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神鳴り(アメジストネックレス)

難聴ゆえに家居の好きな主婦です。過去、心臓弁膜症、大腸がんの手術を受けました。趣味は短歌です

昨年も佐藤愛子のことを書いている私

2018年03月28日 01時42分08秒 | 帰省
昨年の今頃はまだ母が生きていたが、
昨年の今頃も佐藤愛子のことを書いている。

母も彼女のことを好きだったようで、
一緒に泊まったホテルで亡くなった時、
その荷物の中に何冊か佐藤愛子の著書が入っていた。

私の夫は、私が佐藤愛子や田辺聖子を読むと軽蔑する。

そんな馬鹿話ばかり書いている作家のどこがいいと。

夫には、彼女たちの巧まざるユーモアがわからないのだ。

かわいそうな人だ。

と私は逆に憐れんでしまう。

なにも七面倒くさい話を書く作家が偉いのではない。

こういうふうにユーモアを交えて書ける作家のほうが賢いのだ。

だいたい面白みのない人は駄目だ。

いえ、夫には夫のよさがある。

夫の小学校時代の女友達などは、
私の夫がいかに秀才で女生徒たちの憧れの的だったを言う。

世間的には、そんな人と結婚できた私は果報者ということになるのだろう。

が、しかし、こういうユーモアを解さないところが最大の欠点なのである。
と私は思う。



「屁をひって おかしくも無し 独り者」
今日は図書館に予約してあった本の順番が回ってきたと連絡があったので、行ってきた。借りてきたのは売れっ子医師の長尾和宏氏の『痛くない死に方』であるが、行ったついでに佐藤愛子氏のエ......


・昨年も佐藤愛子を書いている私はどれだけ彼女を好きか

・亡くなりし母の荷物の中からも出てきた佐藤愛子のエッセー

・亡くなりし兄の蔵書の中からも出でこし佐藤愛子のエッセー

・亡くなりし兄の話は面白しさう言ひくるる人多かりき

・ユーモアのなき夫とまでは言はねどももつとユーモア解してほしい

・息つまるときは取り出し読まむかな佐藤愛子や田辺聖子を

・屁をひつておかしうもなし独りもの相手がゐれば相手が怒る

結局お墓参りには帰らなかった、帰れなかった

2018年03月24日 01時54分57秒 | 帰省
昨日の夕方まで悩んでいた。

お墓参りに帰りたかったからだ。

また母の初めてのお彼岸だったから、帰ってやらなければとも思っていた。

しかし、夫の多忙な様子を見ると帰りにくかったし、
無駄足のような気もしたし。

数か月前までは母が喜ぶから帰省していたが、
喜んでくれる人がいなくなるということはこれほど帰省が意味をなさなくなるなんて、

でも、私の帰りたい気持ちは消えない。

私自身が帰ることで精神的な安定を得ていたところもあった。

半分耄碌していた母だったが、最後の最後まで娘の私を案じていた。

そんな有難い存在がこの世からいなくなった。

現在は、私は夫の多忙のイライラの緩衝材のような役割も果たしているように感じる。

夫はそんなこと思ってもいないかもしれないが、
夫が帰宅したとき、
私がいるのといないのとでは、全然違うと思うのだ。

が、私が精神的に安定しているときはいいのだが、
私自身が不安定になりやすい人だから
私のことを心底心配してくれる母の存在は得難かったと
今頃になって気づく。

遅すぎる。

せめてお墓参りに行って、自分の精神の安定を図ってこようと思っていたが、
昨日の夕方まで迷って、結局帰れなかった。

お彼岸は今日までだったが、
夜行バスはもう満席でなかったが、
昨日の夕方のバスが一席あった。

夕方のバスに乗って、高知には今頃の時間に着くバスだったが、
ホテルを予約していけば、こんな夜中に到着しても朝まで寝られた。

朝いちばんにお墓参りすればよかった。

が、それだけだ。

実家に帰ることは、もうない。

帰ったところで、喜んでくれる人はいないのだから。

そのことを考えていると、涙が出てくる。

もうこの世に未練はないと思う。

こういう悲しい思いをしている私であるが、
これが逆だったら、もっと悲惨だった。

兄に先立たれ、私にまで先立たれたら、母は可哀想すぎた。

だから、私が残ってこうして悲しむほうが、まだいいのだ。

*

・母死にてまだ二か月しか経ちてゐずまだまだその死に馴れずゐるかも

・お彼岸のお墓参りに行きたしと強く願ひて行かずに終はる

・悲しみはまだまだこの身に満ちてゐてときどき溢れ出すなり 涙

・多忙なる夫の吸ひ取り紙であるわれの悲しみ吸ひ取りてほし

・もう誰もわれを心底心配をしてくれるなく此の世に残る

一年前に書いた記事は全く忘れているが、思いは今も同じ

2018年03月22日 01時58分56秒 | 帰省
Gooブログの一年前の記事のお知らせは本当にありがたい.

なぜなら書いた本人も全く忘れていることが多いから。

しかし、読み返してみると、昨年の私と現在の私は変わっていないと感じる。

この昨年の記事もそうだ。

私はペシミストだ。

そして、日常では暗いことを考えていることが多いが、
寝て見る夢では、案外楽しい思いをしているようだ。

夢でバランスをとっているのだろうか。

それとも、自分で思っているより、私は能天気な人間なのだろうか。

*

・昨年のわたしに出会ふ昨年のブログの記事を読みてゐたれば

・書きしこと忘れてゐしが昨年も同じ思ひでゐしを確かむ




夢に癒される私
私は夢を覚えていないことが多いが、今朝は二度寝して、目覚める前に夢を見ていた。目覚めた直後はその夢を覚えていたが、もう忘れてしまった。が、悪い夢ではなかった、という記憶だけ......


お墓参りに帰りたいな

2018年03月19日 06時20分06秒 | 帰省
母が長くないと気づいた昨年夏からは毎月帰省していたが、
母が亡くなってから、そのリズムが途切れた。

帰省するのは、私の毎月の心臓定期検診日の翌日と決めていた。

明日20日が今月の定期検診日である。

そのせいか、いま帰省したくてたまらない。

が、帰省には、まとまった出費を覚悟しないといけない。

母が生きている間は、義務と思って帰省していたが、
亡くなった今、その義務はなくなった。

それよりも、帰省しても喜んでくれる人がいなくなった。

それでも帰省したい。

帰省してお墓参りをしたい。

若い頃は、
嫁ぎ先の会ったこともないご先祖様たちの墓参りを押し付けられていたが、
今は、自分の実家の父母の墓参りを心よりしたい。

できうれば、私をいつくしんでくれた祖父母のお墓まいりも・・・。

お墓参りは義務ではない。

自分がしたくてするものだ。

と、この歳になって思う。

実際に帰省するしないは別として、
帰省の高速バスを調べてみると、
お彼岸のせいか、どの便もほぼ満席である。

一日ずらせば空いているバスもある。

私の実家のお墓は高知県安芸市というところにあるが、
近年は大阪から直接安芸市まで行く高速バスができて、
非常に便利になっている。

もし高速バスの切符が手に入ったら、
安芸市に一晩泊まるのもいいかなと調べてみると、
これがなんと、まったく空き部屋がない。

どうしたことだろうと考えてみるに、
春の安芸市には阪神タイガースの二軍のキャンプがくる。

そのせいではなかろうか?

母の実家のお墓など、その阪神タイガースの練習球場の隣である。

ということで、帰省の足がない。泊まるところがない。

でも帰りたい。

*

・母のゐる墓に行きたし父のゐる墓に行きたし安芸市赤野の

・母方の祖父母のいます球場の隣の墓地の墓にも行かむ

母方祖父の生家は山内家の家来だったので、
その墓地は高知市の筆山という山にあるのですが、
幼いころに両親を亡くした祖父は商家に養子にやられたから、
その墓地が安芸市にあるのです。



寒の入りから春一番まで

2018年03月01日 05時35分18秒 | 帰省

ここ数日、春一番が、あるいは春二番が吹いたとかのニュースが聞かれるようになった。

人の気分は、たぶんにその季節に影響される。

寒い冬は鬱になりやすいし、春風が吹くと人の気分もウキウキしてくる。

逆に、人の気分の表現をするのに、この季節の特徴を比喩にすることが多いくらいだ。

幸せな気分を表現するのに春のようだと言ったり、辛いことがあったら厳冬期とか表現したり。

ところで、
今年1月11日の寒の入りに母を亡くした私は、まさに季節と気分が合致してしまって、
悲しさも、まさに「寒の入り」であった。

かてて加えて風邪まで引いてしまって、しかも、この風邪がしつこかった。

治ったかと思ったら、また厳しい寒さによって咳がぶり返してということの繰り返しだった。

母を失った悲しみが風邪を長引かせていたような気がするし、
それより一年で一番寒い時期だったことが、その悲しみに影響していたような気もする。

それじゃ気候のいいときに亡くなったほうがよかったかと聞かれれば、
「否」と応えるかもしれない。

今冬の寒さがあったから、母を失った悲しみを十分味わいつくしたような気がしているから。

が、さしもの鬱気分も、春一番、二番の声を聴くと和らいでくるのも現金なものだと思う。

今回の母の納骨は、それほど悲しくなかった。

なぜなら、高知滞在中は暖かくて、冬服が重いくらいだったから。

やはり春一番の吹く季節が気分に影響を与えたのだろう。

*

・母死にて四十九日は来たりけり寒を抜け出し春一番に

・亡くなりし寒の入りより納骨の春一番の吹くまでの間

・母の死を悲しむ寒の期は終はり今春風の一番が吹く

・人の死を悲観すれども春風の吹けば吹き飛ぶ悲観なるべし

*

昨夜は、母のお世話になっていたケアマネージャーさんからお悔みのメールをいただいた。

私も、四十九日が終わればご挨拶のメールをさせていただこうと思っていたので、
すぐに返信させていただいた。

本来なら、こちらから出向いてお礼を言わないといけないのだが、
遠方なので、なかなかそれができない。

従姉の話

2018年02月28日 09時04分42秒 | 帰省
昨日母の納骨に来てくれた従姉は前の記事でも書いた通り、
私達父方いとこの中の最年長なので、私の知らなかったことも知っていて、
昨日もいろいろ話してくれた。

祖父は頭のいい人だったから、この墓地のある田舎でも皆から尊敬されていて、
現在墓地にしている一等地も、特別に手に入れることができたと。

また祖父は、第一次世界大戦のときに当時としては破格の出世をしたらしかったが、
学歴がなかったので、ある一定の地位までが限度だったそう。

それが悔しかったから、商売で成功してお金を作ってからは三人の息子を大学にやり、
その後、陸軍士官学校も卒業させている。

そのご利益があってか、私の父も軍隊に入ってまもなく中尉になったらしかったが、
この従姉の父親だった父の長兄は主計大尉だったそう。

それで、この父の長兄や父の威光で、親戚の男性陣は軍隊で全員が殴られるときなども
免除してもらえることが多かったそう。

父の次兄は体が弱かったから、兵役は免れていたらしかった。

また長兄は祖父が亡くなった時にほとんどの遺産を独り占めしたと私の母などは言っていたが、
この従姉の話によると、
私の父も、田舎の田畑を相続して、
それで私の母が高知市内に貸家にしている土地を買うことができたと言っていた。

私は、父からも母からも、そんな話は聞いたことがなかった。

やはり話は双方から聞かなければならないと思ったことだった。

父も母も、第二次世界大戦後法律が改正されていたのに、全部父の長兄が相続したと言っていたが、
従姉の話ではそうでもなかったことになる。

それから祖父存命中は、高見山というところに別荘があったが、
その別荘はいつのまにやら父の次兄のものになっていて、
現在、その次兄の長男(私の従兄)が自宅を建てて住んでいる。

母は、あの祖父の別荘は共有財産だったのになどと言っていたが、
しかし、このことも今度この従姉に聞いてみないといけない。

もっとも従姉も、すべての話に、多少は自分の親の贔屓を交えて話すことは計算に入れて。

とは言いながらも、この従姉は人格者だから、そう極端な話はしないと思う。

私は、子供の頃から、他の従姉妹たちと違って、
この従姉は全体を公平に見ることのできる従姉と信頼していた。

この従姉は、頭もよかったから、勉強はそれほどしないのに、常にトップの成績だった。

祖父も、この従姉のことは人にも自慢をしていた。

まだ幼かった孫の私にまで、
「〇〇ちゃんは勉強もよくできるけれど、絵を描かせたら、これがまたものすごく上手い」
などと(笑)。

従姉妹たちとは、私が結婚してからはお互いに疎遠になっていたが、
これからは、帰省したら、この従姉の家にも行ってみようかと思う。

この従姉の連れ合いは、さる銀行の重役だったから生活にも余裕があり、
それで余計こうして親戚筋の世話などもできるのだろう。

この従姉の結婚は、
卒業した高校の校長先生の推薦でお見合いして決まったと聞いている。

優等生だった従姉は、校長先生の覚えも目出たかったのだろう。

従姉が人格者だったから、こういう運命が授けられているのか、
こういう恵まれた生活をしているから人格者になれるのか、
これは「鶏が先か卵が先か」だ。

と、今日は、ちょっと従姉自慢をしてみた。^^

*

・嫁ぐまで姉妹のごとく親しみし従姉妹らのゐて今疎遠なり

・また祖父の生きゐしころに戻らむか戻りて姉妹のやうな従姉妹に

・われよりも先に勤めてゐし従姉われの勤めし四国銀行に

・入行をせしとき「妹さんですか?」と聞かれしこともありし従姉よ

・他人から見ればどこかが似てゐたか従姉妹同士は親が兄弟


いま帰途です

2018年02月27日 19時56分40秒 | 帰省

納骨が終わって兄嫁に南国市役所で降ろしてもらった。

南国市役所には、私のパスポートが切れている、夫のが切れかけているので
申請のための戸籍謄本の写しを発行してもらうためだった。

その後、jrで帰ろうと南国市の御免駅に行ったが、高速バスで帰るのとあまり時間の差がないので、
また高知市に戻って高速バスで帰ることに。

私は難聴だから乗り換えの不安のない高速バスのほうが好都合であるし、
運賃もjrの半額くらいである。

その浮いたお金でお土産を買った。

きのう友人宅でいただいた大丸という蒲鉾は800円くらいだった。

あとバスの中で食べる鯖寿司も800円くらいだった。

揚げたての芋ケンピも二袋買った。これも800円。

バスに乗ってから鯖寿司、芋ケンピを食べた。

こういうふうに、乗車して食べられるのもバスならではと私は思うのだが、どうかな?(笑)

*

・大阪に到着するは午後九時に近く帰宅は十時ちかくに


・七十のわれはさすがに疲れたり母の骨壺つちに埋めて

・最愛の母の最後の最後まで見届け七十娘は帰る

・七十になりても母の娘とふ事実変はらず梅の花咲く

・明日からはあの世の魂(たま)になる母に咲け梅の花薄くれなゐに

親友の家で夕食をご馳走になる

2018年02月26日 21時48分06秒 | 帰省
昼過ぎからずっと高校時代の親友の家でしゃべり続けた。

夕食は、ほとんど目の見えなくなっている友人が私が来る前に準備してくれてあった肉じゃがと味噌汁と<大丸という名の蒲鉾

簡単なメニューだが、料理上手の友人の味付けがよいので美味だった。

友人とはいくらしゃべってもしゃべり足りないが、遅くなるとホテルに戻るのが大変になるから辞去した。

友人は、「これからはここを実家と思って帰ってきて」と言ってくれるが、目の見えない友人の家に泊めてもらうことは気持ちだけ有り難くいただいておくことにしよう。

・ありがたき友の言葉を後にして夜の鏡川を見ながら帰る

大丸という蒲鉾は高知独特の蒲鉾だと思うが、材料がいいのだろう。とてもおいしい。
県外の方も高知に来られたらぜひお土産に。
お値段もけっこうするが、それに見合ったおいしさだと思う。

親友は病院の帰り道、大橋通という商店街で買ってきておいてくれたらしかった。

これを買うの一つでも苦労があるだろう友を思うと、涙がこぼれる。

この親友の連れ合いは私の兄の高校時代の友人だった人だが、数年前にくも膜下出血により体の自由が奪われている。

こんな二人だが、なんと驚くことに、この二人だけで旅に出たりもするのだそうだ。

一応名目は友人の連れ合いが保護者ということだが、この保護者のほうが見た目障害が重そうに見える。

それでも健気に生きている二人に乾杯!!

*

・人生に不幸はつきものとは言へどこれほどなるは珍しからむ

・だが幸か不幸は主観であるゆゑに不幸に見えても幸せはある

・友人の夫婦もさなり助け合ひ生きる夫婦はいと幸せで

・泣き笑ひしながら生きる友人の夫婦は二人ながら幸せ

・世間的幸せなどは糞くらへまでは思はずとても幸せ

今日の高知市は16度になるとかで

2018年02月26日 13時29分53秒 | 帰省
ホテルを出ると暖かいのでコートはホテルに置きに戻りました。

さすが南国高知です。(^-^)

まず実家に寄って母の位牌に手を合わせます。

このあと兄嫁と事務的な用件を片付けてから、午後、高校時代の親友の家に行きます。


春蘭満の?鏡川(^-^)


向こうに見えるのは牧野植物園のある五台山。

今日はお墓のある田舎のお寺で母の四十九日の法要を営んだ

2018年02月25日 21時01分24秒 | 帰省
(南国土佐の二月の窓に咲く満開の梅の花)


本当は法要のあと納骨まで済ます予定だったが、午後雨になるというので、納骨は明後日に。

仕事の忙しい夫は、法要のあと帰途についたが、私は今日、明日とホテルに泊まり、
明後日納骨を済ませてから帰ることに。

お墓のある田舎には久しぶりで来たのと従兄弟、従姉妹に会えたことで、嬉しい一日であった。

もう皆、親の世代が亡くなっているか、亡くなっていなくても老衰はげしい状況なので、
われわれが一番上の世代となりつつある。

実際、甥とか甥のお嫁さんとかがてきぱき動いてくれて、われわれはお世話になる場面も多い。

これからは、ますますこういう機会が増えてくるだろう。

*

・われわれが最年長になりてきてゐるを気付かす母の法要

・指図する母が亡くなり指図さるることもなくなり世話されてゐる

・法要の窓に満開梅の花母亡くなりし春はさびしゑ

明日は母の四十九日で帰省します

2018年02月24日 20時46分18秒 | 帰省
いえ、まだ四十九日にはならないのですが、
三か月にまたがるとよくないとかで、法事は今月末までにしないといけないそうです。

明日が今月の最後の日曜日なので、明日に決まったのです。

納骨も明日を予定していたのですが、明日は雨とかで、日を改めることになりました。

わが家は、長男も次男も誘ってあったのですが、それぞれ都合が悪くて私と夫だけで帰ることに。

夫も忙しいので、当日の明日朝出発することに。

二人だったら飛行機かJRにすればいいのですが、向こうで不便だから車で帰ることになりました。

夫は忙しいので、日帰りです。

私は73歳の夫が往復運転するのは心配なのですが、
夫は無茶をしないで休み休み帰るから大丈夫というので、
任せるしかありません。

私は、今日は荷物を作っていたのですが、
1月のお葬式に帰ってきたキャリーケースの中身をそのままにしてあったので、
それから片付けなければなりませんでした。

キャリーケースを開くと、捨てられるという母の物を入れられるだけ入れて帰ってきたので、
広げると部屋がいっぱいになりました。

ずっと気になっていましたが、なんとなく手をつけたくない気持ちでしたから。

持ち帰った母のものを眺めていると、母が亡くなったことが改めて思われて、
考え込んでしまいます。

このキャリーケースだけじゃなく、手提げかばんの整理もしないといけないのですが、
私は、どうも片付けが下手なようで、なかなか荷造りが終わりません。

こんなところは母に似たのかも。

いいところが似ればいいのですが、似なくていいところが似るものですね。

と、ここまで書いてから、夕食の支度。

今日は、天ぷらにします。

食事が終わって、また続きを書こうと思ったのですが、眠くなりました。

まだ荷造りが終わってないのに?

で、いったん寝てから、夜中に起きて荷造りするようにします。

朝7時には出発しないといけないから、早起きしないとね。

*

・片付けも荷物を作ることも下手なにもできない己と思ふ

・このわれの欠点母に似たらしくわれも片付けできぬ媼に

・忘れ物せぬやう早めに荷造りはするべしそれができればするが

・難聴のわれにケイタイ必需品その充電器も必需品なり

・喪服入れ黒の帽子も黒靴も入れて法事の荷物ふくるる

・葬式のときに着こみしセーターを着こむか否か迷ふ如月

・春めきてきしといへども風寒くあれば二月も着る毛のセーター

昨年の今頃も帰省していた私だが、もう帰省する目的がなくなってしまった

2018年01月29日 20時48分19秒 | 帰省
昨年の今頃も私は母のお見舞いを兼ねて帰省していたことが、Gooブログのお知らせで分かる。

母が亡くなってしまった今後、もう帰省する大義名分はなくなった。

母の見舞いと言いながら、実は、私は帰省するのが楽しみだったと思う。

それは、ふるさとに帰れることと、母に会えることとが、二つながら叶えられるから。

が、その母が亡くなってしまえば、もう帰省するべき理由が見つからない。

ふるさとは親あってのものということを痛感させられる。

親を亡くすということはこういうことなのだ。

私は、むしろ遅すぎたかもしれない。

早い人は、40代、50代で、そういう思いをしただろう。

が、何歳になっても、親を亡くすということは、この世における自分の立場が一気に変わる。

なんだか毎日母を亡くしたことばかり書いているが、しかし、そのことで頭がいっぱいになっているから仕方ない。


1月27日午から夕方 実家~親友の家へ
よさこい情報交流館から実家に行く途中にある十一屋に寄ったが、11時を過ぎていたのに、まだ開店していなかった。先日、くりまんじゅうさんのブログで十一屋の記事を読んで、今度帰省した......

親孝行は自分孝行だった?

2018年01月24日 11時49分59秒 | 帰省
毎月、母のために帰省しているつもりだった。

が、母が亡くなってみて、それは自分のための帰省だったと気づいた。

母にご馳走を食べさせるため、自分達だけなら泊まらないホテルの予約をして、ご馳走していたのは、もちろん母のためでもあったが、自分のためでもあった。

おかげで、ここ半年くらいは、毎月帰省できて、毎月、土佐のご馳走が食べられた。

母も喜んでくれていたかもしれないが、自分が喜んでいたことも事実だった。

もうこういう贅沢はできなくなる。

が、数か月でも、高知の一流どころの三翠園も、城西館も泊まったから、満足だ。

ことに城西館は、次期天皇皇后両陛下となられる皇太子殿下、皇太子妃が泊まられた直後に泊まれた。

いえ、私自身は、次期天皇、皇后となられる方々のことを必ずしもご尊敬申し上げているというわけでもないのですが、亡くなった母は、ネットなど無縁の人でしたから、一応親孝行になったのではないかと。

母と懇意だった城西館の前女将さんには個人的にお土産もいただいた。

昨年の五月は村形明子さんにご馳走するために宮尾登美子の小説の舞台「得月楼」でもご馳走をいただいた。

得月楼は、若旦那が私の甥と友人関係で、特別にご配慮いただいた。

が、一年足らずの間に、村形明子さんも母も失ってしまった私。

今度は私の番なのだろうか?

そんなことがしきりに思われる昨日、今日なのである。

*

・昨年の今頃生きてゐし人ら死にて今度はわれかと思ふ

・四か月ごとに亡くなり続ければ次は五月にわたくしが死ぬ

・昨年の五月高知の得月の座敷で三人(みたり)写る写し絵

・左端村形明子まんなかが私の母で右端わたし

・左より四か月ごと亡くなりて九月一月次は五月か

・明子さん九月五日でわが母は一月十日わたしは五月

・明子さん母わたくしと並びたる得月楼の写し絵ここに

実家から四十九日の案内があったが

2018年01月22日 14時53分08秒 | 帰省
初めて母のいない帰省をすることになる。

今までも帰省はホテル泊まりだったが、これからはますます実家に泊まることはなくなる。

母の生きている間の帰省は、母のいる高知市内への帰省だったから、夫と一緒のときは自家用車(←いつの時代の言葉?)、私一人のときは高速バスであったが、今度の四十九日は納骨もするらしいから、高知県郡部での法事になるからJRでの帰省になる。

早朝に出れば、その昼の法事に間に合うが、法事を済ませて日帰りで戻ってくるのはキツイ。

が、母のいない郷里には、もう長居は無用だ。

実家の母の部屋は、家具も全部捨ててしまうと言っているから、広い空き部屋はできるだろう。

が、そこは、帰省した甥たち一家は泊まっても、もはや私の泊まる部屋ではないのだ。

兄が生きていてくれたら事情は違っていただろうが、実家には、もはや私の居場所はない。

昔から兄弟は他人の始まりと言われているが、それでも、はらからである兄がいれば、まだ実家である。

母も兄もいなくなった私に、そこはもうただの親戚の家でしかない。

それが現実だ。

*

・はらからのゐぬ実家など用はなし母の四十九日に帰れど

・足しげく戻りし郷里も母死ねば戻る必然なくなり儚(はかな)

・父母のゐし家といえども父母なくばあとは兄嫁、甥の住む家

・屋上にわれの部屋などありしビル実家であれど帰らずならむ

・わたくしの買ひしパルテノンのビーナスも残りて実家の屋上の部屋

・われの寝てゐしベッドなど今もあり夏は花火の見える部屋なり

・嫁ぐ前いとこらも来て共に見し鏡川花火大会はなび

・屋上の花壇の花を眺めつつ暮らしし実家のわたくしの部屋

・わたくしの部屋はいつしら物置となりて甥らの物があふるる

・三階の兄嫁暮らす部屋通り上がる屋上もはや上がれず

・結婚の前に新築せし実家ふるびて外壁さび付きゐたる

・建て替へもせぬまま鉄骨ビル古りて築五十年の建物となる

みな風邪で沈没

2018年01月18日 10時37分46秒 | 帰省
私は今日は少し食欲が出て、朝は昨夜作った雑煮の汁に冷蔵庫に残っていた冷ご飯を入れて雑炊にしていただいた。

ぜいたくに昆布、鰹を入れた御汁だったので、雑炊にしても、とてもおいしく、お代わりをしたほどだ。

夫も昨日は人相が変わるほどの状態だったが、日頃元気な人だから、回復も早くて、今日は厚着して取引先に出かけた。

が、私達が回復するのと引き換えに、東京の娘は風邪で高熱の状態らしい。

実家の兄嫁も風邪でダウンしたそうだし、短い期間に北海道、高知間を二往復した北海道の甥も風邪で体調を崩しているらしい。

みな疲れたのだろう。

お通夜や告別式に来てくださった方々も風邪を召されなかったかと心配している。

亡くなる時期は選べないが、こういう厳しい時期に亡くなると、家族はもちろん、弔問してくださる方々にも大きな負担になる。

歳をとった方とか、体の弱い人は、無理に弔問に訪れることはないと思う。

生きている人間優先だ。

*

・亡くなりし十一日より火葬せし十五日まで長かりしかな

・四日間亡骸まもりつづけたりつくづく世話を焼かして焼かる

・亡骸が長らふ棺(ひつぎ)人去りて一人になりても夜昼そばに

・正座して傍に侍るも体力を必要としてわれら風邪ひく