二言瓦版

「復讐は神に所属する。」 「旧約聖書」


暇つぶしの記事、名言、珍言、コラムの批判。
株式の名言など。

いろいろ、あるのか。普通ならば、

2017年04月05日 04時53分48秒 | ニ言瓦版
子供には、影響する。
仕方ないことか。


「大阪市は4日、学校法人「森友学園」系列の「高等森友学園保育園」(同市淀川区)で保育士の退職が相次いだことで配置基準を満たさなくなり、5日から市立保育園の保育士らを約1カ月間、1日最大6人派遣すると発表した。民間の保育園に市が保育士を派遣するのは極めて異例。

 市によると、昨年12月時点で保育士11人がいたが、その後6人になっていた。学園の籠池泰典前理事長や保育園長の籠池氏の妻は4日、さらに2人が退職し「明日は4人のみで保育の継続が難しくなった」と説明したという。退職した2人は3月31日に市が立ち入り調査した際、聞き取りをした保育士4人のうち2人だった。

 保育園には0~5歳の園児47人(1日現在)がおり、国の配置基準に基づく市条例では保育士6人が必要。市は「子どもの安全や、保護者の混乱を避けるため」として、臨時派遣の対応を決めた。

 また、昨年12月時点の保育士11人のうち6人が、森友学園が経営する「塚本幼稚園」の名簿にも登録されていることが分かった。以前から配置基準を満たしていなかった可能性があり、市は実態を調査する。

 市は保育園に対して、早期に保育士を確保して基準を満たすように口頭で指導した。派遣期間中の保育士の給与は園側が負担する。」



しかし、保育園の子供も、かわいそうなこと。
親は、4月だから、まだ、変えることも難しいかもしれない。


47人の子供は、大変なことだ。

普通の保育園が、支援か、変えることが、できないのか。
親は、考えるべきだ。

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ちゅうらさんの続編のがいい。何か、酷い朝ドラになる。

2017年04月05日 03時56分42秒 | ニ言瓦版
最初見たが、ニュースのがいい、ワイドショーがいい。
どうも、「あまちゃん」は、主役が、良かった。
亡霊は、主役出なかった。
と、思う、物語の展開に見える。



「4月3日スタートのNHK連続テレビ小説「ひよっこ」でヒロインのみね子を演じる女優、有村架純(24)。2013年の朝ドラ「あまちゃん」で一躍ブレークし、人気女優になっての凱旋だが、“朝の顔”への不安も少なくない。それでも体重を5キロ増やしてまで挑むヒロインは、国民的女優への第一歩だ。

 正直、「あまちゃん」までは伸び悩んでいた。

 「『あまちゃん』はこの作品で変われなかったら、女優としてはもう無理だ、自分を変えたいと思って挑んだ作品でした。そこでいろんなことを学び、そして戻って来ました」

 だからこそ、朝ドラヒロインには強い思いがあるが、プレッシャーも半端ない。今回は、オーディションではなく、脚本の岡田惠和氏の強い要望で有村が選ばれた。

 それだけに「ヒロインに決まったとき、うれしいというよりはすごく不安で、どうして私なんだろう、世間がなぜ有村なんだって思っているかもとまで思っていました」と振り返る。

 ドラマは東京オリンピックが目前に迫る昭和39(1964)年から始まる。茨城県の山間の村で育ったみね子が、東京に出稼ぎに行ったまま帰ってこない父を捜すため、集団就職で上京することから、ストーリーは動き出す。
自身も関西からひとり上京してきた身だ。ヒロインの思いがよく分かるかと思いきや、「私は東京を夢をかなえる場所だと思っていたので、上京のときも不安よりも楽しみのほうが大きかった。ここはみね子とは違うところですね」と明かす。

 その一方で「初めての場所で、知り合いもいない。すべてが“はじめまして”の連続で、戸惑うことばかり。それはみね子も同じかな。不器用だけど、一生懸命に生きているみね子を愛おしいと思ってもらえたら。そして新しい風が吹いたらいいな」と思いを重ねる。

 撮影は10カ月間に及ぶ過酷さだけに、体力づくりも欠かせない。毎日腹筋を200回行うだけでなく、食事などにも気を遣っているという。

 田舎娘の雰囲気を出すために、5キロ増量して“ぽっちゃり娘”に変身するストイックさで、「ひとりの女性の10年間を追うので、ちょっとずつ大人の女性になっていく中で、体形の変化も出していきたい」というから、気合の入り方が違う。

 そして、2020年には再び東京オリンピックがやってくる。そのとき、有村架純はどうなっているのだろうか。

 「2020年は27歳になっています。すごく楽しみなんです。自分がどんな女性になっているんだろうって想像するのが楽しいですよね」

 そう楽しみだ。」


東京五輪のとき、あんな風景と、バスなのか。
そして、主役の服装は、今の服装と、疑問。

「これが青春だ」「青春とはなんだ」のような、服装だろう。
茨城と、東北と、勘違いしている話に見える。

関東も、東北、北海道か。


「あまちゃん」の再放送が、続編を見たいものだ。
それのが、視聴率が上がる。

そして、この脚本家は、「ちゅらさん」の書いた人、
その後の話のがいい。
https://www.youtube.com/watch?v=FUi2latZamI
https://www.youtube.com/watch?v=SgUB7y2K3Do
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2

2017年04月05日 03時50分17秒 | ニ言瓦版
「都並さんは本当に怖かった。でも、言葉の裏には、いつも愛情があった」。
 その三浦が2007年夏、J1で苦戦する横浜FCに加わった。数年前まで日本代表として活躍していた大先輩の懐に、太田は少し緊張しながら飛び込んだ。
 
「学ぶことがたくさんあるはずだから、思い切って話しかけたんです。そんな僕にアツさんも優しくしてくれて」
 
 当時の横浜FCに多くいたベテラン選手たちは、全体練習が終わると、身体をケアするためにクラブハウスに引き上げて行った。居残り練習をするのはごくわずかの若手だけ。しかし、当時33歳の三浦は、毎日のように居残り、FKを蹴っていた。その様子を間近で見るだけで、太田にとって勉強になった。
 
「代表の話とか、ブレ球の蹴り方とか、いろいろと教えてもらいましたね。それまで先輩たちとコミュニケーションを取る機会が少なかったので、アツさんに可愛がってもらえて、すごく嬉しかった」
 面白い。
いろいろ、あるのか、サッカー選手も。



「 2007年シーズン終了後、太田はもうひとり、恩師と出会う。日本代表の左SBの第一人者であった都並敏史が、J2に降格した横浜FCの再建を託されたのだ。

―――◆―――◆―――◆―――

 都並とはプロ入り前にすでに出会っていた。高校3年生だった2005年に、都並が率いるベガルタ仙台の練習に参加したことがあったのだ。
 
 すでに別の高校の左SBを獲得することが決まっていたため、太田の獲得は見送られたが、都並は最後までフロントに太田を推していたという。若き日の太田に、SBの才能を見出していたのだ。
 
 もっとも、才能を認めることと、実際に起用することとは別の話である。
 
 J2で迎えた2008年シーズン、太田は左SBに絞って練習に励んだが、良くて途中出場、悪ければベンチ外という状況が続く。都並がレギュラーに求める水準には達していなかったのだ。
 
 そんな太田に、都並は全体練習のあと、基本練習の場を設けた。監督によるマンツーマンの居残り特訓である。
 
 2本のポールを縦に距離をおいて並べ、ボールが手前のポールから奥のポールを巻くように左足で蹴る。それを何度も繰り返し、カーブの質を磨いた。
 
「練習自体は面白いものではなかったけれど、左足を武器にするんだ、という強い気持ちで取り組みました。都並さんは本当に怖かった。でも、その言葉の裏にはいつも愛情があった」
 
 週2回の筋力トレーニングにも励んでいた太田に、13節の愛媛FC戦で左SBとして先発するチャンスが訪れる。個人特訓が始まって約2か月、キックの質はみるみるうちに向上し、都並の求めるレベルに達したのだった。
 
 この年、三浦はボランチや攻撃的MFとして出場することが多かった。
 
「アツさんは『ボールを持ったら俺に渡せ』と言ってくれたので、アツさんに預けては攻撃参加の繰り返し。今のプレースタイルは間違いなくあの頃に築き上げたもの。それに、試合に出場し続けるうちに、自分がこのチームを引っ張るんだっていう気持ちも芽生えた。若いうちに責任を感じられたのは大きかった」

今でも大事にしている三浦淳寛からの言葉。
 リーグ戦31試合に出場した太田のもとにはシーズン終了後、清水エスパルスからオファーが届いた。清水から他クラブへ移籍した日本代表DFの違約金をそのまま太田の獲得に充てるという、高評価だった。
 
 J1で勝負したいという気持ちが高まっていた。相談していた三浦も背中を押してくれた。都並の退任も決まったため、太田は新天地での挑戦を決めた。

―――◆―――◆―――◆―――
 
 清水で左SBとしての地位を確立した太田は、2012年に加入したFC東京で得点に絡む回数を飛躍的に伸ばし、日本代表に選出されるようになる。2016年1月に移籍したオランダのフィテッセで逞しさを増し、今オフにFC東京に復帰した。
 
 FC東京の若い選手の中には、太田が横浜FCに所属していたことを知らない者も多いという。
 
「『最初の年俸は240万円、最初に買った車は18万円。そんなところからやって来たんだよ』っていう話をすると驚かれるけど、自分たちが恵まれていることに気付いてほしい。5年後、10年後も現役でいるためには、今が大事だから」
 
 横浜FCや清水時代の同年代だけでなく、U-20日本代表のチームメイトでもスパイクを脱いだ選手がいる。

 プロになったばかりの頃、同年代のプロ選手の中で底辺のほうにいたはずの自分がなぜ、ここまで順調にステップアップすることができたのか――。
 
 そう考えた時、脳裏に浮かぶのは、三浦から告げられた言葉だ。
 
 清水への移籍が決まり、最後の練習のあと、三浦からロッカールームにあるユニホームを取って来るよう言われた。
 
 太田が三浦のユニホームを持って戻ると、三浦は背中にサインを入れ、こう書き添えた。
 
 自信と過信は紙一重。
 
「そのユニホームは自宅の、常に目に入るところに飾ってあります。この言葉がいつも自分をコントロールしてくれた。この言葉のおかげで謙虚にやってこられたんじゃないかな」
 
 FC東京の若手を見ると、太田はちょっともどかしくなる。自分の若い頃と比べて格段に上手いのに、ギラギラした野心を感じさせる選手が少ないからだ。
 
「僕なんか、先輩を蹴落としてでも試合に出たいと思ってましたから。ハートが大事だってことに彼らが気付いたら、FC東京の未来は明るいと思うんです」
 
 だから、太田はもがいている若手がいたら、力になりたいと思っている。
 
 あの頃の都並や三浦が自分にそうしてくれたように――。」



野球と違い、場所が、多くあるのは、いいことだ。
それに、何か、いろいろ、出会いがあるのかもしない、
場所が多いと。

野球のプロは、少なすぎる。
プロ野球、大学野球、社会人野球など、人材も育たない、教えるもない、
それは、最後は、食う場所がないから。
240万円でも、食える場所があるかないか。
居場所。
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1

2017年04月05日 03時47分14秒 | ニ言瓦版
「年俸240万円」から日本代表へ。太田宏介を導いた指揮官と元代表戦士との出会いとは?
SOCCER DIGEST Web 4/4(火) 17:17配信

【名選手・誕生秘話】「年俸240万円」から日本代表へ。太田宏介を導いた指揮官と元代表戦士との出会いとは?
プロ入り3年目で才能が開花。左足の正確なキックを武器に左SBに定着すると、翌年には清水へ移籍した。写真:滝川敏之(サッカーダイジェスト写真部)
「自分は戦力と見なされていないのではないか」
 左SBとして生きていく決意は、プロに入ってすぐに固めた。
 
 高校時代にプレーした左サイドハーフへの未練も、練習を重ねるうちに断ち切った。プロとして攻撃的なポジションでプレーするには、ドリブルやフェイントといった備え持つべき武器が、あまりに心許なかったからだ。
 
 しかし、左SBとしてプレーする機会はなかなか巡って来なかった。公式戦はもちろん、練習試合でさえ――。
 
「1年目は試合に出場できなかったし、練習試合でも人が足りないポジションで起用されることが多くて、左SBをやったり、ボランチをやったり。2年目は試合に出場できるようになったんですけど、CBだったので、今後の自分がどうなっていくのか正直分からなかった」
 
 のちに日本代表となり、ヨーロッパへ渡ることにもなる若者は二十歳の頃、先が見えずにもがいていた。
  
 横浜FCでプロ選手となった2006年シーズン、太田宏介は公式戦のピッチに2回しか立っていない。メンバーを入れ替えて臨んだ天皇杯2回戦ではCBとして先発したが、リーグ戦では89分から右SBとして途中出場しただけだった。
 
 念願のJ1昇格を成し遂げるこの年、横浜FCには三浦知良をはじめ、ベテラン選手が多かったため、練習試合が組まれることが少なかった。
 
 その限られた機会で太田がたまたま左SBとして出場した浦和レッズとの練習試合を、偶然にもU-19日本代表監督の吉田靖が視察した。
 
 SBを探していた指揮官の目に留まった太田は10月、初めて年代別代表に選出されたが、1年目を終える頃、横浜FCでの立ち位置は危ういままだった。
 
 太田が自身の置かれた状況をはっきりと自覚したのは翌2007年1月、クラブから命じられてブラジルのクラブに留学した時である。
 
 週に2度の試合が組まれていたが、期限付き移籍ではなく留学だったため、試合には出られない。試合間隔が短く、トレーニングは調整メニューばかりで身になる練習はまるでなかった。
 
 ある日、太田が横浜FCのホームページを覗くと、J1での戦いに備えて合宿を張るチームの写真が掲載されていた。
 
 その時、初めて気付くのだ。自分は戦力と見なされていないのではないか、と。
 
「同期の選手たちも期限付き移籍で外に出されて、事実上アウトでした。自分もチームに本当に必要な選手ならキャンプに連れていくはずだから、今年ダメだったら終わりだろうなって」



三浦淳寛は「憧れの存在」。
 悲壮感をもって帰国した太田に、運が味方する。DFに負傷者が続出し、出場機会が突然巡ってきたのだ。
 
 開幕4試合のうち2節を除いてベンチにすら入れなかった太田が、5節のジェフ千葉戦でCBとして先発し、念願のJ1デビューを飾った。
 
 もっとも、J1のハードルは高く、チームは失点を重ねて黒星の山を築く。太田も不慣れなポジションで奮闘したが、横浜F・マリノスに1-8で敗れるなど、打ちのめされてばかりだった。
 
「心にゆとりがなくて、来たボールは全部大きく蹴り返すだけ。ただプレーしている、という感じでした。プロとして勝負するならSBしかないという想いを抱きながら、もがいてましたね」
 
 高卒2年目の選手というのは、簡単に出場機会を得られるものではない。太田にとっては「ただプレーしている」だけだったかもしれないが、大きな意味があった。J1での試合経験を買われ、その年の夏にカナダで開催されるU-20ワールドカップのメンバーに選ばれたのだ。
 
 チームメイトは、柏木陽介、安田理大、槙野智章、内田篤人といった同級生の有名選手ばかりだった。
 
「みんな雲の上の存在だったし、自分が技術で劣っているのも分かっていた。途中から代表に呼ばれるようになって誰も僕のことを知らなかったし、当時は人見知りだったから全然しゃべったりできなくて、ちょっと苦痛でしたね」
 
 だが、ワールドカップが始まる頃にはチームメイトとも打ち解け、ナイジェリアとのグループステージ第3戦では左SBとしてフル出場を果たした。
 
 わずか1試合の出場。それもグループステージ突破を決めた後に得られたチャンスだったが、世界大会のピッチに立ったことで太田の中でなにかが弾けた。
 
「これまでは手の届かない存在だと思っていたけど、あの大会を経験して、みんなに負けたくない、もっと上に行きたいって思うようになったんです」
 
 左SBを極めたい――。
 
 そんな想いを募らせてカナダから帰国した太田に、その後の人生を決定づける人物との出会いが待っていた。
 
 ひとりは、8月にヴィッセル神戸から加入した三浦淳寛である。

―――◆―――◆―――◆―――

 右利きと左利きという違いこそあれ、同じ左サイドを主戦場とし、日本代表として活躍した三浦は、太田にとって憧れの選手だった。
 
 太田の脳裏に焼き付いているのは2006年、神戸時代のプレーである。プロ1年目でベンチにすら入れなかった太田は、昇格を争うライバルとの直接対決をスタンドから見守った。
 
「アツさんはひとりだけ別格で、J2でプレーするような選手じゃないなって」


面白い、人の生い立ち、経験、教え。
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立派だ。

2017年04月05日 03時31分12秒 | ニ言瓦版
凄い、でも、立派だ。
沼田市、そして、この会社。



「4日午後2時35分ごろ、群馬県沼田市の廃棄物収集運搬会社で、男性作業員(63)が現金4251万円を発見したと、同社から県警沼田署に届け出があった。同署が拾得物として保管、所有者を探している。

 同署によると、作業員は敷地内で収集した廃棄物を選別している際にに現金を発見、報告を受けた上司が通報したという。」



猫糞する企業、社員が多い。
大阪など、あるのかもしれない。
川の浄化で、猫糞した、職員がいた事件、思い出す。



問題は、名乗り出る人か、変な人が出ると、また、事件。
収集した場所、その地域で、処分した人、親の遺産の処分か、何か、へそくりを忘れた人か。
よく、ある話であり、昭和の人、で高齢者の人かもしれない。

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