神鳴り(アメジストネックレス)

難聴ゆえに家居の好きな主婦です。過去、心臓弁膜症、大腸がんの手術を受けました。趣味は短歌です

今日は川西「耳の会」と要約筆記ボランティアグループ・サマリーの合同例会でした

2017年12月17日 16時07分43秒 | 聴覚障害
(上の列に「川西サマリ様」と書かれてある)

今日は川西市聴覚障碍者の会=耳の会と要約筆記ボランティアグループ=サマリーとの合同例会であった。

私は、最近は、ほとんど欠席しているが、今日の例会は、わが家の近くの「すし半」が会場だったので、申し込んでおいた。

ひさしぶりの参加だったから、耳の会の人たちにも、サマリーの人たちにも大歓迎された。

参加者数は、耳の会が11名、サマリーが12名であった。

難聴者より、要約筆記ボランティアをしてくれる人のほうが多いので、私達聴覚障碍者には天国だ。

一応、例会とはなっているが、時期的にも忘年会のような集まりだった。

が、アルコールを注文する人はいなかった。

料理が運ばれてきた。

私は一番安いのを申し込んであったが、ほかの人たちもそうであった。

聞こえないわれわれのため、食事の開始もホワイトボードで示される。

「皆さん、はじめましょう!」

ふだんは、聞こえないわれわれは周囲の様子を見ながら食べ始めるが、

ちょっとしたことだが、こういうふうに提示してもらえると安心して食べ始めることができる。

食べ始めたが、ごはんは最初から出ていたから、この料理をおかずにして食べなければと半分くらい食べたところで天ぷらが出てきた。

あら、ごはんはもうほとんど食べてしまったのにと思っていると、


そのあと、味噌汁も出てきた。


最初に何が出てくるか教えておいてくれないと、ご飯とおかずの配分に困ると思いながら食べていると、ボランティアの方が申し訳なさそうに、「私達もわかりませんでした」とおっしゃる。

別に責めたわけではなかったのでしたが、ボランティアをしてくれようとする人たちは優しい人たちばかりだから、こうして謝ってくださるのだ。

こういう場には、世の中の善意の人たちが集まっていると感じる。

ボランティアの人たちは勿論だが、私達聴覚障碍者も、自分たちが毎日辛い思いで暮らしているから、皆お互いに思いやりがある。

参加させていただくと、こういう善意に触れ合えるから「参加してよかった」と思える。

食事の後は、デザートを注文した。

私はアイスクリーム。


食事の後の注文だからだろうが、このアイスクリームと飲み物を追加注文して、たった216円。

私は、飲み物はミルクティにした。

ふだんは大概ホットコーヒーにするが、今日は家を出る前にコーヒーを飲んできたから。

食事もデザートも終わったところで、例会。

最近新しく入会された方が、毎月こういう会合に出席したいと希望を述べられた。
発言された方は私と同年配くらいの方だったが、

「耳が悪いと家に閉じこもり勝ちになるから、毎月皆さんと顔を合わせたい」と。

私も、その気持ちはわかるけれど、しかし、わが家のように、夫が家で仕事をしていると、出にくいという事情もある。

毎月実家に帰省していることもあり、毎月というのは、今の私には負担だ。

母が亡くなったり、夫が仕事をやめたりすれば、また事情は変わってくるかもしれないが・・・。

・ひさしぶり参加をすれば喜んでくださる人の多くてうれし

・太つた?ひさしぶりゆゑ変化せしことは露わであるらし そう?

・ベレー帽にあつてますね あ、これはね白髪隠しにかぶつてゐるの

*

明日は日帰りバスツアーで、早朝に川西能勢口駅前バスターミナル集合です。

鳥取ハワイ温泉でカニを食べてきます。

ケイタイから投稿できたらしますが、たぶん帰宅後の投稿になると思います。


難聴になると認知症になる?

2017年12月10日 12時45分09秒 | 聴覚障害
高知に滞在しているときに歌友からメールが入って、

NHKの「ためしてガッテン」で「認知症を防ぐカギ!あなたの「聴力」総チェック!」をやっていると教えてくれた。

が、母と私はホテルで食事中だったので、「いま見ることができないから、よく見て後で内容を教えて」と頼んだ。

その後、おおよその内容は教えてもらったが、私には切実な問題なので再放送を見ようと思っていた。

が、帰宅直後は雑用が多くて、今日やっと再放送がいつあるかを調べることができた。

再放送は9日(土)(8日深夜)だったのですね。

仕方ないので、ネットで調べて確認しました。

上の番組名のところに、そのサイトを貼りましたから、それで確認していただくといいのですが、

それも面倒な人のために、転記張り付けしておきます。

01


難聴が認知症の原因に!? .



難聴と認知症。一見何の関係も無さそうな両者ですが、近年、それらに関する報告が複数発表され世界中で注目を集めています。難聴を放置すると認知症を発症する確率が上がってしまうというのです。理由はまだはっきりと解明されていませんが、会話が億劫になり人とのコミュニケーションを避けるようになることや、耳から入る音の情報が少なくなることなどから、脳が萎縮しやすくなると指摘されています。難聴は、自分では意外なほど気づきづらい上に、「多少聞こえづらくても聞き返せばいいから大丈夫」などと軽く捉えられがちですが、放置することのリスクが明らかになってきたのです。

.
02


自分の聞こえは大丈夫なのか?早期発見チェック .



聴力は、多少落ちても自分ではなかなか気づけない場合が多いものです。普段の会話などでは、例え聞き逃していても、脳が文脈から推測して内容を補足してくれるからです。そこで番組では、耳の聞こえが悪くなっていないかを確かめる、早期発見のためのチェックポイントを紹介しました。
1.ふいに声をかけられると聞き取りづらい
ふいに声をかけられた時は、相手の口の動きや表情などを見ていないため、脳の補足機能が働きづらくなります。このような時に聞き取りづらいと感じる場合は、聴力が落ちている可能性があります。
2.名前(加藤と佐藤など)をよく聞き間違える
「か」や「さ」などの子音は母音と比較して音が高い傾向にあります。聴力は高い音から聞きづらくなることが多いので、このような聞き間違いが多く発生します。
3.車の音がしてもどこから来るかわからない
耳は単純に音を聞くだけでなく、音の方向も感知しています。音が聞こえているのに方向がわからない場合も聴力が落ちている可能性があります。
4.小声は聞き取りづらいが大声は異常に響く
耳は音量の調節もしています。耳の機能が落ちてくると音量調節がうまくできず、大きな音がより大きく響いてしまうことがあります。

これらのポイントはあくまで目安です。しかし、これらが頻繁に起こって生活に不便を感じるようなら、一度耳鼻科を受診することをおすすめします。

.
03


聴力と脳を守るために! .



耳の中で音を感じる「毛」の大敵は、血流不足です。「有酸素運動」などで普段から血行をよくすることは、動脈硬化を予防し、耳を健康に保つために重要と考えられています。

また「補聴器」も有効です。実は補聴器は、ただ音量を上げる装置ではなく、「高い音が聞こえにくい人の場合は高い音だけ、低い音が聞こえない人の場合は低い音だけを補助する」装置です。従って補聴器を購入後は、その人の症状にあわせて調整を繰り返すことが欠かせません。調整が正しくできていないと「うるさくて使えない」などと逆効果になってしまうこともあります。購入を検討する場合は、まず耳鼻科に相談することが大切です。



ということらしいです。

私も思い当たるところがいっぱいあります。

が、一応、補聴器はつけているので、多少はましかな。

皆様もお気を付けくださいませ。

*


・ただ単に聞こえにくいで済まぬらし聞こえにくくば認知症にも

・孫の声おおきくあらばウルサイと怒鳴りしもあり難聴なれば

・聞こえないくせに大声うるさくて怒る人なり難聴のわれ

・つくづくと因果なつんぼと思ふかなつんぼよりまし目蔵のほうが

・目蔵とは目に宝物見ゆる目であるかもしれず友よ嘆くな

・つんぼには耳に雑音つねにあり静かな場所でより強まれる

・人の声きこえぬ人は認知症なりやすきとぞためしてガッテン

・これからの余生は認知症になりゆくを試して合点しゆく


難聴の私のキラーストレス対策はブログ

2017年12月03日 11時00分03秒 | 聴覚障害
昨日書いた「体調がよくない」にいただいたコメントにキラーストレスという言葉があった。

重篤なストレスは人を殺してしまうこともあるほど怖いという意味らしい。

実際、私のこれまでの大病にはストレスが多分に絡んでいたと思う。

だから、このキラーストレスの怖さは理解できる。

大病をしてからは、なるべく心穏やかに過ごすことを心がけているが、しかし、最近のように、心乱してしまうこともある。

ところで、私のストレスを貯め込みやすい性質は、生まれつきもあるが、難聴という障害のせいもあると思っている。

人の話し声が聞き取れないという、直接的なストレス以上に問題になるのが、人と無駄話をしてストレス解消を図ることができないという間接的な問題が挙げられる。

正常な耳をもっている人たちは、無意識的にも、こういう無駄話でストレスを解消している面があると思う。

が、私達聴覚障碍者は、こういう雑談がしにくい。

肝要な話も聞き漏らすことがあるが、しかし、肝要な話はこちらも神経を尖らせてキャッチするよう努めるし、相手も、丁寧に伝えてくれるケースが多い。

が、雑談のような内容は、聞こえなかったらそれまでである。

こちらもそれ以上深追いしてまで聞かないし、話したほうも、聞き返すと、「あ、大した話じゃないから」ともう一度話してくれようとはしない。

が、その大した話じゃない話をこそ私達は聞きたいのだ。

そこに、人間関係をスムーズにする妙薬が混ざっていたりすることが多いから。

私達聴覚障碍者が必要以上に生真面目になるのは、こうした雑談が聞こえてこないせいもあると思っている。

その穴を埋めてくれるのが、こういうブログである。

書くことでもストレスが解消できるし、読ませてもらうことで、ストレス解消には必要不可欠な無駄話が聞かせていただけるのがブログという場なのだ。

夫は私がブログにハマりすぎていることに不満があるが、しかし、あちこち出歩いて家にいない奥さんよりは、パソコンに向かう時間が長すぎる傾向があっても、いつも家にいる奥さんのほうが好都合ではあるまいか。

私の母や姑は出歩くのが好きな人であった。

二人とも美人であったので、外でちやほやされたいというのがあったのだろう。

が、まだ母は仕事という大義名分があった。

姑のほうは、そういう目的はなしにお出かけが好きなので、お小遣いが足りなくなる。

それをわれわれの切り詰めた収入から出させようとしたから、私は我慢がならなかった。

が、そのころの姑の力は絶大だったので、文句は言えなかった。

お出かけ好きな奥さんは、お出かけすること自体にもお金がかかるが、お出かけのためにするおしゃれにお金がかかる。

服、化粧品代がかさむことも、その夫は覚悟しておかなければならない。

そういうことを鑑みて、

私のストレス解消をしてくれるパソコン君にあまり目くじらは立ててほしくないというのが私のお願いだ。

*


  パソコンでブログ綴るが一番の今の幸せわがパラダイス

  読みに来てくださる人も増えてきて冬も文書く右左の手

  生きてゐることを実感できるのはブログ書くとき 時を忘れる

階段にイルミネーションを・・・テレパシー

2017年11月28日 22時44分23秒 | 聴覚障害


さきほど読ませていただいたブログにテレパシーのことが書かれてあった。

テレパシーは日本語で言えば、以心伝心ということだろう。

昔から「目は口ほども物を言い」ということが言われているが、目は声を出さずに物を言う器官だ。

私達のように、耳で聞くことのできない人間は、人の顔を見て、なかんずく目を見て、その人の心を読み取る。

そうせざるを得ないのである。

が、そのことが、今度は、目で物を言うことにもつながるらしい。

だいぶん前に、「あなたは目で訴えかけてくる」と言われたことがある。

それはとりもなおさず、私がテレパシーを使っているということになるのだろう。

日常的に目が耳の代わりをする場面が多いが、目が口の代わりをしている場面もあるのだろう。

*

上の写真は、室内に飾っていたイルミネーションを階段に飾った。

こうすると、階段の電気を点けなくても、夜通し階段が明るい。

え、場末のバーみたいって?

そうかも!

じゃ、さしづめ、私は、「バー場末」のbikoママということになるのかな?

え、「バー婆さん」ですって?

下の写真は、前もアップしたけれど、今年買ったソーラーイルミネーション。

昼間の太陽光を貯めて夜イルミネーションの光を点してくれる。

電気代がいらないので助かる。



  電飾で飾り立てたる階段のあるbikoの家バーのごとしか

  酒飲まぬママは素面の婆さんでバー婆さんのママさんである

  常連は一人きりにて早々と店じまひをす常連は寝て

  常連は夫とも呼ばれ夕食の前にコップ一杯のみ飲む

  早起きの常連さんは早く寝る早く寝るから早起きである

また聴覚障碍者を困らせるマスクの季節がくる

2017年11月09日 18時47分26秒 | 聴覚障害
立冬を過ぎたら、急に冬めいてきた。

これから風邪ひきさんが増えると困るのが、マスクする人が多くなること。

聞こえの悪い私達難聴者は、ふだんでも全神経を使って聞く努力をしている。

会話のときの口の形を見ることも、その一つだ。

その上、冬になってマスクする人が多くなるとますます困るのが、この口の形を見ることができなくなること。

われわれにとっては、たかがマスク、されどマスクなのだ。

最近は、風邪をひいていなくても、化粧をしていないからという理由などでもマスクをする人がいる。

なぜ化粧をしていないくらいのことでマスクをしないといけないのだろう。

私など、普段はほとんど化粧しないから、外出もすっぴんのままだ。

別に恥ずかしく思ったりしたこともない。

だって、男性や子供は化粧などしないではないか。

なぜ大人の女性のみ化粧をしないといけないのか。

あ、話が逸れてしまった。

私が言いたいことは、なるべくマスクをしないでくださいと言うことだった。

インフルエンザなど、人に移る風邪をひいている場合は仕方ないが、なるべくマスクはしないでいただきたい。

*

 
  風邪ひきにあらぬにマスクする人よマスクされたら口が見えない

  化粧してないなど言ひてマスクする人よマスクをするが不細工

  ありのまま素顔を見せて歩きませうマスクしてると強盗みたい
 
  マスクより真顔を見せてまつすぐに歩けばある日見える耳たぶ

  耳たぶに補聴器つけて右ひだり見ながら歩く人がわたくし

  右ひだり見ながらしやべりゐる人を探す人らが聞こえぬ人ら

  聴く力弱きがゆゑに見ることに頼る聴覚障碍者われ

  マスクされ口の形が見えざれば聞こえぬ耳で聞くしかあらず

  難聴の不便知らねば健聴者口を隠せるマスクをすなり

  一族に一人(いちにん)づつは難聴者ゐれば何とかなるかもしれず

  目の見えぬ目しひの人の深刻と目に見えぬ耳しひの人の深刻

  見えざるは見ゆるが耳の聞こえぬは見えざりしかば人ら気づかず

  気づかれず聞こえぬままにマスクする人ら眺めて難聴われら

  真つ白なマスクにわれら隔てられ平和であるが喧嘩もできず

  マスクする口が見えねば喧嘩することも適はぬ難聴者たち

  マスクする人ふゆる冬われらにはコミュニケーション不全の冬に

  はやり風邪はやらぬ春に花粉症はやりてまたもマスクは増ゆる

  マスク減る夏と秋とが聞こえないわれらの季節くちもと見えて

  説明をしても説得むづかしきこの難聴のこの一生(ひとよ)生く

夫が、私は夫の言うことの三分の一くらいしかわかっていないと

2017年11月04日 20時13分13秒 | 聴覚障害
タイトルにしたように、夫は言う。

最近の私は、夫の言うことの三分の一くらいしかわかっていないと。

そうでしょう。

数年前の聴力検査で80デシベルという数値が出たのだから。

80デシベルというのは、80パーセントは聞こえていないという数値だ。

だから私は、補聴器をつけなかったら、三分の一どころか五分の一しか聞こえないのである。

夫に迷惑をかけているとは思っている。

しかし、夫は、難聴ということを承知で結婚してくれたのだし、難聴のために義母や義妹に虐められても私は耐えてきた、つもりだ。

もちろん結婚したころより、ずっと聴力は落ちている。

しかし、開き直って言わせてもらえれば、私のせいではない。

私は私なりに、聞こえない耳で一生懸命聞こうと努力している。

それでも聞こえないことは、私が不真面目なのではなく、不可抗力なのである。

割合最近まで、夫は、聞こえない私をフォローしてくれていた。

が、最近は、その努力をしてくれなくなった、ように感じる。

ということは、ほかに心を奪われる人ができたということだろう。

夫はそうじゃないというが、先月も揉めたシニアカレッジで知り合った女性のことが微妙に影響しているように感じる。

私は、こういう五感は発達しているほうだと思う。

「つんぼ」には神様が宿っていると言われることがある。

本当に神様が宿っているかどうかより、聞こえを補うために、日常的に感性を研ぎ澄ませているところはある。

言葉が聞こえないから、人の表情を探ることには長けてくる。

これは弱みから得た強みである。

人の、殊に男女の好き嫌いは、これは道徳ではないので、止めようがない。

私のような障碍者でなくても、健康な人達でも、これは避けることのできない摂理なのである。

夫は、今夜は、歌手をしている高校時代の友人の発表会を聴きに出かけた。

私にすれば、これもあまり愉快なことではない。

しかし、夫の何もかもを束縛するほど私もバカではない。

夫は、明日はシニアカレッジで知り合った件(くだん)の女性と奈良の山辺の道を歩いてくると言っている。

決して変な関係ではないというが、しかし、奥さんがいて、その奥さんもまた行きたいと言っている場所に別の女性と一緒に行くというのは、やはり少し変ではないか。

しかも、先月は、その女性と映画を見て、焼肉を食べてきたりしている。

明日も朝から一緒に出掛けて、お昼は無論、夜の食事もしてくると言う。

私も昨日は帰省から帰ったばかりだったので、聞き流していたが、しかし、よく考えると問題だ。

いな、問題にしないといけないと思った。

それで今日の午後、明日のデートは、お昼を一緒に食べるのはともかく、夜の食事を一緒にするのはやめていただけませんかと夫にメールした。

が、夫からの返信はない。

もう約束してしまっているから、やめられないのだろう。

しかし、その女性も、少し厚かましくはないか。

奥さんがいるのがわかっているのに、自分からデートのお誘いをして、ごはんまで食べてくるというのは。

そんなことをされたら、明日は、私は一人きりでお昼も夜も一人でご飯を食べなければならなくなる。

未亡人でもないのに?

未亡人のあなたは、たまには貸してくれてもいいではないかと思っておられるかもしれませんが、しかし、私としては心中穏やかではないということはお伝えしておきたいと思います。

あなたは、このブログを読まれているようですので、名指しで書かせていただきます。

*


  妻のゐる人を誘ひてデートすることはあなたの法律では可?

  難聴の進みて一人の外出の困難な妻ゐるをご存じ?

  帰省すもインターネットで繰り返し調べてのちに決断すなり

  聞こえない不自由知らず聞こえない人の夫を盗む泥棒

  七十を超ゆれば未亡人増えて人の夫を盗む人増ゆ

  あなたにも良心あるとわが思ふゆゑにあなたにお願ひをす

  なにもないなにもないとぞ言ひながらある日突然なにかが起こる

  燃え上がる前に火消しはするべきと世間知らずのわれにもわかる

  義母を看ていまわが母を心配すその心配のさなかに君ら

  子育ても義母のお世話も妻任せ妻に任せて自由な男

  小遣ひが自由なる君なにしても許されるとは思ひちがひぞ

むりをしないことが肝要と思います・・・自戒を込めて

2017年10月22日 04時28分40秒 | 聴覚障害
コメントのやりとりだけにしておくのは勿体ないと思うので、また記事にさせていただく。

まず、昨日の私のnanakagoさんへの下記のコメント返しに

nanakagoさんへ (biko)
2017-10-21 11:01:12
nanakagoさんのブログのコメント返しも読ませていただきました。

難聴であられるのにお仕事続けていらっしゃること尊敬します。

こういう障害はパートなどのほうがより厳しいと思います。

私は上の二人の子供が小学生のころ、障碍者枠で大きな会社に勤めました。

そういうところは最初から障害があることを条件に採用していますから配慮もありました。
 
が、第三子の次男出産のため退職し、その後、パートの仕事を探したのでしたが、難聴だというと、どこも雇ってくれませんでした。

そういう意味で、難聴者にはパートの仕事こそ大変ということを肝に銘じました。

お仕事のあることはお幸せなことと思いますが、でも、あまり無理なさらないでくださいね。

一番大事なことは自分を労わってあげることだと思います。自分を愛してあげることだと思います。

聞こえないと、自己評価を下げがちになりますが、だからこそ、自分を愛しんでやることが大事だと思うのです。
ーーーーーーーーーーーーーー

に対して、

mamakagoさんから再度コメントいただきました。

いただいたmamakagoさんの再コメント

今朝、出勤の電車の中でbikoさんのコメントを読んで泣きそうになりました。
自分を愛してあげること…
わたしは若い頃は不幸は不幸を呼ぶような人にしか起こらないと信じていたような人間でした。
苦労知らずな。しかも想像力の乏しい自分勝手な。
だから全然他人に優しくない人間でした。
そんなとき、次から次へといろいろ苦労が重なってきました。そして年と共に少しは人並みな優しさも身に付いて来たかと思っていたのに、この難聴になりました。
少しは人に優しくしていきたいと思っていたのに、それからはそんな余裕などなくなってしまいました。
そうです、普通の健聴者と同じようにしなければと無理をしていたんですね。
回りを気にすればするほど
その隙間がどんどん広がったのは、わたしの見栄と自分否定にありました。

だからbikoさんのコメントを読んで涙が出そうになったのだと思います。

もう無理をしないで自分を労ることにしよう!
そう肩を押されたような気がして今日は
出勤しました。お陰で
落ち着いて仕事に挑むことができ、多忙な一日でしたが、心の疲労感は無かったです。

同じように悩み苦しみ分かってくださる方がいると分かっただけでこんなに勇気が出るのですね!

同僚に同じ程度の難聴の人がいますが、お互い心を割って話せません。わたしは弱みを見せることが出来ません。
少し距離をおいて、ああ彼女も頑張っているのだなと見ています。
そんな関係です。
こんな風にここでお話しするように語れません。
不思議ですね、bikoさんとは、お会いしたこともないのに。
でも、とても伝わってきましたよ!

bikoさんはわたしの先を歩んでいらっしゃり、大変な思いをされて来られたのですね…

だからbikoさんは深く分かってくださるのだと。

台風が接近しての悪天候、耳が塞がったり耳鳴りが爆音で困ります。

でも今夜は心穏やかに眠れそうです。
ありがとございました。

どうかbikoさんも良い睡眠がとれますように…

おやすみなさい。

ーーーーーーーーーーーーーーー

に対して、

nanakagoさんへ

いいえ、私こそ見栄っ張りで、そのために今でも苦労しています。

ただ難聴だけは、もう隠しようがないほど進行してしまったから、開き直れたのだと思います。

そういう意味では、ドン底に落ちるのも、一つの救いになるのかもと思ったりします。

難聴の軽かった若い頃は、聴覚障碍者って恰好悪いと、自分が難聴であることを隠しまくっていました。

が、そうして隠そうとすることは自分を認めないということにもなるのですね。

大阪に住んでいたころ、同じ聴覚障碍者である短歌の友人に大阪難聴者の会を紹介されたのでしたが、プライドの高い私は、その会に参加する自分が認められなくて、結局脱退してしまいました。

皆さん、温かく迎えてくださっていたのに・・・。

今から考えると、本当に申し訳ないことをしたと思います。

しかし、そうやって聴覚障害であることを否定している間は、自分自身を否定していることになるのですね。

いま現在でも、そういう面がまったくないというと嘘になりますが、しかし、ここまで落ち切ってしまうと、もう隠しようもありませんから、認めざるを得ません。

nanakagoさんは、まだ私よりはだいぶん軽そうでいらっしゃるから、私よりずっと葛藤は強いだろうとお察しします。

でも、人生には落ち切った安らぎっていうものもあるんですね。

そのことにやっと最近気づきました。

また年齢も重ねたから、難聴であるから恥ずかしいとかいう気持ちも弱まったと思います。

これは長く生きてきた特典かとも思います。

私も来年は70歳になります。

長寿の方から見ると、まだまだ若手の部類かもしれませんが、しかし、この年齢になると、難聴にしろ何にしろ、障害のあることが恥ずかしいなんてことは決してないと悟れます。

余談ですが、私の長男の長女は脳性麻痺で生まれました。

最初は、長男夫婦のみならず、私どもも大変な衝撃でありましたが、しかし、育てているうちに、この孫の笑顔の可愛さに、最初の衝撃など、どこかに消えてしまいました。

あるがままの姿でいいのだと、この孫に教えてもらえたような気がしています。

まして聴覚障害などは、ひとつの個性くらいに考えてもいいかとまで思えるようになったのです。

難聴者をバカにする人は世間にごまんといるかもしれませんが、そんな人たちこそ、実は気の毒な人たちであるかもしれません。

私も、かつては、その気の毒な人であったかもしれませんが、現在では、この難聴を、私の個性と捉えています。

とは言っても、現実は、いまだにその不便をかこっていますが・・・。

とにかく大事なことは、そんな自分をも含めて自分を愛してやることだと思います。

自分を愛することのできない人間は人をも愛することができません。

まず自分をとことん愛してやりましょう。

以上、自戒を込めて。

               *

  難聴がなんだ誰でも歳取れば難聴になる足萎えになる

  聞こえない文化はありて手話をする人は両手で花を咲かせる

  人よりも聞こえないとふ個性もて生き続けなむ命の限り

  聞かなくてよいことかもと思ほへるわたしの耳に聞こえぬそれら

  聞こえない耳もて人に相対し目で見てその人確かめ愛す

  いつしらに人を見る目は常永久(とことは)に研ぎ澄まされてわれら神様

  苦労することで近づく神様の境地けふより明日へ明日より明後日

仲間のいる心強さ・・・難聴になって優しくなれたような気がする

2017年10月21日 04時23分28秒 | 聴覚障害
私ども聴覚障碍者は、日頃よほど辛い毎日を送っているようで、同じ聴覚障碍者の話を聞くと、思わず涙ぐんでしまう。

その辛さがわかりすぎるほどわかるからだ。

昨日の記事ご紹介させていただいたnanakagooのブログ記事も思わずもらい泣きしてしまった。

そのnanakagoさんが、昨日の記事にコメントくださって、私が過去、彼女のブログにつけさせていただいたコメントを思い出させてくださった。

その記事は「突発性難聴2年4ヶ月目」で、今年2月5日に書いている。

実は私自身、コメントをつけさせていただいたことも忘れてしまっていたのだが、今日nanakagoさんに教えてもらって思い出したのである。

そのnanakagoさんの記事と、そこにつけられていたコメントを読ませてもらって、また泣いてしまった。

こういうことは、リアルな世界でもあって、私は、最近はさぼり気味だが、川西市の難聴者の会に入っているのであるが、その体験談を聞かせていただくと、自分でも驚くほど泣いてしまう。

こちらは、ボランティアの方が要約筆記をしてくださったものを読ませていただくのであるが、同じ障害を持つもの同士の連帯感は尋常ではない。

それだけ、この障害は辛いということの証しでもある。

若い頃からの私の苦労は、この難聴に始まり、今に続いている。

幸せな結婚ができたと喜んだのもつかの間で、たぶんに私の聴覚障害のせいもあったと思うが、姑や小姑にはずいぶんな扱いをされた。

mamakagoさんも書いていられるが、聴覚に障害があると、バカに見えるところがあって、私は姑、小姑に軽んじられたのであろう。

聞こえない人はトンマに見えるのである。

聞きとることに異常に神経を集中させるから間抜けなこともしてしまうし、自尊心はずたずたになる。

私は結婚前は銀行に勤めていたのであったが、そのころは軽い難聴であったとはいっても、軽いは軽いで、自分は普通の銀行員であろうとするし、周りも当然それを求める。

が、聞き間違って失敗することもあったし聞き返してお客様を不快にさせてしまったこともある。

もう自分はダメ人間なんだと何度泣いたか。

聴覚障害は、軽いからよい、重いから困るとは一概に言えない障害である。

軽いは軽いで、上記の私のような苦労が発生するし、重くなったらなったで、一人での外出すら不安を覚えたりする。

それでつい家に引きこもり勝ちになる。

そこのところは、連れ合いである夫も理解してくれていると私は思っていたのであるが、夫も、たまには難聴の私から逃げ出したくなるのだろう。

それが今回の騒動の遠因になった面もあったと思う。

その意味では夫も被害者かもしれない。

たまにはスムーズに受け答えのできる人とデートをしたくもなるのだろう。

私も、夫の気持ちも理解できないわけではないが、しかし、あまりにも妻としての存在を疎んじられると、今回のように切れてしまうこともある。

以前、こんな歌を詠ったことがある。

なにもかも難聴のせいと思ふてはならぬと思ひながら思ふも

本当につらい障害である。

nanakagoさん、まさこさん、ミナさん、自分を労わりながら、がんばりましょう!

「難聴のイメージと現実」・・・とあるサイトより

2017年10月20日 11時17分26秒 | 聴覚障害
今回の夫との一連の事件?の記事に、初めてコメントくださる方もあった。

ご本人は、初コメントではないとおっしゃったが、しかし、過去記事を探してもなかったから、初めてとさせていただく。

それで、私のことを心配してコメントくださったお気持ちはありがたかったけれども、しかし、私という人間が、聴覚障害という特異な障害をもっていることを理解した上でコメントいただきたいと思ったので、健聴者の方にも読んでいただけるといいなと、タイトルにした記事をご紹介させていただく。

今回の私の事件を「考えすぎ」とか「頭が固い」とか「だから病気になるのです」と忠告してくださったお気持ちはわかりますが、しかしその前に、私という人間のおかれている状況からご理解いただきたく。

まず最初にご紹介させていただくのは、nanakagooさんという50代の方のブログです。

この方は突発性難聴で難聴になられていますが、一昨日の記事「突発性難聴になってから丸三年経ちました!」の記事が私ども聴覚障碍者のおかれた状況を的確に書かれていると思ったので、こちらで紹介させていただきたいとお願いしました。

すると快諾していただけただけでなく、別のサイトもご紹介していただけたので、そのサイトも併せてご紹介させていただく次第です。

そのサイトの記事が、タイトルにした「難聴のイメージと現実」です。

これらの記事は私どものおかれた状況を理解していただく一助になると思いますし、現在すでに聴覚障害をおもちの方も、ご自分の状況を人様に伝えるときの一助になると思います。

という私自身も、大変参考になりました。

漠然とした不便を的確に表現されていますから。

ご家族に読んでいただいて、理解していただく一助にもなるかと。

私も、自分の子供たちに読ませたいです。夫にも・・・。

どうぞ、ご参考になさってください。

かしこ


それから、昨日の記事「このブログの過去記事に『イギリス映画』というのがあって、カズオ・イシグロ原作の映画の感想を」の文中でご紹介した「イギリス映画」のアドレスを手違いで間違えて貼り付けてしまっていたので、該当の過去記事が出なかったことをお詫びするとともに訂正したことをお知らせさせていただきます。

声質の高い人はNG 早口もNG 人の話を聞けない人もダメ

2017年09月18日 15時47分05秒 | 聴覚障害
いただいたコメントを記事にさせていただく。

てまりさんというハンドルネームの方から、今朝の記事

コメント返しが遅れても、コメント返しがなかっても」にコメントいただいた。

その中にタイトルにした「声質の高い人はNG 早口もNG 人の話を聞けない人もダメ」という文章があったので、ブログ記事に引用させていただく。(てまりさん、悪しからず^^)

上記は、私たち聴覚障碍者のもっとも苦手とする話し相手である。

「人の話を聞かない」というのは、私どもでなくても、論外であるが、

私のような感音性難聴は、相対的に、高い声が聞き取りにくい。

だから、若い女性の甲高い声はもっとも苦手とする。

それと早口も苦手である。

この二つは不思議と合わさっているケースが多い。

ゆっくり、それもできれば低音で話してもらえれば、なんとか聞き取れるのであるが、早口でしゃべられるとお手上げになる。

だから、初めての人に会った時には、最初に「できるだけゆっくり話していただけますか?」とお願いする。

というより、お願いしたいと思っている。

が、タイミングが合わないと、言うきっかけがつかめないことが多いが・・・。

それと、さらに付け加えるなら、雑音が入ると、聞き取りがぐっと落ちる。

だから、私は、大概の人に自宅に来ていただく。

本当は外で会ったほうがいいような人にもそうしていただく。

それは外の喫茶店などで会うと、他の人たちの話声が聞こえて聞きたい話が聞き取れないということと、補聴器が人の話し声以外の雑音も忠実に拾うから、相手の声が識別できなくなるからである。

だから大概、自宅の、それも食堂に入っていただく。

我が家は、客間として食堂からは廊下を挟んで和室があるのだが、私は顔が見えないと、というか、口元が見えないと話を聞くことができない。

私たち聴覚障碍者は、無意識のうちに口元を見ながら話しを聞いていることが多い。

口の動きを見ることで聞き取りの悪さをフォローしているのだ。

そんなこんなで、さきほどてまりさんからいただいたコメントの一部分が、聴覚障害者に対する理解の一助になりそうだったので、勝手に引用させていただきました。m(_)m


              *

  聞こえないことは不便であるけれど不幸にあらず理解さるれば

  高音と早口もつとも苦手とす人の話を聞かぬは論外

  屋内で一対一で会話すは可なり補聴器両耳につけ

  聞こえないすなはち話せないことの悲しみからの解放を乞ふ

それにつけても難聴の身は

2017年09月10日 15時49分13秒 | 聴覚障害
一昨日は、友人のお通夜、昨日はその告別式に行ったことを記事にした。

お通夜は夫も同伴してくれたが、昨日の告別式は夫は他用があったため、私一人で行った。

私は、普段でも一人で出かけることは少ない。

それは、聴覚に障害があるからだ。

ことに知らない人の中に一人で入るような真似は極力しない。

いちいち難聴ですと言うのが面倒なのと、相手の方に余計な気遣いをさせたくないと遠慮が働くからだ。

が、昨日の告別式は仕方なかった。

自分の気持ち的にも、出ないという選択肢はなかった。

が、行ってみれば、やはり心配した通りのことになる。

一昨日のお通夜で一度顔を合わせているから友人の教え子の方々は気軽に話しかけてこられる。

夫がいればフォローしてもらえるのだが、昨日はフォローしてもらえなかったからカミングアウトするしかなかった。

「あの実は私は聴覚に障害がありまして、書いてもらわないとお話しできないのです」

すると相手の方は引かれる。

たかが挨拶程度のことを書いてもらうのもなんだし、それ以上に相手の方は調子が狂ってしまうだろう。

それで、それっきりになる。

本来なら、これを糸口にしてお知り合いになれるチャンスというのに・・・。(涙)

が、これが私のおかれた境遇なのだ。

本当にご縁のある人であるなら、また後日なんらかの形で、またご縁があるだろう。

今まで生きてきて、そういうふうに考えてきたし、これからもそう考えて生きていくしかない。

これを悲しみと捉えれば確かにそうだが、しかし、これが運命と思えば、これを受け入れていくしかない。


  お通夜にて御目文字すれば翌日の告別式でお声がかかる

  挨拶の言葉いちいち紙に書きいただくことはできず私は

  難聴は治らぬゆゑに嘆くのは止(よ)さむと思ふ折々おもふ

字幕放送のよろしさ

2017年08月31日 05時57分05秒 | 聴覚障害
私は聴覚障碍者なので、テレビは常に字幕付きで見ます。

ところで、この字幕について次のようなブログ記事を見つけました。

「midunozのブログ 」というブログで、「テレビを字幕放送で見るようになっての所感(耳が悪いわけではありません) 」で、昨年1月28日に書かれています。

それによりますと、

 バラエティ番組ではあまり意味が無い
 そもそも最近のバラエティ番組はふだんからトーク内容の大半が字幕テロップで表示されています。なので字幕放送で見ても、通常時のテロップにちょっと字幕を足す程度といった感じで今までとさほど違いを感じません。
スポーツ中継(生中継)では実況や解説と数テンポのラグがある
 当たり前ですが、生中継番組の際は事前に何をしゃべるか決まっているわけではないので、リアルタイムに字幕が出るわけではありません。誰か専門の人が文字起こしをしているのか、音声認識技術を利用しているのかはわかりませんが、実際のしゃべりと字幕に数テンポのタイムラグがあります。ただ、これはこれで早口で聞き取れなかったりした時に「なんて言ったのかな?」と意識して字幕を見る(少し待つ、というか身構える感じ)ことでちゃんと理解できるという効用もあります。サッカー中継のときに専門用語が混じってたり、知らない選手の名前が出てきたときに理解しやすかったりしました。
ドラマを見るときが一番真価を発揮する
 生中継と違い、ドラマで字幕放送に対応している番組は事前に字幕が用意されているので、セリフと字幕のタイミングはドンピシャです。しかも通常時はバラエティ番組と違ってドラマ番組にセリフのテロップが出たりはしないので、ぐっと視聴が楽になります。楽になると言っても、別に音声が聞き取りにくいのが解消されるとかそういうことだけではなくて、「ながら見」が捗る感じです。耳だけじゃなくて目でも情報が入って来るぶん、テレビに対する集中力が比較的少なくて済むと言えばわかっていただけるでしょうか。
もちろん音声を小さくしたときに見やすい
 夜、妻が早く寝てしまって、じぶん一人だけ起きてテレビを見ている(付けている)ときもあるのです
が、そういうときに音声をかなり小さくしても内容がわかりやすいです。まあ、もともとそのためにあるものだから当たり前だけど笑

ということが書かれてありました。

字幕は聴覚障碍者のものという固定観念をお持ちの方も、一度試してみられては?と思って、ご紹介させていただきました。

それにしても、私達聴覚障碍者にとってありがたい世の中になったものです。

昔なら文字通り「つんぼ桟敷」に置かれていた私達なのですが、こうした文明の利器によって、世の中から取り残されることが少なくなりましたから。

もちろん、パソコンがその最たるものでありますけれども・・・。

  文明の利器を利しして生きてゐるわれら聴覚障碍者たち

  もし字幕なければ今も聞こえずに画面見るだけだつたわたしは

  パソコンは私の学校学校で聞き取れざれしことを学べる

  パソコンで知りえしことを力としわれはブログに文章を書く

NHK手話番組に出演されていた今井絵理子さん

2017年07月28日 06時52分30秒 | 聴覚障害
今井絵理子さんは、数年前、私が比較的熱心にNHK「手話」を観ていたころに、その番組に出演されていました。

息子さんが聴覚障害と判明してから手話の勉強をなさったとかで、その番組では生徒役をされていましたが、実際は、かなりの熟練者とお見受けしました。

私は、子供さんのために、ここまで熟練されるのはすごいと思いました。

というのが、私はテレビで学んでも右から左へすぐに忘れてしまって、未だに手話を使うことができませんから。

自分に必要だというのに・・・。

私の母も、私の難聴にはずいぶん悩んだと思いますが、母は世間体を取り繕うばかりで、自分が手話を覚えてくれようとかは全然しませんでした。

というよりも、当時は難聴も軽かったとはいえ、私が母の思うような学業の成績がとれないことなどを責め立てたりしました。

先生の話が十二分に聞こえないのだから母の期待する優秀な成績を取るのは難しいということを理解しようとはしませんでした。

今にして思えば、難聴だった私には、耳が悪くても生きていける手立て等を考えてくれたほうがよかったと思うのですが、母は私の難聴を隠すことしか頭になかったのです。

考え方によれば、それだけ聴覚障碍者に偏見をもっていたとも言えるかもしれません。

それと比べれば、私には今井絵理子さんは立派なお母さんに見えます。

実際、立派なお母さんだと思います。

昨日たまたま今井絵理子さんの不倫というニュースを観ましたが、私は、このケースは、法律的には違法かもしれないけれど、不倫と呼ぶべきものではないと思います。

というのが、現在、今井さんはシングルマザーであられるようですし、お相手の方は離婚はしていらっしゃらないのですが、今井さんと知り合う前から奥様とは別居状態ということですので、単純に不倫と言われるものではないと思います。

この頃のテレビを観ていると、とにかく人を叩くことが主目的ではないかと思うくらい、不倫にうるさいです。

集団ヒステリーと呼びたいほどに・・・。

健全な家庭を営んでおられる方を誘惑して、その方のお連れ合いを泣かせるのは決して許されることではないのですが、そうでないケースにまで目を光らせて不倫、不倫と騒ぎ立てるのはどうかと思います。

  子のために手話を学びし人なれば尊敬あれど非難はあらじ

  国民のなべてが裁判官になり人非難するヒステリー国

  人様の不倫を騒ぎたてるよりもつと問題すべきことあり

演歌歌手の山本譲二氏が腫瘍のため聴力を失いかけているとか

2017年07月01日 22時02分17秒 | 聴覚障害
タイトルにしたように、演歌歌手の山本譲二氏が腫瘍のため聴力を失いかけておられるとかになっていられるというニュースを読みました。

もちろん、氏にはお目にかかったこともないが、「大変ですね」と声をかけさせていただきたく思いました。

私のように、だんだん聞こえなくなってくるより、ある日突然聞こえなくなるほうがショックは大きいと思うし、不便も強いと思います。

聞こえないことは不便で、私も、今でも落ち込むこともありますが、しかし、ものは考えようです。

聞こえないなくても楽しめることは世の中にごまんとありますし、できる仕事もあると思います。

私は、幸い主婦専業なので、毎日のごはんを作っていればいいのですが、そうでない人でも、IT関係とか、いろいろあると思います。

耳が聞こえないと、必要なことが聞こえなくて困ることも多いですが、しかし、聞かなくてもいいことを聞かされるわずらわしさからは逃れられます。

それから人に必要にされない寂しさはありますが、しかし、人に必要にされない気楽さもあります。

ものは考えようです。

どうか、元気を出してください。

と、以上、自分を励ますために書いてみました。

  聞こえないよろしさもある聞こえないことを悲しみすぎないで君

  必要であれば手話とふ言葉あり必要なれば覚える速し

手話の必要性

2017年05月14日 09時21分45秒 | 聴覚障害
もうすぐ出かけないといけないのだが、今朝の産経新聞に手話のことが書かれてあったから、少し。

手話が言語として認められたのは、比較的最近のようだ。

それまでは聾学校などでも口話が教育の主流だったようだ。

口話は読唇術というか、人の口元を見て会話する方式だが、これは私も一時やってみたが、あまり助けにはならない。

なぜなら、たとえば、「あ」と言ったのか、「が」と言ったのかが、判読しがたいから。

この口話だけで全てを乗り切れというのは乱暴な話だ。

その点、手話だと目で見るわけだから、聞き逃しというか見逃しはあまりない。

私自身、手話ができないので、大きな顔はできないが、聴覚障碍者に手話は必要言語だと思う。

私は、若いころは聾学校に行くほどの難聴ではなかったが、年と共にひどくなり、現在は補聴器を外していると、人が来てもわからない。

会話も1対1なら、なんとかできるが、大勢になるとお手上げだ。

手話も覚えようとはしているが、家族がまったく使用しないから、覚えても片端から忘れていく。

こうなることを見越して若いころから手話を勉強しておけばよかったと思うのだが、後の祭りだ。

それでも、さらに悪くなることは明らかなことなので、蟻の歩みでも、少しずつでも覚えていかねば。


  詞書「手話」
  難聴はよくなることはまずあらぬ蟻のあゆみのごとく覚えむ  biko


  悲しみの源なりし難聴を嘆くよりまず手話を覚えむ  biko

それでは行ってまいります。帰宅は16日(火)の夕方です。