『外敵』による侵略の危険と、隣り合わせで生きてきた民族や国家は、『突出』型の文明を育てるし、そういう危険をあまり感じないですんだ民族や国家は、『平添え』型の文明を、育てるのでありましょう。
三内丸山遺跡が示すように、縄文後期の日本の大集落には、城壁がなかったのであります。
時代は下がって、弥生時代から平安時代にかけての日本人たちは、唐の都、長安をまねて造った平城京、平安京でさえ、門は立てたが、門と門とのあいだをつなぐ城壁を作りませんでした。
外敵を考える必要のない都市はまた、物見やぐらを必要としない文化を発達させました。
物見やぐらだけではなく、宗教建築も、都市に城壁をめぐらせる必要のあった中国と、その必要を感じなかった日本では、まったく違うかたちをとるようになりました。
外敵の侵略を前提に城壁をめぐらした、ユーラシア大陸の都市は、最高権力者がいちばん高い塔を建てて、「今まさに、外敵が、侵入しようとしている。」という情報を独占する文明を育てました。
つまり、中国からヨーロッパに至る、あらゆる都市で、王侯貴族、高位の聖職者、豪農が、「町で、いちばん高い塔。」を建て、そこでしかえられない住民全体の生死がかかった情報を、独占する構造ができていました。、
情報における階級『格差』が、歴然と存在していたわけであります。
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