神鳴り(アメジストネックレス)

難聴ゆえに家居の好きな主婦です。過去、心臓弁膜症、大腸がんの手術を受けました。趣味は短歌です

正義は狭い

2017年10月11日 03時26分40秒 | 気づき
とあるブログに「正義は狭い」というようなことが書かれてありました。

なるほどと思いました。

正義はよいものだという思い込みがありますが、しかし、見方によっては、たしかに狭いものかもしれないなと。

よく「清濁併せ呑む」というようなことが言われますが、大きな悪を知っている人は、しばしば大きな善も知っている人です。

そういう人は、ことさらに人の悪を咎めません。

世の中、善ばかりで成り立っているわけではないことを知っているからでしょう。

善だけだと狭い。

狭いことは弱い。

また、正義はエゴの一種かもしれないなどとも。

そんなことを思いました。

このことが書かれてあったブログ記事は、私が最近書いていることと矛盾したことを言っているようですが、考えてみないといけない真理だと気づいた次第です。

               *

  戦争の原因たいがい正義なり正義なければ戦争あらず

  人ゆるす度量もたねば戦ひはたびたび起こる また旅に出む

そのブログには、

「人に裏切られて当たり前だ。そもそも、この世界は、そういう世界だ。酷い言葉で傷つけられても、それも当然だ。そういう人たちが住んでいる世界だ」

「酷い事件が起こって当たり前だ。この社会は、そういう犯罪が起こる世界だ。神や仏は、そもそも、この世界をそういう学びの場として、創ってくださったのだ」


ということも書かれてありました。


満たされている人は人を傷つけない

2016年03月22日 14時04分09秒 | 気づき
毎日読ませていただいているかめおかゆみこさんの「かめわざ快心塾」。

今日のテーマは「傷つくか傷つかないかを決める」であった。

それによると、「満たされている人は人を傷つけない」のだそう。

なるほどと思った。

私は、十年以上、ある人の発したいくつかの言葉に苦しめられてきた。

が、今日、このかめおかさんのこの言葉で、はっと気づいた。

私を苦しめた人は、何もかも満たされているような境遇の人なのだが、しかし、あんな煮え湯を飲ませるような言動をとったのは、実は彼女が満たされていない人だからかもしれないと。

かめおかさんの言われるように、真に満たされている人であったなら、あんな人の心をえぐるようなことは言わなかったと思う。

一見は満たされているように見えるが、実は彼女も本当は満たされていないのだ。

そういう人だから、知らず知らずのうちに人を傷つけてしまうのだ。

一方の私も、何らかの弱みがあったから、あれほど傷ついたのだ。

言葉を換えれば、私も満たされない人間であるから、たやすく傷ついてしまったのだ。

今日のかめおかさんのひと言で、救われたような気持ちになった。

今後は、この「満たされている人は人を傷つけない」の言葉を、ときどき思い出すようにしよう。

かめおかさん、ありがとうございました。

  満たされてゐるひと人を傷つけず傷つけられず一生(ひとよ)終ゆらむ  biko

この世は在りながら天国であり、かつ死は恐れるにあたわず

2015年10月24日 17時19分21秒 | 気づき
今更かもしれないがいが、今日は、この世が天国だと気づいた。

今の季がさわやかで、木々は紅葉、黄葉して目を楽しませてくれて、食べ物がおいしいことで、天国のようだと言っても異論は出ないと想う。

じゃ、なぜ酷暑の夏があったのかと言われる人もいると想う。あの酷暑があったから、今の季節の気持ちよさに気づくのだ。

空気が澄んでいるから食べ物がおいしい。食べ物の恵みに気づけるのも、夏の暑さがあったからなのだ。

神社を訪れて、その空気の清浄を感じる人は多いと思う。

高い山に登って、その空気の冷涼を感じる人は多いと思う。

今の季節は、その高い山に登ったような気分を地上にいながら味わえる季節といえるだろう。

家にいながら神社にいるような空気の清浄を味わえる季節といえるかもしれない。

どれもこれも、夏という酷暑の季節があったからこそ味わえる至福である。

  高山にあるかのごとき秋は来ぬ酷暑を経たるこの身体に  biko

  神様のいます社(やしろ)の庭にゐるやうな清さを感じる秋は  biko

長い人生の途上で、苦労があり、病気があるのも、何もないときの、ただこの世に在るだけで幸せを感じられる多幸感を味わわせていただくためなのかもしれない。

これからだんだん秋が深まり、厳しい寒さがやってくるが、冬という季節は、ますますわれわれの魂を研ぎ澄まさせる。

厳しい冬があるからこそ、春は浮き立つような喜びが湧いてくるのだ。

春は、私達が生れたときに味わった喜びを毎年味わわせてくれる。

私たち団塊の世代の人間は、もうすぐ冬に突入する。

寒くて辛い冬の向こうには、死が、死を越えると、春のような彼の世が待っている。

死は、老い、病、愛する人との離別に苦しんだあとの春なのである。

よって、死は恐れるにあたわず。

  老い病ひ離別ののちの死は春の訪れに似てあたたかきかも  biko

そんなことを今日は想った。

満月の孤独

2015年09月27日 18時59分17秒 | 気づき
今夜はスーパームーンの満月ということなので、外に出てお月様を見ていた。

お月様は毎日お出ましになられているのだが、こうしてわざわざ拝ませてもらうことは少ない。

大阪のマンションに暮らしているころは部屋が最上階であったことと周囲に高い建物がなかったこととで、日の出も日没も、月の出も月の入りも、よく見えた。

が、現在の川西市の家は一戸建てであることと、周囲にマンションが建っていることで、いつのまにやら太陽が出て、いつのまにやら日が沈んでいるという毎日だ。

月も同様で、いつのまにか天高く昇ってしまっているし、いつのまにか姿が消えている。

暮らしのメリハリがなくなったような気がしている。

今夜久しぶりにお月様を眺めさせていただいていると、スーパー満月で大きいといっても、天高く一人いませられるお月様は、つくづく孤独であると思わせていただく。

大勢の人々から見上げられて崇拝はされるけれども、だれにも頼ることができないし、勝手に動くことも許されない。

それと比べると、私達は寂しいといっても話し相手はいるし、話し相手がいなくても、自分の足で好きなところに行って気を紛らせることができる。

人から崇められる輝きはもっていないけれども、その代わりに、人を抱くこともできるし、抱かれることもできる。

月は、誰をも抱くことができないし、抱かれることもできないから、あんなに冷たい光を放っているのかもしれない。

ひかり・・・紳士、淑女についての考察

2015年07月21日 03時18分33秒 | 気づき
闇の中にいる者にとって、光りは眩しい。

だから、カーテンを引いて光を避けようとする。

彼、彼女は、光りを眩しむと同時に、自分の恥部をカーテンで隠そうとする。

こういうことをしようとする者は、世間的には、紳士であっても、淑女であっても、神様に遠い存在である。

そういう人たちは、能力、境遇に恵まれていても、真の紳士、淑女ではないといえる。

意外に世間的には恵まれていない人たちの中に本当の紳士、淑女がいることが多い。

それは、諺でも「艱難(かんなん)汝を玉にす」というのがあることで分かるように、人は艱難によって磨かれるからだ。

そこのところを勘違いしてはいけないと思う。

華やかな経歴を持っているからといって、必ずしも紳士とは限らない。

お金持ちに生れたから、必ず淑女であるとは限らない。

むしろ逆であることが多いことは肝に銘じておいたほうがいいかもしれない。

見た目に惑わされてはいけないということだ。

  人こばむために昼間もカーテンを引き回すひと卑怯と思ふ/biko

  カーテンを引いて密かに悪口を言ふ声きこゆ聴こえぬ耳に/biko

夜中(ごく早朝?)に目覚めたから、最近気づいたことを書いてみた。

一生贅沢ができる生まれ合わせの人とそうじゃない人

2015年06月21日 11時01分14秒 | 気づき
               (食堂のトポスが繁りすぎ?笑)

一昨日の「郷里に帰って母の世話をするべきか否か」で書きましたが、

私と亡兄は、同じ両親の元で生れた兄妹だったのに、兄は昔から贅沢で、お小遣いをもらってもすぐに遣ってしまう人でした。

一方、私は、無駄遣いをしないで貯めておくほうでした。

夫のほうも、夫の弟はわりあい贅沢なのですが、夫は、贅沢はしません。

最近思うのは、贅沢にできる人は、その状況がどんなであっても、贅沢をしてしまうし、それで通してしまうところがありますね。

義母もそうでした。

義母は、これは「まだ早いけれど、父の日のプレゼント」で書きました通り、身長が163センチあり、顔が小さく典型的な八頭身美人でした。

そのためか、美に対する執念はすさまじく、認知症になってデイサービスに通うようになっても、お迎えがくるまでに一通りのお化粧をしておかないと気のすまない人でした。

認知症になってからも、季節季節には服を欲しがって、買いに行くくらいの執念をもっていました。

しかもいいものを買いたい人なので、デパートでの買い物になります。

私達が子育てでやりくりが大変なときでも、お中元、お歳暮は、お金を包んで上納しなければなりませんでした。

私など、子育ての間中、というか現在もですが、服を買うことはめったになかったのですが、義母はお金に糸目をつけずに買うところがありました。

だから、近所でも、きれいなおばあちゃんで通っていました。

これは義母がそうできる生れ合わせだったのかもしれないと思ったりもします。

自分の親のことだから、言いにくいのですが、私の母もかなりの美人でしたが、母は、父が凄い贅沢な人だったから、その煽りを食って、経済的には随分苦労したようです。

ちなみに私は父親似なので美貌は普通(笑)です。ブスと書こうかと思ったけれど、ブスでもないし・・・と思っていますが、どうなんでしょ?(笑)

母は、その頃のその癖がついてしまったのか、現在でも、なかなかの倹約家です。

母は、自分が切り詰めたお金を私達子供や孫にたくさん出してくれました。

我が家が子供三人を大学や大学院まで卒業させられたのには母の陰の助力が大きいのです。

母は、今でも切り詰めた生活をしていますが、母は、こういうふうな暮らしをする生まれあわせだったのかもしれません。

母も義母も、いずれもかなりのお嬢さん育ちです。

母の実家は、母の嫁入り前は、祖父が女工さんがいっぱいいるような生糸工場を経営していたから、嫁入りのときに持たせてもらった着物も大変な枚数だったらしいです。

が、戦後の食糧難のときに、父の浪費もあって、次々と質に入れてしまったようです。

義母のほうも、そのお父さんが保険会社を経営していたとかで、裕福だったようです。

結婚してからも、義父がエンジニアで高給取りだったので、贅沢できていたのですが、義父が勤めをやめて会社経営を始めてからは、あまり収入がよくなかったのでしたが、それでも、服を買うことはやめなかったようですから、そうできる生れ合わせだったのでしょうね。

義父の会社の経営のよくないときは、義父のお姉さん(夫の伯母さん)で、大阪市内の医院の奥さんだった人が、子供もいなかったため、ずいぶん援助してくれたようです。

そうそうこの伯母さんも身長が163センチあって美人だったので、高知市の一番大きい写真館が店のショーウインドウに飾る写真のモデルになってほしいと頼みにくるほどだったようです。義父のお母さんの系統が美人系だったようです。

その義父のお姉さんは、贅沢はいっさいしない人で、弟である義父の家族、つまり夫の家族のために死ぬまで尽くしてくれました。

私が夫と結婚したころも、季節季節には私を洋品店に連れていって、服を買ってくれたりしていました。

ということを考えていると、世の中には、贅沢ができる生まれあわせの人というか、どんな状況のときでもする人と、できてもしないというか、できない人がいるように思えます。

紫陽花&ネットのいじめ

2015年06月10日 14時32分25秒 | 気づき
いつも書いているが、我が家は市街地にあるため、交通の便はよいが、敷地が狭くて庭がない。

が、家の北側に少しの空間があり、そこに数年前の母の日に娘から贈られた紫陽花を植えてある。

ふだんは開けることもない和室の北側の窓を開けてみると、ひっそり咲いていたので、撮影した。

ほかの方のブログを拝見すると、もっと綺麗な紫陽花をアップしておられるから恥ずかしいが、このブログは、私の娘も時々見ているようなので、ビデオレターとしてアップ。


せっかくお花をアップしたのに、こんなことを書くのは何だが、今朝とあるサイトを見ると、ネットでのいじめのことが書かれてあったから、備忘のために貼り付けておくことに。

題して「見えてきたSNC

別にいじめをテーマに書かれてあるわけではないが、一部いじめについて書かれてあったので、私が反応したというわけだ。



10年前の、とあるメーリングリストでの事件は、私はネットでのいじめだと思っている。

ネットといえども人の織り成す社会だから、リアルな世界と同じような構造的ないじめが発生する。出る杭は打たれるのだ。(特に新参者は)

いじめはふつう、当事者、付和雷同者、傍観者という図式でなりたっているが、ネットのいじめも、リアルな社会と同じで、それぞれそれに該当する者がいる。

もちろん当事者に一番問題があることはいうまでもないことだが、付和雷同者も負けず劣らず罪深い。

傍観者にも少しは罪があると思う。

10年前、私がいじめられて退会したときは、メーリングリストはシーンと静まり返った。

(退会をお願いしても、しばらくは繋がったままになっていたから、その様子はわかった)

私に同情してくれた人たちも少なからずいたことは、退会後もメールくださったり、私の住所をご存知の方は、郵便でお便りくださったりしたことでわかる。

その会の一部のメンバーの方たちとは今でも年賀状のやりとりをしている。

しかし、私がその渦中にある時には、その人たちも助けてはくれなかった。

下手に発言して、事件に巻き込まれることを恐れたからだ。

既に力関係の定まっていたメーリングリストだったから、その中心グループに嫌われたら、いられなくなるからだ。こんなところも、リアルな社会とまったく同じだ。

それは私も理解できるから、助けてくれなかった人達を恨みはしない。

もちろん私も聖人君子ではないから、悪いところもあったことだし・・・。

梅雨時になると、ふだんは傷まない古傷が傷むように、私も、ふだんは心の健康を取り戻しているが、ときに傷むこともある。

  ネットにて受けたる心の傷いまも時たまいたむ十年(ととせ)を経ても  biko

あなたの内なることばが、めざめます

2015年06月03日 10時49分46秒 | 気づき
毎朝、かめおかゆみこさんの「今日のフォーカスチェンジ」を読ませてもらっている。

今日のタイトルは、「あなたの内なることばが、めざめます」」

読ませてもらって、ときどき感想を送らせてもらう。


今日は、次のような感想を送った。


今日の「あなたの内なることばがめざめます」は、難聴者の私には、応援のメッセージでした。

十分聞こえなくても、心で聞けば、伝わってくるものがあるとは、常日頃感じています。

以心伝心ですね。

何より大切なことは、かめおかさんの言われるとおり、「感じるこころ」だと思います。




実際、心を澄ませると、聞こえなくても、聞こえているよりも、人の心が掴めるときがあるように感じている。

むしろ沈黙しているほうが、お互いに心が通じ合うという場面さえもあるかと思う。

人が老いるのは

2015年05月28日 08時42分31秒 | 気づき
今朝、ふとひらめいた。

人が老いるのは、この世で学ぶ期間を限定するためではないかと。

私は、人の魂の永遠性を信じている。

だから、この世に永遠に生きていていいのだが、しかし普通の学校体制を考えてみても分かるが、期間を限定しないとメリハリがない。

それで人の一生も限定して、生まれなおし、生れなおし、していると。

基本的に、生まれ変わるたびに人の魂は高まっていくのだ。

だから、老いることを嘆く必要はない。

期間限定の卒業に近づいていると考えたらよいと思う。

歳をとって、さまざまな困難に遭遇するのも、期間限定の学びに組み込まれたメニューなのだ。

今朝は、そんなことに気づいた。

  老いといふ坂を登りはじめたり初めて登る老いの坂道  biko

内在神

2015年01月23日 06時57分39秒 | 気づき
昨日、最近読ませていただくようになったスピリチュアル系のブログを読ませてもらっていると、「私は、神様の声を聞くことができるが、神様は、別に神様の形で現れるのではない」とあった。

そのときはそういうことはよく聞くと、大して気にも留めなかったが、けさ目覚めるときに、ふと体に電気が走るような感覚を覚えた。

そうだ、それなら、私にも神様は降りてきてくださっている。

そのブログでは、沈黙の重要性を説いているが、沈黙して、自分の深いところに降りていったとき、確かに神様の声が聞こえるときがある。

これは、真に心をむなしゅうしたとき、誰にでも起こる現象だと思う。

これは、法律より、世間の道徳より、もっと強い、絶対的なものだ。

これは、自分の私利私欲を消したときにのみ聞こえてくるものだ。

ということを悟った。

内在神というものかもしれない。

  ちはやぶる神鳴り音にはあらずしてこころの響きと気づくこの朝  biko

なんでも「~力」と「力」をつけてみると

2015年01月14日 14時58分54秒 | 気づき
今日は、もう一度投稿したけれど、いま毎日メルマガで読ませていただいている、かめおかゆみこさんの「「今日のフォーカスチェンジ」」で、いい言葉を教えてもらったので、シェアさせていただくために記事にします。

このメルマガで、かめおかさんが言われているように、ものごとに「~力」というふうに、「力」をつけてみると、ふつうマイナスイメージの言葉も、悪い印象が払拭されます。

そういえば、いっとき『老人力』なんて本もベストセラーになりましたね。

かめおかさんは、例として、飽きっぽいというマイナスイメージの言葉を「飽き力」、迷いやすいというマイナスイメージの言葉を「迷い力」というふうに名づけられています。

これ、いいアイディアかもしれませんね。

私なども変に真面目なもので、すぐに落ち込んでしまうのですが、これも、かめおかさんの言われるように、「落ち込み力」と名づければ、何か利点みたいに聞こえますね。

そう、人は、誰が悪い、彼が悪いとかいうことは、もともとなくて、みんなそのままでいいということなんでしょうね。

以上、”受け売り”でした。

  シェアするは受け売りするといふことか今日の受け売り「~(なになに)ちから」  biko

あなたとは感性が違うから!?

2015年01月09日 09時41分23秒 | 気づき
今日は、連続投稿します。

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このごろ巷で聞く言葉で卑怯だと思う言葉の一つに「あなたとは感性が違うから」というのがある。

これは、たいてい、その底に「私は、あなたと違って、もっと上等な感性を持っている」というニュアンスを含んでいる。本人が自覚して言っているか、どうかは関係なく・・・。

だから、非常に失礼な言葉なのだ。

しかしこれをすぐに口にする人が多い。結構、年齢を重ねた人の中にも、こういう高慢な言葉を平気で口にする人がいる。

人の感性がそれぞれ違うのは、これは改めて言うまでもない自明の節理だ。人が百人いれば百人の感性がある。

だからこそ、相手の立場に立ってものを考える姿勢が求められるのだ。

それを、相手の立場に気持ちを寄せる前に「あなたとは感性が違うから」と決め付けてしまうと、どうなるだろう。

言った人は、自分は傷つかずに、それでいて相手に打撃を与えることを期しているのであろうか。

これでは、いつまでたっても人を理解することは不可能だ。

私は、己の自尊心のみを守って相手を傷つける言葉の最たるものが、この「あなたとは感性が違うから」という言葉だと思っている。

私は、出来うる限り、こういうふうに相手を貶めてしまうことになる言葉は控えたいと思う。

  「感性が違ふ」と人を貶める人の卑怯に神鳴りが鳴る  biko

私を糾弾した人のブログ

2015年01月09日 06時22分37秒 | 気づき
夫のいない昨日の夜は、私を糾弾して某メーリングリストから追い出した人のブログを過去に遡って読んだ。

それを読んで、その底意地の悪さに気づいた。

たとえば自分のお連れ合いの弟の奥さん(つまり義妹)のことを「嫁は姑に似る」と断罪している。

その義妹さんの、そのお嫁さんに対する悩みに対して、「嫁は姑に似るものだから、義妹がそういう目に遭うのは、かつて義妹もそんな問題のある嫁だったから当然」と。

それだけならまだしも、「自分のところのお嫁さんの出来がいいのは自分が特にいい嫁だったから」と自信たっぷりに書いているのだ。

なんという自惚れ!

こういう人だから、私に対しても、ああいう意地の悪い対応をしたのだと納得できた。

彼女は若い頃アナウンサーをしていたらしい。華やかな職業だから栄耀栄華も極めたのだろう。

何かというと、その話を持ち出すところをみると、それも、その自惚れの根底にはあるのだろうか。

たぶん挫折も経験したことがないのだろう。

実は、彼女は、(大変悲しいことに)私の母校の先輩にあたる。(高校からの入学であるらしいが・・・)

だからこそ、私も気を許して彼女のブログにご挨拶に伺ってしまったのだ。

それなのに、あんな煮え湯を呑まされるなんて!(怒)

昨夜は彼女のことを思い出して眠れなくなったので、数年前に購入した卒業生名簿を取り出して確かめてみた。

なんと私より6年も上の学年だ。私の一番上の従姉の一つ下の学年だった。

ブログによると、現在も働いているみたいだから、それだけの健康にも恵まれているということだろう。

私は思う。

人は健康に恵まれていれば、また能力に恵まれていれば、より謙虚であるべきだと。

能力に恵まれることを英語では”gifted”というらしい。

そして、それは神様から与えられたということを意味するらしい。

神様から与えられた境遇に慢心していたら、いつか必ず神様からしっぺ返しがくるだろう。

  神鳴りは神の警告めぐまれし人ほどその身謙虚なるべし  biko

犯罪を取り締まる人間

2014年12月12日 18時38分40秒 | 気づき
きのう2回投稿したから、今日は休もうかと思ったけれど、いまネットを検索していると次のような言葉を見つけたので、自戒のために記事にさせていただく。

コノ世は、犯罪を取り締まる人間が、罪人以上の罪を犯すこともあるかも知れません。伊勢白山道」より

これは、すごく気をつけなければならないことだと思う。

考えてみれば、私なども、しばしば自分のことは棚に上げて人の欠点を上げ連ねることがあるが、恐ろしいことだ。

ときどきこの言葉を思い出して自戒したいと思った。

  犯罪を犯しし人より犯罪を取り締まる人つみ深きかも  biko

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こちらの「ひきこもり主婦村」の皆さんは、ご自分が鬱などで苦しまれることは多いかもしれないが、人を傷つけることは少ないのではないかと思う。

出会った人が運命の人

2014年12月08日 09時24分06秒 | 気づき
スピリチュアル系の翻訳を手がけられておられる、山川紘矢さん、亜希子さんご夫妻のメルマガを配信してもらっている。毎月一回くらいの頻度で届く。

メルマガの内容は、著書の紹介、講演会の案内がメーンになる。

今日配信されたものを読ませてもらっていると、「出会った人が運命の人」という書名が目についた。

この書名は、以前にも目にしているはずだが、今朝は、心に留まった。

本は、また図書館の蔵書検索してみて、あれば借りて、なければアマゾンで買うかして読ませていただくことになるかもしれないが、今日はこの書名に触発された私の思いを書いてみたい。

出会った人が運命の人・・・先日来ずっと書いているが、高知新聞のメーリングリストで出会った人たちのことを、私はずっと忘れられないでいる。

これは、私が一方的に、そうであるのみならず、ひょっとすると、あちらもそうであるかもしれない、と気づいた。

これは、見方を変えれば、”私の運命の人たち”であった可能性も考えられる。

あの出来事によって、私は、こうしてスピリチュアルの世界に関心を持つようになったが、これも運命なのかもしれない。

実は、現在も、そのときに知り合った人たちのブログを読ませていただくことがある。

一人の方、仮にKさんと名づけさせていただく、のブログには、時々コメントもつけさせていただいている。退会した私のコメントはご迷惑かもしれないけれど・・・。

で、昨夜は、本当に久しぶりだったが、件(くだん)の、以前書いたYさんのブログも読ませていただいた。Yさんのブログは写真に力を注いでおられるので、読ませていただくというより写真を見せていただくというほうが適切かもしれないが。

すると、私が時々コメントをつけさせていただいている、Kさんが、そのYさんのブログにコメントを付けられていた。

まあ同じメーリングリスト(現在休眠中)に所属しているお仲間同士だから、別に不思議でもないが、私は少なからずショックであった。

しかし、ものは考えようで、そのKさんは、また、その現在休眠状態になってしまっているメーリングリストを復活させるべく、一肌脱いでくださろうとしているのかもしれない。

なぜなら、そのKさんもYさんも、私にとっては、”運命の人”であった、いや、運命の人であるかもしれないのだから。

  こんなにも心に残ると知らざりきインターネットで知りえし人らが  biko