちこちで土砂崩れが起こっている。

 そこで、私は丹巴の街に留まることにした。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




阿来「大地の階段」 21 第2章 大渡河に沿って歩く

2008-07-02 00:55:17 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


5 丹巴での日々

 再び歩き始めた時、強烈な日差しは猛烈な雨に変わった。

 降りしきる雨が視線を遮り、見えるのは目の前のほんのわずかな部分だけだ。雨が泥水を跳ね返している。斜面では雨水が集まっていくつかの流れをつくり、泥砂を押し流して公道をあふれさせ、更に下の河へと流れていく。
 雨が降り出して一時間もしないうちに、もともと濁っていた水は更に濃度を増し、むせ返るような土の匂いを撒き散らしながら、ぐんぐんと水嵩を増していく。 急な流れが河岸に打ち付ける。
 河岸の崩れる音が絶え間なく聞こえてくる。
 斜面の泥は雨に流され、道の上に積み重なっていく。公道を歩くには、崩れてきた土砂を一つ一つ越えていかなくてはならない。もし車で来ていたらまた途中で停められただろう。

 昼過ぎ、雨は止んだ。

 かすかな日が雲の間を突き抜けて、濁った波の逆巻く大渡河を照らす。山々には略奪後も生き残った木々が多くなった。
 この時、山裾の形に沿った一群の大小様々な家々が大渡河の左岸の麓に現れた。それはすでに通り過ぎて来たような小さな村の集合体だった。地図を開くまでもない。県の中心・丹巴の街に着いたのだ。

 大金川と小金川はこの県城のあたりで交わり、正式に大渡河と呼ばれるようになる。だから、大渡河にとって、ここは重要な場所なのである。私が長い間ずっと行きたいと願っていた場所だ。今日、突然起こった衝動のおかげで、ちょうど雨上りの日が射した瞬間、この場所に着くことができた。

 康定にいる時、友人がこの県の書記に宛てて手紙を書いてくれた。この書記とは現在北京にいるチベット族の作家、ジェミピンジェの兄上である。

 雨の後の水溜りを一つ一つよけながら、招待所を探し当て、部屋に落ち着くと、ポケットにいれておいた数百元の金と手紙を取り出した。どれもみなぐしょぐしょに濡れていた。部屋にはベッドが三台あったので、金を一枚一枚ベッドの上に並べた。あのメモはもう紙の塊と化していた。幸いにも、防水のリュックには雨よけを掛けていたので、乾いた気持ちのいい着替えは残されていたし、ノートと詩稿と、濾定で書いた「銀環蛇」という短編小説の初稿はすべて無事だった。

 着替え終わって、午前中ずっと雨の中を歩いたスニーカーの底が完全に剥がれているのに気付いた。
 そこで、招待所の名前が赤々と書かれたビニールサンダルを履いて街へ出て靴を買った

 新しいスニーカーは柔らかく、何日も歩き続けて来た足にとって、何よりの褒美となった。私は今でも、あの時両足が感じた温かくさっぱりした柔らかさを覚えている。

 この両足は私のものになってからこれまで、このひと時のような幸せを味わってこなかった。
 私のものになったばかりにリュウマチを患った両足は、その時、今まで味わったことのない心地良さに包まれて、あたかも、自分にぴったりの男性に嫁いだ女性のように、幸福感に満たされていたのではないだろうか。

 もし我々の足に幸福の哲学とでもいうようなものがあったとしたら、果てしない大地のあちこちを測量しに歩かされても文句を言わないだろうし、金持ちになって高価なブランド品で包まれてもなんとも思わないだろうし、赤い絨毯を何度踏んだとしてもなんとも思わないだろう。足が求めているのはもっと動物的なものだ。求めているのはさらさらでねばりけのない暖かさと、通気のよい柔らかさである。
 店から出て新華商店の前に座った。

 以上は、隣の雑貨屋でタバコを買い、腰掛を移動してきて、タバコの火をつけた後、陽の光の下に座って考察した足の幸福哲学である。

 この足の幸福に関する哲学的結論を得てからは、革命史の映画の中に、紅軍の偉人と戦士が一緒に草鞋を編んでいる場面や、北方の女性が炕の上に座って熱い革命の思いに満たされながら前線を支援するため靴底を縫っている場面を見るたびに、わけもなく感動するようになった。

 こんなことを考えても何の役にも立たないのだが、でも、世の中には役に立たないものはたくさんある。一人でテレビの前に座って、ちょっとしたシーンに訳もなく感動しても、誰かに迷惑を掛けるわけではないし、いつもささやかに感動していれば、生活の美しさに気付かせされ、罪のない心の体操にもなるだろう。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



阿来「大地の階段」 ⑳ 第2章 大渡河に沿って歩く

2008-06-30 12:41:14 | Weblog
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大都河4 心を痛める場所 その3



 その日の夜、途中の村に泊まった。
 その村の名前を書く必要はないだろう。なぜなら、それぞれに違った名前がある以外、この村のすべてが前述の通り過ぎてきた村々と何も異なったところがないからだ。

 たくさんのハエが飛び回る小さな料理屋、門の前には木を運ぶトラックが止まり、1,2本の柏の木が必ずどこかに聳えていて、私たちをほんの少しの間はるか昔風景が美しかった時代の不確かな思い出に誘い込む。
 それは土地に伝わる歌の時代、水の澄んでいた時代、そしてまた民間の詩人が最後の言葉を残した時代である。

 その時代の余韻として、私は民間の知者に「美しい時代の衰退」という民間の文章を訳してもらった。
 この文章はほとんど世の中に伝わっていない。一つには、民間に考え事を好む人が日々少なくなっているため、そして、歴史学者がこのように詩的で総括的な叙述を簡単に排除してしまうためである。だが、私はこのような文章が好きだ。その中にこのような文章がある。
 
 「その後、宗教が信じられず、寿命の短い時代がやってきた。妖怪たちは思うがままに人々を惑わした。悪人たちは思うがままに人々を傷つけた。悪人が金儲けをして高い位に昇った。傲慢が専横を極めた。善人や悪意のない人々は臆病で何もできず、貧困と悲惨に陥っていくばかりだった」。

 更にこう書かれている。

 「それからも、宗教は益々力を失い、寿命の更に短い時代となった。負債と税の時代が近づいた時、国王は彼の治める領地で八千年の権力しか持っていなかった。一人だった国王が複数の国王へと変わった。国王たちは自分だけが正しいと思いこみ、昔の宗教と経典を無視した。それぞれが己を信じすぎ、そのため、それぞれの国にそれぞれの宗教と経典が生まれた」。

 これは「旧約聖書」にも似た、総括と詩意に溢れた、史実よりも象徴性の強い記述である。日ごとに荒れ果てていく場所が、このような民間の詩人と思想家を生み育てたことに私はとても驚かされた。だが今、このような人物はもう現れないだろう。その意味から言っても、この荒涼とした場所はもう永遠に元に戻せないのだ。

 私はその日をはっきりと覚えている。一九八九年六月七日。

 旅館の蚤の跳ね回るベッドに横たわり、二時間ほど眠って目覚めると、15ワットの白熱灯の下でノートを開き、もう一度これらの言葉を味わった。
 その時電灯が三度光った。これは小さな発電所の技術員がコントロール台の水スイッチを切り、また入れ、切って入れ、切って入れしたからだ。これは、小さな村とその周りの村の人々に、まもなく停電することを告げている。

 普段なら、これらの小さな村々はすでに眠りに包まれている。だが、この一年のここ数日、このような辺鄙で人々に忘れさられたような場所でも、人々は首都北京、省都成都で起こっている事柄に興奮していた。
 このような興奮にはほとんどの場合特別な主義や道徳的な批判は含まれていない。生活があまりに平淡すぎるので何かが起こらなければならないのだ。それがテレビの中だけで起こったことであっても、何も起こらないよりは良いのである。
 
 十分後、電灯は消え、小さな村は眠りに着いた。

 起き上がって窓辺に立つと、大河が両岸の岩の間でたてる重苦しい波音が聞こえた。岩の隙間に何本かの柏の木が天に向って聳えている影が見える。

 そこで、リュックからろうそくを取り出し、柏の詩を書いた。
 「オビラトの柏の樹」である。
 オビラトはこの村の名前ではない。私はこの小さな村に、響きの良い、みすぼらしくない名前を付けたかった。ギャロンチベット語では、オビは種の意味、ラトは在る、まだ存在している、という意味である。私がこの小さな村に付けた名前は「種はまだ存在している」である。
 どんな種だろうか。もちろん柏の樹の種だ。いや、それは種とも言えないものだ。柏の樹の細長い影であり、私の心の中のわけの分からない揺らめきと切なさなのだ。

 私が詩を書いていた青年時代、ほとんどの詩はこのような旅の途中で、このような壊れかけた粗末な旅館で書いた。

 それにしても何故、ある場所では、建ったばかりの旅館がすでに古めかしく荒れ果てている印象を与えるのだろう。

 旅館とはそういうものだ。山間の村もまたそういうものなのだ。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




阿来「大地の階段」 ⑲ 第2章 大渡河に沿って歩く

2008-06-27 16:23:46 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


大都河4 心を痛める場所 その2


 小さな旅館に腰を下ろし、リュックを置き靴の紐を解くと、汗がぽたぽたと流れてきた。
 旅館の女が黒ずんだタオルを渡してくれる。「兄さん、汗拭きなさいな」

 彼女は青地に刺繍を施した布を頭に載せ、鮮やかな織物のベルトをしている。典型的なギャロンの女性の装飾品である。だが、彼女の着ているインド藍の長衣は清末民初の満漢族の服装で、そこに緑色の解放マークの運動靴を履いた姿は、完全に現代の中国式服装の標準的な農村スタイルである。
 ここでは、ほとんどの中年男性の服装は、これとよく似た中国チベット混合で、しかも異なった時代の特色を一度に見ることができる。

 彼女が「兄さん」という時の口調、「汗拭きなさいな」という時の言葉遣い、それらは中国語の四川方言と陜西、甘粛省の方言が混ざりあいできあがった大都河中流域特有の土着の言葉である。
 このあたりは、乾隆朝以前は純粋なチベット人の集落だった。チベット族の歴史上、農業が最も発達し人口がもっとも集中した地域の一つだった。乾隆年間、清朝はこの地域の大小金川流域のザンラ土司とツージン土司に対して前後して十余年にわたり兵を送り続け、戦いの後チベット族の人口は急激に減少した。清政府は陜西、甘粛省の兵をこの地に駐屯させたので、そのため、今日の文化と言葉遣いが出来上がったのである。

 聞くところによると、長い時間を費やした戦争が終わった後、この地に残った駐屯兵は馬を走らせて土地を占領した。馬に乗り、鞭を一振りし、馬が走り疲れて停まったところ、その範囲の土地、林、草原、さらには土地の女たち(この地の男たちはほとんど戦死していた)まで全てがこの兵のものになった。そのため、今日でもなおこの地の言葉の中には土地の広さを表す単位「趟」(駆けるの意味)が残っている。「あんたの趟の畑は今年は豊作だね」といったように。

 私は旅館の女に尋ねた「チベット族かい」

 私はチベット語を使った。彼女は私を見つめ中国語で答えた「チベット族よ」
 私は笑った。
 彼女は決まり悪そうに言い訳した。ここではほとんどの人がチベット語を理解する。だが、しゃべるのはもう難しくなってしまった。
 「舌がもつれちゃって、チベット語らしくもないし中国語らしくもないのよ。しゃべったら兄さんに笑われるわ」
 このあたりでは、女性は見知らぬ成年男性を、相手の年齢にかかわらずすべて「兄さん」と呼ぶ。面白かったのは、彼女はそれに続けてこう尋ねたのだ。
 「兄さん、中国料理にする、チベット料理にする」

 これは興味深い質問である。
 この大きな河の上流の支流のまた支流で、黄昏時、一夜の宿を捜していた時、途中ですれ違った水を背負った女が私に尋ねた。
 「中国に住んでるの、それともチベットに住んでるの」
 今、また同じような言い回しで同じような質問をされてしまった。

 チベット族の料理を注文した。

 こうして私の前に奶茶が現れた。茶の中の乳はその土地を表す。茶に混ざって少し薄く感じられが、これは茶に混ぜた乳の量ではなく、質の問題である。この乳は雑種の牛の乳である。
 茶にはさらに山椒とかすかな塩の味がした。
 茶が茶碗に注がれると、ブーンという音とともに頭の大きなハエがたくさん飛んできた。

 庭の前には公道に向って大きな柏の木が1本寂しげに聳えている。この河の両岸には以前はこうした背の高い柏の森があったのだろう。ところどころに白樺と楓が交っていたかもしれない。現在、たった1本残ったこの大きな柏が強烈な日差しの下で孤独に聳え、涼しげな大きな影を落としている。
 
椀を持って木陰に座るといつの間にか詩の世界へ入っていった。

 私の足元、土と小石に覆われた下に、まだ風化されず砕けていない巨大な岩があり、柏の根が土と小石の間を這うように伸びていき、その根がごつごつした力強い指のようにがっしりと巨岩をつかむ…

 私の空想を打ち破ったのは旅館の女だった。
 彼女はギャロンでは「バイバイ」ラサでは「トゥバ」と呼ばれる団子の煮物の入った大きな碗を持ってきた。このあたりの粉は腰が強い。作り方は、まず酸菜と四川唐辛子を炒め水を加えてスープを作り、その後で粉をこねた団子を入れる。私はこれが大好物で、一気に三杯食べてやっと箸を置いた。

 それから強い日差しを浴びながら再び歩き始めた。

 もう一度あの料理屋の方を振り向いた時、柏の木の下にビリヤードの台があるのに気づいた。思いつく限りの流行の服を着込んだ二人の若者が、一突き一突き、有り余る時間をもてあそんでいた。 

 昼、私の落とす影がもうこれ以上ないまでに短くなった。影さえも昼寝をしてしまったようだ。

 この村も大渡河沿いのいくつかの村と同じで、低い家が、大通りをそのまま公道にした道の両側にひしめき合っている。
 公道は静かだった。熱と光線を強烈に手加減することを知らずに反射している。あまりのまぶしさに目が開けられない。道の両側の家は土埃にまみれて、まるで悪夢のように静かだった。

 これは、大渡河流域の荒涼とした心の痛む一帯にたくさんある小さな村の一つである。もし名前が違っていなかったら、この村と他の村に何か違いがあるのかどうか、見分けることはできないだろう。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



阿来「大地の階段」 ⑱ 第2章 大渡河に沿って歩く

2008-06-26 23:24:36 | Weblog
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大都河4 心を痛める場所

 二日目、朝早く目を覚まし、太陽が出る前の涼しい間に少しでも多く進んでおこうと出発した。

 歩き始めてすぐにサボテンの姿は見えなくなった。
 だが、進むにつれて巨大になっていく山は、やはり破壊され荒涼としている。
 太陽が昇り始めると、河風の中にわずかに感じられていた湿り気があっという間に蒸発していった。累々と重なる岩が太陽のもとに晒された時、私の胸は痛みを増した。自分が今人類の傷口を歩いているように感じられたからだ。

 土埃、また土埃。どこもかしこも細かい土埃で覆われている。

 埃の中、光を反射してきらきら輝いているのは、石英と石綿のかけらである。

 幸いなことに、巨大で険しい山が影を落としていて、その中を歩いたり、休んだりできたし、河面から昇ってくる潤った空気を味わうこともできた。森林があり植物がたくさん生育していた時は、河の水が山々を潤し、山々が河の水を育くんでいた。だが今、河の水は山々の中で少しでも甘い汁を吸おうとする、最後の略奪者となってしまった。河の水が、風と雨が運び込んだ谷間の土砂の最後の一塊をきれいに流し去った時、かつては力にあふれていた山々は完全に死んでしまうだろう。
 このように、まさに今死にかかっている場所は、一部の狭い地域だけにとどまらない。それは、四川盆地の端から青蔵高原の端まで、階段のようなに連なる山々からなる、2~300kmに及ぶ巨大な傷口である。

 それはふさぐことのできない傷口である。

 この傷口となった地域では、かつて民族の衝突と何度かの戦争があった。だがそれらの衝突や戦争のほとんどは旧式の武器しかない時代に起こったもので、これほど巨大な生態の破壊には至らなかった。
 この傷口が作られたのは、現代になってからの百年の間のことだ。
 人類が平和的な方法で、建設や、進歩や、人々の幸福と生存といった大義名分をつけ、休まずに搾取した結果なのである。

 私はこのような心の痛む地を何度も行き来してきた。

 もし車に乗ったとしても、このような地域を通り過ぎるのには丸々一日かかるだろうし、大都河を遡るこのような特殊な地域なら、二日間の旅程を費やしても目の前を埋め尽くす荒涼から抜け出すことはできないだろう。もし歩いたとしたらはるかに長い時間が必要である。

 濾定から丹巴までの100kmの行程では、早朝出発し野営をしながら丸まる三日歩き通した。 

 またサボテンが見えた。だがこれは農家の壁に植えられたものだ。この黄土で築かれた塀、黄土で建てられた家は何年もの間強烈な日差しと激しい雨に晒されて、壁の上にはぼつぼつと塩の吹き出たていた。土の家の前後には緑濃い梨の樹があった。梨の樹と土の家が谷の平地にある大小さまざまな村落を構成している。村落の周りはやはり緑を競い合うようなトウモロコシと小麦畑だった。
 このような村落は1~2kmごとに、山陰に平らな土地が現れると同時に何の予告もなく出現する。村をいくつか過ぎた後には、村より少し大きい鎮が現れることもある。白い壁に青い屋根の家々だ。郷で一番の役場があることもある。庭に国旗が揚がっていて、降り注ぐ日差しの下、浪々とした朗読の声が白楊の下の教室から聞こえてくることもある。

 このような時、私はいつも不思議な感慨に襲われる。
 本来なら、この声をこの地域の希望の声ととらえるべきだろう。だが私は彼らの将来に悲哀を感じてしまう。自然を破壊された山の中で最後の青草を捜し求める山羊に感じる悲哀と同じである。ある土地が前途を失おうとする時に、希望に溢れた青少年の集団が現れるのは、悲哀をさらに深めることにならないだろうか。

 未来にもう少し楽観的になろうと思うのだが、心の奥深いところにあるどうしようもない荒涼感を克服できないでいる。

 だからこそ、私は人間にもっと生き続けてほしいと願う。道ですれ違う牧人のように強靭に、淡々と。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




阿来「大地の階段」 ⑰ 第2章 大渡河に沿って歩く

2008-06-13 02:09:44 | Weblog
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3失われた樺の林

 パソコンのキーボード叩いていたら、突然、あの樺の林について書きたくなった。
 その樺の林があった村は、チベット語でカルグと呼ばれていた。この村は古い街道の大きな宿場だった。そこで、ここを行き来して漢の地に帰る商人が漢族の名前をつけた。馬塘である。50年代に新しい人民政府が公道を作ってからは、この場所は、地図の上で、成都から伸びる国道213号線の刷丹路という支線上の最も小さい点となった。道路を補修に来た労働者たちは、チベット名も中国名も使わず、この村を「15キロ」と呼んだ。

 「15キロ」のコンクリートの標識が立っている辺りに、山の中腹の林から一筋の小川が流れて来ている。この流れに沿って、細い道が公道の急なへりを登っていき、斜面を埋め尽くす白樺林の中に消えていく。

 それは薬を採りに行く道である。白樺林の間にあるいくつかの崖の上で、私も木麻黄を採ったことがある。
 その道はまた、山羊を放牧する道でもある。白樺の林の間には斜面に沿った草地がいくつもあるからである。
 その道はまた狩人が通る道でもある。以前、村の若者が熊に追いかけられ、林を抜け出し公道まで逃げてきたところで、石でその熊を打ち殺した、という事件があった。

 泉の水を腹いっぱい飲むためにこの道を通る、という人もいる。公道から入り山道を登ると、20分もしない所にその流れの源がある。この泉の水は、カルグ村の周りの数ある泉の中でも一番甘い。だがその泉がどんなに甘くても、白樺の樹液にはかなわない。

 春、村の小学校の放課後、その白樺林は私の子供時代の天国だった。春の初め、よく伸びた白樺の皮に小刀で傷をつけると、甘くてさわやかで、そしてほんのちょっと苦い樹液が流れ出して顔中を濡らしたものだ。

 だが、私はこの美しい林とともに少年時代を終えることはできなかった。

 文化大革命の間に、400km離れた四川省から一通の書類が届いた。万歳展覧館という建物を建てることになったという。全中国の全ての民族の領袖、毛主席に捧げるためである。
 どのくらい大きいかというと、紅軍の部隊にしばらく属していた大隊長は、土司の官塞よりもはるかに大きいだろう、と言った。
 ある環俗したラマは解放前にラサに行ったことがあり、だから発言する資格があるのだが、彼によると、土司の官塞どころじゃない、毛主席の家はポタラ宮よりも大きくちゃならない、とのことだった。
 当時ほとんどの人はポタラ宮がどのくらい大きいのか知らなかった。
 だが、伐採は半年以上続いた。

 誰が言い出したのかわからないが、毛主席に忠誠を示す白樺は普通の白樺ではだめで、紅樺でなければないということになった。紅樺は普通の白樺より高い場所に生育している。そこで村の男たちは毎日朝早くから山に登り、高く伸びた紅樺を次々に伐採していった。黄昏時に山を降りて来る時には、彼らと一緒に紅樺の大きな幹が次々に滑り落ちてきた。
 
 重い樺の木が滑り下りてくる時、大きな破壊力を見せ付ける。小さな木や草花はあっという間に押しつぶされ、低い場所ですらりと美しい姿を見せていた白樺もまた、ぶつけられて傷だらけになった。林の中のよく肥えて柔らかくなった腐植土の表面が掘りかえされてしまった。
 雨が降ると、一日中、泥とその下に埋まっていた瓦礫が山の下に向って流れ続けた。
 あの頃甘い水を湧き出させていた泉は流砂によって深く埋もれてしまった。

 その後で、公社や県から人がやって来て、物差しを手に一本一本測量し、合格したものには断面にひまわりの絵を書き、真ん中に赤々と忠の字を書きこんだ。
 そのため、これらの木は樺の木とは呼ばれず、「忠の木」と呼ばれた
 忠の木は解放牌のトラックや、反修牌のソ連製トラックに積まれ、村の後ろで岷江と大都河という二つの大きな水域を分けている鷓鴣(シャコ)山を越え、ミアロに至り、さらに岷江の支流のザクナオ河に沿って理県を超え、さらに50km走って汶川県の威州鎮で岷江の本流と合流し、岷江峡谷を抜け、都江堰に至り、それから天府の国、四川省の中心成都に到着する。

 トラックが何台も何台も往復し、静かだったカルグ村はにぎやかになった。
 当時の私には、二十数戸のカルグ村よりも大きな地理的概念はなかった。

 そのころの私の願いは、樺の木の断面にひまわりを書く人が興に乗って、私に筆を渡し、彼が鉛筆で輪郭を引いた中に、真ん中に芯が無いので種を結ぶことはないが、大きな忠という字を咲かせたひまわりを書くことだった。

 羊飼いの少年だった私の手は、絵の具を含ませた筆を持つとうれしさに手が震えた。それなのにどうして自分は画家にならずに、文字を操る生涯を送ることになったのか、今でも不思議でしょうがない。そしてまさに、この文字の縁で、80年代の中頃、当時忠の木を送るトラックが走った道に沿って、私ははじめて成都へやって来た。目標にしたのは、カルグ村の人々の想像の中では土司の官塞よりもポタラ宮よりも大きな建物だった。

 その建物は巨大でなければならなかった。なぜなら、山の斜面の木材になりそうな紅樺をすべて切り倒したのだから。

 だが、私が目にした建物は私が想像していたほど輝かしいものではなかった。あの時の、万歳展覧館がこんなに埃っぽい色をしているとは思ってもいなかった。平原の、同じように埃っぽい建物の中にあって、それは想像の中の聖殿という趣は微塵もなかった。重々しさはあるけれど、こんなに雄大とは程遠い姿であろうとは、想像もしていなかった。もし自分の目で見たのでなかったら、この建物の前の広場に立っている偉人の像の広い肩に、鳩が糞をするなどとも想像できなかっただろう。

 私は、永遠に消えてしまった紅樺に心を痛めた。

 この都市に行き来するようになってしばらく経ち、その住民になってから、私はこの都市の歴史と地理を少しずつ理解していった。そして古くからこの街に暮らす人々もまた、この建物の所在地のかつての雄大な姿と、移り変わりゆく城壁を想い、心を痛めているのだと分かった。

 もう一度あの白樺林に話を戻そう。あの消滅の物語はまだ完結していないからだ。さらに二、三年経ってから、消滅する運命が白樺に襲いかかったのである

 今回は北京から命令があった。戦いへの備えをせよ!

 カルグ村は静かで、辺鄙である。普段は忘れ去られているが、時には国の運命と密接な関係を持ってしまう。戦いの準備、即ち白樺の木の供出である。村中の男がのこぎりを持って山に登った。白樺は次々とうめき声を上げながら倒れた。その後必要に応じて一定の長さ一定の太さに切られる。不合格のものは山の上に捨てられ、二年もしないうちに徐々に腐っていった。合格したものは公道の脇に山積みにされ、トラック隊が来て私たちが知らないどこかの兵器工場に運ばれるのを待っていた。カルグ村の人々は、これらの白樺の用途は歩兵銃、機関銃、自動小銃の銃床やその他の木の部分に使われる、と知らされていた。そのため、白樺はカルグ村にこのかつてない光栄をもたらした。

 この光栄があまりにも抽象的なものだったためだろうか、今でもカルグ村の人々はこの時の白樺を惜しんでいる。

 実は、カルグ村は白樺を失っただけでない。四季が移り変わってゆく美しさを失い、春の林の花や草、きのこを失い、林の中の生き物を失った。それ以後、夏になると保護となる覆いを失った山は雨水に直接洗われることになった。土石流が毎年あの泉の穴から溢れ出し、斜面を押し流して交通を遮断する。ある年、私は、外地から帰ってくる途中、家からに三キロのところで土石流のため進めなくなり、バスの中で、眠れぬ一夜を過ごした。

 白樺が消えてしまったのと同時に、代々受け継がれてきた自然への恐れと慈しみの心が、人々の中から少しずつ失われていった。村の人々は斧を持って災害の後生き残った林へ向い、一時の利益を追い求めた。ある年の春節に故郷へ帰った時だった。夜の深けた頃、こっそりと切り出した木を公道のあたりであわただしくトラックに積んでいる音を耳にした。そのような光景を私は一度ならず見ている。

 このようにして、私は森林が消えていくのをこの目で見、そしてさらに悲しいことに、道徳心が失われていくのを目の当たりにした。

 故郷は私にとって口にしたくない言葉となった。

 あの村の名前は、永遠に癒えることのない傷口となった。
 だが、私たちのカルグ村のような例は、一つだけではない。カルグ村の運命は普遍的な運命である。この本で触れる大都河流域、岷江流域、嘉陵江流域にあるすべての村では、この運命から逃れられる人は一人もいない。

 だから、濾定の大都河の谷間で一面のサボテンを目の前にした時、私にはそれが、打ち砕かれた大地が最後にほんの少し残された生命力を振り絞って、もがき、叫び、人々に本来の姿に目覚めるよう警笛を鳴らしているように感じられた。
 だが、この巨大で残酷な存在は、ほとんど人の目に触れることがない。斧は更に深い山の中に入り、河には木々の死体が溢れている。
 河がすべての木々を流し終えた時、その時私たちは始めて気づくだろう。耳元を流れていくのは、干からびた風の音だけで、万物と人間の心を潤してくれる水の音ではないのだ、ということを。

 すべての生き物は森林の水の流れとともに消えていく勇気を持っているのに、ただ、人間という、うぬぼれ屋で全て思い通りになると勘違いしている欲張りな生き物だけは、森と水を消し去る勇気はあっても、森や水と一緒に消えていく勇気はないらしい。

 地球上の生命進化の中で、もし水がなかったら、もし森林がなかったら、人類の出現はなかったのだということを、私たちは知らなければならない。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


阿来「大地の階段」 ⑯ 第2章 大渡河に沿って歩く

2008-06-02 00:52:52 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



2 サボテンの谷
 
 道を塞いでいた長い長い車の列を、ついに遥か後方へと振り切った。
 道の両側に迫る、禿げ上がってぼろぼろの岩山を太陽が照らし、まぶしくて目が痛く、乾いていく。コンクリートのような山の上に緑が見える。だがそれは木ではない。野山を覆うサボテである。

 このように大量の巨大で様々な形をしたサボテンは、雑誌のグラビアでしか見たことがなかった。その写真は、メキシコの荒野を写したものだった。中国にもこのようなサボテンが群生する荒涼とした場所があるとは、これまで思ってもいなかった。

 特に不思議なのは、中国とチベットの交わる地域、四川盆地から青蔵高原へと続く山々がいよいよ険しさを増そうという地域に、このように荒涼とした、大自然に激しく踏みにじられた場所があるということだ。北から南に向かけて、嘉陵江流域もそうだし、岷江流域もそうだった。だが、大都河流域がそれ以上にひどい状況だとは思いもよらなかった。
 科学者はこのような荒涼とした一帯を「亜熱帯干ばつ河谷」と呼び、次のように述べている。
 「この地域は、かつて森林に覆われ気候も穏やかだった。だが千年以上に渡る戦争と人類による伐採により、美しかった自然が凶悪な表情に変わってしまったのである」。
 自然科学者は、このような森林は一度消失したら総ての自然生態を回復するのは難しい、と警告している。

 この一帯は同じ国の中の二つの民族の間に位置している。敵対する二つの国の間にあるのではない。見境のない大自然への略奪が、ついに今目の前にあるような悲惨な状況を作り出してしまったのである。
 
 今回の旅を終えた後、私は特に意識して資料を収集し、かつて自然の気候に恵まれて緑に覆われた地域が、いつ頃から現在のような状況に変わり始めたのか、調べようと試みた。だが残念なことに、どの言語の文章の中にも、関係する記事を探し出すことができなかった。

 チベットで長年仕事をしてきた作家・馮良が、少し前に二冊の本を贈ってくれた。一冊は彼女の長編『西蔵物語』、もう一冊は彼女が編集した、もとは『康蔵軺征』と呼ばれていたが、現在は『国民政府女密使赴蔵紀実』と改題された本である。目下自分が、チベットを旅した時の本を書いているためだろうか、しばらくの間、1930年に実際にチベットへ入った人物が書いた本に対する興味の方が、馮良の小説に対する興味を越えてしまった。

 この本の主人公、劉曼卿という女性は、今では忘れられかけているかつての風雲児である。
 劉曼卿は、ラサで生まれたチベットと漢族の混血児で、チベット名をヨンジンといった。彼女は国民政府の特使として、中央政府とチベット地方政府の関係を深めた功績により、高く評価されている。
 史料によるとこの任務で劉曼卿が南京とラサを往復するのに364日かかっている。丸々一年費やしたことになる。彼女はラサと、チベットに入る道々で、「力を尽くして中央の恩恵を伝え、辺境を想う中央の温情を伝えたため、チベットの民とそこを治める土司、ラマたちの熱烈な歓迎を受け、ダライラマに賓客として迎えられた」。南京に戻った後、国民会議に招かれてチベット訪問の報告を行い、国民党政府主席は特別に彼女に報賞状を送った。賞状の文面は次のようであった。
 「国民党政府は劉曼卿が本政府文官処の命によりチベットに赴き、往復一年の歳月を費やして視察を行い、党の要請を伝えた。特使の名に恥じない逸材である。ここに特に賞状を与え表彰する」

 私がこの本に興味を持ったのは、彼女がチベットに向う行程の一部と私が歩いた道程が重なっているからだった。この重なった道程について、チベット族の人間が書いたものと、それ以外の人間が書いたものとの間に違いがあるのかどうか知りたかったのだ。だが、彼女の文章の中には、チベット族の血を引く人間がチベット文化の世界に戻った時の、魂の共鳴を伝える言葉はなかった。それよりも、「塞外を一人行く、思うところは何ぞや」といった、陳腐な言葉があるだけだった。

 私がチベットの本を読む時、選択の基準は他の本を読む時とはかなり違っている。それが私の偏見だとは分かっているのだが、読書に対するこの本能的な取捨選択を変えることは難しい。
 私がチベットの本を読む時まず第一にすることは、言葉の端端から、読者が受け入れられているのか、それとも疎外されているのか感じ取ることである。もしその中に強大な文化が持つ優越感があったら、申し訳ないけれど、そこで読むのをやめることにしている。

 私はもう一度、本棚からこの本を取り出した。作者が濾定から康定へ至る道の途中で、大都河という人類最大の暴力を体現している峡谷を通る時、どのような想いを抱き、それをどう記述したのか知りたかったからだ。
 だがやはり、見つけることはできなかった。
 彼女は、踏みにじられぼろぼろになった山に繁殖するサボテンを見なかったようだ。私が思うに、これらのサボテンはこの大地に残された最後の生命力なのである。

 私は引き続き手元にある数少ないチベット族と漢族の交流に関する資料を調べてみた。その中の一つが、四冊組みの糸綴じ本「辺境風土記」である。作者の査騫は、光緒年間に四川総督から里塘食量長官を任命され、その間この道を行き来し、結果としてこの四冊の書物を残した。その第四冊濾定県の条にサボテンに関する記載がある。

 「濾定県内でサボテンを産する。草生樹本、非常に丈が高く、奇怪な形で水分が多い、触るとすべすべしている。土地の者は多量に植えて垣根とし、棘のように密に並べる。四角、三角のものがあり、緑のもの黄色のものがある。味は甘く仙桃と呼ばれる。本草綱目に、[サボテン(仙人掌)は人の手のような形をしているのでこの名がついた。岩の壁に張り付くように植生し、その性は苦く寒に属する]とある。濾定のように多量大型のものは他では見ない。山中に耐え難い臭気を放っているのはこの樹であろう」

 これもまた中国の読書人特有の文語調の文章である。
 このように心の痛む、傷ついた大自然を目の前にしながら、冷静に果実を味わい、漢方医学の薬の価値を思い起こすことができるとは。私には永遠に及ばない境地である。

 公道の縁には、チベット族でも漢族でもない服を着た、汚れた顔の子供たちが仙人桃の籠を手にして買い手を待っていた。強い日差しの下を歩いて喉がからからだったし、仙人桃はイチジクのような濃厚で誘惑的な香りを放っていたけれど、口にする気にはなれなかった。
 私は、かつてこの辺りが緑と水にあふれていた時の風景を想い浮かべていた。

 さらに心が痛むのは、大自然への略奪が、はるか彼方、雲に抱かれた深い山の中にまで及んでいることである。

 公道の下、河の中で濁流とともに身を翻し、岩にぶつかっては大きな音を響かせているのは深い山奥で切り倒された樹々の亡骸である。
 カラマツ、杉、柏、白樺、トウキササゲ、シナノキ。
 これらの大木は、それぞれに適した高度で、遥かな年月に渡り成長し、呼吸し、何百年もの間この河のために緑をはぐくみ、この土地を肥やすために栄枯を繰り返してきた。だが今、彼らはうめき声を上げながら倒れていく。

 まず、鳥がねぐらを失い、獣が木陰を失った。そして、最後に我々人間が罰を受けるのだろう。

 その時私は何故かしら、故郷の、すでに失われた白樺の林を思い出した。



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




阿来「大地の階段」 ⑮ 第2章 大渡河に沿って歩く

2008-05-21 02:34:17 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



1 酔って瀘定橋に横たわる   その2



 今、瀘定の名をひろめているものにもう一つ、四川省最高峰・貢嗄山(ミニアコンガ)に抱かれた海螺溝風致地区がある。この風致地区は温泉と、勇壮な低海抜の氷河で有名である。この地方では、亜熱帯気候から一年中積雪している雪線まで、一、二日のうちに数千メートルの高度の変化を体験でき、そこから本物の地理を学ぶことができる。もちろん、植物学と動物学も学ぶことができる。
 私はかつて山の上で、三匹の銀環蛇から生々しい生物学を学んだ。旅が終わってから、私にとってはただ一つの、動物(銀環蛇)からインスピレーションを受けた短編小説を書いた。「銀環蛇」である。

 海螺溝の氷河と温泉を数日うろついた後、同行の一団と馬は成都へ帰った。私は濾定で皆と別れ、高旭帆の家で数日鋭気を養ってから、もう一度康定へ行き、雨もよいの早朝、康定のバス停から丹巴行きの定期バスに乗ってさらに先を目指した。

 康定を流れる折多河は大都河の支流の一つである。水量は多くないが、高度を急激に下げていく山の中をうねりながら、怒涛の勢いで流れていく。河幅の狭い折多河に沿って公道を10キロほど下ると、山々に囲まれた谷が開けて、道もいくらか緩やかになり、滔々と水を湛えた大都河が再び目の前に現れる。
 河を挟む広々とした谷は、晴れるかと思うとまた雨になる。こちら側は濛々と降り注ぐ雨に閉じ込められているのに、あちら側は雨の切れ目の太陽が強烈に照りつけていたりする。これは私には見慣れた光景である。

 ふと、バスを降りて歩きたいという衝動に襲われた。
 神の特別な配慮だろうか、まもなくするとバスが止まった。昨日の夜、土石流が暴れまわり、道路が塞がれていた。

 このバスが止まったのは、これで三度目である。

 一度目は、康定を出てすぐに一人の乗客が、バスの屋根に載せてあった荷物が落ちたと、大声を上げたため。

 二度目は、完全武装した公安と武装警官が道を塞いで検査していたため。彼らは自動小銃を肩に乗り込んできて、一人一人の顔をにらめつけ荷物を調べ、終わるとバスを降り、緑の旗を振って発車させた。網棚に載せた私の赤いナイロンの旅行かばんは、かなり長い間疑いの目で見つめられていた。中には干した食料と重い珠江カメラと数冊の本しか入っていないのだが。だが、彼らはただ睨むだけで、開けて中を見せろとは言わなかった。

 そして今回が三回目である。誰かに教えられなくとも、公道に並んだ長い車の列を見れば、このタイヤでは前に進めないのだとすぐわかった。土石流が、遮るものが何も植えられていない険しい山肌を流れて来たのだ。粘土のような泥水が崩れた山の上からあとからあとから流れてきて、百メートル以上にわたって道路を覆ってしまった。泥水は山の上から大きな石を次々と押し流し、それらの石が道路全体を占領していた。
 もし、人が大勢いて、爆薬があって、ブルドーザーがあったら、これらの障害物を取り除くのはそれほど大変なことではないだろう。だが、道路工事の人や爆薬やブルドーザーがいつ来るのか、誰にもわからなかった。もしかして一分後かもしれない、もしかして二、三日待たなくてはならないかもしれない。

 このような目に遭うのは初めてではない。そこで、バスからリュックを降ろし、靴を脱ぎ、ズボンを捲くり上げ、ひざまである泥水の中を歩き出した。反対車線にも長い車の列ができていた。路肩にはほとんど木がないので、大勢の人が仕方なしに車の陰に座って、雨上がりの強烈な日差しを避けていた。
 長かった車の列をもう少しで抜け出そうという頃、車の陰から次々に人が出てきて私を引き止めた。

 だんな、マツタケは要らないかね。
 だんな、冬虫夏草はどうだい。
 だんな、これ要らないかね。
 私はその都度、要らない、と答えた。

 その時二人の男が私の前と後ろに立ちふさがり、二台のトラックの間に誘いこんだ。彼らはこれまでの連中とは違って、売り物を取り出さず、じっと私を見つめた。こちらがちょっとびくついてきたのを見計らって、一人がにやっと笑った。  「だんな、砂金が少しばかりあるんだけど、持ってかないか」
 「おれは金を集めに来たんじゃないんでね…」
 「じゃあ何してるんだ」

 私がどんな想いでこの河に沿って歩いているのか、説明する気などなかった。ましてや、この河が私にとって、そして彼らにとってどういう意味を持っているのか、解説したくもなかった。

 もう一人が近づいて来た。「あんたいったい何を探してるんだね。銀かい、それともこのあたりの骨董かい」
 私は首を振った。
 「いったいあんた、何者なんだ」なぜか彼らは勝手におろおろし始めた。
 今度は私が笑う番だ。「うちへ帰るのさ。マルカムへ帰るんだ」
 「マルカム?歩いて帰るってのかい」
 「途中で車に乗るかもしれないけどな」

 こうして、前に立ちふさがっていた男は、車に貼り付くようにして道を開け、私を通してくれた。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




阿来「大地の階段」 ⑭ 第2章 大渡河に沿って歩く

2008-05-20 03:11:29 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



1 酔って瀘定橋に横たわる   その1

 大渡河のことは、ほとんどの中国人が知っている。工農紅軍の長征があったからである。もしかして、歴史にあまり関心のない多くの中国人にとっては、政治教育や、テレビや映画に登場する人物、石達開の方が馴染み深いかもしれない。
 大渡河は中国人民解放軍の歴史に、一連の英雄たちの名前と、中国人にはおなじみの二つの物語を加えた。「安順場で大渡河を渡る」と「十八勇士瀘定橋を奪い取る」である。

 ちょうど数日前、四川省成都の新聞が、中華人民共和国50周年にあわせて大々的な催しを行った。冒険心のある勇者を募って、当時のように橋板をすべて取り除いた瀘定橋の鉄の鎖を伝って、自然の要塞大渡河を渡る、というものである。主催者の本意がどこにあるのか、私にはよくわからないが、何事にも意義を発掘するのが得意な記者の言葉によると、国慶節の式典が行われようとするこの時に、この催しは、当時の紅軍が天然の要塞を奪った勇姿を再現でき、それを通して革命の伝統を教育することができる云々、ということだった。
 こんなふうに書かれると、挑戦的でスリルに満ちた催しが、急につまらないものに思えてしまう。

 その後、その催しがどうなったのかすっかり忘れていたが、新聞に載った写真から、大勢の人が橋板を取り除いている様子を見ることができた。はずされた板を見て、1989年の夏を思い出した。仲間たちと初めて二郎山の麓の濾定に来た時のことだ。
 黄昏時、私達はいつもより少し余計に酒を飲み、当時瀘定県で仕事をしていた作家の高旭帆に連れられて、橋の上を散歩した。

 黄昏の中、相手の顔が段々とぼんやりしていき、西の空では、最後の日の光が夕靄を血のように染めていた。河風が吹き、酒を飲んだ後の私たちの足元をふらふらさせた。大渡河はちょうど洪水期で、逆巻く波音が谷間に大きくこだましていた。私達は欄干の役目をしている鉄の鎖に寄りかかり、河風を受けながら、西の空の真っ赤な夕靄が少しずつ暗薄ぎ、完全に消えてしまうまで見つめていた。その時、手に触れた鉄の鎖は蛇のように冷たかった。誰が始めにそうしたのか思い出せないが、満天の星の下、私達はみな橋板の上に寝転がった。
 ひんやりした鉄の鎖と違って、木の板は昼間蓄えた太陽の熱をゆっくりと放出していた。河風で冷やされた体は、ざらついた中に確かな暖かさを感じていた。
 橋の袂の瀘定の街は少しずつ静まっていき、それにつれて、轟々と流れる河の音がいっそう強く響いてきた。誰かが声を張り上げて紅軍の長征の歌や大渡河に関連する歌を歌い出した。だが、どんなに声を振り絞っても、大都河の波が奏でる歌声には勝てなかった。

 私はすこし頭がふらつき、静かに橋板に顔をつけた。板のざらつく暖かさのためか、それとも酔いのためか、そしてもしかしてほかの何かのためか、目頭が熱くなり涙がひっそりとあふれてきた。涙は静かに心地よく流れ出し、板の上にゆっくりと滲んでいった。私の心の中で、一本の赤い線があたかも地図を書くようにくねくねと延びていった。西へそして北へ。それはこの大都河が流れて来た方角である。くねくねとした感情の赤い線は、まさに大河のうねりそのものだった。西へ北へと向って果てしなく連なる山々が、この河を育て、私の体と心を育んだのだ。

 その夜、私は突然思い立って、大都河を歩いて行くことにした。大河に沿って溯れば、人々があまり利用しない道を通って家へ帰ることができる。

 人はいつも自分なりの地理概念を持っているのではないだろうか。もし、私が瀘定を出発点として、大都河に沿って遡ったとしたら、そこには大都河の下流が含まれていない。瀘定より東や南の地域でも、大都河は多くの県に跨って流れていき、そして最後に、四川省楽山市の名高い大仏の足元で青衣江と岷江と合流し、そのまま長江へ向って滔々と流れていく。ということは、もし本当に大都河を歩き通そうとするなら、どうしても楽山の大仏の足元から始めなければならない。だが、この間の大都河は、地理としてそうなっているというだけで、私自身の感情的な思い入れはない。チベット区の大都河、ギャロンチベット区の大都河は、瀘定から始まるべきなのだ。瀘定とは、漢民族とチベット族という二つの文化圏が終わりそして始まる場所である。地理的に表示されている河とは大都河であり、山とは二郎山である。

 二郎山の名前は、中国人は一つの歌によって馴染んできた。
   二つといえば二郎山。
   高さ万丈雲を突き、古木や荒れ草山野を覆い、
   巨石が山を埋め尽くす。
   解放軍、不屈の男。
   さあ!この道を、チベットめざし切り開け。

 行政的な区画を気にせずに、文化の分布だけから見れば、瀘定こそチベットが始まる場所である。

 大都河だけではなく、大渡河にかかる瀘定橋も、そして大都河の北に聳える四川盆地の端の二郎山も、唱歌のように楽観的な革命史の叙述の中で、空間意識をあまり持っていない中国人の間に、一種の地理概念を普及させた。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




また一休み  阿来の発言に批判が…

2008-05-13 00:16:01 | Weblog
4月30日、CCTVで阿来へのインタビュー「辺走辺写」が放送された。http://vsearch.cctv.com/play_plgs.php?sref=tvprogramme_20080429_6230800&ref=tvprogramme_20080429_6230800

5月7日、新華網にも阿来の談話ということで、阿来の見解が載せられた。http://www.xz.xinhuanet.com/xizangyaowen/2008-05/07/content_13183698.htm


インタビューでは、チベット語は僧侶たちが使う言葉で、日常生活について表現する言葉ではなく、独立した文学がない、と語っている。自分が漢語を獲得したことをとても素直に喜んでいるようだ。

談話では、現在チベットは今までにない自由を享受している、と語っている。ダライ集団という言葉で、これまでの宗教による抑圧を暗に批判している。

これらの発言が、ネット上で多くの若者の反発を呼んでいる。
私にも信じられない。

インタビューの他の部分では、チベット語に一度立ち戻ることで、漢語での表現が更に豊かになったとも語っているが。
でも、全体的な調子としては、この百年、中でも後半の50年によってチベットは大きく変り、生活が便利になった、と天真爛漫に喜んでいる。文化的なものよりも、道路ができて買い物が楽になった、などというのんきなもので、生活者としてこれはとても素直な感想だろう。阿来は実際にその目でその変化を見つめてきたのだから。

それでも、今のチベットが以前より自由になったというのはどういうことだろう。阿来は特に信教の自由を挙げている。仏教以外のものが信じられるようになったと。ダライ集団の統治の間、上層の愚民政策で…チベット族の庶民は来世に希望を託すしかなかった、と語っているようだが、ダライ集団という言葉を聞くと、私などはぞっとしてしまう。もしかしてこれはごく普通の表現なのだろうか。

こんなにチベットに近い阿来でも、見えないようにされてしまうものがあるのだろうか。

新華網の記事に対するコメントは、全て阿来を支持するものだった。
別のブログ(http://woeser.middle-way.net/?action=show&id=473)のコメントは、ほとんどが阿来を批判し罵るものだった。その中にも、個人的な攻撃はやめよう、という冷静なものもあったのでちょっと救われた。

でも、なぜ…
しかもこの時期に…

何かの間違いであって欲しい。
『大地的階梯』の中では、アバの自然を愛し、アバの人々の素朴な生活を愛し、アバに仏教を伝えた大師たちを賞賛の思いをこめて紹介しているのに。

月並みだけれど、これからの阿来の作家としての仕事を見ていくしかないだろう。
前回、第一章の最後に書いているように、よい仕事をして、アバの人々に捧げて欲しい(これって、10年以上前の言葉)
このブログも、ゆっくりと続けていきたいと思います。

そして今日の四川省の地震。被害が少しでも少ないように願っています。



阿来「大地の階段」 ⑬ 第1章 ラサから始めよう 

2008-05-11 21:22:01 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


7 もっと良い仕事を


 土司制度の最期の10年間の歴史を描いた長篇小説『塵埃落定』を出版した後、ギャロンに最も近い大都市成都のある旅行社が新聞に広告を出して、四姑娘山と米亜羅(ミアロ)温泉の紅葉とマルカンの土司官塞を訪ねるツアーへの参加者を募集した。謳い文句は「ベストセラー『塵埃落定』の風景と民族文化を尋ねて」だった。

 友人が冗談で言ったものだ。その旅行社に行って報酬をもらうべきだ、知的所有権があるのだから、と。私は取り立てには行かなかったけれど、私の故郷の人と美しい風景をどのように紹介するのだろうかと、強い好奇心を抱いた。

 中国を旅行したことのある旅行者は誰も、ガイドが暗記してきた限りある説明の中には、真偽のさだかでないもの、時には事実を歪曲したものさえあるのを知っている。

 私にもそのような経験がある。ある時、某旅行社のバスに乗り、友人たちに付き添って九寨溝へ行った。その旅行社は私の故郷の地元の旅行社だった。だが、旅行中ガイドの説明は人をびっくりさせるだけの、もっともらしい作り話ばかりだった。なんとも腹立たしく、ひどくがっかりした。

 もう一つ経験がある。台湾の作家、張暁鳳夫婦が成都へ来た時、出発前に台湾から電話があり、九寨溝へ行く旅行社を捜してほしいとのことだった。その時私が紹介たのは、やはりアバの旅行社だった。
 五日後、張夫婦は成都に戻り、四川大学の研究室でビデオカメラを取り出し、自称チベット族という青年ガイドの仕事振りと解説の様子を写したものを見せてくれた。それを見た私は喉がからからになり、言葉を失った。
 食事を共にしながら私がどんなに説明しても、五日間にわたって、神秘的な風景と人々に結び付けて歪曲され、文化的責任感のないお笑い調の解説によって旅行者たちの頭に擦り込まれたものを覆すことなど、私には出来はしない。

 スピーカーを手に下げ、小旗を振り、牛や羊を放牧するように旅行者と旅行者の想像力を放牧する自称「ガイド」が、最も関心を持っているのは正確な知識と文化ではなく、尊重しているのはその地域の歴史と文化ではない。彼らが尊重しているのは旅行者のチップ、特に海外からの旅行者のチップであり、関心を寄せているのは途中のホテルや売店や土産物屋でのリベートなのだ。

 今、私が恐れているのは、私の作品もまた別の意味での歪曲を生み出すのではないだろうか、ということである。なぜなら、誰にも自分なりの独特の視点があるからである。
 たが、たった一つ、私が自分を信じられる元になるもの、それは、アバという土地、そしてこの土地の私の同胞に対する、愛と責任感である。これがある限り、もしこの本であまりうまくいかなくても、次の一冊、もしくは次の他の方法で、さらに素晴らしく少しは完璧に近いものを作り出せるはずだ。それをもって、この土地の風景と人々に少しばかりのお返しができたら、と願っている。

 少なくとも自分自身にこう希望を託している。あの「ガイド」たちよりはもっと良い仕事ができるだろう、と。




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



阿来「大地の階段」 ⑫ 第1章 ラサから始めよう 

2008-05-09 00:50:15 | Weblog
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6 追放された光の使者   その2


 ここから梭磨(さま)河に沿って下ると可爾因(クルイン)に着く。杜柯(とか)河と梭磨河は、聳え立つ花崗岩の山のふもとで一つになり、先に述べた金川(ツーチン)のほうへ流れていく。更に川幅を広げた河は、下流に向って勢いよく流れていくが、私は方向を変えて橋を渡る。その北岸に沿って、大渡河のもう一つの上流である杜柯河を数十キロ遡ると、大きな胡桃の木で囲まれた小さな村、観音橋に着く。観音橋は綽斯甲(たくしこう)と呼ばれる地区の中心である。

 今世紀五十年代の初めまで、綽斯甲土司はボン教の力を頼み、政教一致の統治を行ってきた。その間ずっと、ここはボン教勢力の大本山だったが、巨大な柏の木が聳えるこの山の中にも、ヴァイローチャナが教えを広めた物語が数多く伝わっている。花崗岩の洞窟だけにとどまらず、刻まれた経文や、手足の跡といった真偽の定かでないありがたい印や、美しい伝説がたくさん残されている。

 ヴァイローチャナが伝えたのは、チベット仏教の中でも最も古い派であるニンマ派の教えだった。ニンマ派の僧は密教の修行を最も重視している。そのため仏法の理論的な研究は弱体化していた。

 チベットでは、最初に、顕学の大師であるシャンタラクシタが、ティソンディツエンの招聘を受けて吐蕃に赴き、仏教を広めた。シャンタラクシタはインド仏教の自続中観派の出身であり、大乗仏教顕教を正しく受け継いでいた。彼はチベットに入ってから、王と民衆のために「十善法」「十八界」「十二縁」を説き、仏教の基本理念を彼らに注ぎ込んだ。だがあまりにもアカデミックで権威主義的な方法をとったため、布教は失敗に終わった。

 シャンタラクシタは、ボン教勢力に圧倒されチベットを去る時、ティソンディツエンに向って、インド密教の高僧パドマサンバヴァを招けば「さまざまな魔神を調伏できる」と進言した。
 パドマサンバヴァはチベットにやって来ると、ボン教勢力との戦いの中で、その得意とする密教の功力を何度も顕し、ボン教の呪術師に勝利した。彼は効果を実証済みの特別な方法を用いた。その方法とは、ボン教の呪術師に勝利するごとに、ボン教の神々の中の何々神と何々神はすでに降伏し、仏教の守護神のひとつとして封じられた、と宣言することだった。
 私は、このように妖魔を降伏させ神に封じる情景を読むたびに、中国の古典小説「封神演義」のいくつかの場面を思い出す。
 密教の大師とボン教の祈祷師の戦いで用いられた、風を御して飛んだり、光を剣に変えたりといった巧妙奇抜な方術は、なぜか、中国の古典である「西遊記」を思い起こさせた。

 パドマサンバヴァはインドのインドラブーディ系の金剛密教を吐蕃に伝えた。その中には密教四タントラの中でも最高位の楽空双運無上瑜珈タントラが含まれていた。それはすなわち、女性の体を用いる密教の修行法である。パドマサンバヴァにはこのような女性の伴侶が五人いた、と歴史書には記されている。密教修行時の異性の伴侶には「世間空行母」、「明妃」、「仏母」などさまざまな名称がある。修行者にとって彼女たちの身と心は河を渡る時の船、または橋である。
 言い伝えによれば、ティソンディツエンの妃、イエシェ・ツォギャルもパドマサンバヴァが修行する時に「明妃」の役割を務めたという。
 当然、教えは広く伝わったが、より多くの密教修行者が行ったのは蓮華馬頭明王法と金剛橛法などの密教修行法であった。

 パドマサンバヴァは、インド密教の生贄の儀式を吐蕃にもたらした。今それは、チベット仏教の最も忌み嫌われている部分である。当時、吐蕃宮廷のボン教信者の中心的人物ツェンポサ妃は、人間の頭蓋骨、皮膚、腸、血、少女の足の骨で供え物や法器を作るといった残酷と野蛮を激しく非難した。だが、ボン教は終には、やはりパドマサンバヴァの手によって敗れた。

 仏教は神の多い宗教である。中でもチベット仏教の、厳格に等級付けられた大量の守護神からなる体系は、世界の宗教の中の一大奇観である。それは仏教が、初めてチベットに伝わった時の特殊な宗教闘争と関係している。パドマサンバヴァがこの体系を用いて吐蕃で効果的に仏教を広めたためである。
 そこで、ティソンディツエンはもう一度シャンタラクシタをチベットに迎えた。そしてシャンタラクシタとパドマサンバヴァの助けのもと、766年、チベットの歴史上初めての仏法僧三宝がすべて揃った正式な寺院サムイエ寺を建立した。この寺が建立された後、最初に得度した7人のチベット族仏教僧を「七覚士」と呼んでいる。
 ヴァイローチャナはその七覚士の中で最も傑出した、チベット仏教を広める上で最も貢献のあった人物である。
 彼はまたパドマサンバヴァの弟子でもあったが、この地に於いて、ボン教の信徒からも仏教の信徒からも、彼が残酷な方法で教えを広めたという話を聞いたことがない。

 ギャロンのどこを訪ねても、そこで語られるのは、この光の使者がやって来たことを伝える物語ばかりで、彼がここを立ち去ったことには触れていない。ヴァイローチャナはギャロンで何年か過ごした後チベットに戻っている。だが、少なくとも私は、彼がここを去ったという話を聞いたことがない。書物を調べても、彼が吐蕃に戻った後どのような行いをしたのか見つけだすことはできなかった。したがって、私たちには彼が永遠にギャロンに留まったと信じる理由があるのである。

 まず先に盤熱の軍事的占領があったから、ヴァイローチャナは、かなりチベット化していた仏教を伝えることが出来た。なにより、仏教経典の伝来に伴った言葉の伝来によって、ギャロンは文化的に統一されたひとつの地域となり、それまでばらばらだった部族がまとまって、チベット族の中に、自分たちの特色を保った独特な文化地域が作り上げられたのである。

 軍事的な占領は所詮束の間のものだ。吐蕃帝国の崩壊に伴って、盤熱に始まった軍事的統治は当然のように終わりを迎えた。チベットの最も西の阿里の三つの村からギャロンに駐屯した大部分の部隊は、故郷に帰ることなく、この地の人々の中に静かに溶け込んでいった。私の体の中にもギャロンの古くからの血と阿里三村からやって来た吐蕃の軍人の血が流れている。
 この地の土着の民は農民である。農閑期には村の近くで放牧と狩をする。
 そして、世界の屋根を一段一段下って来た、かつて向かうところ敵なしの血気盛んな武士たちは、徐々に青稞の畑を耕す人となり、高山の草原で放牧する人となり、花の盛りに女性のスカートの襞にまとわりつき、愛情と欲情を追い求める人となったのである。但し、武士と軍人の血が永遠に鎮まっているはずはない。一旦危機が襲ってくれば勇猛な遺伝子が呼び覚まされ、穏和な農民も、執着を捨てた僧侶さえも、再び血を滾らせる武士となるのである。

 このような二つの側面を併せ持っているのが、現在、チベット族の中でも特別な存在であるギャロン人なのである。

 ギャロン形成の物語はここで終わりにして、次にギャロンの地理と風習をたどることにしよう。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




阿来「大地の階段」 ⑪ 第1章 ラサから始めよう 

2008-04-27 03:02:02 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


6 追放された光の使者   その1

 機内の乗客の半分以上は内地の様々な学校に向かうチベット族の学生だった。どの顔も、強い紫外線で焼かれて浅黒くなったチベット族独特の肌の色をしている。話しているのはみな、ときおり漢語や英語の混ざるチベット語だった。チベット語はすでに古びた言葉になってしまったのか。若い学生たちは漢語や英語の力を借りなくては、自分の感覚にぴったりな表現が出来なくなってしまったようだ。

 だが、吐蕃が強大だった時代、書面用の文字が創られた頃は、チベット語は力強く生命力にあふれた言葉だった。
 新鮮な言葉と表現方法は、吐蕃の大軍と共に雪深い高原の隅々にまで伝わった。

 言葉について語るのは、また、文化の伝達と融合について語ることでもある。そこで我々はもう一度、チベット族で最初に出家した「七覚士」の一人、ヴァイローチャナその人の物語に戻らなければならない。

 チベット王、ティソン・ディツエンはやむを得ずヴァイローチャナを吐蕃の東北の辺境へ追放した。ヴァイローチャナが追放された時、ギャロンの漢の地に近い峠や、河の水が勢いよく成都平原へと流れていく峡谷の入り口は、どこも吐蕃と唐王朝の軍隊が争いを繰り返す要衝となっていた。
 吐蕃軍は長期に渡って駐屯したため、少数の貴族が一族の純粋な血統を守った以外は、多くの者が土地の者と結婚して子孫を増やしていった。そうであっても、ギャロンという特殊な地は、西に攻め入ろうとする唐の王朝だけではなく、東に向おうとする吐蕃にとっても、文化のとどかない野蛮な地と見なされていた。

 追放されたヴァイローチャナは、その時、光の使者となった。

 彼はこの地に、仏の教え、生まれて間もないチベット文字をもたらした。もし、仏教とそれに伴う共通の文字体系が無かったら、広い領土と独特の魅力を持ったチベット文化の世界を誰が知り得ただろうか。

 こう考える理由は、中国の地図を開けばよく分かるだろう。中国の五分の一を占める、橙色に塗られた青蔵高原で生活しているのは、わずか数百万人のチベット族の人々だけだ。そしてその真ん中は高い山々や渓谷の連なる巨大な空間によって隔てられている。にもかかわらずそこではほぼ完全に統一された民族の文化が育まれてきたのである。これが民族と文化地域の形成史上、驚くべき奇跡であることは疑いないだろう。
 これは、百年にも満たない軍事的占領で成し遂げられるものではない。

 ギャロン地区にとって、盤熱の率いた大軍は、仏教文化の伝播のために障害を取り除き、道を清めるために来たようなものだ。

 舞台が整い、幕が上がろうとする時、この劇の主役となるのは誰だろう。
 もし歴史がまだ始まっていなかったら…。もし未来学者、占星術師に無数の可能性を予測をさせたとしたら……。だが、すべてが歴史となった時、無数の可能性は唯一つの現実へと収斂される。したがって、中世期におろかな結末を迎えるこの芝居の中で、スポットライトに浮かび上がるのはただ一人の主役しかいない。

 その主役こそ、吐蕃王室によってギャロンの中心である大渡河流域へ追放されたニンマ派の高僧、ヴァイローチャナである。

 ヴァイローチャナは、迫害された状態のまま舞台に押し出されたのである。

 私はかつて、彼がラサからギャロンへと放浪した道を遡ってみたいと願っていた。だが、遥かな歳月が過ぎた今、山々の中には鳥や獣の姿があるばかりで、彼が歩き回った道筋は既に跡形も無くなっていた。

 現在、分かっているのは、彼がギャロンに追放された時、最初に着いたのが促浸(ツーチン)だったということだけだ。促浸(ツーチン)とは大河の沿岸地区と言う意味で、今のアバ州領内の金川県であり、解放前に四川省政府が管轄していた大金県である。西暦7、8世紀には、ギャロン地区で文化と農業が最も発達した地域だった。

 言い伝えによると、ヴァイローチャナがツーチンに到着するより先に、彼を殺すように命じたツェポンサ妃の書状が、当地の軍事長官の下に届いていたという。チベット、ラサと比べると、海抜二千メートル程の大金川流域は、かなり蒸し暑い土地である。到着するとすぐに、ヴァイローチャナはより一層蒸し暑い地下の穴の中に入れられ、毒虫や蛙に囲まれて暮らすことになった。だが、ヴァイローチャナはヨーガを深く修めていたので、毒虫たちも彼を傷つけることは出来なかった。当地の軍事長官は、次々に策略を用いたが、ヴァイローチャナの命と肉体を脅かすことは出来ず、その固い信念を揺るがすこともできなかった。ヴァイローチャナの強い法力は人々の間で尊敬を集めた。
 こうしているうちに、ティソン・ディツエンから当地の軍事長官に、ヴァイローチャナを保護するようにとの命令書が届いた。
 ヴァイローチャナは自由になった。

 自由になったヴァイローチャナはギャロンの地を漫遊した。その姿は苦行僧のようだった。

 彼は苦行僧にならざるを得なかったのだ。

 当時のギャロンは宗教の面では完全にボン教の天下だった。チベットでは、チベット族土着の宗教は何度も攻撃され、総体的には少しずつ敗退の傾向にあった。だがギャロンでは、まさに最盛期を迎えたところだった。即ち、ヴァイローチャナはチベットの宮廷にいた時よりも更に危険な境遇に置かれたことになる。
 だが、ギャロン人の一人である私も、これまでヴァイローチャナの悪い評判を聞いたことがない。

 ギャロンの人たちは誰も、ヴァイローチャナは自分たちに文字をもたらしてくれた、と思っている。文字は私達の目と心にもう一つの光をもたらしてくれた。暗い夜でさえ覆い隠すことの出来ない光を。野蛮と無知蒙昧を照らし出す光を。
 
 ヴァイローチャナはギャロンへ到着するとすぐに、大渡河上流や岷江上流の険しい山の中を歩き回った。チベットで布教した経験から教訓を得たためだろうか、ギャロンでの布教の方法は、反論でもなく、批判でもなく攻撃でもなく、まして説教ですらなかった。声高になることなく教えを示していった。
 今では、教えの中から現れてくるものが、どこまでが布教の吸引力によるのか、どこまでが人柄による感化なのか、区別しようはないのだが。
 このような方法によりヴァイローチャナは、チベット仏教とボン教が激しく対立している状況を正し、チベット族土着の宗教の理念と形式に出来るだけ近い方法で仏教を広めた。そうして、ボン教を篤く信仰するギャロンの人々からも支持と尊敬を集めた。
 彼は寺を建て、経を訳し法を説き、かなり広い地域に生まれたばかりのチベット語を広めたので、それぞれ違った言葉を話していた間に共通の交流手段が生まれ、誰もが共用できる公的な言葉がもたらされたのである。

 その通った土地に残された足跡を見ると、ヴァイローチャナはほとんどの時を山の中で修行している。

 その中で広く人々に知られているのが、彼が壁に向って修行した洞穴で、マルカム県の中心から10キロほどの査米村の近く、梭磨河の河辺の山道を登った、鬱蒼とした森の中にある。この洞穴はヴァイローチャナ洞窟と呼ばれている。洞穴の石の壁にぼんやりとした跡がいくつか見える。それは彼が修行した時の手の跡だと言われている。少なくとも、聖地を訪れる当地の人々のほとんどが、そう深く信じて疑わない。今でもこの跡を拝みに来る人は後をたたない。

 このガランとして何もない洞穴の中に、直径一尺、高さ6.7メートルの根を生やした幹がある。当地の言い伝えによると、ギャロンで教えを広めていた時、ヴァイローチャナは四川盆地の峨嵋山へも説法に行き、帰って来て、突いていた杖を洞穴に置いておいたところ、芽が伸び根が生えて大きくなったのだ、という。

 今、この幹は洞穴修行によって顕れたありがたいお守りとなり、参拝に来た人が時々その木をほんの少し削って、祭りの時の火の中に投げ入れる。そうやって吉を招くのだという。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)





阿来「大地の階段」⑩ 第1章 ラサから始めよう 

2008-04-22 03:23:03 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



五、天から眺める


 あまりに年月が経ってしまったためだろうか、この地上の道を辿ろうとする時、今では誰も、はっきりした道筋を見つけ出せなくなってしまった。
 歴史と、歴史の中の文化の伝播と変遷は、現代の物理学者が確立した量子理論よりはるかにつかみ難い。物理学者は、彼らの抽象的な理論を述べる時、数学的言語で表現するという確かな形式を用いてきた。だが、歴史の中の文化の多くは、荒れ果てた野や山に埋もれたまま、一代一代と人が消え去るにつれて、永遠に埋葬されてしまうのである。

 もしかしてそれは、天上から、高い場所から、神のように俯瞰した時にのみ、見ることができるものなのかもしれない。

 そこで私は、ラサのコンガル空港で搭乗手続きをする時、意識して窓側の席を希望した。そして、この空の旅が雲や霧に遮られないようにと祈った。
 
 実は、私が搭乗した時、ラサは雨だった。
 ラサ河とヤルツァンポ河は河床から水が溢れ、洪水が両岸にあるハダカ麦の畑まで押し寄せ、背の低い土の家が集まってできた静かな村をも浸していた。畑の作物はすでに刈り取られた後で、洪水は畑の表面を覆い、刈り取った後の株が水の中からあちこちに顔をのぞかせていた。畑と建物の間に柳の樹が連なり、雨の中で緑を際立たせていた。
 飛行機は徐々に高度を上げる。土地を覆い隠した水は、まるで鏡のように天からの光を反射している。
 
 それは不思議な光景だった。

 洪水が災いをもたらしているのに、人々は何事もないかのように落ち着いていて、修復を始めるでもなく、戸惑っておろおろするでもなく、彼らの小さな土の家々はあくまでも静かで、すべてを宿命として受け入れていた。屋根からは炊事の煙が立ち昇り、土間の火を囲んでいる農民たちの、平静のあまり表情を失ってしまった顔が見えるようだった。洪水はあらゆる天候(たとえば雹など)と同じで、多かれ少なかれ神々の力や意志と関係しているからだろう。

 神々と天の力に対して、ふつうに生きる人々は耐えることで受け入れるしかなかったのだ。部外者の目で、何も求めようとしない農民を見ると、感嘆したり同情したりするかもしれない。だが彼らをそうさせたのは長い月日によって培われた、生きることへの失望なのである。何も望まないのは、これまで望みがかなわなかったからである。だから、ヤルツァンポ河が氾濫した時も、このように静かで落ち着いた光景が見られるのである。
 このように静かな風景の中には一種の病的な美しさがあり、病的な美しさには往々にして人の心を動かす力がある。

 飛行機は更に上昇し、雨水を含んだ雲を通り抜けた。
 層になった雲が下界の風景を覆い隠し、目の前一面が眩い光の海となった。

 雲に隔てられてはいるが、私は、翼の下で西へと過ぎ去っていく高原が、西から東へと傾斜しているのを感じていた。
 機体がほんの少し斜めに傾くたびに、雄大な高原は東の方向へと急降下する。眼を閉じると、その感覚は更に強まる。
 なんと力強い急降下だろう。
 もちろんこの急降下は私だけの幻覚である。

 今、飛行機はこの上なく穏やかに飛行している。機内のテレビからはゆるやかな音楽が流れている。もし気流が乱れ機体がほんの少しでも揺れたなら、スチュワーデスのやわらかな声がすぐに機内に流れてくるはずだ。

 それでも私は、大地が急降下しているのを感じていた。
 さっき書いたように、これは幻覚である。
 だが、私は何度となくこのような幻覚を感じてきた。

 たとえば、ある雪山の頂上に最も近い場所で、雪線より上に座り、なにかのきっかけで風化した石ころが斜面を水のように滑っていくのを見た時。また、まぶしい日の光が谷や森の中に差し込んで雲や霧を立ち昇らせるのを見た時。そのような時も、大地が急降下しているのを感じた。そして、霧が晴れ、大地がそっと静かに本来の姿を現すと同時に、その幻覚は消えてゆくのだった。

 飛行機が飛び立ってまもなく、翼の下の雲の層が少しずつ薄くなってゆき、雲の下を過ぎ去ってゆく大地が少しずつ目に入ってきた。

 雪の峰は確かに南北に連なり、それが一列また一列と紺碧の空の下に並んでいる。それはキラキラと輝きながら、無言の荘厳さを孕んでいた。

 雪山と雪山の間には、草原が広がり、草原には雨水によって出来た小さな湖が点在している。湖のほとりに羊飼いのテントが見みえる。私はそのテントで暮らす牧人たちの生活を良く知っている。彼らは草原で暮らす純粋な牧人とは違う。夏、彼らは牛や羊を追って山の牧場にやって来る。秋になると、だんだんに下がっていく雪線に追い立てられるように、河の流れによって深く削られた谷を歩いて、とうもろこしやハダカ麦が植えられた自分の畑に戻って来る。夏は牧場の収穫期であり、秋はまた畑の収穫期である。こうして山の中で半農半牧をして暮らす私の同胞たちは、一年のうちに二回収穫の時を迎えるのである。

 一つの雪山を通り過ぎるごとに、山間の牧場は低く小さくなり、ついには完全に姿を消した。目に入るのは頂上が尖った、積雪のない険しい山だけになった。それは鋼色の岩の峰で、それぞれに青い空の高みを指さしている。山肌を囲んでいるのは青々とした森林である。それから先、峻厳な山々は徐々にゆるやかな丘陵へと姿を変えてゆき、丘陵はまた急降下の後の深いため息のように、平原へと溶け込んでいった。その時のため息はもうチベット語ではなかった。耳に優しい漢語の一つ、四川語だった。

 平原から、険しい山々に幾度となく阻まれながら高原に登りついた時、そこに広がる勇壮さと遥けさは、剛直な雄たけびである。
 そして、高原から下る時、うねるように絶えず方向を変えて急降下する大地とともに、ついには平原へと溶け込んでいく。それは疲労と満足の長いため息である。

 私のたくさんの経験と物語りは、この過渡地帯に、山々に深く刻まれた襞の中に蓄えられている。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)





一休み

2008-04-07 01:08:48 | Weblog
一休み

ふ~、ここでチョット一休み。

いきなり歴史から入っていったので、とっても疲れた。
漢字とチベット読みの名前がつながらない!
「漢書」「隋書」などという古い歴史書の言葉に歯が立たない!
手当たり次第、それらしい本のページをめくったり戻ったり。だんだんとイライラしてくる。そうやって、ふとした拍子に捜していた言葉にめぐり合った時の幸せ!
見当違いの思い込みにつられてまるで違う名前を追いかけて何日もつぶしたり、でもそのことで思わぬ収穫があったり…

盤熱将軍には終にお目にかかれないままでした。チベット読みの名前が見つからなくて、本当に残念。これからも探し続けるしかない。

それにしても中国ってすごい。遥か昔から各王朝ごとに自分の国を、周りの国々をきちんと記録してきた。それを通して、今私達が、その遥か昔の地理や人々の生活を思い浮かべることができる。
そして、こんなに遠くの山の中まで出かけてきて、自分の領地にしてきた。そのために歴史書が必要だったのかもしれない。

まあ、吐蕃だって西安の近くまで攻めて行ったこともあるけれど。

これからもこんなことを繰り返していくのだろうか。

『塵埃落定』の頭のおかしな主人公は、天に昇る間際こう言った
「神よ、もし魂が輪廻するなら、来世でまたこの地に戻らせてください。私はこの美しい地を愛します」
この地がいつまでもそのように美しくあって欲しい。
そして物好きな旅行者でも安心して歩き回れるような場所であって欲しい。

この後、阿来がその美しい場所へ連れて行ってくれるだろう。でもその前に、まだもう少し歴史のお話が…

おかしなところがあったら指摘していただけるとうれしいです。