神鳴り(アメジストネックレス)

難聴ゆえに家居の好きな主婦です。過去、心臓弁膜症、大腸がんの手術を受けました。趣味は短歌です

眼の見えなくなった友人の孫

2018年03月02日 08時27分24秒 | 友人
数日前の帰省のときに訪問した、目の見えなくなってしまった友人には5歳の孫がいるらしい。

これは彼女の娘さんの孫だ。

この娘さんは名古屋で公務員をしているが、この娘さんはもちろん、
その娘婿さんもとても思いやりのある人で、
目の見えなくなった友人のことをいろいろ気遣ってくれるらしい。

前の記事にも書いたが、
この友人の連れ合いも、くも膜下出血の後遺症で体が不自由になっている。

だから、彼らが名古屋に行ったときは、名古屋駅まで迎えにきてくれたり、
その後の行動にも、最大限の配慮をしてくれるらしい。

私は、娘さんがそんないい人と結婚したことを心より喜んでいる。

そして、さらに嬉しいのは、そのお孫さんが、すごくおばあちゃん思いなのだそう。

まだ五歳なのだが、友人が行くと、

「ぼく目の見えないおばあちゃんを守ってやらないといけないの」と言って、
手をつないでくれるらしい。

そこまではいいのだが、

柱があるのに、そのまま手をつないで引っ張ってくれたものだから、
友人は、その柱に思いきりぶつかった。

すると、そのお孫さんは、
「こんなだから、ぼくはおばあちゃんを守ってあげないといけないの」
と言ったそう。

自分のせいで大事なおばあちゃんが痛い目に遭ったとは思っていないらしくて、
そこが五歳児らしいと友人は笑っていた。

が、きっとこのお孫さんは、将来友人の力強いサポーターになることだろう。

大事なことは心だ。

友人は、目は見えなくなったが、しかし、こんな優しいお婿さんやお孫さんに恵まれて
果報者だと思う。

お金があっても、五体満足でも、家庭的に幸せでない人はごまんといるのだから、
私は、彼女の幸運を心より祝福したいと思う。

*+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

・目の見えぬ友を助けるその孫は柱がありても友を引つぱる

・目の見えぬ人に見えるは心なり見えぬ心が一番見える

・難聴のわれに聞こえぬ人の声しかし心の声は聞こえる

続々・村形明子さんの思い出

2017年12月22日 10時48分34秒 | 友人
昨夜、読者の”象が転んだ”さんから村形明子さんに関するコメントをいただいた。

直接明子さんに関したことではないが、私が転象(=象が転んだ)さんを村形さんの学友であられる白象さんと思い込んでいることを受けて、転象さんが直接白象さんブログにコメントされた経緯を書いてくださってあった。

転象さん、ありがとうございました。

が、せっかく転象さんが私のために一肌脱いでくださったにも関わらず、白象さんのコメント返しは、学者らしく?そっけないものでした。

それは東大教授(現在は名誉教授?)である白象さんのお立場上なのか、本来のご性格のためかはわかりませんが、そんな下世話な話題には答えたくないという意思表示であられたのでしょうか?

そこで、また読者サービスも兼ねて、私の先日知りえた明子さんの秘密を少し公開させていただきますね。

明子さんとその悲恋のお相手だった恋人は、二人とも学者仲間であるよしみから、一時期一緒にアメリカに行き、一緒にボストン図書館に通ったりした仲だったそうです。

明子さんは英文学を、恋人は独文学を専門とされていましたから、まったく同じものを目指していたわけではなかったでしょうが、文学を志す同士、意気投合して行動されていたことは容易に推察できますね。

30年も昔のことですから、当時は、お二人とも教授にはなられていなくて、たぶん助教くらいではなかったかと推察します。

で、手に手を携えて、お互いの学問の向上のために図書館通いをされたのでしょう。

そこには、われわれ平凡な市井の生活を送っている者たちには想像もできない高尚な志があったことでしょう。

その学問的な探求心が明子さんの恋心にも油を注いで、いっときはかなり熱くなっていられたのではないかと、これは私達の想像でした。

その打ち明け話をしてくださった夫の友人は明子さんのほうの熱が強かったように話されましたが、その真偽は、明子さんの亡くなられた現在、もはや闇の中です。

が、結局悲恋に終わって、その恋人は他の女性と結婚してしまわれたのでしょう。

その破局の理由は、前回にも書きましたように、明子さんの家事能力の問題とかがあったのではないかと思うですが、これは飽くまで推測です。

現実には、もっと複雑な事情があったのかもしれません。

が、とにもかくにも、その失恋が事実であったとしたら、あの純粋な明子さんは、どれだけ苦しまれたかと察せられます。

お父様は医師であられたご家庭のお嬢様で、才色兼備に生まれ合わせられた明子さんの初めての挫折だったかもしれません。

ひょっとして、その後、精神的に不安定になられたのではないかと、これも私の推測ですが、思ったりもします。

精神的な病は彼女の生来のものであったかもしれませんが・・・。

が、どんなに精神的不安定になられることがあっても、私は、明子さんのその芯にあった純粋を知っていたから、偏見などは持ちません。

むしろ、そのことによって、余計彼女に愛を感じます。

この、村形明子死去ネットの納谷明子さんという村形明子さんのご親戚の方と思われる追悼文に明子さんの人となりが表れていると思います。

・アメリカのボストン図書館通ふためともに渡米をせしとふ二人

・学問を究める目的もちしかど男女であれば恋も芽生えて

・専門を異にしてゐし恋人と異国で一緒に通ひし書館

・帰国して互(かた)みに学問究めればいつしか恋は片恋となる

・片恋となりても香具夜姫のごと輝きゐたり明子姫君

・そのときがきました月に帰ります香具夜ひめみこ月になりたり

村形明子さんも片付けのできない人だった

2017年12月17日 03時04分09秒 | 友人
片付けができないというよりも家事のできない人であった。

あれだけの仕事をしてきた人だったから当然かもしれないが、そんなところも私の母によく似た人だった。

私は彼女を私の母に会わせる前に、彼女に「あなたは私の母にそっくり」と言ったことがある。

それで、実際、母に会ったときに、彼女も何か思うところがあったのか、母に「お友達になってほしい」と頼んだらしい。

私は、彼女の悲恋には、この彼女の家事能力のなさが因としてあったのではないかと見ている。

いくら彼女が才色兼備であったとしても、家事が全くできない人であれば、男として、結婚することに二の足を踏むだろう。

それが結婚できなかった原因だったのではなかったか。

その恋をしたのは30年前というから、当時の彼女は46歳。

仕事の油も乗り切っていたころだろう。

結婚対象でなければ、魅力的な女性であったことは確かだ。

男性が家事をして家庭を支えるくらいの人だったら、あるいはその恋も成就したかもしれないが、そうではなかったのだろう。

最近でこそ家事のできる男性は増えているが、私達の年代より上の男性は総じて家事はできない。

結婚と恋とは違うとよく言われるが、それは結婚は現実だからだ。

私は、彼女が精神的に不安定になったのは、その悲恋が遠因になったのではないかと憶測するのだが、昔の彼女はどうだったろう。

ここらあたりは、彼女の大学時代の同級生だった白象さんにお聞きしてみたい。

昨夜コメントくださった転象さんが白象さんだったとしたら教えてほしいのだが・・・。

・家事できぬ人でありにし明子さん悲恋の因はそこにありしか

・掃除機をかけられぬほど汚部屋とぞヘルパーさんに言はれゐしとか

・箒すら入れられぬ部屋と自嘲して部屋に入れてはくれざりしかな

・パソコンをおいた場所のみ空間があるのと言ひゐし彼女の笑ひ

・「鶏肉が少し残つてゐるけれど何を作ればいいか教へて」

・笑ひつつ彼女は言へり「私のは男の手料理よりもひどいの」

村形明子さんの思い出・・・さらに続き

2017年11月10日 05時50分44秒 | 友人
村形さんとは、私の所属する短歌結社「塔」のインターネット歌会で知り合った。

村形さんは、京都大学を定年退官するにあたって、趣味として短歌を始めようと思いつかれた。

それで、同じ京都大学名誉教授仲間であった、わが結社の当時主宰者であった永田和宏氏に相談した。

そうすると、「それじゃ、試しに私の主宰する結社のインターネット歌会にお入りください」ということになったらしい。

それで入ってこられたのであったが、何しろ個性の強い人なので、しばしば歌会が荒れた。いや活気が出たとも?(笑い)

発言はユニークで面白いのだが、ルールを守らないというか、自分勝手な行動が目立った。

それで、若い人たちを中心に、彼女に拒否反応を起こす人が多くいた。

が、私は面白い人が入ってきたという感想を持った。

その後も、歌会をかき乱すような発言を繰り返すので、たまりかねた歌会の主宰者が「退会してください」と言った。

彼も最初はかばっていたが、あまりにも村形さんが悪目立ちすぎたから。

が、彼女はやめなかった。

彼女は、陰で私に憤慨していた。

名誉教授仲間である永田和宏氏にこの歌会の運営者を紹介してもらって参加させてもらうようになったのに、その運営者は私に対して騎士でないと。

まあ、ここらあたりは、村形さんの勝手な言い分で、聴きようによっては噴飯ものであった。

が、私は彼女をかばった。

というより、私は、それまでもやめさせられそうになった人を何人かかばってきた。

なぜかというと、ちょっと雑談が多かったからとか、発言の内容が低俗であったとかいう理由でやめさせられるのは可哀想だという弱者支援の気持ちからであった。

村形さんの場合は、最初の頃は、短歌も始めたばかりであったことも相まって、変な発言も散見された。

それだけじゃなく、それを注意されると、猛然と食ってかかるので、それが問題視された。

が、私は彼女をかばい続けた。

彼女は、さらに皆に虐められていると言い出した。

誰も虐めてはいなかったのだが、たとえば彼女が誰かを名指しで発言したときに、その名ざしされた人が応えなかったりしたら、彼女は虐められたと騒ぐので、歌会の主宰者が、必ずしも虐めているわけではなく、全部が読まれているわけではないから、そういうことも起こりえることを説明したりした。

こんなところは、村形さんは、まるで子供だった。

よく先生と呼ばれる職業の人達に子供じみた人が多いとか言われるが、彼女はその好例だったと言えようか。

私は可愛い人(?)と思って見ていたのだったが、そう見ない人のほうが多くて、結局、歌会の主宰者の窮余の策として、「塔」会員以外の人には歌会から出て行ってもらうことになった。

彼女は会員になっていなかった。

彼女は、当時、主宰者の永田和宏氏をあまり尊敬していなかった。というより全然尊敬していなかったので、そんなところに入会などするものかという気持ちだったのだろう。

しかし、「塔」のインターネット歌会は楽しんでいた。と思う。

で、結局、村形さんは辞めさせられた格好で退会した。

私と同様、彼女の退会を惜しんでいた人はいたと思う。

が、会の運営上、仕方なかったかもしれない。

村形さんは、「塔」の歌会に参加しながら、「日本歌人」にも参加していた。

が、「日本歌人」のほうも、正式な入会ではなく、講読会員だったようだ。

彼女が、「塔」も「日本歌人」も正式に入会しなかったのはなぜかという理由は、彼女から聞かなかった。

なぜだったろう?

村形さんは島津忠夫先生のことは尊敬していたが、結社に入会するほどのことではないと思ったのだろうか。

島津忠夫先生が結社の主宰者というわけではなかったから?

島津先生自身は「私は短歌についていろいろ書きますが、実作はそれほど得意ではありません」というようなことを言われたことがあった。

そういえば、たった2回の参加でしかないが、いずれの回も島津先生の歌の得点はそれほどではなかったように記憶している。

余談だが、この日本歌人の大阪歌会には、偶然、義母の女学校時代の友人が参加していて、この人はものすごく上手だった。

村形さんによると、島津先生が義母の友人の歌を「まるで手品のように上手い」と評したこともあったらしい。

この義母の友人も、義母の嫁である私の入会勧誘に余念がなくて、「あなたの歌は私の歌に似ている。入会すれば、私が歌作りを教えてあげるから」と、この人もしつこかった。(笑)

村形さんは、歌の上手い、この義母の友人を尊敬しまくっていた。

ところで、村形さんがなぜ永田和宏氏を尊敬しなかったかというと、永田和宏氏は京大名誉教授として、彼女の後輩だという理由もあったようだ。

これも余談であるが、

現在はなくなっているようだが、京大医学部の近くに京大会館という建物があった。

私も何度か「塔」誌の校正で訪れたことがあるが、村形さんはそこのレストランに夕食を摂りに行くことが多かった。

夕食後、彼女は、その会館のロビーでテレビを見るのが常だったらしい。

が、あるとき、彼女が、いつも通り、テレビを見ようとロビーにくると、自分の指定席と決めている椅子に永田和宏氏が座っていたと。

彼女は、先輩名誉教授の貫禄を見せてやらないといけないと思って?、「どきなさい」と言ったらしい。(笑)

永田和宏氏は、われわれ「塔」の会員からすれば、神様のような存在である。

が、彼は大人であるから、素直にどいてくれたらしい。^^

さらに話は続いて、「それがね。永田和宏さんは感心なことに京大会館を出る前、わざわざ私のところに来て、『それではお先に失礼します』と丁寧にあいさつをしてから出て行ったの」と。

こういうふうに、村形さんは、強烈なところはあったが、しかし、基本は、お嬢さんがそのままお婆さんになった人という私の母の言葉通りの人であった。

それを私の母に言われた室戸旅行の帰途、

淡路島を渡り終えたあたりで私がトイレに行きたくなり、神戸だったと記憶しているが、下道に降りて、私と夫がトイレに行ったときのことだ。

私達が戻ってくると、彼女が異常におびえている。

どうしたかと聞くと、「車に一人残されたから、すごく怖かった」と子供のようなことを言うのである。

そうそう室戸の宿では、私、夫、母、村形さんの四人が二部屋の続き間に泊まったのであるが、彼女の寝たほうの部屋にはカーテンがついていなかった。

窓の外は海で、外から見られるような窓ではなかったのに、彼女は自分の持参していたタオル、上着、カーディガンなどを総動員して、そのカーテンのかかっていない小窓を塞ごうとしていたことも思い出される。

その様子は、箱入りのお嬢さんがするような思いつきであり、仕事であった。

国立大学の名誉教授という、世間的には人に崇められる存在でありながら、そのすることとのギャップが可愛く、憎めない人であった。

思い出していると、芋づる式にいろいろと思い出される。

ああ、また会いたいなあ。

*


  国立大名誉教授の子供じみたしぐさ愛しく思ひだすなり

  白髪のお嬢さんなるお婆さん乗せて走れり鳴門大橋

  いかめしき人と世間は思ふらむいかめしくなく愛しき人を  

村形明子さんの思い出・・・昨日の記事の続き

2017年11月09日 04時54分31秒 | 友人
昨日の記事「状況証拠と直接証拠~ただし友人の恋愛についての」の村形明子さんの続きである。

読者のハイジさんのお嬢さんが見つけてくださった「白象の気まぐれコラム」というブログがある。

村形明子さんの東京大学時代の学友であった方のブログのようである。

そのブログの9月28日の記事に「日本におけるフェノロサ研究の第一人者として知られる学友・村形明子さんを悼む 」というのがあって、その記事を読むと、彼女が東大在学中、その所属する専門課程で紅一点だったことがわかる。

男性から見れば、それだけでも希少価値のある彼女だったと思うが、加えて美貌の人でもあった。

以前、彼女に「若い頃、もてたのでは?」と聞くと、彼女曰く「助教授あたりまでは、まあもてたかもしれないけれど、教授の座を争う戦いが始まるとそれどころじゃなくなるのよ」と。

それはそうだろう。

教授になれるかなれないかは、男性でも死活問題になるのだろうから。

それで、彼女も恋愛どころではなく、やっと将来の道が開けたのが、彼女の40代半ばごろであったのではなかろうか。

それならば、なおさら、夫の友人(連歌の先生)の推測する彼女の悲恋の過去が真実味を増す。

夫の友人も言っていたが、村形さんは媚びへつらいのいっさいない人であった。

悲恋になってしまったのは、そこらあたりが遠因になったのではないかと推測するのだが、どうだろう?

夫の友人は、「あの媚び諂いのない人が、なるのが非常にむずかしいと言われている文学部教授にまでなれたということは、よほど彼女の学者としての業績が素晴らしかったのだろう」と言っていたが、こと恋愛に関しては、その媚びへつらいのなさが、マイナスに作用したことが考えられる。

学者になるような男性は、どちらかといえば、自分を補佐してくれるパートナーを求めるのではないか。

わが道を行くタイプの女性であった村形明子さんは、そういう学者たらんとする男性には合わなかったかもしれない。

彼女自身が、彼女をサポートしてくれるようなパートナーを必要としたくらいだったろうから。

その意味では、彼女は女性としては幸せな生涯ではなかったような気もする。

晩年は、精神的にも正常心を失っていた面もあった。彼女の主治医が精神科医であったことから鑑みても。

それが彼女の純粋な精神性の証しというと、言い過ぎになるだろうか。

私は、私も、しばしば正常心を失うことがあるから理解できたのだが、普通の人には理解されがたい彼女の一面でもあった。

「天才と何とかは紙一重」という言葉があるが、彼女にも当てはまるところがあったとも言えるだろうか。

彼女は非常に理知的である反面、私と同じようにスピリチュアル的なものにも関心が強かった。

数年前に一緒に室戸岬に旅行したとき、彼女は、弘法大師の修行したと言われている御厨人窟(みくろど)に入って深く何か感じたようだった。

それで、また室戸岬に行きたいと、ことあるごとに言っていた。

あの御厨人窟(みくろど)の洞窟で、彼女は何かインスピレーションを得たのかもしれない。

インスピレーションとまではいかなくとも、それに近い何かを感じたのだろう。

余談だが、私達が行ったときは御厨人窟(みくろど)の洞窟に入れたが、現在は入れなくなっているらしいから、私達は幸運だったことになる。

私の母と彼女が意気投合したのも、この室戸旅行であった。

実は、私の母も、わがままだけではなく、実は少し普通の人とは違う感覚を持ち合わせている。

母は、「視える人」であるから。

この言葉の意味するところは、スピリチュアルに関心のある人には説明の要はないと思う。

私達は、ある意味、こういう目に見えない何かで惹かれ合ったと言えるかもしれない。

*


  尋常であらざる面をもち合わせゐしひと村形明子偉人は

  新円寂清浄光院英智明心大姉霊位となりし英霊

状況証拠と直接証拠~ただし友人の恋愛についての

2017年11月08日 11時21分48秒 | 友人
筧千佐子の死刑判決がくだったようだ。

今朝の新聞には、「状況証拠を認め死刑判決」とある。

限りなくブラックに近いグレーだったから、当然の判決であろう。

筧千佐子の認知症がどうのこうのと弁護団が弁護しているようだが、これらの犯罪は認知症が理由にはならない。

多少認知症になっていたとしても、彼女のしたことは許されることではない。

と、ここまではニュースに対する感想だが、ここからはガラッと趣を変えて、亡くなった友人の存命中の恋愛について書きたい。

今年9月に亡くなった友人は学問一筋の人だったから、恋愛などとは最も無縁の人のように見受けていた。

が、彼女の最晩年に濃い交流のあった私の夫の友人が言うのには彼女も30年前に悲恋があったようだと。

悲恋と一言でいうが、それには、自分が振られるというケースもあるし、逆に振って失恋というケースもある。

彼女がいずれであったのかは、わからないし、それ以前に、彼女が本当に恋愛したかどうかも、今となれば定かではない。

亡くなった友人のことを何でも知っておきたい私が、夫に、夫のその友人にその真偽を尋ねてもらうと、夫の友人は、「それは状況証拠であって、直接証拠ではない」と応えたらしい。

つまり、夫の友人にも確証があったわけではないのだ。

そのため、その夫の友人は、近々、その私の友人だった村形明子氏と彼女の恋愛の相手だったと思しきドイツ文学者を再会させる計画を立てていたのだそう。

というのが、そのくだんのドイツ文学者の方は、その夫の友人の近くにお住まいだからと。

そうして再会の実現ができたら、その状況証拠を確定証拠にできたのにと、夫の友人は悔やんでいたらしい。

私には寝耳に水であった。

が、そう言われてみると、思い当たるところがないこともない。

夫の友人が、そのお相手のドイツ文学者の方は、昨年亡くなられた国文学者の島津忠夫氏に似ていられると言われているらしい。

実は、村形明子氏は、毎月、「日本歌人」という結社の大阪歌会に、遠方にも関わらず、欠かさず出席していた。

大阪歌会とは銘打っているが、実際の開催場所は伊丹市であった。

その歌会に、村形氏は熱心に私を誘っていた。

高名な国文学者の島津忠夫氏が毎月その歌会に出席されて、歌会のあとでは、島津忠夫氏から「源氏物語」の講義が受けられると。

この私の難聴対策の要約筆記は私がしてあげるからと村形氏はしつこいくらい熱心に誘ってきた。

あまりのしつこさに(笑)、私も2度参加させていただいた。

高名な先生の出席される歌会にしては、少人数だったため、高度難聴の私でも、補聴器をつけていれば何とか聞き取れた。

そうすると、村形氏は、さらにしつこく誘ってくるようになった。

が、私は、頑として、それ以後は行かなかった。

最初に彼女が誘ってきたときの講釈に、「その歌会には、高名な国文学者の島津忠雄先生が出席されるし、その島津先生って、お歳は召していられるけれど、すごくハンサムな方なの」というのがあった。

え、彼女にしては異なことを言うものだという記憶が残っている。

なにしろ彼女は、塔のインターネット歌会に参加していた頃も、ちょっと先生風を吹かす男性がいたら、コテンパンにやっつけるような人だったから。

私は、彼女は男嫌いではないかと思っていたくらいだ。

それなのに、島津忠夫先生のことをハンサムな方だと言うとはと驚いたのだ。

だから、夫の友人の言う、30年前の村形明子氏の恋愛の相手が島津忠雄先生に似ていたという状況証拠は若干頷ける。

私には、もう一つ村形氏の恋愛の関係かなと思われる氏の言葉を覚えている。

その「日本歌人」の大阪(伊丹)歌会に二度目に参加させていただいたときは、要約筆記をしてもらうため、夫に同伴を頼んだのであったが、夫は車で同行してくれた。

車だったため、歌会が終わってから村形氏を我が家にお連れした。少し強引に(笑)。

ちょうど数日前に高知の実家の母が来て帰ったばかりだったので、母の寝ていたベッドを見せて、「村形さんも、いつでも泊まりに来てくださってもいいから」と私が言うと、彼女は真顔になって、「最近、とある人に追いかけられているの。ひょっとすると、来させていただくようになるかも」と言ったのだ。

追いかけられている?

私の頭にひらめいたのは、年齢こそ高齢だが、しかし、まだかつての美貌のかけらの残っている彼女であれば、ひょっとすると、男性に追いかけられているのかしら、ということであった。

髪の毛は白髪であったが、話をすれば、未だにかつてのお嬢さん然とした雰囲気を残していたから。

私の母など彼女のことを、「お嬢さんがそのままお婆さんになったような人」と形容したくらいだ。

それらのことを総合すれば、あるいは、悲恋もあったかも、と。

私が、今日こうして彼女の個人的な秘密めいたことを記事にしているのは、ほかでもない、そのドイツ文学者の目に、この記事が目に留まって名乗り出てくださらないかという淡い期待があるからだ。

私の想像では、そのドイツ文学者の方は、村形さんよりお若い方ではないかと。

なぜなら、年齢的に、村形さんより高齢だと、すでに鬼籍に入られている可能性大だし、当時の彼女の年齢、46歳くらいか、からしても、年下の可能性の方が強いと思うのだ。

夫の友人の住まいが京都市右京区大原であることから、そのお近くにお住まいのドイツ文学者といえば、かなりヒットに近づくと思うのだが。

*


  何もかも知りたし今年亡くなりし親友に悲恋ありしことなども

  男など何さと思ひゐし人と思ひゐし吾(あ)の認識崩る

  七十を六つ超えても愛らしき人でありたり村形明子

  悲恋せし人とはつゆも見えざりき男勝りの人に見えゐき

  そのことを知ればも一度会ひたかり悲恋ありしかあらざりしかと

  認識を新たにせねばならぬのかその人死にて二か月後には

  デイサービスたつた一度の体験に男が見張りするから嫌と

  男性の見張りに入浴できざりと後期高齢者の友人は

  年甲斐もなく乙女チックでありしかば老いたる己を認めず死にき

  急逝が彼女にもつとも相応しき死に方でありきと今さらに思(も)ふ

  今もまだ乙女の気持ちで死にてゐるならむ四十九日を過ぎても

  飾り気のあらざりし人の飾り気のなき葬儀より二か月が経つ

  一日も彼女を忘れる日はあらず今もできれば会ひたしと思(も)ふ

今日は友人の告別式でした

2017年09月09日 18時40分57秒 | 友人
会葬者は昨日のお通夜より少ないくらいでしたが、今日は大学の名誉教授仲間らしき人が何人か来ておられました。




お坊さんは今日も、昨日とは違うお顔触れでしたが、五人来てくださっていて見事な声明でした。

お坊さんの読経が終わったあと、棺の蓋を開いて仏様の周りにお花を入れてまた蓋は閉じられました。

私は、母から言付かって渡せないままだった手紙を棺の中に納めさせてもらいました。

そして冷たくなった仏様の手を撫でて「天国に行ってください」とお別れを告げました。


  もうこれでふたたび会ふことあらざると思へば惜しき別れなりけり

  知り合ひてひと昔たつ人と今日お別れしたり鞍馬口で

  昨日今日つづけて鞍馬口に行きお通夜と告別式に座したり

  片道に二時間往復四時間の往復二度す昨日と今日で

今日も、朝は涼しかったのでしたが、昼間は暑く、老体には堪えました。

友人のお通夜

2017年09月08日 23時54分11秒 | 友人
今月5日に亡くなった友人のお通夜に行ってきた。

日本で、1、2位を争う国立大学の名誉教授のお通夜にしては、こじんまりしたものであった。

というのが、彼女には家族がいなかったから。

唯一彼女の遺徳を忍ばせる縁(よすが)として、お坊さんは尼さん2人含めて5人いらした。

だから読経は見事なものであった。

これは彼女が日本フェノロサ学会会長として、滋賀県の大津市の三井寺とご縁があったためもあったと思う。→アーネスト・フェノロサの墓

今日のお通夜を献立てて進行したのは、彼女の教え子たちであった。

だからほとんどが若い人たちであった。

私くらいの年代の弔問客は、彼女の趣味の連歌の会の友人たちであった。

かく言う私も、彼女の趣味の短歌の友人の一人である。

会場に到着すると、私には聞こえなかったが、世話役のリーダー格の若い男性が、「〇〇さん、いらっしゃいますか?」と尋ねていたらしい。〇〇とは私どもの姓である。

で、夫が名乗り出ると、彼は、「先生は〇〇さんのことばかり話していました」と。

へぇ~と思った。

実は、私は今日のお通夜に出たら明日の告別式は失礼させていただこうと考えかけていた。

最初は出させていただくつもりをしていたが、朝晩は涼しくなったといっても、日中はまだまだ暑い。

ことに正式な喪服など着ていれば、暑さで参ってしまうかもしれない、と思ったのだ。

が、彼女の教え子がそんなことを言ってくれたら、出ないわけにはいかないではないか。

告別式は、明日の午前10時から12時までである。

朝はともかくとして、帰りは相当な暑さになるだろう。

ひょっとしたら、告別式のあと、火葬場までお付き合いしないといけないかもしれない。

神様、どうか明日は過ごしやすい一日にしてください。


  主婦なりし義母より地味なお通夜なり国立大学名誉教授は

  男なら奥さんがゐて子供ゐて派手なお通夜になりにけらしも

  ひとすじに仕事してこし女性(ひと)なれば結婚する間もなきまま死にき

  結婚も厳しきものではあるけれど未婚も厳し年老いてから

  教授まで上り詰めても家族ゐぬ不安は数へ切れずありしか

一昨日の記事にした友人が亡くなりました

2017年09月07日 18時10分53秒 | 友人
一昨日「お見舞いに行くべきか否か」の記事にした友人、村形明子さんが亡くなられたと連絡がありました。

亡くなられたのは、あの記事を書いた日、9月5日でした。

いま涙があふれています。

大好きだった村形明子さん。

この5月には、わざわざ私の母に会いに高知まで来てくださった。(涙)

7月末には、「熱中症で何も食べられなくなっています」とメールしてこられたから、お弁当を作って届けました。

8月の私の帰省中も、メールでやりとりしていたのでしたが、そんなに悪くなっていられたとは夢にも思っていなかったです。

以前、彼女の歌を紹介した記事が、どういうわけか昨日、今日、読まれていると思っていたら、亡くなられたことを知った方が読みにこられていたのですね。

その記事は2012年11月15日の「村形明子さんの歌」です。

関心を持たれた方は、どうぞお読みになってくださいませ。

彼女への供養になると思いますから。


  大好きな村形明子さん逝去されしとメール届きしこの日

  胸騒ぎしてゐしことはお知らせでありしかあの日入院を知り

 

お見舞いに行くべきか否か

2017年09月05日 01時17分55秒 | 友人
京都の友人が入院していることがわかった。

それで今、お見舞いに行くべきか否か迷っている。

友人は独身で一人暮らしである。

以前、妹さんは外国暮らしで音信不通とお聞きしたことがある。

つまり現在は天涯孤独の身であられる。

が、国立大学の教授をなさっておられたような方だから、それなりのお付き合いはあるだろう。

だから、私などがお見舞いに行かなくてもいいと思う反面、しかし、知って知らん顔もね。

いや知ったと言っても、向こうから連絡があったわけではなく、用があってメールしても返信がないから、電話のできない私は夫に電話をしてもらった。

何度電話してもらっても出てこられない。

なにしろ7月末は熱中症になって何も食べられなくなっていられたから、心配してしまう。

で、そのとき彼女がショートステイされた老人ホームをネットで探して夫に電話してもらった。

折り返し担当のケアマネージャーさんが電話くださって入院先を教えていただいたという次第。

だから、お見舞いに行くのは押しかけになるから、迷うのだ。

私は、自分が入院したときは、誰にもお見舞いに来てほしくなかった。

私は、特に聴覚に障害があるから、来てもらっても話が十分聞き取れないという事情があるからなのだが、しかし、そういう事情がなくても来てもらいたくない人は多いだろう。

だから、行かないほうがと思う反面、我が家のご近所の一人暮らしの女性のときも遠慮しているうちに、あっという間に亡くなられてしまった。

今にして思えば、思い切ってお見舞いに行っておけばよかったと反省する。

つくづく一人ぐらしの方の対応は難しいものだと思う。


  お見舞ひに行く行かぬか迷ひをり一人暮らしの人であるゆゑ

  来られたくあり来られたくなき心合わせあるらむ独り身の女性(ひと)

  死ぬ時は一人家族のあるなしは関係なしと思へどされど

熱中症の友人にお弁当を届ける

2017年07月31日 23時38分07秒 | 友人
今朝は3時起きで熱中症の友人に届けるお弁当を作った。

餃子、豚肉、烏賊、胡瓜、人参の甘酢炒め、焼き茄子、手作りの梅の甘酢漬け、従弟にもらった小田原蒲鉾など家にあったもので作った。

1時間くらいで出来上がると思っていたが、餃子に時間がかかって、出来上がったのは4時半。

汗をかいたので、シャワーを浴びたら5時近くになってしまった。

夜明け前に出て日の出前に帰ってこようと思っていたのに1時間の誤算だ。

阪急電車に乗ってから、友人に「今から行きます」とメールしておいた。

四条烏丸駅で駅員さんに友人の住所を見せて適当なバスを教えてもらった。

教えてもらった24番出口に出ると、間もなくバスは来た。



ほいほいと乗り込んだのまではよかったのだが、ここから問題が起こった。

百万遍で降りなければならなかったのだが、もっと北に運んでくれるだろうと乗ったままでいると、バスはどんどん西に向かうではないか。

バス車中に友人から返信が届いて、「阪急電車なら四条烏丸で降りて、地下鉄で北大路駅まで行って、そこからバスに乗れば、マンションの前に停まります」と。

が、もうすでにバスに乗っているので、地下鉄に乗り換えるのは面倒で、そのままそのバスに乗っていることにした。

循環バスだったので、また一巡して百万遍まで来た。

ここまでで時間を食ってしまって当初は友人のマンションに8時くらいの到着予定だったのに、結局、9時近くになってしまった。

すでに暑い。

しかも、友人のマンションは百万遍から、かなり歩かなければならなかった。

教えられた部屋まで行ってドアをノックしたが、出てこない。

チャイムを鳴らせばよいのだが、友人がいつも、「恋人ができても招じ入れられないくらい散らかっています」と言っているので、下手に開けてもらうよりはと黙って玄関前にお弁当と母から言付かっていたものを入れた紙袋を置いて去った。

一階に降りると玄関前のバス停に京都駅行きのバスが来たので、そのまま飛び乗った。

途中適当なところで降りて阪急電車で帰る予定だったが、バス車中のクーラーの気持ちよさに、つい終点の京都駅まで乗ってしまった。


京都駅からは地下鉄で阪急四条烏丸駅に戻るつもりをしていたが、ふと京都大山崎に住んでいる友人に会って帰ろうと思いついてメールを入れた。

この友人は、以前住んでいた大阪のマンション時代の友人だ。

JR山崎駅まで来てくれると言うので、地下鉄に乗るのは止めてJRに乗った。

大山崎駅前のレストランで早いランチを食べながら、しゃべって、午後3時ごろ帰宅した。

夜中から起きて活動したので、とても疲れていて、帰宅後さきほどまで爆睡してしまった。

  熱中症わずらふ友が少しでも食べて元気になるを祈らむ

が、今日は、私のほうが熱中症になってしまいそうな一日であった。

  熱中症わずらふ友の見舞ひにて危うくわれが熱中症に

ブロ友さん、今日は遠いところ、はるばるお越しくださりありがとうございました

2017年01月05日 23時46分42秒 | 友人
今日は、同じ近畿圏ではあるけれども、滋賀県は彦根市のHさんが、はるばる兵庫県川西の我が家まで来てくださった。

急といえば急なお越しだったので、家にあるもので、お昼の膳を整えた。

メインは自分の好物であるネギトロ寿司。私はネギトロ用のマグロは冷凍庫に常備してある。

あと、お正月に好評だった伊達巻を昨夜作っておいた。黒豆の煮汁で水羊羹、買ったまま開けていなかった千枚漬け、お味噌汁などなど。

で、初めてきてくださるお客様だったにも関わらず、接待のしやすい食堂にお通しした。



ブログのコメント欄でやり取りする友であったにも関わらず、初めての来訪とは思えないくらい打ち解けてお話することができた。

あまりにも話が弾んだので、接待もろくにできず、夜まで喋り続けの一日だった。

Hさんお陰で楽しく一日を過ごすことができました。

これに懲りずに、また来てください。

bikoより

  友来る近江彦根を朝に出て摂津川西わが住む町へ  biko

先生という職業の適性は?

2016年04月25日 23時08分27秒 | 友人
昨日帰った友人Nさんは、大学卒業後、中学校の英語の先生をしていたらしい。

そのころは、私自身が、自分の就職、結婚などで忙しく、このNさんとも、あまり会ってはいなかったから、そのことは知らなかった。

昨日聞いたところによると、Nさんは、先生になって半年後くらいに、教務主任のような先生に、「あなたは先生に向いていません」と宣告されたそう。

それで転職しなければと、また保育士の資格などとって、幼稚園の先生もしたらしいが、これも向いてないと止めたと。

その後、いろいろな仕事をしたらしいが、OLだけはしたくなかったという。

一方、一昨日来ていた、もう一人の友人Mさんは、地元の国立大学教育学部を出て、地元の小学校の先生を1年したらしいが、自分で、自分は先生に向いていないと自覚したそう。

二人の話を聞いていて、それでは、いったいどんな人が先生には向いているのだろうと考えた。

Nさんは、確かにちょっと頼りない感じのするところがあり、それが私には長所に見えるのだが、先生には、あるいは向いていなかったかなとも思える。

が、Mさんのほうは典型的な優等生タイプだったから、どこが不向きだったのか分からない。

先生に向いたタイプって、どういう人だろう?

これは、自慢でも何でもなく、白状をするが、私は、どういうわけか、短大時代、教授に先生タイプだといわれたことがある。

が、私自身は、ぜんぜん先生をする気などなかった。

というより、当時から難聴だったから、できるはずもなかった。

が、教授にそういわれたのは、なぜだったろうと、時々考えることがある。

教えること自体は好きかもしれない。

短大時代は、休日になると、叔母の家に行って、当時中学生だった従弟の勉強をみてやって、叔母から家庭教師代をいただいていた。

従弟の家庭教師は、私が短大を卒業した年、すなわち従弟が中学2年までした。

従弟は、私などが教えなくても、もともと勉強のできる子だったから、成績がよかったのであるが、その後、塾にもいかずに学区のトップ公立高校に合格して、それは私のお陰だと、叔母にはお礼を言われた。

しかし、従弟の合格は私のお陰でないことは私が一番よく知っている。が、教えることが楽しかったことは確かだ。

私は、希望の大学も受からなかった劣等性だったが、しかし、優秀だった従弟は、私が教えても、教えなくてもできる子だったのだ。

それにしても、先生に向いている人とは、どういうタイプの人のことを言うのだろう?

一昨日、昨日と、先生に向いていないといわれた、あるいは、そう自分で思った友人たちのことを思い浮かべながら、思案している。

  先生に向いた人とはどのやうな人をいふのか答へよ先生  biko

友人と24時間一緒にいて、話し続けて精魂尽き果てた(笑)

2016年04月25日 21時04分45秒 | 友人
友人は、昨日のお昼ご飯を食べてから帰途についたが、延べ24時間余りを一緒にいて、目覚めている間、喋り続けたので、精根尽き果てた。

私は、昨日友人を送ってから、一日以上、呆けたままだ(笑)。

まだまだ話したいことはいっぱいあったが、友人は名古屋に住んでいる妹さんに昼過ぎに行くと言ってあったらしく、妹さんから電話が入って、別れざるを得なくなったのだ。

友人は数年前に医師だったお父さんを亡くしてからは高知に帰ってないと言っていた。

高知にはお姉さんがいるけれど、それほど仲がいいわけでもないから、帰省するより、私とか、一昨日来ていたMさんと会うほうがよっぽど楽しいと。

そんなものかもしれない。

私も、母が亡くなれば、高知に帰ることはなくなるだろう。

ふるさとは親があってのふるさとで、親のいないふるさとなんてという感じなのであろう。

  ふるさとはすなはち父母であるゆゑに父母なくなればふるさともなし  biko

それにしても、疲れた。

友人は、しゃべるだけでよかったが、私は、しゃべるのと平行して三度の食事の支度もしなければならなかったから。

外食をすればよさそうなものだが、私は補聴器をつけているので、静かな自宅内でなら何とか会話ができるが、レストランなどのような、他の人たちの会話が入るところだと、全然聞き取れなくなる。

補聴器は、音を選別せずに、友人の声も、その他の人たちの声も、等しく私に聞かせるから。

それでも、補聴器をつけていれば、条件つきではあるが、なんとか会話ができるから、文明の恩恵を蒙っているといえるだろう。

友人には、私が両方の耳に補聴器をつけてからのほうが以前の片耳の補聴器のときより、ずっと聞こえているように思うと言われた。

私自身は、ここ数年、聴力が目だって落ちたと自覚しているだけに、友人の感想は意外だった。

その意味では、両方の耳に補聴器をつけたことは、大正解だったのだろう。

  右ひだり補聴器つけてゐるわれの耳は頑張る右も左も  biko

友人とは今度いつ会えるか分からないが、別れるときに、「今度は、私の家に来てね」と何度も言われたから、今度、娘のところに行くときは寄らせてもらおうと思う。

昔の友達というものは、本当にいいものだ。

会えば、一気に、中学時代、高校時代に戻れる。

  旧友に会へば昔のわたくしが現れあなたに語りてゐたる  biko

夫は、一昨日の夜行バスで広島に行き、宮島、江田島などを見て回り、昨夜遅く帰ってきた。宮島ではロープウエイに乗らずに徒歩で弥山に登ったから疲れたと。

今回の広島行きは、夫は前から計画していたのだったが、友人は、自分が来たせいで夫が気を利かせて出かけたのではないかと気にしていた。

そうではなかったが、しかし、夫が留守だったから、心置きなく語り合えたのは事実だ。

友からのお土産が先に到着~友人とは夜中の2時まで話し込んでしまった

2016年04月24日 18時54分52秒 | 友人
昨日は、東京の友人Nさんの到着の前に、そのお土産が届いた。

そして、Nさんの前に、私と同じ阪急沿線に住んでいる友人Mさんが来た。

一緒に来ると思い込んでいた私が、「あら、Nさんは?」と聞くのと同時にNさんからメールが入った。

「JRの電車に乗り遅れたので、15分遅れます」と。

え、飛行機で来ると言っていたから川西能勢口駅から我が家までの地図を送ったのに、なぜJrの駅?

と、思っていると、Mさんが、「Nさんは新幹線っで来るって言ってたわよ」と。

まあ、それならそう連絡してくれないとと思ったが、Nさんに何か事情があったのだろうと待つことに。

それから20分ほどして、Nさんはタクシーで来た。

JRの川西池田駅は阪急川西能勢口駅よりは遠いが、それでも徒歩10分くらいだから、タクシーで来るほどでもないのにと思ったが、それにも事情があったのだった。

あとで聞いたことだが、Nさんは、昨年12月に脳梗塞を起こして右半身に少し麻痺が残った。

それで、お土産も先に送付して、駅からもタクシーで来たのだった。

Nさんは、今年1月に心臓の手術をしないといけないとメールくれていたから、そのことだけを私は心配していた。

が、その時は、脳梗塞のあとの話だったのだ。

目に見えるほどではなかったが、確かに歩くのは遅くなっていたし、少し頼りなくなっていた。

が、それより脳梗塞を起こしたことを私に言わないで心臓手術の話をメールしてきたり、飛行機で来ることを変更して新幹線にしたことを私に連絡しなかったり、こっちのほうが少し変だと思った。

新幹線で来ることをMさんに連絡して、私にもしたように思い違いをしていたことなど、以前のNさんにはなかったことだ。

と、そういうことはあったが、昨日の午後は、Mさんの持参してくれた、たねやのお饅頭やバウムクーヘンをいただきながら、この高校時代のクラスメイト3人で思いきりしゃべった。

先日母の送ってきてくれた高知の鰹たたきや、鶏肉を解凍するために、ほんの少し席を立つこともできないほどに、私は話に熱中した。

気がつけば午後5時、急いで冷凍品にお湯をかけて解凍しようとしたが、手ごわい。

Mさんは帰宅しないといけないと言い出して、私とNさんは川西能勢口駅に散歩がてら見送りに。

1時間くらい散歩してから、解凍された鰹たたきを盛り付けして出して、鶏肉で、「栗原はるみさんの揚げ鶏の葱ソースかけ」を作って出した。

実は、友人は、散歩の途中で、「どこかで外食しない?」と言っていたのだったが、この料理は、よほどおいしかったようで、3人には多すぎる量だったが、ほとんで平らげた。母の送ってきてくれた鰹たたきもおいしかったので、友人は大満足の様子だった。

喜んでもらえてよかった。

栗原はるみさん、ありがとうございました。

その後、夫は夜行バスで広島に行ったので、友人と夜中の2時まで話しこんで、倒れるようにベッドへ。(笑)

  話しても話してもなほ尽きることなく話したり数年ぶりに  biko

  三人の子を褒められて難聴であれど幸福さう思はねば  biko