おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

追分地蔵尊。例幣使街道。今市宿。「いまいちの水」。杉並木公園。・・・(「日光道中」をゆく。その48。)

2016-07-22 18:55:29 | 日光道中

今市の町へ入ります。杉並木を振り返って望む。 

今市宿
 日光街道の20番目の宿場。現在の栃木県日光市今市。
 もと今村と呼ばれていたが宿駅となって住民が宿に集まって活況を呈し、定市が開かれるようになったことから今市宿となったと云われている。この宿は一街道の単なる一地方宿ではなく、日光街道のほか、壬生道、会津西街道、日光北街道などが集まる交通の要衝に立地する宿駅であった。
 日光例幣使街道と日光街道の追分には地蔵堂がある。ここに安置されているのは像高2メートルの石造地蔵菩薩坐像である。もと空海(弘法大師)が大谷川含満ヶ淵の岸辺に建てた石仏と云われ、大水で流されて今市の河原に埋もれていたのをここに堂を建て安置したものと云われている。徳川吉宗が日光参詣した折、この地蔵が白幕で覆われているのを見て、後は白幕で覆わないよう命じ、この地蔵堂の後ろで朝鮮人参を育てさせたという。正確な造像時期は不明だが、室町時代頃の作と推定されている。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、今市宿の本陣は1軒、脇本陣1軒が設けられ、旅籠が21軒あり、宿内の家数は236軒、人口は1,122人であった。

 (12:23)「国道119号線」と「国道212号線」(例幣使街道)との合流地点(追分)にあるのが「追分不動尊」。
        

今市追分不動尊
 ・・・つぎのような「伝説」が人びとに知られるようになりました。
―むかし大谷川の川原で石切職人が仕事をしていると、ふとふれた石の肌から血が流れ出した。不思議に思って何度かたたいてみると、どんどん紅の血潮がほとばしるので、驚いた石切職人は人々をよんで懸命に掘り出してみた。それは座像の地蔵尊であった。評判は近郷までひろがった。
一先ず地蔵尊を小倉町の追分に安置したが、野天にさらしておくのは恐れ多いという話になって如来寺に運ぶこととなった。思い石像なので、各戸から一人ずつ人を出して仕事に当たったが、非常な重さで、門前の桜の木の下まで移すのに2日(一説には8日)もかかった。
 町の人たちの参詣は昼も夜も絶えなかったが、そのうち妙な噂が立った。夜遅く地蔵尊の前を通るとすすり泣きの声がきこえる。また、真夜中になると町の中に火柱が立つ。昨夜は小倉町にその前の夜は春日町に、また如来寺に。確かにそれを見た者が大勢あった。
 さあ町中が騒々しくなり、地蔵尊の怪として参詣するどころか近づくものさえなくなった。町の長老たちは協議した結果、「あの地蔵尊はにっこう憾満ヶ淵の親地蔵様が大水で流されて来たのだ。それで日光が恋しくてきっといろいろの不思議を起こすに違いない。元のように、小倉町の日光が見える所に安置したらよかろう」ということに決定し、さっそく地蔵尊は小倉町の追分に移されることになった。―
 このような「伝説」が、昭和時代の初頭から幾度も出版された『下野伝説集』に取り上げられて紹介され、今市を代表する伝説として有名になってゆきました。そして、伝説の地となった追分地蔵堂にはますます訪れる人も増えてゆきました。
 時移り、平成時代となった今日も、毎月の地蔵尊の縁日の日には変わることなく人びとが集い、地蔵菩薩のお経と御真言を唱え誓願をする、民間信仰の場として親しまれています。・・・
                                                日光市

例幣使街道。

 元和3年(1617)、徳川家康の霊柩が日光山に改葬されましたが、その後、正保3年(1646)から、毎年、京都の朝廷から日光東照宮への幣帛(へいはく)を奉納する勅使(例幣使という)がつかわされました。
 例幣使は京都から中山道を下り、倉賀野宿(現高崎市)からは太田、佐野、富田、栃木、合戦場(かっせんば)、金崎を通り日光西街道と合わさる楡木(にれぎ)を経て、日光に至りました。その道筋が「例幣使街道」と呼ばれました。日光付近では杉並木が続きます。

 この解説板のあるところが小広場になっていたので、そのベンチに座って昼の休憩。そして、再開です。

(12:40)

右手には「ニコニコ本陣」。「道の駅」風。

手前には「造り酒屋」。    

 今市の町の中には伏流水をくみ上げた自然水の水飲み場が設置されています。「いまいちの水」。つい「いまいち」なのかと思ってしまいますが、飲んでみると、おいしい!
    

 日光名物・特産の「たまり漬」等のお店。
    

「二宮尊徳終焉の地 今市宿」碑。

二宮 尊徳
 江戸時代後期の経世家、農政家、思想家。通称は金治郎(きんじろう)であるが、一般には「金次郎」と表記されてしまうことが多い。
 また、諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と訓むが、有職読みで「そんとく」と訓まれることが多い。
 経世済民を目指して報徳思想を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導した。
 安政3年(1856年)下野国今市村(現在の栃木県日光市)の報徳役所にて没した。

「明治天皇御小休・・」碑。

古いおうち。家の前には梟? の像が二体。

 (12:53)しばらく行くと、左手にある「瀧尾神社」のところから右に杉並木が始まります。公園となっています。杉並木も「特別保護地域」。
    

                

杉並木街道と参詣(瀬川地区)
 案内板が位置する今市市(現日光市)瀬川地区は、日光街道の今市宿(第1番目宿の千住から数えて20番目)と鉢石宿(現在の日光市で日光街道の最後の宿)の間にあり、江戸(現在の東京都。起点は日本橋)からの距離は約34里(約136㎞)です。
 日光街道というと江戸時代は五街道(東海道・中山道・日光街道・甲州街道・奥州街道)の1つとして、人や物や情報が行き交う重要な交通路でありました。
 日光東照宮への参詣のために、公家・大名・文人や数多くの庶民がこの並木を行き交い、徳川将軍家みずから日光東照宮に参詣することを日光社参といわれ、その多くは東照宮例大祭(4月17日)に参拝したそうで、このときもこの並木の中を通行しました。
 最後の日光社参となった天保14年(1843年)に第12代将軍家慶社参の時には、時の老中水野忠邦が幕府の権威回復のために実施したといわれ、この時の供奉した人数は約14万人およぶ大行列であり、この事業のために幕府が要した費用は莫大なもので、人馬調達や助郷役が命じられた村々は関東一円におよんだといわれる。
 右の図は江戸中期の日光街道の様子であり、杉並木とともに人や馬や家が描かれております。
 このような往時の街道風景を偲びまた徳川家康公の御遺訓「人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくが如し、いそぐべからず」の言葉をかみしめながら、杉並木道を歩いてみて下さい。

 平成5年3月       栃木県

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