あしあとーⅡ

日々のあれこれ、綴ったものが自分の足跡に

蜂谷弥三郎さん・・・。

2015年06月15日 | 日記

鳥取県倉吉市で蜂谷弥三郎さんが亡くなったと11日の新聞に出た。

親族に不幸があってバタバタしていたのでじっくりと新聞を読む暇が無かったのだが

蜂谷弥三郎さんとはあの「クラウディアからの手紙」の主人公の名前だという事は

すぐ判った。

96歳だったそうだ。

 

ネットで検索してみると2007年に妻の久子さんが90歳で亡くなり、その後2014年9月に

クラウディアさんが93歳で亡くなっている。

蜂谷さんは愛する二人の妻の全てを見届けて心置きなく亡くなったのだ!

 

蜂谷さんが1997年3月に50年ぶりに日本へ帰ってきてから、クラウディアさんは4回、日本を

訪れているという。

以後 週一回は時間を決めて電話をしていたそうだ。

厳しいソ連時代を37年間支えてくれ、国交が回復するとすぐ久子さんの事を調べ

久子さんが今も独身で一人娘を育てながら夫の帰国を待ち続けていることを知ると

「人の不幸の上に自分の幸福は築けません」と蜂谷さんの帰国を強く後押しをしてくれた

クラウディアさんへの愛を帰国して17年の間も忘れる事はなかったのだ。

蜂谷さん、久子さん、そしてクラウデアさん、3人とも残り少ない人生の幸せが、少しでも

長く続くようにとの神の思し召してであるように90歳代と長生きされたのだと思った。

晩年は穏やかで幸せに暮らされただろうか?

 

 改めて「クラウデアからの手紙」の観劇日記を読み返してみた。

http://slib.net/474

 

お三方のご冥福をお祈りいたします  合掌


『阿部正弘が生きた時代』

2015年06月02日 | 日記

5月31日、福山で私の母校である誠之館の同窓会へ出席してきた。

役員の改選とか会計報告とか事業計画とか何時もの行事の後、恒例の記念講演があった。

 

講師は作家の身延典子さんで講演の表題が「阿部正弘が生きた時代」だった。

大体記念講演の講師は卒業生の中から選ばれた成功者が多いのだが、この方は北海道の

出身なのだが、表題の阿部正弘と言う方が「誠之館」の創始者だという事で講師をお願いしたそうだ。

 

講演はとても興味深かった!

頼山陽とか、吉田松陰とか今話題の人のエピソードなど面白い話が沢山出てきた。

大河ドラマは良く見るし、私もかなり歴史好きなのかも・・・

阿部正弘が福山藩主に就いたのは当時の18歳、今なら17歳だったそうだ

のち、25歳で江戸幕府の老中になり27歳で老中首座(今で言う総理大臣の職にあたる)に就く。

性格はとても温厚で人材登用が上手かったらしい。

残念ながら38歳で病没したのだが、阿部正弘が生きて老中を務めていたら、井伊大老の安政の大獄は

無かっただろうし、長州の倒幕も無かったかもしれないと身延さんは言われた。

今の日本は明治に基礎が築かれたが、もし阿部正弘が生き長らえていたら、今の日本は

変わっていたかも知れない。

それがどんな形かは判らないが・・・。

 

母校の記念館に「誠之館」と力強く書かれた額が上がっているが、これが水戸藩主の徳川斉昭の

揮毫だそうだ。

 

 

誠之館と命名
 藩校誠之館の創設にあたり、藩主・阿部正弘公は藩儒・関藤藤陰らに命名を要請した。藤陰らは中庸を原典に「誠之館」と命名した。
扁額の制作
 阿部正弘公は、何のためにこの扁額「誠之館」を制作したのであろうか。それまでの朱子学中心の藩校弘道館から、新しい時代を志向した藩校誠之館への脱却をアピールしたかったはずである。
徳川斉昭が揮毫
 正弘公は親しくしていた水戸藩主の
徳川斉昭に「誠之館」の揮毫を依頼した。それが「扁額誠之館原本」「扁額誠之館落款」である。何ゆえに徳川斉昭だったのであろうか。当時斉昭は、幕政の中で攘夷派の頭目とされていた。明らかに正弘公とは立場が異なっていながら、斉昭に揮毫を依頼した本意は何なのであろうか。正弘公は斉昭が攘夷派と言われながらも、現実には外来の情報知識の取り込みに熱心であったことを良く知っていたのかも知れない。斉昭への懐柔策だったのかも知れない。正弘公は、幕政の責任者でもあり福山藩の責任者でもある立場を、使い分けていたのであろうか。

(ネットから引用)

講演のあと誠之館現役生徒たちの「中庸」の朗読があった。

男女合わせて10数名が朗々と中庸を述べる

   誠は天の道なり。  これを誠にするは人の道なり。

        誠は勉めずして中り 思わずして得、従容として道に中る。 聖人なり。

         ・・・・と、まだまだ続くけど・・・、後はカット(^v^)

来賓として出席されていた現校長さんが、この中庸を全生徒に朗読させていると言われた。

力強い朗読は中々心地よかった

 

 

広島県の西側にある広島藩は長州側に着き倒幕派となり、東の福山藩は幕末には当然幕府側だから、

戦って敗れ、福山城は無血開城されたという。

敗れた福山藩は明治になってかなり嫌がらせを受けたらしい(笑)

幕府軍土方歳三が最後に戦った北海道五稜郭の戦いに明治政府から福山藩は出動を命じられ、

かなりの死者が出たという。

福山市になるのも他の地域とはずいぶん遅れ大正になってからだそうだ。

今も広島県では福山に対する嫌がらせの気風が残っているのかな

広島は安芸だが福山は備後地方という。

岡山県が東から備前・備中ときて、その流れから言えば備後の福山は岡山県に入る方が

順当の様な気がする。

私が住む地方は備後に入る

色んな意味で差別されているのかなぁ~?と思う事がいくつかある

JRの鉄道・芸備線と福塩線が三次で交わるのだが、私の住む町が広島鉄道管理局と

岡山鉄道管理局の狭間に当たり、色んな意味で置いてけぼりを食っている

 

江戸の仇を長崎で・・・と言う諺があるが今も生きているのかも・・・ ( ̄x ̄)

 

でも身延さんの講話はとても面白かった

まだまだ他にも阿部正弘が老中として行った事とか、後世に残したものとか興味のあるお話が

色々あったが、とりあえず身延さん著作の「敗れざる幕末」

を買って読もうと思う。