神鳴り(アメジストネックレス)

難聴ゆえに家居の好きな主婦です。過去、心臓弁膜症、大腸がんの手術を受けました。趣味は短歌です

久しぶりのバスツアー・足立美術館、出雲大社、松江城へ

2015年10月21日 17時30分50秒 | 旅行
旅行会社のバスツアーで旅行するのは久しぶりだ。

というのが、夫が自営するようになってからは夫の仕事の都合にあわせないといけないので、手前から予約の必要なツアーはなかなか基本的に申し込めない。今回は直前のツアーに申し込んで参加した。

最近は神がかっている(笑)私が前から行きたいと思っていた出雲大社と横山大観の日本画が見られるという足立美術館に連れていってもらえるというツアーだ。

旅行会社はクラブツーリズム。ツアー名は「足立美術館と出雲大社・松枝城下町・玉造温泉2日間」。

ツアー料金にプラス1000円出すと、前から3列目までの座席を確保できるというので、申し込んでおいた。

2日間前列3番目までの席に座れるというのはメリットが大きいと思ったから申し込んだのだが、期待通り、一番前の席に座らせてもらえて、眺めは抜群だった。トイレ休憩に駐車したときも一番に出られるので好都合だった。↓


私は難聴者なので、添乗員さんの話が少しでも聞こえるようにという期待もあったが、それも叶えられた。

バスは9時15分に大阪梅田の茶屋町パーキングを出発。

阪神高速、山陽自動車道、中国自動車道と進んでいったと思う。

↓途中、勝央SAで別に注文してあったお弁当が出た。(ピンボケになってしまった)

毎日自分の作った食事ばかり食べている私にとって、久しぶりに食べるお弁当はとてもおいしかった。

が、お天気がよかったせいで、私たちの座った、バスの左側の座席が南面になって、容赦なく太陽が照りつけたのには参った。

安来市の足立美術館についたころには、暑さに弱い私は暑さでかなり疲労していた。↓


美術館に到着直後は、疲れて絵画鑑賞どころではなかったが、お庭の美しさには目を見張った。↓なんでも、「日本庭園ランキング」で12年連続1位なのだそう。


↓白妙の敷き詰められた庭は手入れが行き届いていて完璧だった。


↓こちらは美術館のパンフレット

↑今回は秋だったが、四季折々の美しさがあるらしい。

↓遠くの山々が借景となって庭に奥行きを与えている。


↓この庭の創設者は足立全康という安来市出身の実業家であるらしい。


↓写真では分かりにくいと思うが、庭園内には「亀鶴の瀧」という人工の瀧がある。

↑写真の中ほどより左よりに写っている。

美術館の中には床の間を模した窓のある和室があって、その窓に切り取られた庭が床の間の掛け軸のように見える仕組みになっている。↓

↑この写真では外が明るすぎて光のみしか写っていないが、実際に見た床の間には、一幅の絵が掛かっているように生の景色が見えた。


↓もう一度「亀鶴の瀧」を撮影。この写真では右側奥に写っている。


↓白妙青松庭


庭をしばらく堪能させていただいてから館内の絵画を鑑賞させていただいたが、絵画は撮影不可だったので、パンフレットで↓

↑日本画好きには垂涎の作品が溢れていた。横山大観、上村松園、榊原紫峰など。

今年、再興100回目になるという「院展」の作品展が10月17日から始まったところであった。↓


このあと、北大路廬山人の作品展示は時間が足りなくなって走り走りで見た。

足立美術館で約2時間、お庭と絵画鑑賞の後は松江市玉湯町の玉造温泉街へ。

↓今日の宿、「旅亭 山の井」


結構年季の入った旅館だったが、玄関ホールには綺麗なお花が↓


↓お部屋も古かったが、広さはまあまあだった。

今夜のおかずは肉味噌、豆乳汁、かぼちゃ、瓜の糠漬け

2015年10月20日 19時36分24秒 | 料理
今夜のおかずをアップします。

上の写真は肉味噌です。

この肉味噌も、下の写真の豆乳汁もNHKの「きょうの料理」で教わった料理です。

肉味噌の材料は合いびき肉、ごぼう、ねぎで、調味料は、砂糖、みりん、酒、味噌です。

合いびき肉がなかったので、豚ひき肉と鶏ひき肉で作りましたが、おいしかったです。

1、ごぼうは細かい輪切りにしてゆでる。

2、フライパンでねぎ(私は青ねぎを使いました)を炒めたところに、1のごぼうを入れて炒める。

3、ひき肉をいれて、砂糖、みりん、酒で味付けして、小麦粉を少量入れて混ぜる。

4、うまみに鰹節を入れてから、適量の味噌を溶かし込む。

5、しばし煮込んで、できあがり。


↓豆乳汁(テレビでは煮物でしたが、私は買った豆乳を使い切るため豆乳汁に)


作り方は

1、こんにゃくを細かく切って空炒り後、みりん、しょうゆで味付けしておく。

2、豆乳に蕪としいたけを適宜切ったものを入れて煮る。(蕪がなかったので、四角豆を入れました)白味噌を適宜入れて味付け。

3、2を器によそってから、1のこんにゃくを載せる。

4、柚(柚がなかったので、酢橘)の細切りでトッピング。

あと、かぼちゃの煮物↓(先日、道の駅いながわで買ってあった)


瓜の糠漬け↓(これも先日、道の駅いながわで買って、その日に漬けて3日目)

ちょうど食べごろでした。

年取ってくると、食べたいものしか食べられない

2015年10月20日 10時06分57秒 | 日記
年取るにしたがって、量はいらないが、食べたいものしか食べられなくなってきた。

私が食べたくなるのは決まってお寿司だ。

それも祖母が作ってくれていた田舎寿司。

私には、どういうわけか母の作ってくれた料理より、たまに会う祖母の作ってくれていた料理のほうが記憶に残っている。

祖父母の住んでいた町には秋になると神祭があって、私は毎年母に連れられて行ったものだった。

そのときに出されるのが祖母の作ってくれる田舎寿司であった。

それがおいしかったので、私の体は、ご馳走というと「お寿司」と記憶されていて、突然猛烈にそれを食べたくなるのだ。

今朝もベッドの中でお寿司が食べたくてたまらなくなり、朝は我が家はパン食なのだが、がまんできずにコンビニまで行って、とりあえず手巻き寿司を買ってきた。

我が家がパン食なのは、姑がハイカラ好きの人で、夫は子供のころからパンとサラダが朝食だったせいで、私たちも結婚して以来、ずっと朝はパンだった。

が、私は土佐の田舎で育って、朝、昼、晩ともご飯だったせいで、パンではお腹が落ち着かない。

パンは、単におやつでしかなかった。トーストした食パンなども。

だから、現在も夫のパン食を横目に前の晩の残り物でご飯を食べることも多い。

が、今朝はお寿司を食べたくてたまらなくなった。

お腹が空いていてもパンではお腹を満たしたくないという気分だったから、早朝からコンビニまで足を運んだという次第。

お寿司だけでなく、鰹のたたきも、猛烈に食べたくなるもののひとつだ。これも、祖母が新鮮な鰹を1本買ってきて裁いて作ってくれていたものがおいしかったから、その味覚が体にしみこんでいるのだ。

南国土佐の風土では、お寿司とか、ポン酢で食べる鰹たたきとか、酢の効いたものがおいしく感じられるのかもしれない。

年取ると食べたいものしか食べられなくなるということをこの頃よく思う。ほかのものでは代打がきかないのだ。

また年取ってくるとわがままになるということには、こういうことも含まれているのだろう。

新名神高速道路の工事を見て土木工事は地味で華やかな仕事と思う

2015年10月19日 18時41分03秒 | 日記
一昨日、能勢町に行った帰途は少し遠回りして、箕面のほうに回った。

箕面の山では新名神高速道路の工事がたけなわであった。

車中から撮影したから分かりにくいかもしれないが、文字通り、山を切り開いて、谷間を渡らせての大工事だ。



土木工事というと裏方仕事のようでいて、実は後世に残る華々しい仕事なのだと思う。

また最近の横浜のマンションの基礎工事で分かるように、丁寧な仕事をしないと重大な問題の起こる仕事とも思う。

医師の仕事を「神の手」というが、土木工事も、また「神の手」であると思う。

  神様の作りたまへる新名神高速道路の橋脚巨大  biko

新名神高速道路完成の暁には、関西にどのような変化が訪れるであろうか。

現在は奥地と思われている、箕面の山奥、川西市の北部、宝塚市の北部などに新たなうねりが起こるであろうか?

あるいは、ただの橋桁になるだけだろうか?

  橋脚を支へて陰になるのみにならずや箕面、川西の川  biko

まだガラケーで頑張っています

2015年10月19日 06時11分59秒 | わたしのこと
夫は2年ほど前にガラケーからスマホに換えた。

これまでは、夫がケイタイを買い換えるときは、私も一緒に変えることが多かった。

が、今回はしなかった。

なぜかというと、私は、お出かけのとき、小さなポシェットひとつで出かけることが多い。そのポシェットにスマホが入らないのだ。

小さなポシェットは、幼稚園児の斜めがけの通園かばんのようにして身につけている。

ここは日本だから、そんなに警戒することはないと思うが、貴重品ばかりを入れているポシェットは体から離すと用心が悪いという理由でそうしている。

美容院などにでかけて、「お荷物をお預かりしましょう」と言われても、預けないで身につけている。

このポシェットには常にケイタイを入れている。

美容院で髪をいじってもらっているときでも、メールが入ったら対応できるようにスタンバイしているのだ。

これが、スマホになると、常に肌身離さずということができにくくなる、と思う。

夫のスマホを手にしてみると、ガラケーより重いし、ポシェットに入れるには大きすぎる。

そんなこんなで、未だにガラケーにしがみついているのだ。

が、先日、このガラケーのカメラ部分が使えなくなった。

いよいよ買い替えかとdocomoショップに行ったが、やっぱり止めて帰ってきた。

カメラ機能は使用不可になったが、どういうわけか、ブログ投稿用のカメラは使える。

私が現在写真を写すのはブログ投稿のときのみである。

何か行事のあるときの写真は家族皆がカメラかスマホを持ってきているから、私一人が写さなくても全然かまわないのだ。

それに、写真は、もうこれ以上増やしたくないから、何かあっても記憶にとどめるだけをモットーにしている。

ということで、スマホがもう少し小さくなったり軽くなったりした暁には買い替えを検討するかもしれないが、現在のところはそうする予定はない。

スマホが時間つぶしになるということも聞いたが、私は、そうでなくてもネット中毒患者なので、せめて外に出たときくらい、ネットから離れたほうがいいとも思っている。

秋の実り 丹波の黒豆の枝豆その他

2015年10月18日 17時52分49秒 | 日記
昨日は能勢町に行く前に、いつも行く「道の駅いながわ」に回ってもらった。

お昼前だったので、売れてしまっているものも多かったが、私達が入店してからも、次々と運び込まれるのが、上の写真の丹波黒豆の枝豆だった。

とりあえず一束購入した。一束700円が、安いか否か分からなかったが、新鮮なことは間違いないと思って購入した。

帰宅して半分茹でていただいたが、おいしかった。

  道の駅いながわに買ふ黒豆の枝豆くろし一皮むけば  biko

この黒豆と、お向かいの、現在は鳥取県在住の方が送ってきてくれた栗も一緒にゆがいた。

先々週、能勢で買った栗も大きかったが、この栗は破格だった。

黒豆を一莢おいてみるので、その大きさを見比べていただきたい。

食べた感想だが、あまり甘みはなく、大味だった。が、量的に食べ応えはあった。

  大味と思(も)ひつつ食(は)める大栗の大きさ小さなさつまいもほど  biko

↓渋抜きをした渋柿も同梱してくれていたが、これは甘くて非常に美味だった。甘柿より甘くらいだった。


Aさん、ご馳走様でした。ありがとうございました。

と、夫と秋の味覚を楽しんでいると、太鼓の音が聞こえてきた。近くの神社の秋祭りの宵宮の触れ太鼓だった。↓


川西に引越してきてから今年12月で丸9年になるが、難聴の私にはこの触れ太鼓の音が聞こえないので、今年初めて夫に教えてもらって、このおみこしを見た。

  越してきて初めて見たり触れだいこ町内めぐるそのみすがたを  biko

今日が、その秋祭りだったが、いつものように午後昼寝をしてしまって行かなかった。

ふるさとの老い母のことと今は亡き姑とのこと

2015年10月18日 09時45分07秒 | 家族
家制度はなくなったとはいえ、現代でも女性は結婚すれば婚家の人間という考え方は根強い。

むかし姑が私の帰省を許さなかったのは、自分の実家は既になくなっていて帰省できないのに、帰省できる私が羨ましかったというのが主な理由であったとは晩年の姑の口から聞いた。

が、私が結婚した当初の姑の口癖は、「あなたは嫁いできたのだから、ここが家です」だった。

友人達に話すと「まるで明治時代みたい」とか言われたものだった。

しかし今でも結婚して女性の姓が男性の姓になることには、こういう昔の家制度の片鱗が残されているということだろう。。

姑は、認知症の初期の段階では、たまに来る私達には、そのことを気づかせなかった。ふつうの世間話は問題なくできていたから。

が、日常的に訪れていた義妹は早くから姑の認知症に気づいていたようだった。

それで姑が保険証をなくしたとか銀行の通帳をなくしたとか言うときに再発行の手続きとかをしてくれていたらしい。義妹はひと言も言わなかったので、私達は知らなかった。

ところが、ある日突然義妹が「私は嫁いでいる身なのに、なぜこんなことをしないといけないか」と怒ってきたので、初めて姑の実情を知った。

姑は独立心の強い人、といえば褒め言葉になるが、非常にわがままな人であった。

だから、年取っても一人暮らしを望んだ。友人達とあちこち遊びに出歩くのが好きだったから、そのほうが好都合だったのだ。

それで、私も遠慮して、あまり行かなかった。

義妹は娘なので、その子供達を預けたりしていたそれまでの流れもあり、私より頻繁に行っていた。

だから、義母が認知症になり始めたことに気づいたのも義妹だったのだ。

しかし姑の認知症が進んで手に負えなくなってから、ある日突然、「私は嫁いでいる身だから」と言ってきた。

それを聞いて、私達は住んでいた大阪のマンションをほったらかしにして、身の回り品だけを車に積み込んで俄か引越しをしてきた。

なるほど一緒に暮らしてみると、姑の認知症はかなりになっていた。

当初は正常な部分もかなり残っていたから、対応にはずいぶん苦労した。

姑がものをなくしたり、しまった場所を忘れたりするのに、それの犯人は全部私になるのだ。

これはどう対応したものかと困惑しているうちに、姑の認知症はどんどん進んでいき、それに歩調を合わせるかのように、だんだんおとなしくなってきてくれた。

素直な可愛らしいおばあちゃんになってきてくれたのだった。

若い頃は苛められて辛い思いをしたが、しかし晩年は可愛いおばあちゃんだったから、私は、現在、姑に対しての嫌な思い出は全て水に流すことができた。

それと、自分が姑になって、姑の立場で考えるようになると、姑には姑としての考えがあったことを理解できるようにもなった。

義妹は産みの親のことを私のように達観できなかったと思う。来れば、いつも大喧嘩になって帰っていたという話を聞くにつけても。

その体験から、母親の世話は、義理の娘がするほうがいい場合が多いかもしれないと思ったりもする。

それで実家の老母のことに戻るが、私は、母のことが気になりながらも、しかし、兄嫁にお任せしておいたほうがベターかもしれないと思うところもある。

嫁いでいる私が引き取ると、お互いに遠慮がないことから本気の喧嘩にもなるし、夫はともかくとして、義妹などが何と言ってくるかわからないし・・・。

「嫁ぐ」という言葉は死後になっているようでいて、こういう事態になるとまだ生きていると私は思う。

以上、朝ふとんの中で考えていたことを文章にしてみた。

能勢町栗栖交差点

2015年10月17日 18時50分25秒 | 日記
さきほどの記事「裏のマンションの地盤は我が家のほうに少し傾斜がある」に少し書いたけれども、今日はまた能勢町に行っておりました。

いつも我が家の物置のある山ばかりを撮影してお見せしますが、今日は能勢町の銀座ともいえる交差点を撮影してきました。

この交差点の場所は、私どもが能勢町に山林を買った昭和58年ごろは田んぼでした。

もともとあった大阪府内から延びてきている国道173号線は当初もっと南にあったのでしたが、道路幅が狭かったので、田んぼだった現在の場所に作り直したのだと思います。

できた当初は田んぼの中を立派な道路が通っているという風景だったのでしたが、だんだん四辻にはスーパーやホームセンターやコンビニなどができ、ちょっとした街のような景観になってきました。

能勢町の人口が増えているわけではないと思いますが、国道173号線は大阪から日本海に抜けるメインルートなので、交通量の多さから、そういうふうになってきたんだと思います。

↑上の写真は交差点の北西方向を撮影したものです。コンビニがあります。

↓下の写真は交差点の南西方向を撮影しました。「ボックス」という名前の地元のスーパーです。地元ならではの産物が売られていて、私は道の駅「くりの郷」ができるまでは主にここで買い物をしていました。今も時々買い物しています。地場の鶏肉がおいしいです。


↓コンビニとスーパー「ボックス」の間の道路で、大阪府道602号線です。

この大阪府道602号線を少し行くと今西商店街という昔からの商店街があります。

↓交差点の南東には「資材館」というホームセンターがあります。

夫がこの「資材館」で買い物をしている間、周辺をうろうろしていると、



↑能勢街道の謂れを書いた石碑がありました。柵の中に入れなかったので字が読めるようには撮影できませんでしたが、こんな感じ。


なぜ今まで気づかなかったのかと思いながら見てみると建てられたのは平成27年3月とありましたから、今年立てられたのですね。

↓石碑の横にあった地図も撮影しました。


↓こちらは能勢町の歴史が書かれてあったと思います。(時間がなかったので読む間がありませんでした)


↓こういう石碑も建っていました。「~一里塚」と書いてあったような。


↓こちらは交差点の北東方向です。

手前の山が「栗栖」と書いて「くるす」という山だと思います。その向こうの瘤が二つあるような山が「城山」で、昔お城があったようです。

以上、簡単なご紹介でした。

裏のマンションの地盤は我が家のほうに少し傾斜がある

2015年10月17日 17時15分48秒 | 近所
今日は朝から「道の駅いながわ」と能勢町の小屋に行ったからブログを書けなかった。

が、朝一番に撮影した我が家の裏側をアップする。

我が家の高い塀が邪魔になってわかりにくいかもしれないが、

↑上の写真が裏側(北側)の4階建てマンション、ワンルームマンションだ。

↓こちらは、裏側(北東側)の6階建てマンション、同じくワンルームマンションだ。


↓この二つのマンションの間には用水路が流れている。(2階の私の部屋から撮影)


こういうふうに水がさらさらと流れるくらいの段差がこの二つのマンションと我が家にはあるということ。

だから、昨日の「横浜市都筑区のマンションで杭の一部が強固な地盤に届いておらず建物が傾いていたというニュースに思う」のような手抜きがあればテキメンに我が家はつぶされる。

これが杞憂であることを祈りたい。

ご近所の金木犀の花たち

2015年10月16日 17時59分39秒 | 近所
我が家の隣りの主は私より一歳若い高給取り!のキャリアウーマンである。

今も大阪の本町に毎日通勤していられる。

彼女と同年輩の私は、毎日の食事作り以外、仕事らしい仕事もせずに、そのくせ昼寝だけはたっぷり時間をかけている。(笑)

そのお隣さんは、ガーデニングも頑張っておられて、上にアップした金木犀の花はお隣さんの玄関先にあったものを写させていただいたものである。



お隣も我が家同様、家の敷地は全部コンクリートにされているから、この金木犀の木は鉢植えである。

ほかにも季節ごとに咲く木々を、玄関側にも裏側(北側)にも鉢植えで育てておられる。

私は見せていただくばかりである。

  朝朝の水遣りののち出勤す一人暮らしのキャリアウマンは  biko

↓の写真は、この2月に亡くなられた一人暮らしされていた老婦人の家の金木犀の花である。


亡くなられて、もう8ヶ月が経つが、家も庭もそのままである。

が、心なしか、庭の木々に元気がなくなってきたように見受ける。

この亡くなられた方の家は、我が家からは向かい側になるから、玄関は北向きである。

北向きの庭には、この金木犀以外にもギンモクセイ、白椿、赤椿の木が植わっている。

亡くなってからも折々拝見させていただいているが、この金木犀に限らず、今春は椿の木も元気がなく、花数が少なかった。。

主が亡くなったことが植物にも分かるのだろうか。

存命のころは、裏側にある南向きのお庭もよく見せていただいたが、今は適わない。

天国に行かれても、ときどきは、この家に帰ってきて丹精されていたお庭を眺めておられるだろうか?

  主(あるじ)なき庭に今年も匂ひをり金木犀の金色の花は  biko

  ときどきはこの家(や)に帰ることありや亡くなり八月(やつき)経ちて主は  biko

横浜市都筑区のマンションで杭の一部が強固な地盤に届いておらず建物が傾いていたというニュースに思う

2015年10月16日 10時50分42秒 | ニュース
我が家の裏側(北側)は4階建てのマンションである。斜め裏側(北東側)は6階建てのマンションである。

裏側の向こう側が旧国道だから、我が家が裏側ともいえるのだけれども・・・。

という講釈はさておき、この北側は我が家に対してわずかに傾斜している。

というのが、私の住んでいる地域は、宝塚市の長尾連山の裾野のさらに裾野になっていて、ゆるやかな傾斜になっているのだ。

マンションが建つ事になったとき説明会があって、当初は斜め裏側のマンションは9階建ての予定だった。それを既に住んでいるわれわれ住民が6階に変更してもらった。

そういう要望は出しながらも、まあ鉄筋コンクリートの建物だから北側に建ってもさほど問題はなかろうと、われわれ住民は納得した。

が、今回のニュースを見て少し危惧もする。

もし北側の、どちらかのマンションの基礎工事に欠陥があった場合、倒れてくるのは物理的に当然傾斜している我が家側にである。

鉄筋コンクリート作りだから倒れるとかいう想定は杞憂かもしれない。

しかし、最近では、その杞憂が実際に起こったりするから困るのだ。

先の阪神大震災でも、地震の起こる前は日本の高速道路が崩れるなどは杞憂であるといわれていた。

が、実際は杞憂ではなく、崩れてしまった。

東北大震災では原発の施設が津波の被害に遭うことは想定外だったといわれている。

想定外、つまり杞憂であったことが実際に起きたということである。

今回の横浜市のマンションの住民の皆さんも、よもや、買ったマンションが傾くなどとは思いもしなかったに違いない。

震災の被害は天災であったが、今回の被害は人災であったという違いはありながらも、想定外という言葉を想定内という言葉に置き換えて考えてみる必要性をこのニュースを見ていて感じた。

郷里の高知新聞への投稿の思い出

2015年10月15日 22時45分08秒 | 新聞記事
くりまんじゅうさんに今朝書いた記事「新聞の購読をやめた家庭が多い中、未だ購読を続けているけれども」にコメントをいただいたので、過去、郷里の高知新聞に2回投稿して、2回掲載されたことを思い出した。いずれも、この川西市に引越してからのことなので、この10年以内のことである。

一度目は、はりまや橋の高速バスターミナルに対しての疑問を呈した投稿だった。

数年前の11月末、母の活け花の会に出席して、帰途の大阪行き夜行高速バスをはりまや橋で待った。が、屋外のバス停留所で待つのは寒いので、できたばかりのはりまや橋バスターミナルで待たせてもらうことにした。が、10時になったら「時間ですから出てください」と言われる。「え、寒いからここに居させていただいているのに」と言ったが、決まりであるらしいから、仕方なく、屋外のバス停留所で震えながら待った。「せっかく立派なバスターミナルを作って、降車専用とはもったいないではありませんか」という主旨の投稿だったと思う。

現在は、そのはりまや橋バスターミナルも乗り場としても機能しているようだから問題は解決しているだろう。

二度目の投稿は、高知県は関係ない話題の投稿だったが採用していただけた。

内容は、パソコンの自動翻訳機能を利用してアメリカの新聞記事を翻訳してもらったが、見た目は一応日本語の文章になっているが、機械的に直訳しているから意味が通じない。それで、英語の原文と照らし合わせながら、その意味不明の日本語文を判読していった。が、これは原文があったからそういうことができたが、たとえば私が意味不明な文章を書いたりしたときには、その照らしあわす文章がないから、永久に意味不明のままになる、だったと思う。

私は、現在は県外に住んでいるから、高知新聞に投稿したからといって、誰彼に読んでもらうということは期待できないが、しかし、親、親戚の人たちには読んでいただけた。

高知県に限らず、地方は、人口が少ないうえ、地縁、血縁で繋がっている場合が多いから、投稿ひとつとってみても都会の大新聞に投稿するのとは意味合いが違ってくる。

まして、くりまんじゅうさんの言われる死亡広告欄とかは、毎日チェックして知人や親戚の人が亡くなっていないか確かめなければ義理を欠くことにもなるのだろう。

都会の新聞にはない役目が地方の新聞にはある、ということをくりまんじゅうさんのコメントで気づかせていただいた。

  親戚と知人の死亡広告を見るため購読する高知新聞(かうしん)を  biko

  知り人の死亡広告見るはまれ高知を出でて川西に住み  biko

新聞の購読をやめた家庭が多い中、未だ購読を続けているけれども

2015年10月15日 12時04分11秒 | 私の意見
パソコンとなかよくなるまでは、毎日の新聞を隅から隅まで読んでいた。

が、ネットでニュースが読めるようになってからは購読しているものの、あまり読まなくなった。

新聞のほうが世の中を俯瞰できるからいいとか、良質なニュースが得られるとか、さまざまな意見はある。

が、私は、ネットの瞬時性に軍配を上げたい。

ネットのニュースも、新聞社系が出しているものは、ニュースの信頼性は同じで、紙の媒体より早く読めるという利点があると思う。

が、私が興味をもつのは、主に個人のブログから発せられるニュースである。

これには当然怪しいニュースも混じっている。

が、面白さの点では新聞社系のニュース等とは比較にならない。

ニュースといっても、現在進行形の事件の裏話もあれば、過去の事件の真実に迫った話もあれば、さらに歴史的な出来事の検証のような話もある。

これらの話を信じるかどうかは読者に委ねられるのだが、それは、厳密に言えば、新聞社系のニュース等についてもいえることだ。

怪しい話は眉につばをつけて聞けばいいし、怪しいながら何らかの真実をついていると思えば、そこの部分だけ自分の脳裏に刻めばいいと思う。

私は日本という国を心底愛している愛国者である。

であるから、天皇陛下万歳のスタンスでものを見る。

これら怪しい話の中には、愛国者の私から見るとけしからんと思う話もあるが、しかし、世の中には、こういう考えの人もいるということの勉強になるので、謹んで読ませていただく。

過去の歴史の検証のような話には、思わず膝を乗り出してしまう。

学校で習った歴史が嘘だったといわんばかりの話もある。

それらの話には、「そうか、そうだったかも」と思いながら読ませていただくことも多い。

で、初めの新聞購読の話に戻るが、私自身は、もう購読を止めてしまってもいいという心境になっている。

が、夫が続けるというのと、いつも集金に来てくれる新聞販売店の奥さんがとてもいい人なので、止めるのが申し訳ないという気持ちで購読を続けている。

現代は流動的な時代だから、過去繁栄した業種が衰退するケースは多い。

出版、新聞は、もう改めて私が言うまでもないことだが、そういう類の業種ではないかと思う。

新聞は、文字通り、「新しく聞く話」満載でないと読者が離れていってしまうのは、これはもう仕方のないことだと思う。

気の毒にも思うが、いくら努力しても衰退する時はするという栄枯盛衰の理はこの世の定めなのだ。

ブログに写真を入れるために今日の昼食を撮影しました(^^)

2015年10月14日 12時30分15秒 | 料理
文章だけの投稿が続くから、写真を入れるため、本日の昼食を撮影しました。

手前のおさしみは、左が定番のハマチ、右側がサンマです。1パックずつ2個買って夫と分け合いました。

後ろの左側は麻婆豆腐です。買い置きのお豆腐が賞味期限になったから作りました。

後ろの右側は糠漬けの茄子と胡瓜です。浸かりすぎたから一気にたくさん出しました。(笑)

奥の小皿は、このごろマイブームになっているポテトサラダです。朝のパンのおかずに作ったものの残りです。今日入れたものは、ゆで卵、ロースハム、あと定番の玉ねぎと林檎です。胡瓜もあったのですが、ちょっと目先を買えて林檎を入れてみました。うん、これもなかなかおいしかったです。

あと、油揚げとメークインのお味噌汁も作ってあります。

痛みのない幸せ

2015年10月14日 08時57分14秒 | わたしのこと
9月29日に交通事故にあって2週間経った。

交通事故というほどの交通事故でもなかったが、しかし、事故にあった直後より痛みが増して一時はどうなるかと想った。

まだ完全に治ったとはいえないが、毎朝目覚めた時に痛みを覚えるということはなくなった。

本当にこれだけのことで済んでよかったと思う。

もうすぐもとの歩き、走りができるようになるだろう。ま、走りのほうは事故に遭う前から年齢的にすることはなかったが、いざというとき走れる脚と体力をもっているかどうかということは、生きていくうえでの大きな差異となるだろう。

私は難聴の不自由、心臓の手術後の息切れしやすさなどを抱えて生きているが、下手すれば、その上、脚の不自由も抱えるところだった。

7,8年ほど前に変形性膝関節症で歩くのに不自由した時期もあるにはあった。

これは、また再発するかもしれないが、今のところは静まっている。

痛みといえば、大腸がんで腸閉塞を起こしたときの腹痛は酷いものだった。

過去に何度か書いてきたが、最近このブログを読み始めた方もいらっしゃるから、また書いてみる。

最初の腹痛は8年前の8月31日に起こった。

ものすごい痛みだったが、1日で治まった。

翌日近所のかかりつけ医の先生に診ていただくと、レントゲン撮影の画像から「便秘でしょう」ということになった。

次の痛みは10月1日だった。

その痛みも一日で治まった。

が、8月の痛みのこともあるから、夫に勤めを休んでもらって、また近所の先生に診ていただくと、また便秘といわれる。が、その先生が何かのときのためにと病院への紹介状を書いてくださって、念のため、病院に付き添ってもらって診てもらった。

病院でも、レントゲン撮影その他で診断の結果、「やはり便秘でしょう」だった。

3度目の痛みは10月31日に来た。

猛烈な痛みだったが、過去2回の体験と診断していただいた結果から我慢した。

が、3回目は一日では治まらなかった。

11月1日も、2日も、3日も、痛みは治まらない。

11月3日が日曜日であったこともあって脂汗をかきながら辛抱した。

4月早朝、命の危険を感じて救急車を呼んでもらって病院に運ばれた。

腸閉塞を起こしていることが判明して、即入院となった。

主治医になってくださった先生の診断の結果、大腸がんによる腸閉塞ということが判明した。

もう痛みが我慢ならなかったから若い先生に「もう子供達も大きくなっていて命は惜しくないから殺してください」と頼んだ。

が、先生は「まだ若いから」と取り合ってくれない。(笑)

すぐ手術をしてほしい気持ちだったが、私が、私の心臓の人工弁に血の塊ができないようにするワーファリンという血の止まりにくくなるお薬を常用していることなどもあって、10日後の11月14日が手術日に決まった。

その10日間の痛みといったら、筆舌に尽くしがたいという言い回しそのものだった。

その痛さは、出産間際の痛みが10日間続いたようなといえば、女性の皆さんには理解していただけるかと思う。

思い出だせば、私は、自慢ではないが(笑)、ああいう激しい痛みも体験したのだ。

それと比べれば、今回の事故の痛みなど、とも思う。

それにしても、「今現在どこにも痛みがない」ということは、それだけで幸せなことなのだということを思う。

よく「失って知る有り難さ」ということがいわれるが、逆に「無くなって知る有り難み」というものが、この世にはあるのだ。

神様は、ときどきこういう試練を与えながら私を鍛えてくださっているのだろうか?

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大腸がんによる腸閉塞の腹痛は私を救う痛みでもあった。この痛みで病院に運ばれて大腸癌が発覚したのだから。

ステージ2期だったが、もし腸閉塞になっていなかったら、もっと進行して、手術をしても助からなかったかもしれないのだ。