湘南文芸TAK

逗子でフツーに暮らし詩を書いています。オリジナルの詩と地域と文学についてほぼ毎日アップ。現代詩を書くメンバー募集中。

来週のイベント

2014-08-19 23:26:20 | イベント
8月30日(土)8月31日(日)10:00~16:00に私たちが開催するフリマのチラシ・ポスターを、逗子市民交流センター1階に掲示&配架してもらってます。 22日に逗子市内の広報板にも掲示します。
同時開催 TAK詩集パイロット版展示・武重路子版画展・逗葉文芸「北斗七星」展示即売 ほか
会場 a b sea(逗子市新宿1-4-32 逗子海岸東浜前 国道134号線沿いBarefoot coffee&LUANA横後ろ SUPクラブOCEANSと同じ建物 )
イベント当日の様子を、ユーストリームでライブ配信する予定です。よろしくね
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歌舞伎座黙阿弥燈籠

2014-08-18 13:32:52 | 日記
東京の皆さんが故郷からUターン中で普段の日曜日よりすいている銀座に行ってきました。
 新しくなってから1年ちょっと経った歌舞伎座の
屋上庭園に、逗子ゆかりの燈籠を発見!

↓河竹黙阿弥の義理の曾孫にあたる演劇学者、河竹登志夫先生の解説表示板。

新歌舞伎座の竣工まで待っていたかのように昨年ご逝去された河竹先生の、披露山庭園住宅内のご自宅に、この燈籠はあったんですね。
河竹黙阿弥はたくさんの歌舞伎台本を執筆し、七五調の台詞で当時の歌舞伎座の観客を魅了しました。
↓有名な弁天小僧菊之助の科白は、湘南が舞台。
知らざあ言ってぇ聞かせやしょう
浜の真砂と五右衛門が
歌に残せし盗人の
種は尽きねぇ七里ヶ浜
その白浪の夜働き
以前を言やぁ江ノ島で
年季勤めの児ヶ淵
江戸の百味講の蒔銭を
当てに小皿の一文字
百が二百と賽銭の
くすね銭せぇだんだんに
悪事はのぼる上の宮
岩本院で講中の
枕捜しも度重なり
お手長講と札付きに
とうとう島を追い出され
それから若衆の美人局
ここやかしこの寺島で
小耳に聞いた祖父さんの
似ぬ声色で小ゆすりかたり
名せえ由縁の弁天小僧
菊之助たぁ俺がことだぁ
 (白浪五人男 雪ノ下浜松屋の場)

歌舞伎座近くの俺の揚子江で食事をしました。めちゃ高コスパ そのかわりお客さん高密度な中で立ち食いです。
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トンネルができる前

2014-08-17 00:10:41 | 湘南
昨日からトンネルについていろいろ考えていて、トンネルがない時代はどうしてたんだろうと、ふと思いました。
明治時代に鎌倉から逗子に歩いて行く様子を、夏目漱石が「彼岸過迄」で描写しています。
早く来いという合図をしようという考で振り向いた僕は、合図を止めてまた叔父と歩き出した。そうしてそのまま小坪へ這入る入口の岬の所まで来た。そこは海へ出張った山の裾を、人の通れるだけの狭い幅に削って、ぐるりと向う側へ廻り込まれるようにした坂道であった。
昔「小坪の親知らず」と言われた崖っぷちの細く険しい道の下に、今は小坪海岸トンネルが通っているから、逗子マリーナから材木座にすんなり行けちゃうんです。

このトンネルすぐそばの、昨日ご紹介した小坪トンネル脇には、工事殉職者の慰霊碑が。

人々の日常の行き来を楽にするために犠牲になった方々のご冥福をお祈りいたします。
↓おまけ 川端康成「伊豆の踊子」に出てくる天城トンネル(重要文化財・日本の道100選)。

ここも「出る」らしいです。昔、追い剥ぎ強盗などの犠牲になった方がいたみたいですね。ご冥福をお祈りいたします。 
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小坪トンネル怪談の本当の舞台

2014-08-16 00:38:25 | 文学
7月10日の投稿「トンネルは異界への入り口」には続きがあるのだ~。不思議な事にもうひとつの小坪トンネルが~…って、そんなに怖くはありませんから安心してお読みください。

国道134号線の飯島トンネルと並行して東側旧道に通っている小坪トンネル。バス停でいうと飯島と姥子台の間です。
7月にご紹介した浅田次郎「夕暮れ隧道」。そのラストで主人公たちは、上の写真に写っている小坪トンネルに辿り着きます。小説の中では実際より怪しげに脚色されている部分もあります。
昏れかかる谷間で僕は車を止めた。バイパスの高架橋の下を、山に向って駆け上がる細い道があった。分岐には古い神社があり、「この先抜けられません」という看板が立ててあった。道の涯てには、暗欝な雑木の山に呑みこまれていた。
「こっち、行ってみようよ」
 真知子に励まされて、僕はハンドルを切った。進むほどに潮の匂いは遠のき、じっとりと湿った土と木の呼吸が窓から流れこんできた。その道が小坪トンネルに続いていることを、僕らは確信した。
「怖くねえか」
「ちっとも」と、真知子は微笑み返した。
「会えるかなあ」
「いたらどうすんだよ。あせるよね、きっと。何て言おうか」
 真知子は僕の横顔を窺いながら、「私は言うこと決めてるよ」と、呟いた。
 僕らの前に古い煉瓦を積み上げたトンネルの入口が現われた。
 あたりにはみっしりと羊歯の葉が生い茂り、錆びた自転車や壊れた家具やらがあちこちに捨てられていた。落石止めのネットが張られた崖の下に、僕は車を止めた。
 おそらくその昔は、小坪の港と鎌倉の町をつなぐ唯一のトンネルだったのだろう。暗渠の先からは、ほのかに潮風が吹き寄せていた。
 蔓の被いかぶさった入口を見上げる。赤錆びた鉄板には、「小坪隧道」と記されていた。
「入ってみようよ」
 地下水の滴り落ちる煉瓦の壁に花束を立てかけて、真知子は合掌するかわりに僕の腕を引いた。
 僕らは肩と腰を抱き合って、真暗なトンネルに歩みこんだ。歩きながら、奥歯でコークの栓を抜き、ひとくち飲んでから真知子に手渡した。
「ねえ、タバコ喫ってあげてよ」
 立ち止まって煙草をくわえ、吹き過ぎる潮風に火をかばったとたん、僕はありありと、恋人岬でマッチを差し向けたときの鴇田君の冷たい手の感触を思い出した。
 僕らは四方の闇に向かって死者たちの名を呼んだ。
 足元も覚束ぬ濡れた闇の中をしばらく歩くと、地の底からせり上がる感じで、円い出口が現れた。そこからは稲村ケ崎に沈みかかる夕日と、秋の色に染まった由比ケ浜を見下ろすことができた。

こちらは県道311号線の、心霊スポットマニアが訪れる小坪トンネルです。
逗子市内になぜか2つの小坪トンネルが存在することを、浅田次郎は紛らわしいなぁと思わないで、小説に使えると感じたってことですね。
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今月30・31日はフリマ

2014-08-15 01:52:59 | イベント
このブログ立ち上げ時にも触れましたが、8月30~31日に私たちのグループのフリーマーケットを開催します。
分かりやすいようで分かりにくい場所をどう知らせるか、イベントのキャッチをどうするかなど悩んだ末にポスターが完成 

 逗子海岸日テレ海の家のフローズン生カシスで乾杯だ
…って完成を祝うほどでもないA4の簡素な刷り物ですが、これで告知をしていきます。
T・A・Kの詩が載っている逗葉文芸「北斗七星」誌の展示即売、Tの版画展示も予定していますが、文芸・アートに関心がなくてもフリマ・ガレージセールを冷やかす感じで気楽に来ていただければと思っています。

↑逗葉文芸「北斗七星」
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待つ

2014-08-14 02:00:52 | 文学
来ぬ人をまつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の身も焦がれつつ (権中納言定家「新勅撰集」)
今来むと言ひしばかりに長月の 有明の月を待ち出でつるかな (素性法師「古今集」)
百人一首におさめられた上記2首に共通する単語は「待つ」。
内田樹「態度が悪くてすみません」で、こんなふうに解説されています。
「人を待つ」と文字で書けばそれだけのことだが、実際にはわずかな時間のうちに、「相手を思ってふくらむ気持ち」が「どす黒い憎しみ」にまで一気に変貌する。同一行為でありながら、時間条件の入力が変わるだけで、これだけ意味が変る動詞を私は他に思いつかない。
 おそらく古人が「待つ」という行為をこのんで歌に詠んだのは、それが「期待」にも「焦燥」にも「嫉妬」にも「憎悪」にも、いかような感情を添えてでも解釈できるニュアンス豊かな動詞だったからであろう。

この心理変化、創作にぜひ取り入れたいものです。

↑釣果を待つスナフキン。後ろ姿ofマグカップofアラビア。
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中原中也と鎌倉・逗子

2014-08-12 23:04:53 | 文学
夏の昼の青々とした木蔭は私の後悔を宥めてくれる (中原中也「木蔭」より)
後悔の多い私のココロにこのセンテンスがピタッと来て、中原中也とこのエリアとのかかわりについて調べてみました。
中也が鎌倉に住んだのは1937年2月から亡くなった10月まで。1年にも満たないんですね。扇ガ谷の寿福寺境内に暮らし、鎌倉養生院で亡くなり、逗子市小坪の誠行社で荼毘に付されました。逗子ゆかりの作家、辺見庸が詩文集「生首」で第16回中原中也賞を受けています。
以下は、小林秀雄「中原中也の思ひ出」からの引用です。
 中原と会って間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に、奇怪な三角関係が出来上がり、やがて彼女と私は同棲した。この忌まわしい出来事が、私と中原との間を目茶目茶にした。
女優の長谷川泰子を挟んだ三角関係を演じてから10年以上経った中也の晩年にも、互いに泰子とは別の女性と結婚していた2人の交流は続いていました。
 中原は、寿福寺境内の小さな陰氣な家に住んでいた。彼の家庭の様子が餘り淋し氣なので、女同士でも仲よく行き來する様になればと思ひ、家内を連れて行った事がある。眞夏の午後であった。 

先日のぼんぼり祭@鶴岡八幡宮にて。
あれこれググっていて、ささめやゆきさんが男性だということも初めて知りました
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地元民と海水浴客

2014-08-11 23:22:33 | 文学
 海、海、海、裸になって思うぞんぶん遊ぶこと以外は念頭にない。衣類は申しわけにつけているものの、すでに逗子の駅に下りた時歩きながら、もう裸も同然な気になっている人びとが興奮した表情で、西瓜をぶらさげ、申し合わせたようにボストン・バッグ、ビニールの袋、水筒、などを手にぞくぞくと海岸へ行く道を歩いて行く。
 あたくしの家から海岸へは六分位かかるが、それでも海辺の喧騒、町の雑踏の空気が、風に乗って流れてくる。それは、いかにも活気に満ちた空気だった。
 あたくしの知人たちは、あたくし同様、もう海辺に住み馴れて十年も二十年も暮しているのだが、そして殆どは夏の喧騒にへきえきしているのだが―それでも、海辺の興奮をきゝ、生の歓喜のような叫びが耳につくと、思わず釣り込まれて
「海辺の景気を見てこようか……」などと言い出す。
 (中里恒子「海のわかれ」より)

住んでる人は正直、海水浴場・海水浴客に対して距離を置いています。
脳内が完璧レジャーモード、あるいはそれ以上に邪悪な妄想でいっぱいそうなお客さまには眉をひそめてしまいます。
ですけど今日は私も東京から逗子に来てくれた友人に付き合って、海辺の景気を見に普段あまり下りて行かない逗子海岸へ。
今年はガードとパトロールがしっかりしていて、お客さまはいつもより少なめ。
シート敷いてこんなアングルから海を見ていたら、居眠りしちゃいました。

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ぼんぼり祭

2014-08-10 00:34:57 | イベント

昨日、ぼんぼり祭最終日の鶴岡八幡宮に行ってきました。境内の舞殿では箏曲の奉納が。
そして白幡神社では鎌倉幕府三代将軍源実朝の誕生日にちなみ、実朝祭も行われました。つまり、昨日のブログでご紹介したトーベ・ヤンソンと源実朝は同じ誕生日ってことですね生年は690年違うけど…。
和歌をよく詠み京都寄り後鳥羽上皇寄りだったことが災いして、この境内で暗殺されてしまった実朝を偲びつつ、著名人自筆のぼんぼり約400をぜ~んぶ鑑賞。
見応えありました!

↑鎌倉在住の作家、柳美里さんのぼんぼり

↑逗子在住の漫画家・小説家、折原みとさんのぼんぼり
このような文学的・情緒的なぼんぼりがある一方、シュールでコミカルなぼんぼりも。一番ブッ飛んだのは、蛭子能収さんの「人間花火だ」という作品でした。先月の隅田川花火大会中継番組出演時のことが尾を引いていたりしたのでしょうか
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トーベ・ヤンソン生誕百年

2014-08-09 01:44:22 | 文学
今日はムーミンの日。トーベ・ヤンソンの誕生日ですしかもジャスト100回目の。

Kが北欧で手に入れたグリーティングカード。ムーミンが「おめでとう」とプレゼントを持って駆けつけてます。

トーベ・ヤンソン作品の翻訳者でもある冨原眞弓さんの「ムーミンのふたつの顔」には、ヤンソンの若い頃がこんなふうに書かれています。
 ヤンソンは二十代前半には新聞や雑誌に短篇やエッセイを書いている。二十代後半にはすでに本業である油絵の個展をひらき、役所や教会の注文をうけて壁画を描く一方で、生活を支えるために雑誌や新聞に多くの挿絵をよせた。才能のあるエッセイストにして、前途有望な新進画家として、それなりに認知されていたといってよい。ただし活動領域はあくまで限定的であった。彫刻家とおなじく画科も本業で食べていくのはむずかしい。油絵もそうそう売れないし、フレスコ画の注文もしょっちゅうはない。生計のために、雑誌の挿絵や本の表紙を描くが、食費と画材費をまかなうのが精いっぱい。厳しい冬がきても、ろくに暖もとれない。おまけに自転車操業で、つぎからつぎへと仕事をこなさねばならない。疲労と空腹と寒さで、本業に専念する時間と気力が削りとられていく。
この状況を救ったのが、イギリスの「イヴニング・ニュース」紙のコマ漫画連載オファーでした。自らが挿絵を描いた児童文学の英訳がイギリスで評価されたことでその主人公ムーミンが、彼女自身の手で漫画でも動き出した訳です。
画家、イラストレーター、エッセイスト、童話作家に加えて漫画家そしてムーミン後は少年少女や大人向けの小説も書き、フィンランド湾沖の島での暮らしをエッセイにまとめ、2001年に亡くなりました。
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