神鳴り(アメジストネックレス)

難聴ゆえに家居の好きな主婦です。過去、心臓弁膜症、大腸がんの手術を受けました。趣味は短歌です

きょう鳥居さんという小学校中退歌人をネットで知った

2016年02月29日 17時25分29秒 | 短歌
今日、偶然、鳥居さんという歌人をネットで知った。

何でも、母親の虐待を受けながら育って、その母親が自殺ののちは養護施設で壮絶ないじめにあったと。だから小学校の4年生から学んでいないという。

その母親自体が虐待を受けながら育った人だったという。

虐待が世代間で連鎖しているわけだが、しかし祖父母や一族は、みな国立大学を卒業していて、医師とか学校の先生の家系だという。

鳥居さんは、字は古新聞で独学で学び、短歌も独学で学んだと書かれてあった。

いつもトレードマークとしてセーラー服を着ているらしいが、それは義務教育を受けられずに困っている人たちがいるという問題を社会に知ってもらうためにそうしていると。

その作品を転記させていただく。

履いたきり脱げなくなつたと笑ひけり踊り子たちの冷たい裸

ラベンダー遺品となりし枯野にて病みゆく母の怒鳴る声抱く

待ち受けの(旦那と子ども)を見やる人 緞帳(どんちょう)あがりポールに絡まる

姉さんは煙草を咥へ笑ひたくない時だつて笑へとふかす

ねつとりと膣口色に照らされて練習どほり ゆつくりと脱ぐ

学校で過労と診断されし夕 灯りの点かぬ家で本よむ

母の日の花屋は赤く染まりをりショーウインドウにふれる指先

踊りつつ太宰を浮かべ笑ふとき観客からの手拍子生まる

空しかない校舎の屋上ただよひて私の生きる意味はわからず

慰めに「勉強など」と人は言ふ その勉強がしたかつたのです


私は、一読、その事実と作品に打ちのめされた。

私には、まねしても、こんな歌は詠えない。

こういう境遇におかれたから詠えるというものでもなかろう。

やはり、鳥居さんには才があるのだろう。

私は、もう短歌は止めてしまおうと思いかけている。

頑張って詠っても、ぬるま湯的な歌しかできないから。

遠出しなくても、時空の旅はできるし神様にも会える。しかし足腰が強くないと。

2016年02月28日 15時19分01秒 | 私の意見
昨日、近くの中山寺清荒神清澄寺に詣でて、遠くに行かなくても、時空の旅はできると思った。

が、それには足腰が強くないといけないという条件つきだ。

私は、昨日の記事にも書いたとおり、中山寺の奥の院まで行くのに難儀した。

80歳くらいの女性もすいすい登っていたのに、私は何度も休まなければならなかった。

その方は、毎日登っていると言われていた。継続は力だ。

私は、普通の人の倍以上の時間をかけて、やっと頂上にたどり着けた。

そして、ようやっと一目見たかった聖徳太子の修行の場を見ることができた。

また来たいと思ったが、また来ることができるであろうか。

近くの古寺、古刹を訪ねて、昔の人たちを偲ぶことは楽しい。

わざわざ遠くに行かなくても、ちょっと足を伸ばせば、故人と語り合うことができるのだ。

これは、私の住んでいる北阪神地区に限ったことではないだろう。

日本中、いたるところに史跡はある。

足腰さえ丈夫であれば、遠出しなくても、時空の旅はできるのだ。

神様にもお会いしてくることができる。

実は、昨日は、清荒神清澄寺に行って、瀬織津姫様にお会いしたかった。

瀬織津姫は、向か津姫とも呼ばれ、天照大神の奥様だった神様だ。

瀧とか川の水のあるところに在せられるという。

水で流すように、物事を一新する力を持っていられるらしい。

だから祓えの神様でもあるらしい。

清荒神清澄寺の参道には、たわしとか荒神箒を売っているお店があった。

祓えの神様だから、荒神箒なのだろう。

清後塵清澄寺に瀧があるということは以前本で読んでいたのだが、昨日は、それがどこにあるか分からなかったので、お参りせずに帰ってきた。

あとでパンフレットをみると、右奥に竜王瀧という瀧があって、そばに鉄斎美術館という富岡鉄斎の作品を見せていただける美術館があったことにも気づいた。

これらは、次回の楽しみにとっておくことにしよう。

  宇多天皇、聖徳太子にお会ひして次は瀬織津姫にお会ひしたかり  biko

  鉄斎の美術館(やかた)もあるらしき清荒神この清澄寺  biko

中山観音奥の院~清荒神清澄寺まで2、9キロ

2016年02月28日 01時28分45秒 | お出かけ
                 奥の院の祠の横には水を汲む口があって、
                 みなペットボトルなど持参で水を汲んで
                 いた。が、「生では飲めません」と書か
                 れてあったから、沸かして飲むのだろう。
                 この注ぎ口の後ろにも大きな岩があった。

↓もう一度、中山観音奥の院の拝殿と水汲み場を写す。


帰途は、上ってきた道に戻ると上りと同じ2キロであるが、私は、清荒神というお寺にも行ってみたかったので、そこまで2、9キロもあるらしかったが遠回りして帰ることにした。

が、こちらの道は中山寺からの登り道ほど整備されていず、私の左膝の痛みのために脚に力が入らないのを心配した夫が山の中で写真のような棒を2本拾ってきてくれて、その棒をクロスカントリーよろしく使って歩いた。


が、それでも、途中の急な坂道で私は二度もこけてしまって、足腰の衰えを自覚した。

私は心臓が悪いので若いころから登り道は苦手だったが、昔は下り道はすいすい降りられていた。

が、最近は、左膝が万全でないので、下り坂も決して楽勝ではなくなってきている。

これも加齢ということだろうか?しかし、明らかに私より年配と思しき女性が軽々と上り下りしているから、私の日ごろの怠けのせいかもしれない。

↓山道のそばを、こういうせせらぎが流れていた。


しばらく行くと、清荒神清澄寺よりずっと上ににこういう住宅地が広がっていたのに驚いた。

バブルのころに開発されたものだろう。駅からはかなり遠いと思うが、あのころは一応阪急の幹線から徒歩圏内ということで、高い値段の住宅だったろうと思う。

この住宅地を見て、しばらく行くとやっと清荒神清澄寺の山門が。

こちらは、弘法大師の本堂。



こちらは、蓬莱山を模した池。


こちらは最初に参拝した清荒神拝殿。


清荒神を参拝して、その後、清荒神の参道のお好み焼き店でお好み焼きを食べてから駅に向かった。

午後4時過ぎ、やっと清荒神駅に。


帰宅したのは、午後5時近く。まる一日を使ったハイキングだった。(苦笑)

  脚腰の衰へ自覚して歩く奥の院から清荒神  biko

書いている途中に居眠りしてしまったから、アップする日付が変わってしまった。

中山観音梅林~中山観音奥の院へ

2016年02月27日 19時31分52秒 | お出かけ
             中山観音梅林の横道から奥の院に行こうと
             すると、まず「壱丁」と書かれた道標が。
             夫によれば、これは「十八丁」まである
             のだそう。

頂上まで約2キロということだが、山道の2キロだから、私に上れるかどうか。

私より年配の人たちにも、どんどん追い越される。のぼりは呼吸が苦しい。

やっと「九丁」を過ぎたところにあった展望台で一休み。ここで上ってきた町を撮影。

今日は曇っているから鮮明ではない。

地図があったから撮影。


少し行くと「夫婦岩」という大きな岩があった。


「十七丁」と書かれた標識のそばに「聖徳太子修行の場」というような立て札があった。

これが私が見たかった聖徳太子の修行の場かと、しばらく拝見。

近づいて撮影。


この立て札の奥のほうに石でできた道標のようなものが見えるが、私の肉眼では何と書かれてあるか読めない。


また大きな岩があって、注連縄が張り巡らされてあった。


横に「宇多天皇御自彫天神」と書かれてあったが、上の石に彫られた文様のことか。


やっと奥の院に到着。山奥にしては立派な建物が。


夫は普段、下の中山寺からここまで1時間で上ってくるらしいけれども、私と一緒だったから、2時間以上かかってしまって、到着したのは、午後1時過ぎだった。

  もう一度この奥の院拝むこと叶わぬわれかとしつかり拝む  biko

兵庫県宝塚市にある中山観音の梅の花見に

2016年02月27日 18時46分04秒 | お出かけ
                ↑これが中山観音の山門

我が家は、この中山観音に、義父母も、夫の亡くなったお兄さんも弟さんも分骨納骨をしてもらっています。


電車に乗れば、たった4つ目の駅なのですが、普段はなかなかお参りにくることもありません。

が、せめて梅の季節には梅見にこようと心がけてはいます。

梅園の開園は午前10時とのことで、少し時間があったので、六甲山、甲山、宝塚市内を写しました。↓

が、今日はあいにくのうす曇で甲山の三角形もぼーっと写っています。

↓梅園が開く前にお堂の前の白梅をパチリ。


↓10時になって梅林の門が開いたようです。


まず、紅梅。↓


まだ満開には少し早いような感じもしましたが、暖かくなるとすぐに咲き終わってしまうから、今日来たのは正解だったと思います。

奥にも、いっぱい咲いているのがお分かりいただけるでしょうか?

こんなにたくさん梅の木があります。

今日は寒さが和らいだせいか、観梅者もけっこういました。

↓少し山手に上がって。



  咲くころはまだ寒ければ中山の寺の梅花は見逃す歳も  biko

この梅林を見た後、梅林の横の道から中山観音の奥の院に行くことに。

私には、今日、この初めての奥の院行きのほうが、楽しみなくらいでした。

寒いですね。今夜も鍋にします。男の人って鍋が好きですね。&シャープが外資系の傘下に?

2016年02月26日 16時14分01秒 | 料理
一昨日もお鍋にしたのですが、今日も寒いので、「お鍋にしていい?」と、夫に聞くとOKだそう。

実は、私は、続けるのはいやなのですが、寒いのと、ほかのおかずを考えるのが面倒だから、お鍋にします。

一昨日はゴマだれ鍋というのにしたのですが、今日はキムチ鍋です。

白菜も安かったからたくさん買ってあるし、豚ロース肉も残っているし・・・。

ツアーで楽してしまうと、ご飯作りが面倒に感じられますが、冬はお鍋というメニューがあるから助かります。

男の人って、お鍋が好きですね。

うちだけかな?(笑)

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ところで、梅田で大変な事故が起こりましたね。

私は阪急沿線に住んでいるので、この事故のあった阪急梅田駅の近くは歩く可能性も高いところなので、びっくり仰天でした。

びっくりぽんと書こうかと思いましたが、それでは軽すぎるので、びっくり仰天(笑)。

昔、杞の国の人が空が落ちてこないかと心配して、それを杞憂といって笑ったらしいのですが、車が歩道に乗り上げてくることを杞憂といって笑ったりできないですね。

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シャープが台湾の会社の傘下に入ったこと、何か日本のこれからを暗示しているように思えるのは、考えすぎでしょうか?

だけど、ペルーのマチュピチュには行きたい

2016年02月25日 21時17分59秒 | 旅行
さきほどハイジさんというハンドルネームの方にいただいたコメントに「もう、今回の台湾ツアーで海外旅行は終わりにするかも」とコメント返ししましたが、本当はまだペルーのマチュピチュ遺跡に行きたいと思っています。

どうして、こんなことを記事にしているかというと、その後開いたメールボックスに、さる旅行会社のマチュピチュツアーの広告が出ていたからです。

マチュピチュは、シャーリー・マクレーンの『アウト・オン・ア・リム』を読んで以来の憧れの地です。

が、他の海外旅行の倍近い費用がかかる上、聴覚に障害のある私は単独で参加することができませんから、どうしてもダブルの費用が必要です。

が、さきほど見た広告は、比較的手ごろな値段でした。といっても、かなりのお値段ですが。

今後老化に伴って医療費も嵩むことを考えれば、こんな高額なツアーには参加は無理なんですが、行きたい気持ちは強いです。

でも、やっぱり体力的にも無理だと思います。

こうなれば、死後、魂をペルーに飛ばして、空からマチュピチュ遺跡を見るようにしようと思います。

それだったら、ナスカの地上絵も見られるだろうし・・・。

だんだん自分の足腰に自信がなくなってくるから、今後は、実際行くのは国内に限られそうです。

寂しい?

そんなこともないです。

今の時代、インターネットに繋がっていれば、世界中どこへでも行けますしね。

聴覚に障害のある私にとって、パソコンは夢の、夢以上の乗り物です。、

  異星より来たりし人らに造られしマチュピチュ遺跡に一度行きたし  biko

その本に書かれてあったのかどうかは忘れましたが、、マチュピチュ遺跡は、宇宙人に作られたとか?

だから、あんな高い山の上にできたんだそうです。

旅行中に迎えた誕生日~義祖母の思い出~実家の母のこと

2016年02月25日 10時48分43秒 | わたしのこと
台湾旅行中に68歳の誕生日を迎えた。

昔なら、68歳というと老婆も老婆、むかし女であったこともいぶかられるほどの老婆であったと思う。

私の父方の祖母は48歳で亡くなったので、その後、父の三人兄弟全てが結婚した後、祖父はその後妻さんを迎えた。

そのときの義祖母の年齢は40歳だったという。

だから、私が幼いころの義祖母は、まだ40代だったのだ。

が、髪はひっつめ髪にしていたし、化粧っけもない人だったから、「おばあちゃん」と呼ぶことに何の違和感も覚えなかった。

この祖母には、義理の間ながら、お世話になったし、可愛がってもらった。

お坊ちゃん育ちで給料の大半を自分の小遣いにしてしまう浪費癖の父のせいで内職をし続けだった母に代わって幼稚園の送り迎えとかしてくれたのは、この義祖母であった。その帰途には、こっそりお菓子を買ってくれたりもした。

子供を産んだこともなかった義祖母だったのに、幼い私を抱いて寝てくれただけでなく、まだ母親の乳房の恋しかった私にその乳房を提供してくれたりまでした。

祖父が62歳で亡くなった後、まだ若かった義祖母は、また別の老人の後妻になって、私の実家を出ていった。

私は、義祖母が恋しくて、その嫁ぎ先まで押しかけ訪問したこともあった。

そのころでも、義祖母は、まだ50歳くらいだったのではなかったか。

しかし、私には十分なおばあさんであった。

そんな過去のことをことを思い出してみると、68歳なんて年齢は信じられない。

が、先週の台湾ツアーでは、大半が私と同年輩か年上だった。

皆さん、まだまだお元気で、山にもすいすい登られるし、その日の行程を終えてホテルで夕食が終わると、また街に出るような元気を残していられた。

私自身、今回は歯痛があって、ご一緒はできなかったが、しかし、素敵な添乗員さんに少しときめいたし(笑)、景色、史跡を観光しても若い人たちに負けない感動を覚えた。

まだまだ精神的には老いぼれていないと感じた。

こういう若さは、いったいいつまで続くのだろうか?

一生?

そう、一生かもしれない。

90歳の母が、未だに新しい仕事場を開拓しようとする意欲は年寄りのものではない。

それを、母より少し若い私が「やめなさい」と止めることは、生きることをやめよというに等しいかもしれない。

68歳になっても、こんなに精神的には若い(?)自分のことから推測してみて・・・。

  誕生日今年もきたりもう六十八まだ六十八  biko

  まず母にお礼言ふべき誕生日六十八年前の二月の  biko

台湾のテレビで見た日本

2016年02月24日 14時21分36秒 | 旅行
たった4日間の滞在で見た台湾のテレビの内容を書くのはおこがましいが、しかし長く滞在したとしても傾向としては同じようなものだろうと思うので、書いてみる。

まず、日本のテレビで台湾のことが放映されるのは、まれだが、台湾では日本のことが日常的に出てくると感じた。

ある日かけたテレビ画面には東京に津波が押し寄せるシミュレーションのようなものが映しだされていた。

また夜ふけて観ていた歌番組には、「鹿児島、鹿児島」という文字が何度もでたから、鹿児島を歌った歌だったようだった。

もちろん、ニュースにも日本は普通に出てくる。

アニメ番組も、これは日本のアニメではないかと思われるものを散見した。

総じて、よくいわれるように、台湾の人の日本に対する関心の高さを感じた。

しかし、現在の日本は、日本人は、それに応えられる国だろうか?

私は、今回の旅行で、台湾の人たちの信仰心の篤さのようなものを感じたし、戦死者を悼む気持ちの強さも感じた。

現在の日本人のどれほどの人たちが、自国のために戦ってくれた英霊達を悼んでいるだろう。

「旧きをたずねて新しきを知る」ことは、昔も今も国力の源になると思う。

「自分さえよければ」という考えの蔓延っている国の国力は、やがて衰えてくる。

それは歴史が証明している。

日本人も、かつて台湾や東南アジアの人たちに尊敬されていた時期の品性を取り戻すときではないかと思った。

  楽しみは母国日本が他の国に尊敬されてゐるを見るとき  biko

台湾の現地の添乗員さんにうるうる?

2016年02月23日 22時06分22秒 | 旅行
台湾の現地の添乗員さんは男性だった。

最初、若い男性と思ったが、案外50歳を超えていたかもしれない。

というのが、髪の毛も黒くてふさふさしていたし、顔もハンサムというほどではないが、整っていたから、若く見えたのだ。

が、しぐさやその他から、実際は50歳を超えていたと思う。

わりにぶっきらぼうで、最初の印象は決していいものではなかった。

が、俄然いい印象をもつことになったのは、ツアーの2日目の昼食時に、私が急な歯痛に見舞われた際、すぐにお水を手配してくれて、私が食事がとれなかったことを察して、お店の人にそのときのメニューの一つだった中華おこわをおにぎりにしてもらって私のところまで持ってきてくれるという親切があったためだ。

仕事とはいえ、こんなに心配りしてくれる添乗員さんは珍しいかもしれない。しかも男性なのに・・・。

もちろん、そのときもお礼を言ったのだが、あとでバスを乗るときにもう一度お礼を言うと、それまでのぶっきらぼうだった顔を破顔させて、笑顔で対応してくれたから、一気に好印象をもった。これが、最初から愛想がよければ、さほどには思わなかったかもしれないが、その意外さがよかったのだろう。

だから、最後のお別れのときに、もう一度お礼を言いたかったのだが、あっけなく別れてしまったのが、心残りであった。

台湾の人たちは親日家だと聞く。

だから行く前は親日的な添乗員さんを予想していたが、そうではなかったので、少し意外だった。

20年近く前、中国に行ったときは、愛想のいい現地の添乗員さんであったし、3年前にタイに行ったときは、年配の添乗員さんだったが、とても親日的な方だったので、今回もそれを期待していたのだったが、案に相違して、そうではなかったので、最初は好印象ではなかったのだ。

しかし、人は見かけによらずということは、日本に限らず、よその国にもあるということを今回のツアーで学んだ。

  愛想なき添乗員と思ひしが愛を秘めたる人でありにき  biko

食べると化膿した歯茎を刺激する&化膿した部分に栄養供給もする?

2016年02月23日 16時40分08秒 | わたしのこと
日曜日の夜、帰国してから、小食も小食、食事らしい食事をとっていなかった。

結果、体に力がはいらなくて、ほとんど寝たきりである。

幸い、夫の仕事は現在暇なので、私は食事の支度もサボタージュさせてもらっている。

夫は、駅前の商業ビルのレストランに行ったり、お弁当を買ってきて食べてくれたりしている。

申し訳ないけれども、仕方ない。

私は、そのくらい弱っているというのに、一昨日は一日で18記事を書いてブログアップした。

そのくらい、私は書くことが好きなのだ。

で、昨日は近所の歯科医院で、歯痛の原因になっている歯茎の化膿部分の膿を出していただいた。

今日は、朝一で、その部分の消毒をしていただいてきた。

少し気分的に落ち着いたので、歯科医院からの帰途、スーパーに回ってパック入り握りずしを買って帰っていただいた。

3日ぶりの食事だったので、食べたあと、ソファでぐっすり眠ってしまった。

さっき目覚めたが、また少し歯痛が起こっている。

握りずしなので、柔らかいし、歯に沁みるものもなかったはずだが、食べたことによる物理的刺激と、食べた栄養が化膿菌に栄養供給でもしたのだろうか。

3月7日に口腔歯科のある病院で抜歯をしていただくことになっているが、それまでは、この状態を維持していくしかない。

だから、この歯痛とも闘わず、仲良く過ごしていこうと思う。

  歯の痛むことも私の生きてゐる証しと思へば愛しき痛み  biko

ブログ記事のアップの仕方~やはり最新の日付にするべきか

2016年02月23日 04時56分03秒 | ブログについて
17日から20日まで台湾を旅行してきた。

私はブログ記事の写真はケイタイで写して「ブログ草稿」としてパソコンに送る。

それで、帰宅してから文章を添えてアップするのだが、そのとき日付をどうするか悩む。

以前は、文章を添えてアップするときの日付にしたりしていた。

が、それでは後で自分が読み直したときタイムラグが生じてしまう。

で、最近は写真を送信したときの日付、時間のままで記事をアップする。

わたくし的には、それが自然なのだが、読みにきてくださった方々にはアップした記事に気づいていただけない。なぜなら、未読ではあっても過去の記事になってしまっているから。

ま、ごく個人的なツアーで、個人的な体験を書いているから、読んでいただくのも申し訳ないような内容なので、これはこれでいいのかもしれないが。

だいたい旅行記というのは自慢話のように思われることも多いから、私のように詳しく書いたものは読みたくないという人も出てくると思うし・・・。

とは言いながら、せっかく書いたのだから、読んでほしいという矛盾した気持ちもある。

今後は、また以前していたように、文章を添えてアップする日付にしようか。

つたない旅行記でも、これから行こうとしている人には参考になるかもしれないし・・・。

日本は寒い!

2016年02月22日 18時34分55秒 | 日記
たった4日間だったけれども、台湾から日本に帰国すると寒さがこたえる。

逆に、台湾の人たちは、日本に来たら、この寒さの洗礼を受けるのだろうな。

台湾でも南方の高雄、台南の人達には、どんな寒さか想像すらできないかもしれない。

私は、4日前までいた母国なので、ああ、やっぱりまだ2月だから、仕方ないかと思えるが、2月でも初夏のような陽気の地域から來国されたら、ちょっとしたカルチャーショックかもしれない。

第2次世界大戦中は大勢の日本人が台湾に移住していた。

父の母方の叔父さん一人も台湾で家族と暮らしていた。

終戦後引き上げてきて、細々と暮らしていられたが、台湾では裕福な暮らしぶりだったことを聞いたことがあった。

しかし、夏は暑かっただろうな。2月でも、あれだけの気温だから。

暑がりの私には、夏の台湾には到底住めないと思う。

とは言いながらも、昨日、今日の、この日本の寒さよ!

  帰国して日本の寒さの身にしみる如月ダウンを羽織る  biko

食べなければ歯痛は起こらない

2016年02月22日 11時45分16秒 | わたしのこと
一昨日遅く帰国して、昨日は一日、食べることも忘れてブログを書き続けた。

というと、いかにも書くのが好きみたいだが、いえ、好きなのだが、食べなかったのは、書きたいより、歯痛を恐れて食べなかったというのが正しい。

朝は牛乳のみ、夕方は、いただいた「ふかひれスープ」というのがあったから、それを鍋で温めていただいただいて、寝る前に食パンをトーストしたものにバターをたっぷりつけていただいた。

この調子で暮らせば、ダイエットできると思うが、そうは問屋が卸さないだろう。

今朝は、少し空腹を覚えて冷凍のたこ焼きを電子レンジで温めていただいた。

いずれも、歯痛を刺激する食べ物ではなかったので、歯痛も起こらないし、痛み止めの薬も帰国後一度も飲んでいない。

今日タイトルにしたように、「食べなければ歯痛は起こらない」のだが、大きな病院で診ていただく予約日の3月7日まで、こんな食生活で体が持つはずがない。

今日は、今から近くの歯医者さんで診ていただいてきます。

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台湾旅行のレポは、昨日一気に18記事アップしました。

関心ある方は、遡ってお読みください。

記事の日付は、旅行中の写真撮影した日にあわせてあります。、

昨夜遅く帰ってまいりました

2016年02月21日 07時12分29秒 | 旅行
帰宅したのが、夜11時過ぎでしたので、昨夜は何も書けませんでした。

旅行は、とても楽しいものでした。

現地の添乗員さんも素敵な方でしたし、参加された方々も、いい人ばかりでした。

ただ、食事のたびに歯痛が起こり、皆さんにご心配させてしまったことは申し訳ないことでした。

でも、たまに海外に出るということは、日本を客観的に捉え直すきっかけになり、有意義なものだと、今回も思いました。

追々、自分の備忘のために旅行記も書いていきますが、遡って書きますので、どれだけ書けるかは分かりません。

ということで、今朝は、簡単に帰国のご挨拶まで。、