永子の窓

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蜻蛉日記を読んできて(76)の1

2015年10月22日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (76)の1  2015.10.22

「かくて、なほおなじやうなれば、祭り、祓へなどいふわざ、ことごとしうはあらで、やうやうなどしつつ、六月のつごもりがちに、いささか物おぼゆる心地などするほどに聞けば、帥殿の北の方、尼になり給ひにけりと聞くにも、いとあはれに思うたてまつる。」
◆◆こんな風で、体の具合も同じような状態なので、病気平癒のための祭りや祓いなどといったことを大げさにではなく徐々におこなって、六月の下旬ごろに少し気分が良くなってきたころ聞きますと、帥殿(源高明)の奥方が尼におなりになったと耳にするにつけても、まことにお気の毒なこととお察し申し上げます。◆◆



「西の宮は、流されたまひて三日といふに、かき払ひ焼けにしかば、北の方、我が御殿の桃園なるにわたりて、いみじげにながめ給ふと聞くにも、いみじう悲しく、我がここちのさはやかにもならねば、つくづくと臥して思ひ集むることぞ、あいなきまでおほかるを、書き出だしたれば、いと見苦しけれど、
<あはれいまは かくいふかひも なけれども おもひしことは 春の末 花なん散ると さわぎしを あはれあはれと ききしまに 西の宮まの うぐいすは かぎりの声を ふりたてて 君がむかしの あたごやま さしていりぬと ききしかど 人ごとしげく ありしかば 道なきことと なげきわび 谷隠れなる 山水の つひに流ると さわぐまに よをう月にも なりしかば 山ほととぎす たちかはり 君をしのぶの 声たえず いづれの里か なかざりし ましてながめの さみだれは うきよの中に ふるかぎり 誰がたもとか ただならん たえずぞうるふ さ月さへ 重ねたりつる ころもでは 上下わかず 朽たしてき ましてこひじに おりたてる あまたの田子は おのがよよ いかばかりかは そぼちけむ 四つに別るる 群鳥の おのがちりじり 巣離れて わづかにとまる 巣守りにも 何かはかひの あるべきと 砕けてものを おもふらん いへばさらなり 九重の うちをのみこそ ならしけめ おなじ数とや 九国の 島二つをば ながむらん かつは夢かと いひながら 逢ふべき期なく なりぬとや 君のなげきを こり積みて 塩焼くあまと なりぬらん 舟を流して いかばかり うらさびしかる 世の中を ながめかるらん ゆきかへる かりの別れに あらばこそ 君がとこよも 荒れざらめ 塵のみおくは むなしくて 枕のゆくへも しらじかし いまは涙も みな月の 木陰にわぶる 空蝉も 胸裂けてこそ なげくらめ ましてや秋の 風吹けば まがきの荻の なかなかに そよとこたへん 折りごとに いとど目さへや 合はざらば 夢にも君が 君を見で 長き夜すがら なく虫の おなじ声にや たへざらん とおもふこころは 大荒木の 森の下なる 草のみも おなじく濡ると 知るらめや露>
◆◆西の宮のお邸は、帥殿がお流されになって三日目という時に、すっかり消失してしまったので、奥方さまはご自分の桃園のお邸にお移りになって、大変悲嘆にくれていらっしゃるとお聞きするにつけても、私もとても悲しく、わたしの気分もすぐれないので、床に横たわったまま、しみじみとあれやこれや思い合わせることの多いのを書き表してみますと、まことに見苦しいけれど。
(道綱母の長歌)「 ああ、今となっては、こう言ってみても何の甲斐も無いことではございますが、思い起こすと、春の末に、花が散るようにお殿さまがお流されになるとの世の騒ぎを、お気の毒なことよ、おいたわしいことよと聞いていましたうちに、深山のうぐいすが声を限りに泣きたてて飛んでいくように、西の宮のお殿さまは悲痛な嘆きをあそばしながら、どんな前世の因縁ゆえか、愛宕山をさしておはいりになったと聞きましたが、それもすぐさま人の口の端にのぼり、道なき深山で非道なことよと悲嘆にくれていられましたのに、見あらわされ、とうとう流されておしまいになったと騒ぎたてておりますうちに、このうとましい世の中が四月になりますと、うぐいすの代わりに山から出てきたほととぎすが鳴くように、お殿さまをしのんで泣く声がどこの里でも絶えることはございませんでした。それにもまして、物思いがちな五月雨のころには、この憂き世の中に生きている人すべて、だれひとりとして、たもとを濡らさぬ者とてございませんでした。そのうえ、雨ばかりの五月まで閏で重なり、乾くひまのない袖は、身分の上下を問わず、すっかり涙で濡れとおってしまいました。ましてや、お父君を恋い慕っていられる大勢のお子様方は、それぞれ、どんなに泣き沈まれたことでございましょう。四散されたお子様方は巣を離れて飛び立つ群鳥のように、ちりぢりばらばらに別れて行かれ、わずかに幼いお方が残られても、これではなんの生きがいがあろうかと、心も千々に乱れて物思いにくれていられることと、お察しいたします。今さら口にいたすまでもございませんが、お殿様は九重の宮中にばかり住みなれていられましたが、同じ数とは言いながら、遠い九州の地で、島二つをば物思いにふけりつつながめておいででございましょう。奥方様におかれても夢かしらと言いながら、もう再会の折もなくなってしまったと、嘆きに嘆きを積み重ねて、とうとう尼とおなりになったのかと存じます。海人が大事な舟を流して途方にくれるように、また、長海布(ながめ)を刈る辛い日々のように、お殿さまを遠く放たれ、また今は御身も尼となられて、どんなにかお心さびしく物思いにふけって明け暮れておいでのことでございましょう。去ってもまた帰ってくる雁のようにかりそめのお別れでございましたら、奥方さまの夜の臥床も荒れ果てることはございますまいが、長の別れともなれば、床にはむなしくちりが積もるばかりで、枕は涙に流されて行方もわからぬほどでございましょう。今はその涙もみな尽き果て、六月の木陰には、裂けた殻から抜け出て蝉が鳴きたてるように奥方様も胸がはり裂ける思いで日々お嘆きと存じます。まして、秋の風が吹きはじめるころになると、まがきの荻が、なまじ、『そうよ、そうよ』とご傷心に答えているように風にそよぐのが聞こえる度ごとに、いっそう目が冴えておやすみになれず、夢の中でもお殿様にお目もじもかなわず、長い秋の夜通し、鳴きとおす虫に声を合わせて、堪えかねて、忍び音をお漏らしのこととお察しいたしまして、大荒木の森の下草の実同様、私もまたご同情の涙を催しているとご存知でございましょうか、多少なりとも。」



■帥殿の北の方=高明室愛宮。藤原帥輔の五女。兼家の異母妹。

■わが御殿の桃園=愛宮が父帥輔(もろすけ)から伝領の桃園にある邸であろう。桃園は一条の北、大宮の西の地で桃の木が多く王朝貴族の別荘地であった。現在桃薗小学校に名が残る。

■手紙の訳は、全文、「蜻蛉日記・中巻」上村悦子著による。

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