神鳴り(アメジストネックレス)

難聴ゆえに家居の好きな主婦です。過去、心臓弁膜症、大腸がんの手術を受けました。趣味は短歌です

心配が支配に変わってしまう?

2017年01月31日 09時30分53秒 | 私の意見
今日の「かめわざ快心塾」は「心配が支配に変わってしまいます」だった。

今回帰省して、私は母の無鉄砲に怒った。心配のあまり怒ったのだ。

腰椎骨折している上に背骨の骨のひとつが崩れているというのに、一日は私に付いて歩き回ったし、私の帰る日は勝手に自分の従妹の家に泊りがけで行った。

主治医からは「暖かい季節になるまで安静」と言われているにもかかわらず。

まあ、私についてきたのは、まだ一日だけだったし、荷物も私が持ったからよかったが、翌日の従妹の家に行くことは明らかに問題行動だと思った。

それで叱ったというか、怒ったというか、したのであるが、結局、母は決行してしまった。

道中、事故や問題がなかったから、これでよかったといえるだろうか?

あの日、母は、「自分のことは自分が一番わかっている」と言った。

私が、「人にどれだけ迷惑がかかるかわからない?」と言ったのであるが、母の答えは「わからない」だった。

いくら娘でも、もうこれ以上は言いようがない。

この私の心配は今日の「かめわざ塾」のテーマからすると、「心配が支配になる」の例になるだろうか?

私は、子供の頃から、ずいぶん母に心配、つまり支配されてきた。

そういうふうに育てられてきたから、母親になると、母親として、子供達を支配してきた。

そして、今度は、私は母を支配していることになるのだろうか?

しかし、90歳を超えた杖をついた老婆を一人で列車に乗せて外出させるなど、世間の人は、保護者の子供の監督不行き届きのように見るだろう。

実際、義母が88歳のとき、一人で外出して、歩道の段差に躓いて顔に怪我をして、救急車で運ばれたとき、私は看護師さんに、「よくこんな老人を一人で外出させますね」と凄い剣幕で怒られた。

現在の母は、それより3歳も年長である。足元も、あの頃の義母以上に危うい。

心配しないほうが非常識というものだと思うが、どうだろう?

その母から、昨日は海産物がいっぱい届いた。

何でも、その従妹の家にお土産にする海産物を買ったとき、我が家に送る分もついでに注文したとか。

こういうことができるところを見ると、まだ大丈夫なような気もしてしまうのだが・・・。

  言ふことを聞かぬ老母の送りこし海産物を見て考へる  biko

この件については何かあったときのために兄嫁にも知らせておくべきと考えてメールで知らせたが、兄嫁からは「やっぱり行きましたか。止めても聞くような人ではありませんから」と落ち着いた返信があった。

  私よりわが母を知る兄嫁か止めてもそれを聞くことなきと  biko

1月歌会御礼 お題「新という字を使って」

2017年01月31日 04時13分38秒 | 短歌
1月のインターネット歌会が終わったので、きのう歌会御礼を出した。

1月のお題は「新という字を使って」だった。

                   *

bikoです。一雨ごとに春になっていくような気配の雨が・・・。

●●●さん、お忙しいなか、丁寧に司会していただき有難うございました。
毎月運営してくださっている皆様にも今月もお礼申し上げます。

28:九十歳(ここのとせ)超ゆる人にも新たなる朝日は昇り野や水を見す

このお正月に数え年93歳になった母へのオマージュです。

歳をとっても年々歳々初日の出は昇るわけで、その初日の見せる景色を
今年も母が拝めたことを寿いだつもりでした。

余談ですが、母のお見舞いに帰省しておりました。つたない文章ですが、
お暇な方にお読みいただけたらとブログアドレスを貼り付けておきますね。
http://blog.goo.ne.jp/1972416

今月は追加コメントがいただけませんでしたが、初回コメントくださった皆様、
ありがとうございました。<(_)>

                    *

-「見す」は見せるの文語ですね。「九十歳超ゆるわれにも」なら〇です。
ちょっと決めつけているような感じがします。

*「見す」が気に入りました。ご自分ひとりの力で生活する力が衰えている
高齢者を中心とした視点が、この二文字で気遣い、世話をする作者の視点
に一気に転換されたような感じで、動きと意外性、すがすがしいです。

*(選歌のみ)

-内容はいいと思うが、結句の「見す」が適切どうか。

                 *

点もコメントも、あまりいただけなかったのは、独りよがりの歌になっていたからかな?

1月28日早朝に高知県土佐市で震度3の地震が

2017年01月30日 19時42分59秒 | ニュース
地震は午前5時過ぎだった。

私は目覚めていたけれども、まだベッドに横たわったままだった。

何か背中に違和感を覚えた。

地震というより、自分の体調に問題が生じたかと思った。

が、念のためテレビをつけると、高知県土佐市で震度3の地震とテロップが流れた。

あ、地震だったんだ。

そのままテレビを観ていると、高知市は震度1と出た。

震度1でも、じっとしていると気づくのですね。

震度3なんていったら、飛び起きるレベルです。

阪神大震災では大阪は震度3だったけれども、リビングの食器棚が倒れて、ほとんどの食器が割れてしまいましたからね。

まあマンションの最上階だったから、実際の震度は4から5くらいあったと思いますが。

それにしても、来る来るといわれている南海地震、いつ来るのでしょうね。

実家は、3階建ての鉄骨ビルですが、屋上に逃げれば津波から逃れられるでしょうか。

近くのはりまや橋小学校には避難タワーができていると聞いたような気がするのですが、まだ確認はしていません。

明日来るかもしれないし、10年後にかもしれない大地震、心配していたらノイローゼになりそうですね。

死ぬときは死ぬと覚悟していなければなりません。

  命ある者はいつかは死ぬことの地震かみなり火事いうかい魔  biko

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去年の今日も、私は高知県に帰省していて、「四万十川より清流かもしれない仁淀川(伊野かんぽの宿から撮影)」という記事を書いている。

1月28日、ホテルで朝食~高知駅より高速バスよさこい号に乗る

2017年01月30日 01時44分15秒 | 旅行
               ’(↑ホテルの朝食バイキング)

今日は朝ホテルを出て、母の病院に寄って2時間ほどおしゃべりして、また高速バスで帰る心積もりだった。

その予定通り、母の病院へ向かう。

↓(母の入院先の病院)


病院の向こう隣は、昨日ご紹介した高知市文化プラザかるぽーと


振り返って、昨日私の泊まったホテル前の堀川を隔ててホテル日航高知旭ロイヤルが聳え立っている。以前夫と泊まったことがある。太平洋まで見える眺め抜群のホテルだ。


病院にいくと母は着替えて私を待っていた。見送ってくれるという。

しかし、母には別のもくろみがあったのだ。

母が看護師さんにタクシーをお願いしたので、私も一緒に乗って高知駅まで。

入院中の母は外出に家族の付き添いが必要なのだが、結局、母は私の高速バスより先に列車で親戚の家に出かけた。

私は、高速バスの切符は入手済みなので、母に付き添うことはできない。

だから親戚の家に行くのはやめるように言ったのだが、聞く耳をもたない母だ。結局、強行してしまった。

私は怒っていたけれども、開き直ることにした。そうするしかない。

夫へのお土産を買って待っていると、「よさこい号」が入ってきた。


今日の座席は前から2番目の席なので、広々景色が見える。


ここで高知駅の名産センターでゲットした品々をアップする。

これは珍しい帽子パン。子供の頃によく食べた記憶があり、懐かしいので買った。2個買って1個はバスでいただく。

パンの周囲にカステラの材料を流してできたパンだと聞く。1個160円は少し割高な気はしたが・・・。

↓この焼き鯖寿司はバスの中で食べようと買った。


こちらのお弁当は帰宅後、夫と夕食にするつもり。


これはやわらかい鰹節。大きさも手ごろだし、晩酌のあてに夫へのお土産。


あと、柚子酢と柚子酢の寿司の素、かまぼこを買った。


  ふるさとの景色は大きく変はりしが変はらぬ昔ながらの食べ物  biko

  帰省時の乗り物飛機か国鉄かなりし頃より高速バスに  biko

  帰りたい帰りたいとぞ泣き暮らしゐし日々もあり四十年(よととせ)むかし  biko

  いま好きなときに帰れる身とはなりされど祖父母も父兄もゐず  biko

1月27日午から夕方 実家~親友の家へ

2017年01月29日 20時43分52秒 | 旅行
よさこい情報交流館から実家に行く途中にある十一屋に寄ったが、11時を過ぎていたのに、まだ開店していなかった。

先日、くりまんじゅうさんのブログで十一屋の記事を読んで、今度帰省したら、この店の蒸し寿司を食べようと期していたのに・・・。

で、仕方ないので、実家の仏壇に手を合わせたあと、甥に母の歯医者さんまで車で送ってもらった。

この歯医者行きは予定外だったので、少々番狂わせになったが仕方ない。

↓、これは歯医者さんの待合室にあったお花。待っているあいだ手持ち無沙汰だったので撮影。


その後、昨年夫と母と私の三人で入った焼肉屋にリピートした。


今日は平日で、サービスランチがあったので、割安な昼食を摂ることができた。


焼肉は少しだが、このメニューで900円は安い。


最後はコーヒーも出た。


その後、やっと友人の家に到着。

が、母も一緒だったため、3階建ての友人の家の2階に上がる急階段は母にきついかもと、友人の亡くなった姑さんのお茶室に通していただいた。

骨折している母を座らせておくのもと思って、目の見えない友人に布団を出してもらって母を寝かせた。

友人は私達の到着が遅いので兄嫁に電話をかけたらしかったが、私も、実は気になりながらも、耳が悪いため電話ができないので、連絡することができなかった。

こんなとき難聴は本当に困る。

さて、つもる話をしようとしたが、布団に横になっている母が私達の話に割り込んでくるから、私達は消化不良のまま時間だけ経ってしまった。

日が暮れてから、友人の連れ合い(実は私の兄の同級生だった人だが)が帰宅した。

彼が数年前にくも膜下出血で倒れて以来初めて会ったが、私はその様子にショックを受けた。

もう体をまっすぐに起こしていられない。両手は小刻みに震えっぱなし。玄関から上がるのにも目の悪い友人の助けがないと上がってこられない。見かねて私も手助けしたが、これほどの状態になっているとは想像すらできなかった。

ほとんど目が見えなくなっている私の友人の、その介護をするどころか、むしろ盲目に近い友人のほうが介護してあげなければならない状態だった。

しかし、二人とも明るさを失っていないことに救われた。

  目の見えずなりし友にはくも膜下出血をせし連れ合いのゐて  biko

  傍目には不幸に見える友人の夫婦仲良し 幸福ここに  biko

以前は、二人そろって地元の国立大学の聴講生になって通っていたのだったが、連れ合いがこういう状態になって、友人も自分ひとりで通うのは連れ合いが可哀想だからという理由で通うのを辞めてしまったそうな。

しかし二人とも知的好奇心は相変わらず旺盛なので、私が最近興味を持っていることとか、インターネットで知りえたこととかを話題にして、有意義な時間を持つことができた。

現在も、彼は地元高知新聞に年に3回ほど記事を出しているらしい。

その際、彼は手が震えて書けないので、彼の口述を目の見えない友人が代筆するのだそうな。

母に邪魔されなければ、もっと話が弾んだと思うが、しかし、母には多少でも親孝行ができたかもしれないから、これはこれでと考え直した。

その後、母を病院に送り届けてから、ホテルに戻った。

  外出に家族の許可のいる母の許可をもらひて外出したり  biko

↓昨晩はケイタイが電池切れして撮影できなかったホテルの夕飯を今夜は撮影した。

昨日の鰹たたき丼はボリュームが足りなかったが、今日のチキン南蛮はボリュームがあった。

  昨日今日ホテル付属の居酒屋で夫婦片割れ夕食をとる  biko

1月27日 はりまや橋交差点周辺から はりまや町の実家へ

2017年01月29日 17時00分13秒 | 旅行
朝、母の入院先の病院へ。その後、母と一緒に播磨屋橋方面へ。

上の写真は「はりまや橋バスターミナル」です。

立派な建物ですが、「よさこい号」はここが降り場になります。

  降車する場所は立派な建物で乗車する場所吹きさらしなり  biko

↓はりまや橋バスターミナルの西側に「河田小龍生誕地」があります。

小龍はジョン万次郎に日本語を教えながら自らは英語を教わったといわれています。

  ジョン万に日本語おしへ小龍は英語まなびきジョン万次郎に  biko

↓そこから数歩歩くと、宮尾登美子の小説『陽暉楼』の「得月楼」があります。

祖父存命の頃は、お正月などに得月楼の芸者さん達が三味線を抱えて歩いて実家に来てくれていたことを懐かしく思い出します。

  正月に三味線抱いてきてくれし得月楼の芸者さんたち  biko


得月楼」は、明治11年、中秋の名月の日に熊本城から凱旋した将軍谷干城の帰国祝いをかねて観月会を開催。その時、谷干城が「近水楼台先得月、向陽花木易為春」の詩から「陽暉楼」を「得月楼」と命名したのが発端らしいです。

場所は、元は鏡川の川口近くにあったようでしたが、後に播磨屋橋に近い現在地に移ったようです。

得月楼を少し歩いて、はりまや橋交差点の南東側から北西を撮影。

写っている背の高い建物は西鉄ホテルですが、私達が若い頃は「ホテルニュー高知」というショッピングセンターとホテルの複合施設でした。

西鉄ホテルの手前の白っぽい小さいビルは「浜幸」というお菓子屋さんの、はりまや橋本店です。

ここで、はりまや橋交差点の信号を渡って、交差点の東北に来ました。

この停留所が「よさこい号」の、はりまや橋バス乗り場になります。


一番上の写真の降り場のような立派な建物はなく、吹きさらしの停留所です。

交差点南西側の四国銀行本店を撮影。

むかし私の勤めていた銀行です。^^

はりまや橋交差点を北進すると、堀川の上に昔の播磨屋橋を模した赤い橋が。

はりまや橋は、「日本三大がっかり名所」の一つです。(苦笑)

ここで渡らないで回れ右をすると、「はりまや橋商店街」、昔は「なかたね商店街」と呼ばれていた商店街です。

私達が子供のころは、高知市内で一番の繁華街でした。

この商店街の木製アーケードは全国的にも珍しいらしいです。

↓この商店街を東の端まで歩いて振り返って撮影。

現在は、商店街というより、アーケード内にある市場の様相を呈しています。

↓また回れ右して、商店街の東側にできた「よさこい情報交流館」を撮影。

右側の道路には、昔は土電の「土佐橋」停留所があって、東のほうから来た人たちは、この停留所で降りて、いくつもの商店街を歩いて、最後に大橋通商店街で晩のお菜を買って、大橋通停留所から電車に乗って東の南国市、安芸市方面に帰るのがコースだったようです。

ちなみに、土電の西向きの終点は、現在も伊野=「いの町」です。

  土佐橋に昔は電車が停まりたり中種、京町、新京橋へと  biko

  新京橋曲がりて帯屋町を過ぎ大橋通でお菜を買ひて  biko

  安芸市まで土電電車は走りたり小さく停まり小さく進み  biko

  安芸市より播磨屋橋を通過して終点伊野に行く土電ありき  biko

  土佐電の東西安芸ゆ伊野なりき南北高知駅ゆ桟橋  biko

そうそう、この土佐橋停留所の近くに現在の「とさでん交通」の前身の片方である高知県交通の社屋があってバスの発着場になっていたので、にぎわっていたということもありました。今でいうバスターミナルですね。高知県交通の跡地に電電公社、現在のNTT高知支社ができてから人通りが少なくなって土佐橋が寂れたと思います。
                       (続く)

1月27日朝 高知サウスブリーズホテル

2017年01月29日 16時18分53秒 | 旅行
今回は、母の入院している病院のすぐそばのホテルに連泊しました。

上の写真がホテルの外観です。むかし高知市中央卸売り市場のあった九反田の近くでした。

ホテルの前は堀川でした。

周辺は整備されて、堀川の周辺は桜並木になっているから、桜の頃にきたら、さぞ綺麗だろうと思いました。

↓こちらが母の入院している病院です。ホテルの斜め前でした。


朝食はバイキング形式でした。


地元で取れる野菜がメーンのメニューでした。


私は、普段は、朝はご飯を食べるのですが、今朝は、おうどんにしました。

焼きたてのワッフルが、すごくおいしかったです。

1月26日午前11時発よさこい号~はりまや橋バスターミナル

2017年01月29日 15時15分59秒 | 旅行
気を取り直して、ぼちぼちアップします。

26日は午前11時発、阪急高速バスの「よさこい号」に乗りました。上の写真。

座席は4Cで、前から4番目の窓側の席でした。

平日の昼間に関わらず、案外混んでいて、座席は6割ほど埋まっていました。

天気は快晴で、下の写真は最初のトイレ休憩の南淡路島パーキングエリアです。

バスの中でサンドウィッチと手巻き寿司の昼食を摂った私は、この休憩でコーヒーをゲットしました。

次が徳島県の吉野川パーキングエリアのトイレ休憩。



また愛しの「よさこい号」を撮影。(笑)

実は「よさこい号」を阪急バスと相互運行している「とさでん交通」の現社長は私の親戚なのです。だから、最近の帰省は「よさこい号」ばかり。^^

お腹は空いてなかったのでしたが、何か食べたくて、おでんをゲット。


その後、一眠りすると、もう高知駅バスターミナル。

私は、今回は、母の入院先の病院に近い、はりまや橋バスターミナルで降車。

  一月の下旬高知に降り立てば既に春かとまがふ日差しが  biko

↓「フクちゃん」の横山隆一まんが館のある高知市文化プラザかるぽーと隣の病院に直行。

実は、漫画家、故、横山隆一も私の母方の親戚になります。

母と少しおしゃべりをしていると病院の早い夕食の時間(午後5時)になったので、私は近くのホテルへ。

私の夕食は鰹たたき丼でしたが、ケイタイが電池切れしたので、写真はなしです。

  ふるさとのホテルの中の居酒屋のわれに鰹のたたきどんぶり  biko

お風呂は展望大浴場があって、入浴しましたが、女性客は少なく、一人占領して「いい湯だな~」でした。(笑)

2,3日休むと、このまま止めてしまおうかと思ってしまうブログ

2017年01月29日 02時47分17秒 | ブログについて
昨日帰ってきたのであるが、2、3日休むと、このまま止めてしまおうかと思ってしまう。

というのが、帰省すると、たくさんの人とリアルに話するので、やはりそのほうが自然と感じるのだ。

それと、ろくでもないことばかり書き連ねているような気もしてきて・・・。

ところで、最近、コメントがいただけないと思っていたら、私の手違いで、コメントを受け付けない設定になっていた。

いつもコメントくださる方からの個人メールで教えていただいて、さきほど直しておいた。

その間、コメントをくださろうとした方、申し訳ありませんでした。<(_)>

今日から2泊3日の帰省です・・・失明しかけている親友に会うのが楽しみ

2017年01月26日 09時11分15秒 | 旅行
昨日お知らせしたとおり、今回は私一人の帰省です。

母が、

夫と車で帰省すると、骨折中にも関わらず、あちこち行く計画を立てるから、私一人で帰省することにしたのだ。

  骨折の母を外出させぬため高速バスで帰省するなり  biko

寒い時期なので、あまりウキウキしないが、ただ今回は、一人で帰省することを利用して、中、高校時代の親友と会う約束をした。

夫と一緒だと、夫が関西育ちで高知に友人がいないため、私も自分の友人に会うことができにくいのだ。

今回会う友人は、失明しかけていて、ものが朧に見える程度の視力になっている。

一方の私は難聴が進んで電話ができない。

それで昨日、葉書に大きな文字で27日の午後お会いしたいと書いて投函しておいた。

が、彼女も高知大学の聴講生で、家にいないこともあるので、今朝、夫に電話で都合を聞いてもらった。

彼女は、夫が驚くほど大喜びであったらしい。

お互い会いたい会いたいと思いながら、なかなか会う機会がないので、私も嬉しい。

耳と目の違いはあっても、お互い障碍者になった者同士、会えば昔以上に意気投合をするのだ。

あと1時間くらいで出発するが、明日、明後日は記事がアップできなくなると思うので、お知らせさせていただいた。

  友は目をわたしは耳を悪くしてともに生きゐることを確かむ  biko

日本人がんばれ!\(^O^) /

2017年01月25日 18時48分19秒 | ニュース
今日の夕刊を見ると、一面に大関、稀勢の里の横綱誕生の記事が載っていた。

実をいうと、最近は、あまり相撲を見ないのだが、しかし、日本人横綱の誕生は3代目若乃花以来だと聞いたからブログ記事にすることにした。

国技が外国勢に奪われてから久しいが、この快挙は素直に喜ぶことにしよう。

私は、昨年の今日も相撲のことを書いていたことをgooブログに教えてもらった。

題して、「琴奨菊の奥さんって綺麗な方ですね」(笑)

ミーハー的な記事だが、最近は日本人の活躍を見ると心底嬉しい。^^

日本人がんばれ!\(^O^) /

  謹んでお受けしますと稀勢の里がんばれ日本と日本の男  biko


天皇制度の存在価値は天皇の存在にあると考える私

2017年01月25日 11時02分11秒 | 私の意見
皇室問題について書きましても私自身なんの益するとこともありませんが、書かずにはいられなくて書きます。

もう決定的なようでございますが、生前譲位について、今も疑問に思っております。

なぜ、天皇陛下は生前譲位をなさらなければならないのでしょうか。

なぜ摂政ではなくて、一気に譲位なさるのでございましょうか。

高齢になられて、お体がしんどいようであられましたら、皇太子殿下、ならびに秋篠宮殿下に祭祀、公務を肩代わりしていただくことではいけないのでしょうか?

災害地お見舞いとか、まして海外慰霊などは、していただかなくても特に支障はないと存じます。

できうれば祭祀だけしていただければと存じますが、それもご無理であられるのなら、お任せなさればと存じます。

元号を変えることは大変なことでございます。

国民のことを思われるのでございましたら、もう一度お考え直しいただけませんでしょうか。

ニュース等では、もう譲位なさることが決定したかのように報道がなされておりますが、一国民として、あくまで生前譲位は反対の気持ちは表明しておきたく存じまして、ブログ記事にさせていただきました。

庶民のわれわれには、こうするよりほか手立てがございませぬゆえ。

母のお見舞いには私一人で帰省することに

2017年01月25日 06時25分49秒 | 家族
夫と私が車で帰省すると知った母は連日電話をかけてきて、帰省したら従妹の家にもお墓参りにも連れて行ってという。

が、91歳の母は現在腰椎骨折で入院中である。

兄嫁からのメールによると、

腰椎だけでなく、背骨の2番目の骨も崩れているそうで、12月からの治療で痛みはとれているかもしれないが、これからが大切なので、春まで動かないでほしいと主治医の先生は言われているそう。

おまけに今動かれると、次の骨折につながるそうで、次は大腿骨、足にくるのだそう。

主治医の先生は当然、母にもその説明はしていると思うが、外出好きの母は、痛みがとれたら外に出たくてたまらないのだろう。

最近少し認知もかかっているようだから、言われても忘れているか、理解していないというか、わざとに理解していないふりをしているとか?

で、夫と私が車で帰省したら絶対自分の希望を通すと思うから、車で帰ることはやめることにした。

もともと夫は決算前の仕事が溜まっている状態なので、結局、私一人が帰省することに。

それにしても、母は、年取っても、いつまでも自分の思いを通そうとする人である。

が、それは寂しさの裏返しかもしれないとも思うのだが、どうだろう。

51歳のときに夫を亡くし、頼みの綱だった長男には3年あまり前に先立たれた。

電話のたびに「bikoは元気か」と私の安否を尋ねるのは、私がいなくなれば独りっきりになると思っているせいではないか。

いや、兄の残した甥たちはいる。

しかし、母と同居の甥たちは、母のわがままにはうんざりして母を避けている。

亡くなった兄も、母のわがままには困っていたが、しかし、そこは親子、何かのときには優しかったらしい。

が、母より先に死んだことは一番の親不孝になった。

私も、複合的に不調をかかえているから、いつまで生きていられるかわからないが、せめて母の生きている間は死ぬわけにはいかない。

  親よりも先立つことは最強の親不孝なり此の世に生きて  biko

昨日カットしてもらって、ショートショートになりました

2017年01月24日 04時01分14秒 | わたしのこと
私はずっとショートヘアーにしているが、ショートヘアーというのは意外とカットの回数を要す。

おかっぱ風髪型だったら少し伸びてもそれほど気にならないと思うが、ショートヘアーというのは、少し伸びると形が悪くなるだけでなく、うっとうしく感じる。

それで昨日もカットに行ってきたのであるが、適当にお任せしますとお任せすると、何とショートショートというような髪型にされてしまった。

まあ、お任せしたのだから文句は言えないが・・・。

すっきりしたといえば言えるけれども、短すぎはしないかとも思う。

が、さっぱりしたことも確かで、前髪がうっとうしくもなくなったし、首に纏わる毛もない。

見かけより、自分が快適であれば、それでいい。

私は、基本、お化粧はしないが、こういうショートショートヘアーだと少し口紅でも引いたほうがいいかもしれないなどと鏡を見て思う。

  思ほへずショートショートになりにけり髪より醸す何もなくなり  biko

なぜ私は毎日書くのだろう?

2017年01月23日 05時34分57秒 | ブログについて
毎日ブログを書いて、どんないいことがあるのだろう?

たまに書けば少しは珍しいことも書けるかもしれないが、毎日書けば平凡なことしか書けない。ことに私のように外出しない人間は。

だけど書きたいのである。

書いてよかったこともあるが、書いてよくなかったことも多々ある。

優等生的なことばかり書いていればいいが、私は人格者ではないから、ありのままを書くしかない。

でも、これでいいのだ。これが私という人間だから。

  よく見せるために書いても意味はない私はこんな人間である  biko