神鳴り(アメジストネックレス)

難聴ゆえに家居の好きな主婦です。過去、心臓弁膜症、大腸がんの手術を受けました。趣味は短歌です

ブログでは誰もが小説家であり、詩人であり、かつ批評家である

2018年04月06日 16時44分06秒 | ブログについて
また気づいたことがあったので、連投します。

タイトルにしたように、
ブログでは、誰もが小説家であり、詩人であり、かつ批評家であると思います。

さらに、事件記者であり、カメラマンであり、芸術家でさえあるかもしれません。

それほどブログという媒体は包容力があるということだとおもいます。

だから、それぞれ、好きな役割を果たしたらいいと思います。

私は実録を書いていますから、ノンフィクション作家かな。

これは上手いとか下手とかは関係なく、その持ち味が何であるかということです。

私は、本当は小説を書きたいのかもしれません。

が、小説を書くほどの人生経験がないから、仕方なく自分周辺のことを書いている
ノンフィクション作家なのです。

もっと文筆力があり、社会経験も豊富であれば、小説を書きたかったですね。

が、幸運なことに、現代は、こういうブログという媒体があります。

それに乗っかって発表すれば、
小説もどきの文章も読んでもらえますし、純粋な実録も読んでもらえるのです。

こんなパラダイスのようなブログという媒体のある現代に生きられることは、
なんと幸せなことでしょう。

あ、まだ書き忘れている職業?がありました。

ブログ発、料理番組というのを主宰しているブログ料理研究家の方もいますね。

これは料理が得意な主婦が担っています。

ある意味、こうした主婦料理家のほうが
プロの料理家より、経済的な料理の紹介をしてくれるから
社会の役に立つかもしれません。

経済といえば、ブログ経済評論家もいますね。

ブログ政治評論家もいれば、ブログ国際評論家もいます。

そうそうブログ芸能評論家もいます。

私がほぼ毎日読ませていただいているブログに、
このブログ芸能評論家のブログがあります。

たかが芸能といっても、生き馬の目を抜く社会の縮尺版といった趣もあって、
勉強させていただくことは多いです。

まだありました。

ブログ宗教家です。

これは、特定の宗教を主宰しているということではなく、
スピリチュアル関係ですね。

私は、いわゆる宗教家と言われる人たちよりも、
こういうブログ宗教家のほうが信頼できます。

大概のスピリチュアル宗教家には、お金が絡んでいないから。

私は、いくつかのスピリチュアル関係のブログをほぼ毎日拝読させていただいています。

まこと、ブログという媒体は、百花繚乱だと思います。

私は、それを利用させていただける幸せを日々噛み締めています。

ブログの醍醐味は意外とコメント欄にあるのかも!

2018年04月06日 14時42分26秒 | ブログについて
ブログをなさっておられる方で、
コメント欄を閉じていらっしゃる人も少なからずいらっしゃいますが、
これはもったいないと私は思います。

たしかに、いやなコメントが入るときもあります。

が、それは、よきにつけ、悪しきにつけ、その記事に対する反応ですから、
これほどありがたいものはないと思うのです。

一番悲しいのは無視されることですね。

これは、よく愛情問題でも言われることですね。

愛する人に愛されることは、もちろん嬉しいことですが、
残念ながら、思う人から愛されない場合、
まだ憎まれるほうが無視されるよりましということが言われますね。

それと一緒で、ブログもコメントが付くうちが花だと思うのです。

それが意に沿わないコメントであっても・・・。

そのときは意に沿わないと思っても、案外急所をついたコメントであったと
あとで気付くこもあるからです。

これが無視だと、それこそ、誰にも相手にされない寂しさがあるわけです。

まあ、しかし、書いたものが全く無視されることは少ないですけどもね。

というのが、蓼食う虫も好き好きで、

必ずしも優れたブログだけに人気が集まるのではなく、

中には、なぜこんなしょうもないことばかり書いているブログがランキング上位だろう?
と思うブログもあるからです。

しかし、それはしょうもなく見えても、しょうもなくないから読者がいるのです。

しょうもない記事を好む読者もいるということも言えるかもしれません。

また、明るいことばかり書いているブログがいいかと言うと、

それも、そうばかりではありませんね。

案外暗いことばかりが書かれている記事がよく読まれていたりもします。

そして、その暗い記事を好むのが、明るい人だったりして?(笑)

人って、そういうものだと思います。

そして、その暗い記事を書く暗い人は、明るい人に憧れたりして?

だから、ブログは面白いんだと思います。

そして、その一番の要が、案外コメント欄というものであったりするかもしれません。

ブログのコメント欄には、書籍では得られない双方向性がありますから。


いったん下書きに保存した記事を再投稿しました

2018年04月06日 01時57分47秒 | ブログについて
タイトルにしました通り、

いただいたコメントに反応して、きのう一旦下書きに保存した記事を再投稿しました。

というのが、

ブログランキングの注目記事に入っているのに、
その記事がないと、
読みに来られた方々をがっかりさせると思ったからです。

それ以上に、

昨日、丁寧な思いやりに満ちたコメントくださった方々のコメントにコメント返ししないのは
不誠実だと判断したからです。

ですから、読みに来られてがっかりされた方は、再投稿した記事をお読みくださいませ。

いろいろ批判もされましたが、

私は、私なりに、その段階では
精一杯の誠意を尽くして書いた記事でしたので、
人様にどういわれようと、
自分に恥じるところはありません。

人は、人のことは何とでも言えるものです。

聴覚障害があることも、

それは私の夫のせいではないとも書かれましたが、

そんなことはもとより、
聴覚障害のある人以外でも、障害のある人は、
そんなことは誰も思わないと思います。

そういうふうに断じるのは、むしろ障害のない人のおごりかもしれません。

しかし、昨日の「孫が来てくれました」の記事にも書きました通り、

障害のあることは私の責任でもありません

障害を与えられたのは、あくまで神様から試練です。

試練ですから、厳しいものではありますが、

これを自分を磨く武器にすれば、

試練は、神様からの賜物になりえます。

人間のできていない私は、しばしばそこまで悟れませんが、

しかし、実際は、そうなのだと思います。

天に召されるとき、

たぶん障害をもたされて苦労した者たちは、
それらの苦労のまったくなかった人たちより
なんらかの与えが得られていると思います。

それは、障害をもって苦労したがために気づかされる恩寵のようなものかもしれません。

ブログは家族にも知り合いにも知らせずに書くべき?

2018年04月04日 20時41分04秒 | ブログについて
いま家庭争議になっている。

私が何でもブログに書くから。

こんなことになるのだったら、誰にも言わずにブログを始めればよかった。

最初は、近況を知らせる目的もあったから、家族にも、一部の知り合いにも教えた。

が、私の性格では、というか、関心ごとは、家族であるから、
つい家族のことを書いてしまう。

それが家庭争議の元になってしまうのだ。

一度はブログ名を変えてみた。

が、すぐにばれた。

ばれないようにするには、現在のブログは閉じて、
まったく新しく始めなければならないようだ。

そうすると、現在のブロ友を失うことになる。

現在のブログに書いた記事も消してしまうと、せっかく記録したことが消えてしまう。

本当に悩ましい。

主婦の私に、家族以外のことを書けというのは難しい。

専業主婦の私は、家族のことがすべてであるから。

また、私は聖人君子ではないから、きれいごとばかりは書けないし、書きたくない。

さて、いったいどうすればいいのだろう?

年年歳歳花相似たり歳歳年年人同じからず

2018年03月18日 08時40分45秒 | ブログについて
一昨日は、「昨年の記事より」と称して、
昨年の今頃まだ生きていられた畏友、村形明子さんのことと、
同じく昨年の今頃はまだ生きていた私の母のことについて書いたが、

今日は、昨日の夕方届いたGooブログの昨年の記事「やっと咲きだした水仙」より、

「年年歳歳花相似たり歳歳年年人同じからず」と題して書いてみる。

人は、

昨年はまだ生きていた人も亡くなり、
昨年とは全く様相を異にしているが、

花は、

実際は違った花が咲いているにしても、

昨年と同じように、花を咲かせて同じ光景を見せてくれる。

私の花壇というかプランターでもそうだ。

昨年と全く同じように、黄色の小ぶりの水仙が、今年もまた咲いた。

昨年記事にしたのと同じ時期に。

水仙の花は昨年と同じように咲いても、昨年の今ごろ生きていた人達はもういない。

年年歳歳花相似たり歳歳年年人同じからず

今年ほど、この言葉を深く噛み締めたことは今までなかった。



やっと咲き出した水仙
ここ川西市は阪神地区では寒いほうなのだろう。やっと我が家のプランタの水仙が咲きだした。この水仙は昨年植えたものではなく、数年前に植えた球根が花を咲かせてくれたのだ。昨年秋は......


続く


昨年の記事より

2018年03月16日 22時00分57秒 | ブログについて
今日は昨日の疲れが出て夕方からソファで眠ってしまった。

なので、夫が帰宅しても起き上がれなかった。

ガス台の上にはカレイの煮つけと味噌汁を作っておいてあったのだが、
夫は味噌汁しか飲んでいなかった。

カレイの煮つけは、魚の上にシメジをいっぱいだったから、
野菜だけと思って食べなかったのだろうか?

私は、数時間眠って今起きた。

それで、今日の記事を書いていないと思って、いま書いている。

何を書こうかなと思っていると、Gooブログから昨年の記事のお知らせが入っていたので、
それを書こうか。

別にお休みしてもいいのだが。

昨年は、まだ生きていられた村形明子さんに、
これもまだ生きていた母が村形さんにお菓子とか果物を差し上げてくれと送ってきたから、
村形さんが月に一回くる伊丹の歌会会場まで届けたようだった。

村形さんは、去年はその前年暮れに本を上梓したため疲れ果てていた。

と思っていたが、それだけではなく、昨年9月に亡くなったことから勘案すれば、
この時、すでに病魔に冒されていたのだろう。

昨年の記事を読んでいると、そうした村形さんのことが思い出されるし、
村形さんを愛し(尊敬し)続けた母のことも思い出される。

たった一年前のことなのに・・・。

*

・記事にしておいてよかつた昨年の今日記録せし記事読めるから

・昨年の今日生きてゐし人ふたりふたたび会へぬ此の世と思ふ

・ふたたびは会へぬ二人を思ひだすときに取り残されし己か

・上梓せし本は残りて上梓せし人は消えたりその翌年に

・上梓せし人の消えたる翌年に追ひかけ消えし人がわが母

・上梓せし人を愛してプレゼント送りてきたる人も消えたり

・わが残る此の世だんだん暗くなる愛し愛され合ふ人なくし

・彼の世では何をなさつてをられるか母と明子氏われを残して

・明子氏を愛しし母も亡くなりて明子氏著書のみ残る此の世に

・残されしわれは残してゆかむかな著書の代わりにブログの記事を


疲れやすい私
最近の私は異常に疲れやすい。昨日の朝は、夫がよく早朝登山をする宝塚市の長尾山の山の仲間から野菜をたくさんいただいてきた。葉つき大根、葉つきニンジン、水菜など。素人が育てた野......

いたらぬ妻で申し訳ありません

2018年03月15日 23時56分41秒 | ブログについて
私が夫のことをいろいろ書いたので、
夫から私にメールがありました。

箇条書きにして、私の至らないところを列記してくれてありました。

その通りです。

至らぬ妻で申し訳ありません。

で、こんどは、私からお願いです。

私がお願いしたいのは、怒鳴らないでほしいということです。

いつも家にいて逃げ場のない私は、怒鳴られると気が変になりそうになります。

至らないところは、なるべく努力します。

あなたが、あなたの楽しみであちこち出かけることはかまいません。

が、私を裏切ることは止めてほしいです。

昨年の5月や9月でしたっけ、
私に内緒でシニアカレッジで知り合った女性とデートしたりしましたね。

あなたはデートではないといいますが、一対一でジャズを聴きにいったり、
ハイキングに行ったり、映画を見に行ったりすることは、
ふつうデートと言います。

あなたがジャズを聴きに行ったとき、それに気づいた私が追いかけたら、
あなたは、
「今日は一人になりたいから放っておいてくれ」
と嘘をつきましたね。

嘘はいけません。

嘘をつかれたら、何か疚しいことを考えていたのかなと詮索してしまいます。

あなたが外で他所の女性達に紳士であるように、私にも紳士でいてください。

お仕事が大変なことはわかりますが、私に八つ当たりをしないでください。

今から15年前に、
私が心臓弁膜症の手術を受ける前も、
単身赴任先の東京から帰ってきたあなたは私に八つ当たりをしました。

多分あなたは無意識だったと思いますが・・・。

私は、いい加減具合が悪くなっていたところに、
あなたに八つ当たりされたことで、一気に苦しくなりました。

ひょっとすると死ぬかもしれないと
家族一人一人に遺書をしたためたことを昨日のことのように思い出します。

あれは15年前の今頃のことでした。

平成15年の3月初旬から原因不明の体調不良で毎日病院通いしていました。

そして、心臓の大動脈弁と僧帽弁が閉じなくなっていることが判明したのが
7月9日の水曜日でした。

一刻を争う状態になっていたため、
翌週月曜日の7月14日に緊急の手術を受けて
一命をとりとめました。

その節には、あなたには大変お世話になりました。

あなたや、その他の家族のお陰で、私は生き永らえています。

が、あのとき死んでいたほうがよかったかなと最近よく思います。

でも生きていてよかったのでしょうね。

孫4人の顔も見ることができました。

母を見送ることもできました。

すべてあなたのお陰様です。

それなのに、至らない妻で申し訳ありません。
m(_)m

書くことが好きで毎日書いてアップしているけれども

2018年03月04日 06時17分18秒 | ブログについて
ときどき迷いが出る。

こんなことアップしていいのかなあと。

それで、昨日は一度アップしたものをひっこめた。

が、すでにブログのタイトルは流されているから、読みに来られた方に申し訳ないと再アップ。

別に誰に申し訳ないわけでもないのに?(笑)

だけど、一度アップしたものを取り下げるのって不誠実なような気もするの。

私は嘘は書きたくないし、書く以上は綺麗ごとばかり書きたくない。

そうすると傷つく人も出てくるし、生きている人のことを書けば問題も起こる。

昨日は、交流させていただいている某有名歌人のことを書いた。

彼女は筋ジストロフィーという難病で、寝た切りであられる。

私は、彼女の周辺の心無い人たちに対して立腹したから書いた。

それは正直な気持ちだった。

が、落ち着いて考えてみれば、その書かれた人たちが私のブログを読む可能性はある。

私は読まれても全然かまわないのだが、お世話されているその歌人の方に
塁が及ぶかもしれないことを懸念した。

夫の伯父さんのことを書いた記事も、ちょっとまずいかなと。

いったん取り下げたはしたのだが、
しかし、やっぱり読んでもらいたい気持ちと、読みに来られた方への申し訳なさで
再アップにいたった。

そもそも書くって何だろう?

さらにブログにアップするということは?

ブログの効用?

2018年02月12日 05時58分03秒 | ブログについて
一昨日は「しばらくブログ休みます」と投稿すると、励ましのメールをたくさんいただいた。

それに元気を得て?、また昨日も書いたのだが、昨日の夕方は、つい愚痴をこぼしてしまった。

その記事を読んでいただければお分かりいただけるが、久しぶりに外食する約束をしていたのに、行けなかったことを嘆いた。

すると、すぐに慰めのコメントをくださった方々がいて、今朝、それを拝読した。

こんな優しい言葉をいただくことは、ブログをやっていないと有り得ないことだ。

本当にありがたい。

そして、夫の気持ちを代弁してくれた方々に感謝の気持ちでいっぱいだ。

私も、こうして吐き出さないと、たまってくると夫婦喧嘩になることもあるから、まさにブログ様様である。

ことに難聴で、外で人と会話することのない私にはブログの効用は計り知れない。

一昨日お休みをするなどと書いたが、これは、お休みしなかったご褒美かしら?(笑)

*

・目が覚めてパソコン開く人われにコメントありぬ昨夜の記事に

・実名も顔も知らざる人々がくださるコメント入魂(じつこん)なりし

・耳遠きわれに心の声とどき見えざる人の心受け取る

・われの打つ心の声を受け止めて返してくれし声がコメント

・もしブログなくば喧嘩になることもあらむ夫婦で冬をこもれば


読ませてもらって面白くないブログなんて基本的にない

2018年02月02日 19時09分26秒 | ブログについて
今朝の続きになるのだが、今朝は自分のブログの記事について書いたが、今夜は人様のブログについて。

私がブログにハマるのは、自分が記事を書く喜びもあるが、それよりももっと喜びをもたらせてくれるのは、人様のブログ記事を読ませていただくことである。

実際、どなたのブログを読んでも面白い。

商業作家の書く小説などより面白いと言ってもいいくらいだ。

なぜだろう?

それは、たぶん、真実が書かれているからだろう。

なんの儲けになるわけでもないのに書かざるをえなくて書く文章が面白くなかろうはずがない。

これは有名、無名を問わない。

むしろ、無名であるからこその面白さというものがある。

いま何の儲けにもならないと書いたが、しかし、中には儲けているブログもあるようだ。

書かれた文章に類する商品が提示されたりするブログがそうであるようだ。

こういうブログは、正直言って興ざめである。

いくら達文であっても、いや達文であるから余計に嫌らしく感じられてくる。

読んだことを後悔する。

無駄に時間を費やしてしまったと。

テレビの番組でもコマーシャルが入ると興ざめになることが多いが、テレビの場合には、番組とコマーシャルには因果関係がない。

だからまだ許せるところがあるが、ブログに挿入されるコマーシャルは、微妙にブログの記事にリンクしているところが不愉快なのだ。

せっかく楽しく読んでいたのに、あら、そうだったの?という気分である。

私を出しにして商売されていらしたのね、という気分になるのだ。

仕組みはよくわからないのだが、芸能人のブログなどは読まれることが収入につながるらしい。

そんなブログなど読みたくない。

私が読ませてもらいたいのは、無名の人の、一生懸命綴った記事である。

リッチな有名人に、その上搾取されるような真似はしたくない。

搾取というのは語弊があると思うが、ブログ収入を得るという行為にはそういうことにつながる要素を感じさせる。

*

・ブログ書きそれを稼ぎにすることのいかがはしさを厭ひてをりぬ

・金のある輩がさらに金を欲るその金づるは読者 あほらし

・金かせぐブログきたなく思ふ吾(あ)は金かせぐ記事読まず無視する

改めてブログって何だろう?

2018年02月02日 05時38分06秒 | ブログについて
人によってさまざまだろう。

私にとってブログは、社会の窓の役目をしてくれている。

難聴で家に閉じこもり勝ちの私にとって、ブログは社会との接点を作ってくれる、文字通り窓の役割を果たしてくれている。

それ以前は、短歌がそれであった。

現在も、短歌もそうだが、ブログのほうが、よりその役目を果たしてくれているように思う。

あるときから、このブログという媒体に趣味の短歌をコラボさせた。

これは実に具合がよい。

以前のように独りでノートに作歌していたころと比べると、断然楽しいのだ。

短歌は、よく機会詩と言われる。

何かことが起これば湧いてくるのが歌なのである。

その意味では、私のやり方は的を得たものと言えるだろう。

最近は他の歌人のブログを見ることもなくなったが、以前よく読ませていただいていたころは、私のようにブログに発表している人は多かった、と記憶している。

ところが、昨日書いたように、このやり方ではどこの短歌賞にも応募することができなくなる。

別に短歌賞に応募するためだけに短歌をやっているわけではないが、励みになることは確かだ。

賞が取れるとか取れないとかは関係ない。

30首なら30首、50首なら50首、まとめて出すという、そのことで自分が鍛えられる。

こんな機会は短歌賞応募しかない。

毎月の結社誌への出詠は、私は信用しない。

選者の先生の好みが多分に反映されるからだ。

実際、私の歌友は、短歌の総合誌からも依頼されるほどの実力者なのだが、とある選者先生と喧嘩してから、その先生に選が当たった時は、ばっさり歌を落とされてしまっている。

選者先生といえども人間だから自分に可愛くない人の歌には好意がもてないことは考えられる。

それを知ってからは、選者先生に選をしてもらうことに疑問を持つようになった。

短歌賞にもその傾向はある、と思う。

が、一応、作者名は伏せての選考ということになっているから、それを信用する限りでは公平なはずだ。

もし、これがそうでなければ、現在の相撲界ではないが、短歌界が汚染されていることになる。

私は別に賞をもらいたいために応募しているのではない。

しかし、挑戦はしていたいのだ。

*

・作歌とは誰のためでもなく単に己なぐさむためにするもの

・歌うまい下手の基準は神様でなければしてはならぬ代物

・万能の神ではあらぬ人間が歌の選するバカバカしさよ

・有名も無名も一重の紙の差と思ひて読めり人の短歌は

・心打つ歌はしばしば無名なる人の歌なり無名こそよし

・有名になりて謙虚を忘れたる歌人の歌の薄汚さよ

・有名になるを目指して作歌する人ら去るべし歌作りより

・作歌することが間違ひ湧き出づる歌こそ歌を生ましむるもの

・ブログとふ歌生ましむる媒体を否定する人ひらたきヒラメ

・海底で平たく泳ぐヒラメより自由に泳ぐ鰯の自由

ブログ記事はしばしば揉め事の元になる?

2018年01月29日 04時38分56秒 | ブログについて
昨日の午後書いた記事がそうであった。

が、揉め事になる前に削除したから、揉め事は起こらなかった。

その記事を読まれた方々には、その後書いた記事は腑に落ちたであろうが、そうでない人達には??となってしまったことをお詫び申し上げる。

が、書くことで、少しは私の気持ちがすっきりしたので、これはこれでお許しいただきたい。

正直に書くと、それに該当する人間がいる場合は、怒らせることになる。

ブログの存在を秘密にしていたら、そういうことは起こりえないのであるが、私のブログはそうでないから、しばしば家庭争議の元になる。

しかし、それでも書きたくなることもしばしばあるのだ。

私も生身の人間だから。

*

・書かざれば噴火始める白根山ときには噴火するもよからむ

・おさんどんするよりほかに能のなき主婦なりわれは吾も認める

・我慢することに耐えきれざるときは書きて吐き出すその鬱憤を

転象さんへ

2018年01月28日 19時44分17秒 | ブログについて
ん?

この記事のことを揶揄して?^^

そうですね。

毒が過ぎたかもしれません。

削除するようにします。

*

・正直に書きし記事ではありぬれど家庭争議になるかもしれず

・まことより平和大事に思ふ日は記事とりさげて平穏とす

・言ひたきを胸にとどむること難く書くが消すなり平和のために

・養はれゐる身であれば理不尽も飲み込み飲み込みして深夜なり

・深夜ふと目覚めて書きて消すこともあるなり稼ぎなき身は

・白根山噴火のやうに噴火することもあるべし我慢する身に

*

 私は、あるサイトのスレで酷い事を書いた。好意にしてくれた筈の人の事を酔った勢いで、ユーモアをタップリと込めて、"ゲス"呼ばわりした。

 ある人はこの酷いスレを、面白いと気に入リ、チップを与えてくた。
 私の冗談は結構キツイ。刺激を与えるつもりが、相手を大きく傷つける時がある。

 酔いが覚め、改めてそのスレを見ると、ゾッとした。当然、強く避難するスレもあった。私は直ぐ自分のスレを消した。

 一度書いた事は、謝って済む事でもない。自分の悍ましさに、心が闇に沈んだ。

白象さんはお元気のご様子

2018年01月26日 10時00分19秒 | ブログについて
昨日、村形明子さんのことを書いて思い出したのが、村形明子さんの学友であられた白象さん。

それで、今日は、白象さんのブログ「白象の気まぐれコラム」を読ませていただいた。

検索してもヒットしないから、仕方なく、自分の過去記事から白象さんのブログを探し出すという手間をかけた。

白象さんは、村形明子さんの同級生ということは、昭和15年のお生まれで、77歳になられているはず。

が、とてもお元気そうで、最近の記事で、熊野古道の中辺路を歩いていられるご様子。

私のように、70歳前でも、もう山に登ることはあきらめている人間から見ると驚異的だ。

たぶん心身ともに健康に恵まれたお生まれ合わせの方なのだろう。

こころがけもよいから、このお歳になっても、健康でいらっしゃるんだろうなどと想像をしながら、読ませていただいた。

*

・ひさしぶり読ませいただく白象の気まぐれコラム健在なりき

・紀の国の熊野古道を寒(かん)さなか歩く白象さんの健脚

・学問に秀でし人は健康も秀でてゐしか中辺路あるく

・明子さん亡くなりまうすぐ半年になります母が亡くなり半月


ブログ名を元に戻そうと思います

2017年12月11日 11時31分03秒 | ブログについて
いろいろあって変えたブログ名でしたが、また元に戻そうと思います。

というのが、以前の「神鳴り」ブログを探して見つからなかったと言われる方がいらっしゃるからです。

参加している「団塊の世代」村のブログ名も変更されず、ずっと「神鳴り」のままであるようですし・・・。

ブログ名を変更するきっかけになった事件?も収まったことだし。

今も読まれているかもしれませんが、家庭の平和は戻りましたから。

まあ、ブログを使って夫婦喧嘩したみたいなところもありましたが、これはこれでよかったと思っています。

また何かありましたら、ブログに綴るかもしれませんが・・・。

が、元に戻すと、また今度は「アメジストネックレスブログがなくなったと探される方もいらっしゃるかもしれませんので、しばらく併記するようにします。

*

・変更の目的消えてしまひたり元に戻さむ変へしブログ名

・家にゐて外に出でざるわたくしの助けになりてくれきブログは

・わたくしの日記であれど読みくるる人はたくさんゐる日記なり

・わたくしの備忘録でもあるけれど備忘しながら発信もして

・ブログとふ便利なもののある今の世に生きられる命感謝す