おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

新宿~高井戸~布田五ヶ宿~府中。その5。(「甲州街道」をゆく。第1日目)

2017-03-16 19:57:35 | 甲州街道

 再び「国道20号線」へ。

「日本橋から21㎞」ポスト。

右手には「金子のイチョウ」(奥に顔をのぞかせている) 。推定樹齢:約250年。  

沿道には広い敷地の家が残っています。

 「柴崎駅」を過ぎて、「野川」に架かる「馬橋」を渡ります。
    

野川(のがわ)
 国分寺市東恋ヶ窪一丁目の日立製作所中央研究所内に源を発し、南へ流れる。西武国分寺線・JR中央本線と交差し、真姿の池湧水群からの湧き水を合わせ、東へ向きを変える。小金井市に入り、武蔵野公園にさしかかるあたりから南東に流れ、西武多摩川線と交差し、野川公園に入る。小金井市と調布市の間を何度も縫ってその後三鷹市を流れ、再び調布市に入る。
 京王線と交差し、調布市と狛江市の境を何度も縫い、調布市入間町付近で支流の入間川を合わせる。世田谷区に入り、神明の森みつ池からの湧水を合わせて、小田急小田原線をくぐり、東名高速道路と交差する。世田谷区鎌田で北から流れ来る仙川を合わせ、多摩川と並んで二子玉川で国道246号新二子橋や二子橋をくぐり、東急田園都市線・東急大井町線二子玉川駅のホーム下をくぐった後、世田谷区玉川一丁目付近で多摩川に合流する。
 野川は、南岸が平坦なのに北岸が急斜面となっている。北の崖は、武蔵野段丘面を多摩川が削りこんで作った国分寺崖線である。「ハケ」と呼ばれる崖の斜面からはかつてに比べれば大幅に減少しているものの清水も多く湧き、都内でも珍しい自然が残っている。
・・・
                                                                   (以上、「Wikipedia」参照)
 「野川公園」には数年前に昔の仲間と出かけたことがあります。
    

 橋を越えてすぐに左折し、「布田五ヶ宿」へ向かいます。
    

注:布田五ヶ宿(ふだごかしゅく)
 国領宿・下布田宿・上布田宿・下石原宿・上石原宿の宿場。通行大名が少なく、9軒の旅籠だけという小さな宿場で、本陣・脇本陣は無かった。


1880年代のようす。

現在のようす。京王線北側の道が旧道。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

右に進む国道沿いには大きなケヤキ並木。

旧道。  

 さすがにここまで来るとお腹もかなり空いてきたので、明るく開けた「国領」駅前のお店に入って食事・休憩。
再開。

 「調布駅」前の賑やかな通りを進みます。ここで、「調布」という地名の由来を
 「調布」という名称は昔の税制である「租庸調」の調(その土地の特産物を納める)で布を納めていたことに由来します。そのため以前は当地の他にも都内に幾つかの「調布」地名がありました。「田園調布」は元は荏原郡調布村(のちの東調布町)であり、小泉八雲の「雪女」に出てくる「調布」は西多摩郡調布村(現在の青梅市長渕地区)にありました(南多摩郡にあって現在の八王子市という説も)。
 「調布」と書いて「たづくり」もしくは「てづくり」とも読んでいた(調布市の総合文化施設の名称が「たづくり」なのもそれに由来する)。調布市内には布田(ふだ)、染地(そめち)など布にかかわる地名が存在します。
 江戸時代までは多摩川で布をさらしていた記録が残っています。
 万葉集・東歌の「多摩川にさらすてづくりさらさらに何ぞこの児のここだかなしき」(かなし=愛らしい)という歌碑が「布多天神」境内にあるようです。

注:租庸調

 田1段につき2束2把とされ、これは収穫量の3%~10%に当たった。原則として9月中旬から11月30日までに国へ納入され、災害時用の備蓄米(不動穀)を差し引いた残りが国衙の主要財源とされた。


 正丁(21歳~60歳の男性)・次丁(61歳以上の男性)へ賦課された。元来は、京へ上って労役が課せられるとされていたが(歳役)、その代納物として布・米・塩などを京へ納入したものを庸といった。庸を米で納める場合は庸米(ようまい)、布で納める場合は庸布(ようふ)と称した。人頭税の一種といえる。
 庸は、衛士や采女の食糧や公共事業の雇役民への賃金・食糧に用いる財源となった。

調
 正丁・次丁・中男(17歳~20歳の男性)へ賦課された。繊維製品の納入(正調)が基本であるが、代わりに地方特産品34品目または貨幣(調銭)による納入(調雑物)も認められていた。京へ納入され中央政府の主要財源として、官人の給与(位禄・季禄)などに充てられた。
 正調は大きく分けて絹で納入する調絹(ちょうきぬ)と布で納入する調布(ちょうふ)に分けることが出来る。当時において、絹は天皇などの高貴な身分の人々が用いる最高級品であり、その製品は「布」とは別の物とされていた。従って、当時の調布とは、麻をはじめ苧・葛などの絹以外の繊維製品を指していた。

「布多天神」参道。  

 「小島町一丁目」交差点先に「一里塚跡碑」があったはずですが、見逃してしまいましたので、HPから拝借。


 ここは江戸時代の初めごろ、甲州街道に築かれた一里塚のあったところである。江戸日本橋を起点として、およそ6里(24キロメートル)の距離にある。
 一里塚は街道の1人ごとに、その目じるしとして道の両側に築かれたものである。たいていは塚の上にエノキが植えられ、遠くからでも望見できるようにして旅行者の便がはかられた。
 ここにも樹齢200年余と推定されるエノキの大樹があって、その昔がしのばれたが、危険防止のため昭和40年頃に伐られた。
                                        (調布市教育委員会の解説板)
 
 なお、地図で確認すると、一里塚碑のある敷地の駐車場が「えの木駐車場」となっています。大いに関連がありそうです。

右手には大きなお屋敷。「旧甲州街道」。

ケヤキの大木。

 賑やかな通りから住宅地の道になっていきます。春先らしい木々の花が庭先に。
    
コメント
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