神鳴り(アメジストネックレス)

難聴ゆえに家居の好きな主婦です。過去、心臓弁膜症、大腸がんの手術を受けました。趣味は短歌です

お節料理

2014年12月31日 15時02分11秒 | 日記
今日は朝からおせち料理にかかりきりです。↑まず黒豆

    ↓酢牛蒡  


    ↓ロールキャベツ

毎年、夜はスキヤキをしていたのですが、ロールキャベツだと脳性麻痺の孫も食べられるかなと変えてみました。昨日、おでんもたくさん作っておきました。

 黒豆を煮ながらロールキャベツの具こねをりこれもお節にせむと biko

↓お節料理のお品書きを書いてみました^^                


これから買い物に行って、毎年煮しめの代わりに作る筑前煮用の鶏もも肉と年越し用のうどんを買って来ます。

  年越しのうどんと寿司を買ふてきてこの年越さむと食らふわれらは biko

子供達は明後日来る予定なので、筑前煮は明日作ります。

今夜は、夜なべ仕事にごまめ、かずのこ、栗きんとんを作ります。

それでは、皆々様もよいお年を。

正月の設え後、美容院へ

2014年12月30日 14時38分25秒 | 日記
今日は、朝一番に、お正月に皆が集まれるように、和室に絨毯を敷いて机を並べた。

我が家は2階屋根裏が広い納戸になっており、普段使わないものは全てその屋根裏納戸に置いてある。

だから、人が集まるときは、あらかじめ準備をする必要がある。

われわれもだんだん老いてきて、若い人ならすぐにできることができなくなりつつあるので、今日から準備をしておいたという次第。

客間の和室は6畳と4,5畳の続き間になっているが、今年は娘一家が帰省しないので、6畳間だけ使うように設えた。



玄関の突き当たりには、”道の駅いながわ”で買ってきた松と名前は分からないが紅葉、黄葉した葉っぱを飾った。

  何の葉か聞かず買ひにしもみぢばが師走の廊下の奥に置かるる  biko

その後、私は美容院に行った。

先週から行こうとしていたのだが、気がついたら夕方になっていたり、腰が痛くなったりして、行くことができなかったから。

美容師さんに頭を預けて洗髪してもらうのは、いつもながら気持ちよかった。美容院は行くまでは面倒に思えるが、行くと気持ちよくなれる。

  指圧するやうに頭は洗はれて今年(こぞ)の煩悩消えさる歳暮(さいぼ)  biko

川西池田駅前のイルミネーション&コンビニ閉店

2014年12月29日 19時28分26秒 | 日記
市の広報に川西池田駅前のイルミネーションが綺麗だと書かれていたので、わざわざ撮影してきた。

私は、ケイタイで写すので、鮮明な写真が撮れない。

かといって、操作の難しいカメラを持っても、技量がないから同じことになりそうだから、これはこれで。

川西は、阪急電車の駅前はにぎやかだが、JRのほうは乗降客が多いわりには駅前が殺風景だ。

が、イルミネーションを飾った場合は、この殺風景が逆に利点になる。

星空を都会で見るより田舎で見るほうが綺麗に見えるのと同じ理屈だ。


  駅前の暗さに暮れの駅前のイルミネーション生き生きとせり  biko

それで、その殺風景な駅前から、寂しい道を帰途についていると、阪急川西能勢口の南側の交差点にあるデイリーヤマザキに「12月末をもって閉店します」という張り紙が張られてあった。

ああ、やっぱり!

道路を隔てた角に、今年の春くらいにローソンができたから、大丈夫かなぁと心配していたのだ。

バブルの頃までは、コンビニも、どんどん増えて、すぐ近くに新しい店ができても、並存できていたが、この人口の減って元気のなくなってきている現在の日本では新しい店ができると既存店がつぶれるという図式が避けられなくなった。

さびしい!

デイリーヤマザキの入っているビルは、2階以上は飲食店が数店舗入居している。

1階のこのコンビニの灯が消えたら、それら飲食店にも影響があるだろう。

何か済し崩し的な日本の滅びを見ているような気がするといったら言いすぎだろうか。

  減ることはありても増ゆることのなきコンビニの数かぞへてゐたり  biko

ドゥリムトン(亀岡市)

2014年12月28日 11時44分58秒 | 旅行
                 ↑ドゥリムトンの看板

                テレビで、亀岡市にイギリスを模した村が
                できていると放映していたので、
                朝、”道の駅いながわ”にお正月のものを
                買いに行った帰りに回ってみた。

↓入り口から、そのイギリス村を撮影


↓こんな感じ


↓展示されていた旧きイギリスの洋服


↓ここは雑貨店であるらしい


 イギリスの湖水地方の家々みたいと言って
 いる人がいたが、私はイギリスの湖水地方
↓には行ったことがないから分からない


↓帰る前、駐車場から


今日は、曇りだったので、イギリスらしい
お天気だったといえるかもしれない。

  イギリスを模して作りしドゥリムトン訪(と)へばどんより曇り空なる  biko

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それにしても、また野菜をあれこれ買って
しまったから、使いきれるかどうか。

”道の駅いながわ”の品物は土地のものが
メーンで、新鮮で安い。

朝早く行かないと売り切れになる。

だから行った時は、つい買い込んでしまう。

卵も、20個600円の地鶏の卵を買った。

今日は荷物を持ってくれる人がいて助かった!

  たまごかけごはんにせむと地卵をたくさん買ひて帰る歳晩  biko

年賀状を出してきました

2014年12月27日 13時42分15秒 | 日記
痛む腰をなだめなだめしながら、さきほど年賀状を投函してきました。

と、いっても、夫の分です。

一応、私の名前も連名にしてもらっているのですが、私個人の分は、基本的に年内には出しません。

元旦にいただいた方々にお出しするだけです。

そのため、お正月の集まりは、毎年二日にしています。一日は年賀状を書かなければならないから。

このやり方は、子育てに忙しかったころから始めました。

こういうやり方をしていると、年々私宛ての年賀状は減ってきます。というか減ってきていました。

しかし、短歌を始めてから、また増えてきました。

短歌をなさる方々は筆まめな方が多くて、こちらからはお出ししていないのに、くださる方が多いのです。

こちらからお出ししてないのに先生からいただいたりすると恐縮しますが、この流儀を守って、私から前年にお出しすることはありません。

ただ例外はあって、以前参加していた新聞社のメーリングリストで知り合った方で、夫も知っている方には、こちらからお出ししています。メーリングリストは退会したけれども、お付き合いしていたい方なので・・・。

で、出してきた年賀状は、昨夜、夫が下書きして、私が手直しさせてもらって、それを、今朝一番に印刷したものでした。

今朝といっても、夫は真夜中の2時とか3時から仕事を始めていたから、昨夜の続きのようなものです。

それでは私の夫は、いったいいつ眠っているのかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、よく居眠りをします。

昼食が終わったら、ソファで30分くらいうとうとしたり、夜は夕食が終わったら、テレビを見ながら、5,6時間寝てしまうこともあります。

そんなときは、もうベッドに入ることなく、朝の2時、3時から、そのまま仕事を始めるのです。

あ、年賀状のことから話が脱線してしまいました。

  明けぬまま明けましてなどと書く賀状書き上げいよよ今年も暮るる  biko、

腰痛

2014年12月26日 19時42分23秒 | 日記
昨日、2回に分けてではあったが、2リットルペットボトルを計4本、1キロ入りパック餅を計3個などを運んだせいか、今朝起きたときに少し腰が痛かった。

しかし、今日は野菜を買う予定をしていたので、朝早く近くの青空市に行って、白菜とか大根、金時人参、みかんとか買って帰った。

それだけにしておけばよかったのに、天気がよかったので、夫の布団を干した。

もうかなり痛くなっていたが、腰をかがめながら昼食の支度をした。

痛みをとろうと昼食後ソファで横になっていたが、雲行きが怪しくなってきたので2階に上がった。

布団の取り込みは夫に頼もうと夫の仕事部屋を覗くと、夫は仕事に熱中している模様。

布団は、腰に響かないように、そろそろ取り込んだ。

その後、午後4時ごろまでは横になっていた。

普段の私ならこのまま家にいるのだが、年末なので髪のことも気になり、ヘヤーカラー専門の美容院にいくことにした。そのついでに図書館に予約してあった本も受け取ってこようと、そろそろ歩いた。

ところが、図書館は、蔵書整理とかで不定期のお休みだった。

仕方なく美容院に回ると、5時を5分ほど過ぎただけだったのに、受付は5時まででしたと断られてしまった。

ようやっとの思いでスーパーでお惣菜を買って帰って、ついに動けなくなってしまった。

整骨院にいこうかと迷ったが、とりあえず、以前膝痛を起こした時に整形外科でもらった湿布薬を探して貼った。が、こんなもので治るだろうか?

  引きこもり主婦なるわれは引きこもり主婦らしくせよ暮れも正月(しよがつ)も  biko

暮れの買い物

2014年12月25日 19時42分21秒 | 日記
                ↑一昨日、長男の家からの帰途、
                 琵琶湖畔にある「鮎家」で
                 買い求めたもの

最近は元旦からスーパーが開いているから買い込むことはないのに、昔からの習性で暮れには、ついたくさん買いすぎてしまう。

昨日は、数の子、ごまめ、パック餅、ペットボトルのお茶、ジュースなどを買ってきた。

栗きんとん用のさつまいもや栗の甘露煮、黒豆などは、もっと前から買ってある。

私が日常行くスーパーは高架された駅の真下なので、自転車で行くと離れた駐輪場に停めないといけないので、それが面倒で、最近は歩いていくことが多い。

歩いていくのは運動にもなっていいのだが、重いものを買ったときに持ち重りして難儀する。

昨日は2回に分けて行った。

私は車の運転ができないから、郊外の大型スーパーには行けない。行きたいときは、夫に応援を求めなっければならないから、めったに行くことはない。

しかし、これから野菜とかの買出しは、夫に応援を頼むかもしれない。

駅下のスーパーは、肉も魚も新鮮で、品質もいいのだが、野菜がやたら高い。品物はよいのだが、果物も高い。

来年は、実家の母も来ないし、長女一家は孫が受験で来ない。

来てくれるのは、長男一家と次男だけということになる。それじゃ、寂しいから、次男に彼女も連れておいでと言ってある。

彼女が来てくれるかどうかは未定だが、来てくれるとなると少しは頑張らなければならない。何しろ初めての来訪になるのだから。

が、実際、最近の私は、それほど頑張れない。

日ごろ怠けているせいか、それとも、やはり歳のせいか。

よく義母が言っていた。50歳から60歳まではまだ頑張れるが、60歳を越えると無理ができなくなると。

義母は92歳で亡くなったから、晩年は、60代もまだ若かったと思ったかもしれないが、最後は認知症になってしまったから、それを確かめることはできなかった。

元旦に店が開くのに何ゆゑにあれもこれもと暮れに買ひ込む  biko、

ブログについて

2014年12月24日 21時03分31秒 | ブログについて
さきほど、いつも読ませていただいている方のブログを読ませていただきました。

ブログって、ネットって、怖いところがありますよね。

その方は、誹謗中傷されたと書かれていますが、でも、実際は、そうではなかったかもしれませんし、おっしゃるとおり、図星であったかもしれません。

難聴の私は、こうしてネットに繋がるようになって、特に恩恵が大きいのですが、でも、それ以上に怖い目にあったから、功罪相半ばかなと思っています。

ブログって、感性の似た人同士の場合は、どうってことないのですが、違う場合に問題が生じるのですね。

人間である以上、好き嫌いもありますし、境遇も人それぞれです。

誹謗中傷された方を直接お慰めすることはできないのですが、あまり気になさらないでいただきたいなと思います。これは自戒を込めて、です。

私も、いっときは、鬱薬のお世話になるほどのダメージを受けましたが、たかがネット、でも、自分のことになると、そう思えないのが人間ですね。

私は、私にダメージを与えた人のことを、今も恨んでいますし、忘れることができないでいるのですが、でも、ひょっとすると、それほど悪意があったわけでもなかったかもしれません。

もし、そうだったとしたら、死にそうなほど苦しむのは、自分で自分の首を絞めていたということになりますね。

きれいごとばかり書いていれば、揚げ足をとられることもないかもしれませんが、それじゃ、何のためのブログかとも思うところもあって、むずかしいですね。

聴覚障害のある私には、普通の人以上にネットは大切な交流手段です。それだけに、気をつけなければと思います。

クリスマス会

2014年12月24日 07時46分57秒 | 家族
               ↑近江八幡市にあるバームクーヘンで
                有名なクラブハリエ
                買ったクリスマスケーキ

昨日は、小雨降る多賀大社に参拝したあと、近江八幡市にある長男の家でクリスマス会をした。

長男の家につくころには、雨はすっかり上がっていた。

長男の娘は脳性麻痺で生れたから、7歳になっても首も据わらず、歩くことはおろか、座ることもできない。ほとんど寝たきりである。

が、感情は人並み以上にあるから、表情豊かである。

↓ケーキを見て嬉しくてたまらない孫


お話をすることのできない孫とは、
私が話しかけて孫が表情で応える
コミュニケーションになる。

人は「可哀相な子」と思われるかもしれないが、両親(長男夫婦)に溺愛されている孫は、幸せな子である。

  クリスマスケーキに笑(ゑ)まふ女孫(めまご)かな大きなお目目を小(ち)さく細めて 

                biko

多賀大社

2014年12月23日 11時02分06秒 | 旅行
今日は、長男の家に行く前に遠回りして、小雨降るなかを、滋賀県は犬上町多賀町にある多賀大社に行ってきた。

多賀大社に行きたいと思ったのは図書館で借りてきた『アワ歌で元気になる』を読んだからである。

おおまかなことを書けば、6000年ほど昔は日本の都が現在の宮城県多賀城にあったそうだ。

それが、だんだん地球の寒冷期に入り、東北の多賀城が琵琶湖畔に移されて、現在の多賀大社になったらしい。名称的に、十分納得のできる話である。

多賀大社は、いざなぎ、いざなみを祀った社なので、伊勢神宮の天照大神の親神様ということになる。

だから、正しい参拝の順番は、まず多賀大社、それから、伊勢神宮ということになる。

そのため、近江鉄道には、多賀大社から伊勢神宮に鉄路を繋ぐ計画があったらしい。

(われわれは多賀大社裏の駐車場に車を停めてから境内に入ったため、神社の森にあったお稲荷さんから先に撮影したのが上の写真である)

↓これが多賀大社


↓バックして写した多賀大社の大鳥井


↓また鳥井をくぐって、駐車場に戻る 
 途中にあった「寿命石」の説明文。


↓「寿命石」と書かれた石碑


↓これが「寿命石」であるらしい。
 その上には細かい文字の書かれた
 小石がたくさん置かれてあった。


  小雨ふる近江の国の多賀大社たまこのことをひたに頼めり  biko

難聴の悲しみ

2014年12月23日 04時04分38秒 | 聴覚障害
今日は、朝から長男のところに行く予定であるので、まだ夜中だが、書いておく。

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ブックマークさせていただいている聴覚障害の方のブログに、「聾の人は同情されるのに、難聴者は、なぜ笑いの対象にされるか」ということが書かれてあった。

それは、私も実感することである。

思うに、それは、われわれが聞き間違いをするからだと思う。

私のような感音性の難聴は、音は聞こえていても、言葉の聴き取りに問題がある。

まったく聞こえないわけではないから、推測しながら聞くことになる。

それが問題なのだ。

特に子音を聞き間違うから、まったく違う言葉に聞こえてしまうことがある。

それで、頓珍漢な返答をしたり、頓珍漢なリアクションをしてしまうときがある。

それが笑いをとってしまうのだ。

逆の立場であれば、私も笑ってしまうと思う。

だから、笑う人を非難することはできない。

しかし、笑われたほうは、とても傷つく。

笑いをとろうとして笑われたのなら笑われたことを喜べばいいのだが、真面目な返答や真面目なリアクションを笑われたら、自分自身は真面目に対応しているつもりなので、ひどく傷つくのだ。

一方、聾の人は、聾の人なりの苦労がいっぱいあることは分かっているが、それでも、全然聞こえないから難聴のわれわれのような頓珍漢なリアクションをする恐れはない。

だから、全然聞こえない悲しみは、それはそれで、筆舌に尽くしがたいものであろうが、われわれのように馬鹿にされて笑われることは少ないと思う。

それと、健聴者も、全く聞こえない人を笑うことは人倫にもとるということは思うだろう。

だから、聴覚障害者というのは、聾の人には聾としての悲しみがあり、難聴者には難聴者の悲しみが、それぞれにあるのだ。

同情してほしいとまでは言わないが、理解はしてほしいと思う。

  聞き違ひ頓珍漢に応ふればどつと笑ひのどよめきは湧く  biko

母校

2014年12月22日 11時56分45秒 | 思い出
私の卒業した中・高校は、一応進学校ではあったが、決してレベルの高い学校ではなかった。

しかし、私が母校に感謝していることは、当時の校長先生が私達生徒に女性としての誇りを植えつけてくれたこと、だ。

私は、母校に在学中も誇りをもって在学していたし、卒業してからもずっと母校に対する誇りは持ち続けている。

私は、その母校には、中学2年のときに編入させてもらった。

それまで香川県の高松市の公立中学校に通っていたが、その学校では先生の体罰が日常茶飯事であった。

私は、こうみえて(どんなに見えて?笑)おとなしく、よい子であったから、体罰を受けたことは一度もないが、それだけに、同級生(主に男子)が、毎日のように、体罰を受ける場面を見るのが恐怖であり、苦痛であった。

朝から胃が痛くて、学校に行きたくなくて、今から思えば、登校拒否になりかけていたのかもしれない。

それが、中学2年のとき、当時兄は親戚に下宿して高知市内の進学校に通っていたが、いまひとつ成績が振るわなかったので、父一人を高松市に残して、母と私は高知に帰ったのだった。

途中編入だったので、受験させてくれる学校しか受けられなかったが、そこが母校になった。

その母校に通うようになって、最初に感激したのが、音楽の時間であった。

女子ばかりのその学校は、当然のことながら、コーラスは女声コーラスになる。

そのコーラスが聞きほれるほど美しかったのである。

それまでの公立中学校では、変声期の男子の声も混じっての合唱だったので、美しいと思ったことは一度もなかった。

音楽の時間は、自分も歌いながら、同級生たちのその美声に聞きほれたものだった。

お嬢さん学校だったせいか、その学校は美人が多かったし、性格のよい人が多かったと思う。

高校になって、公立中学からたくさん転入生が入ってきて、少し雰囲気が変わってしまったが、まあそれはそれで、刺激になって、またよい面もあったかもしれない。

美人というのは、必ずしも顔の造作のみをいうのではなく、その人全体から立ち上ってくるオーラをも含めていうものだと思う。

というか、女性は雰囲気がよければ、実際以上に美しく見える。

母校では、毎週月曜日に在校生全員の朝礼があった。

そのとき全員で校歌を歌うのが、恒例であった。

私は、この時間が大好きだった。

歌詞の中に「母となる身の誇りあり」というフレーズがあって、これは時代に合っていないと歌詞から削除されたと風の便りに聞いたが、どうだろう?

私は、この部分も大好きだったので、変えられたとしたら残念に思う。

校長先生のお話も楽しみだった。

校長先生は、私達在校生に、女性としての誇りを育むようなお話をしてくださった。

私は素直な生徒(愚直な?笑)だったから、素直に校長先生のお話を聞かせていただいた。

今でも母校のことを思い出すと、胸が熱くなってくる。すでに難聴であることは判明していたけれども。

  難聴の悩みは悩みでありながら乙女でありし日日は懐かし  biko

河野裕子さんのこと その8

2014年12月21日 21時22分44秒 | 短歌
前回は、2009年の永田邸の完成と、その前後のことを書いた。

それから半年後、

2010年の5月、兵庫県は小野市で毎年開催されている「小野市詩歌文学賞」の短歌部門で、河野裕子さんは、歌集『葦舟』が受賞されることになり、癌のため、痩せ細ったお体で、お嬢さんの紅さんに付き添われて、受賞式典に臨まれた。

私は、当日、その授賞式を拝見するべく、夫の運転する車で、小野市に出向いた。

難聴の私は、会場では夫に講演の内容その他を要約筆記してもらった。

難聴だからということで特別に最前列に座らせてもらっていたが、裕子さんは壇上から夫が私に要約筆記する様をちらりちらりとご覧になられていた。

思えば、それが亡くなられる3ヶ月前のことだったことになる。

その翌月6月下旬の校正の日に永田邸の食堂でお目にかかったのが、最後になった。

折から、お嬢さんの紅さんのご結婚が決まり、私はちょっとしたお祝いをお渡ししようと少し早めに永田家に伺った。裕子さんは食堂のテーブルの上で書き物をしていられた。

まだ、こんなことをされるお元気が残っていられるのかしらと思ったが、翌7月から寝たきりになられたようだったから、あれが、お元気な最後のお姿だったことになる。

河野裕子さんは、2010年8月12日に亡くなられた。

  お元気な姿を最後に拝ませていただきし日の昼の梅雨晴れ  biko

(完)

河野裕子さんのこと その7

2014年12月21日 20時29分33秒 | 短歌
新しい永田邸が完成したのは、2009年だった。

「次の校正日には校正のあと新築の家のこけら落としをします」と案内があったのは、秋だった。

当時、裕子さんは乳癌の再発が明らかになったあとだったが、まだお元気だったので、こけら落としの当日のご馳走は、ほとんどが裕子さんの手作りであった。

私達が校正をしている間中、台所に立ちっぱなしで、お米を研いだり、薄焼き卵を焼いたりされていた。

お赤飯、ばら寿司、手巻き寿司などなどを、30人以上の参加者に行き渡る量を一人で手作りされるのは大変だったと思う。

若い人が多い中で私がドギマギしていると、永田主宰はわざわざ私に「bikoさん、遠慮しないで食べてください」と声をかけてくださった。

私は、その日は、ご馳走になるのだからと思って、自宅近くの花屋さんで見かけた、鉢植えのスパティフィルムを持参した。とても綺麗だったので衝動買いしたものだった。

永田邸に着くと、私の持参したスパティフィルムよりずっと高価で立派な胡蝶蘭などの花が幾鉢か「お祝い」と書かれたカードが添えられて玄関に並んでいた。

私は気後れしてしまったが、せっかく持参したのだからと恐る恐る差し上げた。

裕子さんは、とても喜んでくださった。

その日帰宅すると、パソコンには永田主宰からメールが入っていて、「今日はお祝いをありがとうございました。大事に育てます」と書かれてあった。

まあ、あんなものに、わざわざお礼のメールをくださるなんて、と感激した。

これには後日談があって、私の話を聞いた私の夫も、内心あたらしい永田邸を見せていただきたいと思っていたらしく、その数ヶ月後の校正日に車で永田邸に送ってくれたときのことだ。

その日は、そのまま滋賀県の長男の家に行って、帰途、また寄って拾って連れて帰ってくれる予定だったのに、私と一緒に永田邸の玄関までついてきて、丁度、お出かけするため玄関に立っておられたご夫妻に「新築のお家の中を見せてください」と頼んだ。

「どうぞ、どうぞ」と永田氏。

裕子さんは、丁度玄関の下駄箱の上においてあった、私のお贈りしたスパティフィルム(そのころは花期は終わって葉っぱのみになっていた)を指差して、「これは、bikoさんにいただきました」と、わざわざ言ってくださった。

帰宅後、夫は、「家の中で一番目に付く玄関に、よく手入れして飾ってくれてあって有り難いね」と言っていた。

(続く)

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  差し上げしスパティフィルムは下駄箱の上(へ)に飾られて緑さやけし

河野裕子さんのこと その6

2014年12月21日 20時29分02秒 | 短歌
初めて校正に参加させていただいたのは、2006年の早春ごろだったと思う。

まだ建て替える前の永田邸に初めて伺ったときはドキドキであった。

「塔」の主要なメンバーが勢ぞろいしている中に座らせてもらって、やり方の説明をしてもらった。

裕子さんは、皆に、お菓子を出してくださったり、お茶を入れてくださったりしてした。

途中、トイレに行こうとすると、永田主宰自ら「トイレはここです」と案内してくださった。

まあ、当然のことだが、裕子さんもカルチャーセンターで見せるお顔とは違った素顔で、親しい会員に冗談を言ったりしていた。

建て替える前の永田邸には何度行かせてもらっただろう。

夏ごろから建て替え前の引越しとか始められたようだったから、数回だったと思う。

その後、新しい永田邸が完成するまでは京大会館やハートピア京都などが校正の会場になった。

私は、川西市から阪急電車で行くから、このハートピア京都の会場のほうが便利だったが、校正のメンバーはガタンと減って数人ということがあったりした。

これは、永田家に校正に行くと、当時まだ元気だった裕子さんが、校正の終わった後に夕食を振舞ってくれたりしていたから、それを目当てにくる学生などの参加がなくなったということも関係したと思う。

裕子さんは、ご多忙の中、こういうことは実にマメになさる方だったのだ。

私は、このころは、ほとんど休まず皆勤した。難聴の私が「塔」のメンバーと触れ合えることができるのは、この校正のときだけだったから。

そこまで無理して触れ合うことはないではないかと思われる方もあるかもしれないが、やはり時々は歌を作る人たちに触れ合わないとモチベーションが上がらないのだ。

  永田家に初めて訪問せしときにトイレに案内しくれし永田氏  biko