この5月11日に亡くなった義母は、49日が過ぎるまでは中陰で、まだこの世と彼の世をさまよっているらしいから、私は折をみて般若心経を上げている。
以前、ものの本で、お経を上げるのは、仏様のためではなく、実は、この世に遺されたわれわれのためという下りを読んだ記憶がある。
般若心経は、音読と訓読とで上げているが、たしかに訓読のほうを上げていると、そのことを実感する。
たとえば、次のようなことが書かれている。
「人は私や私の魂というものが存在すると思っているけれど、実際に存在するのは体、感覚、イメージ、感情、思考という一連の知覚・反応を構成する5つの集合体(五蘊)であり、そのどれもが私ではないし、私に属するものでもないし、またそれらの他に私があるわけでもないのだから、結局どこにも私などというものは存在しないのだ。しかもそれら5つの要素も幻のように実体がないのだと。」
読み上げているうちに、お釈迦様が私に言い聞かせてくださっているように感じる。
以前、ものの本で、お経を上げるのは、仏様のためではなく、実は、この世に遺されたわれわれのためという下りを読んだ記憶がある。
般若心経は、音読と訓読とで上げているが、たしかに訓読のほうを上げていると、そのことを実感する。
たとえば、次のようなことが書かれている。
「人は私や私の魂というものが存在すると思っているけれど、実際に存在するのは体、感覚、イメージ、感情、思考という一連の知覚・反応を構成する5つの集合体(五蘊)であり、そのどれもが私ではないし、私に属するものでもないし、またそれらの他に私があるわけでもないのだから、結局どこにも私などというものは存在しないのだ。しかもそれら5つの要素も幻のように実体がないのだと。」
読み上げているうちに、お釈迦様が私に言い聞かせてくださっているように感じる。