おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「天平の丘公園」。その7。歌碑、琵琶塚古墳・・・(「日光例幣使街道」番外編。)

2018-10-17 18:33:11 | 日光例幣使街道
                      山の神塚「額田王歌碑」。

あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る            


 「レストハウスしもつけ」で昼食休憩後(「手打ちそば」が美味です)、少し東に向かい、歌碑を見つけにいきます。 
       
 
 紫草塚「柿本人麿歌碑」。
         東の 野に炎の 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ

大海人皇子歌碑」。
                  紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 我れ恋ひめやも

 この他にも、「桜広場(桜樹)」には額田王の「熟田津に 舟乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」があるようです。

 熟田津で船に乗ろうと月の出を待っていると、潮の流れも船出にふさわしくなった、さあ、今こそ漕ぎ出そう。

この歌は少し解説を。
 左注には憶良の『類聚歌林』からの引用があり、斉明天皇七年(661)正月、伊予国熟田津の石湯行宮(いはゆのかりみや)に泊った時の斉明天皇御製としています。
 この歌が詠まれたのは、白村江の戦いと呼ばれる戦いの時期。朝鮮半島へ出兵する途次、四国から九州へ向かって船出する際の作。

白村江の戦(はくすきのえのたたかい)→白村江(はくそんこう)の戦

《百科事典マイペディアの解説》
 663年,日本が唐に敗れた海戦。白村江(〈はくすきのえ〉とも)は朝鮮南西部の錦江(きんこう)河口付近の古名。かねてから百済(くだら)と争っていた新羅(しらぎ)は,高句麗(こうくり)と戦っていた唐と結び660年,ついに百済の都を占領,王らを捕虜としたので,百済の遺臣は日本に救援を求めた。大和朝廷は朝鮮南部の日本の権益を守るため,これに応じて大軍を派遣,斉明天皇・中大兄皇子らも北九州に本営を置いて指揮したが,天皇は病死。水軍は663年8月27・28両日の海戦で唐の水軍に挟撃されて大打撃を受けたので,朝鮮からすべての兵を引き揚げ,内政に専心することになった。
(出典 株式会社平凡社百科事典)

 朝鮮南西部の錦江河口付近で663年,日本軍と百済復興軍とが唐・新羅の連合軍と交じえた戦い。白村江(〈はくすきのえ〉ともよむ)は錦江の古名。戦争は2日にわたって行われたが,河口の岸上に陣を張った百済軍は文武王のひきいる新羅軍に打ち破られ,日本軍は海上で蘇定方のひきいる唐軍に敗北した。このため,周留城にたてこもっていた豊璋のひきいる百済復興軍も崩壊した。・・・
(出典 世界大百科事典)

 再び公園に戻ってきます。途中には、
「加良久利(カラクリ)水車小屋」。中は見られません。

「防人街道」を南に向かいます。

防人街道について
 防人とは、古代、唐・新羅などの備えとして、九州北辺に配備された兵士のことで、下野国など東国から多くの兵士が、その任についていました。防人街道は「下野国分尼寺跡」から「紫式部の墓」までの細道で、万葉集の中に下野の防人が詠んだ「松の木の並みたるを見れば家人のわれを見送ると立たりしもころ」の情景にところから、名付けられました。

 但し、この道の両側は杉林になっています。もともと、派遣地の九州での松並木を見ての望郷の歌です。
 

 「防人桜」との命名板。

 「周辺散策マップ」を見ると、南に「琵琶塚古墳」とあります。前回の街道歩きで西側から遠目で眺めただけ。そこで、間近に見ようと、向かいます。これも、レンタサイクルならではのこと。
東側から見た「琵琶塚古墳」。

塚上に上がれそうなので上ってみます。


コメント
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