さる方が、お嫁さんに「私はお嫁さんではありません。○○さんのパートナーです」と言われ、そのお嫁さんにその名前で呼ばれるとお聞きして、「へ~、現代は、そういうお嫁さんもおられるのだ」と、ちょっと驚いた。
私たちのころは、そんなことを姑に言うことなど考えられなかった。特に私は。
難聴で、さしたる学歴も職歴もない私など、到底そんなことは言える立場ではなかった。
そうでなくても団塊の世代の私たちの適齢期は、「男一人に女トラックいっぱい」と言われるくらい圧倒的に女性の数が多くて女性の立場が弱かった。年上の丁度の年恰好の男性が半分くらいしかいなかったから、そういう関係に甘んじなければならない面があった。
だからというわけでもなかったかもしれないが、私など、姑には、ずいぶん勝手なことを言われてきた。
子供が生れたときも「絶対パパ、ママと言わせてはいけません」と厳命されたのに、姑は自分のことは「私はまだおばあちゃんなどと呼ばれたくないから、大ママちゃんと呼ばせてちょうだい」とか、私が嫁であるという理由だけで、実家に年に一度か二度しか帰ることを許さなかった。同様に、嫁さんだから基本的に盆正月の帰省はダメだった。
それだけでなく、帰省する時は、当時は神戸に住んでいたが、わざわざ川西まで年子のふたり子の、一人は背中におんぶして、一人は抱っこして来て、「今から帰らせていただきます」と畳に両手をついて挨拶しなければならなかった。
別に旅費とか出してくれるわけでもなく、お土産を持たせてくれるわけでもなかったのに、なぜあれほども干渉されなければならなかったのだろう。
帰省して戻ってきたときも、わざわざ大回りをして川西まで来て、同様の挨拶をしてから神戸の自宅に帰らないといけなかった。
もうその挨拶をするだけで、帰省前からへとへとになったし、戻ってきても、帰宅直後は疲れ果てていた。
今考えても酷いと思うが、当時は夫も親のいうことは絶対と思っていたから、庇うとかはしてくれなかった。
離婚したいとも思ったが、子供をおいて離婚することは考えられず我慢した。
話が逸れてしまったが、呼び名は否応なしにその関係を決定付けるところがあるから、そのお嫁さんの言い分は、たぶん正論だろう。
嫁さんと呼ばれて弱き嫁なりしころもありにき義母ありしころ biko
そのお嫁さんの言われる通り、「嫁さん」「姑」などと固定せず、お互い対等な人間関係でありたいと思う。
私たちのころは、そんなことを姑に言うことなど考えられなかった。特に私は。
難聴で、さしたる学歴も職歴もない私など、到底そんなことは言える立場ではなかった。
そうでなくても団塊の世代の私たちの適齢期は、「男一人に女トラックいっぱい」と言われるくらい圧倒的に女性の数が多くて女性の立場が弱かった。年上の丁度の年恰好の男性が半分くらいしかいなかったから、そういう関係に甘んじなければならない面があった。
だからというわけでもなかったかもしれないが、私など、姑には、ずいぶん勝手なことを言われてきた。
子供が生れたときも「絶対パパ、ママと言わせてはいけません」と厳命されたのに、姑は自分のことは「私はまだおばあちゃんなどと呼ばれたくないから、大ママちゃんと呼ばせてちょうだい」とか、私が嫁であるという理由だけで、実家に年に一度か二度しか帰ることを許さなかった。同様に、嫁さんだから基本的に盆正月の帰省はダメだった。
それだけでなく、帰省する時は、当時は神戸に住んでいたが、わざわざ川西まで年子のふたり子の、一人は背中におんぶして、一人は抱っこして来て、「今から帰らせていただきます」と畳に両手をついて挨拶しなければならなかった。
別に旅費とか出してくれるわけでもなく、お土産を持たせてくれるわけでもなかったのに、なぜあれほども干渉されなければならなかったのだろう。
帰省して戻ってきたときも、わざわざ大回りをして川西まで来て、同様の挨拶をしてから神戸の自宅に帰らないといけなかった。
もうその挨拶をするだけで、帰省前からへとへとになったし、戻ってきても、帰宅直後は疲れ果てていた。
今考えても酷いと思うが、当時は夫も親のいうことは絶対と思っていたから、庇うとかはしてくれなかった。
離婚したいとも思ったが、子供をおいて離婚することは考えられず我慢した。
話が逸れてしまったが、呼び名は否応なしにその関係を決定付けるところがあるから、そのお嫁さんの言い分は、たぶん正論だろう。
嫁さんと呼ばれて弱き嫁なりしころもありにき義母ありしころ biko
そのお嫁さんの言われる通り、「嫁さん」「姑」などと固定せず、お互い対等な人間関係でありたいと思う。