おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

旧東海道らしい道。そして、地名「ホト」「ホド」・・・。(保土ケ谷宿。その4。)

2014-08-31 22:49:07 | 旧東海道
 ここに来るまで見てきた旧東海道沿いの「松原商店街」や「相鉄天王町」駅の人通りもあって賑やかな雰囲気と違って、かつての宿場らしい街並みを期待すると少しがっかり。商店も少なく、道路沿いは、マンションなどが建ち並んでいます。

振り返って「環状1号」を望む。

「宿場まつり」出店募集のポスターがあちこちに貼られ、町おこしの計画が。

宿場らしく当時あったところに記念碑がたてられています。ここは、「助郷会所」跡。
自販機の壁面。なかなか親切な解説。


歴史の旅【助郷会所跡】
 助郷村々の人馬を手配するため設けられたのが助郷会所です。

自販機の解説文

 各助郷村の代表はここに出勤して問屋場の指示に対応するとともに、村が手配した人馬が不公平な割り当てを受けたり、不当に使用されないよう監視する場所でもありました。

「問屋場跡」。

歴史の道【問屋場跡】

問屋場

 宿場の公的な業務のうち、幕府の公用旅行者や大名などの荷物運搬(人馬継立)、幕府公用の書状等の通信(継飛脚)、大名行列の宿泊の手配などを担っていたのが問屋場で、宿場の中でも最も重要な施設のひとつです。宿場ではこの業務をつとめるのに十分な数の人足と馬を用意するよう定められていました。問屋場には問屋を筆頭に、年寄、帳付、馬指などの宿役人が詰めていました。

助郷

 宿場で賄いきれない人馬を、指定された周辺の村々から動員することを助郷、指定された村を助郷村といいます。助郷は東海道が整備されてから交通量が増加してきた17世紀後半頃に次第に制度化されていきました。享保10年(1725)に定められた保土ヶ谷宿の助郷村は全部でおよそ40か村、現在の保土ヶ谷区のみならず、旭・西・中・南・港南・磯子・戸塚等の各区域に及びました。こうした助郷村々は助郷動員の指示に対応するため、問屋場の近くに助郷会所という事務所を設けていました。

高札場

 高札場は、幕府や領主の最も基本的な法令を書き記した木の札=「高札」を掲示した施設です。通常、土台部分を石垣で固め、その上を柵で囲んだ内部に高札が掲示され、屋根がかけられています。宿場の高札場には人馬の駄賃や宿代などを記した高札が掲示されており、宿内の中心地に設置されました。
     平成16年3月 保土ヶ谷区役所

「高札場跡」。

歴史の道【高札場跡】
 宝暦十三年(1763)に普請された保土ヶ谷宿の高札場は幅二間半(約四.五メートル)高さ一丈(約三メートル)の規模でした。
 宿場の高札場には一般の法令等に関するものだけでなく、隣の宿場までの荷物の運搬料金や旅籠屋の木賃(宿泊料)等を細かく記載した高札も掲出されました。

 「保土ケ谷税務署」の案内用の大きな看板の脇に立っています。

「金沢横丁道標4基」。
解説板。

「金沢横町道標四基」 横浜市地域有形民俗文化財(平成元年12月25日登録)

 この地は、旧東海道の東側で、金沢・浦賀往還への出入口にあたり、通称「金沢横町」と呼ばれました。金沢・浦賀往還には、円海山、杉田、富岡などの信仰や観光の地が枝道にあるため、道標として四基が建立され、現在残っています。
 四基の道標は、それぞれ次のとおりです(右側から番号を付す)。

①円海山之道[天明三年(1783)建立]
 左面に「かなさわかまくらへ通りぬけ」と刻されています。
 建立者は保土ヶ谷宿大須賀吉左衛門です。円海山は「峯のお灸」で有名でした。
②かなさわ、かまくら道[天和二年(1682)建立]
 左面に「ぐめうし道」と刻されています。
③杉田道[文化十一年(1814)建立]
 正面に「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花 其爪」と刻されています。
 句碑を兼ねた道標は珍しく、また作者の其爪は江戸の人で河東節の家元です。
④富岡山芋大明神社の道[弘化二年(1845)建立]
 建立者は柳島村(現茅ヶ崎市)の藤間氏。
 芋明神は、富岡の長昌寺で、ほうそうの守り神として信仰を集めていました。
     平成五年三月 横浜市教育委員会



1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。→のところ。
 この道を東南にたどると、金沢、横浜へ通じる道となっている。

2010年代のようす。○がほぼ直角に曲がる地点。



 山越えをして「金沢道」となり、南西に向かうと「弘明寺」(ぐめうし)を過ぎ、現「上大岡駅」方面になる。

横丁を入ったところにある「保土ケ谷宿番所」○に「程」の字が。「保土」が「程」に。「程が谷」がかつての表記。

 程が谷」のいわれ
 地域に神社の所領として置かれた荘園の一種である「榛谷御厨(はんがやのみくりや)」から転訛したという説。

 鎌倉時代、当地を支配していた畠山重忠一族の榛谷重朝(はんがやしげとも)が、所領を伊勢神宮に寄進して土地管理を委ねられていた。
 この伊勢神宮の荘園は榛谷御厨(はんがやみくりや)と呼ばれ、「はんがや」が「ほどがや」へ転訛したという説がある。かつては程ヶ谷のほか、程谷、ほどが谷、などとも書いた。
 1601年(慶長6年)徳川家康が定めた東海道の駅制により東海道五十三次程ヶ谷宿が成立し、江戸時代は宿場町として発展した。

 一方で、凹地などの窪んだ所という意味の古語である「ホト」のような谷という説。

 日本各地に「ホト」「ホド」の音を持つ様々な表記の地名が残っているが、民俗学者の柳田國男の主張する説によれば、これらは女性器に似た形の地形だったり、女性器に似た特質(湿地帯)を持っていたり、陰ができる土地(「陰」部から)などの特徴から名付けられたとされる。アイヌ語で川や河口を生殖器になぞらえるのと類似している。
 「ホト」「ホド」の音を持つ地名は、安寧天皇陵の名前の由来となった地名「美保登」(みほと:奈良県)などがあったが、更に和銅6年(西暦713年)に発令された諸国郡郷名著好字令(全国の地名を好ましい意味の漢字で書きなさいという命令)などを経ることで表記が変わっていき、一例を示すと
 保戸 保戸沢(ほどさわ:青森県)、保戸野(ほどの:秋田県)、保戸島(ほとじま:岐阜県、大分県)保土 保土塚(ほどづか:宮城県)、保土沢(ほどさわ:岩手県、静岡県)、保土原(ほどはら:福島県)、保土ヶ谷(ほどがや:神奈川県、程ヶ谷駅として開業した駅がこの名に変更されたため区名などがこちらで定着)程 程森(ほどもり:青森県)、程田(ほどた:福島県)、程島(ほどじま:新潟県、栃木県)、程原(ほどわら:島根県、山口県)、程ヶ谷(ほどがや:神奈川県(≒保土ヶ谷))
のような形で全国に散見される。
 特に、ここ「程(保土)ヶ谷」は、柳田國男が「ほどがや」の「ほど」は「ホト」に由来するいう説をとった際の有名な例。(以上、「Wikipedia」より)

 ※JR「保土ケ谷」駅は、1931年(昭和6年)10月1日に「程が谷」から、保土ヶ谷駅に改称された。

 実際に歩いてみると特に西に急角度で折れた辺りの街道の両側には山が迫って狭間のようになっている。もともとはこの辺りの地名ではなかったか。実は、「ホト」が女性器を意味することは周知のことなので、多分「保土ケ谷」の由来はかくありなん、と思った次第。ただ、「ホド」にわざわざ「谷」を付する必然性があったのか、多少気になるところではある。
 一方の「榛谷御厨(はんがやのみくりや)」から転じたというのは、かなり無理筋の印象。地形から来ているとみた方が正しいと思う。
コメント
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