おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

中坂。冬青木坂。二合半坂。・・・(「九段下」から「市ヶ谷」まで。その1。)

2015-09-09 23:38:52 | 都内の坂めぐり

 今日は大変な荒れ模様。一日中、家にこもっています。そこで、先日歩いた坂道をレポート。各地に被害続出の中で不謹慎ですが。

 都心に出る機会があると、ちょっと坂道を。というわけで、今回は、九段下から市ヶ谷まで。約1時間のコース。
 この地域は、「九段」、「暁星」、「和洋」、「白百合」、「三輪田」、「法政」・・・と学校施設が集まったところ。小学生、中学生、高校生、大学生たちが多く行き交います。下校時の子ども達の賑やかな声に混じっての散策。 

案内板。

A:中坂、B:冬青木坂(もちのきざか)、C:二合半坂、D:幽霊坂付近、E:富士見坂。「富士見坂」はに坂下で「一口坂(いもあらいざか)」に合流します。計、六つばかりの坂道の探索です。

A:中坂(なかざか)

 この坂を中坂といいます。『御府内沿革図書』によると元禄3年頃(1690)までは武家地となっており坂はできていませんが、元禄10年(1697)の図以降になると中坂が記載され、元禄14年(1701)以降の図には世継稲荷神社も見ることができます。なお、『新撰東京名所図会』には「中阪は、九段阪の北方に在り。もと飯田阪といへり。飯田喜兵衛の居住せし地なるに因れり中坂と称するは、冬青坂と九段坂の中間に在るを以てなり。むかし神田祭の山車等は、皆此阪より登り来れるを例とせり。」とかかれています。

B:冬青木坂(もちのきざか)

 この坂を冬青木坂(もちのきざか)といいます。「新編江戸志」には「此所を冬青木坂ということをいにしへ古びたるもちの木ありしにより所の名と呼びしといえど、左にあらず。此坂の傍に古今名の知れざる唐めきて年ふりたる常盤木ありとぞ。目にはもちの木と見まがえり。この樹、先きの丙午の災に焼けてふたたび枝葉をあらはせじとなん。今は磯野氏の屋敷の中にありて其記彼の家記に正しく記しありという」とかかれています。

C:二合半坂(にごうはんざか)

 この坂は二合半坂と呼ばれています。名前の由来は諸説あります。
 『再校江戸砂子』という史料には、日光山が半分見えるためと書かれています。なぜ「日光山が半分見える」と「二合半」になるのでしょう。このことについて、『新撰東京名所図会』という史料での考えを紹介しましょう。
 富士山は麓から頂上までを十分割して一合・二合・・・と数えますが、西側に見える富士山と比べると日光山はその半分の高さ(五合)に見え、その日光山がこの坂からは半分しか見えないので五合の半分で二合半になるという考えです。
 この他に、あまりに急な坂であるため一合の酒を飲んでも二合半飲んだ時のように酔ってしまうからという説もあります。

D:幽霊坂(ゆうれいざか)

「幽霊坂①」、「幽霊坂②」、「幽霊坂③」と三つ。

E:富士見坂(ふじみざか)

 この坂を富士見坂といいます。同名の坂は各地にあり、千代田区にも3ヶ所をかぞえます。もともと富士見町という町名は富士山がよく見える台地につくられた町ということでしょう。むかしはこの坂から富士山の美しい姿が見えたことによりその名がつけられたということです。坂の下で一口坂と合流します。

一口坂

 この坂を一口坂といいます。「麹町区史」には「一口坂の一口は大坂のいもあらいと同じくイモアライと読むべきで、電車一口坂停留所から北へ九段電話局の前を新見附へ降る坂である」とかかれています。疱瘡をいもがさとかへもと呼んで疱瘡を洗う(治す)という意味として知られています。ただこの疱瘡に霊験あらたかな社がどの辺にあったのかということは不明です。

 では、以上を頭に入れた上で、ぐるりと回ってきましょう。

中坂上近くの古いお屋敷。

「中坂」の左手、「和洋九段女子中学校・高等学校」の校舎沿いにある「硯友社跡」碑。

 この地に明治時代の文学結社、硯友社の社屋がありました。
 硯友社は、明治18年(1885)2月、尾崎紅葉・山田美妙・石橋思案らで結成され、回覧雑誌「我楽多文庫」を発刊、明治21年(1888)市販されるにおよび明治20年代の文壇に多くの影響を与えました。
 同人には、川上眉山、巌谷小波・広津柳浪らも参加しています。
 明治30年代以後衰退し、紅葉の死によって消滅しました。

 平成4年(1992)3月 千代田区教育委員会

坂下方向を望む。

    

坂上を望む。

直線で緩やかに西へ向かって上る坂。けっこう広い。

坂の途中にある「滝沢馬琴硯の井戸跡」碑。

 滝沢馬琴は、安政5年(1793)27歳の時から文政7年58歳まで神田同朋町に移るまでこの元飯田町に住みました。ゆかりの井戸がこの中坂下に残っています。自ら曲亭馬琴と号して南総里見八犬伝・椿説弓張月・俊寛僧都島物語等の多くの読本を残しました。

 マンションのところにあるようですが、行きそびれました。



 滝沢馬琴は、江戸時代の著名な小説家。『南総里見八犬伝』の作者として知られています。寛政5年(1793)27歳で当時飯田町中坂と呼ばれたこの地の履物商伊勢屋に婿入りし、58歳で神田同朋町に移るまでここに住んでいました。付近に立つマンション入口に井戸枠が設置されています。東京都の旧跡に指定されています。

HPより。写真も)

「南堀留橋」付近から「中坂」を望む。

首都高の下に「日本橋川」。

 もと来た道を戻って右折し、最初の道を左折します。「冬青木坂」。

    

 「冬青」と漢字で書いて、「ソヨゴ」と読みます。ソヨゴ(冬青)は、モチノキ科モチノキ属の常緑小高木。そこで、「冬青木」と書いて「モチノキ」と読んだようです。

     (「Wikipedia」より)

 ところが、千代田区の説明によると、「モチノキ」ではなかった、という。果たして真相は? この坂は、右手、石垣の向こうには「フィリピン大使館」があり、静かな町並みで坂らしい雰囲気のある坂です。

    
                          坂上から坂下(東)を望む。

 坂を登り切って、突き当たりを右に折れます。緩やかに北へ下って行く道ですが、途中から急坂となります。

  「二合半坂」。

坂の両側は「暁星高」などの学校施設。

 ここまでは緩やかに下ってきますが、ここで様相が一変、急坂を下ることになります。

    
 坂下を望む。                       振り返る。

 かつては今以上に急坂だったようです。


      1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

 ↑が「中坂」、←が「冬青木坂」、→が「二合半坂」。道筋は現在もほとんど変わらない。地図下方が現靖国神社の敷地。楕円形は当時、競馬場と記されています。

 ところで、国会も波乱含み。いよいよ自公政権が「安保法制」を強行採決へ。400人も議員がいて、アベに? を付ける人間が20人以下というていたらく。公明党にも造反議員は一人も出ることなく、まさに「粛々」と行う。しかし、そういう思惑通りにいくかどうか。国会前での連日の抗議行動に及ばずながら参加しようと思いつつ、・・・。

 知人からこんなメールが。

 会場は混雑でお会いできないかもしれませんが、友人知人に声をかけて集まりましょう。

 9月12日(日)辺野古新基地反対 14時
 9月10日(木)国会正門前座り込み行動13時~17時 夜は集会18:30~
   ~
   11日(金)14日(月) 15日(火) 16日(水) 17日(木)18日(金)
  と座り込み&夜の集会が連続してあります。山場は、採決前の14日だといわれています。

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