中井悠美子(悠石)「四季の絵文日記」 2011/9/24~

四季を語る「絵文」と、日常を織り交ぜた小さな日記。
ご訪問頂き有難うございます。ご縁に感謝を!

Vol. 2201 和気清麻呂をご存じですか!

2024年05月04日 19時58分06秒 | 郷土の偉人

清麿の銅像・・・実際の清麿を知る人はいないと思う・・・しかしながら本人と思わせる堂々とした姿。


山を背に、突然現れる「清麿神社」


ヒバの木が、悠然とそびえる「参道

岡山県備前市和気この地は
和気清麻呂(733~799年)の生地と伝えられています。
さて、歴史上に名を残す、和気清麻呂とは、いかなる人物であったのか
簡単にまとめてみました。
 
奈良時代、地方豪族の子どもたちは、成人すると上京して朝廷に仕えていた時代であったとか。
清麿は、天皇側近の警護役として働いていたようですが
37歳の時、天皇の座を狙う「弓削道鏡」との争いに負けて一時は九州に逃れ。

しかし、その後、桓武天皇の信任を得。
近畿地方の河川改修や開削を行って治水に努め、数多くの土木工事をなした。
美作・備前国造として郡民の負担軽減を図るなど民生の安定と発展に努め。
特に至誠を貫いた道鏡事件のあと。
平安遷都は彼の立案であったことなどは史上有名ですね。

1000年の古都・・・が存続したのは・・・正に清麿のおかげだったのですね。

岡山生まれの私,清麿は私の心に残る「自慢の人物」なんです!

詳しくはこちらへ
https://www.okayama-kanko.jp/okatabi/78/page

本日ご訪問下さいました皆様ありがとうございました・・・


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Vol. 2169 郷土の偉人「緒方洪庵」のお話し!!

2023年06月12日 01時37分50秒 | 郷土の偉人

敵塾跡・・・大阪市北浜にのこされています。大阪大学の管理地になっています。


敵塾を開いた「緒方洪庵」

●先日、所用があって「今橋」へ。今橋二丁目辺りで目に留まった「除痘館跡」
 おもわず立ち止まる。敵塾のある北浜より一筋南側にある今橋通り・・・建物の入り口に表示。
 なんと建物の名称も「緒方ビル」今まで何度も通っているのに気付かなかったわ!
 緒方洪庵はこの除痘館で「死亡率」二割を越える「天然痘」の予防接種を行ったとの解説が
 なんとも、勇気のある先生だったのですね・・・

 この地の歴史を知って・・・少し調べてみました。緒方洪庵と敵塾について・・・






歴史の教科書で習った「緒方洪庵」・・・我が故郷岡山の出身です。
洪庵は、漢方医全盛の時代にあって、コレラの大流行〔文政5年(1822)〕になすすべのない漢方に限界を感じ、
西洋医学を学ぶため17歳で父の任地大坂で蘭方医・中天游(なかてんゆう)の思々斎塾(蘭学塾)に入門した。

適塾は1838(天保9)年、江戸時代末期に、その緒方洪庵が現在の大阪市中央区北浜に開いた蘭学塾ですある。
福沢諭吉・手塚良仙・佐野常民 ・ 大村益次郎・橋本左内・大鳥圭介などの多くの門下生を輩出しており、
現在の大阪大学医学部の起源となった。ここんところ知らなかったわ~

門下生の内「手塚良仙」は漫画家「手塚治虫」の曾祖父に当たるとのこと。
手塚さんも大阪大学医学部のご出身ですね。

と、興味半分の内容で申し訳なく。

私の好奇心を満たす範囲の簡単コピペ!
お稽古の合間の「おしゃべりタイム」・・・・話題を一つ拾えました!


本日ご訪問くださいました皆様ありがとうございました・・・




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Vol. 2040 「珈琲」という漢字を考案した方のお話し!

2021年04月28日 19時53分20秒 | 郷土の偉人

写真はコーヒーチェリー・・・
これが摘み取られ、さまざまな工程を経て「コーヒー豆」になるのですね!

さて・・・このこーひーに「珈琲」という当て字を考えた人は誰だったのでしょう?
我が故郷は「岡山」でして、同郷の友人からおしえていただきましたこと、まとめてみました。
結論から言いますと
幕末の津山藩(岡山県津山市)で藩医でもあり蘭学者だった宇田川榕菴が
オランダ語のkoffie(コーフィー)を当てて「珈琲」という用語を考案し、
これを自筆の蘭和対訳辞典に載せたことが後に浸透した始まりだと言われています


実はこの宇田川榕菴は日本になじみが無かった植物学や化学の書物を自分で
翻訳しては造語をたくさん生み出しているんですね。
今では当たり前のように使っている「酸素」「水素」「窒素」「溶解」「細胞」など
教科書にはかかせない用語を造ったのも、この宇田川榕菴と言われているそうです。

さて最後に珈琲という漢字の意味を
まず「珈」ですが・・・これは「玉飾り」って女性が髪にさしていた「かんざし」を意味し
「琲」はその玉を結んでいた紐を意味しているのだそうです。

たしかにこの写真を見ると「コーヒーチェリー」は玉簪にみえますね!

コーヒーチェリーの様子を「玉簪・たまかんざし」に見立てた
知識だけでなくゆたかな想像力・・・宇田川榕菴氏に大拍手!

今日は
ちょっこと故郷の「偉人」の、こんなお話しでした。

本日ご訪問くださいました皆様ありがとうございました・・・

中井悠石拝

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Vol. 934 写真家星野道夫さんの眼差し!

2018年04月01日 12時55分08秒 | 郷土の偉人
   
   写真はすべてお借りしました 彼は何か大きな使命を持って生まれてきたのかもしれません。

                 
              優れた写真家でありエッセイストでもあった「星野道夫氏」
                     千葉県市川市出身
   
   彼を知ったのは「小学校5年生の教科書で」教科書用に書き下ろされた内容だったと思うのですが。
   森を育てる「木」の連鎖・・・のお話だったと思います。
   森の中。倒木たちはやがて朽ち、その上に落とされた「種」は朽ち木を養分として巨木に育っていく・・
   太古の昔から、何億何万年とそして人知れず今も繰り返されている命の連鎖。
  
   彼の観察眼の鋭さ、生き物に向ける優しい眼差し,人が生きるためには「他者の」命を頂かねばならない。
   失われた命は次の命を育てていく・・・生きとし生けるものすべてがそうなのだ。

   子どもたちと音読をしながら。。。
   深い感銘を覚えたことを記憶しています。

   昨晩彼の息子さんが父の足跡を訪ねる番組の放映がありました。
   2018年1月11日(木) 午後9時00分(50分)
   2018年4月1日(日) 午前1時50分(50分)
   再放送が、またあるのかどうかは分かりません。

   星野道夫さんの没後20年にあたる2016年8月から、全国巡回写真展がスタートしているようです。
   詳しくはこちらへ
   http://www.michio-hoshino.com/info.html

   星野さんはTV番組の取材でロシアに滞在中、ヒグマに襲われて命を落とされました。
   43歳であったとか。濃密に生きられたのでしょうが、あまりにも短い人生でありました。

   

   

   
   
   
   一粒種の息子さん。「翔馬君」と


   星野道夫さんの名言をどうぞ
   
   心魅かれる・・・こころひかれる・・・と読ませる。
   彼は言葉の達人でもありました。エッセイ本も沢山出版されています。

   今こそ心の時代かもしれません。


   本日ご訪問くださいました皆様ありがとうございました・・・
 
   
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Vol. 662 郷土の佳人「竹久夢二」

2016年03月02日 17時48分55秒 | 郷土の偉人
   知らぬ方はおそらくなかろう「竹久夢二」
   岡山出身の方。しかも彼の生家は、私の実家から車で20分ほどの近さ。

   今年は生誕130年とか。
   帰省ついでに揃ってご案内頂きました・・・何しろ私はすでに「異邦人」

   
   椿が好きだったという夢二。石碑の後ろに寄り添うように咲いていました。

   
   ご実家。よくぞ残っていたことです。写真もとても綺麗にとれました(Rちゃんの提供)
   彼が少年時代を過ごした「子ども部屋」も残っていました。
   日本家屋の質素な居間。季節柄でしょうか、雛が飾られて彩りを添えていました。

   
    ここからはコピペです。
   彼は、岡山県邑久(おく)郡(現、瀬戸内市)生まれ。本名・茂次郎(もじろう)。
   16歳で上京し、早稲田実業学校在学中より雑誌へ投稿し、明治38年にデビュー。
   センチメンタルな画風の〈夢二式美人画)を確立。
   日本画・水彩画・油彩画・木版画等制作を行った。

   さらに大正3年(1914)に「港屋絵草紙店」を開店させて生活の芸術化を図り、
   デザイン分野にも力を注いだ。
   また「宵待草」他、詩や童謡も数多く創作、詩画を融合させた芸術を
   開花させ『夢二画集 春の巻』等、57冊の著作本も残している。

   
   宵待草の歌・・・待てど暮らせど 来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬそうな
   歌えます・・・

   椿が好きだったそうです。
      

   東京にあったアトリエを復元。
   
   
   少年山荘となっていました。当時としてはモダンな造りだったのでしょうか。


   帰省はしても車がなければ、不自由で、訪れそびれていた夢二の里。
   長閑な田園の中に。人待ち顔をして、今も、ひっそりとあります。
   三々五々と訪れる人たち。私たちもその一員となって、春待つ午後を楽しみました。
 
   良き物、優しい物、美しい物、味わい深い物、温かい物、激しい物、奥深い物。
   多くの心揺さぶる物達と触れ合うことが出来た今回の帰省。
   貴い思い出の一ページを残すことが出来ました。

   
   手を広げて待っていてくれた「幼なじみ」に捧げます。
   心からのありがとうを。

   感謝のブログ「四回シリーズ」は、これにて終了です。

   

   
   

   

   
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Vol. 615 耳より・平賀源内

2015年07月24日 18時28分02秒 | 郷土の偉人
   

   今日は土用の丑の日
   ウナギを頂いてエネルギーチャージ・・・そんな日。
   ちょこっと耳寄りなお話しを
  
   文政5年(1822年–1823年)の、『明和誌』(青山白峰著)の中で、
   うなぎ屋と平賀源内についての事が書かれています。

   元々、うなぎの旬は晩秋から初冬にかけてで、夏のうなぎは味が落ちます。
   ですから、夏にはうなぎの売れ行きが悪くウナギ屋はどこも商売に困っていました。

   あるウナギ屋が、博学で有名な平賀源内に相談したところ、

   
   平賀源内は「丑の日に『う』の字が附く物を食べると夏負けしない」
   という民間伝承からヒントを得て、
   「本日丑の日」と書いて店先に貼ることをウナギ屋に勧めました。

   すると、そのウナギ屋は大繁盛!それを見た他のウナギ屋も真似をして・・・今日に至る。
 
   やはり源内さんは天才でありました。

   さて、大阪高麗橋にある「ウナギの老舗」
   柴藤・・・しばとう
   http://www.shibato.net/
   

   創業は享保年間・・・(約280年の歴史) 
   八代将軍 吉宗からの勧めで料理屋「柴藤」を大阪城付近で開業したのが始まりと伝わっています。
   川の多い大阪の町では、屋形船でおいしい料理を楽しむのは風流とされ、とても繁盛しました。
   そうですが「屋形船は火事に」あい、現在は5階建てのビルで営業。
   お値段はなかなかのものですが、清水の舞台から飛び降りるつもりで一度は!

   TVで耳にしたお話しをまとめてみました。
   簡単ですが悪しからず・・・
   ちなみに今晩我が家の食卓には「ウナギ」は乗りませんでした・・・・・・
   
   皆様本日もご訪問頂き有難うございました・・・・・・

   
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Vol. 594 建築家Frank Lloyd Wright氏

2015年04月03日 18時50分29秒 | 郷土の偉人
   

   先日訪れた「淀鋼迎賓館」
   設計の「フランク・ロイド・ライト氏」は著名な方と、fb友のRちゃんからのお知らせ。
   本日お稽古の生徒さん「70歳半ば以上の方」は皆さん彼のことをご存じでした。
   有名なんですね、少し調べてみました。

   Frank Lloyd Wright
   1867年6月8日~1959年4月9日(享年91)
   アメリカの建築家。ウィスコンシン州の生まれ。
   ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエと共に
   「近代建築の三大巨匠」と呼ばれる(ヴァルター・グロピウスを加え四大巨匠とみなす事もある)。

   孫娘はアカデミー賞女優のアン・バクスター。

   彼の設計に寄る建造物を観るには
   http://matome.naver.jp/odai/2131951936756184401
      こちらからどうぞ。

   天才の経歴は奧深く、何とも複雑で「書ききれません」
   プレイリー様式・・・草原の中にあるような佇まい・・・を得意としたと言うことです。

   入り口だけですみません。

   さて、今日雨の卯月3日。
   住まいの辺り、桜が見頃です・・・毎年この時期写真に残しています。
   一挙公開・・・
   

   

   
    以上昨日

    ここからは本日
      

       

   晴れて良し 雨の中の佇まいもまた良し 
   笑顔も泣き顔も・・・それぞれに美しい桜です。
   桜に心騒ぐ季節も行こうとしていますね。

   散る桜 残る桜も 散る桜

   桜の伝承・・「さ」は田の神様のこと
          「くら」はその神様のよりしろのこと
          冬の間、山におわした田の神様が、里へと下りてこられる
          その途中、一時休まれる場所・・・「さくら」

     美しいお話しですね。

   何だか、まとまらないお話しに~~~
      とりとめのないお話しにお付き合いすみません!
   
   本日ご訪問下さいました皆様有難うございました・・・


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Vol. 435 物作りに生きる

2013年10月15日 20時09分09秒 | 郷土の偉人
   

   

   昨日「仕事の流儀」
   岡山県・・・と言う言葉が耳に飛び込んできました。
   故郷に敏感なわたくし・・・・耳がダンボに・・・カメラ!iphone・・・

   吉田全作さん。チーズ作りに生涯をかけ・・・1000年以上続く「文化」に育てたい!

   1984年、岡山県吉備中央町に吉田全作が「吉田牧場」を創業。
   吉田は北海道大学農学部を卒業後、農協関連団体に勤務していたが、雑誌『暮らしの手帖』に掲載されていた、
   フランス・ノルマンディー地方でチーズを手作りする老夫婦の紹介記事を読んだことを
   きっかけとしてチーズ作りに興味を抱いた。

   イギリスなどにも学びの場を求め「失敗に次ぐ、失敗」を重ねながらもよき人との出会いを得
   折からのイタリア料理ブームにも後押しされ、1990年代半ばには年商1000万円を達成した。

   しかしながら「儲けるために始めたチーズ生産ではなく、家庭で使う分の余剰を売っている」
   という吉田の考えから増産は行われず、吉田全作と妻、  
   および息子で後継者の吉田原野夫妻の4名で経営が続けられている。
                         :::ちょっとコピペ:::

   
   父との葛藤を乗り越えて後継者としての修行を積んでいる息子の「原野」さん。
   いい仕事してるんですね!

   
   こちらが、吉田牧場。
   牛たちは、放牧されています。ストレスのない可愛い顔をしていました。
   
   
   こちらが楽天の通販で買える「チーズ」
   アクセスしてみましたが、現在品切れ・・・とのことでした。
   よほどの幸運でない限り手に入らないのでしょうね!
   家族全員のお名前が掲載されています・・・こんな事にも感激してしまいます・・・愛ですよねえ!

   日本一のチーズ=カチョウカヴァロ  どんなお味なんでしょうか?
   
   最後にわたしの勝手にまとめた「吉田語録」
   どんなことにも心を込める。手を抜かない。手塩にかけて育てる。
   楽か大変か・・・迷った時は「大変」な方を選べ!
   失敗から、多くを学ぶ・・・わたくし、また、一つ大きな学びと反省を頂きました。

   ちょっと感動のお話しでした~~!
   皆様ご訪問有難うございました・・・・・・

   
   
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Vol. 379 郷土の偉人・その(8)

2013年07月15日 11時18分02秒 | 郷土の偉人
   
   台湾に造られた烏山頭水庫 うさんとう・・・と読むのでしょうか。水庫はダムのことかと。

   ダムの設計・監督を勤めたのは日本人技師の「八田與一・はったよいち」さん。

     
   写真は八田與一さん。かれを記念する公園には、銅像が建てられていて、
   亡くなった5月8日には慰霊祭が執り行われ、それは亡くなって70年を経る今も続けられているそうです。
   

   彼は日本でより、寧ろ「台湾」の方でが有名なのかも知れません。
   台湾の教科書で学ばれているそうです。東北大震災の折り多くの義援金が集まったのも
   彼の功績に寄与することが「大」であったと思われます・・・これは個人の感想です。

   八田與一さん。
   石川県河北郡花園村・・・現・金沢市今町出身。
   1886年2月21日~1942年5月8日

   石川県出身の八田與一技師は、明治43年に台湾総督府に着任。
   台湾各地の水利事業に携わった後。ダムの建設に・・・

   烏山頭ダムは、1920年(大正9年)9月の着工から10年の歳月をかけ
   完成されたそうで、水資源に恵まれず、農作物が実らなかった嘉南平野
   の広大な土地が、大穀倉地帯と生まれ変わったとのこと。

   工事に従事される方々とその家族、あわせて二千名近くが暮らせる
   宿舎を完成させ、日本人と台湾人を区別することなく公平な立場で
   工事を指揮監督し、この大工事を完成させたとのこと。

   最初の放水が末端まで到達するのに2日もかかったとも・・・如何に広大な土地が潤ったか・・・
   そしてこのダムは、現在も営々と稼働中の灌漑ダムであるという。
   戦前に作られたダムが、今も稼働していることに彼の偉業を感じませんか!

   実は、今年9月にfb友の原新治郎さんのご紹介で「日台絵画交流展」に出展させて頂くことになりました。。
   今回の訪台は叶いませんが、来年は是非訪台し「八田與一記念館」を訪れたく思っています。

   そんな訳で、故郷の友人「とっちゃん」からお聴きした話しを思い出しまとめてみました。

   偉大な日本人に乾杯です・・・人は一代名は末代!
   
   ↑「記念館」です!

   15歳年下の妻「外代樹・とよき」さんは、帰国命令の出た終戦の年
   水路に身を投げて自らの命を絶ったと言うことです・・・
   彼のいない日本に返る気持ちにはなれなかったのでしょう。

   長くなりました・・・皆様ご訪問ありがとうございました・・・・・・
   
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Vol. 330 郷土の偉人・その(7)

2013年04月24日 11時48分17秒 | 郷土の偉人
   
    建仁寺・・・中庭
    栄西・開山・臨済宗の本山です。京都市東山区。風神雷神の襖絵で有名ですね。 
    

      


   臨済宗(りんざいしゅう)の開祖、そして喫茶を伝えた茶祖として名高い
   栄西(1141~1215)は永治元年に備中国、現在の岡山県西部で生まれました。
   栄西の出身である賀陽(かや)氏は代々、吉備津宮(現在の吉備津神社、岡山市北区吉備津)
   の神官を務める家でした。

   平成26年は栄西の800回忌にあたることから、
   今回の展覧会ではこれを記念し、その生涯と事績にスポットをあてます。

   なお、栄西の名前の呼び方については一般に「えいさい」と呼び習わされているのですが、
   臨済宗系の寺院では「ようさい」とされることが多く、今回の展覧会ではこの呼称を用います。
                          ______以上コピペしました_____
     
   今週末の「土曜日」は岡山教室のお稽古日。
   昨日fbのお友達の記事から岡山で「栄西展」が開催されることを知りました。
   茶道のお稽古を始めたとき栄西は、「茶粗」
   ・・・つまり「宋」から茶種を持ち帰り 日本各地に広めた方・・・と教わりました。

   が、出身が岡山であったこと、すっかり失念していました。
    ←不思議なところに「茶筅」がたててあります?


   ちょうどよい機会・・・お稽古の後出かけてみようと思います。たのしみです~!
   
   岡山県立博物館   期 間 4月19日(金曜日)~5月19日(日曜日)
                  休館日:4月22日、30日、5月7日、13日


   さて、今日の名言をどうぞ!
   
   

   そうだ、この道を行く。自分で選んだ道なんだもの!

   皆様ご訪問有難うございました・・・・・・
   
                
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