中国甘粛省 敦煌 懸泉置という処で出土した木簡の節臨(一節を臨書)
「(效穀)西高議里 賈破虜隧(長按)」 (中国甘粛木簡選より)
臨書をする時にはまず、筆者はどんな人なのかとあれこれ想像してみる。
男性か女性か(大抵は男性だったと思うけど)、大柄か痩せ型か、
のんびり屋かせっかちか、声は大きいか小さいか、繊細か大雑把か・・とか。
そしてその人(文字)に話しかけたくなったら、書いてみる。
時にはその人に成りきって気持ちよく、時には、一見気が強そうだけど、
本当は寂しがり屋でしょ?・・・・とか、話しながら。
写真の木簡の筆者は割とまじめでやさしく、嘘はつかないタイプとお見受けした。
それなのに、私の臨書は少し斜に構えて、どこか開き直っている感じ。
絵画にしても本物そっくりの絵など、単なる騙し絵のようであまり魅力を感じない。
精巧な伝統の技が必要な伝統工芸の世界でさえ、そこに作者の想いがなければ、
ただの工芸品でしかない。
書の世界も同じ。
「お習字」は正しく書く、美しく書く、それでいい。
けれど「書は芸術だ」と言われるには、そこに思想がなければいけない。
あちこち真似っこだけに全神経を注ぎ、他を拒絶している中には芸術は生まれない。
定義を求めない、不定義を目指し、予測し得ないものを創り出すことが芸術だと思う。
そして一人一人のそれぞれの人生も、芸術なのだと思う。
そこには優劣もなければ、勝ち負けもない。
自分らしさだけが、意味を持つのだ。