神鳴り(アメジストネックレス)

難聴ゆえに家居の好きな主婦です。過去、心臓弁膜症、大腸がんの手術を受けました。趣味は短歌です

交通事故に遭って人の優しさが身に沁みました

2015年09月30日 09時39分32秒 | わたしのこと
昨夜、夜の散歩中に交通事故に遭ってしまって、たくさんの人にご迷惑をかけてしまいました。

昨日は(も?)一日中家にこもっていたので、夕食後、夫が2階の寝室に上がってから、私は散歩に出かけました。

我が家の表通りは、いつもご紹介している旧国道です。

一渡り歩いてきて、最後、信号のないところを渡ってしまいました。

夜間で車が少なかったので、つい・・・。

左右を見て渡ったつもりだったのでしたが、渡り始めた直後に衝撃を感じて道路に投げ出されていました。

起き上がろうにもショックで起き上がれません。

すると、親切な男性二人がきて、私を舗道に運んでくれました。

そして、ケイタイで救急車を呼んでくれたのです。

救急車はすぐにやってきました。

私はショックで動けなかったのですが、特に骨が折れたとかいうこともなさそうだったので、担架に乗せられるのはお断りました。救急車の中で血圧を計っていただくと、上が177、下が111もありました。事故のショックのせいだったと思います。

まもなくパトカーがきました。

当然、いろいろ聞かれました。

私を跳ねた車は、そのまま走り去っていたので、私を助けてくれた男性二人もいろいろ聞かれていました。

その後、チョークなどを使った現場検証もありました。

そうこうしているうちに、私を跳ねた車が戻ってきました。

そして、私が悪かったのに、「申し訳ありませんでした」と深々とお辞儀をして謝ってくれました。

その後、その青年に対する事情聴取が始まりました。

私は、取調べの警察官の方に、「私が悪かったのだから、この若い人に罪がつかないようにお願いします」と頼みました。

警察官の方は、「いや、この人も前方不注意だったから」と言って取調べは続きました。

本当に私一人の不注意で、大勢の人に迷惑をかけてしまいました。

が、人の親切も身に沁みました。

私を助けてくれた男性二人はたまたま通りかかって、それぞれ車を停めて助けてくれ、さらに、警察の事情聴取にも付き合わされていましたが、いやな顔ひとつせずに、協力してくれました。早く家に帰って休みたかったでしょうに、逆に最後まで私を気遣ってくれました。

動転していたので、お名前もお聞きすることができませんでしたが、この場を借りて、お礼申し上げます。

そして、今後、私めも、人様には、できるだけ親切にを心がけます。

昨夜は、「明日は病院に行ってくださいね」と言われましたが、今朝目覚めても少し肩が痛いくらいで大丈夫そうだから、今日は一日様子見をしようと思います。

恥ずかしくて穴があったら入りたいと思うとともに、義母も、やはり現在の私くらいの年齢のときに交通事故にあったことを思い出しました。

義母は何メートルか飛ばされて怪我をしたため、入院をしましたが、私は不幸中の幸いでした。

義母も、私と同じように、信号のないところを渡ろうとして事故にあったのでした。

言い訳になりますが、旧国道のせいもあって信号と信号の間が長いので、道路のすぐ向こう側に用事のあるときは、つい渡ってしまうのです。そのためよく事故があります。死亡事故もしばしば・・・。

義母もでしたが、私も厳重注意を受けました。

昨夜は帰宅後も胸の動悸が静まらず、なかなか寝付けませんでした。

夫には事故現場から何度もメールを入れたのですが、出てこないので、警察官の方に自宅まで呼びに行ってもらったのでしたが、いくらチャイムを鳴らしても出てこないと戻ってこられました。夫は一昨日、宝塚のほうへ長距離散歩をして、その疲れが昨夜出て爆睡していたらしかったです。

今朝、私の事故にしても、夫のチャイムが鳴っても目覚めなかったことにしても、お互い老化だねと言い合いました。

「私生活をブログに書いて何になるのだ」?

2015年09月29日 17時36分13秒 | 新聞記事
今日のS新聞を読んでいると、『大放言』という本の広告が出ていて、副題は「誰も言わないのなら、私が言う」という副題がついていました。

その中に

・「私生活をブログに書いて何になるのだ」という項目がありました。

一瞬、「ん?」と思いました。

ええ、損得勘定の物差しで測ると何にもなりませんね。だけど、「あなたは何のために生きていますか?」と聞かれたとき、何と答えられますか?

人って、「何のためになるか」という損得だけを考えて生きているわけではないですね。

・「なんでも『セクハラ』で誰が得をする」という項目もありました。

誰も得をしようと思って「セクハラ」と訴えるわけではないでしょう。普通の女性であれば、被害を受けて、我慢ができないから訴えるのでは?

・「なんでもコスパで考えるな」というのもありました。

誰が「何でもコスパ」で考えるのでしょうか?

もちろん入ってくるものには限りがあるから、無駄遣いはしないように心がけます。

だけど、何でもかんでもコスパで考える人っているでしょうか?

そんなことだけに汲々とすることは己の人生を汚すようなものです。

人様に特に子供達に迷惑をかけずに己の生を全うしたいから気をつけているだけです。

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センセーショナルな書名、副題をつければ、本というものは売れるのでしょうか?

母の友人のKさん一家のこと

2015年09月29日 06時32分35秒 | 思い出
数日前の「マンドリン演奏&往年の学生運動の被害者」の記事で、「今度、もう一人の母の友人、Kさん一家のことを書きます」と予告したから、書いてみる。

「マンドリン~」の記事でも書いたが、当時私たち一家(といっても兄は高知市のT中学に通っていたから父母と私の三人だけ)は香川県高松市に住んでいたころ、{マンドリン~」のMさん一家とともに仲良くしていたのが、今日タイトルにしたKさん一家だった。

母の卒業した高知県立第二高女というのは、義母の卒業した高知県立第一高女より後でできたので、第一高女より下に見られることが多かったらしいが、しかし師範学校の附属だったので、実質的なレベルは高かったようだ。

Mさんのお母さんはその中でも優等生だったらしいし、もう一人の友人Kさんも教育熱心な人だった。Kさんが教育熱心だったというより、そのご主人が教育熱心だったといったほうが正しいかもしれない。

Kさんのご主人は、当時は、大手都市銀行の四国地区を統括する高松市の支店次長をされていた。まだ若かったから、かなり出世された人であったらしい。

住いも、我が家は、当時は珍しくてそれなりに羨ましがられもしたが、狭い県営アパート暮らしだったのに比して、高松市でも一等住宅地の立派な住宅に住んでいられた。

しかし、学歴には劣等感をもっていられたようで、子供さんには殊更教育熱心だった。

私の父が昔の東京帝国大学を出ていても、しがない国家公務員であったのとは真逆であった。

私の父などは、兄にも私にも、「勉強など頑張ることはない」といっていたのと比べても、真逆だった。

幸いKさんの子供さんはふたりとも優秀だった。

長男のm君は、そのころはKさんのご主人が神奈川県F市の、その銀行の支店長をしていたから、神奈川県のトップ公立高校に通っていた。その高校での成績も、常にトップクラスだったから、当然東大に合格できると思っていた。が、現役では不合格だった。どういうわけか一浪しても不合格だった。不思議なことに二浪したあとも不合格になった。それで、諦めて(諦め切れなかったようだったが)慶應義塾大学に進学した。m君は私より一学年下だった。

が、大学に進学したあたりから、これも何の因果か、ノイローゼ気味になった。

もともとm君は、頭はよいが神経の弱いところがあったようだ。

その後、一流企業に勤めて、きれいな奥さんも娶って、はた目には順調に見えていた。

が、ノイローゼは治りきっていなかったと見えて、既に子供もいたのに、突然命を絶ってしまった。

母の友人のKさんは、これがショックで重い鬱病になってしまった。

Kさんは、その高松時代の三人の中でも、一番明るくて、歌も上手くて、生活もよかったから、一番幸せそうだったのに、自慢の息子さんの自殺で暗転してしまった。

以後は寝たきりになられたと母に聞いて驚いたものだった。

母は活け花の仕事などで上京したときは必ずF市の病院に寄ってKさんのお見舞いに行っていた。が、その後、Kさんが元気を取り戻すことはなかった。

最期は愛知県の春日井市に嫁いでいた長女のmちゃんに看取られながら亡くなった。

Kさんが亡くなる前後は、私の娘が名古屋に住んでいたから、母は、私の娘の運転する車で、お見舞いにも行き、亡くなってからは、これは私も私の娘も同行したが、mちゃんの住いに焼香させていただきに伺った。

先日書いたMさんのお母さんも美人だったが、Kさんも、美人というより可愛いのほうがふさわしいかったかもしれないが、美人だった。Kさんに似て、m君もmちゃんも可愛い顔をしていた。妹のmちゃんのほうも慶応大学を卒業して、私達が訪問したとき、「自宅で英語塾をしています」といっていた。mちゃんは、お兄さんのm君より大らかな性格だったようで、お母さんが亡くなられても、比較的明るくしていられた。もっとも、Kさんが長患いだったから、覚悟ができていたからだったかもしれないが・・・。

というわけで、当時高松市に住んでいた三家族、それぞれその当時は幸せいっぱいだったのに、必ずしも晩年まで幸せであったわけではなかった。

我が家の、わがことでも、あの頃は、難聴が判明していなかったから、ふつうに小学生時代を送っていた。実際、当時は、それほど悪くなかったと思う。

それでも、Kさんは、最期はmちゃんが引き取って看取ってくれたから不幸せばかりでもなかったかもしれない。

Mさんのお母さんも、Mさんには先立たれたけれども、あとふたり子供さんがいるわけだから、まったくの不幸というわけでもなかろう。

三家族とも、当時が幸せいっぱいだったから、それと比較すると、不幸な晩年のように思えるが、世間的には、よくありがちのことで、それほどの不幸というほどでもないかもしれない。

今朝は思い出すままに過去の思い出を書いてみた。

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私の兄が当時高知のT中学に通っていたのは、兄が小学校を卒業するときに父の高松への転勤が決まって兄が「記念にT中学を受けさせて」と言ったからで、合格しても行く予定はなかった。が、塾にも行っていなかったのに合格してしまって、小学校の担任の先生に「せっかく受かったのに行かないのはもったいない」と言われて、親戚に下宿して通学していたのだった。

私の兄も、父方の祖父の遺言で、最初医学部を目指していたが、理数系の科目がイマイチだったので、最終的には慶応大学に進学した。結果的にKさん家きょうだいは兄と同窓になった。

スーパームーン(だけどお粗末な写真(^^;

2015年09月28日 18時37分28秒 | 日記
昨日がスーパームーンだと思って写真をアップしたけれども、昨日は十五夜で、スーパームーンの満月は今日だというので、今日は日没前から猪名川の岸辺で十六夜の月を待ちました。

私は、ケイタイで写すので、ほかの方々のような立派な写真は撮れません。

実際は大きな立派な月だったのですが、それは私の脳裏にとどめて、記念に写した写真をアップします。

だんだん日暮れて、帰るころには夜の帳(とばり)が。

十六夜の月と猪名川の鉄橋を渡る阪急電車を写しました。川面に十六夜の月が映っています。


帰路の旧国道沿いの街灯を撮影しましたが、これもケイタイのカメラでは上手く撮れません。だけど、おしゃれな舗道はお分かりいただけるかと。


街灯を大きく写したのですが、同様の理由でお粗末な写真です。おしゃれな街灯なのに・・・。


朝、ここらあたりで救急車を待っていた男性は無事病院に運んでいただけたかな?

(今朝投稿の「花水木の実」より)
国道に出たとき、救急車がきた。

見ると、舗道に若い男性がうずくまっている。救急隊員がそれに気づかないで、うろうろしていたから、大きな声で、「こちらですよ」と教えてあげた。

そのあと一渡り散歩してから元の場所に戻ってくると、救急車は停まったままだ。受け入れてくれる病院が決まらないのだろうか。気になりながら帰宅した。

花水木の実

2015年09月28日 07時42分05秒 | 近所
朝のプチ散歩をしてきた。

家の周囲を歩いてきただけだが、秋の風物詩、花水木の実が成っていたから撮影した。

我が家の周りには3本のハナミズキ通りがある。

↓これは1本目の通り。左側のコンクリートが高架された阪急電車軌道。突き当たりが阪急川西能勢口駅だ。


↓鳥が啄むのか実はまばらである。


↓これは、2本目を飛ばして3本目のハナミズキ通り、旧国道沿いである。


ちなみに、2本目の花水木通りは、花の季節に撮影したものだが、こちら

2本目と3本目の通りは、阪急電車高架を挟んで2本あるということになる。

↓植物を写すのは接写がいいらしいから、接写した。


国道に出たとき、救急車がきた。

見ると、舗道に若い男性がうずくまっている。救急隊員がそれに気づかないで、うろうろしていたから、大きな声で、「こちらですよ」と教えてあげた。

そのあと一渡り散歩してから元の場所に戻ってくると、救急車は停まったままだ。受け入れてくれる病院が決まらないのだろうか。気になりながら帰宅した。

満月の孤独

2015年09月27日 18時59分17秒 | 気づき
今夜はスーパームーンの満月ということなので、外に出てお月様を見ていた。

お月様は毎日お出ましになられているのだが、こうしてわざわざ拝ませてもらうことは少ない。

大阪のマンションに暮らしているころは部屋が最上階であったことと周囲に高い建物がなかったこととで、日の出も日没も、月の出も月の入りも、よく見えた。

が、現在の川西市の家は一戸建てであることと、周囲にマンションが建っていることで、いつのまにやら太陽が出て、いつのまにやら日が沈んでいるという毎日だ。

月も同様で、いつのまにか天高く昇ってしまっているし、いつのまにか姿が消えている。

暮らしのメリハリがなくなったような気がしている。

今夜久しぶりにお月様を眺めさせていただいていると、スーパー満月で大きいといっても、天高く一人いませられるお月様は、つくづく孤独であると思わせていただく。

大勢の人々から見上げられて崇拝はされるけれども、だれにも頼ることができないし、勝手に動くことも許されない。

それと比べると、私達は寂しいといっても話し相手はいるし、話し相手がいなくても、自分の足で好きなところに行って気を紛らせることができる。

人から崇められる輝きはもっていないけれども、その代わりに、人を抱くこともできるし、抱かれることもできる。

月は、誰をも抱くことができないし、抱かれることもできないから、あんなに冷たい光を放っているのかもしれない。

マンドリン演奏&往年の学生運動の被害者

2015年09月26日 08時37分50秒 | 思い出
またブログ復活したようですね、私(笑)

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先日も枕にさせていただいたくりまんじゅうさん、今日も枕にさせていただきます。ご迷惑かもしれませんが、同窓のよしみで許してください。(^^)

そのくりまんじゅうさんの一昨日のブログタイトルが「マンドリン演奏」だった。

その記事の内容とはまったく関係ないのだが、高校生がマンドリン演奏する写真から、高校時代にマンドリン部に入っていた友人を思い出した。そのことはくりまんじゅうさんのその記事にコメントさせてもらった。

マンドリン部に所属していた友人は、元々は私の母の友人の娘さんだった人だ。Mさんとしよう。

私が父の転勤で香川県高松市に住んでいたころ、Mさん一家もそのお父さんの転勤で高松市に在住していた。

そのころの高松市には、もう一人母の友人一家がいて、Mさん一家と、もう一人のKさん一家と三家族で親しく行き来していた。

私とMさんは同学年であったが、私達が中学2年になってからすぐ、Mさんのお父さんの高知県への転勤が決まってMさん一家は高知市のお父さんの実家に戻られた。

そのとき、Mさんも母の友人のMさんのお母さんも、Mさんを高知県一の進学校T中への編入を希望したが、あいにく学年途中の編入試験はできないといわれて、私もその後編入学したT女子のほうに編入学した。

私のほうは、当時その進学校のT高校に通っていた兄の学業成績がイマイチ振るわないので、父を高松市においたまま、母と私が、私の中学2年の学年の途中に高知市に引越して、私もT女子の編入学試験を受けさせてもらって編入学した。

私はT女子でも十分満足であったが、優秀だったMさんは悔しかったと想う。

その後、大学受験でも、優秀だったMさんは受けた大学すべて合格だった。

最初、京都の同志社大学に合格して入学金も納めたのだったが、その後早稲田大学も合格したので、同志社大学の入学金は捨てて、早稲田大学に進学した。

ここまではMさんも順調だったが、その後、進学した早稲田大学で問題は起こった。

当時は学生運動まっさかりの時代だった。

田舎育ちで純朴だったMさんは、たぶん最初は、単なる好奇心で集会に集ったのではなかったろうか。

そこらあたりの詳しいことは知らないのだが、その後又聞きしたところでは、あのMさんがと思うが、学生運動に関わったかして、そこを抜けるのに酷い目に遭わされたとかで、気がふれたようになって帰郷した。

しばらく実家で静養していたが、どうも精神を病んでしまったようだった。

その後、家族で話し合ったのか、Mさんは、今度はお母さんと一緒に上京して、大学に戻った。今後、一生一人で生きていかないといけないと思案してのことだったろう。

ご両親は、まともな結婚はできないと考えられたのだろう。

Mさんは三人きょうだいの長女であったから、高知に残された弟さんと妹さんの世話はお父さんがされていたのだろう。ひょっとすると、お祖母さんもまだ存命であられたか。

が、そこまでの覚悟で戻った大学だったが、Mさんの病んだ精神は元に戻らず、結局、またお母さんと高知に戻ってこられた。

結果的には同志社大学に進学したほうがよかったのにとは母の友人達の慨嘆だった。

Mさんは10年前に亡くなられたが、そのショックでお母さんは脳梗塞を起こして、その後半身不随になられた。(くりまんじゅうさんへのコメントには5年前と書いたけれども、落ち着いて計算してみると亡くなられたのは10年前だった)

Mさんは優等生ではあったが、性質はごく素朴で、お母さんも心のきれいな方だった。

蛇足だが、心がきれいだっただけでなく、お母さんもMさんも美人だった。美人だったお母さんは、女学校を卒業するときに恩師に求婚されるほどだったと聞き及んでいる。

それなのに、なぜあのような目に遭わせられたのかと神様にお聞きしたい。

で、最初のタイトルの「マンドリン演奏」であるが、そのMさんは高校時代マンドリン部に所属していて、私も誘われて演奏会を聞きにいったことがある。

くりまんじゅうさんのブログにアップされている高校生達は他校の生徒さんたちだが、私にはMさんがオーバーラップして見えたのだ。

Mさんと私は、同じころ同じ中学に編入学した経緯から、在学中ずっと仲良くしていた。

忘れ物、たとえば体操服、音楽の時間の縦笛など、お互いに忘れたときは貸し借りしあったものだった。忘れ物の融通には、運よくというか、彼女とは一度も同じクラスにはならなかったから、それができたのだった。

マンドリンと聞くと、まして高校生が演奏している場面を見ると、あのMさんのことが思い出されてならない。

もう一家族、Kさん一家のこともいろいろ思い出したので、今度書いてみたいと思う。

川島なお美さん亡くなる&12年前の私の遺書

2015年09月25日 16時52分45秒 | ニュース
昨日、くりまんじゅうさんへのコメント返しでも書いたが、私のケイタイのカメラ機能が使えなくなった。が、不思議なことに、このブログに投稿するカメラ機能は生きている。で、一昨日の神戸六甲山では六甲比命神社をブログ草稿に撮影してきたついでに記事にしてアップした。

諸般の事情が重なってブログは止めたのだったが、今日は、川島なお美さんの死去を聞いて、何か書きたくなったので、禁を犯して?書くことにする。

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私は、夜中に目覚めてネットで「花山天皇」のことを調べていたから、川島なお美さんの死去は夜中に知ることができた。

今朝は、どのテレビ局でもその話で持ちきりだ。

美人女優さんだったから、その若さを悼む論調一辺倒だ。

54歳、今の私の年齢からすると、たしかに若い。

が、私も、55歳のときに、心臓弁膜症で一度死に掛けた。

川島さんも、もう2ヶ月で55歳だったから私の最初の死期と変わりなかったことになる。

が、私は、当時、私が死ぬのはまだ若すぎるなどとは思いもしなかった。

十分生きたとも思わなかったが、とにかくまだ大学2年になったばかりで下宿を始めたばかりの次男が心配でならなかった。

夫に聞けば、私の母は最初落ち着いていたらしかったが、あとで、これは大変なことと気づいたようで、私が手術を受ける前日に喪服持参で(笑)病院にかけつけてくれた。

娘は生後3ヶ月の、私の初孫を連れて東京から駆けつけてくれた。

緊急を要する病態だったから、入院後5日目に手術は行われた。

近年は、心臓手術の成功率は飛躍的に高くなっているので、心配することはなかった。

それでも、心臓弁膜症の診断がつくまでの数ヶ月は、毎日、もう死ぬか、もう死ぬかというような体調だった。

そのころに書いた遺書が残っている。苦しい最中に書いたので、ごく短い文だが、家族一人ひとりにしたためた。

短い文ながら、そのときの嘘いつわりのない気持ちだった。

あのときは、その後12年も生きながらえるとは思いもしなかった。

あのときに死んでいたほうが家族その他に惜しまれたかもしれないし、兄に先立たれることもなかった。(兄は健康優良児だったから私のほうが先に死ぬと想っていた)

しかし、神様は、その後も大腸癌、一昨年は精神薬の離脱症状、副作用という試練を与えてくださりながら、私を生かしてくださっている。

ここまで生かしていただきながら罰当たりなことをいうようだが、長生きは決して果報ではない。

むしろ適当な年齢で召されたほうが幸せかもしれないと思う。

川島さんのように美貌その他に恵まれていたのなら、もっと長生きしたかったと思うかもしれないが、私のように難聴という障害を与えられていると長生きするしんどさもある。

が、先日の敬老の日には長男のところでいろいろご馳走になった。私は子供には恵まれていると思う。子供だけでなく、その伴侶も皆すばらしい人たちだ。

感謝しないと、それこそ罰が当たるだろう。

六甲山頂巨岩&八大龍王、熊野権現、仏眼上人、花山法皇石碑

2015年09月24日 08時28分12秒 | スピリチュアル
この「神鳴り」ブログは今月12日に最終回だったのですが、今日六甲山頂の六甲比命神社に行ってきたので、自分の備忘のために、特別に記録しておくことにします。

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今日の昼食後、夫がどこかに行こうというので、ずっと行きたいと想っていた六甲山頂の六甲比女神社に連れて行ってもらうことにした。六甲比女様とは、天照大神のお后、瀬織津姫様のことである。

ということで昼食後すぐに出発したが、山頂に到着しても、「六甲比女神社」と書かれた看板はどこにもない。

辛うじて、石の名前を書いた地名を見つけたので、あてずっぽうでそのあたりの横道を登った。

運よく、さる会社の保養所↓の横に道標(上の写真↑)を見つけた。

↑保養所には「株式会社エイフ六甲山荘」と看板がかかっていた。

↓道標に従って山道に入ったが、神さびた雰囲気の山道であった。


↓樹木も、普通の樹木とは違うたたずまいだった。


↓むかし「森は生きている」という映画があったが、それを思い出させた。


↓大きな岩石が現れた。


↓さらに登ると山頂と思しき場所に石碑が建てられて簡単に祀られていた。

六甲比女さまの石碑にしては質素だと想ったが、しかし、今までの体験上、尊い神様も質素に祀られている例を見てきたので、驚きはしなかった。

簡素ではあったが、あたりの空気はさすが神様の醸し出される空気そのものであった。


これは他の方のサイトを見せていただくと、八大龍王、熊野権現、仏眼上人、花山法皇を祀った石碑だということが分かったので、この記事のタイトルも変えさせていただいた。

最初タイトルにした心経岩はこの石碑より下った場所に在します六甲比命神社よりさらに下った場所にあったようだ。私達はそこまでは行っていないので、タイトルを直させていただいたという次第。


石碑の横に道があり、石碑の裏側に行けるようになっていたから登らせていただいて、石碑の裏側からも撮影させていただいた。↓


↓石碑の前の松の木も、六甲比女様を守るかのように、荘厳な雰囲気を湛えている。


↓車を停めた場所に引き返そうとすると、脇道があるのに気づいた。


その道を少し下ると雲ケ岩 法道仙人毘沙門天と書かれた看板があって、大きな岩石が真っ二つに割れたまま立っていた。↓


さらに下っていくと、ごく小さな神社があって、「六甲比命大善神」とあったから、こここそ私が探していた六甲比女様、つまり瀬織津姫様の社だった。(続く)

六甲比命神社

2015年09月23日 17時22分15秒 | スピリチュアル
            ↑六甲比命神社の裏側に回らせていただくと、こういう祠があった。これこそご本尊であられるのだろう。暗くて分かりにくいが撮影させていただいた。

↓「六甲比命神社」と、近くの大岩を撮影。


↓元来た道に引き返すため登らなければならない梯子段。


いったん株式会社エイフ六甲山荘の前に駐車させてもらっていた車に乗って、次回のために本来の上り口を探した。↓


近くのゴルフ場の人に、「六甲山の上美術館」横に上り口があると教えてもらったので、探して行った。↓


美術館右側の道を下っていくと三叉路があって、その一番上に「雲ケ岩・心経岩、六甲比女大神」とあったので、ここから登れば先ほどの六甲比命神社に行けるということを確認することができた。↓


↓上り口に「六甲山吉祥院多聞寺」と道標。


↓この山道が、既に参拝させていただいた頂上近くの六甲比命神社、さらに磐座(いわくら)に続いているのだろう。


運よく登り口が見つかってよかった。次回はスムーズに行くことができそうだ。

ご参考六甲比命大善神社ウィキペディア

「神鳴り」最終回 帰省の帰途(2015年09月10日 16時20分31秒)

2015年09月12日 08時12分42秒 | 旅行
長い間、ご愛読いただきましたが、このブログ「神鳴り」は、今回を持ちまして最終回にいたします。

最後は、先日の兄の法事の帰省の帰途の写真をアップします。

「兄の法事」のあとの高速バスでは、さすがに疲れが出て眠ってしまいました。

目覚めてもしばらくはぼんやりしていましたが、淡路島の北淡町あたりでは海が見えて綺麗だったので撮影しました。

淡路島の一宮には日本を生んだイザナミ様、イザナギ様が祀られていて、その長女のワカヒメさまは、このあたりの海を流されて、兵庫県は西宮の浜に流れ着きました。

↓この日は台風一過で、おだやかな海でした。まもなく高速バスはパーキングエリアに駐停車したので、バスから降りて撮影しました。


↓明石大橋を通過中です。


↓明石の町を見晴るかすことのできる、このあたりからの景色が好きです。


↓カメラを後方に向けて、夕暮てゆく海を撮影しました。


この日の日暮れのように穏やかな晩年が迎えられることを祈りながらブログ「神鳴り」の最終回とさせていただきます。

どうもありがとうございました。

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  晩年はかくありたしとわたのはら見返してをり明石の橋ゆ  biko

わたのはら=広々とした海、大海原。

法事、結婚式に対する考え方は人それぞれ

2015年09月11日 21時42分03秒 | 私の意見
「兄の法事」の記事に対してハイジさんからコメントをいただいた。

兄の法事には行こうかどうしようか迷っていたが、ハイジさんが薦めてくださって帰省をしてよかったと思っている。

私の書き方だと兄嫁が一方的に悪いように受け取られるかもしれないが、しかし、人はそれぞれということを、このごろ強く思う。

兄の法事に対しても、私の物差しに当てはめて兄嫁を計ると兄嫁が悪いように聞こえるかもしれない。が、兄嫁には兄嫁の物差しがあるのだろう。

現代は、葬式、法事、お墓に対する考え方は過渡期なのかもしれない。

私自身、それほど仏教に対して信仰心が篤いわけではない。

子供の頃から何となく、こうしなければならないと教えられ、してきたようなところもある。

だから、ときどき疑問を抱くときもある。

最近は、そういう人が増えて、樹木葬などがもてはやされるのかもしれない。

兄嫁も葬式仏教というか、そのやり方に対しては疑問に思っているのかもしれない。

私は、亡くなった、たった一人の兄のことと、遺された母のことを思って、そうせずにはいられなくて帰省したが、兄嫁にしたら、家族だけで済ませようと思っていたのに余計なことをと内心思ったかもしれない。だから、食事の手配もしなかったかもしれない。

「十分なお供えをしたから食事を」と期待するのは、こちらのいやらしさかもしれない。(私はいやらしいから期待してしまったことを白状しておこう)

  仏教もひとつ宗教なにゆゑに人を招きてと思ひゐるにや  biko

ところで、我が家は先般の次男の結婚式を家族婚で済ませた。長女、長男もそうした。

が、兄のところは、数年前のその長男のときも昨年のその次男のときも大勢招待した。

兄嫁にすれば、我が家のやり方こそ、間違っていると思っているかもしれない。

私達は招ばなかった代わりに十分なお返しをさせてもらった。

来てもらうと、交通費、宿泊費などの出費は、こちらが負担する場合はいいが、しない場合は負担させることになる。

現に兄の長男の結婚式は北海道で挙げたから出席はしたが、お祝い以外に北海道までの旅費、ホテル代がかかった。おまけに結婚式は会費制だったから、お祝い以外に会費もかかった。可愛い甥のことだから、こんなことは別にかまわないが、それよりも、遠方なので、行くこと自体がおっくうで、欠席の返信をした。が、甥から直々に電話がかかってきて、ぜひ来てほしいと言ってきたから、出席した。

その次男の時は、われわれ夫婦だけでなく、長女、長男、次男にまで招待状が届いた。

長女だけは東京に引越す直前だったので欠席したが、われわれ夫婦に長男、次男は出席した。

それぞれの仕事のやりくりをしての出席なので、大変だった。

私達は、そんな負担をかけさせたくなくて招待しなかった。

自分達はそれがいいと思ってそうしたが、しかし、いずれが正解ということはないのかもしれない。

葬式、法事が過渡期であるのと同じように、結婚式のあり方も、今は過渡期であるかもしれない。

昔のように親戚、縁者が近くに住んでいるケースが多いなら従来のやり方でいいと思うが、現代のように皆が多忙になり、かつ遠方に住んでいるというケースが多くなれば、それに合わせた方法を模索していかなければならないのかもしれない。

麻婆茄子

2015年09月11日 12時03分42秒 | 料理
今日のお昼は冷凍庫で冷凍してあった豚ひき肉と買い置きの茄子で麻婆茄子を作りました。

これからいただきますが、母に食べさせてあげたいと思ってしまいます。

同じ高知市に住んでいたら、毎日でも届けてあげられるのに・・・。

手作りのおかずは、ついたくさん作りすぎて、夫婦2人とも食べ過ぎてしまうのです。

母に分けてあげれば、私達も食べ過ぎないでいられると思います。

昨日の今日のことですから、つい母のことを考えてしまいます。

  熱々のこの麻婆茄子も近くなら食べてもらへる故郷の母に  biko

  働きて働きてこしこの母は今が晩年こんな晩年  biko

  晩年に大事にされぬ一生であつたと思はせたくはなけれど  biko

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今ケイタイにメールが入り、宮城県大崎市というのは、同じ結社の、私もよく知っている歌人の住んでいるところなのだそう。そういえば、どこかで聞いたことのある地名だと思っていました。それを知ると、テレビを見ていても身を切られるような気がします。

日本はいったいどうしたのだろう。神様、助けてください。

兄の法事(2015-09-10 12:32:20)

2015年09月11日 10時09分48秒 | 家族
宮城県も大変なことになっていますね。

呑気にブログなど書いていていいのかと思いますが、続きをアップします。

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午前9時半にはりまや橋交差点に降り立った私は、実家に向かいました。

実家では今年初めて兄嫁が祭壇を作ったとかで、兄嫁が私に「これでええろうか?」と尋ねたのですが、私も嫁ぎ先では法事の設えをしますが、実家ではしたことがないのでよくわかりません。実家は天台宗で、嫁ぎ先は真言宗という違いもありますし・・・。

それにしても三回忌に誰も来ていないことに驚きました。父方の従妹達と会うことをちょっぴり期待していただけに・・・。

  亡き兄の三回忌へと里帰りせしが里はも様変わりして  biko

  亡くなりてまだ二年なり法事には会いたかりしと思ひゐし従姉妹ら  biko

父の時は7回忌くらいまでは、いとこ、はとこがきて、みな酒飲みですから、にぎやかなことこの上もなかったのでしたが、今年から法事をしきることになった兄嫁は東京育ちで合理的な考えの人だから「親戚は呼びませんでした」とさっぱりしたものでした。時代の趨勢もあるのでしょうか。年代の差もあるのでしょうか。兄嫁は私より5歳年下です。

父の法事は、数年前の35年祭も母が遠方いる孫達も招集して盛大に執り行いました。

最近でも本家(父の長兄)の法事は本家の2階の和室4部屋を使って盛大に執り行われました。

だから時代の趨勢だけでなく、兄嫁の考え方もあるのでしょう。私は従姉妹たちに会いたかったのでしたが、兄嫁にすれば、それは煩わしさ以外の何物でもないということは容易に想像できます。

本家のお嫁さんは私と同い年の安芸市生まれ安芸市育ちの人で、田舎育ちのせいもあって今でも高知式にするのかもしれませんが・・・。

↓兄の愛犬だった2匹が3階から降りてきて仏壇の前に鎮座したので兄嫁に叱られていました。


  愛犬も兄を偲ぶや三回忌祭壇まへの座布団に坐す  biko

お坊さんは10時に来られましたが、お坊さんは兄嫁の作ったお膳の並べ方を手直ししてから読経を始めました。お坊さんの読経の間は撮影するのは不謹慎なので、撮影を控えました。



ずいぶん長い読経でしたが、あとで母が言うのには、今年兄嫁が包んだ額は昨年母が包んだ金額の半分以下だったから来年からは読経も短くなると思うと。しかし母も今年90歳、いつまでも母が取り仕切ることはできないので、兄嫁に任せることにしたと。

  長々し読経もお布施のお陰かと聞きをり昨年までの  biko

  今年より半分以下にせしといふお布施ははのときより  biko

  兄嫁に兄嫁なりの考へはありてお布施は半分になる  biko

  半分の長さになるや減らされしお布施の多寡に応じて経は  biko

お坊さんが帰られても、まだお昼前でしたが、兄嫁が昼食のことを手配してくれている気配はないので私は帰ることにしました。母に聞くと、お勤めをしている甥の奥さんが夕方きて、皆で食事に行く予定だとか。母も連れて行ってもらえるかどうか気になりましたが、聞きそびれました。

兄が生きていれば、里帰りした私を高知市内で一番おいしい店に連れていってくれただろうに・・・。妹の私は甘えているだけでよかったのに・・・。

何もかも兄嫁の采配で執り行われるようになったから、兄嫁式に従うしかありません。

高知駅までは歩いていくことにしました。足の弱った母は歩くのに時間がかかるのですが、送ってくれました。

↓途中の江の口川です。


↓高知駅が見えてきました。建て替えて大きくなったと思っていたけれど、都会の駅と比べると小さい駅です。


↓駅に近づきました。時間が早いのと急いで帰る必要もないので、また高速バスで帰ることにしました。


↓母にお昼ご飯をご馳走しようとしましたが、食べたくないというので、私はバスの中で食べようと鯖寿司とてんぷらを買いました。

あとで聞いたら、母は脳梗塞の後遺症の嚥下障害があって、食べるのに時間がかかるから外食したくないのだとか。確かに時間はかかりますが・・・。

兄嫁は朝、昼、晩と外食をする人なので、私は母の食事のことが心配なのですが、現在のところは、お掃除にきてくれているおばちゃんが、昼、夜を作ってもってきてくれているようです。

兄嫁には、もう少し母の世話をしてほしいと思うのですが、お店を切り盛りしているから無理な相談かもしれません。でも、いざとなれば、世話してくれるだろうと私は兄嫁を信頼しています。兄嫁も悪い人ではありませんから。

甥達も、母はわがままな人であるし、甥達はお店をしているので、なかなかむずかしいとは思いますが、でも、甥達もいざとなれば、やってくれるでしょう。そう思うようにしています。2人ともいい子ですから。

母は3人いる孫息子達に不動産を残してやりたいそうです。以前は私にも分けてくれるといっていましたが、だんだん内孫達のほうが大事になってきたのでしょうね。なお亡兄の長男は北海道で公務員です。

兄嫁に言わせれば母は耄碌しているとのことですが、まだ認知症にはなっていません。昔の体力、知能でなくなったことは、もう90歳にもなった人ですから、仕方のないことと思います。

母は最近デイサービスに行くようになったとかで、そこでは食事は出るし、お風呂には入れてもらえるしで天国だそうです。義母がデイサービスに行くのを嫌がって、お迎えのくる直前に断りの電話を入れることが多かったこととは雲泥の差です。

実家の隣の本家の義伯母(父の長兄の奥さん)は今年98歳になりましたが、お嫁さんがよくできた人で、朝、昼、晩の食事を作ってもらって、よだれかけをつけて食べさせてもらっています。

母の実家の85歳になった義叔母(母の弟の奥さん)は、同じ敷地の別所帯に住んでいるお嫁さん2人が交互に食事の差し入れをしてくれるそうです。通院のときは、行きは長男の奥さんが送ってくれて、帰りは市会議員をしている従弟が迎えにきてくれるそうです。90歳の母が今でも一人で通院していることを考えると可哀相にも思えます。が、まだ、曲がりなりにも、一人で通院できる力を神様から遺してもらっていることは幸せなのかもしれません。2度も脳梗塞を起こした体であるにも関わらず・・・。

どのような老後になるかは、それまでその人が生きてきたことの集大成のようなものかもしれませんが、恵まれた老後を送っている人がいる一方、そうでもない人もいることは自分の周囲の年寄りを見ていて感じることです。

先月末帰省したばかりなのに、また兄の法事に帰省したのは一見無駄のように見えたかもしれませんが、しかし、母に会えたことだけでもよかったと思います。母にも喜んでもらえたと思います。もういつお迎えがあってもおかしくない年齢の母ですから、できるだけ帰省するようにしないとと思いながら、帰途に就きました。

  年寄りになりたるわれに老い母は大年寄りになりて長らふ  biko

土佐電鉄に乗って後免町からはりまや町まで(2015-09-10 09:06:04頃)

2015年09月11日 06時47分18秒 | 旅行
帰省中でニュースを耳にしなかったので今知ったのですが、鬼怒川が反乱して大変なことになっているんですね。

四国というか、高知県はいいお天気だったので、驚いています。

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ところで、土佐くろしお鉄道後免町駅で下車したことは前の記事で書きました。

後免町駅で土佐電鉄の路面電車に乗り換えて、はりまや橋まで行くことも書きました。

↓土佐電鉄の車内です。2両連結になっていて、ヨーロッパのどこかの国の車両のようです。


↓動いている電車から撮影するので上手く撮れていませんが、



          鹿児
      船戸      田辺島

と書かれてあるのが、かろうじて読み取れます。そう、ここらあたりは昔は海だったのでしょうね。

近くに大津という地名があることから考えても、海だったことがうかがわれます。

↓介良通、高須と書かれてあるここらあたりは現在は市街地になっていますが、私が子供の頃は田んぼでした。


↓知寄町、私達が子供の頃はここらあたりまでが市街地でした。

この停留所を降りて南進した鏡川河口近くには宮尾登美子の小説「陽暉楼」の世界が広がっていました。

↓ここは菜園場というところで下町の台所として賑わっていました。近くに九反田という卸売市場がありましたから、安価な生鮮食品が手ごろな値段で買えた町でした。

九反田の中央卸売市場の広い敷地跡は現在”かるぽーと”と名づけられた文化施設になっています。

↓はりまや橋停留所、電鉄ターミナル前です。


↓ここが名にし負う、はりまや橋交差点です。昔と比べると、人の流れも減ったし、交通量も相対的に減ったと思います。昔は、この道路が唯一のメーン道路でしたから、車が溢れていました。


私の実家は、ここから数分のところにあります。私がこの停留所に降り立った時刻は、午前9時半ごろでした。