神鳴り(アメジストネックレス)

難聴ゆえに家居の好きな主婦です。過去、心臓弁膜症、大腸がんの手術を受けました。趣味は短歌です

母からの荷物に詰め物として入れられていた故郷の高知新聞

2015年10月31日 19時34分04秒 | 新聞記事
実家の母から荷物が届いた。

我が家に何か送ってきてくれたというより、明日我が家に来るから自分の荷物を送ってきたのだ。

さて、タイトルにした、その荷物の詰め物になっていた高知新聞が今日のブログ記事である。

詰め物にするくらいだから、過去の新聞ばかりだ。つまり旧聞のてんこ盛りということになる(笑)

が、私には、旧聞でも十分興味を引く。なにしろふるさとの話題満載の「旧聞」だから。

まず、この記事↓母のいけばなのお弟子さんだった人の書かれた記事だ。


日付は今年9月21日。

私より一歳年長だった方だが、驚いたのは、その肩書きが「作家」になっていたこと。

いつのまに作家になられたのだろう。

若いころは、よく高知新聞の投書欄に投稿されていた。

なかなか面白いことを書かれると思っていたが、いつのまにやら作家になられたのだ。

次にこの記事↓高知県の2大公共交通運営企業が合併した経緯と現在。


昨年、兄の一周忌で帰省したとき、私のまたいとこが、その高知県の2大公共交通運営企業であった土電と高知県交通の合併した新会社「とさでん交通」の社長になるということをそのお母さん(母のいとこ)から聞いたが、そのことが書かれた記事だった。日付は昨年10月4日。

というふうに、ちょっと見ただけで、たちどころに知った人の記事が見付かる。

これが、ローカル新聞の面白さなのだと思った。

現代は、全国版の新聞だとネットで流されたのと同じニュースを再確認するということになるが、こういう地方新聞だと、私に関係した、しかし全く知らなかった故郷のニュースが入手できる。

その他の記事も、地方色むんむんの記事ばかりだから、つい読みふけってしまう。

現在購読している新聞は、もうやめたいと思っているくらいなのに、ふるさとの高知新聞は、送料を払ってでも、わざわざ購読したいと思うくらい、私にとって魅力に満ち満ちている。

  ふるさとの高知新聞ふるさとの知人、親戚みつけて楽し  biko

  全国のニュースなどより知りたきは故郷高知の歴史、近況  biko

作家になられている小川由里さんのますますのご活躍と、このたび「とさでん交通」の社長になられた”またいとこ”の奮闘を祈らせていただきたい。

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母は明日、岡山でいけばなの会に出席してから一人で兵庫県は川西市の我が家まで来るという。

高知市内での移動も覚束ない90歳の老人が無謀と思うが、言い出したらきかないから仕方ない。

  卒寿なる母は一人で高知より岡山に行き川西に来る  biko

建造物のくい打ちの「データ改竄常態化」だったとは、われわれはいったい何を信じればよいのか

2015年10月30日 11時45分32秒 | ニュース
いまyahooのニュースを見ると、「建造物のデータ改竄常態化」だったとある。

これは恐ろしいことだ。

国内にどれだけのマンション、ビルがあるか知らないが、今までは、その安全を信じていたからこそ巨大な建造物も安心して見ていられたし、住んでいられた。

その信頼が根底から覆されたら、いったい何を信じておればよいのか。

その理不尽に怒りを覚えるのは、今回の横浜のマンションの住民の皆さんだけでない。

日本全国のマンションの居住者は恐怖におののいているだろう。

マンションの居住者でなくても、たとえば、我が家には隣接してマンションが建っている。

そのマンションの基礎となる”くい”が固い地盤に届いていないとすれば、いつこちらに傾いてくるかわからないし、万一倒れてきたら、我が家は確実に押しつぶされる。

こんな心配をしないといけない人は、全国でいったいどれだけいるだろうか。

日本は、いま地震活動期だと聞く。

ただでさえ地震の破壊力を恐ろしく思っているのに、今後は、これに人工的な災害への恐怖心が加わる。

日本の国を誇りに思い、信頼してきたが、ここに至って震度5くらいの揺さぶりをかけられたような気持ちでいる。

杞憂が杞憂でなくなった。

むかし空が堕ちて来ないかと心配したという杞の国の人を私達は笑うことができない。

義母も母も早婚&高身長でした

2015年10月29日 18時25分00秒 | 家族
もう少し義母のことを書いてみようと思います。ついでに、母のことも、夫の伯母さんのことも。

義母は早婚でした。

女学校在学中にお見合いをして、卒業後すぐに結婚しましたから、満17歳でしょうか。

今で言えば幼な妻ですね。

でも家事は女学生時代から親に仕込まれていたから最初からきちんとできたそうです。

幼な妻だったせいか、結婚しても4年間は子供ができなかったそうです。

昔のことだから、ずいぶん心配したらしいのですが、4年目に夫の(早世した)兄が生れました。

17歳から4年後だから、義母は満21歳だったでしょうか。

まだまだ若いお母さんだったわけですね。

早婚といえば、私の母も早婚でした。

母は、女学校を卒業してから花嫁修業として和裁を習っていたそうです。そのころ父とお見合いして結婚しました。母が19歳のときです。

母のほうは、義母とは違って、祖母が母に何もさせなかったため、結婚してから初めてご飯を炊いたというお嬢さんだったようです。祖母は、それを自慢していたくらいでしたから、家によって考え方は異なりますね。(笑)

で、結婚して1年後、20歳のときに兄が生れました。

母も若い若いお母さんだったのです。

当時は、皆が今より早婚だったとしても、義母も母も早すぎるくらい早かったのですね。

義母も母も身長が164センチあって、結婚相手もそこそこ身長が必要という選択肢の狭さから、義母の両親も母の両親(私の祖父母)も早く嫁入りさせなければと思ったかもしれませね。

でも、2人とも、高身長だけあってスタイルがいいのです。

当時の写真も残っていますが、出してくるのが面倒なので、今度出したときに撮影してアップするようにしますね。

高身長といえば、お昼に書いた「義母は有閑マダムでした」の記事の義父のお姉さんも、やはり身長が164センチあって、これまた非常な美人だったらしいです。伯母さんは私の祖母と同年輩でしたから、私がお嫁にきたころは、もうしわくちゃのおばあさんでしたが、若い頃は、高知市内で一番大きい和田写真館という写真館が、店頭に飾る写真のモデルになってほしいと頼みにくるほどだったそうです。

高身長で綺麗だと、今でもそうですが、目立つのですね。

私の息子達が、長男は185センチ、次男も181センチもあるのは、父方、母方の両方の祖母や、大叔母さん(義父のお姉さん)に似たんだと思います。ちなみに、私の身長は160センチで、当時としては高身長のほうでしたが、双方の母や義伯母さんには敵いません。娘は164センチで、両方の祖母と同じですが、でも、高身長の多い現代の女性の身長としては普通ですね。

義母は有閑マダムそのものでした。さて、わたくしは?(^^)

2015年10月29日 11時24分12秒 | 思い出
義母は、お嬢さん育ちで、かつ美人で、有閑マダムそのものでした。

そのことは、その子供である夫も、義妹も、義父の親戚一同が認めていました。

義父のお姉さんは自分の一人息子が早く亡くなったこともあって、弟である義父一家に援助を惜しみませんでした。

その伯母さんの嘆きは、義母のお金遣いの荒さでした。

伯母さんのところは、伯父さんが医院を営んでいたこともあって、経済的に裕福だったのですが、自分は切り詰めた生活をして、人に尽くす人でした。

特に年の離れた弟であった義父のことは可愛かったとみえて、その子供である夫達はもとより、嫁である私にまで服など買ってくれて、よくしてくれました。

その伯母さんがいつも嘆いていたのが、お嬢さん育ちの義母の浪費癖でした。

義父が結婚するときに、義母の親戚の人がついてきて、「○○さん(義母のこと)は、お嬢さん育ちでございますから」と挨拶していったそうです。、

伯母さんは、「○○さんは、それを笠に着て、どんなに経済的ピンチになっても贅沢を止めない」と私に言っていました。

義父は、お勤めしていたころは、優秀なエンジニアでしたから給料も多く、贅沢のできる状況だったのでしたが、会社を興して自営をするようになってからは、経営者としての力量は乏しかったとみえて、経済的に逼迫するようになりました。

その苦境を救ってくれていたのが、その伯母さんでした。

それなのに、義母が贅沢を止めないから、怒った伯母さんは大阪市内からタクシーを飛ばして川西まで来て説教したこともあったらしいです。

義母は、人目を引く八頭身美人でしたから、贅沢をして当然というところがありました。

友達も有閑マダムが多かったから、誘い誘われで、毎日のようにあちらこちら出かけて遊んでいました。

だいたい一生それを通しました。認知症になるまでは。

子供達が成人してからは、末っ子である義弟以外には、お小遣いを要求してきました。私達が子供の教育費その他で四苦八苦しているときもお構いなしでした。

義母が元気だったころは、夫、義妹、私で、義母に対して共同戦線を張っていました(笑)。

が、義母が亡くなってからは、不思議不思議、義妹は、義母のことを「美人で自慢の母だった」と美化し始めたのです。

夫も、義母が亡くなってからは義母の悪口を許しません。

むしろ、矛先が私に向かってきたような・・・。(苦笑)

ええ、私も、無駄遣いこそしませんが、経済的には夫に依存していますし、今もこんなふうにパソコンで遊んでいるわけです。

結局は義母と同じかもしれません。いや浪費家ではあったけれども、女性としては、義母のほうが上だったかも。

義母は、おしゃれだっただけあって、家の中もセンスよく整えていました。

が、私は、おしゃれもしない代わりに、家の中をきちっとできないのです。

義母はどんどん新しいものを買い、古くなったものはどんどん捨てていました。

私は、新しいものを買わないけれども、捨てることもできません。

だから、洋服も何年も同じものを着ています。子供達に、「もうその服は見飽きたから、新しいのを買ったら」と言われるくらい(笑)。

これは、私が貧乏性ということなんでしょうね。

亡父に浪費癖があって、母が苦労していたのを目の当たりにしていたから、そのせいかと。

亡兄が死ぬまで贅沢をしていたのとは対照的に・・・。

収入の多寡とは関係なく、貧乏性の私は貧乏臭い暮らししかできません。

そういうわけで、生きていた頃は皆に批判されていた義母が、今は輝いて見えることもあるのです。

  ハンドバッグひとつ買ふにもデパートのはしごせしとふ義母(はは)の華やぎ  biko

家にいるのが好きなのです

2015年10月28日 23時29分33秒 | 私の意見
さきほど、きみちゃんさんという方からコメントをいただきました。

そのコメントには、私を心配してくださってだと思いますが、図書館とか美術館は近くにありませんか?とか泊りがけで行く友達はいませんか?とか書いてくださってありました。また散歩もいいですよ、とも。

家にいるのが好きな私も、本を読むのは好きなので図書館には行きます。美術館は、大阪にいたころはよく行きましたが、川西に来てからは、大阪の美術館が遠くなっただけでなく、神戸の美術館も遠いから、ほとんど行きません。ただ、近くに画廊がありますから、買い物の行き帰りのときに見せていただくことはあります。

大きな美術館は、たとえば先週はツアーで、島根県にある足立美術館に参りましたが、あれほど大きくなると、疲れて全部を丁寧に観て回ることは不可能です。体の丈夫な人から見ると不甲斐なく思われるかもしれませんが、それは仕方ないことなのです。

友達の家に泊りがけで行くことは、私の友人達は、大体みな旦那さんがいますので、泊まりにいくことは愚か、定年退職後、家におられる場合は、お家に訪問することも遠慮することが多いです。我が家は夫の理解がありますから、我が家に来ていただくことはありますけれども・・・。


すみません。日帰りで行く友達の家はありませんか?と書かれていましたね。

日帰り行く友達の家はありますが、上に書いたように、ご主人がいることが多いから、あまり行かないですね。我が家に来て貰うほうが多いです。

言われてみれば、最近は友達を招待していないです。「秋になったらきてください」と言ったままになっている友人もいます。

そう、現在、ブログに夢中になっているから、それも忘れていました(笑)

ブログが楽しくてたまらないのです。だって、耳の聞こえの悪さを引け目に思ったりしなくていいから。


でも、私は、基本的に、そんなに友達と行き来したいとは思いません。

一人でいるのが好きなのです。

一人で家にいるのが一番居心地がいいのです。

人は、それぞれだと思います。

親子でも、私の母は外に出て人に会うのが好きなので、90歳になった現在も、時間が許せば人と会おうとします。

義母も、お出かけ好きの人でしたから、元気なころは、毎日のように、おしゃれしてお出かけしていました。

が、同じ親子でも、義妹はお出かけが好きではありません。義妹は、私のように聴覚に障害があるわけでもないのですが、友達とあちこち出かけたりするのは好きでない様子です。

私は思います。

お出かけが楽しい人は、そうすればいいし、家にいるのが好きな人はそうすればいいと。

私は、どちらも一長一短だと思います。

義母は、お出かけが好きなのはいいのですが、お出かけのときの服装にも凝りましたから、周りの人間(=家族)に経済的負担がかかりました。

でも、自分が好きなことを好きなようにするから、いつも朗らかでした。が、好きなようにさせてもらえないときは、そのとばっちりが家族(嫁いびりとか(笑)にきましたが・・・。

私は、おしゃれでないし、おいしいものは食べたいけれども、基本的に外食はしませんから、家族に経済的負担を強いることはないと思っています。

が、別にそれが正しいとも思っていません。おしゃれな義母には、私にはない華やぎがありましたから、それはそれで女性として美点であったと思います。

私は家にいさせてもらって、ご飯作り以外の時間を自由にさせてもらえたら、それだけで大満足です。

散歩も、気が向いたらしますが、しなければいけないと思ってすることは余りないです。

こんな生活は不健康と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、でも、誰でもしたいようにさせてもらえないとストレスが溜まると思います。

私の場合は散歩を強いられたり外出を強いられたりしたらストレスが溜まると思います。

外出を奨めてくださるような方は、たぶん外出の好きな方だと思うから、家にいることを強いられたらストレスが溜まると思います。

そういうことをいろいろ考えたとき、私は、基本的に、みな好きなようにしていればいいのでは、と思うのです。

きみちゃんさんが、私の昨日のブログ記事を読んで、親切でアドバイスくださったことはありがたく思いながら、私の考えを述べさせていただきました。

きみちゃんさん、ありがとうございました。

松江で買ったお菓子

2015年10月28日 17時51分10秒 | 旅行
先週のツアーのバスの中で注文して買った松江の風流堂製のお菓子をアップします。

↓「若草」と命名されたお菓子。見た目が綺麗で、柔らかい羊羹ふうの口当たりでした。


このお菓子以外にも、「山川」という小ぶりのお饅頭も買いましたが、買ってきた翌日に食べてしまったので、現物はありませんが、こちらも垢抜けた上品なお菓子でした。

金沢などを筆頭に、日本海に面した地域のお菓子のほうが、私どもの故郷、高知県のお菓子より上品な気がします。

雪に閉ざされる地域の人たちのほうが、することが丁寧というか、きめ細かさがあるのかもしれません。

  山川と名づけられたる饅頭を松江の町で受け取りにけり  biko

  若草といふ春の菓子あがなひし松江の町の秋の真昼間  biko

松江の町に、また行きたいなぁ。今度は松江城に上がってみたいです。

今回のツアーでは、出雲市で急須も買ったのでしたが、また今度アップします。

雨後の朝焼けの美しさ&コスモスの花

2015年10月28日 06時50分50秒 | 短歌
朝ゴミを出そうと外に出てみると雨後の朝焼けがきれいだったので、そのまま猪名川の河川敷まで歩いて北東の空を撮影した。

  朝ぼらけ雨後の朝焼け美しくひむがしの空に雲を浮かばす  biko

↓南東に目を転じると、雨雲だろう、まるで山が横たわっているかのように地上近くに横たわっている。

 
  地に近く横たふ雲のくろぐろとあれば山かと見まがふ未明  biko

早朝の静けさに包まれた川を静かに川水は流れている。

  音もなく水は流れて猪名川の水は繋がる大海原(おおうなばら)に  biko

↓目を足元に転じるとコスモスの花が。


  コスモスは秋の桜と書きまして桜のやうな花を咲かせる  biko

↓河川敷沿いの道をずっとコスモスの花が彩っている。

↑右側の壁は阪神高速小花インター。

  コスモスを咲かせて土手の散歩みち秋の服着た人ら行きかふ  biko

↓朝日が昇ってきた。


  約束のやうに朝日は昇りそめ地上の嘘が暴かれてゆく  biko

↓朝日が川水に映っている。


  川水が鏡になりて映りゐる朝日かがやく川のおもてに  biko

↓遠くに出かけなくても、近くに川が流れていて、自然に触れ合える幸せを思う。


  ゆつくりと海に流れてゆく水は動かぬわれの前を流れて  biko

↓日の出とともに池田の五月山もくっきりとその山容をあらわした。


  朝の陽に山の姿をあらはした池田の五月山の緑よ  biko

今日の午後は通院日だった&病院で着ている服を褒められた

2015年10月27日 17時41分50秒 | 日記
今日は一ヵ月半に一回の心臓検診日だった。

最近、ブログに写真を入れていないから、道中のお花を写した。ほとんどが夏の名残の花だ。

↓何度か写したが、川西市の市役所。


家を出て徒歩15分ほどで病院に到着。


待合室でテレビを見ていると、知らないおばあさんが話しかけてくる。

私の着ているブラウスが素敵だと褒めてくれる。

着ていたブラウスは20年以上昔に買ったもので、次男が小学生だったころ、スイミングスクールに行く道中に見つけて買ったものだ。我ながら物持ちがいいと思う。(笑)

当然お世辞だと思うが、服を褒めてくれたあとで私の顔が可愛いといってくれた。

えっ、四捨五入すれば70歳になんなんとするおばあさんの私の顔が可愛い?しかも、化粧もしてない素顔の顔が?

そのおばあさんに年齢を聞くと昭和2年生まれの88歳といわれる。

亡くなった叔母と同い年だ。叔母は、平成元年に62歳で亡くなった。

でも、その年齢の人から見れば、当たり前のことだが、私もまだ若く見えるのだ。

そんな他愛ないことで、昨日からの落ち込みから救われた(笑)。

おばあさん、どうもありがとう。(最敬礼)

  花柄の服を褒められほんのりとした気分にて帰宅せしわれ  biko

きのうはブログが書けなかった

2015年10月27日 05時28分19秒 | 日記
旅行に出たときなど以外は毎日書いているブログだが、きのうは書けなかった。

夫が「たまには実家に帰ったら」というので、「?」と思ってその理由を聞くと、「たまには一人になりたい」のだそう。

夫が定年退職して家で仕事するようになってからは四六時中一緒にいるようになった。

私には、夫が通勤していたころと比べると、昼食の支度もしないといけなくなって負担が増えた。

が、現在は夫が自宅で仕事を頑張ってくれているから、それくらいと私なりに頑張ってやっているつもりだった。

それなのに「一人になりたいから実家に帰れ」とは酷いではないかと思ったが、夫は「もっと自由に友達に会ったりしたいが、bikoが家にいると思うと気になってできない」というではないか。

私は夫を束縛しているつもりはなかったが、私自身は家にいるのが好きな人間なので、あまり出かけない。姑が外出好きで浪費家だったこともあって、それを反面教師にしているつもりもあった。

が、夫には、それが圧迫になっていたのだろうか。

「でも、ご飯はどうするの?」と聞くと、「ご飯くらいどうにでもなる」と、のたまう。

そこまで言われたら帰省しないといけないが、そうはいっても実家の老母は既に世話をしないといけない段階で、私の居場所はない。いや世話をしにいかなければならないのだが、実家は既に兄嫁が取り仕切っているから行くと迷惑がられるところもあるのだ。

曲がりなりにも、私は兄嫁から見ると小姑なので、私が滞在すると兄嫁はうっとうしいと思う。

昔は帰りたくてたまらなかった実家だが、「世は人に連れ」で、すでに兄嫁や甥の代にもなっている実家に私の居場所はないのだ。

兄が生きていれば、まだしも・・・。

夫はこうも言った。

「bikoは子供達の家に行ったときに手伝ってやろうとするが、あれは反って迷惑になっている」と。

え、私は迷惑をかけるだけに行くのは気が咎めるから、行けば、ご飯のひとつも作ってやろうと思ってするのだが、それが迷惑とは。

もっと年取って何も出来なくなるまでは手伝ってやるのが親の道と思ってそうしていたのだが、夫に言わせれば、「子供の家には子供の家のやり方があるから手を出さないほうがベターだ」と。

それと、私が疲れやすいのも子供達の負担になると夫はいう。確かに心臓の悪い私は疲れやすい。

が、そんなことを言われるとますます子供の家にも行きにくくなる。

私は、いったいどうしたらいいのだろう?

難聴という障害をもつ私は、相手がわが子であれ誰であれ、負担をかけてしまうことは自覚している。

大きな声で話してもらわないといけないし、聞き間違いはするしで・・・。

夫自身にも、難聴の進んだ最近の私は負担になっているのだろう。

・・・と、昨日はいろいろ考えていると、とてもブログを書くような気持ちになれなかった。

私は、もうこの世に不要な人間になってしまったということだろうか?

私は子供の頃から何度も大病をして死に掛けて、何度も神様に命を救ってもらった。

その命を自ら絶ってしまったら神様に申し訳ないと思うのだが、そうしないといけないのだろうか。

夫の子供(私の子供でもあるが)を生み育てて、夫の親の世話もしてきたと自負してきたが、それが終われば、夫には私が不要なのか。

  三界に家なきことは現代(いま)もなほありありとあり女に生(あ)れて  biko

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夫は昨日、高校時代の友人(女)のシャンソンを聴きにいった。

年に一度開催されるその発表会には、毎年同窓生が大勢来る。

むかし大手テレビ局のクイズ番組の司会をしていた美人の同窓生もくる。

私は夫が楽しんでくればいいと思って送り出すのだが、夫は、そんなときにも私が家で留守番をしていることが気になるのだろうか?

それは、夫の良心が咎めるからだろうか?

私は、ふだん仕事ばかりしている夫が楽しんでくればいいと思っているのだけれども。

昨日は昼食も晩ご飯もいらないと行って出かけたのだったが、どういうわけか6時過ぎには帰宅して「ご飯」という。

聞けば、コンサートが跳ねてからは、お茶をしただけで友人達と別れたと。

大急ぎで夕食の支度をさせてもらったが、それでも私は不要だと夫は言いたいのだろうか?

若い頃から何度も離婚を考えた。が、その都度子供達のことを考えて踏みとどまった。

私自身に甲斐性がないということも理由にあった。難聴であるだけでなく、体も弱い。

しかし、懸命に尽くしてきたつもりだった。

今だからいうが、こんな私でも、ほかに何人もから求婚もされた。

夫も何人もお見合いして、その中から私を選んでくれたはずだった。

  甲斐性のなければ既に生きる甲斐なき存在か六十路(むそじ)半ばに  biko

昨日は一日、ショックで何も手につかなかった。

嫁と姑の関係も変わった

2015年10月25日 15時41分25秒 | 思い出
さる方が、お嫁さんに「私はお嫁さんではありません。○○さんのパートナーです」と言われ、そのお嫁さんにその名前で呼ばれるとお聞きして、「へ~、現代は、そういうお嫁さんもおられるのだ」と、ちょっと驚いた。

私たちのころは、そんなことを姑に言うことなど考えられなかった。特に私は。

難聴で、さしたる学歴も職歴もない私など、到底そんなことは言える立場ではなかった。

そうでなくても団塊の世代の私たちの適齢期は、「男一人に女トラックいっぱい」と言われるくらい圧倒的に女性の数が多くて女性の立場が弱かった。年上の丁度の年恰好の男性が半分くらいしかいなかったから、そういう関係に甘んじなければならない面があった。

だからというわけでもなかったかもしれないが、私など、姑には、ずいぶん勝手なことを言われてきた。

子供が生れたときも「絶対パパ、ママと言わせてはいけません」と厳命されたのに、姑は自分のことは「私はまだおばあちゃんなどと呼ばれたくないから、大ママちゃんと呼ばせてちょうだい」とか、私が嫁であるという理由だけで、実家に年に一度か二度しか帰ることを許さなかった。同様に、嫁さんだから基本的に盆正月の帰省はダメだった。

それだけでなく、帰省する時は、当時は神戸に住んでいたが、わざわざ川西まで年子のふたり子の、一人は背中におんぶして、一人は抱っこして来て、「今から帰らせていただきます」と畳に両手をついて挨拶しなければならなかった。

別に旅費とか出してくれるわけでもなく、お土産を持たせてくれるわけでもなかったのに、なぜあれほども干渉されなければならなかったのだろう。

帰省して戻ってきたときも、わざわざ大回りをして川西まで来て、同様の挨拶をしてから神戸の自宅に帰らないといけなかった。

もうその挨拶をするだけで、帰省前からへとへとになったし、戻ってきても、帰宅直後は疲れ果てていた。

今考えても酷いと思うが、当時は夫も親のいうことは絶対と思っていたから、庇うとかはしてくれなかった。

離婚したいとも思ったが、子供をおいて離婚することは考えられず我慢した。

話が逸れてしまったが、呼び名は否応なしにその関係を決定付けるところがあるから、そのお嫁さんの言い分は、たぶん正論だろう。

  嫁さんと呼ばれて弱き嫁なりしころもありにき義母ありしころ  biko

そのお嫁さんの言われる通り、「嫁さん」「姑」などと固定せず、お互い対等な人間関係でありたいと思う。

この世は在りながら天国であり、かつ死は恐れるにあたわず

2015年10月24日 17時19分21秒 | 気づき
今更かもしれないがいが、今日は、この世が天国だと気づいた。

今の季がさわやかで、木々は紅葉、黄葉して目を楽しませてくれて、食べ物がおいしいことで、天国のようだと言っても異論は出ないと想う。

じゃ、なぜ酷暑の夏があったのかと言われる人もいると想う。あの酷暑があったから、今の季節の気持ちよさに気づくのだ。

空気が澄んでいるから食べ物がおいしい。食べ物の恵みに気づけるのも、夏の暑さがあったからなのだ。

神社を訪れて、その空気の清浄を感じる人は多いと思う。

高い山に登って、その空気の冷涼を感じる人は多いと思う。

今の季節は、その高い山に登ったような気分を地上にいながら味わえる季節といえるだろう。

家にいながら神社にいるような空気の清浄を味わえる季節といえるかもしれない。

どれもこれも、夏という酷暑の季節があったからこそ味わえる至福である。

  高山にあるかのごとき秋は来ぬ酷暑を経たるこの身体に  biko

  神様のいます社(やしろ)の庭にゐるやうな清さを感じる秋は  biko

長い人生の途上で、苦労があり、病気があるのも、何もないときの、ただこの世に在るだけで幸せを感じられる多幸感を味わわせていただくためなのかもしれない。

これからだんだん秋が深まり、厳しい寒さがやってくるが、冬という季節は、ますますわれわれの魂を研ぎ澄まさせる。

厳しい冬があるからこそ、春は浮き立つような喜びが湧いてくるのだ。

春は、私達が生れたときに味わった喜びを毎年味わわせてくれる。

私たち団塊の世代の人間は、もうすぐ冬に突入する。

寒くて辛い冬の向こうには、死が、死を越えると、春のような彼の世が待っている。

死は、老い、病、愛する人との離別に苦しんだあとの春なのである。

よって、死は恐れるにあたわず。

  老い病ひ離別ののちの死は春の訪れに似てあたたかきかも  biko

そんなことを今日は想った。

玉造温泉で10歳若返って、帰途の夕食は岡山の祭りずしでした

2015年10月23日 16時51分27秒 | 旅行
一昨夜と昨朝は玉造温泉に浸かったが、こんなに若返る温泉は初めてと思った。

昨日は朝から顔も手もつやつやと10歳以上若返ったようだった。

私は普段からお化粧をしないが、昨日は特に何もつけなくても肌(ただし肌だけ(笑)が綺麗だったと自分で思った。写真に撮ってアップしたいほどであった(笑)。

松江市内を散策するとき、上着も着ずに七部袖のTシャツ姿だったが、温泉の温もりが体に残っていて寒くなかった。

今回ほど温泉パワーを感じたことはない。玉造温泉は凄い温泉だと思った。こんな温泉に毎日入っていたら、いやでも美人になってしまうだろう。(笑)

と冗談はさておき、昨日は松江をあとにして、一路大阪に向かったが、途中渋滞もありで、大阪梅田に到着したのは午後8時前だった。

お腹は空いてなかったが、前日添乗員さんに昨日の夕食も頼んであったから、行きのお弁当と同じ店の、今度は「岡山祭りずし」が配られた。

一昨日と同様に、とてもおいしいお弁当だった。入っていた魚類が新鮮だったからだろう。



今回は安来市の足立美術館の庭もよかったし、出雲大社もよかった。が、しかし、やはり楽しみのメーンは旅の道中の食べ物である。

私は着道楽でも化粧道楽でもないが、おいしいものは食べたい。特別高価なものでなくてもいいから、新鮮な食材で作られたおいしいものを食べたい。

あと何回、何十回、何百回、何千回ご飯が食べられるか分からないが、一回一回おいしいものを食べたいと思う。

旅に出る楽しみは食に尽きるかもしれない、と今更ながら思った。

松江堀川地ビール館&お堀端散策

2015年10月22日 13時26分56秒 | 旅行
午前中に出雲大社を参拝ののち、松江城下に向かった。

今日の昼食は昨日添乗員さんに頼んだお弁当であったが、その昼食の場所は、松江堀川地ビール館という建物の2階であった。↑

建物に入ろうとすると、大きな鯉がたくさん泳いでいたからパチリ↓

  色恋の絶えぬこの世で色鯉は地ビール館の池に犇(ひしめ)く  biko



↓建物の2階に上がると昼食は準備されていた。

朝たくさん食べ過ぎたから、お腹は全然すいていなかった。おかずだけ食べて、ご飯は残した。

昼食後、松江城下で2時間の自由行動ということになっていた。添乗員さんが松江城周辺の地図をコピーしたものを配ってくれたけれど、真っ黒けで判読不可能だった。夫はすぐに自転車を借りて出発した。私は、お堀周辺を散策することにした。

  自転車で松江城下を巡るとふ夫と別れしわれのつま先  biko

↓まず小泉ハーンの旧居。


むかし建物の中に入って観覧させてもらったことがあったので割愛。が、昔というのは結婚前のことだから、45年も前のことになる。ああ!

  以前来(き)し以前は四十五年前まだ二十二歳のわれでありにき  biko

↓こちらは出口


↓ハーンの業績の書かれた看板があったのでパチリ。


↓ハーン旧居の並びは全て武家屋敷のようだったが、隣りの建物は田部美術館という美術館になっている。


↓この家は「武家屋敷」と看板が出て、武家屋敷として公開されている模様。

↑この武家屋敷の前の横断歩道を渡ってお堀に添った側の道を歩くことに。

  武家屋敷まへを横断するときに兆す霧雨木々を湿らす  biko

↓遊覧船がお堀をゆっくり進んでいた。


  霧雨のなかをゆつくりゆれながら遊覧船の水脈(みを)曳くが見ゆ  biko

↓この武家屋敷はお蕎麦屋さんになっていた。


  武家屋敷「武家屋敷」のまま見せたるも蕎麦屋となりて見せたるもあり  biko

まだ自由時間は30分以上あったが、判読できない地図では迷子になったとき、他の参加者に迷惑になるので、集合場所の地ビール館に戻った。

手持ち無沙汰なので外のテーブルでソフトクリームを食べていると、夫も早めに戻ってきた。

少し霧雨が降ったりもしたが、暑くも寒くもない理想的な気候だったから紅葉しはじめた木々を見ながら外にいるのは気持ちがよかった。

  紅葉をしそめし木々を眺めつつ舐める抹茶ソフトクリーム  biko

一年中こんな気候だといいのに、またすぐ寒くなってくる。

  ゆく秋を惜しみて後にする松江また来ることははたしてありや  biko

出雲大社参拝の記

2015年10月22日 11時10分07秒 | 旅行
期待の出雲大社なので、稿を改めようと新たにタイトルをつけて最初に撮影したのが、この上の写真だ。が、撮影したあとで、案内役の方に、「この建物は神楽殿で、本物の大社ではありません」と言われて、がっくり(笑)。

この日は朝霧雨が降っていたから立てられていなかったが、晴れの日は国旗が立てられていて、その高さは47メートル(これは古代の本殿の高さが48メートルだったので、それより低くしているとか)国旗の広さは75畳もあるそう。

↓本物の大社に行く途中に皇后陛下の御歌の石碑があった。


  国譲り 祀られましし 大神の 奇しき御業を 偲びて止まず  皇后陛下

「くにゆづりまつられまししおおかみのくしきみわざをしのびてやまず」と「ま」の韻律の美しい御歌である。

歌意は「天照大神の子、天忍穂耳命にこの地上の国を譲り自らは祀られることになった大国主命の素晴らしい御業績を感謝し、偲んで止みません」であろうか。

ここからは、私が聞いたことを書かせていただくが、なにしろ私は両耳に補聴器をしている聴覚障害者であるから、正確には聞き取れていないと思う。間違っているところがあれば、ご指摘いただけると有難い。

本殿に参拝に伺う前に瀬織津姫など四名の祓社を参拝してから、こちらの拝殿を参拝するのが順番らしい。↓


二拝四拍手一拝で参拝させていただいたのち、八足門から入って楼門から、また二拝四拍手一拝でご本殿を拝ませていただく。↓

ふつう神様の参拝は二拍手だが、この出雲の社で四拍手を打つのは、祓社の神様が四名であられるかららしい。拍手は右手を少し下にずらして打つ。

↓本殿を横から撮影すると、こういう風になっている。本殿の高さに28メートルとかで国内で一番高いとか。

古代は、上に書いたとおり、本殿の高さは48メートルだったとか。

↓建物配置図

↑今回のツアーの人たちとの集合写真。私も写っている(笑)

玉造温泉の朝のバイキング~出雲大社へ

2015年10月22日 09時38分30秒 | 旅行
玉造温泉で一泊して、今朝の朝食はバイキング。

欲張ったわけではないが、一通り入れていくとこんなにたくさんに(汗)。↑↓

入れた以上なんとか食べ上げねばと一生懸命食べた甲斐があって何とか完食できたが苦しかった(笑)。

朝食後、玉造温泉街を撮影しようと思っていたが、時間切れになり、車窓から撮影。↓

街の中央を川が流れているところは城崎温泉と似ていると思った。

玉造温泉街から1時間ほどで、憧れの出雲大社へ。

↓出雲大社の駐車場には「平成の平成の大遷宮」の大看板が。


↓出雲大社の案内図も。


↓「君が代」に出てくる「さざれ石」の説明を書いた石碑も。