神鳴り(アメジストネックレス)

難聴ゆえに家居の好きな主婦です。過去、心臓弁膜症、大腸がんの手術を受けました。趣味は短歌です

夫の友人の屋敷に招かれて村形明子さんの思い出話の続き

2017年12月14日 03時03分02秒 | 親戚
その後、大原野にある夫の友人のお屋敷に招かれて、抹茶とお菓子をいただきながら明子さんの思い出話の続きをした。

夫の友人のお家は、まさにお屋敷というのがふさわしい邸宅であった。

実は、こちらに来させていただいたのには、大きな理由があった。

彼女の屋敷から見えるところに村形明子さんの悲恋のお相手だったと思しき方のお家があるからだった。

この「明子さんを偲ぶ会」に、そのかつて恋人だったと思しき方にも来ていただくべく、夫の友人が手紙を差し上げていたらしいが、それがその奥様の目に留まり、ひと悶着あったらしくて、お越しいただくことは叶わなかった。

奥様のお気持ちはよくわかる。

村形明子さんは、ひょっとするとその奥様より深くその方の胸に切り刻まれていたかもしれないから。

夫の友人は明子さんとその恋人を引き合わす算段をしていたらしいが、明子さんの急逝によって実現しなかったと言われていた。

ということで、昨日は、私には、よく知っていたつもりの村形明子さんの、全く別な面を知らされた一日であった。

*

・恋人がゐたとはまつたく知らざりき落ち葉かさこそ大原の里

・今一度生き返らなむ明子さん過去の悲恋を聞かせてほしく

・恋をせしことある人と思はざりし人の悲恋をその死後に知る

・生菓子と抹茶をいただきながら聞く恋に無縁に見えし人の恋


            *
(お詫び)

昨日は、当方の手違いで、編集していない記事を送信してしまい、お見苦しい記事をお見せしてしまいました。m(_)m

外出先ではケイタイからの投稿になりますので、いったん送信してしまいますと訂正ができないのです。

昔は楽しい帰省だったけれども、最近は疲れる帰省

2017年12月08日 18時36分51秒 | 親戚
若い頃は帰省が楽しみだった。

現在も、ふるさとに帰る喜びはあるが、高齢の母の心配のほうが大きすぎて楽しむところどころではない。

一緒にホテルに泊まっても、実に世話が焼ける。

歩くのが遅いので、それに合わせて歩くだけでも疲れる。

食事のたびに目配りしていないと、手足の衰えた人はどんな阻喪をしでかすかしれない。

そのたびに、人間のできていない私は叱ってしまう。

90歳も超えれば若い人とおなじようにはできないことが頭ではわかっているが、私自身も疲れやすくなっているから、つい叱るというか怒ってしまうのだ。

この母の世話をしてくれているおばちゃんは今年80歳になったというのに、実に気長にやってくれている。

人の偉さとは、こういうところで出てくるのかもしれないと思う。

私は、子育ての頃もよく子供を叱った。

昔から、「子供叱るな来た道だもの、年寄り笑うな行く道だもの」と言われているが、その通りだ。

・コーヒーを部屋で飲まむとコーヒーをカバンに入れし母を叱れり

・コーヒーはこぼれて母の穿いてゐたズボンはコーヒーだらけになれり

・「なぜこんなものをカバンに入れるのよ」叱ればしゆんとしたり老母は

・カバン中コーヒーだらけになりぬれば出して乾かすドライヤ使ひ

・「こぼれるつてわからないの」と声荒げ何度も何度も叱りてしまへり

・大声で叱りしことと後始末するに疲れり年寄りわれは

・年寄りのわれに大年寄りの親ゐるは幸せばかりでもなく

朝からたくさんいただきます

2017年12月07日 08時53分43秒 | 親戚
ホテル玄関から高知カルポートが見えます。

お掘に面して桜並木になっていますから、春はきれいでしょうね。

お掘にはモーターボートがいっぱい係留されていますが、ここから浦戸湾に繰り出すのでしょうか。



むかし、私の祖父は釣り舟をこういうふうに新堀川に係留させてありました。

それで休日は家族で浦戸湾に繰り出したものでしたが、これはレジャーを兼ねた実利が目的でした。

戦後の厳しい食料事情の一助になっていたのでした。

親が釣りをしている間、私たち子供は板切れをあてがわれて浦戸湾で泳いでいたというか浮かんでいたことなどが懐かしく思い出されます。

ある意味、最高にぜいたくなレジャーだったかも。^^

  ・食料の乏しきころは休日に魚釣りしたり浦戸の海で

  ・魚釣りの合間に海で泳ぎたり兄妹は板につかまり

  ・景色よき浦戸の海に浮かびつつ日の暮れるまで遊びしあの頃


叔母の今際の言葉

2017年11月29日 06時15分46秒 | 親戚
「団塊シニアのひとりごと」さんが、「悲しい葬儀でこぼれた笑みのエピソード」と題して、親の今わの際にこぼれた笑いのエピソードを書かれているので、私も叔母のことを思い出した。

この叔母は、いつも書いている、従弟の母親で、母の妹である。

叔母の亡くなる前日のことだ。

叔父さんから、叔母のおしっこが出なくなったので、もう長くないと連絡が入って、私は病院に駆け付けた。

するとすでに連絡を受けた親戚、叔母の友人たちなど、病院の個室に入りきれないほどの人数の人が集まっていた。

そのとき互いに初めて対面する人たちもいたから、病室の中では「かねがねお噂を聞いておりましたが、どうのこうの」と叔母そっちのけで挨拶を交わす人たちもいた。

すると死にかけているはずの叔母がおもむろに口を開いて、「皆さん、今日はお集りありがとうございます。が、うるさくてたまらないので部屋から出て行っていただけますか」と言ったのだ。

瞼も閉じたまま死にかけているのに堂々と述べたので、私達見舞客はすごすごと部屋から出た。

叔母はその翌日に死んだ。

娘のように可愛がられていた姪の私も死に目には行けなかった。

その前日の言葉もさることながら、当時、次男がまだ園児だったので、預かってくれる人もいないので、行けなかったということもあった。

が、私は泣くより、その前日の叔母の挨拶?が堂々としていたことに妙に感心したことだった。

やはり、いくら可愛がってくれていたと言っても、親ではなかったから泣かなかったのだろうか?

葬儀のときに、叔母の友人たちに「〇さんは、しょっちゅう姪のあなたのことを話していましたよ」と言われたから、叔母は本当に私のことを思ってくれていただろうに。

叔母のことは今でもよく思い出すが、不思議に涙は出てこない。

*


  親でなき叔母の葬儀に泣かざりしわれは冷たき姪でありしか

  今もなほ思ひだすこと多かりし叔母なりされど涙は出でず

  父親のことは今でも思ひ出すたびに涙のわれであるのに

  わたくしの子を孫と呼びおむつまで準備して待つ叔母でありにき

  わたくしの子に「大阪のおばあちやん」と自称してゐし叔母おもひだす

  わたくしの母に私を譲つてと頼みし叔母に娘をらざり

  大阪の叔母は帰省のたびわれに服を土産に来てゐたりけり

  「デパートであなたに合ふと買つたの」と女児服買ふを楽しみゐたり

  大阪の短大生でありし吾(あ)にいつもご馳走食べさせくれき

  下宿へと戻る私にご馳走を折り詰めにしてもたせくれにき

  母よりも母親らしくしてくれし母の妹の叔母なつかしき

午前6時、長男と夫は高知に出発

2017年11月23日 07時02分49秒 | 親戚
昨夜、長男は孫の入浴を済ませたのち近江八幡市の自宅を出て、我が家には午後11時半に到着
(したらしい)。

夫も私も早寝早起きなので、もう待てなくて寝てしまっていた。

朝見ると、私が昨日布団を敷いておいた仏間で長男は寝ていた。

私は長男が寝ている間に、ロールキャベツとジャガイモのポタージュスープを温めておいた。

パンも一昨日私が焼いた手作りパンをトースターで焼いて待っていた。

が、長男は、途中で何か食べるからと、いっさい手を付けなかった。

それで、これも昨日、私が手作りしておいた焼きリンゴだけでもと出したが、いらないと言う。

この焼きリンゴは、先日、次男が来た時、おいしいと喜んで食べたから、長男も喜んでくれると思って作っておいたのに・・・。

なんだかここまで何も食べないのは私の料理がおいしくないからか、不潔だと思っているからかだろう。

そういえば、今年のお正月も私の作って行ったお節料理を長男は嫌がった。昔無理やり食べさせられたと。

その入れていった容器は次男のお嫁さんが洗って返しに来たから、残ったお節料理は、そのまま次男にくれてやったのだろう。

母親としては、とても傷つく。

長男の家は新しいこともあるが、お嫁さんが綺麗好きなので、すみずみまで掃除が行き届いている。

それと比べると、わが家は、物が多いのと、私がそれほど丁寧に掃除する質でないので、きれいではない。

もともと綺麗好きであった長男は、今ではお嫁さんとの生活のほうに染んでいるから、私のすることは余計気に入らなくなったのだろうか?

長男は、また夜、孫をお風呂に入れないといけないから、早朝に出たのだ。

高知で数時間滞在したら、夕方までに近江八幡の自宅に帰宅して、孫をお風呂に入れないといけないと。

長男は、とてもいい夫であり、またお父さんだ。

それはいいことだし、私は、そんな様子を喜んでいるのだが、しかし、昔は私の作るものをあれだけ喜んで食べてくれていた子の最近の態度が気になるし、悲しい。

この長男には、昔、私が教育ママだったころに辛い思いをさせたことを恨んでいる節が見える。

が、それを言い出したのは、最近だ。

私も、むかし、実家の母に異常に期待されてうっとうしかったから、長男の気持ちはわからないではない。

が、親というものは、大なり小なり、そんなものではないか。

私は、母が教育ママだったから、そのされたやり方で子供たちを育てた。

が、娘は親に言われるより前に自分から勉強する子だった。

それと比べると、長男は性格はいいのだが、欲がないから頑張らない(ように見えた)。

次男は、お兄ちゃんの言うことは聞くが、親の言うことを聞かない子だったので放っておいた。

長男は長男なりに頑張っていたのかもしれないのに、私が期待しすぎたのが悪かったのか。

しかし、今頃になって、こういう形で反抗されても・・・。

ま、何でも晩生だった長男だから、反抗期も今頃になって表れたのかもしれない。

長男は、この11月に43歳になった。

もう43歳?まだ43歳?

*


  反抗期いまごろ来しか長男は私の作る食べ物たべず

  長男に期待しすぎた過去ありて今頃しつぺがへしはきたり

  それを見て育ちし次男は塾行かず進学先の相談もせず

  最初から親の言ふこと聞かぬ子は自分で決めて自分で育つ

  従順でいふことを聞く長男の今頃きたる反抗期の花

  わたしにも私の母にも義母にまで期待されにし長男なりき

  ひとたびの知能指数の検査にて高き数値を出せば期待は

  知能より大事なことは頑張りのパワーと思ふそれも遺伝す

  頑張らぬわれの息子であるゆゑに頑張らざるは遺伝なるべし

最近は従弟とメールし合うことが多い

2017年11月18日 07時31分53秒 | 親戚
私の母方は、私達兄妹と、先日お見舞いに行った、今は亡き叔母の連れ合いであった叔父さんの息子一人と、あと高知県に従弟が二人だけだった。

合わせてたった5人の従兄弟同士だったから、兄弟みたいなものだった。

その少ない従兄弟も、高知県のとある市でで開業医をしていた従弟が52歳で亡くなり、高知市でお店をしていた兄が67歳で亡くなり、残されたのは3人になってしまった。

私達は昔から兄弟のように仲が良かった。

なかでも、最近メールのやり取りをしている従弟は一人っ子だったこともあり、特に仲がいい。

かてて加えて、最近では、従弟は叔父さんの世話、私は直接の世話はしていないけれども、母のことで頭がいっぱいであるから、共通の話題が多いのだ。

従弟は、叔父さんの作った会社の後を継いで社長をしているから忙しい。

その上、私とは電話で話ができないので、メールのやり取りをしないといけないから、大変だと思う。

が、数少ない親戚だから、多忙の中をよくメールくれる。

兄はいなくなったが、同じ関西圏に従弟がいるのは心強い。

一人っ子である従弟も、あるいは、私のことをそう思ってくれているだろうか?

*


  ひとり子の従弟は優しすぎるゆゑ心配すなり騙されはせぬかと

  ひとり子の従弟と兄を失ひしわれは仲良くメールをしあふ

  中学生なりし従弟に勉強を教へてゐたり学生のわれ

  頭よき従弟は飲み込み早ければいと教へやすき生徒でありき

  兄弟のいない従弟はわがことを姉のやうにも思ひ慕ふや

  この従弟おさなき頃に弟になりかけゐたり叔母が死にかけ

  この従弟生みて結核再発し片肺なくしし叔母でありにき

  このいとこ生後十一か月より四歳までを親ゆ離され

  弟になり損ねたる従弟ゐて今も半分おとうとのごと

91歳になった叔父さんのお見舞いに行くと手足を拘束されていた

2017年11月11日 21時16分42秒 | 親戚

昨日、従弟に用があってメールした。

そのついでに、叔父さんのことを聞いた。

すると、近年、認知症がひどくなり、この夏からはグループホームに入所していたけれど、最近、食欲も落ちて食べなくなったので、体力回復のため、入院させたとのこと。

それで、今日は急遽、この今年91歳になった叔父さんのお見舞いに行ってきた。

この叔父さんは、今は亡き母の妹(叔母)の連れ合いだ。

この叔父さんには一方ならぬお世話になった。

娘のいなかった叔母に娘のように可愛がられていた私は、この叔父さんにも娘のように可愛がっていただいた。

叔父さんは、看護師さんに案内された病室で眠っていた。

看護師さんにお聞きすると、睡眠導入剤で眠らされていると。

しばらく話しかけてみたが、うわごとのようなことを言うばかりで、こちらの言うことには反応しない。

その胴体と手を見ると拘束されていた。足も。

こうしないと、点滴を抜いたりするからと説明されたが、こんなふうにしてまで長生きさせなければならないのかという疑問が湧いた。

まだ従弟に言っていないが、この拘束は止めるように言いたい。

食べられなくなったということは死期が近づいているのかもしれないが、それならそれで自然に任せておいたほうがいいのではないだろうか。

睡眠導入剤も必要なものなのだろうか?

私は、鬱病になったとき、精神薬とともに睡眠導入剤も処方されたことがあったが、あれは害あって益なしの代物と思った。

今でも、あのときの精神科医を訴えてやりたいくらい恨んでいる。

私は、もう少しで廃人にされるところだった。

それに気づいて、自分で断薬したからよかったが、医師の言う通り服用していたら、大変なことになるところだった。

叔父さんの場合は、認知症になっていたから事情は違うかもしれないが、しかし、安易に処方してはいけないし、されてはいけない。と思う。

病院を辞去したあとは、従弟の家に行った。

会社を経営している従弟は今日も会社でいなかったが、その奥さんと話した。

奥さんは、叔父さんが認知症になってからの苦労を滔々と述べたが、しかし、叔父さんは、子供思い、孫思いで一生懸命働いてきてくれた人なので、最後まで大事にしてあげてとお願いした。

叔父さんの手足の拘束について、一言いいたいと思ったが、義理の間でこういうことを言うと角が立つかもしれないと言わずに帰ってきた。

私も、そのさなかはそうだったが、認知症の人の世話は大変なので、介護している自分の苦労ばかりで頭がいっぱいになるが、しかし、介護されるほうも、それなりに大変だと思う。

まして、こんなふうに手足を拘束されたら、何のために生きているやらわからなくなると。

従弟たちは少しでも長生きをしてほしいと思ってしていることかもしれないが、これは決して当人のためにはなっていないということに気づいてほしいと思った。
*


  拘束をされて生かさるる悲しさよ顔が痒くてもかけぬ悲しさ

  食べられぬやうになつたといふことは命の消ゆる知らせなるべし

  栄養を点滴されて生かされることを望みてゐるや叔父さん

  認知症すすみ失禁することもある叔父さんに点滴残酷

  点滴を抜かぬやうにと両腕を拘束されて眠りゐる人

  眠りつつさかんに譫言いふ人の痛々しさに目を背けたり

パソコンがつながらないでケイタイから投稿するのは

2017年10月14日 11時21分39秒 | 親戚
自分の顔を確かめないで外出している気分です。自分のブログが見られないので。
昨日はパソコンがつながっている時間帯に4度も記事を投稿してしまいました。

気が変になったかと思われた方もいらっしゃるかも(^-^)

夫が昨日から仕事で滋賀県に行き、朝一度帰宅していたようでしたが、私が二度寝していたため、そのままシニアカレッジに行き、直してもらえませんでした。
もうブログ書くことをあきらめるしかないかなあ。

書くことが楽しみなわれ書かざれば書きたきことが溜りて苦し

仕方なく葵の花に語りかく書くこと私の生命なのよと

義姉に11月初めに帰省することをメールしました

2017年10月13日 16時42分45秒 | 親戚
またパソコンがつながりましたので、書きます。(笑)

今朝、義姉に11月に帰省することをメールしました。

本当は連絡はもっと先にする予定だったのですが、昨夜母から電話があり、足の皮膚が化膿していて、体もしんどいから寝てばかりと言っているらしいので、その様子を聞くことを兼ねて連絡したのです。

すると兄嫁からは、「お母さんの体の弱りは年相応のもので問題ありません。足の化膿は、お母さんがちゃんと清潔にしないから治らないのです。現在、お母さんの世話をしてくれている〇〇さんが毎日薬を塗ってくれています」という返信でした。

なので、まあ心配することもなさそうですが、しかし、それにしても、もうちょっと世話をしてもらえないかと思うのは、実の娘の勝手でしょうか。

兄嫁も、私の兄亡き後、甥たちとお店を維持するのも大変だと思いますが、しかしもう少し面倒見てくれないものかと期待するのは無理な相談でしょうか。

母も昔人間で難しいところはありますが、働いて働いて我が家や兄一家を経済的に援助してきてくれたと思うのですが・・・。

母が元気なころは、私の夫も、兄嫁も、母に従うだけだったのでしたが、力が衰えてくると、いっぺんに反旗を翻されるというか。

しかし、これはどこの家にもあることなのでしょうね。

あの怖かった姑も、晩年はプライドもかなぐり捨てて、「bikoさんbikoさん」と私を頼り切っていたのは、心身の衰えによるものだったと思うにつけても・・・。

長生きはしたくないですね。

                  *

  兄嫁は母の衰え年相応と言ふなりあつけらかんと秋の風吹く

  実の子の思ひは思ひでありぬれど赤の他人の兄嫁さむし

  兄嫁も苦労してこし半生がありて兄嫁なりに反旗を

姑には姑の言い分が、嫁には嫁の言い分が

2017年08月17日 13時11分09秒 | 親戚
昨日の朝の「終戦の年に生まれた兄の享年は67歳であった」には、姑のことを書いた。

終戦の年に生まれた亡兄のことを書いていたのだが、いつのまにやら、かつて私の恨みつらみの源であった姑のことにも気持ちが移って書いてしまった。

が、これは嫁の私からの言い分である。

姑には姑の言い分があったはずである。

私達が結婚した当時、団塊世代の私達女性には適当な年齢の男性は半分くらいしかいなかった。

だから、男性側からは選り取り見取りであった。

その中でも、高学歴、高身長、さらに美男子でもあった私の夫には、多くの候補者がいた。

その中から、よりにもよって当時から多少難聴でもあった私を娶ることなどなかったのだ。

姑の、その不満は大きくて、結婚してからも、いろいろ嫌味を言われた。

かてて加えて、私の母は、そのころから生け花の師匠として中四国、あるいは全国を飛び回っていて、娘の私のことなどかまっていられなかった。

私が熱を出して寝込んだときなどは、姑に頼まなくてはならなかった。

それが余計、姑の強気の原因にもなった。

という事情もあったのだ。

実際、姑には何度か急場を助けてもらった。

現代のように、連れ合いが奥さんの体調不良に仕事を休むということは考えられなかった時代だったから。

また、そういう時代であったとしても、仕事至上主義の夫は仕事を休んでくれなかったと思う。

それを思えば、姑には感謝しないといけないし、私達に対する無理難題も飲まなければならなかった。

  子育てのさなかは義母に頼むしか術あらざれば頼みしことも

ところで、今回帰省して、母の実家にも行ったわけだが、母の実家は、現在、母の弟の奥さんが守ってくれている。

この義理叔母は、私が行くたびに、過去の苦労話をする。

それは、私の祖母が難しい人だったから苦労したという話だ。

私は、この義理叔母は、早世した叔父に代わり、よく祖父母に孝養を尽くしてくれたと感謝しているが、しかし、孫の立場から言わせてもらうと、祖母には祖母の言い分があったと思う。

というのが、この義理叔母の実家はサラリーマン家庭で、しかも6人兄弟だったため、嫁入りのときに、家具は持参してきたが、着物類はほとんど持参していなかった。

義理叔母の下に育ちざかりの5人の弟妹がいたから、そこまでの余裕はなかったのだろう。

母の実家は生糸工場を営んでいた事情もあって、知り合いには着物にうるさい人たちがいた。

それで、これも今では考えられない風習だが、結婚前は、その調度品の品定めに来たりした。

それで、祖母は大急ぎで、義理叔母のために着物をたくさん新調してあげた。

箪笥が空っぽでは笑われるからだ。

そういううるさい人たちに対する配慮でもあったと思う。

その後も、祖母は、私に着物を作ってくれるときなどは、必ず、この義理叔母にも着物を作ってあげたりしていた。

難しいことも言ったかもしれないが、祖母は祖母なりのやり方で、この義理叔母に尽くしていたと思う。

が、嫁の立場からすれば、難しいことを言われたことばかりが記憶され、過去の苦労話になっている、と思われる節も見られる。

この義理叔母のお父さんは転勤族で、他県の人であったことも、古い考え方の祖母には受け入れがたいところもあったかもしれない。

が、美人で賢く働き者の義理叔母は、叔父が惚れ込んで頼み込んで来てもらった人でもあった。

従弟は、早く亡くなってしまったが、医師になったし、その子供達三人は、一人は女医、一人は公立医大副学長の家に嫁いで、跡取り息子は獣医になったのも、この義理叔母が賢い人であったのが関係していると思う。

嫁姑は、お互い敵になりやすい。

姑側は、こんなにしてやったのにという思いがあるだろうし、嫁のほうは、こんな犠牲を払わされたという恨みを持ちやすいから。

私の実家も、現在、いろいろあるが、どちらにも言い分があると私は見ている。

  こんなにもしてやつたとは姑の、こんなにもされてきたとは嫁の言ひ分

が、我が家の場合も、母の実家の場合も、私の実家の場合も、いずれも、その姑が孫をたいそう可愛がったという共通点がある。

姑も、私には厳しかったが、私の娘や息子は、これ以上ないくらい可愛がってくれた。

それを思えば、感謝しかない。

次男のお嫁さんのお母さんに「元気ですね」と言われてしまいました

2017年08月15日 17時34分19秒 | 親戚
自他ともに怠け者を認めている私ですが、昨夜、次男のお嫁さんのお母さんから電話があって、私のことを「お元気ですね。私など、とても・・・」とおっしゃっておられたとか。

え、そう?

次男のお嫁さんのお母さんは偶然私と同い年ですが、お家の中はぴっかぴっかに磨いていらっしゃるし、なにへんのことに行き届いていらっしゃるから、私は、お嫁さんのお母さんこそ、「お元気ですね」と言って差し上げたく思っているのですが・・・。

が、この1週間に限っては、私も頑張ったと思う。

8日(日)お盆の設え。

9日(水)娘達とUSJへ。

10日(木)朝お坊さんにお経をあげてもらってから、昼前お嫁さんの勤める
      神戸の病院に迎えに行き、そのまま四万十町のロッジまで。

11日(金)午前中、四万十町から四万十市に移動して、四万十川で遊ぶ。
      四万十市から高知市の実家と実家の本家を訪問、その後、香美市の
      母の実家も訪問。
      高知市に戻る途中、南国市のお墓の掃除とお墓参り。
      その後、高知市はりまや橋商店街でよさこい踊りを見る。
      丸亀市まで車で移動して泊まる。

12日(土)朝、丸亀市の讃岐うどんのお店に並んで讃岐うどんを食べる。
      その後、金毘羅神宮に行く。(私は100段目でギブアップ)
      金毘羅の門前町の「中野うどん学校」で、うどん作りの体験をする。
      瀬戸大橋を渡って川西市まで。

13日(日)近江八幡市の長男の家にお土産を届ける。
      近江八幡駅に娘達を見送ってから帰宅。

14日(月)大洗濯をする。あまりにも疲れていたので、夜は夕飯も食べずに寝てしまう。

15日(火)夜中の2時に空腹で目覚めて食べていなかった昨夜の夕食をとる。

      午前4時ごろまで旅行中ケイタイから投稿してあったブログ記事の推敲をする。

      その後、爆睡したようで、午前10時10分に目覚めたときは、生協の配送品が
      勝手口におかれてあった。生協のお兄さん、何度も呼んでくださったんだろうな。

  七十に近き婆さん爆睡をして生協の配送しらず

ーーーーーーーーーー

まあ、元気というわけでもないが、かなりハードなスケジュールであったことは確かだ。

今日は、恵の雨。

その雨に甘えて、本来の怠け者丸出しで怠けた一日であった。

  洗濯をせしのみ後は寝てゐたり残り物など出して食べつつ

入梅・・・私も入梅?

2017年06月08日 03時40分56秒 | 親戚
昨日は私のケータイに「近畿地方は入梅したとみられる」と防災ネットからお知らせが。

最近は、気象庁は「入梅しました」と断定しないで、こういう奥歯にものの挟まったようなお知らせをしますね。

で、昨日は、一日中雨でした。

夫は午後シニアカレッジに出かけて、私は一人で家にいたのでしたが、さる方のブログを拝見して、急に鬱になってしまいました。

いや、別に気にするほどのことでもないのですが、以前ちょっと行き違いがあったことがあって。

ネットって、顔が見えないこともあって、こちらはそんなつもりがなくても曲解されてしまうこともありますね。

先月は、インターネット歌会で、新しく入った方の慣れない司会にアドバイスしただけで、ずいぶん嫌味を言われまして、どうしてこうなっちゃうんだろうと悲しく思ったところでした。

個人メールで私を応援してくださった方も多かったのでしたが、一方的な攻撃の言葉にかなりダメージを受けました。

その攻撃してこられた方はほかに原因があって、たまたまそういう書き方になったのかもしれませんが、私は家に籠り勝ちの人間なので、他の人は気にしないようなことでも気になるところがあるのです。

その方も、こころに傷をもっていられたのかもしれません。

幸せな人だったら、そんなに人を攻撃することはしませんからね。

ということで、私は雨は好きなのですが、昨日は心のバランスを失いかけていたから一日ふさいでしまいました。

紫陽花の花がきれいに咲いています。ドクダミの花も雨の中で白い花を浮き立たせています。

家に閉じこもり勝ちで、心も閉じこもらせがちになる私も元気を出さなければ!

  紫陽花は雨に打たれて美しくドクダミ白く浮かぶ入梅  biko

お墓参り

2017年04月30日 09時52分00秒 | 親戚
大阪梅田から昨夜の夜行バスに乗って朝6時に高知市はりまや橋バスターミナルに到着した私たちは、実家の母を見舞ってから路面電車で南国市にある夫の実家のお墓へ。

  墓参りせむとはりまや橋ゆ乗る路面電車は御免町まで  biko

最初の写真は御免町駅を出た辺りの田園風景。

10分ほど歩くと墓地に到着。

お墓は田墓で田んばの中にある。

墓地の草はまだそれほど生い茂っていたわけでもなかったが、来る夏のことを考えて根こそぎ抜いた。

そして、高知市の日曜市で買ってきたお花とお饅頭をお供えして日頃のご無沙汰をお詫びした。



墓参りが終われば、今日は香南市赤岡町で「どろめ祭り」が開催されるらしいので、ごめん町駅から土佐黒潮鉄道「あかおか駅」まで行って観光する予定です。

  田墓なる夫の実家の墓参り遠くに四国連山見つつ  biko

「どろめ祭り」のことはブロ友「くりまんじゅう」さんのブログ記事に教えていただいた。

高知城まで来たけれども

2017年03月31日 12時21分40秒 | 親戚
雨は本降りなので、お花見は止めてユーターン。

せっかく来たのに残念。
お城の斜め前にこんな建物ができていた。

高知県立高知城歴史博物館


お腹がすいたので、ひろめ市場へ




人気の明神水産へ



並んで、



おいしい\(^O^)/