神鳴り(アメジストネックレス)

難聴ゆえに家居の好きな主婦です。過去、心臓弁膜症、大腸がんの手術を受けました。趣味は短歌です

さつま揚げ・・・次男夫婦の旅のお土産

2016年11月30日 20時42分37秒 | いただきもの
朝、次男のお嫁さんから「鹿児島のお土産のお届けです」というタイトルでメールが。

中には、

おはようございます
11/26〜28に、実家の両親を連れて鹿児島旅行に行ってきました。
今日着で、お土産を宅配で送らせていただきました。ぜひ召し上がってください


とあった。

それで、今日は、朝からずっと荷物を待っていた。

が、午後3時半ごろ、トイレに入っている隙に宅急便がきたらしく、不在連絡票が入っていた。

難聴の私は、よくこういうことがある。

私も困るが、配達の人には2度来ていただかなければならなくなるから面目ない。

電話は苦手だが、夫が家にいなかったので仕方なく、電話をかけて再配達のお願いをした。

が、結局、再配達は夜になった。

届いた荷物を見ると、送り主は、お嫁さんのお父さんの名前になっている。

それで、夫に頼んで、お嫁さんの実家に電話を入れてもらって、お礼を言ってもらった。

お嫁さんの実家は、お母さんが出てこられて、夫は大分長い時間お話をした。

こんなとき、電話のできない私は悲しい。

その後、夫は、娘婿の鹿児島の実家のご両親のことを思い出して、久しぶりに電話して、これも、だいぶん長い時間お話をさせていただいた。

電話のできない私は間接的にしかお付き合いできないが、できないことを望んでも仕方がないから、達観の境地だ。

お嫁さんのご両親が送ってきてくれた「さつま揚げ」は夫の大好物なので、夫は大喜びだった。

  嫁さんのご両親よりさつま揚げ届く霜月最後の夜なり  biko

それだけでなく、電話で、お嫁さんのお母さんとお話ができたこと、娘婿のご両親とお話できたことも、夫の今夜のご機嫌の原因だった。

  限りある親戚なればときどきは電話をかけて消息尋ぬ  biko



次男夫婦は、7月には私達を福井県の三方五湖の旅行に招待してくれたが、今回は、お嫁さんのご両親に鹿児島の旅行をプレゼントしたようだ。

若いのに、感心、感心。

  われらには三方五湖への、嫁さんのご両親には鹿児島への旅  biko

なぜ鹿児島に行ったかというと、お嫁さんのお母さんの親戚が鹿児島県で私立高校を経営していられるということで、その親戚に会いに行ったようである。

11月のインターネット歌会に出した脳性まひの孫と聾の私の歌

2016年11月30日 09時33分06秒 | 短歌
割合好評だったので、その歌の紹介を兼ねて、昨日私の出した歌会御礼を転記する。

今月のお題は「笑う」で、31首の出詠があった。

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bikoです。

●●さん、日本から時差のある国からの司会、お疲れ様でございました。目配りの効いたいい司会をしていただいたと思います。

その他の、毎月お世話してくださっている皆様にも、今月もお礼申し上げます。

  寝たきりで物言へぬ子の微笑みに微笑み返す聾(みみしひ)の吾(あ)が

そのまんまの歌です。

長男の子、●子は脳性まひで生まれました。今年9歳になったのですが、未だに首も据わらず寝たきりです。食事も、流動食をひとさじ、ひとさじ食べさせてもらわなければなりません。が、そんな生まれ合わせにも関わらず、表情豊かで、笑ったら、これ以上ないくらい可愛いです。

現在養護学校に通っていますが、養護学校でも笑顔が可愛いから人気者のようです。

そんな愛らしい子になったのは長男夫婦の日々の丁寧な世話どりの賜物と思います。

わが子ではないから、最初「児」という漢字を使おうかと思いましたが、それではあまりにも他人行儀に思えたので、「子」にしました。

一方、祖母の私は、どんどん難聴が進んで、現在聴覚障害4級です。

まったくの聾ではないのですが、高度難聴ということで、「聾」という字を使いました。

聞こえない祖母の私と、お話することのできない孫の取り合わせは、見方によっては、とてもよい取り合わせかもしれません。(^^)

たくさんの方に選歌していただき、コメントもたくさんいただき、ありがとうございました。

                m(_)m

以下、いただいたコメントです。

>林さんの『人に微笑みがあってよかった。』の一言に救われます。
あえて微笑みを2回 繰り返さなければいられない作者さんの
心情が胸に突き刺さってくるようです。本当に 『人に微笑みが
あってよかった。』 (●●)

-「子」は我が子?私はよそのお子さんと読みました。どちらかで意味が変わる歌。
みみしひとなってはいますが聾(つんぼ)の字は、一首の中でかなり強いです。
微笑みに微笑み返すという作者さんのやさしい動作が残るように詠んでほしい。


*(選歌のみ)

*コミュニケーションのとれない深刻な場面。寝たきりというところを病気の名前
で出したほうがいいかもしれない。

*「微笑み」が二回使われて、悲しみが深まっています。
言葉以上に深い「微笑み」だと思います。
二つの「微笑み」はそれぞれの心情が込められて胸が痛みます。

*「親子の情」が2つの「微笑み」で見事に表現されていると思いました。音が
なくても表情で温かなコミュニケーションができる。感動的な歌が生まれる。

*「微笑み」が中心に二度、繰り返されているのが素敵です。音や言葉が
なくても、微笑みを交わしあうお二人の心の交流を感じました。

*病床にある人もその人を見舞っている人も微笑んでいるという柔らかい雰囲気を感
じましたが結句で何だか切なくなりました。

*お二人にとって微笑みのやりとりは どんなに多くの言葉よりもしっかりと
心を通いあわせられるものであろう。人に微笑みがあってよかった。

溜め込んでしまう私

2016年11月29日 21時24分07秒 | わたしのこと
今度読者にならせていただいた方は、お若い方である。

なぜ読者にならせていただいたかを書く。

一昨日、私がブログ記事をアップしたあと、リアルタイム解析を見ると、初めて目にするIDの方が訪問くださっていることがわかったので、どんな方か、そのブログを訪問させていただいた。

そうすると、まだお若い、最近、国際結婚された方とわかった。

興味を覚えたので、遡って読ませていただくと、文章が楽しくて、婚家の人たちとのやり取りも面白かったので、読者登録させていただいた。

歳が違いすぎると思わないでもなかったが、感性というか性格に共通点が感じられた。

その人は、昨日は、占いをしてもらったことについて書かれていた。

占いは、私も好きである。その人は、信じすぎてしまうから嫌いと書かれてあったが、ということは、好きということなのだろう。^^

それでその人は、昨日占ってもらった結果、「水商売が向いている」といわれたそうな。

あ、それ、私も若い頃、何度か言われたことがある。

水商売とはぜんぜん関係ない生活をしていたのに、たまに飲み会などに参加したとき、そこのママさんに「私、あなたのこと、すごく興味があるの。水商売に向いていると思う」などと言われてしまったことが何度かある。

「え、なぜ?」と、その頃は思っていたが、何か、そんなオーラを放っていたのだろうか。

それから、その次にその方が占ってくれる人に言われたことは「あなたは敏感な人」だそう。「敏感、繊細、傷つきやすい人」と。

それでもって、傷ついても、ムカついても、我慢我慢で溜め込む性格なのだそう。

わたしも、敏感、繊細はともかくとして、傷つきやすい人間であることは確かだ。

そして、それを溜め込んでしまう。

顔の見えないブログでは、好き勝手なことを書いているが、現実では、結構溜め込んでしまうほうだ。

むかし、義母が結構言いたいことを言う人だったので、言い返せず、ずっと溜め込んでいた。

義母が怖かったということもあった。

が、義母も年取ってきたころに、私は、電話で4時間ぐらい溜め込んでいた怒りを吐き出したことがあった。

義母は、私がそれほども怒りを溜め込んでいたこととは露知らず、翌日、飛んできて、泣いて謝ってくれた。

言いたいように言った人は、その時点で、気持ちを発散しているから忘れている。

が、言われたほうは、言い返せなかった怒りが溜まったままになっている。

これは言いたいことを言った人が悪いとか、言われて言い返せずに怒りを溜め込んだ人が悪いとか、簡単に言える問題ではない。

義母とのことが解決したころに、今度はインターネット上で、きつい言葉を浴びせられたことがある。

悔しかったが、言い返せなかった。古株のその人には取り巻きがいたからということもあった。

その後、私は大腸がんになった。だけでなく、うつ病にもなった。

先日も書いたように、私は子供の頃から親や先生を困らせるようなことは一切しない子であった。 

が、いったん恨むと、われながら呆れるほど執念深くなる。

自分で自分を制御できなくなる。


  愛すれば愛を極めるその心もちて憎めば憎さ極める  biko

  おとなしく優しい子とは言われこししかし恨めば裏の裏まで  biko

シンクロニシティ・・・夫と私の場合

2016年11月28日 10時04分26秒 | わたしのこと
たまたま今朝のマグ2ニュースを見ると、「世界の奇妙なシンクロにティ10選」と題して「世界の偶然の一致」が紹介されていた。

それで、私も夫と結婚するに至った不思議なシンクロニシティを書いてみたい。

私と夫は、私が23歳、夫が27歳のときにお見合いして結婚した。

そのときお見合いの世話をしてくださったのは、亡父と同姓同名の人の奥様であった。

以前から父と同姓同名の人が同じ高知市内にいるということは耳にしていた。

それが何の因果か、その奥様と母の友人が知り合いだった関係で、その奥様の知人の親戚がお嫁さんを探していると聞き及んで、私と夫のお見合いが献立てられた。

確か建国記念日を入れた三連休の2日目だったと思う。

夫は、急に東京に転勤が決まって、急遽、両親の郷里である高知県から結婚相手を探すことになった。

これは夫の希望ではなく、両親、義父のお姉さん達の希望であった。東京で変な虫がつかないようにと。

それで、その三連休は、私とお見合いする前に既に何人かとお見合いしていて、私とのお見合いは最後から2番目であったらしい。

私の前にお見合いした人たちは、みな、良家のお嬢様ばかりで、義母には既に意中の候補者がいたようだった。

が、どういう風の吹き回しか、夫は私のことが気に入って、私の前にお見合いした人は全部断って、私のあとに予定していた人はお見合いすることすら断って、私にデートを申し込んできた。

実は、私は、もうすぐ24歳になる直前の23歳だったので、少し結婚を焦っていた。

それで、夫とお見合いする前の日には、別の人とお見合いしていた。

が、夫の申し込みのほうが早かったので、夫とデートすることになった。

そのデートのあと、今度は私が一度上京してデートして、そのまま婚約という運びになった。

お見合いが2月12日だったと思うが、結婚式は何と2ヵ月後の4月16日であった。

その間、たった2度デートしただけである。

いくらなんでもと今でも思う。

が、その後、四十何年間、別れずに暮らしているのから、相性はよかったのだろう。

そりゃ、喧嘩もしましたし、今もしますが・・・。昨年夏などは離婚騒ぎにまで。(^^)

義母は、別に気に入っていた人がいたから、私を気に入らなかったようだった。だから、

私達の夫婦喧嘩の原因、遠因には、いつも義母のことが絡んでいた。

それで、何がシンクロニシティかというと、夫の伯母さんの一人が、偶然、母の小学校時代の恩師だったのである。

それも特に可愛がってくれていた先生で、母が女学校に合格したときも、母はわざわざ香美市から、その先生の南国市のお宅まで報告に行っているのである。

先生は、母が合格祝いに買ってもらって着けていた腕時計に気づいて、「よかったね」と言ってくれたそう。

その伯母さんの先生時代の写真は、母のアルバムに大切に貼られてある。私は、幼い頃から何度も、その写真を見せられた記憶がある。余談だが、私の娘はその伯母さんに似ているといわれている。

そのときに、先生の、結婚したての弟さん夫婦が実家に戻られていた場面に遭遇している。

その弟夫婦こそ、夫の両親だったのである。

母の恩師の先生は、その後大阪の小学校の先生になられて独身のまま若くして結核で亡くなられている。

立派な先生だったので、大阪城のそばの教育塔に名前が刻まれていると聞いたことがある。

今にして思えば、その伯母さん(先生)が、私達をめぐり合わせてくれたような気がしてならない。

義母は、私が難聴であることで、結婚を反対したらしいのだが、別の夫の伯母さんは、偶然難聴で、私に同情したのか、結婚にあたって、私を強く推してくれたらしい。

義父にはお姉さんが4人いたのであるが、難聴だった伯母さんは4番目のお姉さんで、高知県南国市在住であった。この伯母さんは、結婚してからも帰省するたびに歓待してくれたものだった。

義父の一番上のお姉さんは大阪市内の医院の奥さんであったが、子供がいなかったせいで、季節ごとに私に服を買ってくれたりして、すごくよくしてくださった。

小学校の先生をしていた伯母さんは、義父の3番目のお姉さんであったが、人格者で、上に書いたように、教育塔に名前を刻まれているくらいだ。

夫の伯母さん達が皆私を可愛がってくれたのは、その先生をしていた伯母さんの霊のお陰かもしれない。

私が毎朝仏壇に手を合わすのは、義父母にだけでなく、その先生だった伯母さんにも、である。

話を元に戻すが、それで、結婚の仲人は、お見合いのお世話してくださった亡父と同姓同名だったご夫妻にお願いしたのであるが、結婚の挨拶状にそのことを書かずに送ると、受け取った人たちが、「印刷間違いではないか」とか、「え、お父さんが仲人するの」とか聞いてきたりして、それを説明するのが楽しかったことを思い出す。

それにしても、私のような障碍者をもらってくれて、大切にしてくれた伯母さんたちには感謝してもしつくせない。

  夫には四人の伯母さんをりまして今も感謝の心でゐます  biko

  できのよくないわたくしを受け入れてくださつたこと忘れずゐます  biko

               *

まだありました。^^

義母のお兄さんと私の兄は、比較的珍しい名前であるのに、同じ漢字の同名でありました。

未だに意気軒昂な母は百歳まで生きるかもしれない

2016年11月27日 18時06分10秒 | 家族
昨日、母校の同窓生、くりまんじゅうさんのブログにコメントを残してきたのだが、

そのコメント返しに、

今はまだ母上の頭がしっかりしておられるから強気の発言が
あるでしょうがやがて言うことも変わってきて 皆に好かれる
おばあちゃんになると思いますよ。 


と書いてくださってあった。

そういえば、若い頃はきつくて泣かされた姑だったが、認知症になってからは、とっても可愛い、素直なおばあちゃんになってくれたことを思い出した。

だから、私は、もう姑に対して恨みは残っていない。

一方、私の実家の母が、いまだに私に憎まれ口をきくのは認知症になっていない証しなのかもしれない。

常識的に考えて、かなり変なところはあるけれども、それは昨日、今日始まったことではなく、若いころから、そういう人であったし・・・。

ということから判断して、母は、まだまだ長生きするのかもしれない。

夫が、「お義母さんは百歳まで生きるのと違うか」と言う。

え、それじゃ私のほうが先に死んでしまうかも。

既に兄は、3年前に67歳で亡くなった。

あの健康優良児だった兄が亡くなり、小さいときから病気がちだった私が残されたが、この私まで死んでしまったら、母はどうなるだろう。

兄嫁も甥達も、母のわがままにはうんざりしているから、心配だ。

しかし、母も、どんな扱いをされても、自分の蒔いた種なら仕方あるまい。

母は確かにわがままだが、しかし、働き者だったから、兄も私も、経済的にはずいぶん助けられた。

が、喧嘩しながらも、こんなふうに思えるのは、私が実の娘だからだ。

私まで死んでしまったら、可哀想すぎるではないか。

それにしても、母は、一人息子の兄が亡くなったとき泣かなかった。父が亡くなったときも・・・。

案外、私が死んでも平気かもしれない、と思ったりもするが、どうだろう。

  長男に先立たれても泣かざりし卒寿の母よ幾つまで生く  biko

  私より享年若くなりし父、兄を思へば男は儚(はかな)  biko

  父死にし五十七歳兄死にし六十七歳過ぎてわたしは  biko

  長生きが長寿といはれ大切にされし時代を過ぎてわが母  biko

  されどわが母にありせば長生きをしてほしくあり霜月の星  biko

外向きの夫と内向きの私

2016年11月26日 11時09分41秒 | わたしのこと
昨日は、記事を書き上げたころ、画面が荒れていたので、いったんパソコンをログオフした。

夕食後、記事をアップしようとしたら、書いた記事は消えていた。

で、また書くのは面倒だったので、夕べはテレビを観て寝た。

テレビはテレビで、ゴールデンタイムに観ると、面白いものがある。それで、2時間ほど観たのである。

まあ、ブログ書くのにノルマがあるわけではないが、ランキングが下がると、読みにきてくれる人もいなくなるかと書き続けている。

それに家にばかりいると、ブログでも書いていないと生きている実感も希薄になる。

夫は今日も朝からシニアカレッジに出かけた。

お昼に受講が終わったら、そのまま神戸に行くと。

高校時代の友人と神戸でデートだ。(笑)

夫は中高校時代は勉強ばかりしていたから、デートなどしたこともなかったらしい。

それは、私も同様である。

私は私立の中高一貫の女子校だったから、ボーイフレンドはいなかった。

学校の先生からも親からも、学生の身でデートなどするのは不良というふうに言われて成長した。が、する人は、先生や親の目をかいくぐってしていたみたいだが・・・。

夫など、小学校から私学で、中高校は男女別学だったというから、私と似たような境遇だったわけだ。

で、今日デートする相手の女性(Hさんとする)も、その中高校に通っていた人だから、似たような境遇だ。

そのHさんは、実家が医家だったため、親から医師になれといわれて医学部を受験したらしいのだが、ことごとく落ちて、結局薬剤師になった人だ。余談だが、実家は妹さんが医師になられて継がれたそうだ。

現在は、お連れ合いを亡くされて、シャンソンを唄うことを生きがいにしておられる。

そんな人とデート?(笑)

いや、大丈夫でしょう。二人ともまじめな人だから。^^

夫は社交的な人である。

生まれ育ったのが、ここなので、幼稚園から大学までの友人が近くにいる。

ええ、大学も、ここから一番近い大阪大学に進学したから、近辺に友人が多い。

幼稚園はともかく、小学校から大学までの同窓会、その他によく出かける。

一方の私は、高校までは四国の高知だったし、短大こそ関西だが、卒業後、一部の人としか交流していない。

それだけでなく、難聴が進んだ現在、よほどのことがないと、出かけなくなってしまった。

もともと家にいるのが好きな人なので、別に不自由は感じていない。

これは幼いころからそうだったようで、兄が外でガキ大将だったのと対照的に家で一人遊びをするような子だったようだ。

小学校に通うようになっても、兄は腕白坊主だったので、よく先生に叱られたようだったが、私は、先生に叱られたという記憶がない。

考えてみれば、私は健気なほどの「お利口さん」だった。

結婚してからも、ずっと良妻賢母たらんとしていた。

今思い出しても、自分で自分を褒めてやりたいと思う。(有森裕子か、私は^^)

  外出の好きな夫と家にゐることを好める妻のわたくし  biko

  腕白でありし兄貴と泣かされることはありても優しかりし吾(あ)  biko

  甲斐性はなけれどわれはつつましく生きてきたよと神様に言ふ  biko

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夫に能勢妙見山の紅葉狩りを誘ったが、23日に武田尾の紅葉は散ってしまっていたから、妙見山も散っているだろうと。

能勢妙見山のケーブル、リフトに乗る楽しみは来春までとっておくことに。

行楽地は足元に~逸翁美術館と能勢妙見山のポスター

2016年11月24日 16時19分31秒 | 日記
昨日は京都御苑まで行ったが、往きの電車は立ち詰めだったので、見るともなしに吊り広告を見た。

すると、私の散歩コースである池田市の「逸翁美術館」(左側)と我が家の最寄り駅の川西能勢口駅が始発駅になる「能勢妙見山」(右側)の広告が吊られてあった。

逸翁美術館はともかくとして、私は、能勢妙見山のケーブルとリフトにまだ乗ったことがない。

春の桜が綺麗と聞いているから、桜のシーズンに乗ろうと目論んでいるのだが、毎春、乗りそびれてしまう。

が、昨日見た広告は、妙見山の紅葉を宣伝していた。

そうか、秋に行くという手もあったのか。

一人で行ってもいいが、夫を誘ってみよう。

早く行かないと紅葉が散ってしまうだけでなく、油断をしていると私がリフトに乗ることができなくなってしまうではないか。

リフトに乗れなくなるのは、まだ今日明日ではないかもしれないが、昔、私達が神戸市須磨に住んでいたころ、田舎の祖父母が来て、一緒に須磨のケーブルとリフトに乗ろうとしたが、当時、70歳過ぎくらいだった祖母がリフトを怖がって結局乗らずじまいだった。

その年齢は、私にもすぐ来そうだ。

遠くの行楽地もいいけれど、まずは近くの行楽地を制覇しておかなければと吊り広告を見て思った。

  能勢口に住んでゐながら能勢妙見ケーブル、リフトにまだ乗りしことなし  biko

昨日は、たくさん歩けてよかったと思っておりましたが、夜中にふくらはぎが筋肉痛に

2016年11月24日 06時44分54秒 | わたしのこと
タイトルにしたように、昨日は日ごろの運動不足の解消ができたと喜んでいたのでしたが、夜中に脹脛(ふくらはぎ)に筋肉痛が起こり、トホホでした。

毎日コンスタントに歩いておれば、こんなことにはならないのでしょうが・・・。(^^;

で、今日は、また家にこもります。

でも、昨日は、「たくさんの人に会うのも悪くないな」と思えた一日でした。

ええ、聞こえが悪いから人様にもご迷惑をかけますし、自分も疲れるのですが、やはりたまには人中に入るのも大事ですね。(^^)

うつ病になってからは、ずいぶん長い間、短歌の人たちにも会っていなかったのでしたが、その間、私が太ったこともあり、昨日は私と気づかない人もいらっしゃいました。

私は浦島花子かと。(笑)

  たくさんの短歌の友に会ひし昨日(きぞ)赤いセーター着たわたくしは  biko

京都御所へ吟行に~が、往きも帰りも立ち詰めで疲れました

2016年11月23日 23時16分50秒 | お出かけ
夫が朝からシニアカレッジの行事で武田尾の廃線を歩くと行って出かけたので、私も、申し込みはしていなかったが、短歌の吟行に京都御所に出かけることにした。

午前11時に「塔」(私の所属する短歌結社)事務所集合だったが、既に10時を過ぎていた。

川西から京都までは1時間かかる。だから、吟行会場の京都御所まで直行することに。

↑まずは、チケット屋さんで休日割引の切符を2枚ゲットしてから阪急電車に。

こうしておくと、帰りに混んだ切符売り場で切符を買う手間が省ける。

案の定、行楽のシーズンの今日は、往きも帰りも電車は満員で立ち詰めだった。

往きは阪急「四条烏丸」で降りて、地下鉄に乗り換えて、「烏丸丸太町」で降りる。


地下鉄「烏丸丸太町」駅を出れば、2分も歩かずに御所、もとい御苑に着く。
(実は、私が御所と思っていた場所は御苑だということに今日気づいた(恥)


と言っても、御苑の入り口はいくつもある。↑上の入り口は、御苑の南東の入り口だ。

入ったところに地図があったので、撮影。↓


↓単純化されたこちらの地図のほうがわかりやすいかもしれない。


少し歩くと、10月桜ならぬ11月桜が咲いていた。


  さむざむと霜月の今日咲きてゐる桜京都の御所の御苑に  biko

何の木かしらないが、きれいに黄葉していたので撮影。


  何の木か知らねど金の葉を広げ初冬昼の御苑光らす  biko

↓この木のそばに寄ると、「桃林」と書かれてあった。


  桃林(たうりん)と書かれて金の羽かかぐ木も見ゆ桃の木いづこ  biko

↓ここからは、中に入れない<御所>。


  少なくもなけれど多くもなき人出けふ京都御所御苑は静か  biko

ここで回れ右して、もと来た方向に向いて歩く。

↑この広い道を何と呼ぶのだろう?

↓黄葉ばかりだったが、やっと紅葉に出会った。


↓さっきの広い道は突き当たりが池のある公園になっていた。池にかかっている橋から撮影。


これは何の葉?


↓橋を渡って、反対側から撮影。


↓大きな木々に囲まれた庭園公園になっている。


↓堺門から御所を出る。


↓堺門を出たところにある「柳馬場通り」と書かれた信号を渡る。


↓柳馬場通りを少し歩けば、「塔」事務所のある「碇」というビルが。

「塔」のこの事務所ができて久しいが、ずっと鬱病だった私は今日初めてきた

私は昼食をどうすればいいか聞いていなかったので、簡単なお弁当を持参していた。


昼食後、歌会がもたれたが、私の歌は御所を詠んだものではなく、御苑を詠んだものであった。(赤面)

  権力は広さと同義ひろびろと砂利しきつめる大宮あるく  biko

という歌を出したが、「同義」が硬すぎると評されたから、次のように改める。

  権力は広さであれば広々と砂利しきつめる大宮あるく  biko

いずれにしても、あまりいい歌ではない。(汗)

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ところで、帰宅してパソコンを開けてみると、毎日gooブログから届く、「昨年の今日の記事のお知らせ」に、昨年の今日も京都に行っていたことが判明。

紅葉の京都~京都国立博物館で琳派を鑑賞~でも人が多すぎて

去年と比べると、せめて今日は人ごみに悩まされずに済んだと喜ぶことにしよう。

今日は朝からテレビに釘付けに

2016年11月22日 17時02分25秒 | 日記
ふだんは、夜中の4時、5時ごろから起きている私だが、昨夜は、夕食後ソファで眠ってしまって、夜中の2時ごろまで起きていたせいで、それから二度寝して次に起きたのが午前6時。

いつもの習慣で、すぐにテレビをつけた。

すると、大きな地震があったようで、ひらがなの赤字で「つなみ、にげて」と出ているではないか。

「え、どこが?」と寝ぼけ眼で画面を見ると、「福島」とある。

「え、また」と、そのままテレビに釘付けになった。

そのまま、午前中、テレビをつけっぱなしにしてしまった。

これだけの大きなニュースになっているのだから、だんだんと詳報が入るだろうと、目が離せなかったのだ。

私は阪神大震災の時は大阪のマンション住まいだったけれども、最上階だったせいで、実際の震度より揺れた恐怖体験がある。そのときも、

すぐにテレビをつけたが、ニュースでは「何人か怪我をした」という程度のものだった。

「え~、あれだけ揺れたのに?」と拍子抜けしたが、その後、続々と、「高速道路が倒れました」などという深刻なニュースに変わっていった。

だから今日もだんだん深刻なニュースに変わっていくのだろうと心配していたのだったが、今回のは竜頭蛇尾であった。

が、まだまだ油断はならない。

今日の地震をきっかけにして、また大きい地震がくるかもしれないし、シーソーゲームのように、全く違う場所で地震が起こるかもしれないから。

  朝起きてテレビをつけて驚きてそのまま半日はらはらと見き  biko

  報道の仕方も変はりひらがなで喚起をさるる「つなみにげよ」と  biko

くりまんじゅうさんの「モロッコ紀行」を読ませてもらって

2016年11月21日 03時03分52秒 | ブログについて
数日前から、くりまんじゅうさんのブログに「モロッコ紀行」とタイトルがついているのが気になっていた。

が、なかなか読みに行く勇気が湧かなかった。ものすごく読みたくはあったけれども・・・。

私は、今年の9月に10年パスポートが切れたところだ。

今年の2月に台湾に行ったのが最後になった。

もちろんパスポートの申請をすれば、また海外旅行はできる。

が、それほど行きたくもなくなった。

特に暑いところに行くのが苦手だ。

平成13年4月にタイに行ったときは、あまりの暑さに、楽しむより夫に不満ばかり言いながらの道中になった。

実際、あまりの暑さに倒れそうになった。

だから、くりまんじゅうさんの「モロッコ紀行」は、見せていただきたくもあり、見せていただきたくもないという複雑な心境だった。

が、見せていただいてよかった。

くりまんじゅうさんは、私の高校の2年後輩である。

母校を同じくしているということと、年齢も近いので、以前から親近感をもってブログを読ませていただいている。

今回も、年代の近い人が行ってこられたということで、感情移入しながら読ませていただくことができた。

くりまんじゅうさんの旅行記は、写真もすばらしいし、構成もすばらしい。

そのせいで、コメントもいっぱいついている。さすがだ。

私は、一生行くことはできないと思うが、しかし、50歳ごろに母に連れられて行ったスペインのアンダルシア地方の風景も思い出しながら、想像をたくましくしながら読ませてもらった。

羨ましいけれども、私には、もう無理だなあとも思いながら・・・。

くりまんじゅうさん、同窓のよしみで、勝手にリンク張ったことをお許しください。

私の旅行記ではないけれども、同年輩の人には読み応えがあると思うから、皆さん、お読みください。

  パスポート切れて申請予定なし以後は他人の紀行文にて  biko

  赤道に近き国々死後行かむ死にて暑さに苦しまされずに  biko

(独り言)
私のガラケーでは写真もお粗末なのしかアップできないから、万一行ったとしても、くりまんじゅうさんのような素敵な旅行記はお見せすることができないなぁ。

素でいる心地よさ

2016年11月20日 05時21分02秒 | わたしのこと
早朝に、てまりさんのブログを読ませてもらっていると、おもしろいことを書かれてあったので、まねして書いてみる。

私も、最近は、さっぱりおしゃれをしなくなった。

お化粧は、ほとんどしなくなったし、服は外出のときも普段着のような楽な服ばかりだ。

靴も、もちろん歩きやすい靴。

姑が認知症になって、デイサービスに行くようになっても、お化粧を忘れなかったことと比べれば雲泥の差だ。

姑は、認知症になってからも、デパートで洋服を買ってくることがあった。

今思い出せば、あっぱれなものだったと思う。^^

私の母も、今でも外出のときはお化粧する。当年91歳のお婆さんなのに・・・。

どちらも、若いころから美人の誉れ高かったから、年取っても、急にはランクが落とせなかったのだろう。

その点、もともと美人でも何でもない私は、楽だ。

身を飾らなくてよくなれば、心も素のままでいられる。

自分が素のままでいると、人の無理も見えてくる。

いいことだらけなのだ。

これは、大病をして、悟った境地なのかもしれない。

大病で入院して下の世話もしてもらわなければならない境遇になれば、身をとりつくったりはできないから。

時間に対する感覚も変わった。

病気するまでは、いつも忙しくしていなければという強迫観念があった。

が、病院で寝たきりを余儀なくされたら、あくせくして何になるという心境にいたる。

私は、その後、うつ病にもなって、人生観も変わった。

このまま死ぬまで素のままでいたいと思う。

人は、素のままでいれば、他人と比較することもなくなって、人を貶めたりすることもなくなるのではないかと思うが、どうだろう?

  素のままでゐれば素敵な毎日が訪れてきて空が明るむ  biko

ブロ友は同年輩の人がいいようだ

2016年11月19日 12時48分19秒 | ブログについて
毎日、さまざまなブログを読ませていただく。

面白いと思うブログは、若い人のに多いが、共感できるのは、同世代の人のが多い。

ところで、皆さんは、ブロ友さんは、やはり同世代の人が多いですか?

あるいは、年代は関係なく、感性の似通った人、同じ趣味の人をブロ友にされますか?

私は同年輩の人のブログを読ませてもらうことが多いけれども、国際結婚をされた方のブログは若い人のが多い。

というより、私と同年輩で国際結婚をしている人のブログは、まだ発見できていない。

昔も国際結婚はあったと思うのだが、今と比べると微々たるものだったのだろう。

国際結婚した人のブログは、観光で観るだけの異国でない、実際の異国の生活が覗われるのが面白い。

私の子供世代の人のブログであることが多いから、彼らが義両親のことを書く部分は、特に興味をそそられる。

なぜなら、その義両親さんたちこそ、私と同年代であることが多いから。

外国であるから、生活習慣は違うが、しかし、外国であっても、同年代の人というのは理解しやすい。

ブログは読ませていただくことも面白いが、それ以上に面白いのが自らの発信だ。

聴覚に障害のある私に、パソコンが、ブログがあってよかったとつくづく思う。

とあるメーリングリストでは死ぬほど嫌な目にも遭ったが、しかし、ブログの存在が私を救ってくれた。

死なずに生きていてよかったと思う。

  楽しみは日々パソコンの蓋を開け読ませてもらふブログあれこれ  biko

  パソコンのキー叩きつつブログなる日記に文章つづるも楽し  biko

  今の世に生(あ)れし幸運とも思ふブログに拙き文章つづり  biko

  家にゐて三度のご飯食べるより楽しきかなやブログ書くのは  biko

要約筆記ボランティア講座を見学してきました

2016年11月18日 15時20分16秒 | 聴覚障害
今日の午前中は、川西市主催の要約筆記ボランティア講座を見学してきました。

前回は、聴覚障害者の体験談を聞かせてもらったのでしたが、今日は、聴覚障害者にボランティアで要約筆記をしてくださる人の体験談でした。

まず最初に、聴覚障害についての説明がありました。一口に聴覚障害といっても、さまざまな種類の、段階の聴覚障害があるわけです。

一つ目は、聴覚障害の種類。大きく分けて2種類あり、プラス混合型もあります。

中耳炎などで、主に、耳の音を伝える部分に支障のある聴覚障害。これを伝音性聴覚障害といいます。

もう一つは外から検査したところはどこも悪いところがなくて、もっぱら聴神経に問題のあるタイプ。老人性難聴などは、この部類に入ります。

それと平行して聴力のレベルでの分け方もあります。それはデジベルという単位で表示されます。

数値が大きくなるにしたがって失われた聴力が大きいということになります。

・80デジベルで、目覚まし時計の音が聞こえる。

・100デジベルで、地下鉄の通過音が聞こえる。

・120デジベルで、飛行機の爆音が聞こえる。

というふうに説明がありました。

私は、現在両耳とも、だいたい80デジベルくらいですから、高度難聴になります。

100デジベルになると、聾といわれるレベルになります。

一般的に、伝音性の難聴には補聴器が有効なのですが、聴神経に問題のある感音性難聴には補聴器が役に立たないケースが多いようです。

私のは、補聴器では聞き取りにくい種類の感音性難聴です。

とはいっても、両耳に補聴器をつけていれば、近くにいる人の話の半分くらいは何とか聞き取れます。半分聞き取ったら、あとは推測です。

補聴器には、大きくわけて、耳穴式、耳かけ式、箱型補聴器があります。

現在、主流なのは耳穴式補聴器のようです。箱型補聴器は身に着けるのが大変なので、ほとんどなくなったようです。

ちなみに、私は耳かけ式補聴器を両耳に使用しています。

と、受講者の方々に、聴覚障害者の実情の説明が一渡りあって、

その後、要約筆記をするときの心構えのような講義がありました。

心構えとして、健聴者の要約筆記者が、聴覚障害者に、「要約筆記をしてあげます」という態度はよろしくなくて、「私は、あなたとお話をしたいです」という気持ちでするのが肝要だと。

これには、現在受講していられる方が、

「耳の悪いことは外部からはわからないから、どのように対応するかが、このサマリー(川西市要約筆記ボランティア)の講座を受講するまでわからなかった」

と感想を述べられた

それに対して、講義をされたサマリーの方は、

「筆談には壁がある。してあげたいと思っても、してあげるのが失礼にならないかという遠慮がある。してほしいほうは、頼んでよいのかためらう」

というようなお話だったと思うが、メモを取らなかったので、正確かどうか心元ない。

その後、休憩時間があって、


10分の休憩のあとは、皆で伝言ゲームを楽しんだ。

これは、昔あったNHKのジェスチャーゲームのようなもので、回答者だけに答が教えられなくて、質問をしながら答えを探っていく。同じチームの人が、いかに上手くヒントが出せるかが勝負どころになる。時間制限があるから、決められた時間内で、そのチームがいくつ回答できるかを競うゲームだ。無言で、紙に書いていくゲームなので、聴覚障害者も健聴者も一緒になって楽しめた。

本来は、健聴者の、要約筆記のボランティアを目指す方々が受ける講座だが、こうして聴かせていただくと、私達聴覚障碍者も、いろいろ勉強になる。

要約筆記をしていただく道具を百均でそろえるアイディアも指南していただけた。

①まず、百均で、ファイルを購入。
             
②各ページに白い紙を挿入しておく。

③それにホワイトボード用のサインペンで書いてもらえば、20枚から40枚分の要約筆記をしてもらうページを作ることができる。


安価で、持ち運びが軽いので、すぐにでも役に立つアイディアだ。

  ボランティア目指しておられる皆さんの講座に学ぶアイディアあまた  biko

  眼に見えぬ聴覚障害を理解してくださる人はありがたきかな  biko

空き家になって一年半のご近所のお家

2016年11月17日 10時58分59秒 | 近所
昨年2月に亡くなられて、その後空き家になったままの家が近所にある。

生前、主の女性は、「日本ライフ協会に登録してあります」と言われていたのだが、夫によると、日本ライフ協会は破綻したのだそうだ。

それで、ずっとそのままになっている。

主の女性が生きておられる間は、毎年、秋になると植木屋さんが来て、表も裏も綺麗に手入れされていたのだったが、現在は、荒れ放題になっている。

この夏は、上の写真の右側に写っている山茶花の木が枯れかけて、その木に外来種の、刺されたら危険な虫が湧いて、市役所の人が「近寄ると危険」という張り紙を塀に張って帰られた。

たぶん、この家のお向かいの人が市役所に連絡したのだろう。

忙しい市役所の人が、わざわざこんな路地にまで来て調べることはないだろうから。

玄関横には白椿の木が植えられていて、そのそばに植えられてある赤椿の花と一対の妙を見せていたが、この夏の暑さで、白椿の木が枯れかけた。

「ああ、こんなことになるのだったら、夏の間、毎日バケツで水を運んで水遣りしてあげればよかった」と残念に思っていたのだったが、最近、また緑の葉っぱがちらほら復活してきている。↓

元気を取り戻して、また来春咲いてくれるといいのだが・・・。


というふうに、この家は全くの空き家だが、そのお隣は、大阪大学の教授をされていた立派な先生のお宅だったが、息子さんが三人もいるにも関わらず、誰も住まないため、やはり空き家になっている。

が、全くの空き家ではなく、週に一度くらい、息子さんのうちの一人か、その息子さん(教授だった方の孫)家族が来て泊まられている。

だから、家の前の溝掃除などもなさるが、今日写真に写した家は、全く誰も来ることがないから、溝などには草が生えたままだし、枯れ葉が溜まったりしている。

それで、今日がゴミの日だったから、ちりとりと箒を持っていって、溝の掃除をしてきた。

本当は、塀の中に溜まっている枯れ葉のお掃除もしてあげたいのだが、空き家とはいっても、家宅侵入になるかもしれないから、できない。

この家の主の女性は、肺がんの再発で入院することになったとき、「心配してもらうのがいやだから、親戚にも友達にも秘密にしている」と言われていた。

亡くなったあと、この方の従姉妹という方が一度来られたらしいのだが、以後、何も動きがない。

将来、どうなるのだろう?と思いながら、赤の他人の私達は眺めているしかない。

そうそう、我が家のお向かいも、嫁いだ娘さんが週に一度泊まりに来られるが、普段は留守家である。

持ち主は鳥取県で会社をしておられて、以前は時々帰ってこられていたが、最近は、「用事もないし、体もしんどくなってきたから、よう帰らない」といわれる。

娘さんは帰ってこられても、自分の部屋で読書するだけなので、夫が頼まれて、庭の草引きとか、お家の前の溝掃除をしてあげている。

昨年は、これも頼まれて家の中の不用品をゴミに出したり障子を張り替えてあげたりもしていた。お礼に鳥取の柿をいっぱい送ってきてくださったが・・・。

  八軒のうちの三軒空き家なり駅から五分の好立地なれど  biko