永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(9の1)

2015年04月03日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (9の1) 2015.4.3

「時はいとあはれなるほどなり。人はまだ見馴るといふべきほどにもあらず、見ゆるごとにたださしぐめるにのみあり。いと心ぼそくかなしきこと、ものに似ず。見る人もいとあはれに、忘るまじきさまにのみ語らふめれど、人の心はそれにしたがふべきかはと思へば、ただひとへにかなしう心ぼそきことをのみ思ふ。」
――季節はただでさえ物寂しい秋になっていました。あの人(兼家)とは、まだ打ち解けてなじむというほどでもなく、逢うたびに私はただ涙ぐんでいるばかり、心細いことといったら他に比べようもない。あの人もいつもしんみりと、決してあなたを見捨てるようなことはしない、と話すけれど、人の心というものは言葉どおりになるとは限らないので、頼みとする父との別れに加えてただただ行く末が不安で、心細いとばかり思うのでした。――


「いまはとてみな出で立つ日になりて、ゆく人もせきあへぬまであり、とまる人、はたまいていふかたなくかなしきに、『時たがゐぬる』と言ふまでもえ出でやらず、又、ここなる硯に文をおし巻きてうち入れて、またほろほろとうち泣きて出でぬ。しばしは見む心もなし。」
――さて、いよいよ父の出立の日になって、出立つする父は涙も堰きかねるほどですし、留まる私は、ましてなおさら言葉のないほど悲しみにくれているときに、供の者が、「出立の時が狂ってしまいます」と急き立てて言ってきますが、父は私の部屋からなかなか出て行かれず、」そばにある硯箱に、したためた文を巻いて納めて、またほろほろと涙をぬぐって出られたのでした。わたしはすぐにはその文を拝見することができないでいました。――


「見出ではてぬるに、ためらひて、寄りてなにごとぞと見れば、
<君をのみたのむたびなるこころには行く末とほくおもほゆるかな>
とぞある。
――父の一行を見送ってから、気をとりなおして、文ににじり寄って何が書いてあるのかしらと、見ますと、
(道綱母の父親の歌)「あなた(兼家)だけを娘の庇護者として、頼りにして旅立つ私には、旅の遠い道のりのように、あなたの庇護が末永くあってほしいと願うばかりです」
とあったのでした。――



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