(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)
5 丹巴での日々 その2
さて、丹巴に戻ろう。
雑貨屋の隣の新華書店の前でタバコを吸い、足についての考察を終えると、顔をあげて空を見た。ここでは、気が向いた時に顔を上げても、空が見えるわけではない。見えるのは巨大な灰色の山だけだ。山々の高いところで、強靭な風が雲を急かせている。日差しが徐々に強くなってきた。
ついに新華書店開店の時間になった。
天井が低い店内、採光は十分とはいえない。これぞまさに私が良く知っている地方都市の本屋の姿だ。店は大きくはなく、購買公社にあるような、カギ型のカウンターが並んでいる。カウンターのガラスの中の本や、カウンターの後ろの棚に並べられている本はどれも、たとえ出版されたばかりの本であっても、いったんこの空間の中に並べられると、長い年月ここに置かれていたかのように、店員と同じ物憂げな表情を見せ始める。
それでも、私はもともとこのような本屋が好きだ。なぜなら、大きな都市の本屋では手に入らない本が、ここで何冊か見つかり、旅の夜の友にできるからだ。
そして、このような本は読む環境のためか、時々思いもよらない収穫をもたらしてくれる。
たとえば今回は、文革中に貧農、下層中農の牧畜民のために書かれた、青蔵高原のチベット獣医薬書を手に入れることができた。この本は文革期の毛語録と同じ大きさで、しかも赤いビニール製の上質な表紙で装丁されていた。ゾルゲ県革命委員会が編集したものだ。
以前私はこの本を持っていた。チベットの老医師を訪ねた時にその医師から贈られた。
かつて、彼はチベット仏教の学位を持ったゲルグ派の僧侶だったが、50年代に強制的に環俗させられ、故郷に帰って遊牧をしていた。文革中、革命遊牧民として起用され、この初級の薬に関する本を執筆した。このチベット医はゾルゲ高原では人望が厚く、私が訪問した時、中国語に訳したこの小さな本を贈ってくれたのだった。それなのに、私はその本を県の招待所に忘れてきてしまった。
そして今、もう一度その本を手に入れることができた。
ここでは、他に二冊の本を買った。それもまた大きな書店で探しても手に入れられない本だ。
それは世紀末である1999年に一時的に流行した分野の本で、その時はあまり見向きもされなかったのだが、なんと、このどうということもない本屋で私の目の前に現れた。
それは薄い本、『人・野人・宇宙』である。作者は蕭蒂岩。「西蔵文学」の中で、同名の人物が発表した書の大作を見たことがある。チョモランマの詩を書いたものだった。
それから十年、この本を書き始める二ヶ月前、チベットと関係のある人物達を尋ねる必要があった時、ザシダワがラサから電話してきて、この老作家が今成都にいると教えてくれた。
その日の昼ごろ、成都でちょうど流行り始めた四川料理店、菜根香の入り口の前で、初めて蕭蒂岩氏と会った。紹介されるまでもなく、すぐお互いを認めることができた。
その日同席したのは、チベットの文壇で活躍していた漢族の作家・馬原とチベット族の作家・色波である。
後日、蕭氏は私のために、往年の南下幹部で、チベットのメドクに二十年暮らしていた民俗学者・冀文正氏を誘ってくれた。場所は、成都肖家河のラサホテルのティールーム。その日、私たちはすがすがしい峨嵋毛峰を飲みながら、濃厚な酥油茶を思い出していた。
その日、蕭氏はずっと以前に書いたその本を持ってきていた。
このような人々が集まれば、話題は自然にチベットへと集中していく。ただし、そのチベットは行政が定めた例の自治区であって、文化的な意味でのものではい。だが私は、より多くの人が更に大きな範疇のチベットについて討論するのを見たい、と切に願っている。
やはり、大小金川の交わる丹巴に戻ろう。雲母が豊富に含まれる丹巴に戻ろう。
書店を出てから、バスターミナルへ行き、道路の状況を尋ねた。切符売り場の小さな窓口の板はしっかりと閉じられていた。近くの黒板の上には例のごとく状況伝えるちょっとした言葉も書かれていない。あたりには人影もなく、もし発着所に原木をたくさん積んだトラックと空の長距離バスが停まっていなかったら、まるで廃止になって見捨てられたターミナルのようだった。
私にはこのような状況はおなじみだった。このような時は、ここでちょっとあそこでちょっとと、すべてが正確とは言えない情報を聞き出せばいい。その大体の情報が一致するところによると、下流に向って濾定に行く道はあちこちで土砂崩れがおき、塞がれているとのことだった。
それはだいたい分かっていた、なぜなら私はその道を通ってやってきたのだから。
大金川に沿って上り、金川県に着き、さらに上ると、クルインに着く。トカ河とサマ河の交わる所を更に遡り、先に述べた松崗郷を通り、更に15km歩いくとマルカムに着く。
この公道はすでに何年も通っていない。
問題は丹巴と金川両県のつなぎ目にある。この両県のつなぎ目とは、四川省の二つのチベット自治州、カンゼとアバのつなぎ目である。丹巴はガンゼ州に属し、金川はアバに属している。
中国では、問題とはいえないような問題が、このようなつなぎ目で起こるとすべて面倒なことになる。そして、いうまでもないことだが、土砂崩れは、公道だけが近代的交通手段である二つの自治州には大きな問題なのである。
そのため、つなぎ目で発生する大小様々な土砂崩れは永遠の問題になっている。
可能性のある道は、丹巴から大渡河を渡り、小金川に沿って北上し、55kmで小金県に着く道だ。小金県に着いてから、紅軍の第一方面軍の山越えで有名になった夢筆山を過ぎ、卓克基を経てアバ州の首都マルカムに着く。
この公道は小金県を過ぎた後、現在は鉄の鎖が空にかかっているだけの猛固橋から道が分かれ、東方のアルプスと賞賛される四姑娘山風致地区を過ぎ、海抜四千メートルの巴郎山を超え、臥龍自然保護区を通り、都江堰を経て成都に至る。
だが今この道も通っていない。聞くところによると、小金県に至る50kmばかりの道路では、あちこちで土砂崩れが起こっている。
そこで、私は丹巴の街に留まることにした。
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)
5 丹巴での日々 その2
さて、丹巴に戻ろう。
雑貨屋の隣の新華書店の前でタバコを吸い、足についての考察を終えると、顔をあげて空を見た。ここでは、気が向いた時に顔を上げても、空が見えるわけではない。見えるのは巨大な灰色の山だけだ。山々の高いところで、強靭な風が雲を急かせている。日差しが徐々に強くなってきた。
ついに新華書店開店の時間になった。
天井が低い店内、採光は十分とはいえない。これぞまさに私が良く知っている地方都市の本屋の姿だ。店は大きくはなく、購買公社にあるような、カギ型のカウンターが並んでいる。カウンターのガラスの中の本や、カウンターの後ろの棚に並べられている本はどれも、たとえ出版されたばかりの本であっても、いったんこの空間の中に並べられると、長い年月ここに置かれていたかのように、店員と同じ物憂げな表情を見せ始める。
それでも、私はもともとこのような本屋が好きだ。なぜなら、大きな都市の本屋では手に入らない本が、ここで何冊か見つかり、旅の夜の友にできるからだ。
そして、このような本は読む環境のためか、時々思いもよらない収穫をもたらしてくれる。
たとえば今回は、文革中に貧農、下層中農の牧畜民のために書かれた、青蔵高原のチベット獣医薬書を手に入れることができた。この本は文革期の毛語録と同じ大きさで、しかも赤いビニール製の上質な表紙で装丁されていた。ゾルゲ県革命委員会が編集したものだ。
以前私はこの本を持っていた。チベットの老医師を訪ねた時にその医師から贈られた。
かつて、彼はチベット仏教の学位を持ったゲルグ派の僧侶だったが、50年代に強制的に環俗させられ、故郷に帰って遊牧をしていた。文革中、革命遊牧民として起用され、この初級の薬に関する本を執筆した。このチベット医はゾルゲ高原では人望が厚く、私が訪問した時、中国語に訳したこの小さな本を贈ってくれたのだった。それなのに、私はその本を県の招待所に忘れてきてしまった。
そして今、もう一度その本を手に入れることができた。
ここでは、他に二冊の本を買った。それもまた大きな書店で探しても手に入れられない本だ。
それは世紀末である1999年に一時的に流行した分野の本で、その時はあまり見向きもされなかったのだが、なんと、このどうということもない本屋で私の目の前に現れた。
それは薄い本、『人・野人・宇宙』である。作者は蕭蒂岩。「西蔵文学」の中で、同名の人物が発表した書の大作を見たことがある。チョモランマの詩を書いたものだった。
それから十年、この本を書き始める二ヶ月前、チベットと関係のある人物達を尋ねる必要があった時、ザシダワがラサから電話してきて、この老作家が今成都にいると教えてくれた。
その日の昼ごろ、成都でちょうど流行り始めた四川料理店、菜根香の入り口の前で、初めて蕭蒂岩氏と会った。紹介されるまでもなく、すぐお互いを認めることができた。
その日同席したのは、チベットの文壇で活躍していた漢族の作家・馬原とチベット族の作家・色波である。
後日、蕭氏は私のために、往年の南下幹部で、チベットのメドクに二十年暮らしていた民俗学者・冀文正氏を誘ってくれた。場所は、成都肖家河のラサホテルのティールーム。その日、私たちはすがすがしい峨嵋毛峰を飲みながら、濃厚な酥油茶を思い出していた。
その日、蕭氏はずっと以前に書いたその本を持ってきていた。
このような人々が集まれば、話題は自然にチベットへと集中していく。ただし、そのチベットは行政が定めた例の自治区であって、文化的な意味でのものではい。だが私は、より多くの人が更に大きな範疇のチベットについて討論するのを見たい、と切に願っている。
やはり、大小金川の交わる丹巴に戻ろう。雲母が豊富に含まれる丹巴に戻ろう。
書店を出てから、バスターミナルへ行き、道路の状況を尋ねた。切符売り場の小さな窓口の板はしっかりと閉じられていた。近くの黒板の上には例のごとく状況伝えるちょっとした言葉も書かれていない。あたりには人影もなく、もし発着所に原木をたくさん積んだトラックと空の長距離バスが停まっていなかったら、まるで廃止になって見捨てられたターミナルのようだった。
私にはこのような状況はおなじみだった。このような時は、ここでちょっとあそこでちょっとと、すべてが正確とは言えない情報を聞き出せばいい。その大体の情報が一致するところによると、下流に向って濾定に行く道はあちこちで土砂崩れがおき、塞がれているとのことだった。
それはだいたい分かっていた、なぜなら私はその道を通ってやってきたのだから。
大金川に沿って上り、金川県に着き、さらに上ると、クルインに着く。トカ河とサマ河の交わる所を更に遡り、先に述べた松崗郷を通り、更に15km歩いくとマルカムに着く。
この公道はすでに何年も通っていない。
問題は丹巴と金川両県のつなぎ目にある。この両県のつなぎ目とは、四川省の二つのチベット自治州、カンゼとアバのつなぎ目である。丹巴はガンゼ州に属し、金川はアバに属している。
中国では、問題とはいえないような問題が、このようなつなぎ目で起こるとすべて面倒なことになる。そして、いうまでもないことだが、土砂崩れは、公道だけが近代的交通手段である二つの自治州には大きな問題なのである。
そのため、つなぎ目で発生する大小様々な土砂崩れは永遠の問題になっている。
可能性のある道は、丹巴から大渡河を渡り、小金川に沿って北上し、55kmで小金県に着く道だ。小金県に着いてから、紅軍の第一方面軍の山越えで有名になった夢筆山を過ぎ、卓克基を経てアバ州の首都マルカムに着く。
この公道は小金県を過ぎた後、現在は鉄の鎖が空にかかっているだけの猛固橋から道が分かれ、東方のアルプスと賞賛される四姑娘山風致地区を過ぎ、海抜四千メートルの巴郎山を超え、臥龍自然保護区を通り、都江堰を経て成都に至る。
だが今この道も通っていない。聞くところによると、小金県に至る50kmばかりの道路では、あちこちで土砂崩れが起こっている。
そこで、私は丹巴の街に留まることにした。
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)